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吉澤誠一郎著 「清朝と近代世界 19世紀」
シリーズ中国近現代史 @ 

 岩波新書 (2010年6月)

存亡の危機に直面した清朝の近代化への挑戦

清朝の後半期はともすれば滅亡への過程でしか捉えられない歴史像が固定されているようである。清朝は丁度徳川幕府とほぼ期を同じくして成立した王朝である。(徳川政権が江戸に幕府を開いたのが1603年、清朝が北京に入ったのが1644年、徳川幕府の滅亡が1868年、清朝の滅亡が1912年、40年ほどの位相差をもって共にほぼ265年続いた政権であった。) この40年ほどの位相差(清朝が遅れた)が決定的に日本と中国の運命を変えたと思われる。薩英戦争、下関戦争など欧米による植民地化の危機を乗越えて、いち早く明治維新で近代国家に脱皮しようとした日本は独立と自立を維持したが、中国は1840年アヘン戦争後、欧米列強のアジア植民地化の嵐に飲み込まれ、清朝という絶対王朝が強力であった分だけ、清朝の手で近代化路線を歩んだ。それが禍したのか近代化は思うように進まず、ついに新興国日本からも侵略される有様となった。歴史にIFは禁物であるが、日本で徳川幕藩体制で近代化を推進したら、おそらく清朝と同じく欧米植民地帝国の侵食は免れなかったであろう。さらにIFを続けるなら、もし日本が清朝と同じ天皇が支配する王朝であったならば、さらに状況は悲惨であったろうことは容易に察せられる。まだ幕藩体制という多次元主義を取っていたがために、近代的社会への変換がスムーズに展開し、政権交代も比較的容易であったと考えられる。かくも歴史はIFに富んだ魅力あるイキイキとした歴史像を作ることが出来る。それが歴史を学ぶ意義であり、想像力と未来への洞察に繋がるものと考える。比較歴史学は選択肢の条件を検証することである。近代化はすなわち西欧化というセントラルドクマ通りに進むものではない。

1911年の辛亥革命の後清朝が滅亡すると、革命側から、外国の侵略になすすべもなかった腐敗堕落した王朝という評価が与えられた。清朝後半に残した沿海部の繁栄と内陸部の貧困という格差の由来は、じつに21世紀の中国にも続いている。中国の近代化の歴史は清朝まで遡らないと見えてこないのかもしれない。18世紀末繁栄を極めたかのように見えた清朝にはしだいに体制の歪が蓄積されていた。平和な社会に人口増加の圧力、財政難、官界の腐敗は進んでいた。嘉慶帝・道光帝は統治の刷新を意図し、林則徐らの官僚も改革に努めた。しかし19世紀前半金体制を前提とする欧米の金融動向は銀体制の清朝に打撃を与え、英国のインドアヘン輸出の決済で中国から銀が流出した。太平天国の乱と三次におよぶアヘン戦争で清朝は危機に陥った。アヘンの公認によって関税収入と英国との政治的安定を得た清朝は、1870年以降国内の反乱を鎮圧し、周辺国境で外国と激しく渡りあった。対外貿易の発展、商品流通は清朝に収入増加をもたらした。清朝の政治的中心は東北部にあったのだが、国内発展は東南沿海部に移動し、そこから上がる経済利益は清朝の軍費を支え、海軍の創設、新疆ムスリム反乱の鎮圧などの成果を挙げつつあった。清朝は新疆ウイグル族、チベット族、モンゴル族などを内包し、その広大な領土の周辺において、中央アジアで南下するロシアと北上する英国インド領との抗争、東北部沿海州と黒流江を巡るロシアとの抗争、ベトナムを植民地化したフランスの北上、ビルマを植民地化した英国との抗争などは中国南海部の諸都市に直結する抗争であった。沿海部に設けられた5港の外国人租界地と海外貿易問題、また台湾、琉球、朝鮮に進出した日本との抗争などなど、恐ろしく複雑な国際問題を抱える宿命を負っていた。

この国内多民族国家と属領周辺国家(ベトナム、朝鮮など)を抱えて近代国家になってゆくには、近代国民という観点が必須であった。「満」と「漢」の融合もままならない国内問題で清朝の統治範囲内部での国民意識の形成は容易ではなく、民族国家となると清朝はたちまち多数の国家に分裂する。清朝の統治と国民理念のずれはいまもなお中国の大問題である。チベット騒動、新疆騒動、台湾問題、モンゴル問題は清朝以来の問題を不明確なまま引きずっているのである。人種も民族も生物学的(遺伝学的)には殆ど意味を持たないにもかかわらず、古い意味での民族対立をあおる論は、経済格差問題、宗教問題と絡んでますます過激になってゆく。伝統的古代王朝を引き継ぐ清朝は20世紀になって、日本を意識してか立憲君主国すなわち「帝国」を名乗り始める。しかし近代化は辛亥革命をもって開始されるのである。古代王朝はその近代化努力の成果(そもそも言語的矛盾で、今の北朝鮮の体制に同じ)を見ることは出来ずに崩壊した。本書は18世紀末から1894年の日清戦争前夜までの清朝の歴史を描くものである。「眠れる獅子」といわれた清朝はその図体(領土)の大きさから、抱える問題の多さ・複雑さ・大陸国としての軍事統治の難しさ(侵入のしやすさ)など問題対処が緩慢で、欧・米・ロシア・日本が蟻のようにたかり凄まじい植民地的餌食となって倒壊した。

1) 清朝の繁栄とアヘン戦争まで

まずは清朝講帝の系譜を見ておこう。@ヌルハチ(1616-26) Aホンタイジー(1626-43)  B順治帝(1643-61) C康煕帝(1661-1722) D雍正帝(1723-35) E乾隆帝(1735-96) F嘉慶帝(1796-1820) G道光帝(1820-50) H咸豊帝(1850-61) I同治帝(1861-75) J光緒帝(1875-1908) K宣統帝(1908-12)である。本書の対象である19世紀の清朝ではF嘉慶帝からJ光緒帝までを扱うことになる。清朝は今の吉林・遼寧あたりに住んでいた女真人が立てた国である。17世紀英傑ヌルハチが女真人を統一し明朝と戦った。その子ホンタイジーは後金という王朝を建て朝鮮をも服属させる勢いとなった。国号を大清とし満州人を名乗った。1644年李自成の反乱で滅んだ明に替わって北京を占領し、順治帝が清王朝を建国した。清王朝はモンゴルの平定に乗り出したが、討伐できたのは乾隆帝の時代になった。こうして清朝は中央アジアの広大な地を支配した。新疆の支配を統括するイリ将軍を配置した。清朝にとって無視できない強敵はロシアであり、康煕帝の時代に黒竜江で衝突が起き、1689年ネルチンスク条約、1727年ギャフタ条約を結んで国境を定め貿易も開始した。ロシアから毛皮が、清国から綿製品が公易された。しかし中央アジアの新疆あたりのロシアと清の国境は曖昧なままであった。清朝の統治機構は満州八旗を中心とし、旗人が統治人材の供給源であった。旗人エリートと科挙エリートを組み合わせて、皇帝が有能な人材を抜擢するところに人材登用の特色があった。中央政庁としては行政を担当する役所の六部のほか、検察を担当する都察院、宮中に奉仕する内務府が設けられ、雍正帝の時代より軍機処が政治の枢要を担った。地方統治の単位は1600ほどの県の役所である。役所の長は中央から派遣されるが、その地に根ざしている役人や有力者をどう把握できるかで行政能力が問われた。清朝の学問は儒学であるが、明朝の朱子学に対して、清朝では考証学が重んじられた。清朝の藩属国の取り扱いは、朝貢(儀礼的挨拶)と冊封(国王に任ずる儀式)と貿易から成り立っていた。貿易はタイからは広州、琉球からは福州が、欧州からはマカオが、そして18世紀半ば以降は広州一港のみが公易の場所となっていた。

18世紀末イギリスでは中国の紅茶の需要が高まっていたが、広州一港に限られ、居住地(ファンクトリー)が制限され、また清朝との貿易は東インド会社の独占であったことから不便を感じていた。1793年イギリス大使マッカートニーはジョージ三世の書簡を乾隆帝に提出して、貿易の条件改善や貿易拠点の確保を狙ったが、儀礼的問題も絡んで交渉は決裂した。1816年再度アマースト使節を派遣したが玄関払いであった。1796年乾隆帝は退位し、嘉慶帝が即位した。この年は四川・湖北・陝西の社会矛盾に乗じた宗教団体である「白蓮教」の反乱が起きた。この背景には清朝治政の安定と平和に応じて、18世紀末に3億の人口、19世紀には4億となった人口爆発で、広範な移動と土地開発がある。時の官僚洪亮吉は人口の爆発は土地不足を招き飢餓となることを心配した。乾隆帝は治政の弛緩を引き締める刷新の政治を志した。清朝の考証学は乾隆帝時代の「四庫全書」の編集、嘉慶帝時代の段玉裁の「説文解字注」が有名であるが、この時代を「乾嘉の学」という。実地の政策に寄与する学問として経世思想が展開され、洪亮吉らの建議がなされた。清朝の国境守備の要は当然陸軍であるが、沿海では清朝の手が及ばず、海賊がアヘン密輸や公易をほしいままにしていた。1820年道光帝が即位したが、彼が引き継いだのは制度疲労をおこし財政危機に陥った清朝であった。19世紀前半の地方行政改革に活躍したのは陶樹や林則徐であった。塩の専売制度の改革、米の海運業(漕運)、江南の水利事業、貧民救済事業などで成果を見た。

1729年雍正帝はアヘンの販売とアヘン窟の経営を禁止し、嘉慶帝もアヘン貿易を禁止する禁令を出したが、実効性は無く、むしろインドからのアヘン輸入は増加の一方であった。その背景にあるのがイギリス領東インド会社のインド支配の進展である。19世紀初めの東インド会社の貿易の主たる買い付け物資は茶であり、イギリスの毛織物を広州に運んだが、売れ行きはあまりよくなく東インド会社は銀で決済した。東インド会社はアヘン禁令を知っていたので、アヘン貿易を担ったのはイギリスの地方貿易商人であった。しかし下の図に示したように東インド会社と地方貿易商人の貿易活動は表裏の関係で密接に結びついていたのである。いわばダミー会社を使ったアヘン貿易ともいえる。大手市中銀行がサラ金業者に資金を供給し、グレーゾーンの高利貸金業と営んでいるようなものである。

アヘン貿易の構図

表の取引とは中国の茶を英国が東インド会社を使って買い付ける流れである。東インド会社は毛織物の輸出との差額を銀で支払っている。東インド会社はロンドンに茶を送って決済手形を得る。裏の取引とはイギリス地域貿易商人がインドから仕入れたアヘンを密輸業者を通じて中国に売り、中国から銀を受け取る。地域貿易業者はこの銀を東インド会社に持って決済手形をえてロンドンに送る。こうして表の取引と裏の取引において、銀と決済手形は循環しているのである。

イギリスの対中国貿易は19世紀に入るとアメリカの貿易商人が広州の競争相手となり、東インド会社の効率性が問題となって、1833年イギリス議会は東インド会社の独占を廃止した。そして政府から貿易監査官を送ることになった。アメリカはイギリスに綿花を輸出し、決済はロンドンで手形で受け取った。茶を広州で買い付けたアメリカ商人はイギリス地方貿易商人にこの手形で決済した。上の図には書かなかったが、実はアヘン貿易はアメリカ南部の綿花生産とイギリスの紡績業やロンドンの金融市場と深く結びついていたのである。19世紀まで海外から中国へ流入していた銀は、広東からの茶や生糸の輸出が振るわなくなると、アヘンの密貿易が巨額となり、逆に銀がアヘン代金として流出することになった。アメリカの商人が広東に銀を持ってくるのではなく、手形を持ってくるようになったのは、1834年の銀交換比率の改定が原因であった。アヘン政策を巡って、清朝の官僚は許乃済の1836年「弛禁論」、黄爵滋の1838年「厳禁論」に意見が分かれた。湖広総督林則徐も厳禁論であったので、欽差大臣として広州に派遣され1939年アヘンの没収と廃棄処分を行い、貿易監督官エリオット公館を包囲閉鎖した。エリオットはアヘン貿易者は死刑とする誓約書に署名を求められたが、これを拒否したのでエリオットの舟は九竜半島で砲撃を受けた。イギリス政府は遠征軍の派遣を決め、1840年広東、定海から天津を窺った。そこで清朝は林則徐を罷免し、g善を欽差大臣として交渉したが、イギリス艦隊は軍を北に進め上海、南京に迫った。1842年南京条約が結ばれ、5つの港を開く(広州、アモイ、福州、寧波、上海)、領事を5港におく(領事裁判権をえる)、香港をイギリスに割譲、アヘン戦争の弁償金を取るという内容であった。ついで清朝はアメリカ、フランスと同様な条約を結んだ。

2) 動乱の時代

マカオはポルトガルが根拠地としていたのでカトリック色が強かったが、アヘン戦争後イギリスに割譲された香港は、プロテスタントの布教の拠点となった。広州に生まれた洪秀全は科挙を目指して勉強していたが、1834年キリストの教えを信奉して江西省に入り、教団を結成した。1851年予言を信じて挙兵をはかり南京を都とする太平天国を建国した。1850年道光帝のあとを継いだ咸豊帝は、曾国藩に討伐を命じた。アメリカ人ウォードからイギリス人ゴードンを指揮官とする常勝軍の助けを借りて1864年南京を落とした。第2次アヘン戦争後の北京条約(1860年)で清朝に権益を認めさせた英仏は清朝と友好関係を維持し太平天国の乱の鎮圧に協力した。同時に安徽省には自衛武装勢力が結社し、なかでも捻軍は張楽行を盟主として太平天国と連携する気配もあったので、曾国藩は欽差大臣に任命され捻軍鎮圧に従事し、ついで李鴻章は淮軍を率いて捻軍鎮圧に成功し1860年代末には鎮定された。動乱は内陸各地でも起こっていた。雲南はもともとムスリム(回教)「回民」の多いところで、漢と回の対立は激しくなった。林則徐は雲南総督となって、漢回のトラブルの平定にあたったが、回民の杜文秀なる指導者が出て騒乱となった。1857年馬徳新らは昆明を攻めた。1867年杜文秀は昆明を攻めたが果たせず自殺した。清朝が何とかこれらの動乱を平定できたのは、1860年以降英仏と友好関係が維持できていたからである。清朝の軍費は海外貿易による財政的余裕があったからである。

第1次アヘン戦争後の条約により、領事裁判権今盛られた租界は列強の軍事的経済的な力量とあいまって外国権益の牙城となった。1853年「少刀会」の武装団は上海で決起した。イギリス領事オルコックは米仏と図って1854年第2次土地条約を結んで、租界の安全と市政機構が発足した。「少刀会」の乱は清朝が英仏の援助を得て1855年に鎮圧した。イギリス領事オルコックは清朝に提案して、清朝の海関(税関)に外国人を雇い合理的な運営を図ることにしたところ、この制度は全国に波及して清朝の税収入は大きく増えたという。ところが1856年広州の珠江で貨物船アロー号が密貿易の疑いで拿捕された。この舟は香港船籍を持っていたのでイギリスは抗議し、遂に1857年戦端が開かれた。英仏軍艦は広州から天津まで進んだので、清朝は講和し1857年天津条約を結んだ。この通商条約によって初めてアヘン貿易が合法化された。1859年天津条約批准のため北京に赴くため、渤海湾にきた英仏軍艦隊に大沽砲台が攻撃した。英仏軍は北京を落とし離宮円明園を破壊略奪した。皇帝咸豊帝は熱河に逃げていたので、1860年清朝の恭親王奕欣は英仏ついでロシアと条約結んで講和した。この北京条約の内容は外国公使の北京常駐、儀礼の簡素化原則、長江一帯での通商が認められ、さらに5港の開港、キリスト教の国内布教の自由が認められた。これを第2次アヘン戦争という。この結果欧米列強はほぼフリーハンドの外交・通商の自由を獲得した画期的な開国条約であった。清朝にとってもこの条約に対応するため専門の外務省が設けられた。その中心が恭親王奕欣であった。いっぽう咸豊帝は避難先の熱河で病死し、同治帝が即位した。同治帝の時代は生母西大后と恭親王の二人が朝政をほしいままにした。北京条約後の同治帝の治政下で清朝は文明開化策を講じ、外国語の習得、洋書の翻訳、科学技術の導入、曾国藩、李鴻章らによる官製軍需工場の新設、新産業技術の普及に力を尽くした。

3) 近代国家に挑戦する清朝

日本の幕末1862年千歳丸を上海に、1864年函館奉行所が健順丸を上海に派遣した。このことは清朝においては李鴻章らに対日政策を考えるきっかけとなったようだ。1870年日本の新政府は柳原前光を清朝に派遣して条約の予備交渉にあたらせた。曾国藩は英仏の例に倣った対等の扱いを考慮した。そして1871年日本政府は伊達宗城を全権代表として、清朝は李鴻章を代表として日清修好条約を結んだ。相互不可侵、相互援助、首都に大使を駐在、両国の開港上には領事をおく、刑事事件はその国で裁判するという内容であった。1873年国書を携えて副島種臣が同治帝に謁見した。同時に露・米・仏・英・蘭5カ国公使も謁見した。当時琉球は島津藩と清朝に属するとしており、琉球問題は日清政府の頭痛の種であった。その中1871年琉球が清国に派遣した貢物船が帰路台湾に漂着し、台湾の先住民に殺される事件が起きた。日本では台湾出兵論がおきたが、清朝は「殺されたのは琉球人であって日本人ではなく、琉球は属国である」といって取り合わなかった。1874年日本の大久保利通は台湾出兵方針を決め、西郷従道を遠征軍として台湾人を攻撃した。琉球士族の反対があったが、1879年日本政府は軍を琉球に派遣し、琉球藩を廃止して沖縄県とした。これを琉球処分という。琉球処分を巡って日清両国の交渉は続いたが、清朝は軍を出すことはなかった。ついで朝鮮に対しても清朝は「属国であるが自主である」という曖昧な態度で臨み、朝鮮も清朝に庇護を求めていた。「自主」の朝鮮と日本は1876年日朝修好条約を結んだ。

中央アジアではロシアが着々と勢力を南下していた。カザフ・コーカンドはロシアの影響下におかれ、清朝は1851年ロシアの要請でイリ条約を結んだ。ロシアは中央アジアで通商権を得た。いっぽう東の黒流江国境付近に進出したロシアは1858年愛琿条約を結び、黒流江を国境と定めた。1860年の北京条約でウスリー川の東側(沿海州)はロシア領となった。1864年新疆の天山南路で清朝への反乱が起きた。ヤークーブ・ペグのイスラム勢力が自立したが、1878年清朝の左宗裳はベグ政権を打倒し新疆をほぼ再征服し、ロシアとともに中央アジアを分割することになった。1871年ロシアはイリを占領したが、1879年清朝は崇厚を派遣してロシアとリヴァルディア条約を結び、広大な領土とイリを交換した。この不利な条約に気がついた清朝は曾紀沢を派遣して再交渉に当たらせ1881年サンクトペテルスブルグ条約を結んで不公平を解消した。1884年新疆省がおかれ本格的な行政機構が成立し、清朝の新疆経営が始まった。1872年横浜港に入港した南米ペルー船籍たマリア・ルス号が多くのクーリー移民を載せ、虐待や誘拐詐術が判明した。確かに清朝政府は南米や東南アジアへの奴隷的海外移民を望んでいなかったが黙認していたようで、福建・広東の人がおおく住み着いた。アメリカの金鉱発掘と大陸横断鉄道建設にこれら広東出身者の労働力が投入された。アメリカ大陸での奴隷解放が労働力に不足となり、中国人クーリーがそれを補ったという構図である。クーリー貿易(奴隷船)は1840年から1860年代まで続いた。1874年清朝はペルーやキューバに役人を派遣し現地の実態調査を行い、同胞民の保護と厚生のため中華会館を各地に設立し、清朝から派遣された領事がこの中華会館を通じて現地華僑社会に影響を及ぼすことが出来た。こうして世界に華僑社会が次第に経済力を蓄え、成功した現地へ同胞を呼び、郷里に送金をするようになった。

4) 清朝末期の社会経済

19世紀後半の対外貿易・海外移民といった状況がもたらした経済的刺激は清朝末期の一時的な活況を呈した。海外の輸出品の第1は江南の生糸で、杭州・蘇州などで高級絹織物となった。中国の生糸はフランス絹織物に歓迎された。1970年より日本の生糸輸出が中国産を圧迫し、上海ではフランスの指導を得て機械式製糸工場が建設された。第2の輸出品は福建・台湾の茶と台湾の樟脳である。かってマルクスも引用したイギリスのミッチェル報告書(1959年)は当時の中国市場を分析し、イギリスの工業製品は中国ではそれほど歓迎されているわけではなく、中国の手工業こそ中国の安価な労働力に依存しているといった。1848年アメリカカルフォニアのゴールドラッシュは、欧米金融界のの金傾斜となり、余った銀がアジア貿易に使われた。イギリス系の銀行が次々と開港地の設立され、運輸関係への投資、清朝の借款を担った。中国人の金融業者を「買弁」といわれ広州出身者が多かった。中国革命後の政治家や実業家の人材をを輩出した。買弁は単に外国貿易会社の職員というだけでなく、自分の資本を投資や経済活動を営む実業家の側面も合った。投資先は運輸関係が多く、清朝の李鴻章が運営する「輪船招商局」の改革に協力した。清朝末の都市には会館や公処という同業者・同郷の団体の事務所が開かれ、商業活動の横のつながりになくてはならない存在で、出身地方ごとに「幇(ばん)」が形成された。同業者の相互扶助組織は都市社会で生きる上で有効な組織であった。1872年に上海で刊行された新聞「申報」は本格的な日刊新聞でイギリスメジャーの援助があった。清朝社会には伝統的な「善堂」、「善会」という社会福祉結社があったが、都市の子供養育の助けとなる「保嬰会」も生まれた。1872年漢方医療の病院「東華医院」が民間の有力者によって設立された。東華医院は人身売買を防止するため「保良局」を分離させて活動した。林則徐を尊敬した馮桂芬は地方政治改革について意見書を提出し、地元出身の者が行政に責任をもつ制度が良いと指摘した。これは今の日本の「地方分権」、「地方政府」に通じる考えである。清朝で太平天国の乱と戦う組織の指導は地方の「士紳」が重要な役割を果たし、社会復興も重要な担い手となった。馮桂芬は「多数の人々が皆所属するところがある」という人々を束ねてゆく組織を儒教的な「宗族」に期待した。

5) 清朝支配の崩壊

同治帝が1875年になくなって、光緒帝が即位した。光緒帝は西大后の姉の子であったことから、同治帝時代を引き継いで西大后が後見役となって実権をにぎっていた。19世紀後半の清朝の政治的安定は、2つの勢力のバランスに立っていた。ひとつは清朝を近代世界に対応させる近代化改革路線を推進する李鴻章と恭親王の勢力である。2つは総督や巡撫という地方長官が人材を登用し各地で事業を進める地方権力であった。地方政権は中央の検察官僚がチェックしてバランスを保っていた。イギリスは19世紀前半の第1次と第2次イギリス・ビルマ戦争でビルマの南半分を奪った。イギリスはビルマと雲南を経て中国と貿易する道を開こうとして、1875年騰越で紛争となった。1876年「芝罘条約」が結ばれ、清は謝罪の使節をイギリスに派遣した。イギリスでその任にあたった郭崇Zはそのまま駐英公使となったロンドンに止まり、イギリスの行政機構・制度を学んで日記に残した。そしてイギリスはビルマの首都マンダレーを攻略して、1885年びビルマを英両インドに併合した。これを第3次イギリス・ビルマ戦争という。イギリスと清朝は1886年「ビルマとチベットに関する協定」を取り交わして、イギリスのビルマ支配が確定した。ついで1994年イギリスと清朝は条約を結んで、雲南とビルマの国境を画定した。

広東省にあるポルトガルが管理するマカオの地位が、香港がイギリス領となると微妙に揺れ始めた。1887年ポルトガルトン交渉によりリスボン議定書が結ばれた。清朝はポルトガルに対してマカオに永久に駐留し行政権を認めたが、土地は貸したにすぎないとの見解をとり、マカオの地位は不透明なままであった。清朝の属国であったベトナムにフランスの勢力が浸透していた。ベトナムは1802年に阮福暎が阮王朝を建て、清朝は越南国王に任じた。ナポレオン三世は1858年ベトナムに出兵し、1862年、1874年のサイゴン条約でベトナム南部(コーチシナ)をフランス領とした。1882年フランスは再びハノイに兵を進め、清朝も国境を越えて交戦したが、1883年「フェ条約」によりベトナム全土がフランスの保護国となった。ベトナムでの敗北を受けて清朝に政変が起き、恭親王は失脚した。さらにフランス艦隊は兵を福州から台湾に進め、1885年「天津条約」でベトナムの支配権を清朝から完全に切り離した。フランスのベトナム支配は朝鮮の清朝支配を動揺させた。李鴻章は日本が力をつけて朝鮮に及ぶのを防ぐために、朝鮮に欧米諸国との条約締結を進めた。「朝鮮は属国にして自主」という立場で、まず1882年アメリカと調印した。すると朝鮮王朝内で「壬午の乱」がおき、軍人を背景とした大院君が権力を握った。この乱に乗じて日本は朝鮮に出兵し清朝も兵を出し、乱は鎮圧されて閔氏政権が復活した。日本とは「済物浦条約」を結び、清朝と「商民水陸貿易章程」を結んだ。朝鮮政府内では親日本派、親清朝派の抗争が起き、1884年清仏戦争に乗じた「甲申政変」が起きて親日派が権力を握ったが、袁世凱が出兵すると親日派は追放された。1885年天津で伊藤博文と李厚相との交渉で「天津条約」が結ばれ、日清両国の軍隊の朝鮮からの撤退が決まった。

197年琉球船が台湾に漂着し、原住民に殺害される事件から1874年日本は台湾に出兵したが、1884年フランス軍が澎湖諸島を占領する事件がおき、清朝はこれに衝撃を受けて台湾防衛の協議を行い、1885年台湾を福建省から分離して独立の行政府である台湾省をおき。巡撫として劉銘伝が派遣された。清仏戦争後李鴻章は支配下の北洋海軍を強化し、ドイツから2隻の戦艦を購入した。基地として旅順と威海衛の2港を整備した。1894年朝鮮で「東学党の乱」が起きると、日清両国は朝鮮に出兵し開戦した。1995年に日本に負けた清朝は下関条約で、朝鮮の宗属関係を放棄し、台湾を日本に割譲し賠償金を払った。そして1898年康有為は光緒帝の信頼を得て「変法」(政治制度改革)を行うがまったくの不首尾に終った。1900年義和団の運動は天津北京に迫り、8カ国連合軍の干渉を招いた。こうして270年続いた清朝の支配は終わりを告げるのである。


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