080215

砂田一郎著 「アメリカ大統領の権力-変質するリーダーシップ

 中公新書(2004年10月)

クリントン、ブッシュJrの大統領制とリーダーシップの低下

この書を読んだのは、2008年2月と云う米国大統領予備選挙が開始され、連日テレビで民主党のクリントンとオバマの選挙状況が伝えられる雰囲気の中で、アメリカの大統領制を考えるためであった。先の2006年の中間選挙結果で民主党が議会で多数党になって(日本で云うねじれ国会みたいな状況)、サブプライムローン問題が引き金となった米国経済の急速な不況のなかで、戦争屋ブッシュJrの影が薄れていった。共和党の予備選挙を報じる報道は少なく、まるで民主党内の大統領候補指名の闘いが即ち米国大統領選であるかに様な錯覚に襲われる。

2001年の9.11テロ発生以来、世界の人々は否応無にアメリカ大統領の権力が自分達の生活や安全に重大な影響を持つことを知らされた。前大統領クリントンは多国間主義外交であったのに、ブッシュJr大統領になると劇的な一国主義と云う軍事的外交的政策の転換がなされた。政権が反対党になったといってもなだらかな連続性があった。ブッシュJrは一切を無視した。この二人の大統領の違いを歴史的文脈で見る必要がある。本書は今日の大統領の権力が極めて巨大だという見方はしない。それは戦時大統領制の姿は一時的であるからだ。戦争が終わったあとのブッシュJrの姿の小さいこと。帝王的大統領制といわれたジョンソン・ニクソンに較べると、今日の大統領制は弱体化している。国家元首としての権威の低落傾向は世論調査の支持率の低下に顕著である。大統領は国家統合の要というより、権力の機能(歯車)であると割り切っている人が多くなった。アメリカ人の大統領に望む姿は、一つは儀式的・象徴的国家元首の役割と、二つに行政府の長(首相的)としての役割、三つめに軍の総司令官としての役割である。この三つの役割を一身に体現したのがルーズベルト大統領であったと著者はいう。そういう大統領像からするとクリントン、ブッシュJrは地に落ちた神であった。

砂田一郎氏の経歴は、1960年早稲田大学政治経済学部政治学科卒後毎日新聞社に勤務。 フルブライト交換留学で渡米、1973年カリフォルニア大学バークレー校大学院修士課程修了(M.A,、政治学)。 同年毎日新聞社を退職、東海大学政治経済学部教授などを経て1995年から2007年3月まで学習院大学法学部教授を務めた。専攻はアメリカ政治学、比較政治学であるとされる。著者の立場というか、本書を書くに至った考えの基本は、本書のあとがきに述べられているように、「道理なきイラク戦争への道を突き進むブッシュJrの行動を目の前にすると、このイラクへの先制攻撃も含めてブッシュ政権の政治全体がアメリカ政治本来の姿から逸脱していると私は考える」と明確なブッシュJr批判である。そのアンチテーゼ(別のもうひとつのアメリカ)として、クリントン前大統領と比較するようだ。学者にしてはこれほど自分の政治的見解を明確にしてから、米国大統領制という本を書かれるのは、痛快であり分りやすい。このような大統領に付き合わされた(show your flagと脅かされた)小泉前々首相や安倍前首相の行動の裏も知れて変に納得できる。

大統領制 と議院内閣制

アメリカの大統領制に入る前に、各国の政治制度を権力の集中と分散と言う観点で比較する。飯尾潤著 「日本の統治構造」ー官僚内閣制から議院内閣制へ-を参考にした。なお日本は云うまでもなく議院内閣制である。アメリカが第二次世界大戦後に日本国憲法制定において、大統領制を推薦せずにイギリス式の議院内閣制を定めたのは何故だろう。
イギリス:議院内閣制
イギリスは議院内閣制の発祥地である。歴史的には絶対君主制から議会が次第に実権を奪っていったという側面が重要である。1742年二大政党政の成立で議会の多数となった政党が行政権を手に入れ議院内閣制が成立した。19世紀には二大政党制を前提に次第に選挙が拡大し、議会は民主政治の舞台として機能するようになった。1910年下院は上院に対する優位を確立した。同時に総選挙で政党と首相候補、政策プログラム(マニフェスト)の三者が選択されるというイギリス型の選挙制度が定着した。イギリスでは議会の多数派政党が組織する内閣の強力な権力集中を認める政治的緊張を持った仕組みである。政府提出法案は多数決で成立することが当たり前である。このモデルの議院内閣制はオーストラリア、カナダ、ニュージランドなどのかっての英連邦諸国で広まった。
アメリカ:大統領制での権力分立論
アメリカは独立に際しモンテスキューの権力分立論を導入した。連邦制は州政府を基本とした国家体制で、連邦政府の権限は憲法で定めら得た範囲に限定された。立法権は権限の対等な二院制に分けられ両院が賛成したときのみ法が成立するが、大統領に拒否権を与えられるという抑制的な制度であった。外交や軍事に関して大統領に権力が集中している。19世紀南北戦争後共和党、民主党の二大政党体制になった。1930年代ルーズベルト大統領は行政国家化して大統領権限を強化した。ホワイトハウスは大統領官邸ではなく巨大な行政組織として機能するようになった。そうして次第に三権分立の原則が崩れていった。
フランス:議院内閣制の失敗と半大統領制
18世紀の革命で樹立された体制は議会中心主義とでも言うべき体制であった。さまざまな政治形態を経て戦後の第四共和制において元首としての大統領を置くが、基本的には議院内閣制の国となった。フランスの内閣は安定性がなく、1958年に成立したド・ゴール大統領の第五共和制下、大統領は直接公選となり大統領権限は強化され、大統領が任命した首相が組織する内閣は議会の信任を必要とする議院内閣的な側面を残した。したがって「半大統領制」といわれる。議会で反大統領派の政党が大統領派の政党を上回る「コアビタシオン」という状態になるとフランスの半大統領制は機能不全になる。2001年シラク大統領は大統領の任期を5年と短縮して議会選挙と同時に行うようになってようやく議会と大統領支持が一致するようになった。

国家元首としての権威

ブッシュJrの大統領就任後50%台で低迷を続けた国民の支持率は2001年9・11テロ発生で90%にアップした。戦争だと叫ブッシュJrは危機に対して強い指導者を求める国民心理にアッピールしたようだ。星条旗の元に国民が結集して、ブッシュJrは国民統合の象徴として振舞った。ところがアフガン戦争からブッシュJrの支持率はゆっくりと低下してゆき、2003年3月上旬には60%を切ったが、イラク戦争が始まって急に70%にまで上昇した。が国民はイラク戦争には強い支持を示したとはいえない。結果的に低支持率をブッシュJrは戦争で切り抜けた。政治的にたくまれた戦争という穿った見方もある。民主党支持者らは9.11事件でブッシュJrに超党派的な国家元首の像を見ていたのだが、保守的な内外政策を実行してゆく大統領に深い失望を味わったようだ。戦争指導者としてのブッシュJrのイメージは国民の支持率を下げた。

合衆国憲法は大統領が国家元首であるとは明記していない。憲法制定時の指導者は議会の多数派の専横を抑止するためにそこから独立した行政府の長である大統領と云う職を作った。バラバラだった合衆国を一つにまとめる象徴的な役割を期待した。第一代大統領ワシントンは見事に威厳ある国家元首としての大統領像を演じた。当時の選挙方法は各州の議会が大統領選挙人を選ぶため、大統領は議会の政治エリートで名望ある人物が選ばれた。1830年ごろから各州では一般選挙民の投票によって大統領選挙人を選ぶようになり、民衆の人気が重要になった。19世紀の政治制度は下院が人民を正当に代表する議会主導であり、大統領は概ね凡庸であった。20世紀にはいると、第一次世界大戦や経済恐慌とその対策という大統領の権力行使の範囲と規模が飛躍的に増大した。仕事の出来る有能な大統領が求められ、国民を指導してリーダシップを発揮する大統領の権威が求められた。ローズベルト大統領はニューディール改革を成功させ、かつ戦争指導者として超党派政治を行い国家元首としての権威は高まった。第32代ローズベルト大統領こそ大統領の権力を最大化して定着させた大統領であった。第二字世界大戦後の冷戦時代を力強い国家元首として指導したのが、第34代アイゼンハワー大統領であった。国家元首として超党派的立場をとって前政権の政策を変更せず国民から敬愛された。軍産複合体にも警鐘を鳴らす道義的リーダーシップを発揮した。第35代ケネディ大統領はテレビを意識した知的で理想主義者と云う国民的人気を得た。キューバ危機では国家元首としての権威を守った。ベトナム戦争の泥沼化で第36代ジョンソン大統領は大統領の権威を失い、ウォーターゲート事件で第37代ニクソン大統領は弾劾され大統領の権威は地に落ちた。第39代カーター大統領は質素さと誠実さを売り物にしたが凡庸なイメージが払拭できなかった。第40代レーガン大統領は新保守主義政策をかかげ、個人的な人気に頼った大統領の国家元首的な権威の回復はできたようだ。冷戦終了後唯一の帝国となったアメリカの大統領がブッシュ父、クリントン、ブッシュJrであった。第42代クリントン大統領の女性スキャンダル弾劾騒ぎで大統領の権威は再び地に落ちた。第43代ブッシュJrの戦時大統領で大統領への国民的結集が図られた。戦争で大統領の国家元首としての権威が復活するとは皮肉なものだが、国家総力戦である戦争が終わったらまたバラバラになったのも事実である。

軍の総司令官としての権力と戦時大統領制

合衆国憲法第二条は「大統領は合衆国の陸海軍、および各州の民兵の総司令官である」と規定している。しかし戦争を宣言する権限は大統領ではなく連邦議会に与えた。戦争に関しても権力の分立をはかった。議会に宣戦布告を要請するのはいつも大統領である。戦争時の大統領権限は平時とは比較にならないほど大きい。これを戦時大統領制と呼んでいる。大統領が議会に宣戦布告を求めた最初の戦争はマジソン大統領(1812年対英戦争)であった。19世紀になって世界の帝国主義の植民地戦争にアメリカも参加していったのが、ポーク大統領の1846年対メキシコ戦争、マッキンレー大統領の1898年米西せんそうであった。1914年ウイルソン大統領による第1次世界大戦、ローズベルト大統領による第2次世界大戦の戦時大統領には共通点がある。どちらもアメリカは求められて参戦したのである。自由、民主主義、平和というビジョンを持って同盟国を勝利に導いた。そして戦後復興を援助したのである。道義的に理由のある戦争であったとされている。冷戦時、1950年の朝鮮戦争ではトルーマン大統領は議会に宣戦布告を求めなかった。三万人の戦争犠牲者を出して政治的・軍事的に得るものは何もなかったと云う道義無き闘いであった。何時始まって何時終わったのか、議会の同意を得たのかはっきりしないのが1963年ジョンソン大統領のベトナム戦争である。トンキン湾決議をもって無制限の戦争に入った。50万人の軍隊を派遣して、名誉ある撤退を掲げたのがニクソン大統領である。彼も議会に同意を求めた形跡は無い。ベトナム戦争の教訓からカーターやレーガン大統領派は戦争介入は行わなかった。しかしレーガン大統領は冷戦軍拡を強めた。冷戦に勝利したアメリカは冷戦後は国連やNATO機構による紛争介入となったが、ブッシュ父大統領は1990年湾岸戦争で国連による武力制裁を求めた。実質アメリカによる戦争であったが、一応イラク戦争は回避された。大統領が戦時大統領制を敷くような本格的な対外戦争はベトナム戦争が最後となった。

ところがブッシュJr大統領による2001年アフガン戦争と2003年イラク戦争は、大統領の恣意が強く働いた一方的な対外戦争となった。戦時大統領制の再来である。ブッシュJr大統領は歴史的な大法則「大統領が恣意的に始めた対外戦争は彼に政治的利益をもたらさない」と云う鉄則を忘れたのである。

大統領選挙

1960年以降の大統領選挙と議会選挙を見てみると、大きな転換点が見えてくる。1960年のケネディ大統領から1992年のクリントン大統領成立まで30年以上、下院では民主党が圧倒的に与党であった。上院も1980年代上期を除いて民主党が与党であった。これほど強かった議会での民主党が1994年のクリントン大統領第二期から10年以上は下院・上院ともに共和党が与党である。しかし民主と共和党の議席数の差は下院で10から20程度(総数435人)、上院で10以内(総数100人)2006年に民主党が与党に返り咲いた。はっきりとした支持政党の変化が1994年に起きた。その間大統領は民主党と共和党の交代である。著しい偏りは無い。

2000年の大統領選挙は厳しい接戦であった。1億4000万人が投票し、得票総数はゴアが5099万票、ブッシュJrが5045万票で伯仲しているが、得票総数でははっきりとゴアの勝利であった。しかしアメリカ大統領選挙は形式的には間接選挙制であるので、538人の大統領選挙人を州毎の選挙民に比例して選ぶのである。しかも州で勝てば州の大統領選挙人を総取りできるウィナーテイクオール方式である。2000年の大統領選挙はフロリダ州の疑問票をめぐってどちらの陣営が勝つかで25人の選挙人の帰趨が争われた。1票の差であっても25人全部を獲得できるのである。25人の選挙人で全国の選挙人総数の勝敗が左右するのであった。結局最高裁判所の裁定(闇の力が働いて)によって、ゴアは不服ながら裁定に従った。得票総数で勝っていても、選挙人数で負ける例は過去の大統領選で3回あった。大きな人口を有する州で勝敗が決定するのである。これを選挙のバイアスという。又選挙の管理は州に任せられているので、票の様式、印刷などは州毎に違うことも混乱の一因であった。20人以上の選挙人を出す州はカルフォニア(54人)、ニューヨーク(33人)、テキサス(32人)、フロリダ(25人)、ペンシルバニア(23人)、イリノイ(22人)、オハイオ(21人)である。

1994年議会で共和党が与党になって以来、民主・共和の勢力は拮抗している。共和党が強いのはアメリカン中南部、民主党が強いのは東西の海岸地域である。民主党が強かったのは1960年代に工業州と南部を押さえていたからである。ところが1980年代に黒人公民権運動を推進する民主党から南部農耕地帯の支持者が離脱した(かっての南北戦争みたいに)。共和党は南部と中西部をおさえて大統領選挙と議会選挙に勝利した。両党の優勢な地区をアメリカ地図上で色分けをすると、共和党色でアメリカは塗りつぶされる。民主党は東西海岸地帯と五大湖周辺地区へ追いやられたかのように見える。しかし人口は圧倒的に東西海岸と五大湖周辺に集まっているから、民主・共和党の勢力は拮抗している。民主は都会政党、共和は農村政党と見える。民主党はリベラルなライフスタイル、国際主義、多文化主義と云う文化を持ち、共和党は宗教的・保守主義的なライフスタイル、孤立主義、強いアメリカ主義といわれるが、事実はそれほど単純ではない。文化的に二つのアメリカを強調しすぎるのは無理があると云う議論もある。無党派(中道派)の存在が振り子のように動いている。

1830年以降アメリカ大統領選挙人は州民の直接選挙による選出に代わっていった。「州としては最も支持を得た大統領候補に州の割り当て選挙人は一致して票を入れる」というウィナーテイクオール方式を州の選挙法で義務つけた。大統領選挙人は自分の意志を待たない投票マシーンとなり、大統領選挙人と云う公職は有名無実となった。大統領候補者は州議会の有力者に顔を向ける必要は無くなり、選挙民に訴える選挙スタイルが確立した。1912年より予備選挙制度が導入された。党の大統領候補者を一本化することである。予備選挙とは政党の候補者指名に選挙民(一般の党支持者)を投票させる制度である。日本の自民党の総裁選挙はあくまで私的な制度に過ぎない。だから選挙といっても派閥談合で総裁が決められる事が多い。2008年2月民主党の予備選挙選挙人は4045名である。現在の選挙運動では世論調査とマスメディアの利用が不可欠である。テレビ討論と選挙宣伝CM費用が膨大に必要になっている。公的資金の導入(一人7500万ドル)も図られた。アメリカの制度では選挙の結果、大統領の所属政党と議会の多数派が必ずしも一致しない。これを「分割政府」という。いつもねじれ現象が起きているので全面的な政権交代自体がアメリカでは起き難い。大統領は当選後に党籍離脱と云う方法はどうだろうか(日本の両議院議長のように)。

大統領の権力とリーダーシップ

連邦議会を動かして自己の政策課題を立法化して実現する力が大統領の権力である。行政府の長である大統領には法案の提出権はない。日本では内閣立法と議員立法があって、殆どが内閣立法である。これを官僚内閣制といって官僚の権力の源泉である。アメリカは権力分立制で、合衆国憲法は立法権を議会に、行政権を大統領にゆだねて相互の抑制によって均衡をとっている。大統領は三権分立の一つの権力に過ぎないともいえる。大統領には党派的官職任命権、裁量権がある。官僚の総裁的な強力な権限が大統領に与えられている。まや議会に対しては憲法第一条に立法拒否権立法を勧告する権限がある。国家の緊急事態に対応するには行政権を持って単独行動できる大統領のほうが適している場合もある。ニューディール政策をさまざまな立法政策で実現したローズベルト大統領は、立法リーダシップの行使を特徴とする現代大統領制を実現した。ジョンソン大統領も目覚しい立法成果を上げた。1964年公民権法、65年高齢者医療保険法など両院で大統領の政党が安定多数を占めていたので、立法成功率は82%とケネディと並んでいた。クリントン大統領の最初の2年間は民主党が両院の多数党であったので立法成功率は86%であったが、共和党が両院で優位になった後期2年間のそれは36%と惨めなものであった。ジョンソン・ニクソン大統領の1963-1974年は大統領への権力集中が顕著になり、大統領が承認しない政策への予算の凍結といった権力の濫用が続いた、いわゆる帝王的大統領制の時代であった。

大統領制と云う組織

現代大統領を支える大統領制と云う組織による統治が大統領を強く見せている。ブッシュJrホワイトハウスの中枢部は10名余りの補佐官と顧問が支えている。直属のスタッフは400名余りだが、約10の独立した組織もあわせた大統領行政府の職員は全体で1800余りに上る。ホワイトハウススタッフの頂点にいるのが首席補佐官である。ブッシュJrはアンドリュー・カードを主席補佐官に任命し、政治担当顧問のカール・ルーブと広報担当の顧問カレン・ヒューズの二人の側近を採用した。カレン・ヒューズは途中で退職したので、ホワイトハウスは実質アンドリュー・カードとカール・ルーブの二人によって動かされてきた。アンドリュー・カードは大統領へのアクセスを管理し大統領を独占した。ブッシュJr大統領の下で政策が政治的(党略的)に運営されるのはカール・ルーブの力であろう。現代大統領制組織(ホワイトハウス)の目的は、一つは政策の決定と政策的助言、二つはスタッフの管理、三つは国民や社会層とのコミュニケーションを確保することである。政策審議のための閣僚会議は、国家安全保障会議Nsc、国家経済会議NEC,国内政策会議Dpcの3つであり、補佐官はライス、リンゼー、スペリングである。大統領行政府には他に行政管理予算局OMB、合衆国通商代表部USTRがある。ブッシュJrで特徴的なことは副大統領の影響力が歴代のお飾り的副大統領に較べて桁違いに大きいことである。チェイ二ー副大統領は戦争へ向う議論を強硬論で指導した。大統領が仕事をしているのか、スタッフや側近が仕事をしているのか境界が明確ではなかった。

ワシントンの建国時には国務、財務、軍事の三部門しかなく、政策会議での大統領裁量が圧倒的であった時に較べると、2000年には行政府は289万人となった。1939年ローズベルトは行政補佐官をおいて現代の大統領府を創設した。大統領府を真に制度化したのがアイゼンハウアー大統領であった。首席補佐官や特別補佐官をおいた。組織を重要視する共和党大統領のホワイトハウスでは首席補佐官の権限が強すぎ、大統領の運営に障害になる場合も生じた。ニクソン大統領に対するキッシンジャー補佐官、カーター大統領に対するブジジンスキー補佐官の影響力の強さは語り草である。民主党大統領の場合も首席補佐官制度を利用している。ニクソン大統領は全体としては組織重視姿勢であるが特定の課題(中国政策など)では個人的な独断専行となった異色の大統領であった。ブッシュJrでは宗教的な保守主義むき出しの政策が突如として噴出した。中絶問題、京都議定書離脱、一国単独行動主義、エネルギー政策などである。大統領が政治的に任命する官職は約600あり、重要な官職は約300といわれる。ブッシュJrはこの官職任命において党派的イデオロギー基準を下の官職にも適用した。裁判官の判事レベルにも党派性を要求したのである。

21世紀の大統領制

クリントンとブッシュJrはともに戦後生まれのベビー・ブーマーである。ベトナム戦争反対、公民権運動といったリベラルなライフスタイルが当時の学生に浸透した時代であった。日本で言えば団塊の世代である。クリントンは南部出身だが、苦学してケネディの理想主義にあこがれて政治家になった。ブッシュは東部海岸のエスタブリッシュメントの名門の出で、学生時代は政治運動には見向きもしなかった。1980年代の12年間の共和党政権の新保守主義時代にクリントンはリベラルから中道の民主党政治家(リベラル修正主義者)になった。1993年クリントンは大統領となり最初の2年間は民主党が議会与党であったため順風の滑り出しで財政赤字問題に取り組んだ。94年の中間選挙で共和党が両院議会の主流派となるいわゆる分割政府では、クリントンは世論の動向にあわせた政策を重視して、民主党からも距離を置いた。大統領、民主党、共和党の三角関係で政権を運営した。ブッシュJrは2000年に大統領になると保守主義政策を掲げ、大型減税によって出身基盤に報いた。共和党の伝統的な支持基盤は実業界であり、特にエネルギー業界、軍産共同体である。結束は固い。これに対して民主党の支持基盤は労働組合、女性団体、環境保護団体といわれ結束は弱い。

レーガン大統領以来の新保守主義(ネオコン)は外交的・軍事的にはタカ派で、クリントン大統領になって野に下ったが、ブッシュJr大統領になって息を吹き返した。9.11以降のブッシュJr政権の軍事外交政策は基本的には外交エリートの少数派であるネオコンイデオロギーにそって展開され、ベトナム戦争以来のアメリカのトラウマであった外交戦略を革命的に変えた。孤立主義、先制攻撃主義がそれである。このブッシュドクトリンで一時大統領支持率は上昇したが、終わりが見えない占領政策で人気はしだいに下がった。さらにブッシュJr大統領は内政問題の政策決定に加わっていないようである。現在のサブプライムローンによる損失から端を発する株安、経済不況対策には殆ど無能であるように見える。最後に重要な問題は伝統的に共和・民主両党のイデオロギーが同質であったことや、ねじれ現象で一定の抑制力がかかっていた事を無視して、独走主義に走ったため社会が分裂したことである。クリントンの中道主義が片隅に追いやられた。


随筆・雑感・書評に戻る  ホームに戻る
inserted by FC2 system