161102

文藝散歩 

柳田国男著 「雪国の春」
角川ソフィア文庫 (1956年改版)

柳田国男が歩いた東北ー東北の民俗・文芸史

「雪国の春」は昭和3年(1928年)に刊行された書物である。目次から見ると9つの小品から成り立っており、「雪国の春」が大正14年1月、「真澄遊覧記を読む」が昭和3年1月、「雪中随筆」が昭和2年2月、「北の野の緑」が昭和2年6月、「草木と海と」が大正15年6月、「豆手帖から」が大正9年9月、「津軽の旅」が大正7年5月、「おがさベリ―男鹿風景談」が昭和2年6月、「東北文学の研究」が大正15年10月の発表である。柳田氏は大正8年(1919年)に貴族院書記官長を辞任し朝日新聞に入社した。「豆手帖から」は翌年1920年8月、9月に東北を旅行した際の随筆であり朝日新聞に掲載された。柳田氏は朝日新聞に客員として入社する条件として、2,3年は自由に旅行させることを挙げている。この東北の旅に同行された松本信広氏の「東北の旅」と題した文によると、大正9年の東北の旅は以下のような行程であったという。「柳田氏は仙台を起点として海岸沿いに北上の旅を続けられ、遠野にきて松本氏と同行し、赤羽根峠を南下して陸前海岸に出て、獺海岸の貝塚に来て佐藤氏を訪問したり、岬の突端の尾崎神社に詣でたり、大島に渡ったりした。気仙沼から船に乗って釜石にわたり、遠野から来た佐々木氏と合流し、合計3人で北上山地の海岸道を青森八戸まで向かった。北上山地は準平原の姿を保存し、太平洋岸に断崖をなしている。幾条かの河川が並行して東流して海に注いでいる。それらの川は100m近い深い渓谷を作り、旅行客はその渓谷を上下するか、高原性の海岸台地の上を歩かなければならなかった。台地の上の道は行き交う人もまばらで、たまに見受ける家屋も亭主は海の出て主婦は幼児をイズコに入れて畑仕事をしていた。北へ北へと歩いて宿屋に着くと、柳田氏は煙草をふかしてサラサラと筆を走らせていた。それが毎日朝日新聞の紙上を飾り、後に雪国の春という本の一部をなした。私達は先生の達筆と博覧強記に驚かざるを得なかった。」と書かれていた。「豆手帖から」は仙台方言集から浜の月夜まで19話からなる。著者の研ぎ澄まされた目や耳が、後年考察されべきいろいろな問題を含む珠玉の短編集であった。柳田氏の東北発見は明治43年(1910年)の「遠野物語」から始まっているが、大正9年の東北の旅も岩手県閉伊郡遠野から海岸線沿いに北上するたびであった。本書「雪国の春」はいうまでもなく東北文化論であり、大正9年はまさに旅暮らしの日々であった。10月には三河・尾張・美濃方面を旅し、12月より翌年春まで九州から沖縄へ旅を続け、その紀行は大正14年に刊行された「海南小記」となった。本書の冒頭の1章「雪国の春」は正月前の行事であるホトホト、トビトビと称する本土の府県で行われている行事を、東北のナマハギ、ナゴミタクリという行事と比較して語られている。後の海南小記の「二色人」とも比較できるのである。それは東北文化論、日本文化論であって、日本民俗学の比較の手法の原型となった美しい文章である。元来詩人であった柳田氏はこの「雪国の春」においても独特の詩を開花させているといえる。「雪国の春」に続く「真澄遊覧記を読む」という1章は、菅江真澄という人は、江戸中期から末期の人で、故郷の三河を天明初年28歳で出て、文政12年秋田の仙北郡角舘で76歳で亡くなった真澄の遊覧記の東北部分の紹介である。柳田氏の東北旅行は尊敬する菅江真澄の東北旅行記に触発された旅であったかもしれない。真澄の遊覧記は東北地方の古い記念すべき民俗誌だそうだ。奥州の座頭の生活に興味を持ち、盲目の坊主ボサマの語る物語が東北のわずかに開いたまどであり、子どもの教育に一役買っていたことを指摘する。柳田氏はこの小冊子「雪国の春」の最期に「東北文学の研究」と称して、「義経記」成長の時代と「清悦物語」を俎上に上げる。「義経記」は最初から筋の食い違いが大きく粗末なつぎはぎもので、おそらくは京都で作られたため地理の遠近感がでたらめであったためだと指摘した。柳田氏は「義経記」に常陸坊海尊が義経と死を共にせず、生き残ったとある記述に注目して、そこに古い「不死伝説」の痕跡を見る。「八百比丘尼」や「おとら狐」などとの関連を考察するのである。この辺は柳田氏の直感で演繹的である。しかし「義経記」がやたら山伏の作法に詳しく、亀井兄弟の活躍を意識的に描いているなどの指摘は注目に値する。本書の「津軽の旅」で十三潟と港の盛衰についてについて語り、山椒大夫(山莊太夫)の物語について、越後・佐渡から京・四国にかけての人買い船の物語は、十三潟で風待ちの船頭が、遊女らの歌から聞き覚えたに違いないと断定する。「御曹司島渡りのお伽草紙」を始め、この湊でもてはやされた歌と物語は、汲めど尽きせない泉であったという。「雪国の春」は中世(鎌倉・室町時代)の日本の文化史に深く沈積する古層を探り出す旅であった。柳田氏は生涯、研究の主題を何度となく変えてきた。明治末の「山人論」、大正期に入って「漂泊民への着目」(非定住者、漁民狩猟生活者・山人・山伏・僧・座頭など)、そして大正末期の沖縄旅行以降展開される固有信仰の世界へとゆっくり変更されてきた。その背後には柳田氏幼少のころからの自問「何故に農民は貧なりや」から発する経世済民への志向が、やがて日本人の生活の理解と、意識問題が最重要点であるという認識に至ったという。この「雪国の春」が書かれた大正中期から昭和初期とは、自身の学問の基礎固めの時期に当たる。大正9年(1921年)の沖縄紀行によって得た氏神信仰(祖霊信仰)を基盤とする日本の総合的把握への確信、そして国際連盟信託統治委員としてのジュネーブ滞在など、柳田氏の最も充実した多忙な日々の思考が数多くの著作へと結実していった。

1) 雪国の春 (大正14年1月)

この章の文章は妙にねちこちとして美文調である。まさに日本文学の特徴である。永井荷風が愛した江戸趣味文芸に通じるところがある。中国と言っても、黄河文明と揚子江文明には天と地よりも大きな格差が存在する。日本人が愛したのは柳青々とした長江沿岸のの風流であった。それは自然環境の類似した二つの民族の感覚に相通じるものがあったからである。6世紀に学んだ漢字という符合を通して理解し合うことはかなりの困難があった。にもかかわらず数度の往来で理解でき、かつ短期間でその文字を使って自分の心の内を説き表すことができるようになれたのは実に不思議というばかりである。双方の春は飽きるほど長かった。それが春愁の詩となり、労せずして中国江南地方の悠長閑雅の趣味を知り倣ったというべきか。大陸とは違って地続きで民族の移動があるわけではない島国日本では、自分たちだけでのんびりした風土と同化し、別様の新しい生活様式に移ろうとする気力をなくしてしまった。文学の影響はこうした落ち着いた社会において強力に作用した。様式の遵守と模倣は習い性となり、都鄙雅俗の理由もない差別標準のとりこになってしまった。永年の模倣の習は、ヨーロッパの古典研究が自由を求めたのに対して、あえて固陋に捕らわれるために考証を繰り返している。春だけを見ても、京都の「小夜時雨」、「春霞」など、日本の歌の情緒は、悉く山城盆地京都の風情に他ならない。日本列島は南北に細長いために、春と言っても南国と奥州では国が違うくらいの風情の差異が見られる。京都と言っても比叡山を越えた丹波、琵琶湖の北国ではもう雪国である。交通の便も悪い。日本のように雪の多く降る国も珍しい。北陸から越後、出羽では年の1/4は雪の生活となり、それが地方の気風と趣味習性に大きな影響を与えている。それだけに春の訪れは一度にやってくる。艶麗な野山は次第に緑を増し、水田苗代の支度を急がせる。明治に入って太陽暦の採用によって正月は冬か春かの戸惑いが始まった。新暦では1か月ほど正月が早くなった。日本は南北に長い島国であるため、日本の雪国には二つの正月ができた。正月を冬と考えれば混乱はなかったのであるが、「新春明けまして・・・」となったために人は錯綜させられた。同じことは桃の咲かない「雛祭り」、柏葉のない「端午の節句」、暑い時期の「重陽」、夏の盛りの「七夕」などという珍現象が出現したのである。特に日本の正月行事は農耕に関係することばかりで、行事は完全に形式化し季節感のずれた行事となった。すなわち冬籠りをする門戸を開けて、欣然として幻の春を出現せしめたのである。正月行事を拾ってゆくと、鳥獣の害を追い払い神霊の力をこめる「鳥追い」、「小豆粥」、「火の歳占い」、「綱引きの勝負」、沖縄の島では「二色人」という赤神と黒神の二人が正月望の宵に各戸を廻る行事を「ホトホト・コトコト」または「タビタビ・トビトビ」という。福島・宮城では「笠鳥。・茶せん子」と呼び、遠野や男鹿では鬼となって「ナマハギ・ナゴミタクリ」と称する。神の木に餅や団子を飾るのは1年の豊穣を祈る行事である。正月の祭りに松を立てるという慣習は、松を稲に見立てた行事である。長い冬籠りの囲炉裏の火の周りは物語と追憶と子供の教育の場であった。その主役が女性であって、雪国の春の静けさと美しさを守るのはひとえに彼女らの手に委ねられていた。

2) 「真澄遊覧記」を読む (昭和3年1月)

菅江真澄1753年生まれ、本名は白井英二秀雄、天明初年(1781年)に28歳で故郷の三河を出て、出羽の角館で76歳をもって没する(1829年)まで、48回の正月を雪国の中で迎えた人である。この人の半生の旅の日記が、後に「真澄遊覧記」となって、今は70冊ばかりが各地の文庫に所蔵されている。非常に細密な自筆彩色画が本文の説明のために添えられているが故に、写書が難しいので流布しなかった。どういう理由があって故郷を出奔したのかは分からないが、終生時に触れては親を思う気持ちを100首の歌に残している。たdこの遊覧記は個人の身の上話をする日記ではない。筆者は「雪国の春」を校正する間に、正月の行事を調べるためにこの「真澄遊覧記」を読んだそうである。知り合いの家に厄介になって、さしたる仕事もなく正月を迎える気持ちは、孤独と所在なげに苛まれながら気を紛らわせる術もなかったようである。真澄は話好きではあるが、酒は飲めず生真面目な性格であったという。しかし完全に無視された第3者の目は冷静に民俗・風習を観察していた。奥州の各地の正月行事は後でまとめて紹介するとして、まずは真澄の年代ごとの足跡を追い、筆者が参考とした「真澄遊覧記」の冊子の巻名を記しておこう。
・天明元年(1781年) 初巻「伊那の中路」 三河から信濃へ向けて出奔する。
・天明4年(1784年)  一巻「諏訪の海」、「来目路の橋」、「鰐田の刈寝」  6月洗馬から出発して戸隠へ、越後を通って9月には羽前の鼠が関に着いた。羽黒三山に登って酒田にでて、吹浦、象潟を見物して矢島に入り、10月には鳥海山の北麓で初雪を見た。それから山を越して雄勝軍西馬音内に遊んで、柳田村の草柳氏の家で冬を過ごした。
・天明5年(1785年) 「小野の古里」、「外が浜風」、「けふのせば布」 雄勝郡柳田村正月行事を観察した。4月には雄勝郡を離れて北に向かった。夏は久保田城下にいた。8月には津軽を一巡し、再び秋田に戻り北秋田鹿角から北上川を下り江刺郡岩谷堂に至った。
・天明6年(1786年) 「雪の胆沢辺」 天明6年の正月は南部領で過ごした。一ノ積の大槻氏、胆沢郡徳岡の村上氏などに居た。天平7年の正月も胆沢郡で迎えたようだ。
・天明7年(1787年) 「霞む駒形」 陸前に入り、石巻から松島、仙台を見物した。この年の暮れには胆沢郡徳岡に引き返し、旧知の村上家にわらじを脱いで次の歳の初春を迎えた。
・寛政元年(1789年) 「岩手の山」、「外が浜づたい」 陸中の東山、大原の近くで正月を過ごしたようだ。6月になって北上し野辺地の馬門から狩場沢へ、7月初めに南部藩から津軽藩に入った。青森を過ぎて内湾に沿って御厩から宇鉄港へゆき、便船を求めて滞在した。盆の夜半に松前を目指して渡海した。松前では蝦夷の外文化に触れ、アイヌの生活を眼にして3年間をここで過ごした。
・寛政4年(1793年) 「千島の磯」 大館山の麓の天神社の近くの借り家住まいであった。10月、丸3年の蝦夷滞在を終え、本土に引き返して外南部の奥戸の湊に上陸した。それから2年半は下北半島の生活となった。
・寛政6年(1795年) 「奥の手振」 奥戸湊の正月を2回過ごした。
・寛政7年(1796年) 「津軽の奥」 3月半ばには外南部を去って、野辺地の馬門から関を越え、狩場沢・小湊と海岸線を南下し、浅虫温泉で寛永8年の正月を迎えた。
・寛永8年(1797年) 「津軽のをち」 西津軽郡深浦の湊について正月を迎えた。
・寛永10年(1798年) 「津軽のつと」 童子の山村の正月を迎えた。農家に世話になりながら深浦の湊と往還していた。3年ほど津軽に滞在したが、正月の記録はない。
・享和元年(1801年) 享和元年の冬に深浦を立って海伝いに南下し秋田に入った。
・享和2年(1802年) 正月は久保田城下で迎えた。
・享和3年(1803年) 「薄の出湯」 春に久保田城下を去り、阿仁から出て北秋田郡の大滝温泉に行った。
・文化元年(1804年) 「浦の笛滝」 阿仁の荘に滞在し男鹿に遊んだ。それから7,8年間は八郎潟の辺りの村にいた。
・文化7年(1811年) 「氷魚の村君」 約1年間第2回目の男鹿の勝遊を行った。谷地中という海浜の村に滞在した。
・文化8年(1812年) 「牡鹿の寒風」 寒風山の麓の宮沢村畠山家で正月を迎えた。
真澄の雪国の春の日記は、11回の正月以外には伝わっていない。これから後の死去に至る18年ほどは、真澄は秋田藩の地誌制作や吟詠に没頭し、日記は中止した模様である。真澄の生涯は柳田国男氏にとって、東北文化の研究特に新年習俗の記述の功績を評価することに向けられた。50年近くも故郷を捨てて、歌心も孤独に埋没させた運命は稀有な旅人であった。そして時流に乗った友人も持たなかった。

以上で真澄の日記からざっとした足跡を記した後、柳田国男は本来の彼の仕事である東北の各地の正月の風俗の貴重な記録を「真澄遊覧記」から読み取ろうとする。
@ 第1は出羽雄勝郡柳田村の正月の記録から始まる。天明5年の真澄作「「小野の古里」という冊子からまとめる。信州では「栗穂稲穂」といっていたが、雄勝郡柳田村では餅で以て形を作り、奥州では形を瓢箪とし中凹みにして男の子の数だけ作って神に供えた。オケラという植物の根を炊き、その煙を衣類に焚きこめて悪い病気を除くしきたりがあった。7日のかゆの日には子供たちが祝言を言って物を貰いに来た。松の葉に穴銭を貫き、この馬痩せて候と言って家を廻るのである。14日の晩「又の年越し」といって門ごとの雪に柳の枝をさした。15日の「鳥追い」は大体ほかの地方も同じであるが、餅花を「鳥追菓子」と言って色とりどりの菓子を重箱に詰めて贈答した。夜には12か月の年占いがあった。この地方では「団結び」といって、長い藁を引くと田が広がると言って喜んだ。餅焼きも年占いの一つなのであろうが、今では男女の縁結びという戯れごとになった。「焼餅を焼く」とう言葉はこの遊戯から生まれたのであろう。
A 天明7年陸前胆沢郡徳岡村村上家の正月の記録である。「霞む駒形」という冊子からまとめている。2日の朝は子供たちが年礼にくるので、「痩馬」と称して松の小枝に銭をさして与えるのは、出羽雄勝郡の村でも同じである。村老は田作りの豊凶の占いをした。3日は申の日であったので、家の馬を引き出して遊ばせた。駒形山信仰の村だけあっておろそかではなかった。6日は節分で豆焼きの灰占いは炉端で行われた。「天に花咲け地に実れ、福は内鬼は外」と言って豆をまく。7日の朝は白粥に豆を入れたもので、7草を摘む行事は雪国にはなかった。11日は「ハダテ」と言って農作業初めの日であった。雪の上に田を仕切りススキや藁をさすまねごとを行い酒を飲むのである。12日朝に「カセキドリ」がやってくる。これは鳥追い、鹿追いの儀式であり、村の人は鶏に扮して寸劇をやる。15日は黄金餅と称して粟の餅をつく習いがあった。18日は弥十郎・藤九郎のエンブリ摺り一座がやってきて田植え祭りが行われる。これは仙台で今も行われている。「エンブリ摺り」はもう技芸となっている。
B 寛永6年下北半島奥戸湊の正月行事が「奥の手振り」に詳細に記録されている。本州の果てまでくると、お盆と正月の行事がもとは毎半年に繰り返される同じ儀式であったことが分かる。除夜にはサイトリカバと言って、白樺の皮を門火に焚くことは他の山でも同じであった。年棚にはミタマの飯を祖先の霊に捧げる。節分の豆まきには松の葉と昆布の刻んだものを混ぜて撒いた。門松のほかに家の内の大柱に結すび、それに餅だの鮭を供えた。七草は塩で貯蔵した筍や芹の葉を入れた。11日は仕事始めで大畑の湊では船玉の祝があり初市が立った。13日は「目名」という獅子舞が来て家々を廻った。山伏が演じる純然たる祈祷の式であった。14日の夕方には胆沢と同じようにカセギドリがやって来た。少年が人形をお盆に乗せて「春の初めにカセギドリが参った」と言って、餅などを貰って帰った。14日の夜に魚の鰭・皮をこがして餅とともに串に刺して家々に挿して「ヤラクサ」と呼んだ。臭気あるものを持って鬼を追い返そうとするもので、関西以西では柊の枝にイワシの頭が定番だった。エンブリはこの地方では「田植え」と言ってる。藤九郎のエンブリ摺りと言って、歌う歌は田植え歌であった。松前で「ゴイハイ様」というのは田植え舞が移されたものであろう。

3) 雪中随筆 (昭和2年2月)

この随筆には12の小さな話題(2頁ほど)からなっている。これは昭和の初めの農村・山村の生活のことを書いているので、平成の若い人には何のことやら想像を絶するかもしれない。
「新交通」: 東京や四国・九州では雪にうずもれて遠い知り合いが訪ねてくることはまれである雪国のことは想像できないだろう。友達とは要するに話をする間柄である。雪国では1年の1/3は話が途絶えてしまう。新交通手段が人の距離をどこまで短くできるかまだ結論の出ない間、新聞がはたしてどこまでコタツの向こう側の友人の代わりになることができるのだろうか。
「こたつ時代」: コタツは、寒い雪国でそれほど熱くもない空間に入って、ごろんとしている場所である。コタツの歴史は中世の布団の歴史を待たなければならない。衾、褞袍は大型の衣類である。kたつはそう古くないある昔の新文化であった。
「風と光りと」: 文明という観点でコタツそのものを見るのではなく「こたつ時代」を見たい。たき火、竈の火、囲炉裏の火から出発して、この奇抜な保温法が現在のような完成に持ちこんだのは、総合的な家の保温技術の進歩がなくてはならない。屋根、窓、壁、簾、襖、障子、ガラスの断熱性、そして電気灯の発明によって、どんな寒くて暗いところでも生活できるようになった。昔「荒神様」のおかげは、今日自由自在にコントロールできるようになった。その上に「こたつ時代」が存在する。
「藁蒲団」: 鈴木牧之の「北越雪譜」には信州秋山郷の山家のとるの光景が画に書かれている。囲炉裏端に藁で作った「叺」(寝藁)の中に首から下を差し入れて寝ている図である。庶民が、新藁と籾殻で作った畳ができたのも、綿で作った蒲団という夜具を手にしたのも、つい最近のことである。貴族階級や武士階級はいざ知らず、山村の雪国ではこのような防寒夜具の利用は夢のまた夢であった。
「センバ式文化」: 火桶のことを「十能」という。今では瓦葺きが主流であるが、昔は皆草屋であった。コタツ火鉢が十分普及していなかった囲炉裏端生活の時代には火をとる必要が少なかった。十能は欧州と九州ではヒカキ、ヒトリと呼び、中央部ではセンバと呼んでいた。センバや十能がそれほど古い道具でなかった証拠には、固有日本語が該当するものがないことである。十能という専用道具の形となるには木炭の製法が普及してからのことである。十能は鉄器具であり、別室に火種を移動することは裕福な家で行う最高の接客と結びついた。
「火の分裂」: 炭焼きの技術が進歩しない限りは、コタツの贅沢は期待できなかった。囲炉裏を複数の部屋に設けることはまず日本の家屋では難しかったため、強い火力を持つ炭の改良がなくてはならなかった。オキと消炭の能力は高が知れている。コタツは夜の設備として発達した。囲炉裏端の会話も済んでさあ寝ようかという時、残りのオキを灰に埋めその上に布団をかけて寝たものである。信州ではこれをクヨークリと呼ぶ。残りオキから、堅炭となりさらに炭団となって置炬燵が工夫された。
「炭と家族制度」: 炭焼きの技術だけは日本は世界一だそうだ。欧州でも木炭という言葉はあったが、石炭・コークスに代わりまた電気の発明があって、もはや炭を使うのは鍛冶屋か鋳物師くらいになった。日本では今になって炭の趣味は最高機に達した。都市では石炭やガスと対抗し、こたつ文明は有識階級に広まった。この傾向は炭ばかりの性ではなく、家を同じくする家族の相互関係が一つの囲炉裏で済むほど濃密ではなく、木炭を利用して各部屋にコタツを持ち込んで籠城する生活スタイルが流行したのである。
「火の管理者」: 光と温度と食事の中心は囲炉裏であった。それはすなわち家族である。その一家の火の管理者(鍋奉行ならぬ、火奉行)が主、旦那、戸主である。炉の横座の座り方にもおのずと序列が生じる。正面の座に座るのが主であり(背に床の間などは農家にはない)、正面に向かって右が嚊座、茶飲み座、勝手と称した。ヘラすなわち飯匙(おしゃもじ)は嚊の専断事項で、嫁はこれを侵すことはできなかった。嚊座の向かいの座は客座である。手間の座は下座、下郎座、木尻と呼ばれた。燃やす薪の尻を下座に向け煙いのは仕方がなかった。これが囲炉裏の権力機構であったが、家族がしだいに独立すると、各部屋にコタツの時代が来る。
「炭焼来る」: 日本の家は木造りのため火災の心配が付きまとい、焚き木の囲炉裏は制限された。炭櫃や火桶といった小さな火源で辛抱せざるを得なかった。これがコタツの起源となったと思われる。炭は室町時代までは、武家でさえままならなかった。炭は要するに高級品であり、量産もできなかった。
「夢は新たなり」: 奥州や信州の昔話では、炭焼き藤太は必ず金売吉次の父であった。山で炭を焼くことから身を起して万福長者となった男の話である。炭を必要とした人は家庭日常ではなく、たたらを吹いて金属を溶かす鋳物師集団に属した。今の酒師杜氏のような職業渡世人の集まりであった。新文化を担う旅人とし、鉱山を巡って金属を溶か作業のため、山野に仮り屋を立てて、同時に村人たちに歌や話を披露したようである。
「折り焚く柴」: 火を焚けば話が弾むとは大古の昔からの習性である。酒と同じ効果である。日本において昔話は冬のものであり、かつ夜分にするものと相場は決まっていた。台所や竈の神である「三宝荒神」様信仰が次第に力を無くし、炭に伴って遠国からの話が家庭内に入って来た。佐々木喜善氏の「江刺郡昔話」の大半は炭焼きから聞いたとされている。
「旧文明のなごり」: 小正月の夜は豆やクルミを焼いて囲炉裏の灰の上に並べて、12か月の晴雨吉凶占いをする習わしがあった。農作の不安(リスク)は今も昔も変わらない。(変わったのは凶作補助金だけである。) 日本の歴史は長いといえど、変わらぬ平民の力の足跡は微々たるものである。こたつ文明は荒神信仰を衰退に招いたが、年寄りはコタツを嫌がる人もいる。

4) 北の野の緑 (昭和2年6月)

柳田氏は、東北の風光が美しいのは秋の紅葉の頃だと「枕草子」のようにおっしゃる。夏は緑が強すぎていけない、東北は行けば行くほど寂しさが加わり、ついには一人で東北に来るものではないとさえ思うらしい。空気中の水分、光加減などが影響しているようだ。秋風が吹く白川を越えると赤松の木肌が美しくなる。ただ農林官僚の伐採計画のあとには何を植えるかまるっきり考えていないようだ。大きな平原や山林の風景の調和などは、官僚の任務ではないようで誰も考えない。

5) 草木と海と (大正15年6月)

この随筆集には10の話題がある。項目を分かたずエッセンシャルの事だけをまとめた。「名所崇拝」では、旅は名所(いわゆる枕詞の旅)をやってはいけない。そもそも日本人(文人)は中国の画巻で教育されている。そんな先入観で風景を見ると、連想の目標を定められ、大きな制約を抱え込むだけであるという。「紀行文学の弊」では、風景は一瞬の遭遇であって、しかも見る人の生理状態も介入する。名勝という概念を指定・保護する動きもある。まさに押し売りである。天然の鑑賞だけなりとも、せめて我々は態度の自由を保ちたい。風景の標準に中央集権の専制があってはならない。「松が多すぎる」では、海の景色に松が多すぎると嘆くのである。中国の水墨画から来た文芸家の美の鑑賞法がまかり通ている。柳田氏は瀬戸内海で生まれたため、松より玉藻刈るに共感を覚えるという。「自由な花」では、天草下島の小石、佐渡の藻、れんげそう、上総海岸のヒジキなどを挙げて、なんでも美しいものがあると力説する。「鳥の極楽」では、佐渡の6月のシャクナゲの季節があるという。佐渡の特色は屏風のような山の端に喬木が深く生い茂っており、無数の鳥類が憩う場所がある。鳥を脅かすものは何もない鳥の極楽である。大隅半島の先端佐多の御崎も渡り鳥の楽園である。要するに人間の文明の利器の及ばぬところが鳥の極楽であるという。「砂浜の草」では、有史以来海岸線の変貌が著しいという。海岸線にあった島は砂浜に埋もれて陸地となって岬と名前も変わる。海岸の朝顔、昼顔は今や畑の中にある。浜に生えるハマナス、ハマボウもなくなった。「ハマナスの紅」では、日本南部でハマボウ、北部でハマナスの花が咲くという。ハマナスは日本海側では新潟県鉢崎から見え始め、太平洋側では磐城海岸から始まる。なぜ東北の海岸でハマナスが多く見られるのかというと、寂莫たる砂浜で密生し、ハマナスは染料になるし実を食べることもできる。蝦夷(北海道)の浦々にも密生地がある。「合歓と椿」では、浜で咲く花から合歓を取り上げる。合歓は日本海側の広い区域で見られるという。石川県では松と混植して防風林をなしている。伊豆諸島ではありふれた木であるが、東北6県にも海岸地帯では椿が見られる。果たしてこれが自生か植生かははっきりしない。南方の人が移住する際持ち込んだのかもしれないという。「槲の林のこと」では、下北半島の尻尾崎には白浜に槲の木が見られるという。北海道では至る所に槲の林が見られた。飯を盛る葉として古来親しまれてきた。岩手県閉伊郡にも槲の林があったが、もう衰微したかもしれない。「風景を越える」では、日本人の考え方を明治式に統一することが間違っているように、海山の風景を型にはめて偏った鑑賞を強いるのはよろしくないと主張している。農業の発展とともに里山の植生も変わってきた。豊かになった面もあれば破壊した面もあった。

6) 豆手帳から (大正9年9月)

柳田国男氏の東北発見の旅は第1回目が」明治43年の「遠野物語」の結実している。第2回目の東北旅行は大正9年8月、9月に行われた閉伊郡遠野から三陸海岸を北上する旅であった。そのメモ帳が「豆手帳から」である。朝日新聞に連載された19の話題に沿って氏の旅を追体験しよう。
「仙台方言集」: 仙台の大学教授の奥様が「仙台方言集」を作られたことに共感して、標準語問題が議論されることを願った小文である。「方言とは何ぞや」ということは「標準語とは何ぞや」という問題と根が同じである。東京以外で話される言葉が方言であり匡正されるべきという定義は空虚である。野鄙と風雅の境界線も大古以来の問題であった。昔の京都も今の東京都と同じく、言葉の坩堝であった。田舎者の支配するところが京都であった。清盛の伊勢語、木曽殿の木曽語、六波羅探題の鎌倉語、戦国時代・江戸時代の三河語が京都弁を作ったのである。
「失業者の帰農」: 大都会で失業したら帰郷擦れがいいという論は間違っている。かれらはそれぞれ理由があって町に出たのであって、地元には戻ることはできないからである。大都会が不況な時は、地方で生活することはもっと難しいのです。出ていった人は多いけれど帰ってきた人はいないという。紡績工場から若い娘が帰ってくるのは、結核に冒され死ぬために帰ってくるのです。これを知らずに帰農を説く人は気の毒というよりむしろ憎いと柳田氏はいう。社会問題はめったに発言しない柳田氏は、実は官僚時代から農村問題には詳しいのであった。
「子供の眼」: 目は口ほど、いやそれ以上にものを言う。東北の田舎の人は無口だが、その分目が見晴らしがいい。都会の人の眼は多くは疲れている。二つの眼の例をあげる。筆者らが車で渡り場に着こうとするとき、馬と荷車の一団に出食わした。馬が驚いて方向を変えた時少年が馬車の下敷きになったのだが、その少年の眼が宿命を恨むようであった。発動機船に乗って川を遡上していたとき、チフスにかかった少女が石巻の病院に運ばれる曳船にある時この少女と目があった。ほとんど人の発心を促すような目つきであったという。柳田氏を医者とみたような安心した目であった。
「田地売立」: 宮城県迫川の両側に広大な大地主の小作地が広がっている。吉川子爵の地だそうだ。東北凶作の後に日雇い志願者が集ったが、年季雇い、日雇い、自作地主、小作などの経営方式がいずれがいいかは混沌としている。小作人が小地主になりたがる「土地のせり売り」が行われている。若駒の競りと同じで、馬では売主が愚直な農民で、買い手が横着欲深の馬喰であるが、田では買い手がさらに無思慮な小作人である。
「狐のわな」: 石巻の近くの山村に住んでいる爺様の話である。田を荒らす獣の罠を買っていたが、法に違反すると言われ、機械と罰金50両を取り上げられたという話である。道端にある家だから自転車の空気ポンプを貸せだの、金槌を貸せだの色々な人がやってくる。傘を貸したまま返さない人もいた。石巻の町まで取り返しに行ったら、そんな人はいないと言われ、自分が馬鹿だということが遠くまで伝わっているようだと大笑いだった。
「町の大水」: 7年ぶりの大雨で川の水位が上がり、町の排水が不能となって逆流し救助の小舟の準備など旅館は大忙しとなった。早く風呂に入り、畳をはがし、病人を2階の部屋に移し、飲料水の手桶も2階に上げた。翌朝さらに水位が上がり、正式の救助船は出払って筏やたらい舟で水の中を渡る。巡査や消防も出払って姿は見えなかったが出水は一日で引いた。隣町では出水の被害は一層大きかった。
「安眠ご用心」: 宿屋の表二階は風情のあるものだが、東北では雨戸を立てないから、やかましいことは限りがない。皿小鉢の音、赤ん坊の泣き声、立ち話、犬の声、鶏の声、寺の鐘の音、夜番の拍子木の音、早起きの家の起きる音などなど、一晩中やかましい。警戒は生存のために必要なことで、動物の群れでは一匹の夜番を立たせて寝るそうだ。また夜番がなかったら多くの面白い伝説は伝わらなかっただろう。これはセキュリティ論や社会契約論にもつながる。個人警戒の必要を根絶するか、夜警国家論となるか。
「古物保存」:  江刺郡の人首村の村長は沼部氏の遺臣である。宮城県庁は伊達家が最も信頼する臣を置いて守らせた切所である館山と五輪峠を史跡に指定し保護するらしい。過去の歴史の壮烈さを思い出すよすがとして受け継ぐ価値はあっても、場所や建物はなくてもよい。高輪泉岳寺がなくても赤穂浪士47士の墓所であることを記した石碑だけがあれば忘れる人はいないはずだ。保つべきは精神であって古物ではない。
「改造の歩み」: 獺沢の佐藤氏を訪問して聞いた話である。新旧雑居の生活用具がいまなお現存する可笑しさを笑うべからずということである。佐藤氏が住む場所では、丘の上から海岸の際まで石器時代の住居あとに畠を耕している。家の普請では旧い材料がそのまま使用されている。勝手の梁は立派な装飾である。気仙の村では手杵(上下に頭がある兎の杵)をもって豆を搗く。餅つきには二本の手杵でつくそうだ。柄の長い打杵の重さは関係ないそうだ。石の挽臼と入口右手の地唐臼の二つが共存している。村には賃舂臼屋は今や電力で動いているが、家庭の手杵が無くなる気配はない。この在所から女房らは盆の時期には、団子用の粉を搗くため小麦粉を担いで気仙付近の水車小屋にまで出かけるそうである。さらに相州津久井の内郷村では灯火用松油をいれる石の平鼎があるが、いまでは行燈からカンテラ、ランプ、電気照明となった今でも混在している。その保守主義が何時でも完全に手前勝手になっていることがおかしいのである。これは西欧でも同じことである。
「二十五か年後」: 唐桑浜宿の村では文明年間の大高潮で40戸足らずの家は一戸を除いて悉く流された。たまたま知り合いの家に泊まった8歳の男の子は海から戻らなかった。14歳の女の子は柱と蚕棚に挟まって動けなくなっているうちに潮が引いて助かった。高台で焚き木を焚き続け、皆で暖を取る灯りが海からも見えそれを頼りに生還した人も多かった。こうした話は津波史として文字になるより、話となるような話だけが濃厚に語り継がれる。
「町を作る人」: 今では流行りの都市環境計画のことである。火事は個人は回復できるが、町自体はただ変化が待っている。街路計画や屋上制限では乱雑を加え狼狽の状を顕著にするだけである。世田米の古駅は民家風の実によくできた駅である。山の麓の川の高岸に臨んだ拡張のしようもない駅である。町の家は間口が大きく取れないため住宅を横配列にした街区割りである。同じような割地は東京の甲州街道、佐渡の両津の町もそうである。家並みに定まった一つの型があって、揃った見事な家並みを作る条件には、屋敷割制度の制限が必要であるが、もう一つの条件には自分だけ変わったことをしないという自制の心とそれを抑える町内の強制力である。東京はひどい土埃にまみれている。静かな文明を味わうには地方都市しかない。東京の家は真似と自己顕示の展覧会で、川は汚れ道路はゴミだらけである。
「蝉鳴く浦」: 三陸海岸沿いに旅をする不便さをこれでもかと述べている。水の被害で鉄道は不通となり、塩釜経由の舟で行こうとしたら大変な目に遭った。客は船酔いで畳の上で寝転んでいる。お茶も水も出ない。船底では鼠が走り回っている。里帰りの客は往復の便に5日間を費やするのである。浦浜に着いたと言っても崎浜は一里以上も歩いて蝉の鳴く日盛りの山を二つ越さなければならない。しかし日本人の国民性は忍の一字である。では鉄道をすべてトンネルにすればよいのではないかというアイデアが浮かんだそうだ。
「おかみんの話」: 東北の「いたこ」の神付の話である。宮城県では「おかみさん」というと盲目の女のことで、はしたない職業につく女のいわゆる差別用語である。登米以北では「おかみん」と呼ぶ。飯野川の宿で呼んだ老按摩はおかみんの婿であったという。按摩の孫息子の女房が「いたこ」をしていた。盛岡近辺の「いたこ」は紺麻の風呂敷で包んだ道具箱を持ち歩くそうだが、その中には竹で作った「オシラサマ」が入っている。巫女の入会の儀式は、若い盲目の娘が処女の間に神付けの儀式を行う。いたこが大勢取り巻いて祈りたて、娘が手に持つ御幣がかすかに振動しだすとき、「どなたさまでござります」と問うと、出雲の神だの稲荷とか最初に名乗った神が一生の守護神となるのである。この儀式は京都の綾部や兵庫の丹波でも同じだ。神付けが終わって師匠が娘に与えるものが「オシラサマ」の入った箱である。
「処々の花」: 8月―9月の岩手県の長い屋根のような丘に咲く花を愛でる旅であった。宮古以北は野田の玉川あたりまでいわば一続きの大長根である。100mの段差の深い谷が平行に何本も走っていて海にでるが、海から見ると海岸の岡が見渡す限り上が一文字をなして、膨大な秋の花を乗せている台地であった。萩、女郎花、桔梗、葛花が咲いていた。台地から砂浜に降りるとハマナスの林叢がある。
「鵜住居の寺」: 江戸では青山の御家人屋敷には盆の月は高灯籠を挙げていた。明治になって軒先に切子灯籠となり、さらに岐阜提灯になった。そして月の半ばで引き揚げてしまうので、秋の哀れもなくなった。陸中に入ってから昔風の灯籠を見かける。民家の灯籠木は杉の枝をと決まっている。不幸のあった翌々年の盆まで民家では灯籠をあげる習わしである。閉伊の吉里吉里村では灯籠をあげぬ家は一つとしてなかった。昨年の流行性感冒のためである。仏教の最大の恩沢とは、我々に使者を悼むことを教えてくれたことである。神道では死者は忌み嫌うものであった。鵜住居の浄楽寺はなくなった人を追憶する写真・品d満ち溢れてる。津波で死んだ人の写真も多かった。不幸なる人々はその記憶を新たにし美しくした。まことに人間らしい悲しみ方ではなかろうか。
「樺皮の由来」: 久慈から南、釜石から来たの閉伊郡では白樺の樹皮を屋根に葺いた「カバカワの家」という名家の家が多い。カバの樹皮の繊維は紙となった。そこの阿弥陀の六文字が書かれ死者の戒名となった昔の仏教が生きていた。この地の仏教は真言宗密教である。遠野では「オクナイサマ」という。奥州のザシキワラシも「カバカワの家」にいる。
「礼儀作法」: 女性の服飾風俗が流行と正風からなり、風俗が一定の範囲で変化しているから、流行もまた憎むことはできないという。
「足袋と菓子」: 小本の川口で足袋を買おうとしたら、思いきり贅沢な紺絹キャラコで金こはぜしか置いていなかった。地元の人は草鞋に足袋ははかないようで、足袋は奢侈品と見なされている。木綿の歴史はまだ日本では日が浅いので、足袋には木綿が行き渡っていなかった。多くの農家では農作業用の革足袋が主であった。足袋の普及は産地の行田、摂津の灘・伊丹の隆盛があってのことであった。足袋と菓子という題名には関連性はない。個人的な思い出が絡んだ話があるだけである。むかし村で剽軽で知られる老人が近所のある優しい婦人の家を尋ねていた。「隣の婆さんの病気が難しいので、見舞いに行きたいが近所で何を言われるかわからない。昔小さかったころあの婆さんに足袋を作ってもらってうれしかった。一つこの菓子袋をもって代わりに見舞ってくださらぬか」という願いであった。その婦人が後日言うには「お婆さんは嬉しそうな顔をして、そんなこともあったかも知れぬが、親切は大変うれしい。喜んでお菓子は頂きましたと言ってください」とお礼をしたそうで、その4日後に婆さんは亡くなった。おかしは全部食べたようだった。
「浜の月夜」: 山形県の最北端の小子内の漁村にあるただ一軒の宿屋清光館の二階の部屋に上がり込んだ。蝙蝠も飛ばない静かな黄昏時である。宿屋の主人が今夜は踊りがあるというので表に出た。五十間ばかりの村で、道筋には12,3軒の家しか見えない。道を突きあたって左へゆくと八木の湊に超える坂となる。踊るのは女ばかりで、男は稼ぎに出ているので見る人は12歳以下の男の子とお爺さんである。女の子をいれて数十人の踊り手で、寂しい踊りである。本踊りの踊り手は白い手拭いで顔を隠し、帯も足袋も白で、草履か下駄を履いている。前掛けは紺の無地、金の糸で船形を飾り付けている。夜明け近くまで踊ったそうであるが、翌日八木から鹿糠の宿に来ると、ここでも踊りがあった。
「清光館哀史」: あれから六年後、再び鮫の港から陸中八木に着いた。あの踊りを見た懐かしい小子内の漁港迄行くことにした。久慈の砂鉄が出るようになって八木港は多少は変わったが、小子内は少しも変わらなかった。あれがそうだと指さすところには清光館はなかった。残ったのは石垣だけである。清光館は没落したのであった。夫婦と子供、婆様は何処へ行ったのやら。しかたなしに八木の宿に引き戻った。砂浜に出てみるとハマナスの実が熟し(ヘエダマ)、小魚の煮干しを干す作業をする娘に出会った。踊りの時聴いた歌の文句が分からなかったので質問すると「何やとやーれ、何やとなされのう」という文句だそうだ。盆の踊りは「筑波山のかがい」と同じく、快楽の夜だそうだが、そこに響くのは悲しい歌(やるせない生活の苦しさ)であった。「ションガエ」の流行節が海行く若者たちの囃し歌になって300年は経過していた。

7) 津軽の旅 (大正7年5月)

海流に乗って南からくる漂着物の終着点の浜である、北津軽半島の南西の境にある十三湊は、むかしは材木の積荷港として、遊女もいる賑わいであったという。がその千年来の恋の泊りが今や眼前において一朝に滅び去らんとしている。その原因は気動車が山を越えて十三潟の材木を青森に運ぶようになり、積荷港としての運命を終えたのである。一隻の船も十三潟にやって来なくなった。湊の前には砂の堤があって、絶えず砂が吹き寄せられるので岩木川の水がせき止められ港が浸水する危険性があった。この砂山を切り崩しに命がけで挑んできた男たちがいた。この渡しからは岩木山が真正面に見える。三莊大夫の物語、遊女が歌った安寿と津志王丸の歌で有名な人買い船が横行した場所である。

8) おがさべりー男鹿風景談 (昭和2年6月)

昭和2年5月柳田氏は秋田県八郎潟(牡鹿半島)に旅をした。翌昭和3年が菅江真澄翁の百年忌になるのでその前から秋田に入ったのである。その時の随筆14篇を東京朝日新聞秋田版に投稿した。
山水宿縁: 柳田氏は人にその地の山水風景を説明するのが好きで、男鹿に遊んできたのでしばらくは男鹿の「おがさべり」(おしゃべり)をしてみたくなって筆を執ったという。地の人は自然風景を賛美する方法を知らぬばかりに、大変損をしている。観光を広めるためにも、無用なおしゃべりも必要なのかも知れない。
風景の大小: 男鹿は「出雲風土記」の国引き神話にある通り、神によって(砂浜によって)繋ぎ合わされた半島である。津軽下北の深浦、岩崎あたりから七里の男鹿の長浜が波の上に浮かんで見える。この浜は遠望して味わいうる風景である。箱庭風に島や岩窟や松を愛でるのではなく、全体として眺める風景が一番いいと柳田氏はいう。
半島の一世紀: 菅江真澄の見た男鹿の霊山は津軽下北からも拝める。真澄が秋田に入る15,6年前寒風山を過ぎ、椿、岩舘から津軽の木蓮子に海伝いに入った。長い間岩木山麓の村を吟行した。恐らくそこから男鹿の霊山を眺めたであろう。八郎潟の近くの村にいた頃真澄は三度半島を歩いている。それは勉強の風流ではなく、技芸であるだけでなく修養であり研究の旅であった。なお男鹿のオガという名は、筑前遠賀郡の丘の湊(海角)という意味である。陸前の牡郡はオシカと呼び鹿の多かった金華山の鹿からきている。男鹿とは海に突き出た陸地という意味で、海上から見た者がそう命名したのであろう。
海の路絶えたり: 男鹿は権力の前には無力で独立を保つことはできず、歴史的に重要な闘争の場となったことはない。男鹿地方を特徴づけるのは赤神山信仰であったが、慈覚大師の叡山仏教の支配が強い。
本山真山の争い: 男鹿霊山には登り口が二つある。本山と真山である。本山は門前の浜を控え、五社は南面しているので古い登山口であったことが認められる。熊野と吉野の山伏の対立は古代から存在した。男鹿では室町時代の終わりに、本山と真山の社僧が相前後して真言宗山伏の宗派に転属した。
正月様の訪問: 男鹿の正月行事である1月15日のナマハギは近年著しく衰退したという。復興させようにも中心にある信仰が失われているので如何とも仕方がない。全国にある小正月行事は、岩手閉伊郡ではナゴミタクリ、ヒカタタクリといい、仙台ではサセドリ、カセドリといい、津軽ではカバカバという小児の遊びになり、会津・福島ではチャセンゴといい、関東平野の一部ではタビタビといい、中国ではホトホト、コトコトといい、瀬戸内海から土佐にかけてはカユズリといい、九州ではトビトビ、タメタメと呼ぶ。ところが沖縄八重山の村では男鹿半島と同じように厳粛に一年の祝い事を述べる習いが残っている。こうした習俗の変化が地理的に段階的に変化することは、本来一つの根源があったと考えるべきであろう。
二人の山の鬼: 男鹿のナマハギがもと赤神山の五人の鬼と関係があったようだ。大和の吉野山を中心として全国に広がった修験道が仏教以前の根源を持ち、五鬼となずける神に仕える善鬼すなわち御法神が山伏の起源であったとみられる。男鹿では三鬼が出てくるのは別系統の沿革があったようだ。神の使いである鬼(神人)が15日夜に山から下りて来る姿を見てはならず、餅を投げ与える儀式は山の伝統がまだ生きていた時代の事であった。鬼は仏法では薬師観音の化身という。津軽の岩木山でも、山の神は安寿と津志王の姉弟で、岩城判官正氏の子であり、津軽藩主を助けたとか言う説話はふたりの鬼の変化版で、解釈に苦しむのである。仏法が前の山伏信仰を取り込むにあたって苦心惨憺している様子が分かる。
椿の旅:  男鹿には椿という地名がある。椿という木の分布については、自然生北限という考えがあるが、例外も多い。太平洋側では気仙、唐桑以北、日本海では津軽の深浦、青森湾の小湊付近でも椿の生息を見る。鳥が実を運ぶ距離をはるかに超えている。里木、庭木という意味でいうと、若狭の八百比丘尼の話のように椿の木をもって諸国を巡礼した旅人もいた。特に神社に椿は多い。奥州に南から文物を持って北上する勢力が強かったことも一因あるのではないだろうかと柳田氏は人為説を説いている。
鹿盛衰記: ここ男鹿では常陸の鹿嶋や仙台の金華山のように、信仰上の理由で鹿を保護することはなかった。男鹿山の鹿は安倍氏の時代に一度絶滅し、江戸時代に佐竹候入国以後にわざわざ金華山から鹿を数頭取り寄せて放った。その後繁殖して3万頭ばかりになったという。明治時代には鉄砲使用によって著しく鹿は減少した。野獣野鳥の繁殖を公認するならば、男鹿半島の国立公園化をする必要があると柳田氏は提案する。
雉の声: 男鹿北浦は雉の鳴き声が素晴らしい場所である。他に雉の声で思い出すのは、男鹿と地形がよく似た若狭海岸で、内陸に向かって潟湖を持ち、この湖岸で雉が多く鳴いていた。6月初めには枇杷の実を満載した舟にすれ違った。また信州高府街道は土尻川の沿った道で、5月末には、桃・山吹・山桜が盛りである。日本アルプスにむかって菜種畠が満開で唐松林で雉が鳴いていた。さらに皇居吹上御苑からも雉の鳴く声が聞こえる。
花と日の光: 5月半ばに男鹿に遊んだ。海山の色が最高潮になる季節であった。山桜の老木が青い五月晴れの空にちらちら散る本山の若葉山の模様はまことに眺めのいい景色であった。
風景の宗教的起源: 風景の見方に順序はないが、展望のいいところから見る風景は見逃せない。下から見上げて終りの遊覧法は世知辛い。日光山の華厳の滝で修業した山伏もこの男鹿の眺望を見たに違いない。風景の起源は何処の国でも宗教がこれを誘っている。中国の漢字をありがたがる風習は観光にも害をなしている。山水が流行し、世間が騒いでいるから行くという態度は頂けない。大きいものを小さく見て、外を知らずに一人で自慢する国柄なのだ。名所案内も旅人が選択できるいくつかの路順と難易度を示すべきである。
旅人の種類: 風景はもとより批判する対象ではなく、これに親しまんとする人はその正しい鑑賞法と理解を修養する必要がある。男鹿の自然は大いに恵まれている。そして男鹿は地元住民のものだけではない。男鹿の観光業政策は、地元人の生業を邪魔しない範囲で、樹木と花を増やし、鳥獣を遊ばしめるところでなくてはならない。伐採樹木の復元計画、観光地図の整備と案内も必要であろう。

9) 東北文学の研究(大正15年10月)

義経伝説については入門書として、五味文彦著 「源義経」(岩波新書2004年)があります。源義経関係基本史料 として、以下の文書があり、柳田氏が取り上げた「義経記」の史学上の位置づけ分かります。
1)「吾妻鏡」  鎌倉幕府の公式史料  成立鎌倉時代  頼朝・御家人側の公式見解  義経幼年時代から全生涯に至る文献
2)「玉葉」  摂政九条兼実の日記  成立平安時代  後白河院の周辺と京都における義経の行状を知る文献
3)「尊卑文脈」  義経の紹介記事が記載されている 成立南北朝  清和源氏の系譜
4)「源頼朝文書」、「鎌倉遺文」  手紙や私文書  成立鎌倉時代  源頼朝関係文書の文献
5)「平治物語」  「平家物語」と同じ合戦の物語  成立鎌倉時代 琵琶法師が伝えた軍記物語で脚色が多い
6)「平家物語」  平治物語と平家物語はおなじ成立基盤を持つ  成立鎌倉時代  琵琶法師の軍記物語で脚色が多いとはいえ義経の全盛期をリアルに叙述
7)「義経記」  義経伝説  成立室町時代  義経没落後の時期を描く 能や幸若舞の芸能化の過程で作られた 情緒的な義経像
8)「弁慶物語」 弁慶伝説 成立室町時代  「義経記」とセットになって作られた 弁慶については史料は極めて少ない伝説上の人物
9)「曽我物語」 武将の遺児曽我十郎・五郎の仇討ち物語 成立鎌倉時代  瞽女によって担われた神霊色が強い仇討ち物語
奥州での義経の物語は逆に「義経記」しかないといえる。その要旨は以下である。義経奥州で滅亡ー「義経記」伝説より  1187年2月の「吾妻鏡」には義経が奥州秀衡の庇護の下にある事を認めたとなっているが、4月になっても義経発見の祈祷を行っているのでこの記事はうそである。しかし遅くとも6月には確信したようだ。「義経記」では京から近江を経て北陸道で奥州に下ったとしている。藤原秀衡一族の勢力は北陸道(富山・新潟)から北関東(群馬・栃木)にまで及んでいたようだ。鎌倉殿の支配が及ばない国を経て義経主従四人は無事平泉に着いたのである。1186年9月秀衡は重病に落ちいった。秀衡は遺言で義経を大将軍とし国務に当たるよう泰衡に命じて10月29日になくなった。1188年2月の宣旨は義経追討を命じ、院庁下し文は藤原基成と泰衡に義経を召し取る事を命じた。泰衡からの返事が煮え切らなかったので再度宣旨をだすと、泰衡は義経を討ち取ることを約束した。4月30日泰衡は衣川の館で義経を誅殺したという。6月13日義経の首が鎌倉に届いて和田義盛と梶原景時が検分した。藤原泰衡は鎌倉殿に恭順の意を表明していたにも関わらず、頼朝は宣旨なしで軍を奥州に進めた。藤原基成は捕捉され泰衡は9月に討ち取られた。こうして頼朝は懸案の奥州征伐に成功し北の脅威を取り除いた。平泉は「兵ものどもが夢のあと」となったのである。
9-1) 「義経記」成長の時代
文学というものが文字から引き離しては存在せぬかのように考える者や、文学は都市の(都の)灰塵の中からしか出てこないものと思う者には文学の片方しか見えてこない。文字あって初めて文学ありという考え方から、最初からそれ以外のものを受け入れなかった。たとえば万葉集には文字(漢字から仮名)を習う数百年前の歌まで載せている。文字以前の文学というものがあると同時に文字以外の文学というものも古代には盛んであった。もちろん文字によって最初に征服されたのは朝廷や寺院の文学であった。都から文字が長い間伝わらなかった地方や庶民階層の人々は、古来の暗誦の方法によって伝承する他はなかった。むしろ文字以外の方法の方が変化や潤色に有利であったといえる。ここで柳田氏は「義経記」を取り上げ、かって野に咲いた東北文学が国中を駆け巡り、都市の文学にその形跡をその跡を残している例として見てゆこうと提案する。中世の生活において「義経記」ほど親しみのある文学はなかった。また極めて粗略に扱われたことも例がない。関東には頼朝兄将軍の事績ばかりで、「曽我兄弟物語」のように富士川で義経は判官を首になり追放された。したがって義経の話は拒否され続けたのである。義経記が定本として刊行されたのは江戸時代の初めらしいが、平家物語と違って義経記には異本というものがいたって少ない。平家物語と同じように義経記の流布に携わったものは主として座頭であった。座頭は目が見えないから本などは必要なかった。写本というものは流派が存立するための手段であって、写本ごとに異説が大量生産されたきらいがある。農村の知識人階級も中世の数百年は写本もなく原型通りに暗誦していたということになる。僧でも地方では紙がないので暗誦が仕事であった。語り手座頭も聴衆も写本は見る機会はなかった。ということは義経記は都に入ることが遅かったということである。江戸時代に京都大番の組織が決まり、地方大名の武士団が京住まいを始めると、地方から取り寄せるものとして「義経記」の読み本であった。同時に語りの座頭の琵琶を抱えての京登りも始まった。平家物語は関東以北には流行しなかった。九州の盲僧と称するものは、悉く一寺の住職で、しかも琵琶弾きがその主業であった。薩摩では彼らが全国を旅する一団であることから密偵に使われた。竈払いと称して地の神の祈?をしたり、余興に物語を弾いた。これが薩摩琵琶の起源である。肥後では検校というのがこの盲僧のことである。義経記が平家物語の弟分であり、平家と重複する部分は平家に譲って省略している部分が多い。義経記は非常な寄せ集めの継ぎ接ぎで質の良くない読み本である。義経記全8巻は1巻から3巻までが生い立ちから出世の話で、第4巻以降は没落譚となって、平家討伐の義経最盛期の話はほとんどないのである。吉野山の宗徒との交渉にやたら詳しく、武蔵坊弁慶の活躍は平家物語や源平盛衰記には少なくむしろ伊勢三郎に重点をを置いているが、義経記では弁慶は格上げされ家老格の主人公になっている。この粗末な次ぎ合わせはおそらく京都で行われたようである。奥州系の義経記の特色は第7巻北国下り以降によく表れている。その第一は地理の正確さである。第2の特徴は山伏の記述が詳しいことである。つまり出羽三山の修験道に詳しいことである。各地の熊野神社の御三家特に鈴木氏とのつながりに強い者が義経記の成長に関与しているようだ。第3の特徴は亀井兄弟の武勇伝が極度に華やかに描かれていることである。亀井六郎の義経に随従したことは平家物語には見えない。彼の兄鈴木三郎は衣川合戦の前日に六郎に面会し、離脱を説いたが彼は討ち死にを選んだという。また武蔵坊弁慶の活躍ぶりの記述にも異常に力が入ってる。こうしてみれば義経記後半はまさしく熊野および熊野人の手になる宣伝であったといえる。佐藤庄司祖孫三代の忠節に感動する人が多い。藤原秀衡将軍家の家も佐藤家に連なる。家の名をあげる効果は抜群であった。京都から流れてきた十数名の義経主従武士団に地元の藤原泰衡は数百の軍勢で取り囲み殲滅した。彼には藤原の軍団数万騎の兵力を背景にした包囲網があった。その中には地元の名家が多かった。こうして義経記は、地元において祖先の家を思慕する情と、熊野信仰とが絡んで練り上げられていったようである。
9-2) 「清悦物語」まで
文治五年(1189年)、源平合戦の英雄義経は、「吾妻鏡」には、衣河舘で泰衡によって襲われ三十一歳の生涯を閉じた。後世の「義経記」によれば、高館には当日、義経の妻北の方と五歳になる若君の他、従臣の鈴木三郎重家、亀井六郎重清、片岡八郎弘経、鷲尾三郎経治、伊勢三郎義盛、備前平四郎定清、増尾十郎兼房、武蔵坊弁慶などわずか十人足らずしかいなかった。他残り十一名(常陸坊海尊だけは名が知れている)は、近くの寺に参拝に出かけたまま帰らず、「高館の変」を聞くやそのままどこかに逐電してしまったという。ところが、この衣川合戦から四百数十年後の江戸時代始め、衣川合戦の生き残りと称する「清悦」と名乗る人物が東北各地に出没した。そして、この合戦の様子を詳しく語って聞かせたという伝説が残っています。面白い伝説なので、「平泉今昔」より一部紹介しよう。この清悦という人物は、剣術の達人であった。伊達正宗の七男で柴田郡村田(宮城県)の城主であった伊達宗孝の家臣である小野太佐衛門は、六年間、清悦について剣術を学び、清悦の話を克明に書きとめた。これが世にいう「清悦物語」である。それによると、清悦は義経従臣の一人で、義経に従って奥州まで落ちてきた。ある日、北上川に釣りに出かけ、一人の仙人に会います。その仙人より「にんかん」という赤い肉を食わされた。その結果、不老不死の身となり、衣川合戦にも生き残った。そして、江戸時代初めまで四百数十年も長生きし、衣川合戦を見てきたように詳しく語ったといいます。その清悦の墓と称する塚が、東磐井郡川崎村門崎の北上川のほとりに残っている。寛永七年(1630年)に没したという。清悦によると、泰衡が義経に背いたのは弁慶がしばしば平泉の武士たちを侮辱したのが原因という。この話が荒唐無稽で作り話であったとしても、悲運に陥れた者への復讐がすまされない。清悦という生き証人を立てて、讒言者梶原景時を処刑せずにおかなかった東北民衆の義経に対する熱烈な哀惜の情と平泉への限りない追憶の所産が「清悦物語」を生んだといえる。以上の説が歴史的な「清悦物語」への評価であるが、柳田氏は伝説の成長・遍歴・起源を分析する資料として様々な資料を併せ読んでいる。異本として「鬼三太(清悦)残齢記」は常陸坊海尊を激しく罵倒し、「義経勲功記」は弁慶義経入韃靼説のもとになった。長寿の仙薬として、「本朝故事因縁集」は「石上の餅」をあげ、「塩松勝譜」や「笈埃随筆」では「人魚の肉」をあげている。「播磨鏡」や「西郊余翰」には「八百比丘尼の石塔」で「人魚の肉」、越後野積浦高津家は八百比丘尼の家だと言い「九穴の貝」伝説がある。九州柳川の牡丹長者には「万年貝」の話がある。筑前蘆屋浦伝二の家の「寿命貝」があった。


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