文藝散歩 

 五味文彦著 「源義経」

  岩波新書(2004年10月刊)


源平合戦の英雄「源義経」像を文献・史料から探る 


本書の目的の一つは源義経を鎌倉初期の政治史の中で捉えることだという。決して悲劇の英雄像と云う側面だけでは全体像はつかめない。古くは古事記に書かれた「ヤマトタケル」の人間造型にみられる悲劇的英雄像「白鳥の歌」がある。その対比で義経を鎌倉時代武家階級の創生期の悲劇的英雄と捉えることができる。平家を滅亡させた功績は顕著で争えない。しかし義経の意義はそれには留まらない。それと同時に関東武士団が苦手であった畿内の支配に先鞭を付けたことである。北条時政や一条能保の京都守護代、六波羅探題は実に江戸時代まで継承されるのである。源平合戦の勝利に貢献した義仲と義経に共通な問題点は後から付けられた挿話かもしれない。関東武士団の惣領北条家の陰謀と見ることが出来る。鎌倉幕府の成立は天皇家の権威と武家の惣領たる源頼朝の貴種性(カリスマ性)と北条家を中心とする関東武士団の武力のトライアングルで出来上がった。源頼朝は関東武士団の掌中にあった婿殿である。源頼朝に異を唱える物は排除された。義仲、義経は勿論、素直に従った兄の範頼も曽我事件を口実に葬られた。兄の全成も退けられた。北条家が強力になると、草創期の御家人や源頼朝の遺児さえもすべて葬られた。源氏の名さえ不要になったのである。そうして鎌倉幕府は北条家の単一支配に変質(ようやくなったというべきか)した。天皇家における藤原氏の単一支配のようになった。

徒然草の第二百二十六段 「後鳥羽院の御時、信濃前司行長、稽古の誉ありけるが、楽府の御議論の番に召されて・・・・」 に平家物語の作者を下野守(栃木)の中山行長とする説を述べている。行長は後鳥羽院の時、漢詩の議論で唐の太宗の七徳の舞の二つを忘れ、恥をかいてから学問を捨て隠棲したという。行長は平家物語を作って、盲目の琵琶僧(生仏)に平家物語を語らせたという平家物語の成立事情をかたる文献学上、貴重な発言がある。そして「九郎判官のことは委しく知りて書き載せたり、蒲冠者(源範頼)のことはよく知られざりけるにや」と記しており、兼好は早くから義経に関心を寄せていたことがわかる。それ以来義経のことを書くのに文献がなくて困るのではなく、多すぎて困るのである。義経像が色々脚色されて流布されている。しかし幼年期の事を記す史料は少ない。義経物語は父の仇討ちと云う側面では「曽我物語」とほぼ同じである。もうひとつは貴種の人が地方へ下って苦労し、都に戻って本懐を遂げるという貴種流離譚の側面では、説教節の「小栗判官」と同じである。この二つの側面を義経物語は持つのである。

私は何故か鎌倉幕府を開いた源頼朝は権力の権化の様な気がして好きになれない。むしろ芭蕉が好きだった木曽義仲とか九郎判官義経に愛着を感じる。それを「判官びいき」というのだが、その判官びいきがどのようにして形成されてきたのかをやさしく文献・史料から根拠つけるのが本書である。私は本当は粗野で田舎者と酷評されている木曽義仲の人間像を知りたいのだが、あまり義仲に関する本はない。義仲寺の義仲の墓にとなりあって墓を作ってほしいとまで言わせた芭蕉の気持ちを知りたい。まず義経関係の年表をまとめる。そして手の内を明らかにするため関係資料(基本史料)を明示しておこう。


源義経関係年譜

1147年 源頼朝生まれる
1156年 保元の乱
1159年 源義経生まれる
1160年 平治の乱  源義朝(父)自害  源頼朝伊豆に流される  常盤御前と源義経は大和国竜門牧へ逃れる 
1162年 常盤御前 藤原長成と再婚
1167年 平清盛 太政大臣になる
1169年 源義経鞍馬寺に入り 童として養育される
1174年 源義経鞍馬寺を出て奥州藤原秀衡を頼る
1177年 鹿ケ谷の変
1180年 以仁王の乱  源頼政挙兵 源頼朝伊豆で挙兵したが石橋山で敗北  木曽義仲信濃で挙兵  源頼朝富士川の合戦で平家を破る  義経鎌倉で頼朝と対面
1181年 源行家墨俣の合戦で平家に破れる
1183年 平家安徳天皇を奉じて都落ち  義経・範頼都に入る
1184年 義経 義仲を討つ  義経一の谷の合戦で平家を破る  義経平家追討と畿内検断を托される  義経検非違使に任じられる
1185年 義経屋島の合戦で平家を討つ  壇ノ浦合戦で平家滅亡  義経平宗盛を鎌倉へ連行 鎌倉には入れず腰越状(弁明状)を頼朝に出すが許されず  義経伊予守に任官  頼朝と義経決裂し頼朝追討の宣旨を得る  義経都落ち(吉野、多武峯 伊勢 北陸道へ)   源頼朝 義経追討を理由に守護・地頭を置く
1186年 静御前鎌倉に召される 静男児出産 男児は殺される  静親子許されて京へ戻る
1187年 義経 藤原秀衡を頼って奥州平泉に着く  藤原秀衡逝去 
1189年 藤原泰衡 義経追捕の宣旨を受ける  義経衣川で自殺(31歳)  奥州藤原氏滅亡
1192年 源頼朝 征夷大将軍になる  鎌倉幕府開く


源義経関係基本史料

1)「吾妻鏡」  鎌倉幕府の公式史料  成立鎌倉時代  頼朝・御家人側の公式見解  義経幼年時代から全生涯に至る文献
2)「玉葉」  摂政九条兼実の日記  成立平安時代  後白河院の周辺と京都における義経の行状を知る文献
3)「尊卑文脈」  義経の紹介記事が記載されている 成立南北朝  清和源氏の系譜
4)「源頼朝文書」、「鎌倉遺文」  手紙や私文書  成立鎌倉時代  源頼朝関係文書の文献
5)「平治物語」  「平家物語」と同じ合戦の物語  成立鎌倉時代 琵琶法師が伝えた軍記物語で脚色が多い
6)「平家物語」  平治物語と平家物語はおなじ成立基盤を持つ  成立鎌倉時代  琵琶法師の軍記物語で脚色が多いとはいえ義経の全盛期をリアルに叙述
7)「義経記」  義経伝説  成立室町時代  義経没落後の時期を描く 能や幸若舞の芸能化の過程で作られた 情緒的な義経像
8)「弁慶物語」 弁慶伝説 成立室町時代  「義経記」とセットになって作られた 弁慶については史料は極めて少ない伝説上の人物
9)「曽我物語」 武将の遺児曽我十郎・五郎の仇討ち物語 成立鎌倉時代  瞽女によって担われた神霊色が強い仇討ち物語   


1) 幼少期ー史料稀薄

義経の幼少期を伝える史料は「吾妻鏡」に二つある。一つは源頼朝の挙兵を聞いて奥州から黄瀬川の宿に駆けつけた義経の素性をこう記している。「平治の乱で父(義朝)の喪にあった後、継父一条大蔵卿藤原長成(母常磐の再婚相手)の庇護のもとで鞍馬山に入り、父の仇討ちを思い立って秀衡を頼って奥州に下向する」 二つは壇ノ浦で平家を滅ぼし生け捕りした平家の総領平宗盛を鎌倉に連行する時、腰越から不仲になった源頼朝に身の潔白を訴える「腰越状」に、義経は自分の幼少時をこう語っている。「父義朝が他界してから、母に抱かれて大和国宇陀郡竜門牧に逃げたが、その後は都を流浪し諸国をさすらった」と源頼朝の哀れみを誘う書き方で幼少時を語った。

義朝には十一人の異母兄弟がいた。系図にコメントを付ける「尊卑文脈」によると、義経に関する記事が多いのは「尊卑文脈」が室町時代の成立によるところから,義経物語の伝説的引用が多いのではないかいささか事実の信憑性が疑われる。「吾妻鏡」や「平安遺文」に合致するところは信じていいのではないか。義朝の長男義平は「鎌倉悪源太」と称され「尊卑文脈」では橋本宿(相模原市)の遊女が母といわれるが、「三浦系図」では三浦義明の娘が母とされる。19歳で平治の乱で父とともに挙兵して殺害される。次男朝長は1145年生まれ、母は波多野の女とされる。「帝王編年記」によると16歳で平治の乱で自害した。三男頼朝で1417年生まれ、母は鳥羽院に仕えた熱田神宮宮司の娘とされる。四男義門は早くになくなった。五男希義は頼朝と母を同じくする。六男範頼は1453年の生まれ、母は池田の宿の遊女で蒲御厨(浜松市)なので、蒲冠者と呼ばれた。平家追討ではいつも義経と二人で将軍を務めたが義経の活躍の陰に隠れて影が薄い。最後は頼朝に排除され殺される。常磐を母親として七男全成、八男円成、九男義経が生まれた。母親常磐は「平治物語」によると九条院に仕えた雑仕であったので、母の親の位は低かった。母の父は大和源氏の流れを汲み宇陀郡竜文牧を根拠地としていたようだ。それにしても義朝は行く先々で子をもうけている。この時代は妻問い婚で特に固定した妻はいなかったようだ。子供を養育するのは女で、その親の地位で出世に限りがあったようだ。義朝は全部自分の子を知っていたかどうか怪しい。

「平治物語」によると、1156年の保元の乱後に権力を得た後白河院の近臣藤原通憲(俊西)と藤原信頼の権力争いに端を発する。信頼が義朝を誘い、平清盛が熊野参詣で留守の時に兵を動かした。俊西を殺すのが精一杯で清盛が帰京して形勢は逆転し、二条天皇を清盛に奪われて敗走し、尾張で義朝は自害した。嫡男悪源太義平19歳は近江で捕まり斬首、次男朝長は自害、五男希義は土佐に配流された。三男頼朝は捕らわれ斬首されるところを池の禅尼の助命で伊豆に配流となった。常盤は義経ら子三人を連れて大和国宇陀郡竜門に非難したが、常盤の母関屋が捕まって詮議されているので、京に戻った。おもわず義経の命は救われ(清盛が常盤の体と交換に義経を許したといわれている)、継父藤原長成の養育で鞍馬寺に修行に入った。常磐は平清盛との間に女子一人をもうけたが、清盛に捨てられた後藤原長成の妻となり多くの子を生んだ。常盤の逃避行は室町期に入って幸若舞曲の「伏見常磐」などに強い母親像として話題を提供してゆくのである。


2) 鞍馬寺の童子期ー「平治物語」より

常磐が再婚した藤原長成の勧めもあって、牛若丸義経は鞍馬寺に入って沙那王といわれ、兄の今若は醍醐寺に入って禅師公全成といわれ、次の兄乙若は三井寺の円恵法親王につかえて卿公円成と呼ばれた。鞍馬寺は北の守護神「毘沙門天」(多聞天)を祭る延暦寺の末寺である。当時の寺には童は稚児とも言われ僧の寵童であった。童は寺院で教育を受け、舞いや今様などの芸能、寺の大衆から武芸を学んだとされる。「平治物語」の「牛若奥州下り」と「頼朝挙兵」の章によると、紗那王が武芸をたしなむうちに、奥州に下る金商人三条橘次に出会い「金を渡すから、奥州へ連れて行って欲しい」と頼んだとされる。奥州は金と馬の産地で、dどちらも京へ送る重要な商品であった。都には祇園祭の馬上(寄付)をする厩舎人という裕福な商人階層が生まれていた。馬と金が鞍馬と奥州を結ぶのである。厩舎人はまた平清盛の「日宋貿易」を担当していた。1174年沙那王は十六歳で鞍馬を出た。義経を都から奥州へ連れ出したひとを「平家物語」では金商人としているが、「平治物語」では諸陵助重頼(下総源氏の流)だとする。


3) 弁慶との出会いー「義経記」より

「義経記」の義経修行時代の話は「しょうもん坊」から始まる。「平治物語」では義経に謀反を勧めたのは諸陵助重頼とされるが、「義経記」はしょうもん坊(四条聖)に変えられる。源頼朝に謀反を勧めたのが高雄の文覚聖人である話の対比で義経に謀反を勧めたのは四条聖と云う話にしたのであろう。なおしょうもんとは「声聞師」から来た言葉で室町時代の幸若舞の演者で物語の語り部であった。「牛若貴船詣」の話は貴船神社が呪詛神であったことから来る。金売り商人吉次との出会いから鞍馬寺を脱出し奥州へ向う。途中熱田神宮大宮司の家で義経は自ずから元服したとされる。「義経記」卷三より弁慶の話が主になる。弁慶の名前は「吾妻鏡」では西国へ逃げる義経一行四人の中に出、「平家物語」では一の谷の戦いに初めて出てくる。弁慶は熊野別当が参拝に来た二位大納言の娘を奪い取って生んだ子とされている。拾われて比叡山に上がったという。手の付けられない暴れ坊主で西塔の武蔵坊弁慶と名乗り、大原や四国、姫路で修行(暴れた)したということだ。よそ者の修行者は何時も寺の大衆といざこざを起すのが常である。弁慶物語は義経物語のコピーに他ならない。義経と弁慶の出会いは五条天神(祇園社の末社で疫病退散の神)と清水寺である。弁慶物語に出る五条大橋は清水寺参拝の為の橋である。さてどちらで弁慶と牛若が出会ったのでしょうか。京都検定で五条天神が正解です。


4) 奥州藤原氏と源頼朝挙兵、義仲追討ー「吾妻鏡」より

義経を受け入れた奥州藤原氏は、初代清衡は継父清原氏から奥六郡を受領し、平泉に拠をおいて陸奥・出羽を支配下び置いた。二代の基衡と三代の秀衡と続いて1170年鎮守府将軍に任じられ従五位下に叙された。1181年には陸奥守になるなど繁栄の極みを迎えた。金を朝廷に送り平清盛の日宋貿易を経営したのもこの時期であった。三代秀衡は陸奥守藤原基成の娘との間に泰衡を儲けた。また秀衡は朝廷の変や乱で逃げた来た公家、朝廷の不満分子を積極的に受け入れた。その流れの中で義経らが受け入れられたようだ。

1180年8月17日以仁王の令旨に応じて源頼朝は石橋山で挙兵したが破れ、10月20日富士川の戦いで勝利したときに、義経が奥州から駆けつけた。この時藤原秀衡は藤原継信・忠信兄弟を従者として派遣した。これ以降の義経の動きは鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡」(歴代将軍記)から得られる。物語は「平家物語」から得られる。頼朝の義経に対する位置づけは1181年の鶴岡八幡宮の上棟式で馬を引けと云う命令に明らかである。義経を源氏嫡流として別格に置くのではなく、あくまで御家人と同じ旗下レベルに置くものである。頼朝は信濃の義仲、尾張の行家、常陸の信太義広らをけん制しながら覇業達成を目指したのである。1183年義仲から子息清水義高を人質に取っているのである。義仲が平家追討で西国へ向った時に頼朝は後白河法皇より東海・東山・北陸の支配権を得た。北陸は義仲の抗議で返還されたが、頼朝は義仲や義経が兵を進めるたびに支配権を拡大していった。「平家物語」 卷第四「源氏揃」に奥州源氏として義経の名が始めて登場する。 「平家物語」卷第八の「法住寺合戦 」で義経の義仲追討が始まる。義仲追討から一の谷合戦まで義経の活躍部分のみを「平家物語」卷八と卷九から採録する。
法住寺合戦
木曽殿の兵馬を京で養うこと自体無理があった。五万騎といわれた北国の兵力も、木曽殿の不評で離散して残すところ六・七千騎となった。法皇が兵力を集めていると云う噂により、十一月十九日、院の御所法住寺を木曽殿の軍が取り囲んだ。樋口次郎兼光二千余騎で今熊野より攻め、今井四郎が火矢を法住寺の棟に放つと炎が上がった。乞食坊主を集めたに過ぎない山門大衆の兵は蜘蛛の子を散らしたように逃げ去った。主水正親、近江の中将為清、越前少将信行、村上三郎判官、右少将雅賢、明雲大僧正、円慶法親王らは討たれて首をとられた。法皇は信濃の矢島四郎行重の手で五条内裏に押し込めた。主上後鳥羽天皇もつかまり法皇と同じ場所に連行された。あくる二十日、木曽殿六条河原で討った首を掛けると六百三十余人であった。二十三日三条中納言朝方以下四十九人の公卿の職を停止した。これは平家の悪行以上だと云う噂であった。木曽殿は関白になろうとしたが今井四朗が諌め、丹波の国を取った。鎌倉殿頼朝は木曽追討のため、範頼・義経に六万余騎をつけて出発させたが、都が焼け野原になったと聞いて軍は尾張国熱田あたりで待機した。都の使い宮内判官公朝・藤内判官時成が範頼・義経軍に来たが、使いは鎌倉へと云うことで知康らは鎌倉へ向った。鎌倉では梶尾平三景時が使いを受け、知康(鼓判官)が今回の騒動の因を作ったとして適当にあしらった。ここで木曽殿は平家と和議を結んで鎌倉殿と対抗しようとしたが、平家側は相手にしなかった。十二月十日法皇は五条内裏から六条西洞院へ移された。
宇治川
正月十三日、範頼・義経の軍が美濃・伊勢に迫っていると聞いて、木曽殿は先ず瀬田の固めに今井四郎兼平八百余騎、宇治橋には仁科・高梨・山田次郎五百余騎、淀一口へは志田三郎義教三百余騎を送った。義経の家来に梶原源太景季と佐々木四郎という侍が先駆けを争っていた。二人は頼朝から名馬磨墨、生食を賜って合戦に向かった。大手の大将軍は範頼、侍は武田太朗、加賀美次郎、一条次郎、板垣三郎、稲毛三郎、熊谷次郎、猪俣平六都合三万五千余騎で近江国篠原を経て瀬田橋に向った。搦め手の大将軍は義経、侍は安田三郎、大内太朗、畠山庄司次郎、梶原源太、佐々木四郎、糟屋藤太、渋谷右馬、平山武者所都合二万5千余騎で伊賀を経て宇治橋へ向った。義経軍は一月二十日宇治川にて合戦の火蓋を開いた。畠山庄司次郎重忠五百騎で宇治川を渡り続いて佐々木四郎、梶原源太が渡って木曽殿側を打ち破った。瀬田は稲毛三郎重成の働きで破った。
河原合戦
宇治川・瀬田の合戦で敗れた木曽殿は最後の合戦に出るつもりで、公卿の女房の屋敷に暇乞いに行きなかなか出てこない。家来の越後中太家光は主人を諌めるためにわで切腹した。ようやく未練を捨てた木曽殿は那波太朗広純ら百騎ばかりで六条河原に出ると、義経軍に囲まれて六条から三条まで河原を走り抜けた。木曽殿は瀬田で闘っている竹馬の昔からの乳母兄弟今井四郎を求めて、三条から粟田口に出た頃には主従七騎にまで減っていた。一方義経は残党狩りは任せて、安田三郎、畠山庄司次郎、梶原源太、佐々木四郎、渋谷右馬重資と、法皇のいる六条御所に駆けつけた。一万余騎で守護した。
木曽最後
木曽殿に追従した七騎のなかには木曽殿の愛妾巴御前という一騎当千の兵がいた。木曽殿は大津の濱で今井四郎に合えた。残党をかき集め三百騎程になって一軍しようと、甲斐の一条次郎六千余騎のなかへ突っ込んで反対側へ出たときには五十騎ばかりになり、土肥次郎実平二千余騎のなかへ分け入って出てくると主従五騎になった。この五騎のなかにも巴御前は残っていた。義仲は巴を生かして逃がそうとした、巴は東国へ落ちのびたという。木曽義仲は今井四郎と云う義兄弟と主従二騎になったが、木曽殿は疲れた様子なので不覚を取らないよう今井は粟津の松原で自害をするよう薦めた。今井四郎三十三歳にて討ち死に。木曽義仲は三浦の石田次郎為久の手にかかり首をとられたと云う。
樋口被斬
今井四郎の兄樋口次郎兼光は淀のあたりで、今井四郎と義仲が討たれたことを知り、五百騎で都へ上がって討ち死にするつもりで鳥羽口につくころには二十余騎まで減っていた。降人となった樋口次郎兼光は木曽殿四天王といわれた今井、樋口、楯、根井の名を慕う者がとりなして命乞いをしたが法皇許さず、二十五日遂に斬られた。その頃平家は讃岐の屋島を出て摂津国難波に上がり、西は一の谷に城をつくり東は生田の森を大手門とした。14カ国を従え軍兵十万余騎と聞こえた。
六箇度合戦
平家が一の谷に移ってから、四国で謀反がしきりに起った。備前下津井にいた門脇の大納言教盛・越前三位通盛・能登守教経親子三人は淡路国源氏の賀茂冠者義嗣・阿波冠者義久を攻め、散々の蹴散らし二百三十人の首を取った。兄越前三位通盛は阿波国花園を、弟能登守教経は讃岐屋島を攻めた。能登守教経は屋島から備後国蓑島の沼田にいた沼田次郎・河野四郎を攻め、河野は逃したが沼田を捉え一の谷に帰った。阿波の国安摩六郎忠景が謀反したので能登守教経は西宮沖の海戦で追い散らした。紀伊の国園辺兵衛忠康と安摩六郎忠景が和泉の国で城郭を構えていたので、能登守教経は城を攻め百三十人の首を切っった。豊後国臼杵次郎惟隆・緒方三郎惟義・伊予国河野四郎都合二千余人が備前国今木城に立て籠もっていたので能登守教経は三千余騎でこれを攻め、三人はバラバラに逃げた。田舎侍を相手とはいえ能登守教経の戦いぶりは目覚しかった。
三草勢揃
一月二十九日範頼・義経は平家追討を奏上する。二月四日平家側では福原にて故入道相国の忌日を執り行い、平中納言教盛卿を正二位大納言に昇らせるが、教盛卿これを受けなかった。源氏側は四日、軍を西へ移動し、七日、一の谷の東西の木戸口にて源平矢合わせと定めた。源氏の陣は
大手の大将軍:蒲御曹司範頼 武田太朗信義、加賀美次郎遠光、小次郎長清、山名次郎教義、三郎儀行、 侍大将:梶原平三景時、源太郎景季、次郎平次景高、三郎景家、稲毛三郎重成、榛谷四郎重朝、五郎行重、小山四郎朝政、中沼五郎宗政、結城七郎朝光、佐貫四郎大夫広綱、小野寺禅師太朗道綱、曽我太朗資信、中村太郎時経、江戸四郎重春、玉井四郎資景、大河津太朗広行、庄次郎忠家、四郎高家、勝大八郎行平、久下次郎重光、河原太朗高直、次郎盛直、藤田三郎大夫行泰   都合五万余騎    摂津国毘陽野に陣を取る
搦め手の大将軍:九郎御曹司義経 安田三郎義貞、大内太朗惟義、村上判官代泰国、田代冠者信綱、 侍大将:土肥次郎実平、弥太郎遠平、三浦介義澄、平六義村、畠山庄司郎重忠、長野三郎重清、佐原十郎義連、和田小次郎義盛、次郎義茂、三郎宗実、佐々木四郎高綱、、五郎義清、熊谷次郎直実、小次郎直家、平山武者所季重、天野次郎直経、小河次郎資能、原三郎清益、多々羅五郎義春、太朗光義、渡柳弥五郎清忠、別府小太郎清重、金子十郎家忠、興一親範、源八広綱、片岡太朗経春、伊勢三郎義盛、佐藤三郎嗣信、四郎忠信、江田源三、熊井太朗、武蔵房弁慶   都合一万余騎   三草山の東の小野原に陣をとる。
一方平家の陣は
大将軍:小松の新三位中将資盛、少将有盛、丹後侍従忠房  侍大将:伊賀平内兵衛清家、海老次郎盛方  都合三千騎   三草山の西で陣を取る。 義経は侍大将の土肥次郎実平と夜討ちにするか明朝にするかを詮議したところ、田代冠者信綱の言により夜討ちと決定。山に火をつけて松明の代わりにして三草の山を越えた。平家は夜討ちに驚いて遁走し五百余人が討たれた。新三位中将資盛、少将有盛、丹後侍従忠房は讃岐の屋島に逃げ、備中守師盛、平内兵衛清家、海老次郎盛方は一の矢へ合流した。
老馬
大臣平宗盛卿は、義経が三草を破ったので山の手へ向う人を募ったが、誰も尻込みして手を挙げなかった。そこでいつものことながら能登教経が越中前国司盛俊、三位通盛ら一万余騎を率いて一の谷の後ろ、鵯越えの麓に向った。六日の明け方、義経は土肥次郎実平に7千余騎を預けて一の谷の西木戸口へ向わせ、自分は三千騎で一の谷の後ろ鵯越えへ向った。別府小太郎清重はこの難所を越えるには老馬に道案内させることが一番と見知らぬ深い山へ入っていった。武蔵坊弁慶は老翁を携えてこの崖を越える方法を問うたが老翁は無理だと云う。義経はでは鹿は通えるかと問えば、「丹波の鹿は播磨の印南野へ行く」と答えたので、義経鹿の通えるのに馬の通えないわけはいと、十八歳の鷲尾三郎義久に案内をさせる事になった。(ここに、武蔵坊弁慶が始めて平家物語に出た)
一二駈
義経の別働隊、一の谷の搦め手の土肥次郎実平の7千余騎のなかに、熊谷・平山と云う先駆けを争う二人がいた。土肥次郎実平の本隊を離れ熊谷次郎直実、子息の小次郎直家らの主従三騎で一の谷の塩屋から西の木戸口へ先駆けした。直ぐ後ろから平山季重ら二騎が追いかけた。六日朝になれば、熊谷・平山の五騎が先陣にいて、平家側から木戸を少し開けて兵衛盛嗣、五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清らの侍二十騎が出て矢を交えて小競り合いをした。これを熊谷・平山の一二の駆けという。華々しい関東武士の功を競う先陣争いである。
二度駈
そして土肥次郎実平七千騎の本隊が一の谷西木戸口の攻撃に移った。同時に東の生田の森で源氏五万騎の大手軍でも戦闘が始まった。河原太朗私高直、次郎盛直の二騎が生田の森の先陣を駆けた。平家の真名辺四郎・五郎兄弟は柵を乗越えようとする二人を取り囲んで討ちとった。梶原平三五百騎は生田の柵を破って進入したが、取り囲まれて善戦して退いた。これを梶原の二度の駆けという。
逆落
源氏の生田の戦いは凄まじい争いとなったが、雌雄を決することは出来ず膠着した。そこで七日、九郎御曹司義経三千騎は鵯越えを敢行する事になるのである。断崖の上から平家の城郭を見下ろしていた義経は、「馬を落としてみよ」とためしに何頭かの馬を崖から落とした。中にはうまく下りられた馬がいた。義経は自ら三十騎ばかりで真っ先に降りれば、続いて三千騎も皆鵯越えができた。平家の屋敷を焼き払い濱へ押し寄せると、不意を突かれた平家軍はただ逃げ惑うばかりであった。船に乗って逃げた平家も多かったが、能登殿教経は馬で西に逃げ、播磨の高砂で船に乗って讃岐の屋島へ渡った。この鵯越えで平家軍は総崩れになって、一気に勝敗が決した。この鵯越えの戦いで義経は不朽の名将(軍事的天才)と謳われるようになった。


5) 京都支配ー「文書」より

1184年源頼朝は朝廷に申請して重要な宣旨を得る。日本全土に武士を調査処断する権限つまり諸国検断権を得た。頼朝は各国荘園に鎌倉殿御使、惣追捕使、守護地頭の御家人を派遣できることになった。そのほか「朝務の事」、「徳性」、「平家追討の事」、「諸社の事」、仏寺の事」と云う「解」は「下し文」を次々と全国へ送った。天下は頼朝の支配するところと云う認識が成立してゆくのである。頼朝は畿内の支配権を獲得するとその行使を義経に託した。義経は1184年伊賀の国の平家の残党の乱で信兼の子息を誅殺すると、頼朝は平家の家地の配分を方針を義経に伝えている。義経は京の治安と行政の長官として頼朝の代官の役目をしっかり果たしていた。義経を支えた実務官として文書の実務を担った人物には少内記信庚(伊予守右筆)、右馬権頭業忠、兵庫頭章綱、大夫判官知康、・信盛、左衛門信実・時成があげられる。治安など兵力の手勢では伊豆右衛門有綱、堀弥太郎景光、佐藤四郎兵衛忠信、伊勢三郎能盛、片岡八郎弘経、弁慶法師といえる。奥州の武士と諸国を流浪する武勇の志の2つがあったが、武力は限定されていたので、援軍と監視を兼ねて鎌倉殿御家人が付けられた。1184年8月義経は朝廷から検非違使任官を得た。これが頼朝にとって後家人の自由任官に等しいと映って嫌疑をかけられる因となった。勝手に朝廷に近づいてはいけないのであった。範頼も追討使の官符を得ている。(義経・範頼どちらも頼朝によって滅亡させられた) 9月ギクシャクし始めた義経との関係を修復するため頼朝は河越重頼の娘を義経に嫁がせた。しかし義経・頼朝の関係は改善されなかった。河越重頼の娘を伴って奥州へ逃げた義経の追討の時には、河越重頼は誅殺され所領はとりあげられて大井実春に与えられた。


6) 平家追討の英雄ー「平家物語」より

瀬戸内海では範頼の平家追討軍はもたもたして戦闘が出来ず九州下関に移動した。1185年3月の範頼の書状には九州は範頼が沙汰し、義経は四国を沙汰することになった。都には鎌倉殿使いとして中原久経と近藤国平がはいった。二人はさしたる大名ではなかったが、文武の実務使として手堅い人事であった。屋島の合戦から壇ノ浦の合戦までの義経最大の見せ場を「平家物語」卷第十一より収録する。
逆櫓
元歴二年正月十日、九郎判官義経、後白河院に平家追討を奏問し三年余りの源平の戦いに終止符を打つ決意を伝えた。二月三日義経の軍は摂津福嶋において船揃えをし、兄の三河守範頼も摂津国神崎に船揃えをした。二月十六日船を修理して船を出す時、侍大将梶原平三景時は船の回転を良くするため「逆櫓」を立てようとしたところ、義経は逃げるための櫓は必要ないと反対した。ここから義経と梶原の内輪もめが始まり、義経の運命にもかかわる梶原の義経に他する怨念が生じるのである。義経は梶原ら二百艘の船を置いて、たった五艘で阿波へ向って出発した。同行したのは、伊勢の三郎義盛、奥州の佐藤三郎兵衛嗣信、四郎兵衛忠信、江田源三、熊井太朗、武蔵坊弁慶、金子十郎家忠、伊豆の田代冠者信綱、後藤兵衛実基・新兵衛基清親子らであった。軍の規律を大将自ら破ったことになり、侍大将という指揮官を抜きにしては軍は動かないので、大将の親衛隊だけで戦に出かけたことになる。この辺が義経の異常さであり、勇敢さでもあった。
勝浦合戦
二月十六日、五艘の船と馬九十騎で阿波の勝浦に上陸した義経は、まず伊勢三郎義盛に現地の侍で案内役を連れてこさせた。坂西近藤六親家を屋島への案内とした。勝浦の平家方である桜庭介能遠を討って門出の戦とした。
大阪越
平家の陣を近藤六親家に尋ねると屋島には千騎ほどだという。平家は各地に兵を分散させていたようだ。阿波の平家方田内左衛門教能が伊予国の河野征伐に出て留守なのを幸いに、阿波と讃岐の境の大阪越を夜を徹して越えた。二月十八日、讃岐国引田から高松に着いて、高松を焼き払って屋島に向った。屋島では源氏が大勢で攻めてきたと思って沖の船に避難したが、屋島の御所を焼き払った源氏義経軍は七八十騎ばかりが渚にでた。
嗣信最後
能登殿は源氏の兵が少ないのを見て、越中次郎兵衛盛嗣を先頭に五百騎を濱に繰り出した。源氏側から伊勢三郎、平家側から次郎兵衛盛嗣がでて口上合戦をやってから、能登殿は強弓の手で奥州の佐藤三郎兵衛嗣信を射落とし、その首をとりに出た能登殿の童菊王丸は嗣信の弟忠信の矢で殺されたので、暫く源平のにらみ合いが続いた。
那須与一
義経軍は現地の雑兵をあつめて三百騎程になったが、その日は暮れて引き上げようとしたところ、平家側より船の上に女房が現れ紅の扇をかざして、これを射よと源氏を挑発してきた。義経矢の名人を募ったところ、下野国那須太朗与一宗高が名乗り出て沖の扇に矢を放つと、扇は空へ上がりさっと散った。源氏は箙を叩いて、平家は舷を叩いて感じ入った。
弓流
余りの見事さに平家の五十歳くらいの男が船の上で舞い始まった。余一今度も弓を放つとその男の胸元を射通した。やったりと云う人もいたが、興ざめだと云う人もいた。平家は口惜しいと思って、二百余人ほど渚に上がり、源氏は八十騎で闘った。夜になって平家は船に上がり、源氏は陸に引いて休戦となった。源氏側は疲れ果てていたので、何故ここで平家が夜討ちをかけなかったのかが運の分かれ目となった。
志渡合戦
平家は讃岐国志度の浦へ移った。志度の浦では平家千騎と義経八十騎で合戦になった。源氏の援軍が来たので平家は大軍が来たと勘違いして舟に引き上げた。伊勢の三郎義盛は平家方の田内左衛門教能をたばかって心変わりをさせ源氏方の人質とした。この嘘による謀略で、教能の父阿波民部重能の心変わりを誘う戦術であった。こうして義経は四国を平定した。このころ摂津福嶋に取り残された梶原の二百艘も屋島に着いた。
壇浦合戦
平家は長門国引島に着き、義経は兄範頼と合流して長門国追津に着いた。平家側の武将熊野別当湛増は二千余人と船二百艘を率いて源氏へ寝返った。伊予国河野四郎通信も百五十艘の船を連れて源氏へ入れた。あわせて源氏の船は三千艘、平家の船は千艘となって会い対した。元歴二年三月二十四日の卯の刻に長門の国壇ノ浦赤間が関で源平の矢あわせとなった。さてその日また義経と梶原の先陣争いで喧嘩となった。梶原は義経は大将なのだから先陣は侍大将の梶原に任せるべきと主張し、義経は大将は頼朝で自分は侍にすぎないので先陣に出るといって聞かず、互いに刀を抜かんばかりの喧嘩である。土肥と三浦介が仲裁に入った。梶原は深く義経を恨み「この殿は天性侍の主にはなり難し」といった。この恨みが義経讒言につながるのである。
遠矢
壇ノ浦では平家の船は汐に流され、源氏の船には追手となった。平家は千艘を三手に分け、山賀兵藤次秀遠が先陣五百艘を、松浦塔が三百艘で第二陣、平家の公達らが二百艘で三陣を組んだ。山賀兵藤次秀遠、和田小太郎義盛、仁井紀四郎親清、開源氏浅利与一らの遠矢合戦をして、ここを一途に源平死力を尽くした戦いとなった。
先帝御入水
ここで平家方の戦線脱落・裏切りが開始され平家は総崩れとなった。阿波の民部重能は教能が人質になっていたので源氏へ寝返った。四国鎮西の兵は皆平家を背いて源氏についた。はやここまでと感じ取った二位殿は、神璽を脇に挟み、宝剣を腰にさし、主上を抱いて「極楽往生と云う都にゆこう」と海に入られた。
能登殿最後
建礼門院は主上と二位殿の入水をみて、覚悟を決め懐に石や硯を入れて入水された。源氏の渡邊源五右馬允昵は小船で近づいて熊手にかけて女院を引き上げた。大納言典侍局は内侍所の入った唐櫃とともに入水しようとしたが、けつまずいて倒れた所を侍に取り留められた。門脇の平中納言教盛、修理大夫経盛兄弟、小松の新三位中将資盛、少将有盛、従兄弟の左馬頭行盛は鎧に碇をつけて入水された。大臣平宗盛と息子右衛門親子は海に身を投げずにうろうろしているので見苦しいとばかりに侍が蹴落としたが、泳ぎがうまいので沈まないところを伊勢三郎義盛が熊手で引き上げた。大臣を救おうとした飛騨三郎左衛門景経が船に討ち入ったが堀弥太朗親経に首をとられた。強力の能登殿教経に向う敵はいなかった。義経めがけて船に討ちいったが、義経はひょっと隣の船に逃げ移って難を逃れた。五条の橋で弁慶の長刀をかわしたように。能登殿の船に安芸太郎実光兄弟と郎党が攻め入ったが、能登殿騒がず安芸実光兄弟を両脇にむずっと締め上げて、「おのれら、死出の山の供せよ」と海へ入られた。能登殿教経二十六歳であった。
内侍所都入
新中納言知盛教は「見るべきほどの事をば見つ」といって乳母子の伊賀平内左衛門家長とともに、鎧を二枚着て海へ入られた。生け捕られた平家の人は前大臣宗盛卿、平大納言時忠、右衛門督清宗、内蔵人信基、讃岐中将時実、大臣の八歳の若君、兵部小輔雅明、僧では僧都専親、法勝寺の能円、忠快、融円、侍では源大夫判官季貞、摂津判官盛澄、安倍民部重能親子、以上三十八人であった。女房たちでは建礼門院、大納言典侍局ら四十三人であった。四月三日義経は源八広綱を使者として後白河院へ「壇ノ浦にて平家を悉く攻め滅ぼし、勾玉の璽箱と内侍所を都へ戻す」と奏聞した。二十五日勾玉の璽箱と内侍所が鳥羽に着いて内裏より迎えが出た。平家に西国へ連れ去られた高倉帝の第二皇子守貞親王が都に戻られ法皇より迎えの車が出たという。
一門大路渡
二十六日平家の生け捕り者が鳥羽について、都大路を渡らせ判官の宿舎六条堀川に取込めた。法皇は六条東洞院に御車を出して叡覧あった。
平大納言文沙汰
捉われの平大納言時忠は櫃に入れた文書を義経に差し押さえられ、それがどんな災いを身にもたらすかを心配して、子息讃岐中将時実に相談した。息子が云うに義経は女に弱いので、娘を義経に差し出せば簡単に取り返せる。と云うことで二十一歳になる姫君を義経の側室にいれ程よい頃に娘がうまく言いなして、判官はまだ封も解かずにいた文櫃を平大納言に戻した。この頃都には「判官こそが天下第一の人、鎌倉の頼朝は何も出来ない」と云う噂が出てきた。これは義経側の驕りか陰謀か。
副将被斬
元歴二年五月六日、義経は大臣を連れて鎌倉に下る事に決定した。大臣には八歳の若君がいたが、将来これを副将にする思いで副将義宗と云う呼び名がついていた。別れの前日に若君と大臣は面会して別れを惜しんだ。副将を預かっていた河越小太郎重房は義経に伺い若君の処分を任されたので、六条河原で重房は副将の首を討った。付き添った二人の女房は首と亡骸をもって後日桂川に身投げをしたという。
腰越
五月七日九郎判官は大臣親子を警護して鎌倉に向った。梶原平三景時は判官より先に鎌倉に着いて判官の非を訴えれば、頼朝は都での噂や武将の意見も聞いて判官あやしと睨んだようだ。奇襲に長けた義経を警戒して軍を七重八重に置いて義経を寄せ付けず、大臣親子を受け取って義経を腰越に追い返した。この兄の仕打ちに義経泣くに泣けず、六月五日大江広元に手紙を書いて詫びととりなしを頼んだ。関東源氏は誰も義経を将軍とはみなさなかった状況で、義経の文はまさに「ヤマトタケル」のような戦に明け暮れ猶都に戻れない境遇に共通するものがあり涙を誘うようだ。
大臣殿誅罰
鎌倉殿、比企藤四郎義員を介して平家の大臣を尋問されたところ、大臣は変に居直ったので鎌倉殿は印象を悪くしたようだ。六月九日大臣親子を受け取り義経は都へ戻る事になった。二十三日近江国篠原宿に着き親子は別々の場所に移され、大臣には本性房湛豪と云う聖が引導を渡した。首切り役は橘右馬允公長という元は新中納言の侍であった。二十四日大臣親子の首が都にはいった。「生きての恥、死にての恥、いずれも劣らざりけり」


7) 源頼朝との対立ー「書状」より

義経への不信を決定的にしたのが、「平家物語」の「逆櫓」、「壇ノ浦合戦」に書かれている梶原景時からの「義経自専」、「廷尉不義」と云う訴えであった。大将たる義経が御家人と先陣争いをすると云う異常な熱意である。この讒訴によって、頼朝は使者を出して田代信綱に鎌倉殿に忠誠をちかうものは義経の命を聞かなくていいと云うお触れを出した。そして「平家物語」の「腰越」ではついに義経を鎌倉へは入れなかった。義経を都へ追い返した頼朝は、大江広元、三善俊兼、二階堂行政ら側近と戦後処理を進めた。義経に与えた平家没官領の24箇所を没収した。帰洛した義経は頼朝の畿内の支配が固まっている事に気がつき、ここから院を突き上げて義経の反撃が始まった。しかし経済的基盤を奪われ、手勢の兵力も少ないので義経はしだいに追い詰められていった。8月頼朝は佐々木定綱に前備前守源行家の追討を命じた。1185年8月の除目によって、源氏一族の範頼が伊豆守、惟義が相模守、義兼が上総守、遠光が信濃守、義資が越後守、義経が伊予守に任じられた。頼朝の知行国に国司として任じられたので、頼朝の管理下の経済的基盤は一挙に拡大した。義経は伊予の国を賜ったと云うが各地には地頭が補されており国務を取ることはできなかった。九条兼実の日記「玉葉」にはこの頃から義経に関する記事が多くなるが、兼実は頼朝の推挙で摂関になろうと画策していたからである。決定的な義経と頼朝の戦いは、頼朝が義経に刺客を送ったことで戦端が開かれた。このあたりを「平家物語」の「土佐坊斬られ」を見よう。
土佐坊被斬
一方源氏の旗頭であった義経には十人の大名をつけたが、兄弟不和で近いうちに処分があると聞いて家来は鎌倉へ逃げ帰った。鎌倉殿は義経が勢いを付けぬ内に滅ぼしてしまおうと刺客土佐坊昌俊を都へ送った。都で義経に面会した土佐坊昌俊はなんとかごまかしてその場をはなれその夜討ち入る準備をしていた。義経の愛妾静御前が表が騒がしいようなので偵察に童を出したが帰ってこないので、義経は親衛隊の六七十騎で土佐坊四五十騎を攻め滅ぼした。土佐坊は六条河原で首を刎ねられた。


8) 義経追討、落日の義経ー「宣旨と院宣」より

1185年10月11日と13日義経は院に奏聞して頼朝追討の官符を得た。この宣旨は武力で脅かされた院がいつも発行するもので朝令暮改の代表のようなものである。頼朝は殆ど意に介していなかった。頼朝は10月24日三千人の御家人を集めて上洛の意志を告げた。前陣を土肥実平、後陣を千葉常胤として出発した。頼朝は駿河国黄瀬川宿で逗留した。頼朝上洛が確実となると義経は都を退いた。「平家物語」の「判官都落ち」を採録する。
判官都落
土佐坊が斬られたことを、義経につけた密偵が鎌倉へ報じた。鎌倉殿は兄三河守範頼に討手を命じたが、従わなかったので範頼を討った。こうして北条氏に囲まれた頼朝は弟を滅ぼしたのである。つぎに北条四郎時政に六万騎をつけて都に討手に上らせたので、十二月三日義経は緒方三郎惟義ら五百騎で都落ちとなった。摂津国大物浦から住吉浦、吉野山、奈良、都、北陸、陸奥国へと放浪の旅となった。十二月七日に都に着いた北条四郎時政は翌日義経追討の院宣を得た。このあたりの院の根回しをしたのが、吉田大納言経房であったという。経房は権右中弁光房の子で切れ者の噂高く、平家、源氏の時もたくみに政事を差配して出世を重ねた。鎌倉殿は日本国の総追捕使(荘園に許可なく入り犯人を逮捕する権利)に任じられ、荘園に守護・地頭をおいて領地支配権を伸ばした。
ここで「平家物語」は終りになり、義経の記事も消える。 頼朝は鎌倉にいながら木曽義仲の動きを通じて朝廷からさまざまな権限を手に入れ幕府の体制を整備してきた。そして義経追討を理由にさらに11月29日守護・地頭の設置を認めさせ、兵糧米の徴収も認めさせた。12月には「議奏公卿」制によって院の権限を大幅に制限するなど院政改革を実施した。


9) 静物語ー「吾妻鏡」、「玉葉」より

1186年2月義経の愛妾静は捕らえられ、母磯禅師とともに鎌倉に送られた。義経と行家探索の宣旨は「衾の宣旨」といわれるが、畿内一円の国に及んだ。「玉葉」によると、3月に義経は伊勢神宮に祈願のため宝剣を献じている。都にいた北条時政は呼び戻され、甥の北条時定と交代した。頼朝の猜疑心は北条家にも及んでいて朝廷との交渉を極度に警戒していた。5月北条時定は源行家・光家親子を討ち取った。6月義経の母常磐が生け捕られ、北条時定は宇陀にいた義経の婿源有綱を討ち取った。伊勢義盛、堀景光、佐藤忠信らを討伐しこうして義経の残党狩が終わった。院中の義経派藤原範季の罷免も行われた。鎌倉では藤原俊兼と平盛時が静の尋問に当たって、吉野から出た義経の行方を尋ねた。その後の足取りは分らなかった。7月に静は義経の男子を出産したが、鎌倉殿は嬰児を処分した。そうして9月には許されて静と母は都へ帰った。

母磯禅師と静は白拍子の芸を継承するものであった。今様を謳う遊女は江口や神崎、青墓などを根拠地にしていたのに対して、白拍子は都を中心に活動していた芸能集団であった。遊女と白拍子は同じではないかと思うが、遊女の芸能については「平家物語」の「妓王」に委しいので紹介する。
妓王
白拍子という男舞いを舞う遊女、妓王、妓女と云う姉妹がいた。平安時代末期の芸人である白拍子の社会的地位は低く歌舞伎役者が河原乞食といわれたように、白拍子は遊女(遊び目)と呼ばれた。権力者清盛の寵を受け母と姉妹の三人は毎月米百石銭百貫というお手当てを貰って贅沢な暮らしができた。そこに白拍子の「仏」と云うライバルが登場し16歳と云う若さを武器に清盛の寵を奪った。清盛の西八条邸を追われた妓王姉妹は、又貧しい生活に戻って屈辱の生活に甘んじた。清盛の新しい愛人「仏」の慰みに妓王は清盛邸に呼ばれたが、情けない仕打ちに世をはかなんで親子三人で奥嵯峨の庵に逃げ、そこで念仏三昧の生活を送った。妓王21歳のことである。暫くすると「娑婆の栄華は夢の夢、楽しみ栄えて何かせん」といって、栄華を捨てた「仏」が妓王ら三人の仏道生活をともにすることになった。これで清盛の愛人達の仏道の共同生活となる。女達の反乱に出会った清盛はさぞ驚いたことであろう。


10) 義経奥州で滅亡ー「義経記」伝説より

1187年2月の「吾妻鏡」には義経が奥州秀衡の庇護の下にある事を認めたとなっているが、4月になっても義経発見の祈祷を行っているのでこの記事はうそである。しかし遅くとも6月には確信したようだ。「義経記」では京から近江を経て北陸道で奥州に下ったとしている。藤原秀衡一族の勢力は北陸道(富山・新潟)から北関東(群馬・栃木)にまで及んでいたようだ。鎌倉殿の支配が及ばない国を経て義経主従四人は無事平泉に着いたのである。1186年9月秀衡は重病に落ちいった。秀衡は遺言で義経を大将軍とし国務に当たるよう泰衡に命じて10月29日になくなった。1188年2月の宣旨は義経追討を命じ、院庁下し文は藤原基成と泰衡に義経を召し取る事を命じた。泰衡からの返事が煮え切らなかったので再度宣旨をだすと、泰衡は義経を討ち取ることを約束した。4月30日泰衡は衣川の館で義経を誅殺したという。6月13日義経の首が鎌倉に届いて和田義盛と梶原景時が検分した。藤原泰衡は鎌倉殿に恭順の意を表明していたにも関わらず、頼朝は宣旨なしで軍を奥州に進めた。藤原基成は捕捉され泰衡は9月に討ち取られた。こうして頼朝は懸案の奥州征伐に成功し北の脅威を取り除いた。平泉は「兵ものどもが夢のあと」となったのである。


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