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文藝散歩 

大野晋著 「源氏物語」
岩波現代文庫 2008年9月

源氏物語の評論を読みたいという気持ちになったのは、5年越しの課題であった。実は私は源氏物語については、高校の授業以来全くのちんぷんかんぷんで掴みようがないほど難解な古文という印象しかなく、大学受験はむしろ漢文の方を選択した。以来源氏物語には近づこうとしなかったのであるが、半世紀の空白を経て源氏物語に興味がわいてきたのは不思議である。まず田辺聖子の「新源氏物語 霧ふかき宇治の恋」(新潮文庫 2巻)の分かりやすく肩の凝らない意訳の小冊子を読み、次いで瀬戸内寂聴の「女人源氏物語」(集英社文庫 全5巻)を読んだ。また谷崎潤一郎訳「源氏物語」(中央公論社 全8巻)と、与謝野晶子訳「全訳源氏物語」(角川文庫 全3巻)を求めて読みだしたが、結構難解で途中で挫折した。そして5、6年前から在住する市で生涯学習講座にあった「源氏物語」講座を継続して受けるようになった。この講座は年に一度、2時間を1単元とする10回の講座を2,3週間で終えるもので、テキストは山岸徳平校注「源氏物語」(岩波文庫 全6巻)とし、講師は国学院栃木短期大學林田教授によって15年ほど続いたそうである。私は後半の1/3ほど受講したことになる。源氏物語を読むといっても、原文をすべて読むわ家ではなく、いわゆる拾い読みで全体の10分の1以下を読むに過ぎない。通しで全文を読んでいったらおそらく何十年かかるかわからない講座である。むしろ源氏物語の周辺とくに風俗(服飾)関係のお話に花を咲かせていたように思われる。こうして源氏物語のあらすじ程度は分かるようになった。山岸徳平校注「源氏物語」の文には、主語(発言者)や句読点がふってあるが、やはり文章が長く、途中で何のことかわからなくなる。ナメクジか牛の涎のようにくねくねと延々と文章が続き、文脈を見失うのである。つまり分かりにくい文章である。幸い講座では登場人物の系図、年立て、概説、口語訳、習慣・風俗関係図など至れり尽くせりの解説があったので、楽しく源氏物語に親しむことができたと思っている。大野晋氏の「源氏物語」が岩波書店から出たのは1984年5月のことであり、1994年同社の同時代ライブラリー版になり、2008年岩波現代文庫に入った。大野氏は古典言語学者として有名であるが、いわゆる源氏物語学者ではない。大野晋氏のプロフィールを紹介する。大野晋氏は1919年(大正8年)8月23日東京深川生まれ - 2008年(平成20年)7月14日逝去、東京大学文学部卒業、橋本進吉に師事する。学習院大学名誉教授。古代日本語の音韻、表記、語彙、文法、日本語の起源、日本人の思考様式など幅広い業績を残した。特に『岩波古語辞典』の編纂や、日本語の起源を古代タミル語にあるとしたクレオールタミル語説で知られる。ほかに上代特殊仮名遣の強調、係り結びの倒置説、品詞の割合とジャンルとの関連性を指摘した大野の法則なども知られる。主著は『日本語の起源』『日本語の文法を考える』『日本語の形成』『日本語練習帳』など。1989年(平成元年)丸谷才一との共著『光る源氏の物語』を中央公論社より刊行。なお丸谷才一氏は本書「源氏物語」の末に「まぼろし電話」という回想を寄せている。源氏物語54巻がどうも巻数順に執筆されていないようであることが、昔から研究者の間では噂されていた。そのことに大野晋氏が自分の専門の古言語学の立場から源氏物語の成立過程、ほのかな言葉づかいから主題の展開に考察を加え、大きな源氏物語の主題の転換点を歌集と「紫式部日記」から推察を行った。紫式部の恋と失意を源氏物語に投影して考えるのである。この源氏物語の世界はまさに大野晋氏の「私の源氏物語」であり、画期的な源氏理解ではないかと久しぶりに知的興奮を覚えた書であった。

源氏物語54巻 順列表
源氏物語54巻a系統 紫の上系b系統 玉鬘系紀伝の別
1) 桐 壷
本紀 源氏成功談
2) 帚 木
列 源氏失敗談
3) 空 蝉
列 源氏失敗談
4) 夕 顔
列 源氏失敗談
5) 若 紫
本紀 源氏成功談
6) 末摘花
列 源氏失敗談
7) 紅葉賀
本紀 源氏成功談>
8) 花 宴
本紀 源氏成功談
9) 葵
本紀 源氏成功談
10) 賢 木
本紀 源氏成功談
11) 花散里
本紀 源氏成功談
12) 須 磨
本紀 源氏成功談
13) 明 石
本紀 源氏成功談
14) 澪 標
本紀 源氏成功談
15) 蓬 生
列 源氏失敗談
16) 関 屋
列 源氏失敗談
17) 絵 合
本紀 源氏成功談
18) 松 風
本紀 源氏成功談
19) 薄 雲
本紀 源氏成功談
20) 朝 顔
本紀 源氏成功談
21) 少 女
本紀 源氏成功談
22) 玉 鬘
列 源氏失敗談
23) 初 音
列 源氏失敗談
24) 胡 蝶
列 源氏失敗談
25) 蛍
列 源氏失敗談
26) 常 夏
列 源氏失敗談
27) 篝 火
列 源氏失敗談
28) 野 分
列 源氏失敗談
29) 行 幸
列 源氏失敗談
30) 藤 袴
列 源氏失敗談
31) 真木柱
列 源氏失敗談
32) 梅 枝
本紀 源氏成功談
33) 藤裏葉
本紀 源氏成功談
34) 若菜上以下第2部本紀
35) 若菜下本紀
36) 柏 木本紀
37) 横 笛本紀
38) 鈴 虫本紀
39) 夕 霧本紀
40) 御 法本紀
41) 幻本紀
42) 匂 宮以下第3部
43) 紅 梅
44) 竹 河
45) 橋 姫宇治十帖
46) 椎 本宇治十帖
47) 総 角宇治十帖
48) 早 蕨宇治十帖
49) 宿 木宇治十帖
50) 東 屋宇治十帖
51) 浮 舟宇治十帖
52) 蜻 蛉宇治十帖
53) 手 習宇治十帖
54) 夢浮橋宇治十帖

源氏物語の成立について結果から先に纏めておこう。その方が見通しがいいからである。源氏物語は上の表に示したように、1)桐壷からはじまり54)夢の浮橋で終わる長編の物語であるが、単にエピソードとして挿入されたような短編も多い。現在の研究者の見解では源氏物語は書き下しのような連続した長編小説ではなく、全54巻のうち始めの33巻までは現在並べられている順序で書かれたものではないことが判明している。33巻まではa系統とb系統の二つの系列に分離され、a系統の17作品がまず書かれて33)藤裏葉で完結した。その後b系統の16作品が順次書き足されてa系統の中途に挿入されていった。その結果が現在の巻の順序となった。その後a系統の人物群とb系統の人物群が総合的に登場して34)若葉から41)幻までの光源氏の最後を記述したc系統と、42)匂宮から54)夢の浮橋に至る宇治10帖が加わって源氏物語54巻が成立したと考えられる。すなわち、源氏物語は内容的には1)から33)までの第1部、34)から41)までの第2部、42)から54)までの第3部の構成となっている。第1部は光源氏の絶頂期までの話、第2部は光源氏の晩年から死までの終結篇、第3部は光源氏亡き後の子孫の話である。特に本書において注目しているのは、第1部がa系統とb系統とでは作品を造形する手法が違う。もっと言えば紫式部の狙った読者層も異なる。実は源氏物語のこの読み方は平安・鎌倉・室町時代を通じて江戸時代初期までは源氏物語の構造として了解されていたようである。ところが江戸中期の国学者の研究によってそれが分からなくなってしまった。源氏物語はフィクションであるが、紫式部は「紫式部集」(和歌集)と「紫式部日記」を残している。日記に真実をそのまま書く必要はないにしろ、日記は当然真実にしっかりと足を突っ込んでいるはずである。その実と虚との間を読み取ることで、フィクションの源氏物語に投影されている何かを掴むことができる。大野晋氏は、源氏物語の@ことばを読む、A筋を読む、B作者自身の心を読むという3つの企てをもって本書を著したという。本論に入る前に著者は平安時代の貴族階級の婚姻の形を解説している。奈良時代は「妻問い婚」、平安時代は「婿取り婚」、鎌倉時代には「嫁取り婚」であったという。しかし実情は混在している。平安時代には女の方の実家が婿の世話をするため、かなりの資産を持たないとやってゆけないし、親がなくなってしまうと女は悲惨な境遇に置かれる。大臣クラスの貴族は女を据え置くという「嫁取り婚」を取っている。光源氏が六条院の屋敷に四人の女(紫の上、明石君、三の宮、末摘花)を置いたのはその例である。天皇家の結婚については、数人の配偶者を置くことは常であったが、正妻「皇后」は一人きりで、他の女は中宮、女御、更衣、尚侍、御匣殿という名称で天皇の身の回りの世話をする女房がいた。天皇および大臣家では女房に男が手を付け、何番目の庶子でも女の実家の位によっては、子どもはそれなりの官位に進み、厚遇をもって処せられる。女の実家の位が低いとみじめである。京都の貴族は国司クラスの女を得て経済的な援助を期待しているのである。

その源氏物語の成立論をたどってゆこう。1)桐壷の巻と2)帚木の巻の内容の落差の大きさから、源氏物語の成立過程に大きな疑問が出された。1)桐壷の巻では光源氏は高貴な天皇の子として讃美の対象であったが、一転して2)帚木の巻で光源氏はドンファンぶりが難詰されスキャンダル的存在がクローズアップされている。一番違和感を覚えるところである。例えば「光源氏 名のみことごとしう」、「言い消たれ給う咎多かんなるに」、「いとど、かかる好きごとどもを末の世にも聞き伝えて」、「軽びたる名をや流さんと忍びたまいける隠ろへごとをさえ」、「語り伝えけむ人の物言ひさがなさよ」、「さるは、いといたく世をはばかり、まめだちたまいけるほどに」というように、作者は光源氏の隠し事を洗いざらい暴露するつもりであると緊張させる。スキャンダル週刊誌の書き方である。この文面は紫式部特有のさまざまな彎曲な表現でぼかしていっている。これは清少納言の「枕草子」の文体とは大きく違うところである。紫式部は記述も描写も単純には言い切らないで、「そうであればそうでもない」といった式のいつも印象を打ち消して、柔らかい言葉を尽くしている。2)帚木の冒頭に違和感に覚えて言及したのは江戸時代の国学者本居宣長であった。彼は「源氏物語玉の小櫛」において、桐壷の巻との表現の違いが大きすぎることから、帚木の巻は後から付け加えたに違いないといった。しかしこれ以上の考察はなく、1から54巻までこの順序で書き続けられたものとした。大正時代に和辻哲郎氏は、帚木の巻の重大さに気づき、ついで昭和時代の初めに青柳(安部)秋生氏は第5巻の若紫を中心に考察し、その問題を発展させた。そして戦後昭和25年武田宗俊氏によって、次のような確定的な見解が発表された。
@源氏物語は今のような配列の順序で執筆されたものではない。
A源氏物語は前半の33巻までは、紫の上系(大野氏はこれをa系となずける)と玉鬘系(b系)の2系統に分離される。
B紫の上系(a系)は1巻から5,7,8,9,10,11、12,13,14,17,18,19,20,21,32巻の順で、最初に執筆され、物語は一応完結した。紫の上系はそれ自体で完成した物語である。
C玉鬘系(b系)は2巻に始まり、3,4,6,15,16,22,23,24、25,26,27,28,29,30、31巻の順にa系の後で書かれて、紫の上系の中途にそれぞれ挿入されたという。
大野氏はこの武田説に立場にたっている。それをさらに、古代言葉の用例と文学的な内容について「式部集」と「紫式部日記」から内容を補完し、源氏物語の背景を説得力を持って我々に提供してくれた。和辻哲郎氏は、1)桐壷の巻と2)帚木の巻の内容の落差からして、源氏物語は現在の順序で書かれたものではないだろうと考え、「もし源氏物語を現在のまま一つの全体として鑑賞せよと言われれば、自分はこれを傑作と呼ぶのに躊躇する。それは単調で繰り返しが多いからである。源氏物語は文章の美しさ、題材が人性に関与することで人々の心をとらえたのであって、物語全体の不整合、繰り返しは興ざめである」という疑問を呈した。そして和辻氏は次のような結論に達した。@ 2)帚木の巻は1)桐壷の巻を承けていない。A光源氏に関する情報は帚木の巻以前に大量に集められている。Bそれをもとに2)帚木の巻を書いたという。

この見解を承けて10数年後青柳(安部)秋生氏は5)若紫の巻を中心に分析を行った。そして次のような結論を得た。
@桐壷は全巻の総序として別に置く。3)空蝉、4)夕顔の話題の話は、2)帚木の巻の冒頭にある「雨夜の品定め」で話題になった中の品の女を受け継ぐので、2)帚木、3)空蝉、4)夕顔は結びついている。
Aこれに続く5)若紫の中には前の3巻の話と脈絡のある記事はない。別の舞台の話であり、5)若紫には紫の上と藤壺が登場し、さらに六条御息所と葵上が加わる上級貴族の女性のことである。
B5)若紫は6)末摘花を飛ばして、7)紅葉葉に連続している。つまり6)末摘花は孤立した話であり前後に連続しない。 C7)紅葉葉以降の話はずっと14)澪標まで続く。これを若紫グループと名付ける。
D若紫グループとは異質の巻は、まとめて帚木グループと呼ぶ。帚木グループには、2)帚木、3)空蝉、4)夕顔、6)末摘花、15)蓬生、16)関屋、22)玉鬘、23)初音と続く。阿部氏は相互に没交渉の2つのグループの関係は、帚木グループの執筆が若紫グループの完成後に考えられたとしかいいようがない。
その証拠として阿部氏は登場人物を検証して、a)若紫グループの登場人物は帚木グループにも登場する。b)しかしその逆はない。帚木グループに登場する中心人物は若紫グループには登場しない(光源氏は別として)。帚木グループの中心人物とは、空蝉、夕顔、末摘花、玉鬘、伊予介、紀伊守、伊予介の子、豊後介、小君、軒端荻、夕顔の乳母、右近、侍従の13人である。
和辻哲郎氏、阿部秋生氏の見解を決定づけた形で整理を行ったのが戦後の武田宗俊氏であった。武田氏の論考は昭和25年「文学」に発表された。武田氏の論は阿部氏が23)初音までされた分析を33)藤裏葉まで進めたてここまでを第1部としたものであった。そして阿部氏は41)幻の光源氏の死をもって第2部の区切りとした。つまり源氏物語全体を3部構成とし、第1部:1〉桐壷から33)藤裏葉まで(a+b)、第2部:34)若菜上から41)幻まで(c)、第3部:42)匂宮から54)夢の浮橋まで(d)という構成と考えた。第1部を紫の上系と玉鬘系の2つ物語グループとした。そして次の結論を得た。
@紫の上系(a系)17巻は玉鬘系(b系)を取り去っても、それだけで一貫した欠けるところのない話である。
Ab系はa系を前提とし、a系に付随する(補完)。a系がb系に影を落とすことがあっても、b系がa系に受け継がれる話は存在しない。b系はa系に融合しない。
武田氏はこの一貫した筋を持って進行し完結するa系17巻こそが最初に書かれた源氏物語であると断定した。武田氏は登場人物を分析した2次元の表を作り、阿部氏の結論を立証した。つまりa系の巻にはb系の中心人物は決して登場しないが、b系の巻にはa系の人物が登場するということである。それはa系が先に書かれてそれだけで完結した。その後b系が書かれて追加、挿入されたとみるべきであろう。その挿入場所がだいたい矛盾のない位置におかれているとしても、源氏の年齢と微妙に齟齬する場合がある。それは6)末摘花の巻が5)若紫と7)紅葉賀の間に置かれたため、時間的に不自然な逆行が生じていることである。

1) 第1部 a系の物語(紫の上系グループ 光源氏本紀)

a系とb系の間に、いくつかの顕著な相違のあることが分かった。作品を構成する@手法、A主題、B文章表現、C男女の関係についての作者の見方、興味を持つ読者層などで異なっている。まず作品を構成する@手法から見ると、a系の作品グループには顕著な特徴がある。それは年月が物語の進行の標識として順序良く正確に記述されていることである。つまり光源氏の人生の年代記となっている。はっきりと光源氏の歳は記述されないでも、源氏物語の注釈書には「年立て」で詳細に考証されている。たとえば5)若紫(18歳)、7)紅葉葉(19歳)、8)花宴(20、21歳)、9)葵(22、23歳)、10)賢木(24、25歳)、11)花散里(25歳)、12)須磨(26,27歳)、13)明石(28歳)、14)澪標(29,30歳)、17)絵合(31歳春)、Q松風(31歳秋)、19)薄雲(31歳12月、32歳)、20)朝顔(32歳秋)、21)少女(33、34、35歳)、(3年空白) 32)梅枝(39歳)、33)藤裏葉(39歳)という具合である。それに対してb系の前半はそうした年月の進行に依存した書き方をしていない。つまりおおまかにいえばどこに挿入してもいいのである。こうしたa系の書き方は、当時の紀伝道で教科書とされた中国の史書である「史記」、「後漢書」などの「本紀」の書き方である。皇帝の事蹟について年月を追って記述する伝統的・基本的な形式であった。a系33巻は、1)桐壷で予言された光源氏の運命が、33)藤裏葉において「準太上天皇」という天皇につぐ最高位に光源氏が就任することでめでたしめでたしの結幕となるストーリーである。紫式部が本紀の形式によってa系のストーリーを書くことができたのは、背景に彼女の漢文の素養を見逃すわけにはゆかない。当時の宮廷や大臣家での才女に教育は、仮名の習字、琴の演奏、古今集の暗誦であったという。これらを女房たちが貴族の娘たちに教えたのである。男の学問というと漢学であった。奈良時代に「大学」が設けられ、儒学、史学、文学が学問として重んじられた。大学では三史と文選を必修とし、「紀伝道」が確立された。紫式部は父親(藤原為時)から教育を受け、漢学に精通していたといわれる。鎌倉時代藤原定家は最古の源氏物語の注釈書「源氏物語奥入」を書いた。その中で源氏物語の本文に「長恨歌」、「白氏文集」、「史記」からの引用がそれぞれ10回以上なされていると指摘した。本来「物語」という文学形式は、当時の貴族社会では、女子どもの慰みものとされてきたし、女文字としての仮名は「日記」という形式で用いられた。では次に源氏物語a系のA主題は何だろうか。史書の本紀であれば、出来事を年代順に書けばいいのだが、源氏物語というストーリーは話の筋を持たなければならない。a系だけを通して読むと、全体として、桐壺帝の寵愛を受けた更衣が美貌多彩な皇子を生むことから始まり、更衣の死、皇子の結婚と展開し、その皇子が準太上天皇という高位に達して、翌年には40歳となるまでを編年体で語った年代記であることが明白である。

a系のストーリーの荒筋を示しておこう。「光源氏は12歳で元服し、左大臣家葵の上と正式に結婚したが、葵上は4歳年上で万事礼儀正しい人で格式ばっている女性に光源氏は心からなじむことはできなかった。光源氏の父である桐壺帝は、更衣なきあと更衣に似た藤壺を女御に迎えた。幼少の光源氏はマザコンで亡き母の面影を求めて、この藤壺の局に入り浸っていたという。後年光源氏は藤壺に接近し、藤壺は光源氏の子を産んだ(後の冷泉帝)。桐壷帝はこのことに気が付かなかった。光源氏は成長するにつれ学芸・趣味において人並みならぬ才能を発揮し、亡くなった東宮の妃六条御息所に惹かれて深い仲になったが、次第に離れていった。六条御息所の執着心は強く、怨念となって(生霊)葵の上に取り付き、出産後葵の上は亡くなる。六条御息所は娘が伊勢の斎宮になった際に都を離れるが心は源氏に執していた。光源氏は北山で藤壺に似た少女を見つけ自分の家に据えた。この少女は紫の上となって源氏の正妻となり長く光源氏に付き添ってゆく。しかし紫の上には子供は生まれなかった。藤壺が不義で生んだ男子は光源氏そっくりに育ち、藤壺は桐壷帝の皇后となり、光源氏は参議となった。しかし桐壺帝が譲位して朱雀帝が位につくと、政権は右大臣家に移り、左大臣家に連なる光源氏は次第に不利な政情におかれる。藤壺は出家した。光源氏は朱雀帝の寵妃となった内侍朧月夜との密会を続けた。この密会がばれ左大臣家の光源氏攻撃になり、光源氏は官位をはく奪され須磨に逃れた。須磨では明石入道という国司の庇護を受け、その娘(明石の上)と結婚した。もちろん紫の上は都に置いたままである。明石の上は周到な気配りと忍耐強い女であった。この頃朱雀帝は目を病み、右大臣はなくなり、朱雀帝は退位を決意し冷泉帝(光源氏の子)に位を譲り、光源氏を許した。翌年光源氏は内大臣に進み、親として冷泉帝を補佐する。冷泉帝は光源氏が実の親であることを知り、光源氏を準太上天皇の位につけた。光源氏は立派な六条院を造り、4人の正妻と関係ある女を据えた。」これが源氏物語a系グループの筋書きであるが、竹取物語の求婚譚を底において構築されている。須磨に流されたが最後には光源氏は天皇に次ぐ位に上がるという貴種流離譚と呼ばれる類型をも持つ。全体的にみると致富譚という類型であり、人臣位を極め権力と富を手にするという筋書きであり、言ってしまえば底の浅い成功譚である。そして筋は予言や夢見というストーリーテイラーによって進行するというロマンス仕立てである。これだけでは位の低い女房連中が天皇の寵愛にあこがれる気持ちを代弁したに過ぎない。ストーリはもっと面白くなくてはという気持ちで、b系のグループの話が創作され挿入されたという解釈に大野氏は立つのである。

次にB源氏物語の文章表現の特徴を他の作品と比べてゆこう。大野氏の専門である古文言語学の分析が展開される。表現法として好対照なのが同時代のライバル清少納言の「枕草子」であろう。清少納言と紫式部の属していた女房社会の性格の相違が重要である。一条天皇を巡って、藤原兼家の子どもである、道隆と道長は各々娘を後宮に入れた。道隆の娘定子は皇后に、道長の娘彰子は中宮に入れ、天皇の寵を競わせた。紫式部は道長家と彰子の派閥の女房に、清少納言は道隆と定子の派閥の女房になった。宮廷や大臣家にいた女房たちは、皇后や中宮などを中心に集団をなし、それぞれの派閥は特色を出して競った。企業や大学の競争社会と同じである。清少納言が仕えていた定子皇后の周辺では、軽快で機転の利く鋭い表現が好まれた。紫式部が仕えた中宮彰子の方はしっとりとした空気が支配的であったと思われる。学問の香りが漂うサロンを形成していた。定子皇后の後を追う彰子中宮グループは定子皇后に対抗する意識から漢籍の教養を身に着けるべく、彰子は紫式部から「楽府」の手ほどきを受けていた。枕草子は歯切れの良い短い文章を投げつける。源氏物語はそれに比べて長い文章を連ねて容易に判断しない。紫式部は源氏物語の朝顔の中で光源氏をして「冬の夜の澄める月に、・・・すさまじき例に言い置きけむ人の心浅さよ」と言わしめて、清少納言をあてこすっている。紫式部が対抗心を燃やす枕草子と源氏物語との語彙の相違について大野氏は分析した。源氏物語の総語彙数は約21万語、枕草子は3万3千語であり、長編であることで6倍強の言語量がある。また異なった単語数では源氏は1万2千、枕草子では5200である。枕草子にありながら源氏物語には一度も使われていない言葉がある。下品、杓、押し倒す、ねくたれ髪、花盗人、強盗、笑いののしるなどで挙げだすときりがないが、総じて下賤な生活者や下品な用紙に関する名詞は源氏では使われていない。形容詞や形容動詞でみると、源氏物語には恐ろしという単語を基本として、オソロシ、モノオソロシ、オソロシゲナリ、オソロシサという4層を区別している。このように源氏物語では形容語は整然と組織的に使われているが、枕草子にはモノ…型の語はわずかにしかない。不愉快な感情を表す場合、ウシロメタシ、ナマウシロメタシと源氏物語ではナマという接頭語を多用するが、枕草子にはこのナマ…型は一つもない。また形容詞の語幹の下に、柔らかい感じを表すヤカ、ラカを加える造語法は源氏には多い。アオシ、アオヤカ、アカシ、アカヤカ、ナゴシ、ナゴヤカという例である。現在語でもよく使うが、日本の古典文学でこのヤカ、ラカを最も多く使ったのは源氏物語である。紫式部が事をこまやかに表現するために工夫し造語した例は少なくはない。次に単語だけでなくa系の物語の描写における表現の基本的性格は明白である。それは作者が天皇家、大臣家と言った当時の支配層に足しては素朴な好意、賞賛、憧れの念をもっていたということである。「夢のよう」、「現とは覚えぬぞ」、「あさまし」という言葉が多い。つまり類型化した賛辞の繰り返しである。光源氏の行動には罪意識が存在しない。上層貴族の性生活の乱れには罪意識が極めて希薄である。また朧月夜に対する光源氏と朱雀帝の二人の動きは描かれているが、肝心の朧月夜自身は全く人形のように心の動きがない。ところがb系の物語になると男と女の関係をそれぞれ細やかに描き分けている。そして物事に対して自分なりの考えで批判しているのである。物事の陰影、そして下の者が持つ遠慮、苦しみ、悲しみが描かれている。紫式部の家は藤原家の遠流であり、5位の地方官どまりの家柄であったので、その悲哀は十分知っていた。

2) 第1部 b系の物語(玉鬘系グループ 光源氏スキャンダル編)

a系の源氏物語は文学好きの人々の間で読まれて好評であったと思われるが、それがもとで紫式部は道長に見いだされて中宮彰子の教育係に採用されたようだ。同時に人々の評判と批判を聞いて、しばらくして作者は第2バージョンの源氏物語を書くに至ったと思われる。しかも男と女の関係を掘り下げ、成熟した目で以て人間の綾を書き上げる文章力もついていたことであろう、これから光源氏の秘密を暴くという予告をもって2)帚木が書き始められた。2)帚木、3)空蝉、4)夕顔の3巻は、空蝉、軒端荻、夕顔の三人の女性を登場させ光源氏との間の隠し事を書いた。夕顔の巻末に「光源氏が何事に付けても完全無欠扱いをされ過ぎ、賞賛を受けてばかりいる。」という非難を書いた。これがb系作品グループを書いた動機である。実は作者は光源氏の秘密を多く知っている。だからここに第2バージョンを書くのだという狙いが宣言されている。華やかな表の光源氏がa系作品グループであり、光源氏の年代紀を書いた。きれいごと過ぎるという批判を受けて紫式部は裏の光源氏の実像というb系作品グループの執筆に着手した。つまりAという面と−Aという面の2面性を持つ光源氏の物語にする目論見である。a系の源氏物語が輝ける光源氏の一代記(史書でいう本紀)であるとするならば、b系の物語は光源氏と関係のあった4人の女性の列伝に相当する。2)帚木、3)空蝉、4)夕顔で扱われる、空蝉と夕顔であり、6)末摘花で扱われる末摘花であり、15)蓬生、16)関屋で末摘花と空蝉の後日談であり、22)玉鬘から31)真木柱で扱われる玉鬘であった。b系の物語は総論と各論からなり、2)帚木の前半にある「雨夜の品定め」の女性総論を受けて、4人の女性の各論に入るというストーリー構成である。雨夜の品定めにおいて、上級貴族の男たちの身勝手な女性論が展開される。一般に嫉妬ふかい女性、浮気な女性、中途半端な学問をした女性、深い思慮もなく仏門に入る女性が男性にとっては閉口するといい、上級貴族の男性の考えるところは、女性にはひたむきな献身を求め、女性には真剣な言葉を吐き、一生一人の女性を大事にする気はないが、遊び相手としてが一番気楽だということを男性の口から語らせた。ここで女性とは皇女とか大臣家の娘のような上の品の女性ではなく、むろん下賤な下の品の女性ははなから相手にならず、結局対象は地方国司の娘という中の品の女性のことである。それには必ず経済的援助という財産を念頭に置いて、女性の上の品の男性への憧れを利用した誘惑策を弄するのが男性の本根である。空蝉という女性は紀伊守の後妻であった。光源氏は空蝉と関係するが、2回目の時は空蝉は逃げ、隣に寝ていた軒端荻という女性を抱くという無定見な男の性を露呈した。夕顔という女性は光源氏の親友頭中将ゆかりの女であった。光源氏の女遊びの時の手先を勤める惟光の手引きで夕顔と関係を持つが、六条御息所の生霊が夕顔を襲い死亡する。光源氏は親友の女に横恋慕するという話である。なお夕顔と頭中将の間にできていた娘がb系の物語の後半にでてくる玉鬘である。成り行き上光源氏はこの娘の面倒を見ることになる。末摘花は常陸宮の姫君で、光源氏は頭中将と競合して、末摘花と関係を持つが、結果は恐ろしいブス娘であったという。女性をバカにしたあきれた話である。b系の物語の後半にでてくる中心的女性が玉鬘である。養父であった光源氏はこの女性を後になって深く心を寄せた。宮中に出仕させる話や、結婚の話も出ている中に、髭黒の大将が玉鬘を手に入れた。b系の物語の前半の4巻(2)帚木、3)空蝉、4)夕顔、6)末摘花)で空蝉・夕顔・末摘花の3人の女性を登場させ、15)蓬生、16)関屋の2巻で末摘花と空蝉の後日談を書いた。前半の物語はそれぞれ短編で独立している。後半の物語では玉鬘を中心にして時の進行とともに記述する方法(本紀)がとられている。a系の物語21)少女(33、34、35歳)と 32)梅枝(39歳)の間に3年間(光源氏35歳から39歳)の空白があり、そこにb系の物語22)玉鬘から31)真木柱の10巻がすっぽりはめ込まれている。

に共通する内容上の特徴は、この4人の女性に関わる光源氏の「失敗談エピソード」である。b系の物語全体が喜劇的で、光源氏に対して多少揶揄的な筆使いである。何事においても成功し、栄達の道を上り詰める栄光の光源氏の年代記物語のa系作品と比べると根本的に相違がある。光源氏を「名のみことごとしう、言い消たれ給ふ咎多かんなる」と揶揄し、頭中将を「すきがましきあだ人なり」といい、佐馬頭や藤式部丞については「世の好き者にて」と言い放った。おおよそ「・・・もの」とは性よからぬ存在という意味が込めら得ている。つまり男に対する作者の冷たい目が働いている。主題においてa系は「致冨譚」で、b系は「失敗譚」である。a系、b系の分離は鎌倉時代には学者の間ではよく知られたことであったらしい。藤原定家の「源氏物語奥入」、藤原伊行の「源氏釈」、室町時代の洞院公賢の「拾芥抄」らはこのことに気付いている。b系の物語に表現の綾について、助詞「は」、「こそ」の使い方の微妙なニュウーアンスを作者が持たせていることを、古典言語学者の大野氏は頁数を使って詳しく検証している。現代日本語でも「は」と「が」の使い方は重要である。「AはBである」といい方は、「は」の下に答えが提出される。何かのものや事柄を問題とし、その問題Aを承けて、「は」の下に答えBを示す。a系の桐壷・若紫では75%がこの論理的な@「は」の使い方である。b系の物語帚木では57%である。帚木では簡単なセンテンスはきわめて少ない。「は」で提示された問題の解答が実に長く、途中で文脈を見失うものが多い。文章が難解で源氏物語になじめない原因の一つとなっている。そして「ては」、「には」、「とは」、「やは」、「こそは」、「ずは」という助詞につづく「は」は、少し手の込んだ事柄の把握が入れ込まれている。微妙なニューアンスを入れ込もうとしているのである。「こそ」は多くのものの中からえりすぐって一つを取り上げ、主観的に価値づけることである。それはほかの対照とされるものを捨てることでもある。「こそ」の用法は脇役と主役が揃っている用法が第1例である。「色こそ見えね、香やは隠るる」のように言いたいことは後ろに在り(主役)前の色こそ見えねは脇役に過ぎない。第2例は脇役がそれだけで独立しているように見える、第3例は脇役が主役を占めて単純に強調する者の3段階がある。この単純な強調の「こそ」の語法は次第に広まり、「枕草子」にも「平家物語」に多用された。紫式部の「こそ」は脇役と主役の価値の対照を主とする使い方(第1例)であった。a系の物語では作者は藤壺や朧月夜の心理は描かれていない。決まり文句で終始していることである。b系の物語帚木では、空蝉と光源氏の応答は真に迫っている。しかしっ紫式部の美意識では、男女の接近はあるところで空白となり、露わな表現は一切避けている。だから堅物の学者は読み違えるのである。

3) 第2部 c系の物語(光源氏晩年そして死)

紫式部はa系の作品を書いた時は、文学好きな女性の関心に答えるようにした。b系の作品を書く時は中年の男たちの興味をそそる話題を選んだ。しかしc系の物語を書くにあたっては、そうした読者の関心を答えるより、作者自身御内に生じた問題を見極めるように描こうとしたと思われる。a系作品の執筆時期は紫式部が道長の土御門邸に入る前後に書かれたと思われ、b系の作品が書かれた時期は、「紫式部日記」に書かれた大臣家の局の生活を生きていたか経験した後に執筆されたものであろう。b系の物語は宮廷の官人たちの動向を心得たうえで、そこにいた中の品の女の生態、男女の交際をことこまかに描くことができている。空蝉は伊予守の4番目の妻であり、地方官の後妻という設定である。多くの学者から指摘されているように、この空蝉の位置づけは実生活における紫式部の位置に酷似する。そして光源氏に言い寄られて必死に対応する空蝉は、道長に迫られて捨てられた紫式部を作品の中に取り込んだといわれている。養父の関係にいながら、玉鬘に懸想する40歳の中年男光源氏という権力者の日常生活の陰の部分が細やかに描かれている。では34)若菜上、35)若菜下、36)柏木、37)横笛、38)鈴虫、39)夕霧、40)御法、41)幻の8巻からなるc系の物語はいつ書かれたのだろうか。若菜上の巻に光源氏が明石の君が生んだ若宮を抱き上げるた時に小便をかけられて衣装がぬれる場面は、紫式部日記に道長が敦成親王を抱きかかえて小便にぬれる話がある。若菜下に女三の宮を描写して容姿を観察している様子は、紫式部日記において小少将の君の描写と極めて似ている。小少将の君の印象によって女三の宮を造形したのであろうか。従ってc系の物語は作者の土御門邸での生活の後で書かれたのであろうと推測される。源氏物語をa系の話だけで成立する光源氏の年代記と理解し、b系の話は全く別の個人の話として分離する考えもあるが、池田亀鑑、武田宗俊氏以下の学者はa系とb系と合わせて33)藤裏葉までを第1部として扱っている。そしてc系の物語は第1部を受けて、始めてa系の人物とb系の人物が合流し、a,b両系の人物が話に出てくる。c系の物語はa系の物語を継承し、年代記の書き方をしている。光源氏40歳から52歳までの年代記となっている。こうしてa系とc系と合わせてその出生から最後までを描いた年代記「本紀」が完成した。老年の光源氏の充実した豊熟の生活が描かれる。しかし出来事の時系列配置よりも、生じる出来事そのものをありありと語り、人間のあり様を目に見えるように描くことである。

「40歳の賀の儀式が華美を尽くして描かれ、翌年には明石の姫君が東宮の第1子を出産する。次いで冷泉帝の譲位があり今上が即位する。光源氏は一生を懐古して出逢った女性の個性を述べ、紫の上が自分の一生において不足のない伴侶であったことを認める。紫の上は明石女御の出産の後に、女三の宮の光源氏への降嫁の話持ち上がると紫の上の心は傷つき以来病がちになって死亡する。そのあとすぐ光源氏自身もなくなるのである。a系の物語は光源氏の人生の登坂とすると、c系の物語は緩やかな下り坂の話である。ただ若菜上と若菜下には4年間の空白があり、一挙に人生の黄昏に向かっている。もはやあまり時間を気にしていないようだ。光源氏は紫の上と女三の宮との3角関係に苦しみ、朱雀院の出家後朧月夜との再会へ向かう。光源氏が病がちな紫の上のいる二条院に詰めているとき、柏木なる若者が六条院にいる女三の宮のもとへ通い関係をもって妊娠させる。光源氏は女三の宮が生んだ男の子を自分の子と宣言したが、女三の宮は出家した。女三の宮の母君は心痛の余り死ぬ。残された柏木は女二の宮と結婚する。女三の宮を恋慕する柏木は病いが募って死ぬ。光源氏の息子夕霧は柏木の死後女二の宮を弔問するが、夕霧は女二の宮に接近して関係を持つ。夕霧は雲居雁との間に7人の子どもを持っていたが、怒った雲居雁は実家に帰ってしまう。死期の近づいた紫の上は明石の上に会い、二条院を匂宮に譲って亡くなった。」 これがc系の物語の荒筋である。c系8巻の特徴は男と女の複雑な3角関係である。それが数々の悲劇の種となって多くの人が心痛のあまりなくなっている。例えば光源氏と紫の上、女三の宮の関係、柏木と女三の宮、女二の宮との関係、夕霧と雲居雁、女二の宮との関係、逆に女を軸とすると、藤壺と桐壷帝、光源氏との関係、朧月夜と朱雀帝、光源氏との関係である。一夫多妻制のもとでは当然起こりうる悲喜劇である。三角関係が引き起こす深刻な事態は結局きれいごとの栄花物語であるa系の物語には展開しない。ところがc系の物語では、男の欲望が描かれ、受け身に立つ女の苦しみ、悲しみ、恐れ、怒りが描かれている。C系の物語を、「女三の宮物語」、「夕霧物語」という様に分ける人がいる。三角関係の様相が描き分けられているからだろう。b系の物語では作者は男を「好きもの」とか言って揶揄したが、c系の物語ではそうした単純な見方をしていない。男も女も願い、望み、欲望して突き進むとき、人は人を傷つけ、傷つけた人も自ら傷つくことを描いている。

4) 第3部 d系の物語(宇治10帖)

d系の物語は光源氏が世を去ったのちの物語である。いわゆる「宇治十帖」にあたるが、その前に42)匂宮、43)紅梅、44)竹河の三巻があって、匂宮と薫の生い立ち、性格を紹介している。そのため13巻がd系の物語であるはずだが、その三巻に偽作説もあるほどで、現在の源氏物語学説の頭の痛いところである。またその宇治十帖に対しても別人の作かという疑いがかけられている。それはa,b,c系の作品の文章の長さに比べて、宇治十帖はセンテンスが長いのである。また語彙の面でも、形容動詞語幹「あたらしげ」、「いろめかしげ」、「かけかけしげ」など「・・・ゲ」型の単語が極めて多く使われている。源氏物語の訳者で小説家円地文子氏も宇治十帖の表現が異なっているという風に言っていることから、別人作説がとなえられてきた。しかし「助詞の歴史的研究」で有名な石垣謙二氏は「助詞ガ」の用法から見ると宇治十帖には特別な相違は見当たらないとされる。大野氏は源氏物語はa,b,c,d系の四部分からなる制作と考え、特にd系はc系よりかなり年月が経ってから作られたという説を取っている。むしろ作品の内容(主題)がいかに一貫性をもって追究され深化しているかを見てゆこうという。25)蛍の巻に「物語論」としてよく知られた1節があり、物語に夢中だった玉鬘に対して光源氏の口から物語論を語らしめた。これは紫式部が物語にかける意気込みを語った言葉であると理解されている。「日本書紀には実は人生のことはほとんど書いてないけれど、物語はそのまま書くことはできないにしろ物語の方にこそ人生の真実や詳しいことが書いてあるでしょう。物語は自分ひとりの胸のうちにしまっておけないことを書き綴ったものです。」という。作者が心を尽くすのは、取り上げる主題であり、作品の筋書き、そしてその表現である。まず宇治十帖の表現(言葉遣い)から検討しよう。「宮 なおかのほのかなりし夕べをおぼし忘るる世なし」の、夕べの出来事の「ほのかな」記憶のことである。薫の庇護のもとにある宇治の浮舟の家に、薫の匂いを身につけた匂宮が浮舟の部屋に忍び込み、長時間浮舟を押さえつけている(抱いている)ことに驚いた女房が匂宮を制止する場面である。このショッキングな強引な男の行動をどうして「ほのか」と表現するのだろう。「ほのか」とは「かすか」にしか見えないことをもっとしっかり見たい時に使う。「ほのかなれど、さだかに」においては「ちらっと見ただけだが、はっきりと分かる」という意味でつかわれる。紫式部はここで「かすかにみる」という意味を超えて、「ちらっと見る」、「もっと詳しく知りたい気持ち」の意味を込めた表現とした。こうした細やかな心遣いを重ねてゆく源氏物語の表現は、大きな意味の発展になってゆく。「清ら」と「清げ」という言葉では、「清ら」とは華麗、美しさを言う言葉であるが、第一級の人物に対して使われるが、「清げ」は地位の低い者や二流扱いされる人物に使うという区別がある。見たところきれいというぐらいで、本当の「清ら」ではないという意味である。またそれは相対的に使われ、帝に対する匂宮は「清げ」と言い、帝は「清ら」という。また低い身分の下働きの人が主人を見るときは「清ら」を使う。宇治十帖では、八の宮も薫も「清げ」で遇されている。零落した宮家の八の宮は第二級の人物と解され、浮舟からすると皇子の匂宮は「清ら」であり、臣下の薫は「清げ」とあらわされる。この一流と二流の単語の使い分けは、「ゆゑあり」と「よしあり」にも見られる。「ゆゑ」も「よし」も、奥ゆかしい、おもむき、風情、みやび、風流のたしなみという意味である。「ゆゑあり」が使われた人物とは、桐壺帝、光源氏、朱雀帝、紫の上だけである。第一級の人物だけに使われる言葉である。血筋や古い由緒を大事にする言葉なのである。作者紫式部は五位の階層の出身である(藤原の支流)ので、動かしがたい制約があった。いったい女性の幸福とはどういう風に認識されていたのだろう。現代語に「さいわい」とか「さち」という言葉があるが、平安時代には「さち」という言葉は使われていない。「さいはひ」という古語がある。浮舟では「のどかなる人こそさいはいは見果て給ふなれ」とある。源氏物語において幸運とは、第二流の女が天皇や大臣の男に見初められ「すゑ」られることであった。正妻だろうが第何番目の妻だろうが、男の家に入れられて豪華な生活が保証されることであった。紫式部はそういう生活を捨て、自分としての生き方を貫くことを自己に課した女であった。「心すごうもてなす身ぞとだに思い侍らじ」と紫式部日記に書いている。「心すごう」とはものさびしい、心細い、気味が悪い、すさまじいという意味であるが、大野氏は「見棄てられて荒涼とした気持ち」と訳した。「心すごう」という言葉は源氏物語では、京都以外の鄙びた情景で用いられている。宇治もまさにそういう土地である。夫を失った女の住む場所、そこで感じられるすごさが「心すごう」の内容である。

では宇治十帖の主題は何だろう。光源氏という輝ける人物を失ったいわば光のない世界(仏教でいう末世思想)のことである。だから登場する人物も宮廷の栄華からはずれた二流の人物だけで、第1級の人物は存在しない。上昇志向の全く欠けた世界である。41)匂宮の巻の冒頭で、「天の下の人、院を恋ひきこえぬなく、とにかく世はただ火を消ちたるように」という。舞台は都の周辺である、宇治、常陸、叡山の横川、洛北の叡山の麓の小野である。薫は光源氏が生きていたころは37)横笛で「清ら」と形容されたが、宇治10帖では、偉大な後見人を失って「清げ」と呼ばれる境遇に落ちている。匂宮だけは「清ら」の待遇である。二人は親友となっているが、皇室と臣下の待遇は歴然としている。哀れの漂う第二級の人物と第二級の鄙びた場所で物語は展開される。宇治に隠棲した八の宮は世捨て人の皇子であった。生活はボロボロでも位だけは高い貴族である。八の宮の娘に大君と中の君がいたが第二級の姫君である。薫という人物は、源氏は晩年に愛情もないままに皇女三の宮の降嫁を承けざるを得なかったが、柏木がこの三の宮に横恋慕して密通して生まれた子が薫であった。光源氏は自分の子として通したが、薫が成人して自分の出生の秘密を知った。過失で生まれた子の薫は内面的になり激しい恋から身を遠ざける青年となった。薫は女性に対していつもひるむ心を持ち、踏み込む勇気を持てなかった。過ぎ去った恋に執着し追憶の中で生きているような男であった。ただ女の生活の面倒見のいい、まめな(誠意のある)人と扱われている。薫の友人匂宮は薫とは対照的な性格を与えられた。匂宮はいい女と見ると言い寄らずにはいられない、「例の御癖だから」と中の君に揶揄されている。しかし女に対しては優雅な「清ら」な人であるという面もあった。陰と陽の対照として馨と匂宮は存在した。浮舟は大君と中の君と同じ八の宮の娘であるが、劣り腹(身分の低い女)の娘で母が再婚した時連れられて常陸で育てられた。従って浮舟は八の宮、大君、中の君より一段身分の低い女であった。宇治十帖の主要人物は、大君、中の君、浮舟、薫と匂宮の五人である。薫が近づく女に匂宮は対抗馬としてことごとく介入してくるのである。薫と匂宮は別人ではなく、ジキルとハイドの同一人物かもしれない。薫は仏道を学ぶために宇治の八の宮を訪うのであるが、そこで見初めた大君に心を寄せる。薫の重ねての求婚にも関わらず大君は応じないで病で死ぬ。大君は薫を拒否したわけでなく、事実一夜を共に過ごすという線まで来ているのだが、宇治を離れるなという父の遺訓、娘としての恥じらい、心配、恐怖、劣等感による苦しみという障壁を乗り越えることができなかった。要するに薫の押しが足りなかったのである。薫は八の宮の遺児(娘2人)の生活の面倒を見ているし、主観的には大君の気持ちは薫と結婚しているのと同然であったに違いない。薫は中の君と匂宮の仲を仲介したが、匂宮の派手な悪い噂を恐れた皇室は夕霧の六の宮と匂宮の結婚を急いだ。明石の中宮は宇治での匂宮の夜遊びを止めさせるために、中の君を都の屋敷にすえることを提案した。大君は匂宮と六の君との結婚に許しがたい男の背信を感じて、絶望によって死んだ。(当時は仏教によって自殺は禁じられていたので、自殺という言葉は使えない。狂い死にとか病で死ぬということになる) 49)宿木の末尾になって浮舟が登場する。浮舟は母の身分が低いことと常陸の国で育ったことで、宮廷社会では全く相手にされない劣等の身分である。母親と一緒に常陸の国より中の君をたよって宇治に出てきた浮舟は、ここで薫と出会う。薫は大君とうり二つと言われるほど酷似した浮舟を宇治の別荘に据える。そこへ匂宮が襲うのである。匂宮は浮舟をさらって、宇治川の対岸の小屋につれてゆき二日間下着だけをつけてひたすらに戯れたのである。薫にはなかった女へのひたむきな情熱を感じて浮舟は女としての喜びを知り、かつ馨との関係に悩むのである。薫はすぐに二人の関係を知り都につれてゆき囲うことを考える。浮舟の取り巻き女房らはどちらかに決めるように浮舟に迫る。そして浮舟は宇治川への入水へと追いつめられたのであろう。こうした50)東屋、51)浮舟、52)蜻蛉の3巻は実に緊迫した展開で緊密な描写力は経験を積んだ紫式部の熟練した手を感じさせられる。浮舟の心理描写は全源氏物語の中で白眉である。物語としては52)蜻蛉で急転直下顛末を迎えてもよかったのだが、53)手習いで浮舟の発見から始まる。そして横川の僧都が浮舟を尼の君が住む小野の里につれてゆく。ここで浮舟は悔悟と反省の生活に入り、仏門に入ることを願うようになる。「匂宮を少しでもよい方だと思った自分がけしからぬ。薫を最初は心の薄い人だと思ったが、心が長い人だった」と思うのである。薫のまじめな男と浮舟を女にした匂宮の行動を対比させ、どちらも同時に願うことの不可能性を浮舟に悟らせる。だから浮舟という女性は死ぬしかなかったという結論へ導く。54)夢浮橋の末尾で浮舟が剃髪したことを知った薫はなお、浮舟を疑っているという変な落ちが用意されている。「男と女の溝は淵より深い」でおわる。

5) 紫式部の生活 「紫式部日記」

大野氏はこの源氏物語を書いた紫式部の作者論(評伝)を、「紫式部集」、「紫式部日記」を唯一の文献として考えてゆく。そこに同時代の道長の栄華をつづった「栄花物語」(後にできた栄花物語は同じく女性の手になるといわれ、紫式部日記を参照している部分が多い。一説では赤染衛門が栄花物語の作者と言われるが、紫式部は日記で、赤染衛門を歌は下手だし上品ぶって分かったような様子をする人と酷評している)をも参考にしてゆくという方法論を取る。本書では5) 紫式部の生活の章は2) 第1部 b系の物語の章と3) 第2部 c系の物語の章の間においてあった。それは大野氏が紫式部の精神的転回点がこの時期にあると判断して置いたものであろう。紫式部のライフワークであった長編源氏物語は一筋縄ではない、作者の成熟の記録を反映していると考えたからだ。物語を虚とすれば作者の生活は実であるが、虚実入り混じった転回が源氏物語ということになる。源氏物語についての大野氏の見解は本文中のあちこちにちりばめられているが、そう考えるに至った根拠がこの章で示されるのである。むろんエンゲルスの下部構造論ではないが、生活(実)が思考(虚)を支配するわけではない。物語には物語の展開する論理がある。だから虚実入り混じるのである。そこで本解説では実の部分である本章は物語りを全部解説し終えてから示すことにした。その方がすっきりした理解につながると判断した。紫式部の生活の一部は、夫であった宣孝とのやり取りを「紫式部集」という歌集に見ることができる。996年紫式部の父藤原為時は越前の国守として赴任し、縁遠かった紫式部(28歳ぐらい)は父に従って下向した。その時に手紙を送ってきたのが、藤原宣孝であった。宣孝は式部と遠い従兄の関係であった。その宣孝には3人の妻がいて、45歳を超えて中年から老年に差しかかった男であった。式部とは親子ほど年が離れていた。その家筋も5位どまりの地方官に過ぎなかった。枕草子に宣孝の記事があり派手好みの男と評された。ふたりの間に賢子という女の子が生まれたが、結婚後3年目に夫は1001年疫病で死んだ。30歳を過ぎて紫式部は未亡人となり、小さい時からの文才を生かして「源氏物語」に取り組んだという。995年関白藤原道隆(兼家の長男、道長は4男)がなくなった。権力の座が道隆の長男伊周に行きかけたとき、道長は謀略で伊周を左遷し、自身は左大臣に進んだ。そして996年道長の娘彰子を一条天皇の女御として後宮にいれ(道隆の娘定子が皇后であった。枕草子の清少納言はそのサロンにいた。そういう意味で紫式部と清少納言はライバルの関係にあった)、翌年中宮に昇格させ、定子皇后に張り合う教養を身につけさせるため紫式部を彰子付きの女房とし大臣家土御門邸にいれた。時の貴族階級の生活を収入面から基礎づけると、3位以上の殿上人の収入は、位田(町数)と位封(戸数)でかなりの差があった。例えば大臣家の正一位では位田80町、位封300戸、さらの墾田の私有地500町が認められた。次に官職による給与は太政大臣で職封3000戸、職田40町となり、大臣の年収は今日の貨幣価値では数億円になるという。だから女房たちの関心の的は4位以上で、3位以上の男には強いあこがれと恐れをいだいていたという。出世コースは始位から進むときは5位どまりで、大臣家の息子たちは最初から5位でスタートする。地方官国司の人はさらにいい位置を求めて大臣家に多額の贈り物をする。道長の日記「御堂関白記」に讃岐守が1200石も米を贈ったという記事がある。現金に直せば約1億円に当たる。官吏任用は春秋の2回行われ、地方官は春、中央官は秋である。これを「除目」という。地方国守にも大国、上国、中国、下国の差があり、大国とは大和、河内、伊勢、武蔵、上総、下総、常陸、近江、上野、陸奥、越前、播磨、肥後のことであった。より田収入の多い大国の国守に任命されることを目指して、5位の人々は懸命の運動をするのである。このことは枕草子にも、その除目の悲哀を描いている。

同じ藤原の姓を受け継ぐ家でも政治権力の集中があり、一度大臣職を外れた家系には権力は2度と戻ってこない。藤原北家の冬嗣の系統で権力を持ったのは基経ー忠平ー師輔ー兼家ー道隆ー道長ー順道の系統であった。従って藤原の家庭においては兄弟の争いうは実にシビア―で「兄弟は他人の始まり」という言葉の通りであった。兄弟間でも権武術数、讒言、閨閥関係などを駆使して初めて政治権力の頂点に立てるのである。藤原家の中での権力争い(天皇に自分の娘を皇后に入れることで、もし皇子を産んでその皇子が天皇になったら外戚として人事権を握ること)を政治と言ったが、昔の自民党の派閥争いを政局と言った事に通じる。紫式部の父は為時であるが、3代前には良門の子として大臣になった高藤以来権力筋からすっかり外れていた。高藤の娘胤子は宇多天皇の子醍醐天皇を生んだ。その醍醐天皇は基経の娘穏子を皇后として、権力は師輔の家に移った。原則として天皇に皇后を入れた家系が権力を独占できる。政治とは閨閥関係である。天皇の後宮に多くの娘を入れて、確率的に皇子を生むことに期待することである。それが政治戦略である。政治権力を握れば自分の都合のよいように人事権を操作して、日本中の富を独占することが可能であった。天皇はほとんど幼少で成人する前に退位させる子とができるし、天皇の女の好みはほとんど無視できたので極端な話どんなブスでも後宮に入れることができた。後宮の女の人事権も握っている。なぜそんなバカげたことができたかというと、日本は島国で当時の技術と物資では外国の軍勢が攻めてこれなかったからである。幕末に「太平の眠りを覚ます蒸気船、たった3舶で夜も眠れず」というように、外敵が来たら日本の国制は短時間で崩壊したのである。政治とは天皇の女のことであるので、後宮に入れる女に様々な教育を施さなければならない。だから女房という名の教育係が必要であった。宮廷は日本の学問、宗教、工芸技術、文化、芸術をも独占していた。当時女の教育機関は存在しなかったので大臣家では女の家庭教師集団を雇って、専門分野ごと(和歌、習字、漢籍など)に子女に教育を授けた。これがいわゆる局サロンである。紫式部が中宮彰子のもとに出仕したのは1006年12月のことであった。彼女は学問の才媛として有名であったので最初から上臈女房として厚遇された。当時の最高権力者である道長の懇請に応じて紫式部が出仕することは、地方官吏である父為時や弟惟規にとっても何かと好都合だという考えもあったことだろう。しかし女房はさまざまな接点があって男性社会にでて行動しなければならないので、自分の学才を発揮できる晴れがましい場所であり、かつ誤って男女関係が生じやすい環境でもあった。初めて宮廷に出た時の歌が紫式部集にある。「身のうさは心のうちにしたい来ていま九重ぞ思い乱るる」 池田亀鑑・秋山虔校注 「紫式部日記」 岩波文庫に従って「紫式部日記」を読んでゆこう。「紫式部日記」の2/3ほどを占める日録(日記)は分かりやすいのだが、断片感想(この様な分類は日記にはなく、大野氏の命名である)の1/3の後半部分は注釈なしでは理解できないほど難解である。私が最初読んだときその意味は不可解であったが、いま大野氏によってはじめて理解の端緒を与えられた。つまり源氏物語の主題と密接に絡んだメモであることがわかった。物語では言い足りなかったことの本質に迫る気持ちを残しておきたかった紫式部が理解できた気がした。寛弘5年4月13日中宮彰子はお産の為に里帰り、土御門邸に入る。日録は8月中旬から始まり、翌年正月1日で終わる。そのあと「消息文」という同輩の女房の容姿に対する品評、女房集団の個性、同時代の文筆者への批評、自分の学問への反省、仏門のことが述べられる。これを大野氏は「感想」と分類し、それに日付不明を含めて7日分の補遺(断片的メモ)が挿入されて終わりになる。大野氏はこれを「断片」と呼ぶ。つまり「紫式部日記」は@日録の部、A感想の部、B断片とからなる構成であるという。まず「断片」から見てゆこう。

「断片」には7つの記事がランダムに挿入されているように見える。そこに共通する人物は道長であり、殿と呼ばれている。まず日付のはっきりしている正月1日、2日、3日、15日の話題は、正月1日道長の長男の頼通が皇子を抱き上げ、道長が主上に餅を取り次いだ儀式を見て、紫式部は「見ものなり」と感嘆の声を上げている。正月2日の記事は、道長が主上の前のお遊びで酔ったあげく。紫式部に絡んで「お前の父に主上の前で邦楽を奏しろと言ったら逃げうせた」その罰に歌を詠めという。正月3日の記事は、中務の乳母と道長の古歌の朗詠が素晴らしかったと褒めている。正月15日の記事は、局の女房たちの住居のことで、道長がきわどい冗談を言った。「几帳で分けただけの寝場所では、お互いに男が来たら困るのでは」というものである。式部の答えは「そういうこともありませんので、安心して休むことができます」と言った。最初の断片部分に戻ると、11日のこと(諸説あるが5月22日の説が有力である)は、道長土御門邸の池の中島での舟遊びの話が語られ、舟の中で紫式部が白楽天の詩を「舟のうちには老いをばかこつらむ」と詠んだところ、清少納言に親しかった信斉がそれを受けて「徐福文成誑誕多し」と次の句を口ずさんだ。紫式部は清少納言を「紫式部日記」の感想の部で手ひどく批評しているが、さすがこのエピソードを断片に残したのはよほど印象に残ったのであろう。これら断片の記事は、紫式部にとって忘れられない記憶としてとどめておきたい気持ちで、日録の部を整理するときに捨てられなかったのであろう。さらに源氏物語が彰子中宮の前にあるのを道長がみて、冗談を言いながら歌を書いた「梅の実が酸っぱいという評判がたてば、枝を折ってとらない人はいないだろう」という。「すきもの」に酸っぱいと「すきもの」をかけて、紫式部に言い寄らない男はいないということをいったものである。これは道長の紫式部へのちょっかい(ラブコール)であった。式部は「すきものとはあんまりな」と受け返しているが、まんざらでもなかったといえる。最後の断片は道長が紫式部の寝所にきて、「水鶏のように戸口を叩き続けててくたびれてしまった」と詠むと、紫式部は「戸口を開けたら後悔するに決まっています」とやり返した。堅物の学者はこれを紫式部が」道長を拒否したと主張するが、これは戯れの遊びに過ぎず、権力者道長が紫式部の寝所を訪れたら当然その前から関係はできていたと読むべきであろう。「尊卑文脈」という貴族の家系図には、紫式部は「道長妾」とあるので、二人には公然の関係があったようだ。以上「断片」とは殿(道長)という人物が紫式部にとって忘れられない記憶を書き留めたものであった。

「感想」の部では相手に足する丁寧を表明する「侍り」という助動詞を多用するので「消息文」のような文体になっている。日録の後に続く「感想」の部の概略をまとめると、
個人の論評
大臣家の娘である宰相の君、大納言の君、宣旨の君の3人の先輩女房への賛辞がきらびやかに並べ立てられている。つぎに紫式部より各上の家の娘である北野の三位、小少将の君、宮の内侍、式部の妹の4人に対して容姿から心ざままで賞賛している。小少将の君は源氏物語若菜の巻の女三の宮の描写に酷似している。同輩もしくは紫式部より格下の女房である小大輔、源式部、小兵衛小弐、宮木の侍従、五節の弁、小馬など7人の若い人の評価をしている。讃美と助言、注意が込められている。こうした人物観察が物語の各所で人物造形に役立っている。しかし見る目は最初から階級意識に貫かれているのは仕方ない限界であろうか。
斎院の中将の君批判 斎院方と中宮方の女房比較
この部分の記述は難解で注無しでは文脈を追うことも難しい。中宮方の女房と斎院方(一条天皇の定子中宮)の女房というライバル同士の分析と比較を行っている。紫式部の属する中宮方の女房達は、失敗を恐れて控え気味でまじめすぎる。男の出入りも無くそして独善的で社交的ではないようである。それは中宮の性格から来るところが大きいとされる。斎院方はあでやかに風流を解し、男の出入りもあって華やかなのだが一歩誤ると軽薄のそしりは免れないという。こうしてみると紫式部の競争心のつい勝ち気な性格が読み取れる。
和泉式部、赤染衛門、清少納言批判
紫式部が本当に論評したかったのは同時代の作家だった。和泉式部の歌は面白いが感心できぬところがある。歌は正統派のような筋は無く、口先だけですらすら読んでいるようだ。本当の歌人ではないとまで断定している。赤染衛門という歌人は腰折れの歌(上と下の歌のつながりの悪い)になりがちで、わざとらしい風流をみせるだけである。清少納言は高慢ちきな女で、些細な事に風流を言い立てる人だ。というように紫式部の同時代の歌人や風流人に対する批評は厳しい。皇后定子の女房であった清少納言は年齢的に先輩であり、当初は中宮彰子の女房よりは皇后系の方が格が上であった。宮廷で皇后定子の周りでの即妙、機敏、高尚な雰囲気は紫式部側のかなわないところであった。だから紫式部は殿道長と同じように激しい闘志を燃やしたのであろう。伊周が謀略で失脚した時以来定子皇后系の勢力は次第に没落していったが、清少納言は「枕草子」で泣き言は一つも述べていない。
紫式部自身のこと 内省
本文74から78ページにかけて難解な文章で、中年になった紫式部のわびしい内面生活が語られている。まるで徒然草の序文のような心境である。人は色々なのだからものいうのも無駄であるとまで云うのである。そのくせ自分を見る他人の目をしきりに気にして、「おいらけもの」と言われたくないといい、ありたい女の姿を模索している。仏道のこと手紙の書き方について考えをめぐらしている。紫式部は中宮彰子の白氏文集、楽府の書物の進講をしたが、左衛門の内侍と云う女房は、一条天皇が紫式部の漢籍の才を評して「源氏物語を読むよりは日本紀を読むべきだ」という話をあげ「日本紀の局」というあだ名をつけたと反論している。紫式部からは学を振り回す厭な女だと嫌われたようだ。

順序は逆だが、「日録」の概要を示す。
寛弘5年8月中旬 土御門邸での中宮彰子安産祈願仏事
一条天皇の中宮彰子(一条天皇は藤原の道隆の女定子を皇后として親王敦庚親王があった)は第二子懐妊(第一子は敦成親王)で、実家の藤原道長の土御門邸に、7月17日から里帰りしていた。物語は8月中旬の暑い都から始まる。土御門邸では中宮彰子の安産を祈願したさまざまな仏事が執り行われていた。邸には数十人の僧が常在していて朝6時から御修法が執り行われ、読経の声の絶えることがなかった。彰子付きの女房や道長の影響下にある公達が邸に屯していた。
8月20日余り 土御門邸での管弦の遊び
上達部、殿上人らが宿直しながら暇を持て遊んで管弦の遊びに興じた。
8月26日 薫物
邸ではその日煉香を調合して人々に配った。弁の宰相豊子が自分の控え部屋にもどって机にうつぶせて昼寝をしている姿はなまめかしかった。
9月9日 重陽の節
道長の北の方倫子より紫式部に菊の綿が下賜された。式部は歌を添えて返そうとしたが、倫子がいなかったので沙汰止みとなった。その夜は中宮彰子の御前に仕えたが、小少将の君、大納言の君(女房)がお傍に控えていた。中宮の気分が優れなかったので加持僧が呼ばれて騒がしくなった。
9月10日 中宮産気付く
中宮は居室の東の対から出て神殿に移られた。お産が近づいたようだ。君達らが騒いで御帳などをしつらえた。都中の僧、験者、陰陽師らが集められ、夜通し僧を呼ぶ使いが出された。中宮の御帳の東には天皇付きの女房が、西には物の怪を移らせる人と験者ら、南には高僧が群れ集まった。北の障子の狭いところに道長邸の40人ほどの人がひしめきあって、中に入れない人は袖で見守った。
9月11日 安産祈祷、皇太子出産
11日の暁には興福寺管主、東寺別当などが加持をし、無事出産の願書を書いた。仁和寺、三井寺の高僧らは中宮の御髪を少し切って受戒の真似事をした。お産のうめき声は物の怪の仕業と云うことで阿闍利が怪を移す験をおこなった。11日の昼無事男子出産となった。父道長の喜ぶ事なのめならず、僧、験者、医師、陰陽師には手厚い布施を与えられた。御湯殿の儀式が執り行われた。御佩刀は頭中将頼定が、臍の緒を切るのは道長の北の方、御乳付けは橘の三位徳子、御湯殿の儀は午後6時から宰相の君、御むかえ湯は大納言の君簾子が執り行った。読書の儀は文よむ博士弁広業、形式ばかりの夜さりの後湯殿の儀がおこなわれた。その時の女房の服装は穢れ無き白と決まっている。上級女房は色を許されている。
9月13日 3日御産養の儀
天皇からの使い源中納言、藤宰相が衣、おしめ、帷子、食器など白い物を納めた箱を持参した。
9月15日 5日御産養の儀
道長主催の御産養の儀がおこなわれた。かがり火をたいて下使いの者に食を供した。皆は晴れがましい得意顔である。御膳まいりに中宮の女房七人が白装束で奉仕した。白衣に髪上げの姿は艶できよらかであった。儀式の日に天皇に供する威儀の御膳は女官采女ら(水司、殿司、掃司)が奉仕した。御膳まいりが終わって御簾の下に集まった道長の女房(大式部、大輔の命婦、弁の内侍、少将のおもと)の衣裳の美しかったこと。宴の遊興には公達部らは双六、女房らは歌遊びであった。
9月16日 秋の舟遊び
翌日の夜は月が美しいので、道長の次男教道が舟を出し中将兼隆が棹をさして公達部らは舟あそびとなった。主上付きの女房藤三位らもあつまった。道長は多くの人に贈り物をして大満悦のご様子であった。
9月17日 お七夜の儀 公けの御産養の儀
主上より蔵人の少将道雅を使いにして、御下賜品が贈られ、勧学院(藤原家の子息の学問所)の学生たちによる行進「勧学の歩み」も披露された。中宮は御簾の中で少しお疲れの様子だったが麗しく、主上と中宮からの贈り物が女房に与えられた。
9月18日 女房お召替え
この日は親王誕生から7日が過ぎたので、白一色から色物に着替える日となった。
9月19日 春宮の権(頼道)参上
親王の責任者である春宮の権の大夫(道長の長男頼通)の就任挨拶の儀があった。人々は濃い打ち衣をかけ艶めかしく見えた。
10月10日余り 行幸の受け入れ準備
中宮はまだ御簾の中におられ、西の居室から出られないようすである。若宮の様子も世話をする女房におしっこを引っ掛けるなど、健やかにおられる。道長は紫式部の嫁ぎ先をある宮家の縁者にと考えられておられる様子であった。天皇の行幸が近くなったので土御門家では家を綺麗にしたり、庭に草木を植えるなど準備にはいって忙しい様子である。珍しい菊を植えるにつけても自分の年をとったことを憂しと思う紫式部の今日この頃であった。
10月16日 一条天皇土御門邸に行幸
今日の行幸のために作った池遊びの船が出来上がった。行幸は少し遅れてが上達部は西の対に控えてお待ちした。天皇到着を告げる楽人の鉦がなって主上の御車を迎えた。御帳の西に御座をしつらえ椅子を立てた。天皇付きの女官、左衛門の内侍橘隆子が御佩刀をとり、弁の内侍は御璽の箱を持った。二人の衣裳は華やかで清げであった。いたるところで紫式部の女官の衣裳や立ち居振る舞いへの観察眼はするどい。その目は中宮女房から主上付き女官にも及んでいる。道長が親王を抱いて天皇の前に出た。道長の北の方が抱き取った時泣かれたが、こうして天皇と親王の対面の儀式は終わった。御前で宴が催され、万歳楽、太平楽、賀殿などが舞われた。そして親王誕生を賀して右大臣が加階の名簿を作成し、道長家の公達の多くは昇進した。又別の朝に親王の初剃の儀が行われ、親王家の人事が定まった。藤原実成が加階のお礼に中宮に挨拶にあがった。道長家のはなやぐ隆運はかくのごときであった。
11月1日 50日の食膳の儀
50日の食膳の儀がおこなわれ、まかないの儀は宰相の君讃岐、若宮のまかないは大納言の君、弁の内侍中務の命婦、小中将の君が担当した。中宮主催の宴会が催された。そこには道長家につながる公達部が全員参加した。宴会は乱れに乱れまさに「満月の欠けたることもない」藤原摂関家のこの世を謳歌した様であった。紫式部がどういう名前で呼ばれていたのかは不詳であるが、この宴会で左衛門の督より戯れに「わかむらさき」とよばれたので、紫の式部という名が立った様である。源氏物語の作者と云うことから来るあくまで愛称である。紫式部は中宮彰子のために源氏物語の写本と本作りに時間を注いだようである。そして暫く実家に里帰りをした紫式部は雪景色を見ては反省の日々を送っていた。交友関係は多いとはいえないし、大の仲良しは大納言の君でいつも二人でいるので、道長は「男が訪問してもどちらに来たのかわからぬ」とからかった。
11月17日 中宮の内裏帰還
彰子中宮は内裏に帰還された。中宮つきの女房十余人、総30人で内裏に入られた。中宮の車には宮の宣旨と云う女房が添乗した。道長の北の方が親王を抱いて次の車に乗られた。次々と相乗りで女房らが乗り込んだが、相乗りの相手が好ましくないと思う人もいて色々争いがあったようだ。小少将の君と火鉢を囲んで式部はしみじみと語り合ったが、小少将の君の幸い少ない身の上話に憐れをおぼえる式部であった。お別れに際して道長から中宮への贈り物は古今、後撰集など歌集であった。
11月20日 五節の舞姫の儀
五節の舞姫は11月20日に行われる新嘗祭大嘗祭の夜に行われる少女舞で、主上が御節殿でご覧になった。侍従の藤原実成が舞いの装束をあずかり、業遠朝臣が舞い姫の介添えをした。余りに明るく火がたかれるので、女房達も見通されて恥ずかしかったと述べられている。
11月21日 舞姫御前の試み
翌日は中宮が清涼殿で舞姫をご覧になった。
11月22日 童女御覧儀
清涼殿で舞い姫の介添えをした童女御覧の儀があった。この童女らは貴族や役人の娘でその服装やしぐさに紫式部の観察が記述されている。
11月24日 五節のおわり 豊明節会
主上が新穀を食し群臣にも賜る儀式である豊明節会でもって五節会は終わる。急に淋しく思われる。
11月28日 賀茂臨時祭
賀茂臨時祭は権の中将藤原教通が使いとなった。随身は教通と公季である。
12月29日 紫式部宮仕え五年経過 12月29日は紫式部が中宮彰子に仕えて五年ちなる思いで深い日であると云う感慨がさらっと述べられている。
12月30日 大晦日 追儺
追儺の行事も終わって部屋で女房どもがくつろいでいると、悲鳴が聞こえるので内侍の君、内匠の君の3人で駆けつけると、なんと靱負、小兵衛の二人が身包みはがされて裸で泣いているではないか。恐らく警護の隙を狙って強盗が内裏に入ったのであろう。とんだ椿事である。
寛弘6年1月1、2,3日 御載餅儀
1日は坎日(忌日)なので御載餅の儀は中止。3日は若君が清涼殿に上がった。ここでまかないをした女房大納言の君の2日、3日の装束が記載されている。そして主上つきの三人の女房、宰相の君、大納言の君、宣旨の君の性格やスタイル・印象などが縷々観察されている。さらに筆は宰相の君、小少将の君、宮の内侍、式部のおもと、小大輔、源式部、小兵衛小貳、宮木の侍従、五節の弁、小馬という女房らの性格分析やスタイル・挙動などに委しく観察が及んでいる。女ならではの観察眼で大変興味が持たれる記述の部分(6ページ)である。

ここで大野氏は、日録の表現に見る紫式部の感情の起伏を分析する。形容詞と形容動詞を中心に感情の動きを見て陰と陽に分類してゆく。すると10月16日を境に感情が陰から様に基調トーンが切り替わるという。むろん10月16日以降でもはなやかな儀式における讃美や驚嘆の言葉はでてくるのであるが、たしかに前半は彰子中宮の皇子誕生に伴う道長家のお祝い事が続くなかで、紫式部が大臣家に同体化し、共に喜ぼうとする意識が顕著であり、彼女の優越感も露骨に表れている。讃美、信頼感、好意、喜び、幸福感、満足、優越感などの感情表現である。ところが10月16日の天皇の土御門家行幸あたりから、苦痛、不満、批判的、不快、嫌悪、劣等感、不安、違和感、孤独感、不愉快、憂鬱、皮肉、冷笑、倦怠、同情、不信、自己嫌悪、悲傷、悲哀の感情が基調となってくる。11月に入るとn自分を「物の数ではない存在」といい、他人ごとに対して同情の目が注がれるようになる。前半では下賤の者に対しては優越感をもって接していたのが、後半では弱者ン対する同情を露わにする。つまり自分も弱い立場にいる人間だということがはっきりわかったようである。これは10月16日天皇行幸があり親王宣下のあった日に、「藤原ながら門分かれたるは列にも立ちたまはざりける」という、現実の差別を突き付けられたからであろう。栄光の頂点にいるのは道長一門のみであり、自分の父為時や弟は門外の遠戚にあたるのでその祝いに席に招かれもしないことの悲哀を味わったのであろう。宮仕えという環境に対する違和感が再び前面にでてきた。11月17日中宮の内裏帰還に従った紫式部は親友の小少将と同室で身のわびしさをかこっている。厚ぼったい着物を着て火鉢に手をかざしながら「世のあるべき人の数のうちだとは思っていないが、今はただ恥や苦しさを味わう我身である」と愚痴をこぼしている。女房仲間との交際もしてこなかったためか、最近は孤独感にさいなまれているという。(これは精神病理からすると、紫式部は騒と鬱の落差の大きい人だったようだ) 人間不信から自己嫌悪に陥り「はっきりと目に見えてあさましいものは人間の心である」という。上に書いたように「断片」の歌の交換に見たように、道長と紫式部にただならぬ関係で10月16日までは信頼感と共通の喜びに包まれていたが、道長の態度に異変がみられるのは、11月1日の王子誕生50日のお祝いの狼藉の宴においてである。藤原実資とか源氏物語に熱心な藤原公任が「若紫はどちら」と言って話しかけてきた。おそらく道長はそれを見ていたのであろう。狼藉の席から逃げてきた紫式部と宰相の君が隠れていた几帳を道長が取り払って、酔っぱらった言葉遣いで歌を詠めとからんできた。道長は紫式部がほかの男と親しく話をしているのに焼きもちを焼いたのか、機嫌が悪かったのか急に紫式部に意地悪く当たった。また11月10日ごろ、中宮彰子の局で源氏物語の原稿を清書し編集していた紫式部に対して。道長はお産後の中宮がこんな寒い部屋で何をしているのですかとやってきて、硯や紙、墨を中宮に与えた。そして編集なった源氏物語を道長はこっそり盗んで言って、娘の妍子の与えた。そうした時期に具平親王の娘隆姫と道長の長男頼通の縁談が持ち上がり、紫式部の父為時が具平親王の家司をしてたので、道長は紫式部を打診に使おうとして相談があった。政略結婚として当時では当たり前の戦術であった。が紫式部は「・・・語らわせ給うも、まことは心のうちは思いいたること多かり」といって口を濁した。紫式部が見せたためらい逡巡を道長は見逃さなかった。そして紫式部を道長陣営から外したのである。道長は彼女の父為時を無能な人間と軽蔑しているようであり、彼女を重要な計らいの中に入れることをあきらめた。こうして紫式部日記は道長との接近と乖離である。常識と運命に従って生きるより、「女として学問の自分を見極める」ことに傾いたのである。常識的には身の破滅につながる危険な選択であった。10月16日を境に、道長との疎隔が決定的になった。そこから一時紫式部は実家に戻って内省の日々を送ったらしい。彼女は一気に、違和感、劣等感、惑乱、恐怖の世界に追い込まれ、不安と不足と不満の生活に転落した。紫式部日記のほとんどは道長が主人公であり、道長と紫式部の距離を記述している。そういう意味では「蜻蛉日記」の世界でもある。


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