文藝散歩 

 中世日記文学

   岩波文庫より


土左日記 和泉式部日記 紫式部日記 更級日記 十六夜日記 


源氏物語に代表される王朝文学のかたわら、私小説のような日記文学がひっそりと花咲いていた。土左日記 蜻蛉日記 和泉式部日記 紫式部日記 更級日記 讃岐典侍日記 十六夜日記である。その中より岩波文庫版になっている土左日記 和泉式部日記 紫式部日記 更級日記 十六夜日記を読み直して王朝文化すなわち和歌の世界を散歩してみよう。この王朝文化は平安時代に絶頂期を迎えたが、鎌倉時代には天皇・公家階級が政治・経済的に没落したが、まだ鎌倉時代には和歌の精神は根強く生きていた。王朝文化の黄昏期である。南北朝以降になると都は戦乱で荒廃し公家階級は文化的にも生気を失った。和歌を基礎とする王朝文化は衰微期となり、戦国時代には完全に死滅した。この五編の短い日記集には共通するテーマらしきものはないが、日本語が確立してから日本語で自分の心情を吐露する日記文学はさだめし明治・大正時代の私小説の魁であったと思われる。


土左日記

本論に入る前に土左日記の作者紀貫之の略年譜を示しておこう。
868      この頃に生まれたとされる
893(26歳) 「新撰万葉集」に作品が採られる
901(34歳) 本庚親王70歳の賀の屏風歌を作る 長い人生で頻繁に公家に求められて屏風歌を作った 以降は記さない
905(38歳) 「古今和歌集」撰の勅を奉じる
907(40歳) 内膳典膳となる
910(43歳) 少内記となる
917(50歳) 従五位下 加賀介になる 翌年美濃介になる
923(56歳) 大監物となる
930(63歳) 土佐守となる
934(67歳) 土佐守を免じられ帰京 12月21日土佐を出発 翌年2月16日京に着く
940(73歳) 玄蕃頭になる
945(79歳) 木工権頭になる 10月逝去
今日一般にはと記されるが、古い蔵本は「土左日記」と書いて「とさにき」と読んだ。書名の意味は土佐国を離れて京に入るまでの55日の日記である。起筆の中心は土佐の国で、土佐で亡くした女児への追憶と京の3要素が土左日記の成立の基盤である。著者は紀貫之で女性に仮託して書いたものと確信される。略年譜にも書いたように歌人としての紀貫之の活躍は、「古今集」に102首、「後撰集」に78首、「拾遺集」に109首、「新古今集」以下に162首で、総計451首、さらに「貫之家集」を検すれ「土佐日記」ば880余首となる。当時の歌道の宗匠として活躍した。また散文家としてこの「土左日記」で仮名文学、日記文学の先鞭を付けた功績は大きい。本文を読めば紀貫之の人柄は律儀・至誠の人で、諧謔も愛した寛容を是とする老熟の風格があることがわかる。

動機と意図
「土左日記」は承平四年(934)12月21日国司の館を出発し、翌年2月16日帰洛して自邸に入るまでの海路を中心とした55日間の日記である。1日の記述も省かないで日記風にし、それを女性の筆に仮託したものである。仮託といっても言い訳程度で、中身は明らかに国司であった紀貫之の身辺である。嘘は直ぐばれているのである。日記には69首の歌を用いて、歌論的な評論も交えた伝統的和歌を尊重する信念を吐露する。あきらかに文芸的日記創作の意図が見えてくる。本当にこれが日記なら、もっと一日の心の移り変わりを綿々と述べなければ態をなさないが、いかにもあっさりと殆ど切り捨てている。日記の形を取った和歌中心の道行文芸(歌枕旅行)に近い。叙述に戯曲的構成を入れて緩急、長短をおりまぜ飽きさせないように簡潔すぎるくらいの構成である。そして目的は和歌の宣揚にあるのではないかと思われる。唯一情緒的なドラマは、亡き子を忍ぶ親の気持ちが随所にちりばめられリアリティを醸し出している。これは文芸的に成功している。任期を終えた国司が都に戻る道中の日程的なことはやはり実録メモが働いている。当時の沿岸航行技術の程が知られて面白い。船を綱で引っ張るのは運河ではあるが、海ではありえない。多少不自然な記述があるようだ。
文藝史的意義
日記は航行メモを便りにした紀行的素材と亡き子を忍ぶ内面的素材、人々に対する著者の感慨や価値観などを織り交ぜて構成されている。「土佐日記」の貫之の精神は、和歌や日本文化尊重の精神であり、人間尊重の精神であろう。航行生活日誌と云う制約に阻まれてか、内容の深みがいまいちで軽く流れているのが欠点といえば欠点であろう。その文藝史的意義はやはり言い古されたことであるが、仮名文の使用、和歌を入れた散文(歌物語)、題材が宮廷から個人の生活を描くこと、戯曲的効果を意識して作られていることなどが、後の世代に先鞭を付けた意義は大きい。

「土左日記」の内容について、思いつくままに感想を述べる。12月21日土佐の官舎を門出する。26日までは河の途中の大津という場所で歓送会攻めにあっている。27日に河口の浦戸につくも餞の宴を受けたようだ。28日浦戸から大湊に着いたらまた餞を受けた。大湊には風の止むのを待って翌年の9日まで10日間逗留した。旧暦では12月は29日までしかないことを知った。元日の行事「歯固」はできなかったが、歓送の宴続きでお礼もしなければならず、貫之はいい加減うんざりだと漏らしている。9日ようやく舟が出せて多くの人の見送りをえて奈半の泊に着く。見送りの人々に感謝の気持ちを表している。貫之夫婦は船酔いでものも食べられない状態であった。11日奈半の泊より室津へ向って出港する。室戸岬近くにある羽根と云うところを見て羽が生えたように早く京に帰りたいと云う気持ちと亡き子を偲ぶ歌が2首添えられる。室津で10日間逗留する。15日の小豆粥の行事も出来なかったようだ。20日には指折り数える指も疲れたと愚痴が出るように、雨風に阻まれた長逗留に嫌気がさしていた。21日ようやく室津を出て泊(日記では名は出さないが、考証では土佐と阿波の国境、穴喰となっている)につく。翌22日泊に着く(日記で名は出ないが、阿波の国日和佐となっている)。日和佐で4泊留まる。船長はしきりに海賊を恐れて船を出さない。26日夜、海賊は夜は出ないというので出港した。追い風で船長が得意がる。日記には名は出ないが富岡について3泊した。29日出港し鳴門の土佐の泊に着く。30日阿波の水門を渡り、淡路島の南を航行して和泉の灘に着く。2月1日和泉の灘を出て黒埼、箱浦を横目に見ながら和歌を2首歌った。和泉で4日逗留する。それほど悪い天候でもないのに船が出ないのは船長が馬鹿だからだと貫之は非難する。5日和泉を出て小津、石津、住吉を見ながら和歌を作る歌枕の旅である。そして難波のに着く。6日澪標を出て淀川に入り、川尻に着く。一日の行程にしては短すぎる。何故川尻に泊まったのか。恐らく都へ連絡と待機のためではないか。7日川尻を出て漕ぎ上ると川の水位が低くて船が進まないと云うトラブルに難渋した。2月では雨も降らず水位が下がっていたようだ。8日鳥飼の御牧で停船する。貫之持病が起って難儀していた。9日水位が低くて船が進まないが、わだの泊で食事を乞われたようだ。誰に施したかは不明。渚の院と云うところは在原業平が歌を詠んだところなので,歌枕の旅では2首詠む。子供を偲ぶ歌1首を加える。10日ものいみのため移動せず。11日八幡宮をへて山崎に着く。山崎で舟を降り、5泊している。都への連絡と車をとりにやるためである。服装なども着替えたのか。15日車がきたので、舟の荷物をつぎ込んだ。16日山崎の町を眺めながら、島坂と云うところで饗宴をうける。行くときよりは来る時は人は好意を寄せてくれるらしい。現金な人情を垣間見る。桂川沿いに都に入る。自邸に入ってみると、隣の人に預けておいた屋敷はぼろぼろに破れていた。伝がある時はいつも物を贈っていたのにと愚痴も出るが、そこは御礼はしなくてはいけないと貫之は考えた。子供をつれて帰れなかった口惜しさもひとしおであった。と云うような内容である。たいした内容ではないが、ところどころ貫之の心情が滲ませてあるところが奥ゆかしいというべきか。


和泉式部日記 

和泉式部日記とは平安時代中期1003年4月から1004年1月までの和泉式部の日記である。明確な日付けごとに書いたいわゆる「日記」風ではない。和泉式部の恋人師の宮の逝去によって、失意の彼女が追悼のために書いた「愛の記憶」である。和泉式部は「後拾遺和歌集」に有名な歌がある。「ものおもえば沢の蛍もわが身よりあくがれいずる魂かとぞみる」 永遠の恋多き女性和泉式部の姿をよく表した歌と評される。

式部の父は大江雅致、母は平保衡の女といわれる。大江雅致は冷泉皇后昌子内親王の「大進」となり、1010木工頭から越前守に任じられた。母の方も昌子内親王の介内侍と呼ばれた。昌子内親王は関白藤原道長の妹であり、冷泉天皇との間に弾正の宮(為尊親王)と太宰師の宮(敦道親王)を生んだ。和泉式部も昌子内親王の女房をしていたので、大江雅致一家は政治的には関白藤原道長の勢力内で生活をしていたようだ。この女房時代に和泉守橘道貞と結婚した。この道貞は道長に重用され陸奥の守にまでなった人物であった。この間に小式部(歌人として有名)を生んだ。結婚後は夫道貞の任地和泉にも下らず実家にとどまって別居していたようだ。昌子内親王の女房をしていた和泉式部は色好みの遊び人弾正の宮為尊親王(太宰師の宮の4歳上の兄)と親しくなった。しかし1002年弾正の宮為尊親王は26歳で亡くなられた。そして1003年4月頃から弟の太宰師の宮敦道親王の愛を受け入れれた。そのいきさつがご都合主義である「薫る香によそふるよりは時鳥聞かばや同じ声やしたると」が、実はこの兄弟は美貌の冷泉皇后超子の血をひいて美ししく、かつ師の宮敦道親王は最も和歌の雅な天分に恵まれていたので、和泉式部にとってはかねてからのあこがれの親王であったと思われる。宮においては身分としては不釣合いで周囲から猛反対を受けるだが、惚れやすい和泉式部の性質と美貌才媛に首っ丈になったようである。しばらく逢引生活が続いたが、和泉式部の脆弱な性格は他の男性を拒み得ない状態で悪い噂が耐えないので、宮は式部を自邸の南院に入れた。そのため宮の正室(北の方)はいたたまれず実家に戻ってしまわれた。こうして和泉式部と師の宮敦道親王の愛の生活が5年続いたが、1008年宮は27歳の短命で一生を終えられた。前の恋人で兄の弾正の宮為尊親王は26歳でなくなられ、次の最愛の恋人弟の師の宮敦道親王も27歳でなくなられたのは和泉式部にとって何か運命のようでもあった。師の宮の薨去は式部にとってほとんど致命的であった。宮への哀悼歌は「和泉式部続集」に綿綿と120余首が載せられている。師の宮の薨去後一年の喪に服して、娘小式部とともに一条中宮彰子(藤原道長の娘)の女房となった。すでに彰子中宮のもとには紫式部や伊勢大輔が古参として奉仕していた。中宮の女房になって1010年道長の家司藤原保昌に再嫁した。保昌が丹後守に任じられた時式部も丹後に下った。小式部の歌「大江山生野の道の遠ければまだふみもみず天の橋立」もこの頃のものである。藤原保昌との関係は余り感激の伴わないものだったらしくついに離婚した。娘小式部は1025年産後をわずらって母より先立った。

「和泉式部日記」は、恋人師の宮を追慕して失意の和泉式部が書いた「愛の記憶」であることは間違いない。その材料は手元に保管されていた宮との間の贈答歌や手紙の類であっただろう。日記の構成は贈答歌を中心にして並べてゆき、前後の感情やいきさつを添えれば出来上がるのであるとは。宮の自邸に入るまでの10ヶ月の愛の記録である。「日記」にはいる歌の最後は「呉竹の世世の古言おもほゆる昔語りはわれのみやせん」と云うような「師の宮の死」の予感が述べられているので、これは後から装飾したものであろう。愛の絶頂期に刹那的な女が考えるとは思えない。師の宮との愛の交換日誌を書こうとする思いは在世中からあったと思うのは思いすぎであろう。師の宮の喪失が宮の映像を永遠なものに昇華すると云う意識が見える。「明けぬ夜の闇から闇へ辿らざるを得ない」式部の情念世界の抽象化であろうか。恋は夢としりながら、その瞬間の真実しか魂をゆさぶるものはないとする刹那主義に生きた女である。それほど和泉式部にとって師の宮は現世における理想的な男性であったのだろう。したがって宮の死は式部を絶望に陥れた事は事実である。しかし和泉式部は尼にもならず、自殺もしなかった。再婚もしているのである。この辺の事実は和泉式部は観念的なラブストーリにはならない生身の女であったことをしめす。

「和泉式部日記」は1003年4月から1004年1月までの間の和泉式部と恋人師の宮との恋歌集である。和泉式部が恋人師の宮の正妻を追い出して宮の屋敷に入る時でもって恋愛期間は終了して恋文の交換も終わる。この10ヶ月余りの期間の「和泉式部日記」には140首余りの和歌が挿入されて(歌が挿入されていると云うより、歌と歌の間を地下の文が挿入されていると云うべきか)いる。そのうち102首(51対)が相聞歌(贈答歌)の形式である。愛の贈答歌とは、男が女の家に行く前に歌を届けさせて女に準備させる。それに対して女が恋焦がれて待っていると云う内容の返歌を返す。これを往路の贈答歌と勝手に言っておこう。そして翌朝男が帰った後、使いを出して女の元に愛を確認する歌を届ける。そして女も返歌を答えるのである。これを復路の贈答歌と言っておこう。(江戸時代の遊郭でもこの風習は残っていて、復路の手紙のことを返しといった)男が一度女の家を訪れば計4つの歌が生まれるはずである。この往路の贈答歌に和泉式部の場合は女のほうから誘いの歌を贈ることがある。和泉式部日記には25回の訪問があったのだがそのうち11回は和泉式部のほうから誘いをかけている。恋の道には積極的な女であったようだ。愛の贈答歌とは、いずれにしても男女の痴話に過ぎない。それ以上でもそれ以下でもない。それにしても愛を語らうとは平安時代の貴族階級では歌なしでは考えられなかったようだ。歌の教養は絶妙の愛のテクニックであった。容姿や顔の事を書いた形跡はないが、二人とも絶世の美男美女であったと云うことにしておこう。「和泉式部日記」(岩波文庫版)本分83ページより、この贈答歌(往路)の一例を示す。
男 師の宮   「うたがはじなほうらみじと思うともに心かなはざりけり」
女 和泉式部 「うらむらむは絶ゆな限りなく頼む君をぞわれもうたがふ
贈答歌の特徴は、相手の言葉をうけて(この場合はうたがううらむ)同じ言葉を繰り返すことにある。言葉の共有が基本であり、同じような世界観・価値観の共有である。これが共通の情景の記憶になり、二人の間に愛の記憶がはぐくまれるのである。


紫式部日記 

「紫式部日記」は宮廷の女房のファッション雑誌かと思うほど、女房の衣裳や容姿に関する記述が多い。平安時代の宮廷に仕える女房の衣裳をイメージするために、上の図に一例を示す。そして岩波文庫「紫式部日記」50ページに正月3が日の女房の記述があるので紹介する。「三日は、唐綾の桜重ね、紅梅の織物、唐衣は蘇枋の織物。掻練は濃きを着る日は紅はなかに、紅を着る日は濃きはなかになど、例のことなり。萌黄、蘇枋、山吹の濃き薄き、紅梅 薄色など、つねの色々をひとたびに六つばかりと、表着とぞ、いとさまよきほどにさぶらふ」

この「紫式部日記」は、紫式部が一条天皇の中宮彰子に仕えた期間のうち、寛弘五年(1008年)7月から約1年半にわたる宮仕えの記録であるとされる。実家藤原道長邸での彰子中宮の出産、正月の節会など内裏の儀式・宴会・女房の衣裳・人間関係などを紫式部の感覚を通して語られる。源氏物語の作家の内面生活をうかがい知る上から貴重な文章である。生没年は未詳。寛弘5(1008)年が30歳くらいであったらしいので、逆算して天元元(978)年誕生、長和4年(1015)年頃没と推定される。紫式部の本名は未詳。宮仕えの頃は「藤式部」とも呼ばれた。「紫式部」の名は、『源氏物語』で「紫の上」を描いたことに関連があるようで、藤原公任に「わか紫やさぶらふ」と問われたこともある。「式部」、父や兄が式部丞であったことから名づけられたらしい。家系は藤原為時の娘で、家系は藤原冬嗣の流れをくむ名門であるが、本流からはずれた受領階級であった。しかし、曾祖父の兼輔をはじめ、勅撰和歌集の歌人や、有名な学者が多く出た家系であった。縁者の中には、『蜻蛉日記』の作者である藤原道綱母や『更級日記』の作者である菅原孝標女もいる。このように、紫式部は文芸・学問に恵まれた環境の中に成長した。幼くして母を失ったが、父から漢学・音楽・和歌の教えを受けた。22歳の頃、藤原宣孝と結婚し、一女(賢子=大弐三位)を生んだが二年後夫は没した。『源氏物語』は夫の死後書き始められたらしい。寛弘4年頃中宮彰子に出仕し、翌5年には物語の大部分が完成していたらしい。晩年のことは未詳である。

この「紫式部日記」を通読して、時系列の構成でおかしいと思うところがある。岩波文庫本の本文の3/4は一条天皇の中宮彰子がお産のために実家道長邸に(土御門邸)里帰りした寛弘5年(1008年)7月から始まって、翌6年正月3が日の約半年間の日記風記述である。親王誕生後のさまざまな儀式、宮廷での儀式、それに参列する殿上人や女房らの人間模様を描いている。特に女房の衣裳や容姿の描写がとくに繊細な感覚で記述されているのが特徴的である。さすが女性の筆だなと云う感がした。そして同僚やライバルの女房達の人物評や宮仕えの女房のあり方、自省の文などは紫式部の内面を語って興味深い。さて問題は本分最後の8ページである。時期不明の御堂参りと舟遊びの記事および紫式部が男の訪問を拒否する下りはどうもとんでもないところに挿入されたようだ。日記風の記事はが最期である。そのあと1年ほど記事はなく84ページに再度正月1日から3日の御載餅の儀の記事が出てくるところもおかしい。これを校注者は寛弘7年正月の記事としているが理解できない。これは寛弘6年1日から3日の御載餅の儀の記事の補ではないだろうか。記事の内容が寛弘6年には女房の衣裳について詳述しているのに対して最期の正月の記事は殿上人の記載である。これはおなじ時期ではないか。メモが混入したともいえる。一つの文章にまとめるつもりの二つの文章が分れて存在し、のちに混入したと思われる。したがって「紫式部日記」は寛弘5年(1008年)7月から始まって、翌6年正月3が日の約半年間の日記風記述である。82ページから90ページの記事は不要であるか、または時系列に整理されていないメモが混入したものであろうか。

「紫式部日記」の特徴をみると、和歌の数が本分の長さにくらべて少ない。僅か15首ほどに過ぎない。しかも紫式部の作と思われ和歌はないに等しい。「和泉式部日記」の140首の歌物語と較べて「紫式部日記」は歌に重点を置いた日記ではない。「紫式部日記」の特徴は紫式部の「源氏物語」と同様に、文章が難解であると云うことである。主語がわかりにくい事、文脈がくねくねまがっていてストレートな理解を求める人やお急ぎの人には誤解されやすいように出来ている。私の理解力では作者の内面を語っている部分は注がないとお手上げである。「源氏物語」を読まれて苦労された方なら同じような難解さには閉口するであろう。「古文」が嫌いなる事請け合いの文章である。

さて「紫式部日記」を初めから時系列の記事でたどってゆこう。
寛弘5年8月中旬 土御門邸での中宮彰子安産祈願仏事

一条天皇の中宮彰子(一条天皇は藤原の道隆の女定子を皇后として親王敦庚親王があった)は第二子懐妊(第一子は敦成親王)で、実家の藤原道長の土御門邸に、7月17日から里帰りしていた。物語は8月中旬の暑い都から始まる。土御門邸では中宮彰子の安産を祈願したさまざまな仏事が執り行われていた。邸には数十人の僧が常在していて朝6時から御修法が執り行われ、読経の声の絶えることがなかった。彰子付きの女房や道長の影響下にある公達が邸に屯していた。

8月20日余り 土御門邸での管弦の遊び

上達部、殿上人らが宿直しながら暇を持て遊んで管弦の遊びに興じた。

8月26日 薫物

邸ではその日煉香を調合して人々に配った。弁の宰相豊子が自分の控え部屋にもどって机にうつぶせて昼寝をしている姿はなまめかしかった。

9月9日 重陽の節

道長の北の方倫子より紫式部に菊の綿が下賜された。式部は歌を添えて返そうとしたが、倫子がいなかったので沙汰止みとなった。その夜は中宮彰子の御前に仕えたが、小少将の君、大納言の君(女房)がお傍に控えていた。中宮の気分が優れなかったので加持僧が呼ばれて騒がしくなった。

9月10日 中宮産気付く

中宮は居室の東の対から出て神殿に移られた。お産が近づいたようだ。君達らが騒いで御帳などをしつらえた。都中の僧、験者、陰陽師らが集められ、夜通し僧を呼ぶ使いが出された。中宮の御帳の東には天皇付きの女房が、西には物の怪を移らせる人と験者ら、南には高僧が群れ集まった。北の障子の狭いところに道長邸の40人ほどの人がひしめきあって、中に入れない人は袖で見守った。

9月11日 安産祈祷、皇太子出産

11日の暁には興福寺管主、東寺別当などが加持をし、無事出産の願書を書いた。仁和寺、三井寺の高僧らは中宮の御髪を少し切って受戒の真似事をした。お産のうめき声は物の怪の仕業と云うことで阿闍利が怪を移す験をおこなった。11日の昼無事男子出産となった。父道長の喜ぶ事なのめならず、僧、験者、医師、陰陽師には手厚い布施を与えられた。御湯殿の儀式が執り行われた。御佩刀は頭中将頼定が、臍の緒を切るのは道長の北の方、御乳付けは橘の三位徳子、御湯殿の儀は午後6時から宰相の君、御むかえ湯は大納言の君簾子が執り行った。読書の儀は文よむ博士弁広業、形式ばかりの夜さりの後湯殿の儀がおこなわれた。その時の女房の服装は穢れ無き白と決まっている。上級女房は色を許されている。

9月13日 3日御産養の儀

天皇からの使い源中納言、藤宰相が衣、おしめ、帷子、食器など白い物を納めた箱を持参した。

9月15日 5日御産養の儀

道長主催の御産養の儀がおこなわれた。かがり火をたいて下使いの者に食を供した。皆は晴れがましい得意顔である。御膳まいりに中宮の女房七人が白装束で奉仕した。白衣に髪上げの姿は艶できよらかであった。儀式の日に天皇に供する威儀の御膳は女官采女ら(水司、殿司、掃司)が奉仕した。御膳まいりが終わって御簾の下に集まった道長の女房(大式部、大輔の命婦、弁の内侍、少将のおもと)の衣裳の美しかったこと。宴の遊興には公達部らは双六、女房らは歌遊びであった。

9月16日 秋の舟遊び

翌日の夜は月が美しいので、道長の次男教道が舟を出し中将兼隆が棹をさして公達部らは舟あそびとなった。主上付きの女房藤三位らもあつまった。道長は多くの人に贈り物をして大満悦のご様子であった。

9月17日 お七夜の儀 公けの御産養の儀

主上より蔵人の少将道雅を使いにして、御下賜品が贈られ、勧学院(藤原家の子息の学問所)の学生たちによる行進「勧学の歩み」も披露された。中宮は御簾の中で少しお疲れの様子だったが麗しく、主上と中宮からの贈り物が女房に与えられた。

9月18日 女房お召替え

この日は親王誕生から7日が過ぎたので、白一色から色物に着替える日となった。

9月19日 春宮の権(頼道)参上

親王の責任者である春宮の権の大夫(道長の長男頼通)の就任挨拶の儀があった。人々は濃い打ち衣をかけ艶めかしく見えた。

10月10日余り 行幸の受け入れ準備

中宮はまだ御簾の中におられ、西の居室から出られないようすである。若宮の様子も世話をする女房におしっこを引っ掛けるなど、健やかにおられる。道長は紫式部の嫁ぎ先をある宮家の縁者にと考えられておられる様子であった。天皇の行幸が近くなったので土御門家では家を綺麗にしたり、庭に草木を植えるなど準備にはいって忙しい様子である。珍しい菊を植えるにつけても自分の年をとったことを憂しと思う紫式部の今日この頃であった。

10月16日 一条天皇土御門邸に行幸

今日の行幸のために作った池遊びの船が出来上がった。行幸は少し遅れてが上達部は西の対に控えてお待ちした。天皇到着を告げる楽人の鉦がなって主上の御車を迎えた。御帳の西に御座をしつらえ椅子を立てた。天皇付きの女官、左衛門の内侍橘隆子が御佩刀をとり、弁の内侍は御璽の箱を持った。二人の衣裳は華やかで清げであった。いたるところで紫式部の女官の衣裳や立ち居振る舞いへの観察眼はするどい。その目は中宮女房から主上付き女官にも及んでいる。道長が親王を抱いて天皇の前に出た。道長の北の方が抱き取った時泣かれたが、こうして天皇と親王の対面の儀式は終わった。御前で宴が催され、万歳楽、太平楽、賀殿などが舞われた。そして親王誕生を賀して右大臣が加階の名簿を作成し、道長家の公達の多くは昇進した。又別の朝に親王の初剃の儀が行われ、親王家の人事が定まった。藤原実成が加階のお礼に中宮に挨拶にあがった。道長家のはなやぐ隆運はかくのごときであった。

11月1日 50日の食膳の儀

50日の食膳の儀がおこなわれ、まかないの儀は宰相の君讃岐、若宮のまかないは大納言の君、弁の内侍中務の命婦、小中将の君が担当した。中宮主催の宴会が催された。そこには道長家につながる公達部が全員参加した。宴会は乱れに乱れまさに「満月の欠けたることもない」藤原摂関家のこの世を謳歌した様であった。紫式部がどういう名前で呼ばれていたのかは不詳であるが、この宴会で左衛門の督より戯れに「わかむらさき」とよばれたので、紫の式部という名が立った様である。源氏物語の作者と云うことから来るあくまで愛称である。紫式部は中宮彰子のために源氏物語の写本と本作りに時間を注いだようである。そして暫く実家に里帰りをした紫式部は雪景色を見ては反省の日々を送っていた。交友関係は多いとはいえないし、大の仲良しは大納言の君でいつも二人でいるので、道長は「男が訪問してもどちらに来たのかわからぬ」とからかった。

11月17日 中宮の内裏帰還

彰子中宮は内裏に帰還された。中宮つきの女房十余人、総30人で内裏に入られた。中宮の車には宮の宣旨と云う女房が添乗した。道長の北の方が親王を抱いて次の車に乗られた。次々と相乗りで女房らが乗り込んだが、相乗りの相手が好ましくないと思う人もいて色々争いがあったようだ。小少将の君と火鉢を囲んで式部はしみじみと語り合ったが、小少将の君の幸い少ない身の上話に憐れをおぼえる式部であった。お別れに際して道長から中宮への贈り物は古今、後撰集など歌集であった。

11月20日 五節の舞姫の儀

五節の舞姫は11月20日に行われる新嘗祭大嘗祭の夜に行われる少女舞で、主上が御節殿でご覧になった。侍従の藤原実成が舞いの装束をあずかり、業遠朝臣が舞い姫の介添えをした。余りに明るく火がたかれるので、女房達も見通されて恥ずかしかったと述べられている。

11月21日 舞姫御前の試み

翌日は中宮が清涼殿で舞姫をご覧になった。

11月22日 童女御覧儀

清涼殿で舞い姫の介添えをした童女御覧の儀があった。この童女らは貴族や役人の娘でその服装やしぐさに紫式部の観察が記述されている。

11月24日 五節のおわり 豊明節会

主上が新穀を食し群臣にも賜る儀式である豊明節会でもって五節会は終わる。急に淋しく思われる。

11月28日 賀茂臨時祭

賀茂臨時祭は権の中将藤原教通が使いとなった。随身は教通と公季である。

12月29日 紫式部宮仕え五年経過

12月29日は紫式部が中宮彰子に仕えて五年ちなる思いで深い日であると云う感慨がさらっと述べられている。

12月30日 大晦日 追儺

追儺の行事も終わって部屋で女房どもがくつろいでいると、悲鳴が聞こえるので内侍の君、内匠の君の3人で駆けつけると、なんと靱負、小兵衛の二人が身包みはがされて裸で泣いているではないか。恐らく警護の隙を狙って強盗が内裏に入ったのであろう。とんだ椿事である。

寛弘6年1月1、2,3日 御載餅儀

1日は坎日(忌日)なので御載餅の儀は中止。3日は若君が清涼殿に上がった。ここでまかないをした女房大納言の君の2日、3日の装束が記載されている。そして主上つきの三人の女房、宰相の君、大納言の君、宣旨の君の性格やスタイル・印象などが縷々観察されている。さらに筆は宰相の君、小少将の君、宮の内侍、式部のおもと、小大輔、源式部、小兵衛小貳、宮木の侍従、五節の弁、小馬という女房らの性格分析やスタイル・挙動などに委しく観察が及んでいる。女ならではの観察眼で大変興味が持たれる記述の部分(6ページ)である。

斎院の中将の君批判 斎院方と中宮方の女房比較

この部分の記述は難解で注無しでは文脈を追うことも難しい。中宮方の女房と斎院方(一条天皇の定子中宮)の女房というライバル同士の分析と比較を行っている。紫式部の属する中宮方の女房達は、失敗を恐れて控え気味でまじめすぎる。男の出入りも無くそして独善的で社交的ではないようである。それは中宮の性格から来るところが大きいとされる。斎院方はあでやかに風流を解し、男の出入りもあって華やかなのだが一歩誤ると軽薄のそしりは免れない。

和泉式部、赤染衛門、清少納言批判

和泉式部の歌は面白いが感心できぬところがある。歌は正統派のような筋は無く、口先だけですらすら読んでいるようだ。本当の歌人ではないとまで断定している。赤染衛門という歌人は腰折れの歌(上と下の歌のつながりの悪い)になりがちで、わざとらしい風流をみせるだけである。清少納言は高慢ちきな女で、些細な事に風流を言い立てる人だ。というように紫式部の同時代の歌人や風流人に対する批評は厳しい。

紫式部自身のこと 内省

本文74から78ページにかけて、難解な文章で中年になった紫式部のわびっしい内面生活が語られている。まるで徒然草の序文のような心境である。人は色々なのだから物いうのも無駄であるとまで云うのである。そのくせ自分を見る他人の目をしきりに気にして、ありたい女の姿を模索している。仏道のこと手紙の書き方について考えをめぐらしている。紫式部は中宮彰子の白氏文集、楽府の書物の進講をしたが、左衛門の内侍と云う女房は紫式部を評して、源氏物語を読むよりは日本紀を読むべきだといった。紫式部からは学を振り回す厭な女だと嫌われたようだ。


更級日記 

更級日記の作者は菅原の孝標の娘である。1008年(寛弘五年)に生まれる。菅原家は云うまでも無く菅原道真の流にあり、おおくの文章博士、大学頭を出したが、宮廷の官位は輔正の正三位が最高で、父の文章博士孝標は従四位に過ぎず、上総守、常陸守を勤めたが日記によればはかない生活を余儀なくされた。作者の兄定義も文章博士、大学頭で和泉の守を勤めた。晩年作者はその縁を辿って和泉国に下ったこともあった。父も兄もむしろ無役の時代のほうが多い。時は道長、頼道の絶頂期であり藤原摂関家は栄華を極めたが、摂関家以外の藤原傍流家や菅原家などは官位も得られずに失意の憂き目を見ることが多かった。作者が少女時代に夢見た華やかな宮廷生活は菅家には無縁の世界であった。このことが作者が年を経るにつけ、現実の淋しい生活を送ることでその悲哀を噛みしめ、「源氏物語はすべては夢の世界」と諦めの境地に至るのである。作者の母は藤原倫寧の娘である。母の兄は長能は歌人で能因法師の師匠であった。母の姉は「蜻蛉日記」の作者として有名な道綱の母である。

「更級日記」を通読すれば、直ちにわかることであるが、作者50年余の人生は心を傷つけることばかり多くて、わびしいの一言でくくられる。若い時の恋愛もない、清少納言のような宮廷での得意な時期が殆どないのである。摂関家の引きがなかったことと併せて、これには作者の性格から来る社交嫌いが災いしていたようだ。幼年時代を草深い東国の上総の国で過したこと、物語を読みたくて薬師仏に祈って父の任期が過ぎ都に戻ったが、道中自分の病気で天竜川の辺で仮小屋を作って病を養ったり、継母が去って実母が帰ってくることも悲劇である。父孝標は上総の任国へ下る時には継母(作者にとって)を妻として連れてゆき、京都に帰ると実母(作者の)が妻の位置に復帰するというなんか奇妙な夫婦関係があったようだ。これでは娘は明るくまともには育たない。複雑な陰にこもった娘になったにはけだし当然であろうか。そして火事で乳母が死に、姉が疫病で死に、結婚話もなかったようだ。19歳から25歳までの日記の記事がないのは、この時期日常生活でも精神状態でも全く思わしくなかったからであろうか。作者が25歳の時、父は60歳で常陸守になって赴任したが、母娘は都に残った。数年後父が帰国すると母は尼になって別居したようだが、作者32歳の頃から宮仕えが始まるのである。翌年33歳で橘俊通の後妻となったのだが、結婚の記事が日記にははっきりと記されていない。結婚と云う重大事件で全く気持ちが動いていないのか、結婚に幻滅したのか、書きたくないような事情があったのか疑問が残る。1041年夫橘俊通が下野国に任官して下った時も同行していない。その間内裏に出入りする事があり、源資通と言葉を交わす事が3回あって、なにか心にとめる事があったのだろう、その意見の交換の記事がある。その後38歳から48歳まで何度も佛寺もうでを繰リ返しているが、尼になる気配はない。作者50歳の時、夫橘俊通が信濃国の守になって一子仲俊を連れて下るが、作者は京に留まった。翌年作者51歳の時夫が任期中で都に戻って急に発病して死亡した(病気があったので任期中に戻ったのか)。それ以降の記録はなくなったが、自分を「姥捨て」と称して消え入るような孤独な余生を過したのであろう。

この日記の作者は一生のうち何処にも満足すべき物がなかったのである。強いていえば物語を読みふけっていた少女時代と、源資通と春秋を論じた時とだけは生きがいを感じたのだろうか。父の無役時代が長かったので生活は厳しく、物語に書かれた貴族社会からひどく隔絶されてとうてい近づくことができないと云う諦念が作者の心を閉ざしてしまった。ここに作者に素質が問題となる。若し作者が現実的で、妥協したり現実的な目標に切り替えて前向きに努力する性格であったなら、ここまで自閉症にならなかっただろう。現実に得られない物を夢見たり、傷ついてばかりいないで、周りと社交的に生きられたら又違った人生もあっただろうにと思われる。しかし彼女のたどり着いたものは、この世は平凡でつまらないものである。自分の思っていたものははかない夢に過ぎないと云う幻滅の悲哀であった。みじめで哀れな自分を見て自分ほど不幸な者はいないと思うと、少女時代からのわずかばかりの楽しい思い出が蘇るのである。この思い出のみは、何物にも替え難い宝物であり、この思い出を記録しておきたいと思う、これがこの日記の執筆動機である。

この日記には構成と云いうほどの内容の構築はないが、大きく分けると三つの部分に分けられる。第一は13歳から19歳までんの娘時代、19歳から25歳までは記事がなく、第二は25歳から37歳までの壮年期、第三は38歳から51歳ごろまでの晩年期である。平安時代の日記文学の系列からすると、土左日記、蜻蛉日記、和泉式部日記、紫式部日記の後に位置し、阿闍利母日記、讃岐典侍日記に先行する。作者の一生を記録した日記と云う点では「蜻蛉日記」と共通点をもつ。同じ菅家の娘である道綱の母の「蜻蛉日記」では権門兼家の想い人となりながら身分の違いからくる運命をしって不可抗力の無力に陥るのに対して、「更級日記」は権門から無縁の世界で平凡な人生の嘆きから人生の寂寥感に苛まれていくのである。「紫式部日記」では人生を述べていない。彼女の人生は源氏物語の中の多くの女性像の中に塗り籠められているといえようか。「更級日記」はまさに一人の女性の人生の記録が断片的ながら語られている。「更級日記」は短い文章ではあるが86首の歌がちりばめられている。道行風な歌も多い。平安時代の日記の中の歌は重要な文脈で謳われる。文脈があってあとから適切な歌を作ったのか、歌が先なのかは、歌謡曲の「詞が先か曲が先か」と同じ問題である。そして「更級日記」の奇妙な点は夢のお告げが多いことである。7回も作者は夢のお告げを聞いている。天災地変や夢は平家物語でも語りのテクニックとして多用されている。しかし嘘を書く必要もない日記で、なぜ夢が7回も出てくるのだろうか。作者の精神分析というまでもなく、作者の夢見やすい性格があったのだろう。夢が当たりすぎたら嘘、あたりはずれが半々なら、見たのかもしれない。いまでも死んだ親が夢に語ったと云う人の話は多い。作者が神秘的といわれる理由の一つである。

目次に従って本文の要点、見所をメモしてゆこう。ここで目次の題名は校注者が勝手に付けた区分けであろう。作者がつけた題名とは思えない。多少細かく区切りすぎのきらいはあるが。

上総国より帰京の道(1020年 寛仁四年 作者13歳)

「世の中に物語というもののあるをいかでか見ばや」と薬師佛に願をかけて祈った少女時代。源氏物語の世界が少女の心のすべてであった。父菅原の孝標の上総国(千葉県)の任期がすんで、13歳の時9月13日に帰京の途についた。12月2日に京都に入った約3ヶ月の旅である。千葉市ー江戸川ー松戸ー隅田川ー三田竹芝ー足柄山ー横走関ー清見が関ー田子の浦ー大井川ー浜名ー三河高師濱ー尾張鳴海浦ー美濃墨俣ー不破の関ー滋賀犬上野州ー粟津ー逢坂の関ー三条の宮という地名の順に旅をしたようだ。二箇所地名の順が矛盾するところがある。作者の記憶違いだろうか。道中、江戸川あたりで乳母なる人が子供を生むとか、大井川で作者が患って仮小屋を立てて長期逗留をするなど大変な旅であったようだ。竹芝からきた内裏の火焚く衛仕が「竹芝の瓢」と云う歌を歌い、天皇の姫をさらって武蔵国に逃げた竹芝寺の縁起話が丁寧に紹介されている事、足柄山のふもとの宿に遊女がきて声麗しく歌ったことが作者の興味をそそったようである。

梅の立て枝(1021-1022年 作者13-14歳)

京に戻って母に「物語もとめてみせよ」とねだると、親族の衛門の命婦より箱に入った草子類をもらってうれしかった様子が記されている。継母なる人が都に帰ると五歳の幼ない児を置いて家を出た。この複雑な家族関係も作者の気持ちを大きく傷つけたようだ。翌年の春疫病が流行して乳母が死亡した。聞けば侍従大納言の娘(猫に生まれ変わる)もなくなったと云うことである。

物語(1021-1022年 作者14-15歳)

太秦に籠った親に「この源氏物語、一の巻きよりしてみな見せ給え」と祈ったところ、おばさんから櫃に入った源氏物語五十余卷とざい中将、とほぎみ、せり河,白ら、あさうづなど云う物語(散逸物語)が袋に入れてあるのを貰って、家路に帰る時のうれしさは喩え様もなかったいう。文学少女にとって夢がかなった喜びで天にも昇る気持ちであったのだろう。几帳のうちでひぐらし夜を徹して物語を読んでは「后の位も何にかはせむ」と夢中になった気持ちはわかるような気がする。この時作者は意味不明の夢を二回見たと云う。法華経五巻を習え、天照御神を念じろと云う夢である。年齢にしては似合わない内容の夢である。

大納言殿の姫君(1022-1023年 作者15-16歳)

作者が物語を読んでいた夜、北を向いて激しくなく猫がきて、姉はこの猫を飼おうという。姉の夢にこの不思議な猫が現れて「私は疫病で死んだ侍従大納言の娘の生まれ変わりだ」というので、そのまま家に居ついた。7月13日の夜、姉のところに訪れた男が笛を吹いて「荻の葉」と呼ぶのに姉は会おうとしなかった。病気がちな姉は「このまま死んでしまったら、どうする」とへんな質問をした。ぞくとするような恐ろしい事であったと作者がいう。翌年4月夜に火事があって家が焼けて猫も焼け死んだ。この部分は作者は不気味に未来を予告するような書き方をする。この一家はなにか悪魔(貧乏神)に取り付かれたような幸薄き家族である。

野辺の笹原(1024-1025年 作者17-18歳)

5月姉は子供を生んで死亡した。姉が遺した二人の遺児の世話をしているうちに、相手の男の家から子供を引き取ると言ってきた。そこで「かばね尋ぬる宮」と云う物語を思い出して9首の歌が挿入されている。作者の歌は2首である。翌年正月父は任官から漏れて無官のままわびしい生活となった。

東山(1025-1026年 作者18-19歳)

4月東山霊山のちかくに居を移す。霊山観音を詣でて9首の歌を添える。又都に居を戻して5首の歌を添える。わびしい時を記述する時は歌が多くなる。そのほうが気がまぎれるのだろうか。

子忍びの森(1032年 作者25歳)

2月8日父常陸守に任官され7月赴任する。作者と実母は京に残った。8月に太秦に参拝する。東から来た人がいて「子忍びの森」というところを父が尋ねた様子を云うので歌3首を添える。親子の愛情を謳うのである。

鏡のかげ(1033-1036年 作者26-29歳)

彼岸の頃清水に参拝する。夢に僧が現れて意味不明のkとをのたまう。母は自分では長谷寺には行かず鏡を鋳させて僧に持たせて、将来を夢に見てきて欲しいと依頼した。僧が云うには、夢に女が現れて「この鏡に映る影は大変悲しい、いまひとつの鏡には宮廷のみやびな景色が出て大変うれしい。天照御神を念じなさい」と云う予言じみた話であった。1036年秋、父が任地から戻って、家族揃って西山に居を定めた。作者にとって大変うれしい事であったようだ。歌3首を添える。

宮仕え(1036-1042年 作者29-35歳)

10月に京へ戻ったが、母は尼になって同じ屋敷内で別居した。父も隠居をし心細かったが、後朱雀天皇第三皇女裕子内親王家に宮仕えに出る事になった。古風な親は厭な宮仕えに反対したが周りの人に言われていやいや差し出したようであった。年内に3回ほど出仕した。宮仕えは作者にとって源氏物語のような華々しさはなくあまり気に入った様子はなかった。少女時代に詠んだ物語の事も今では忘れはて、雑事ばかりに心が奪われてゆく自分を作者は「物語で想像していたことはこの世にはないことであった。光源氏なんてこの世にはいない」と云う空しい気持ちに沈んでいたようだ。4月、35歳で始めて内親王とともに内侍所に向かうことがあって天照御神を拝み奉った。梅壺女御や関白藤原頼通の女房らと語らう機会があった。歌6首を添える。この頃が一番華やかな頃だと思われるが作者には思いがかなったと云う気持ちがない。何があってもいつも満たされない心の深淵に吸い込まれた女は厄介だ。「自分はもう若くはないし、物知りと云うほどの経験はない」一人さめている女がいるのである。1040年橘俊通の後妻となったようだ。しかし更級日記の本文からその記述を探すことは、校注者の但し書きがなければ不可能である。49ページに「程なく籠めすえつ」、「その後はなんとなくまぎらわしきに」と云う記述がそうらしいという。それくらい結婚とはつまらない、記述に価しないことだったらしい。1041年正月夫は下野の国守に任官して下ったが、作者は同行していない。そういった記述も全くないのである。

春秋の定め(1042-1045年 作者35-38歳)

10月1日夜、宮中で不断経の会があって、源資通がやってきて作者の気持ちには大変好ましい男に映ったのである。その時春秋どちらが勝るかと云う話に興じたことがあった。源資通は容姿、教養とも作者を十分満足させる人であった。その後2度ほど言葉を交わす事があったのだが、妻となっていたので最後には会うことを遠慮して沙汰止みとなった。作者のはかない、遅い初恋だったようだ。作者38歳、11月20日余りに石山に詣でた。ここでも夢を見ている。

初瀬(1046年 作者39歳)

1046年10月25日大嘗会の時、初瀬(長谷寺)に詣でるので京をたった。旅の経路が委しく語られている。二条大路から九条河原の法性寺、関白頼通の宇治殿を見て、山城綴喜郡贄野池で宿を取り、東大寺、石神神社を経て山辺で宿を取りった。ここで夢のお告げを見ている。そして長谷寺に詣でた。また夢のお告げを見た。道行文ではあるが不思議に歌がない。

修行者めきたれど(年不詳)

作者40歳春、鞍馬寺に籠った。2年ほど後石山寺、長谷寺、西山、太秦と寺めぐりの記述が年代不詳ながら続くのである。この時夫の橘俊通は京にいるはずだがその許しを得て寺参りをしていたようだ。そういう意味では夫は理解があったと云うべきかも知れない。12首の歌が挿入されている。

和泉(年不詳)

作者の兄菅原定義が和泉守であった頃なのか、作者は和泉を尋ねている。和泉に行く道行文である。難波の高浜では一夜遊女の踊りと歌を楽しんでいる。この頃の遊女とはいまでいう流行歌手、役者のような類であったのだろう、芸達者であったようだ。住吉、泉大津、堺の石津についた。歌は1首のみである。

夫の死(1057-1058年 作者50-51歳)

1057年7月27日夫の橘俊通は信濃守になって下向したが、作者は同行しなかった。橘俊通は一子仲俊を連れて下った。ところが翌年4月の夫は京に戻った。前後の旅行期間2ヶ月ほどをみると、信濃に赴任していたのは半年に過ぎない。病を得て帰京したのか、政変があって首になったのかは書いてない。とにかく帰京して5ヶ月位すると発病し10月5日になくなった。昔から仏事に精を出していればこう云うことにはならなかったのかもしれないと作者は反省するがあとの祭り。

あとの頼み(年不詳)

時期が前後するが作者48歳の時、10月13日夜に阿弥陀仏が来迎する夢を見たと云う。阿弥陀が云うには「今回は早く来すぎたので又後で迎えに来る」といって帰ったと云う。作文にしては変に落ちの悪い話である。作者は一人住まいのわびしい生活をしていたようだが、甥が遊びに来たので歌を詠んで「よくこの姥捨てに来た」ということが、この「更級日記」の題名となった。古今和歌集の「わが心なぐさめかねつさらしなやをばすて山に照る月を見て」を受けた歌である。「姥捨て」といえば露骨なのでその枕の「さらしな」を取って書名としたのである。なお「さらしな」、「更級」、「更科」のどちらでもいいのだが、藤原定家自筆本が「更級日記」となっているのでそれに従うらしい。


十六夜日記

この日記の題名「十六夜日記」とは、本書の「東日記」の初めにある作者の歌「はめぐりあふ すえをたのむ ゆくりなく 空にうかれし いさよいのつき」から来ている。作者は鎌倉時代の藤原為家の二条派歌道の精神を是とする阿佛尼である。そして彼女は藤原為家が晩年嵯峨で同棲した女である。平安末期から鎌倉時代にかけて宮廷の歌の道を指導したのは云うまでもなく藤原俊成ー定家の家系である。藤原道長の子長家が御子左(みこひだり)家を興し、俊成ー定家に伝わり、定家の子の為家に至って二條を称する。為家の子の時代に長男為氏(宇津宮頼綱女を母とする)が二條を称して、次男為教(宇津宮頼綱女を母とする)は別に京極を称し、阿佛尼を母とする年の離れた弟為相は冷泉を称する。このように御子左(みこひだり)家に伝わった歌道は三流れとなって対立するに至った。

阿佛尼は歌人として、歌学者として、また冷泉家の祖たる為相の母として国文学史では重要な位置を占める。阿佛尼の作品には文章として「十六夜日記」、「うたたねの記」、「阿佛仮名諷誦」、「夜の鶴」、「庭の教え」がある。「庭の教え」は宮中に出仕する娘に対して処世上の心得を諭したもの。「夜の鶴」は人に詠歌の心得を教えた本。「阿佛仮名諷誦」は為家の菩提を弔うために仏前で諷誦したもの。阿佛尼の和歌においては「安嘉門院四條百首」、「夫木和歌抄」に59首、続古今など撰集に採録された和歌を小計して196首がある。十六夜日記の中に自詠歌86首、「うたたねの記」に24首を入れて総計306首が伝わっている。

二條派歌道は歌を神の道と信じて、明るく清き直き心を表現することを詠歌の修行と心得、華やかさを抑えた精神運動とした。まるで神道みたいだが当人らは大真面目で修行に励んだらしい。だから阿佛尼の歌は平凡で教条的でつまらないといわれるが、文章も華麗流暢を避けて質実簡素を持って一貫している。本文の文章は紫式部日記に較べれば格段に分りやすく、全く注を必要としないくらいである。「十六夜日記」の書名はいまでは「いざよい日記」とよばれ「十六夜日記」と書かれるが、「路次記」、「阿佛尼紀行」、「阿佛道行」、「いさよいの記」と記されることもある。「十六夜日記」の内容は大きく二つに別れる。「道の記」と「東日記」である。「道の記」は弘安2年10月16日から29日まで14日間の東下りの「日なみの日記」であり、「東日記」は弘安3年8月までの10ヶ月間にの鎌倉での滞在期間にかわした京都の知人らとの往復書簡(歌の交換)である。「東日記」はまだまとめるべき歌などたくさんあるのだが京へ帰ってからまとめるつもりであったのか、未完のままに放置されたようだ。冷泉族譜によれば、阿佛尼が鎌倉に下ったのは、中院大納言為家の遺言状で一度長男為氏に与えた細川の荘園を、阿佛尼の子為相に譲ると云う遺言状の書き直しに端を発した。どこにでもある先妻の子(為氏)と妾腹の子(為相)のあいだの遺産相続争いである。為家の晩年に同棲した阿佛尼は当然為家の遺産をわが子為相に譲り受けたいし、為氏にしてみれば妾が親父を虜にして書かせた遺言状改訂版は認めたくはない。腹違いの兄弟の争いであるが為相は13歳で、親子ほど為氏とは年が違ってとても為氏には太刀打ちできないので、母阿佛尼が遺言状改訂版を持って鎌倉幕府に相続の裁定を御願いに出かけた。その結果どうなったかは何処にも書いていないが、のちに為相が冷泉家を興すことができたので遺産相続はあったのではないだろうか。

阿佛尼の義父は平家一門の左衛門尉佐渡守時繁の娘といわれるが確証はない。阿佛尼の実父・生母もわからない。阿佛尼の生年没年も不明である。阿佛尼ははじめ安嘉門院につかえていたころ、恋人に捨てられて髪の毛を切って尼となり愛宕あたりにいたが、奈良の法華寺、松尾などにいたが源氏物語を書くために大納言典侍に呼ばれた。そのころ定覚(侍従の兄)、阿闍利を生んだ。阿佛尼が為家に近づいたのは建長五年のことで、10年後には為相、為守を生んだ。70歳に近い為家の晩年には嵯峨小倉山に住んだ。為顕の母(正妻)と仲が悪くなって、その後為家は持明院の北林に移って阿佛尼と同棲した。建治岩年為家は薨去した。阿佛尼には13歳の為相と11歳の為守が残され、播磨の細川荘の遺産をむぐって為氏の横領を朝廷にそして鎌倉幕府に訴えた。弘安2年10月16日に都をたって鎌倉に下った。鎌倉には4年間は確かに滞在した。本文中に阿佛尼には姉と妹がいたと書かれている。姉は中院の中将といわれ、妹は阿佛尼と同じく安嘉門院に仕えた。阿佛尼には子供は五人いた。侍従の兄、阿闍利、女の子、そして為家との子為相、為守である。この女の子は亀山院の女御新陽門院につかえ、亀山院の皇女を生んだとされる。阿佛尼はすこぶる頭のよい学者風な人であり、自信の強い人であり、名誉心の強い上昇志向の人であった。このしっかりした実務的な賢明な女性像はやはり平安朝ではなく、鎌倉時代にふさわしい人であった。
次に「十六夜日記」本文にしたがって内容を見て行こう。

「十六夜日記」 1:「道の記 日なみの日記」
10月16日

京の粟田口(東山三条)まで車で行って車を返して出発となった。逢坂の関(京都と滋賀の境界)を越えて野路と云うところで日が暮れた。守山で宿を取った。歌三首

10月17日

野州川を渡って霧深く、小野の宿にとまる。醒ヶ井で歌一首

10月18日

美濃国に入り関の藤川を渡る。不破の関より時雨となり笠縫の馬屋という所にとまる。歌三首

10月19日

雨に悩まされて進むほどに平野の水田をわたる。雨がやんで昼過ぎ「むすびの神」に詣り、州俣よいう河を渡った。一宮の社を過ぎて尾張国の下戸の馬屋にとまる。歌4首

10月20日

熱田神宮に寄り道して詣り、浜千鳥を見て、二村山を越え、八橋にとまる。歌九首

10月21日

宮路山の紅葉をみて、渡津にとまる。歌三首

10月22日

朝早く有明の月の笠を見て出る。高師山を越え、浜名の橋につく。浜松の引馬の宿に泊まる。歌四首

10月23日

天竜川を渡ったが西行の難儀した渡しを思う。遠江の見付の国府というところに泊まる。歌二首

10月24日

子夜の中山を越え、菊川に泊まる。歌三首

10月25日

大井河を渡ったが川幅だけが広く水は少なかった。宇津の山を越す時に修行者阿闍利に逢う。手越という所に泊まる。歌三首

10月26日

藁科河を渡って、興津の浜にでる。夕方清見が関を越えて富士山を見た。歌六首

10月27日

富士河を渡って、田子の浦に出る。夕方三島明神にまいって伊豆の国府にとまる。歌五首

10月28日

箱根路にかかり、険しい山を越え湯坂につく。早河、鞠子河を渡って酒勾に泊まる。歌四首

10月29日

朝早く海の上に月を見て鎌倉に到着。歌三首

「十六夜日記」 2:「東日記」

鎌倉での滞在地は「月影のやつ」というところである。海と山に近い風の強い場所であった。阿佛尼が鎌倉幕府相手にどのような交渉をして、結果はどうなったのかは何も記されていない。この「東日記」に記されているのは京の和歌の知り合いとの消息文と和歌の交換である。4ヶ月以上滞在しても訴訟の片方の言い分だけでは幕府の裁定もままならないであろうから、訴訟相手の為氏を鎌倉に呼び出したのか、手紙でのやり取りで事情聴取したのか今考えても民事訴訟をどう進めたのか興味が持たれる。しかしそんな野暮な事は一切記されていないので、ここは歌の消息として読むしかない。消息を交換した人の名と歌の数を記す。
わが子阿闍利との間に歌三首
前の右兵衛の督為教の娘 大宮の中納言との間に歌二首
大宮の中納言の妹 中将為兼の君との間に歌二首
久我の太政大臣の娘 式乾門院のみくしげとの間に四首
わが姉との間に歌二首と手紙
わが妹との間に歌二首と手紙
わが子阿闍利との間に歌二首
権中納言の君との間に歌十二首
5月 権中納言の君との間に歌四首
京極中納言定家の娘 和徳門院の新中納言の君との間に歌六首
8月 わが子侍従為相との間に歌五首
わが子為守との間に歌二首
権中納言の君との間に歌二首


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