2013年8月21日

文藝散歩 

渋沢栄一自伝 「雨夜譚」
 岩波文庫 (1984年版)

明治の資本主義(株式会社制度)を創設した男の、幕末から明治維新直後までの青春グラフティ

若き日の渋沢栄一
1867年パリ万国博覧会の渋沢栄一

池田屋事件で斬殺された坂本龍馬がもし生きて明治時代に活躍したら、さしずめ三菱の岩崎弥太郎を超える規模の海運業を起こすか、世界を股にかける大商社を作って国家に貢献したであろうと想像される。つまり外へ飛翔する男であったと思われる。それに対して三菱の岩崎弥太郎は政商という言葉がぴったりの男で、日本国政府と一体化し日本国とともに発展した。だから皇居の前の一等地(江戸時代は徳川親藩の屋敷が占めていた)に三菱村を作って君臨している。三菱にはロマンを感じないのは私一人の僻事かもしれないが。渋沢栄一が創設した渋沢財閥は、旧四大財閥系(三井財閥・三菱財閥・住友財閥・安田財閥)には比べようがない小規模財閥であるが、いちおうGHQ 解体指令の15財閥・コンツェルンに含まれれた。本書自伝は農民出の討幕の志士から一ツ橋家の用人、そして慶喜の将軍家就任によって幕臣となり、明治維新後は静岡藩に勤めて、明治政府高官となる転身を重ねた渋沢栄一という男の自伝である。維新政府にいた4年間は大蔵省の創設と改革に携わり、明治6年井上馨卿とともに大蔵を辞任し、それ以降43年間銀行業と企業の創設と経営に邁進した、まさに明治時代の資本主義確立期の生き証人であった。起こした会社は40社(自伝で本人がいう数)、大蔵省・日本銀行設立・証券取引所などの経済・財政・金融の仕組みつくりに才能を発揮し日本資本主義の父といわれた。自伝に入る前にもう少し渋沢栄一の経済活動の理念を見てゆこう。渋沢は明治6年に大蔵省をやめてから、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(民間銀行のことで、官法にもとずく銀行という意味 第一銀行、第一勧業銀行を経て、現:みずほ銀行)の頭取に就任し、以後は実業界に身を置く。また、第一国立銀行だけでなく、七十七国立銀行など多くの地方銀行設立を指導した。第一国立銀行のほかには、東京瓦斯、東京海上火災保険、王子製紙(現王子製紙・日本製紙)、田園都市(現東急電鉄)、秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビール、東洋紡績など、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上といわれている。渋沢栄一が三井高福・岩崎弥太郎・安田善次郎・住友友純・古河市兵衛・大倉喜八郎などといった他の明治の財閥創始者と大きく異なる点は、「渋沢財閥」を作らなかったことにある。「私利を追わず公益を図る」との考えを、生涯に亘って貫き通し、後継者の敬三にもこれを固く戒めた。また、他の財閥当主が軒並み男爵どまりなのに対し、渋沢一人は子爵を授かっているのも、そうした公共への奉仕が早くから評価されていたためである。なお、渋沢は財界引退後に「渋沢同族株式会社」を創設し、これを中心とする企業群が後に「渋沢財閥」と呼ばれたが、これはあくまでも死後の財産争いを防止するために便宜的に持株会社化したもので、渋沢同族株式会社の保有する株は会社の株の2割以下、ほとんどの場合は数パーセントにも満たないものだったという。渋沢栄一は実業界の中でも最も社会活動に熱心で、東京市からの要請で養育院の院長を務めたほか、東京慈恵会、日本赤十字社、癩予防協会の設立などに携わり財団法人聖路加国際病院初代理事長、財団法人滝乃川学園初代理事長、YMCA環太平洋連絡会議の日本側議長などもした。商業教育にも力を入れ商法講習所(現一橋大学)・大倉商業学校(現東京経済大学)の設立に協力したほか、二松學舍(現二松學舍大学)の第3代舎長に就任した。学校法人国士舘(創立者・柴田徳次郎)の設立・経営に携わり、井上馨に乞われ同志社大学(創立者・新島襄)への寄付金の取り纏めに関わった。また、商人同様に教育は不要だといわれていた女子の教育の必要性を考え、伊藤博文、勝海舟らと女子教育奨励会を設立、日本女子大学校・東京女学館の設立に携わった。渋沢栄一の経済人としての処世道徳に儒教との合一を説いたことで有名である。大正5年(1916年)に『論語と算盤』を著し、「道徳経済合一説」という理念を打ち出した。幼少期に学んだ『論語』を拠り所に倫理と利益の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説くと同時に自身にも心がけたという。

経済人としての渋沢栄一像を知るために、自伝の範囲外である大蔵省退官以降の渋沢の社会的功績を手短に述べた。何しろ渋沢栄一(1830-1931年)は長寿(92歳)を全うしたので、自伝で述べられていることは34歳までのことで、後の58年間の経済人としての人生は語られていない。したがってこの自伝は生まれてから壮年期までの「半生記」(実質は1/3生記ともいうべきか)に過ぎない。そして渋沢栄一はこの回顧話を50代半ばに「門生」に筆記させた。まず本書「雨夜譚」の読み方は「ウヤタン」ではない。「ウヤモノガタリ」でもない。渋沢本人が明治27年(1894年)の「雨夜譚はしがき 青淵老人」なる文章に、「アマヨガタリ」とルビをふっている。本書のもとになった版は1897年(明治30年)、渋沢栄一の還暦祝い記念事業において、阪谷芳郎氏(次女の娘婿 当時大蔵省主計局長)の編集になる「青淵先生60年史」に原文のまま引用された。渋沢栄一の口述を筆記した合綴本として存在していた。この合綴本を底本として1968年(昭和43年)「渋沢栄一伝記資料別館第5」に「雨夜譚」の原稿が作られ、岩波文庫版は「資料」を底本とし合綴本を参考にしてなったという。明治時代の人の伝記としては、福沢諭吉の「複翁自伝」、高橋是清の自伝が有名であり、私も読んだがめっぽう面白い。しかし面白さでは渋沢栄一の「雨夜譚」も決して負けを取らない。妙に理屈をつけるところが渋沢栄一の特徴かもしれない。融通無碍の文明開化の自由人福沢諭吉に比べると骨っぽいかもしれないが、後付の理由とも考えられるのでそのまま信用するわけにはゆかないだろう。明治維新において豪農・豪商(プチブルジョワジー)が革命の一翼となったかどうかは議論の分かれるところである。豪農商の埼玉県の渋沢家の出である渋沢栄一の合理主義をもって証拠とするのは贔屓の引き倒しに近い。支配者である武士階級間の権力奪取と開明能吏による上からの社会改革という通説に従うのが無難である。本書にも書かれてるように農業・商業者層の卑屈さ・奴隷根性からは少なくとも精神的・意識的には明治維新の推進力たりえたとは思えない。ではご一新に資金を提供したかと問えばさらにノーである。資本主義の前提となる資本蓄積はゼロに近かった。明治維新後欧米に倣って金本位制をとったものの、兌換可能な「金」が存在しなかったという笑い話にあるように、井原西鶴が誇った近世大阪商人の「ケチ精神」と資本主義の特徴である「資本蓄積と利潤の増大」は次元の違う問題であった。日本には自然発生的資本主義の芽生えはなかったし、どうしても国家が指導して資本主義を起こす必要があった。このことは日本のみならず東洋全体に言えることで、中国でも日本より100年以上遅れて、国際金融資本の戦略があってようやく国家資本主義という上からの資本主義が成功した。資本主義も民主主義・自由主義、人権思想もみんな西欧の文化に基づく。東洋に根拠を持ち自発的に発生した文明ではなかった。欧米の植民地化を恐れ、欧米の文明が便利で有効だったから維新後の日本が飛びついたのであってその精神の理解や展開はおぼつかなかった。そこで「和魂洋才」という皮相な処世術が生まれたのである。明治時代から昭和の敗戦まで富国強兵政策に乗って資本主義体制の形はできたが、民主主義・自由主義、人権思想はなおざりにされた。本格的な民主主義・自由主義、民権・人権の導入は米軍の占領政策によってからであった。これは強制であって有無を言わせなかった。資本主義も上からの強制、民主主義も米軍からの強制であって、専制をこととする孔老思想の東洋と民の発展を重視する啓蒙思想の西洋の文化の溝は深刻である。

この岩波文庫本の「雨夜譚」の校注をされた長幸男氏が解説の3において「論語と実業」という項を設けて、マックス・ウエーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」からの類推で儒教が日本資本主義発展のエートスたりえたという論を張っている。まず断る必要があるが、儒教は宗教ではない。世の中の序列を重んじる生活倫理であって絶対神の審判があるわけではない。中国の紀元前5世紀ごろ春秋戦国時代の思想で百家争鳴の自由な思想の一つにすぎない。校注者の「論語と実業」は、渋沢栄一が大正5年の著わした本書第2部「維新以後における経済界の発達」の解説にある。雨夜譚の語る大蔵省退官以降の渋沢栄一氏の経済活動を簡潔に物語る重要な資料となっている。その校注者の力の入れようは解説全体の半分を占めるので拝聴してコメントしておこう。渋沢氏の業績は@合本組織(株式会社)と近代諸産業の導入、A官尊民卑の打破と実業界の社会的地位向上であった。@の合本組織とは株式会社の組織のことで、あくまで私権としての組織であった。大蔵官時代に渋沢が著述した「立会略則」において「通商の道は法制をもって縛るべからず。これ政府の商業をなすべからざるの所以なり」という。これは理想論とはいえ規制緩和をモットーとする新自由主義の主張に近い。また第2の主張は近代的株式会社の組織原則を文書管理主義(規律・財務諸表)にもとずく経営理念を強調している。つまり経営者資本主義の根本的原則を述べているのである。マックス・ウエーバーの資本主義の近代的合法的支配は市民社会の経済人を前提としていた。渋沢の時代にはまだそれは成長過程にあった。「立会略則」の第3の主張は公益または国益の強調である。これは資本の国際性が前面に出る前のことで当然の主張である。アダムスミスさえ「国富論」と題する所以である。渋沢氏の経済思想は「義利両全」とか「論語算盤説」といわれる。「私権」とは我利のみならず、公益・国益を目指すものでなくてはいけない。ここが三菱の岩崎とは違う渋沢の倫理世界であり、このために三菱のような巨大な一族的組織である財閥を目指さなかった。渋沢は孔子思想を穏健な日常道徳体系とみていたようである。マックス・ウエーバーはプロテスタントの世俗内禁欲倫理が天職思想を生み、勤労・節約にいそしむ生活倫理となった。それが結果として資本蓄積となりかつ合理的生産様式をもたらしたという。マックス・ウエーバーはさらに「儒教とピュウリタ二ズム」において、東洋の近世資本と高利資本が近代資本主義に至らなかった理由として、儒教が宗教ではなく人格完成を目指したためであるとした。この見解に対して校注者の長氏は渋沢栄一の儒教的厳格主義はプロテスタントの禁欲主義に通じるし、また「義利両全」は公正な取引を原則とした近代資本主義の経済倫理たりえたと評価している。三菱の岩崎弥太郎に合弁を持ち掛けられた渋沢栄一は経営理念が異なるので断ったとされている。結局儒教だのキリスト教といっても、最初から両者は資本主義を含んでいたわけでないので、マックス・ウエーバーの妙な論拠は我田引水からの憶測に過ぎない。根本は合理的経済人が存在していたかどうかによる。資本主義は利潤追求が目的である。近代資本主義は生産性向上による利潤の実現にあった。これは経営者資本主義または法人資本主義といわれる。現在では先進国では金融資本主義全盛時代を迎えているが、知識・情報格差と地域格差にもとずく独占的利潤確保ばかりが目立つのを「合理的経済人」がどう見るのかはなはだ心もとない。渋沢栄一氏は90歳の昭和2年の講演会で、「利を見て義を忘れるのが今日の時代の特徴で、・・・・義と利の均衡がなければならない」という「悲痛なる憂国警世の言葉」を残した。


第1部 「雨夜譚」

1) 少年時代と攘夷出奔

渋沢栄一は1840年(天保11年)武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)に生まれた。幼名を市三郎という。渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営し米、麦、野菜の生産も手がける豪農(渋沢家は4家あり、市三郎は中の家)だった。原料の買い入れと販売を担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。市三郎も堅実な父と共に信州や上州まで藍を売り歩き、藍葉を仕入れる作業も行った。14歳の時からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、この時の経験が洋行時代の経済システムを吸収しやすい素地を作り出し、後の現実的な合理主義思想につながったといわれる。6歳のときから尾高惇忠に論語、大学、中庸を習う。この先生は頭から丸覚えさせるのではなく、多くの本を通読して自然と考えが付くのに任せるという教育方針であった。14,5歳で農業商売を憶えるので父の商売を手伝うようになった。市三郎が藍葉買付を手伝い、父が上州・秩父・信州の紺屋に藍を掛売りするという商売であった。父は奢侈を戒め方正厳格な人格であった。市三郎は幼少より祈祷などの迷信を排斥したという。家は相応の財産家とみなされ質屋・高利貸も取扱い、領主からご用達を16,7歳のころから申しつけられた。代官の横柄な態度をみて、幕府のご政道がよくない事を実感したという。そのうちアメリカのぺルー提督が和親条約を求めて下田にやってきたとき以来、攘夷を叫ぶ水戸烈公を安倍老中は蟄居処分とし世の中は騒然としてきた。市三郎が22歳になった時、ついに田舎で百姓をしていられないと覚悟を決め、江戸に遊学に出る決心をした。翌年23歳の時坂下門外の変で江戸に同行した長十郎に嫌疑がかかったので京都に落としてやった。そして69名ばかりの郎党を集め高崎城をのっとって横浜港へ出て攘夷を実行するという暴挙を企てたが、十津川の暴挙を見た京都の長十郎がその計画の無謀なるを戒め、ことは不発で終わった。しかし八州取締という幕府密偵の嫌疑がかかるのを恐れ、文久3年の11月渋沢喜作とともに故郷を出て京都に向かった。

2) 京都での一橋家出仕と立身出世

江戸で一橋家の用人平岡円四郎に会って、一橋家に仕官したことにすると、京都へ向かう旅にて嫌疑を受けることがないとの誘いを受けた。一橋家とは吉宗公以来の新御三家であるので、藩を持たないいわゆる賄料で暮らしを立てる御寄人同様の家柄である。飛び地(摂州・泉州・播州・関東)ながら10万石相当の領地が充てられていた。家老や家来も幕府からの出向者が多く、慶喜公のように家主も水戸からの養子という形であった。いわば藩という実態を持たない名前だけの「宮さん」のような存在であった。市三郎らは散々迷い議論した挙句、仕官を決意し生意気にも意見書を提出した。京都の守衛総督に就任した慶喜公に拝謁も済んで、奥口番という役名で4石二人扶持で、月金4両一分の給金であった。外交の事務を扱う御用談所の務めで、諸藩との交際に当たった。最初の仕事が摂海防御のために幕府が雇った薩摩藩の折田要蔵というお台場築城掛の監視と品定め役であった。実力の伴わない大言壮語の人物であるという結論であった。次の仕事は天下騒乱に備えて関東から志士を集めてくる人選御用という役目を仰せつかった。平岡平四郎が水戸藩浪士に暗殺されたので、ご用人筆頭は黒川嘉平太に変わり、渋沢は御徒歩に昇進した。8石二人扶持で月6両である。京都守護職は会津藩の松平容保で京都の権勢を占めた。京都御所の9門守護役であった長州藩が攘夷を求めて御所に発砲した事件が起き、この乱を鎮圧した会津藩と薩摩藩は公武合体に力を合わせたので、守衛総督の一橋も大いに意気が上がった。水戸の天狗党の武田耕雲斎や藤田小四郎らは加波山に兵をあげた。幕府の田沼玄蕃頭が追討する兵をむけたので一橋公もご出馬となったが、その前に乱は終息した。逃げた天狗党一味は敦賀で捕縛され130名が斬殺された。こうした騒乱で藩との交際が急増し、渋沢は小十人に昇進し、17石5人扶持で月13両2分の給金となった。常備兵を持たない一橋家では守衛総督の任職に適うため、2大隊(500人程度)の兵を集めることになり渋沢は歩兵取立御用掛となった。そこで摂州・泉州・播州から兵を募ることになり、まず代官所のある備中に向かった。ところが代官他領内の代表は言を左右にして、募集(彼らからすると賦役なので)に応じる人がいないという。渋沢は自身で数十名の兵を集めたうえ代官と庄屋を恫喝して450名の兵を集めることができ、京都の大徳寺に収容した。またこの兵隊集めの間にいろいろ考えて、渋沢は一橋家の経済開発策を提言した。@播州米の自主流通先を開拓すること。蔵方に任せずに廻米ルートを灘の酒造家に求めたこと。A木綿に付加価値を加えて販路拡大。B農家の床下から硝石生産をおこなうこと。Cまったく信用がなかった藩札の立て直しと発行である。こうして藩改革の実績が出始めたので、渋沢は勘定組頭に昇進し15石7人扶持月21両の給金となった。そして改革の実が出たところで、徳川14代将軍家茂公は薨去され、一橋の慶喜公が将軍職ご相続となった。

3) 慶喜公将軍職御相続と幕府出仕 徳川民部公子とフランス同行

一橋家の勘定方の組織とは、上から勘定奉行、勘定組頭、平勘定、添勘定、御金奉行、御蔵奉行、御金方、御蔵方、御勘定所手付など総勢100人以上であった。また領分の支配をする出先の代官所の役人も勘定奉行の配下であるのでさらに多くなる。財政改革とは、収入を増やして支出を減らすことで余裕を兵備を整えることにあった。上に述べた財政改革の木綿販売と藩札発行は一体化した政策であった。すなわち木綿荷物に札を発行し、荷為替貸金手続をとる。自分で売る場合はたとえば大阪に手札を払い込めば木綿を受け取ることができ、会所に売却を頼むときは藩札を提出し売上代金から手数料を引いて差引決済を立てるのである。藩札の発行は22家の御為替組の中の5家の用達が実施し、まず3万両を発行した。引き換えは少なく推移し、木綿の商いは順調に進み領内の村民にはいたって好評であった。徳川14代将軍家茂公がご上洛となり長州征伐の命を下した。一橋公が長州征伐の大任を引き受けた。渋沢に長州征伐のお供となり御使番格に栄進した。ところが家茂公がにわかに大阪で薨去されたので、長州征伐は沙汰やみとなった。そして老中板倉守の推挙によって慶喜公が将軍家ご相続となった。渋沢はこの将軍家相続には、もはや徳川家に未来はないから貧乏くじを引くだけといって反対論を述べたが、結局渋沢も幕臣となった。用人筆頭の原市之進らはお目付けとなり、渋沢は陸軍奉行支配調役に転じた。そうこうしているうちに1867年のフランスパリ万国博覧会に水戸の民部公子(徳川昭武)が派遣されることが決定した。まだ少年だった民部公子のフランス留学は5−7年滞在の予定で、外国奉行栗本安芸守が同行し、公子の御傳役は水戸藩より山高石見守以下8人と決まった。加うるに渋沢を事務および会計役として随行することになり、渋沢は喜んで引き受けたという。このパリ行き旅行については共著であるが「航西日記」となって残っている。万博会場でナポレオン3世に国書を渡し、公子一行は欧州見聞旅行となったが、随員が多すぎるので費用がかさむのを心配した渋沢は一計を案じて、随員は3名交代制にするなど頑迷な水戸藩士を説得した。スイス・オランダ・ベルギー・イタリアを第1段とし、ドイツ・イギリス・ロシアを第2段とした。留学部隊は山高石見守以下10名となった。しばらくすると山高石見守他病人2名が帰国し、公子御傳役は渋沢の責任となった。ところが同年10月本国において徳川家が政権奉還となり、慶喜将軍は水戸に蟄居され近いうちに大政変が危惧された。そして鳥羽伏見戦争が勃発した。公子の留学をどうするかで右往左往する間も渋沢は国内事情は混乱しているので公子の帰国を延ばして情勢を見て経費の節減に努め、毎月5千ドルが送金されていたのでこれまで約2万ドルの剰余金を得て、送金が途絶えた場合に備えてフランスの公債と鉄道債券を買っておいたというからその犀角はすごい。そして栗本守外国奉行を、留学延長の送金を確保するめどをつける目的で日本へ帰したという。また幕府のフランスとイギリス留学生は公子の予備金から支出してすべて帰国させ、公子だけのフランス留学の方針となった。ところが水戸の藩公が死去されたので公子が御相続と決まり、帰朝されることとなった。これで公子のフランス留学の方針は消えた。

4) 明治維新と静岡藩出仕

帰船の中で、会津落城、榎本武揚らが軍用艦7隻を率いて函館5稜郭に集結という噂を聞いた。軍備を整え本土へ反攻にでるか、座して滅亡を待つのか、いつに日本海軍の精鋭を集めた7隻の軍用艦の展開にかかっていたのだが、拙に陸の篭城策となった。渋沢は東京に着いてから、親戚縁者の消息を聞いて父に再会した。静岡藩に居候するつもりはなく生計の道を立てる方策を思案し、公子在欧中の財産会計処分をして、余った金は水戸藩と静岡藩に分配した。全将軍が謹慎して居られる静岡宝台寺にゆき、慶喜公に公子および在欧報告を行い拝謁した。静岡藩の実権は中老の大久保一翁が差配しており、渋沢は勘定組頭を命じられた。旧藩の窮乏を見かねた新明治政府は石高に応じて諸藩に5千万両の紙幣を年3分の利子で貸し付けることになった。この貸付金が経費に消える可能性が大きかったので、渋沢は70万両の金を別会計にして、興行殖産の基金にした。石高拝借金を元手に地方の資本を合同させて商会(商法会所)を作り売買貸借を任せたのである。これは共力合本法(財団法人、組合方式)である。渋沢がその組織の運用責任者となった。新政府発行の太政官札は物価高騰のためすぐに価値が減じるだろうという目論見のもと、直ちに物品を購入し商法会所を改め「常平倉」とした。こうして静雄藩の興行策を実行して、基礎を作りつつあったとき大久保一翁氏より新政府への出仕という通達がでた。大蔵省租税司という職であった。時の大蔵省は形だけの伊達宗城大蔵卿、実権は大隈重信大蔵大輔、伊藤博文少輔であった。

5) 明治政府出仕 財政改革と大蔵官辞任まで

渋沢は大隈に大蔵の改革のために「改正掛」を設けるべしと進言し、各係からなる改正掛が発足し静岡藩より前島密、赤松則良らを登用した。租税の基礎となる全国測量及び度量衡の改正、鉄道敷設資金問題、駅逓法の改正(助郷村の賦役軽減)を手掛けて前島密を駅逓権正に任命した。新政府は大阪に造幣局を作り銀本位制を採用することは定まったが、明治3年伊藤らがアメリカ金融制度視察に出て、欧米では金本位制であることが分かり、本位貨幣を金に定め、交換所として国立銀行が必要との指針を報告した。明治4年に大隈と伊藤が大蔵を去り、大久保利通が大蔵卿、井上馨が大蔵大輔となった。廃藩置県によって信用の亡くなった旧版の藩札引き換えが急務となり、新しい藩札は公債証書発行によって補償した。渋沢は簿記法や銀行条例の調査を引き受けたが難航した。この時期渋沢は古い商人では到底日本の商工業を起こすことは出ないだろうと考え、自ら官途を辞して率先して商業を起こす覚悟をするようになったという。大蔵の通商司はいわば官製会社の初めに合本営業を開いたが、役人商売はことごとく失敗し損益が続いていたのである。渋沢は枢密権大史に任じられ内閣の一員となったが、また大蔵権大丞の帰り咲いた。政府予算拡大問題では大久保卿の各省の言う通り支出するいわゆるつかみ出し勘定という方針で、井上大輔と渋沢は「量入為出」(収入に応じた各省定額制)を主張して対立した。収入(租税)さえつかめない現状では租税統計調査を先行すべしと渋沢は建言した。租税の基礎をなす民間の商工業に人が居ないこれでは国家の態をなさないので辞任したいといったが井上の慰留に会った。逆に井上から2か月ほど大阪造幣局への出向を命じらた。これは旧藩の発行した贋金の政府兌換引き受け問題であった。旧貨幣を集め、改鋳を行い大きな利益を得たという。政府では木戸、大久保、伊藤らが岩倉大使欧米派遣に随行した。明治5年大蔵省の事務は井上が全権で、渋沢が次官であった。歳入の調査結果は4000万円という統計が出て、各省の予算を節約して紙幣兌換の制を設けたいというのが井上、渋沢の主張であったが、司法省、文部省ははなはだしい増額を求めたため、大蔵と各省には一種の権力闘争のような状態となった。司法卿の江藤新平(萩の乱で死刑)が強硬に攻撃し、井上は留守をあずかる三条公、参議の西郷、板垣、大隈らの調整の期待を持った。井上は国立銀行条例を布告し、三井の三野村利左エ門が第一国立銀行を計画した。ところが外務卿副島種臣らは台湾征討を建議し、渋沢はその外征の愚を主張した。そこへまた司法。文部省の定額論が再燃し、政府はこれを拒否しないため、井上と渋沢は財政改革の意見書を提出し大蔵官を辞任した。渋沢は三井の第一国立銀行創立に従事する約束をえて、官吏から商人への転身を図った。


第2部 「維新以後における経済界の発達」

1) 貨幣制度の整理

本書の第2部は渋沢栄一が大蔵省を退官した34歳からの活躍を記すものであるが、もはや文体としては「自伝」ではなく、渋沢が携わった明治経済史概観いとう評論である。第2部は3)銀行の発達がメインである。渋沢が大蔵官を辞してから、永年第1国立銀行の育成に力を尽くしたからである。1)貨幣制度の整理は、渋沢が大蔵省に在籍した明治5年までの内容であるので、ある程度「雨夜譚」の内容に重複する。渋沢が大蔵改正掛にいたころ、共同執筆した「貨幣条例」という冊子を作製した。貨幣制度は明治4年にできたが、金本位制を取りながら「金」がないので兌換できないという建前だけの制度であって銀が通貨となった。これが金の蓄積によって明治30年に至って、金の目方四部を1円と定めた。松形正義卿は明治14年に大蔵卿となって以来明治19年まで営々と努力して、この「不換紙幣」を兌換できるになった。ただし金本位に移行したという願いはあっても金がないので銀が通貨となった次第である。欧米並みに金本位制にできたのは、実に明治28年に日清戦争に勝って賠償金を手に入れてからである。ただしこの明治30年には貨幣価値は半額に切り下げられた。渋沢らはまだ金本位制への移行は早いのではないかと松方卿に意見を陳述したのであるが、松方卿の悲願と英断によって、日本は西欧社会に大人入りをできたことになる。横浜正金銀行の整理、特殊銀行の創設は松方卿の成果である。なお明治18年の内閣制度改正によって、卿は事務長官、内閣に入って大臣となった。松方卿は明治14年から25年まで大蔵大臣、明治30年に総理大臣兼大蔵大臣となられ、金貨制度は実施された。日本の金貨制度の実施は松方卿の功績であった。

2) 公債の沿革

明治4年に伊藤公がアメリカ調査で見聞した公債証書(米国は1863年に実施した)を実行しようとすることから始まった。渋沢は1867年フランスで公子留学資金のために公債を買ったことがあるので知らないわけではなかった。しかし制度として導入するのは廃藩置県後の明治4年、旧藩の藩札処分のために渋沢が井上公に提案したことに始まる。年4分の利息をつけて旧藩の借金を肩代わりしたのである。しかし古い棄損は取り上げぬことになった。明治政府は日清戦争・日露戦争のときにも様々な公債を発行した。金融を円滑に進めるために、政府の事業を進めるために、公債発行はなくてはならないものになった。

3) 銀行の発達

伊藤公のアメリカ国立銀行制度見聞によって、銀行とはどういうことをやるのかは分かったが、しかしこうも官と民の知識面での実力差があってはどうにもならない、当事者の知識を進め人格を上げると同時に資金力を高めなければならないと渋沢は感じたという。イギリス留学組は中央銀行方式を主張したが、渋沢は日本は伊藤公のアメリカ式国立銀行制度に倣うべきだと決定した。こうして明治5年に福地源一郎氏翻訳になる「国立銀行条例」が出来上がった。不換紙幣を金貨で兌換しようとするのが国立銀行の理想であったが、まずは第1から第5の国立銀行が創立された。井上大蔵大輔は現在の租税収入は農租だけで、商工税収入がほとんどないようでは国家の収入が不安で仕方がないので、実業の発展により租税を高め、政府経費を節約して資金蓄積を図り、貨幣制度によって不換紙幣を兌換できるようにしようというのが大蔵省の方針となった。各省が少ない租税からなる予算のつかみ取ることを許すなら、国家の出納は破産する。この意見が入れられなかったので、明治5年井上公と渋沢は大蔵官を辞任したのである。「国立銀行条例」に呼応してきたのは、三井と小野組で両社は合併して政府の出納を取り扱う掛屋であるが、銀行と称することでアメリカ式の銀行設立を図ったのである。三井・小野組が大蔵官をやめた渋沢氏に銀行事務をやってほしいといってきたので、実業界に出た渋沢氏は大隈侯の許可を得て明治6年第1銀行総監に就任した。三井と小野組の調整が主な役割であったが、以来43年間(35歳―78歳まで)銀行に勤務した。渋沢氏の実業会での活躍は銀行を中心とした、企業家活動である。国立銀行の営業は最初から大きな困難に陥った。我国の金の所有高は微々たるもので、金本位制は建前だけの銀通貨に過ぎなかった。すると銀行の紙幣はすぐに換金できると思われると、銀行が金の流出口になるのである。最初の2年間はまだしも、明治8年ごろから金の相場が上がると紙幣の交換がすこぶる頻繁となった。こうして銀行はできても金貨制度は実施しえないことが暴露された。このため小野組は破たんし、銀行業務も縮小のやむなきになり、大隈侯に金貨引き換えの停止を願い出た。時の大蔵卿は大隈侯で、次官は松方侯であった。明治9年に銀行紙幣は政府紙幣で兌換するというように条例が改正された。併せて士族や華族の「秩禄」を公債証書で一度きり支払うことにして廃止し、この公債をもって銀行を経営させるということになった。明治9年国立銀行条例が改正され、一挙に152の銀行ができ銀行の組織がようやく普及することになった。この改正は金融調達のためにも役立ったので、合本会社の設立に役立ち多くの企業が生まれる契機となった。明治10年西南の役が起こり政府は多額の紙幣を発行した。軍費に1500万円を発行した。紙幣の流通が増すにつれ、明治12年ごろから諸物価が高騰した。インフレで一見景気が良くなったように思われ、輸入が増え貨幣価値が下落した。そこで不換紙幣の問題が議論され、外国から金を借りて兌換する方策も主張されたが、松方侯は発行した紙幣を減縮して紙幣と正貨の差を縮める方針であった。明治14年から5年ほどで兌換制度を実施する運びとなった。政府紙幣で兌換する国立銀行の紙幣も結局兌換できるようになった。中央銀行すなわち日本銀行の設置は明治15年のことである。日本銀行の設立は国立銀行のにとっては歓迎すべきことであり、自然金融が円滑になったのである。アメリカに連邦準備銀行ができたのは大正4年であるから、中央銀行の設立は日本のほうが早かった。紙幣の発行は日銀に移ったので、国立銀行の紙幣発行特権は1期20年で消滅した。そして明治29年より私立銀行として再出発することになった。日銀は明治23年に川田小一郎氏は総裁となり、今日の日銀の基礎ができたといえる。銀行は次々と名称を変え、三井銀行、安田銀行、三菱銀行など新たな銀行が生まれた。日本銀行は日本内の業務を統べ、海外業務は横浜正銀が治める体制となった。横浜正銀のほか特殊銀行として、日本勧業銀行、日本興業銀行、台湾銀行、朝鮮銀行、北海道拓殖銀行などが設立された。普通銀行は都市銀行となって全国いたるところに支店本店を持った。政府が国債を発行すると、各種銀行が中央銀行(日銀)の旨にしたがって応分の引き受けをなすという慣例が固定化した。銀行間の決済に融通をしあう体制も出来上がった。さらに手形交換所(為替手形、約束手形など)の取引を第1銀行が明治8年ごろ、大都市にに開き大いに銀行業務が発達した。

4) 会社企業の発達

渋沢氏が設立した合本会社の一部を語る章である。渋沢栄一は500を超える会社設立に関係したといわれる。銀行が融資した程度の会社なのか、設立時の大株主だったのか、経営に深く関与したのか、親族を経営者にした同族会社なのか、関与の程度はさまざまである。合本組織とはいわゆる株式会社のことである。銀行と同様な合本組織の最初は王子製紙会社を設立したことに始まる。資金は三井、小野組、島田組の合本である。銀行業だけでなく工業会社の創立を企てることが隆盛になった。文明を支える印刷業を作るにはまず西洋紙を作らなければならないという精神で王子製紙会社が作られた。明治12年東京海上保険会社を設立した。明治13年大阪紡績会社。東洋紡績会社。などなどあとは省略する。公益法人渋沢栄一記念財団のホームページに渋沢栄一が関与した会社521社の一覧を業種別に類別している。参考までにみてください。


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