081217

江藤淳著 「南洲残影」

  文春文庫(2001年3月)

西郷隆盛はなぜ城山で憤死したのかー日本の近代化路線をめぐる対立

私は江藤淳著 「海舟余話」(文春文庫)とともに、江藤淳著 「南洲残影」(文春文庫)を7年前に読んだ。西郷隆盛の西南の役を滅びの文学で捉える江藤淳氏の心情にある種の共感を覚えた。なぜなら教科書で教えるような、「没落士族」に担がれて無謀な反乱を起こした西郷と云う捉え方には、昔から納得が行かなかったからだ。明治5年の「征韓論」は、はたして単に「没落士族の失業対策事業」であったのだろうか。武治と文治の弁えができず、時代についてゆけなかった時代遅れの西郷というのは、あまりに西郷を冒涜するような木戸、岩倉らの勝者の論である。本書を読んでわかるのは、江藤淳は西郷の挙兵を和歌(日本文化)の滅亡と云ういかにも文学者らしい文脈で解釈している。滅びの文学といえば、誰しも「平家物語」という叙事詩を思い浮かべる。これまた結論的にいえば、行動と云う史実を残して日本人の覚醒を呼び起こすという論となる。明治維新で日本は亡んだ。亡んだのは王朝文化であって、亡んでよかったと云う人も入るだろうし、良き日本がなくなったと悲憤慷慨する人も入るだろう。しかし西郷隆盛は源義経、赤穂浪士とともに日本人の大好きな「日本人」であり続けてきた。共通項は時の権力によって亡ぼされた人物である。庶民には「権力は悪者」という考えが伝統的に身についている。反対者が正義かといえばそれほど単純ではない。内紛、権力争いに過ぎなかったかもしれない。しかし内紛程度であれば、権力者の中の意見の違いであって反乱を起こすこともない。多くはどこかで妥協し、権力の一部を占めたがる。権力に絶望した者のみが立ち上がるのだ。それは殆どの場合、滅亡と云う形で終息するのがならいである。では西郷隆盛は何に絶望し立ち上がって星になったのだろうか。

その前に著者江藤淳氏について紹介する。江藤氏は云うまでもなく、「夏目漱石論」で世にでた、日本を代表する文芸評論家である。私は江藤淳 「夏目漱石」(新潮文庫)を20年前に読んだ。また薩摩出の山本権兵衛の海軍創設を描いた「海は甦る」、「荷風散策」も読んだ。どちらといえば体制派の保守的評論家である。其の知性は確固たる者がある。
江藤 淳(えとう じゅん、1932年12月25日 - 1999年7月21日)は夏目漱石の研究などで著名な日本の文学評論家。戦後日本を代表する文学者で、20代の頃から長らく文芸時評を担当し、大きな影響力を持った。また、保守派の論客としても知られた。『漱石とその時代』(新潮選書)で菊池寛賞と野間文芸賞を受賞している。代表作『成熟と喪失』(講談社文芸文庫)は戦後文学を読み解く重要文献として重要視されている。また、『閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本』・『一九四六年憲法-その拘束―その他』(いずれも文春文庫)などでGHQによる戦後日本のマスコミへの検閲、GHQの呪縛から脱却できない戦後民主主義を鋭く批判した。1958年には、石原慎太郎、大江健三郎、谷川俊太郎、寺山修司、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対した。1962年、ロックフェラー財団の研究員としてプリンストン大学に留学。1963年、プリンストン大学東洋学科で日本文学史を教える。1964年に帰国。帰国後、愛国者にして天皇崇拝家の様相を帯びる。1971年から東京工業大学助教授、のち教授となる。『勝海舟全集』の編纂に携わるが、これは海舟を、江藤が理想とする「治者」の典型と見てのことである。晩年、理想とする治者とは正反対の存在である永井荷風、西郷隆盛を論じ、意外の感を与えた。1998年暮れ、慶子夫人が死去、翌1999年7月21日、雷雨の晩に鎌倉市西御門の自宅浴室で剃刀を用い、手首を切って自殺、66歳没。妻の葬儀のあとのことで、自身も脳梗塞の後遺症に悩んでいた。遺書中の「形骸を断ず」という一節は名文句と言われている。
江藤淳の「形骸を断ずるの辞」
「心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。平成十一年七月二十一日 江藤淳」

「南洲残影」(文春文庫)は字も大きく読みやすい。内容的には西南の役の隆盛軍の行動と戦闘場面が多いのはやむをえないだが、私は軍略家ではないのでべつに面白くはない。そこで戦闘場面は極力省いて、「西郷隆盛はなぜ城山で憤死したのかー日本の近代化路線をめぐる対立」という文脈で本書をまとめたい。

西郷隆盛はなぜ城山で憤死したのかー日本の近代化路線をめぐる対立

明治の賢人として名高い旧幕臣であった勝海舟は、西郷隆盛の盟友であった。はやる両軍を押さえて、江戸城無血開城を西郷隆盛と共に成功させ、百万の江戸市民を救った恩人である。江藤淳氏は「海舟余話」において、この勝海舟に政治的人間としての極致を見、尊敬してやまない。その勝海舟が江戸城無血開城を振り返って,西郷との腹を割った友情を振り返った漢詩を下に示す。ところが明治14年ごろ海舟はひたすら西南の役の失敗者南洲を追慕してやまない漢詩を書いた。下に南洲五回忌の追悼詩を示す。
明治25年 勝海舟作 漢詩
「官兵迫城日 知我独南洲 一朝誤機事 百万化髑髏」
明治14年 勝海舟作 南洲翁死後五回之秋
「惨憺丁丑秋 回想一酸辛 屍化故山土 遺烈見精神」

また、一私人海舟の心情、あるいは真情が切切として流露してやまない「城山」という薩摩琵琶歌を書いた。
明治17年 勝海舟作 「城山
「それ達人は大観す。抜山蓋世の勇あるも、栄枯は夢かまぼろしか、大隈山かりくらに、真如の影清く、無念無想を観ずらむ。何をいかるやいかり猪の、俄に激する数千騎、いさみにいさむはやり雄の、騎虎の勢い一徹に、とどまり難きぞ是非もなき、唯身ひとつをうち捨てて、若殿原に報いなむ。明治ととせの秋の末、諸手の軍打ち破れ、討ちつ討たれつやがて散る、霜の紅葉の紅の、血潮に染めど顧みぬ、薩摩たけ雄のおたけびに、うち散る弾は板屋うつ、あられたばしる如くにて、おもてを向けんかたぞなき。木だまに響くときの声、百の雷一時に、落つるが如きありさまを。隆盛うち見てほほぞ笑み、あないさましの人々やな、亥の年以来やしないし、腕の力もためし見て、心に残ることもなし。いざもろともに塵の世を、のがれ出でむは此の時と、唯ひとことなごりにて、桐野村田をはじめとし、むねとのやからもろともに、煙と消えしますら雄の心のうちこそいさましけれ。官軍之を望み見て、きのうまでは陸軍大将とあふがれ、君の寵遇世の覚え、たぐひなかりし英雄も、けふはあへなく岩崎の、山下露と消え果てて、うつればかわる世の中の、無量の思い胸にみち、唯蕭然と隊伍を整へ、目と目を合わすばかりなり。折りしもあれや吹きおろす、城山松の夕嵐、岩間に咽ぶ谷水の、非情の色もなんとなく、悲鳴するかと聞きなされ、戎衣の袖もいかに濡らすらむ」

この曲譜はいわば西郷の中にひそむ、あくことのない失敗への情熱(滅亡への誘惑)とでも云うべきものに海舟は共鳴しているのである。維新の回天に成功した西郷は、西南の役に失敗し、失敗によってその生涯を完結させた。足尾鉱毒糾弾闘争において、政治家田中正造翁は水没させられた渡良瀬村で憤死することで、永遠の生命を得たことと共通するものがある。妥協と地位に明け暮れる政治家は歴史には残らない。全滅を志向する政治家によって始めてその遺志が記憶されるのである。平家物語が平家琵琶によって朗誦され、弾奏される時、心に染み入るのは滅亡の譜である。あれほど完璧に亡んだ平家、三代で北条氏にとって代わられた源氏の両武士階級の滅亡の叙事詩が平家物語である。義経が亡んだ時、頼朝三代の源氏も滅亡に向かって進んでいたのである。南州が自滅の道を歩み始めた時、海舟は東京の旧幕臣の生活の面倒を見て、薩軍への加担を許さなかった。ところが守ったはずの現実が、西郷なきあと音を立てて崩壊してゆくではないか。薩摩の士風が滅んだ後、徳川の士風も崩壊していた。平家から始まる武士階級の全面的滅亡である。一切はそのようにして滅びるしかないのだ。海舟は「近代日本」に賭けていた。これでよかったのだろうかという一私人としての懐疑が海舟の胸を横切った。

西郷隆盛は同じ薩摩出の大久保利通と意見別れをし、征韓論を唱えたが岩倉具見一行の「遣欧派遣使節団」が帰るまでは身動きできず、やむなく下野して薩摩に帰り、私学校を開いて地元士族の糾合を図った。各地で士族の反乱が起きる中、西郷もついに明治10年2月15日決起に至った。そのとき西郷軍の発進について熊本鎮台を過ぎる時に出した照会書を下に示す。
西郷隆盛の照会書
「熊本鎮台司令長官へ   拙者儀、今般政府へ尋問の廉有之、明後17日県下発程、陸軍少将桐野利明、陸軍少将篠原国幹、および旧兵隊の者共随行致候間、其台下通行の節は、兵隊整列指揮を可被受、この段照会に及候也   明治10年2月15日 陸軍大将西郷隆盛 」
なんと力強い照会書(命令書)である。これには鹿児島県令 大山綱良の添え状もついていた。「政府を尋問する」ために兵を率いて東上するから熊本鎮台の兵士は整列して陸軍大将の命を受けよと云うものだ。時の鎮台司令官は谷干城は少将、参謀長樺山資紀は中佐であるから、大将の前には命を受ける立場だと云うのだ。西郷は下野していたから、陸軍大将に政府糾弾の正統な権限があるわけではないが、軍事クーデターをおこそうというのではない、西郷に道義的(人格的)な資格があるといわんばかりである。政府は一体何をしてきたのか。外国の軽侮を招き、内にあっては士族の禄を奪い貧窮のどん底に突き落としてきたではないか。このような卑小と悲惨のために維新回天の大業がなされたのではない。

西郷軍の総兵力は、核となる私学校党1万3000人以下3万余人である。それに対する政府軍の総兵力は海軍を除いて5万8500人であった。人数だけで言えばそれほどの差はない。しかし問題は金と兵站補給力である。西郷軍は70万円程度、政府軍は4500万円(海軍は65万円)程度であった。政府は外国から軍資金を集めていた。ざっと見ても義経のように瞬時に決するなら西郷軍に勝ち目はないとは言えないが、近代戦争では総力戦で持久力と資源で決せられる。やはり西郷軍に勝ち目はなかった。熊本鎮台を包囲する作戦が決定的に失敗であった。しかし西郷は指揮は取っていない。桐野利明、篠原国幹、村田らに任せていた。ここに最初から西郷は敗れるつもりでったという推測も出来る。滅亡への覚悟が出来ていた。2月19日政府は西郷軍を叛徒とみなし三条実美と天皇の征討令が出した。征討将軍は有栖川親王である。そこで西郷は自筆で返書を書き、大山綱良名で「別紙」を政府へ出した。
「別紙」(抜粋)
「征討の名を設けられては、全く征討をなさん為暗殺を企て人民を激怒なさしめて罪に陥れ候姦謀にて、益政府は罪を重ね候訳にては有之間敷哉、乍恐天子征討を私するものに陥り、千歳の遺憾此の事と奉存候。・・・・・・この時に当り、閣下天子の御親戚に被為在ながら、御失徳に不立至様、御心力を可被尽処、却って征夷将軍として御発駕相成候義何共意外千万の仕合に御座候。就いては天に事ふるの心を以って、能く御熟慮被為在、御後悔無之様、偏に奉企望候。」
天子さえ徳を失う事なしとは言えない。この国を西洋に変え、国を亡ぼそうとする天子と政府の姦謀を粉砕するために鹿児島を出たと云うのである。「尽忠」ではなくとも「報国」、すなわち国に報いるという熱情がほとばしっている。

熊本鎮台をめぐる包囲戦はまさに戦略的に重要な戦いで、ここで勝てば西郷軍は西国を制覇できたであろう。しかし鎮台の谷干城長官は政府の援軍が来るまでよく凌いだ。最初西郷軍には強行突撃し門司から中原にでる策もあったが、結局長囲の策となった。結論的には西郷軍は負けているので、タラレバの戦略をいっても意味はない。鎮台が粘って持ちこたえていたので政府の援軍がぞくぞく到着し、戦線は政府軍に有利になった。そして熊本は廃墟になった。井上巽軒の漢文長編詩を落合直文氏が和文化して「孝女白菊の歌」の歌が出来た。熊本の士族は敵味方に分かれて死闘をし、家族は難を逃れて阿蘇山深く隠れ住んだ人がいた。賊軍に加担した家族の悲惨さを歌った歌である。
明治21年 落合直文 「孝女白菊の歌」
「阿蘇の山里、秋ふけて/なかめさびしき、夕間暮れ/いつ此の寺の、鐘ならむ/諸行無常と、つげわたる/おりしも一人、門に出て/父を待つなる、少女あり/・・・・・・・・/この時母と、諸共に/そこを出で立ち、はるばると/阿蘇のおくまで、のがれきて/しはしそこには、すみにけれ/後にし聞けば、父上は/賊にくみして、ましますと/いふよりいとと、胸つぶれ/袖のひるまも、あらざりき/・・・・・・・」
ここには西郷滅亡の影に泣いた少女の歌である。明治20年ごろの日本人には西郷の死とともに、何か大きなものが亡びたことを知った。

3月10日岩倉具視は島津久光に勅使柳原前光を派遣した。勅使に会うために出かける鹿児島県令大山綱良に対して西郷隆盛は「何分曲直分明ならざれば、鎮撫もへちまもなく、断然条理に不相戻候処・・・・」と再考を促す手紙を送ったが、大山は死を覚悟して勅使に囚われに出向いた。皆が滅亡に向かって静かな行進を続けたのである。岩倉が云う天皇も、天皇の政府もいずれも制度であってそれは西郷の相手ではないから反論するつもりはなかった。西郷は別に政府改革をめざしたのではない。天皇も従うべき条理がある事を言いたかったのだ。日本に殉じる以外に西郷の条理はない。3月末田原坂の戦いで破れた西郷軍はただ敗走する以外の何者でもなくなった。熊本から木山へ、人吉への山中彷徨軍、宮崎へ、都城、熊田、長井へと本営を移しながら最期に西郷が鹿児島に戻ったのは9月1日であった。多くの人材を失い最期まで従軍したのは300余人であったと云う。城山に陣を置いたのは実に鹿児島を出てから199日目のことであった。9月24日官軍の総攻撃が開始され、西郷は戦死した。五稜郭の乱で散った新撰組の土方歳三の武士魂にも通じる。中央集権制の官僚政府の前に、旧士族の戦いはここに終焉した。

西郷が戦ったの戦争ではなく、戦いは桐野らの将軍に任せて、拙に戦い、拙に敗れた。そこから浮かび上がってくるものこそ、西郷挙兵の目的である。近代化の西欧文明の摂取が増大するにつれ、西欧に奴隷化してゆくのである。日本の精神の気魄は近代化の努力と共に頽廃し、崩壊し、空に化していったではないか。何のために維新を断行したのか。西欧による植民地化を防ぎ、日本の独立のためではなかったのか。それが近代化の過程で西欧文明に絡め取られてゆくだけではないか。西欧からの独立のための近代化が、西欧への隷従になった。どうしょうもない矛盾である。西郷の首を改めた政府軍山県有朋参軍は自殺せず戦死した西郷の強烈な思想に対面した。国粋主義でもなく、排外植民地思想でもなく、それらを全て超えた軍人西郷は、日本人の真情を深く揺り動かして、今も止まない「西郷南洲」と云う思想である。


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