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五木寛之・香山リカ対談 「鬱の力」

 幻冬舎新書088(2008年6月刊)

日本の21世紀は出口の見えない欝の時代である。抗鬱剤を飲む前に、欝を力に変えよう。

五木寛之氏はいうまでもなく著名な小説家である。私は五木寛之氏の初期の作品よりは、最近の作品、とくに線香臭い話ばかりを読んできたようだ。「百寺巡礼」 講談社や私訳「歎異抄」 東京書籍などである。この読書ノートコーナーにおいて五木寛之著 私訳「歎異抄」を紹介したことがある。五木氏の簡単な紹介をしておこう。福岡県生まれ、雑誌編集者・作詞家・ルポライターを経て、1966年「さらばモスクワ愚連隊」で小説現代新人賞、67年「蒼ざめた馬を見よ」で直木賞、76年「青春の門」で吉川英治文学賞を受賞した。代表作に「朱鷺の墓」、「戒厳令の夜」、「蓮如」、「大河の一滴」、「他力」、「不安の力」がある。2002年菊池寛章、2004年仏教伝道文化賞を受賞した。宗教的作家を宗派別にいえば、水上勉氏が禅宗妙心寺派とすれば、五木寛之氏は浄土真宗本願寺派であろうか。五木寛之氏の優しさは親鸞に由来するようである。今回五木寛之氏は今時代の流行病である「鬱」を文明論的に解釈して、「鬱的気持ち」の処方箋を書いた。それを精神科医である香山リカ氏と補完し合おうと云う企画である。

香山リカ氏は精神科医で立教大学心理学部教授である。この読書ノートコーナーにおいて、香山リカ著 「悩みの正体」 岩波新書を紹介した。著者香山 リカの紹介をしておこう。香山 リカ氏は、北海道札幌市生まれ、小樽市出身の精神科医。本名非公開。評論家、文筆家としても知られ、エッセイなど数多くの著書を世に送り出している。東京学芸大学附属高等学校から東京医科大学卒業。小樽市立小樽第二病院への勤務、神戸芸術工科大学・帝塚山学院大学などを経て、現在は立教大学の教授を務めている。また「九条の会・医療者の会」に参加しており、「マガジン9条」発起人である。また靖国神社に代わる新たな追悼施設に関しては、戦争責任がうやむやにされるため反対と発言するなどの、政治活動を活発に行っている。「悩みの正体」 岩波新書において、「悩みの正体は社会が作っている、悩みの責任はあなたにあるのではない。自分を追い込んで本当の「鬱」にしてしまう前に、目を開こう、人に相談しよう。そもそもそれを悩まなくてもいい社会にすることが最良の解決策なのだが、悩みが打開の社会的行動に変る事もある。」と悩みを評価する。いかにも社会派精神科医といわれる所以である。 今回の対談はこの「悩み」を「鬱」に置き換えれば同じテーマであろう。

先ず誤解を避けるために、身体的症状を伴う脳神経の病気である「鬱」と、感情である「鬱」(鬱的な気分)は分けて考えなければならない。この本で問題にしている「鬱」とは当然後者の心(感情)の問題である。ところが病院の精神科や心療内科へ行けば、区別なしに薬をくれてそれが利くものだから、最近「鬱」の罹病者がめっきり増加し、文明の流行病となった感がある。脳神経の病気であるほんとうの「鬱」の人はこの本を読まないように。差別されたような、バカにされたような気がするとかえって症状が悪化するかもしれないから。この本は対談形式をとっているので、当然敬老精神を発揮して精神科医香山リカ氏は受け手に回り、話題提供者は五木寛之氏と云う役柄である。五木寛之氏がいう現代社会の文明論に、香山リカ氏が医学的同意を与えている形式で対談は進行する。戦後の高度経済成長からバブル期をへて金融ビッグバンやグローバル経済を「躁」の時代は終り、21世紀は本格的な「鬱」の時代が始まった。そしてこの「鬱」(鬱的な気分)の時代はこれから半世紀は続くであろう。そして「鬱」(鬱的な気分)はエネルギーが貯まってゆく状態で、出口が分らずに跳躍のエネルギーに満ちている時であるので、「鬱」は薬で治してはいけない。鬱の時代は鬱のままに生きるのだと云うことが、五木氏の結論である。本書は一応三部形式である。気の向くままのおしゃべりなので、論理の展開という形の三部形式ではなく、息継ぎのための三部分け程度に考えて、まとめてゆこう。

本読書ノートにおいて、有田秀穂著 「セロトニン欠乏脳」 NHK生活人新書を紹介したことがある。鬱病に関する医学的な最低限の常識を再度紹介する。
神経情報を伝達するのにはシナップスという神経細胞結合部において神経伝達物質を必要とする。人間には4つの重要な伝達物質がある。セロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミン、アセチルコリンである。セロトニンは脳幹にある縫線核で生産され、セロトニン神経はほぼ全部の脳神経に情報を送り、交感神経優位の平常心(緊張・不安を取り除く)を保つ重要な役割がある。特に何をするというわけではなく過剰・異常な神経活動を抑制することである。鬱病はセロトニン神経が弱って神経伝達物質のセロトニン分泌が少ないためにおこる気分障害で、パニック症候群はセロトニン分泌は正常だが脳の疲労によって乳酸がたまりセロトニン再取り込みを促進するために、ストレスに過敏に反応するノルアドレナリン神経が発火して不安、パニックを引き起こす症状である。スランプも疲労が原因で起きる障害です。これらの障害には対症法的にはセロトニンの再取り込みを抑えてシナップス近辺のセロトニン濃度を上げるが効果的である。SSRI( 選択的セロトニン再結合阻害剤:ルボックスが代表的)の服用で危機は脱せられる。しかしながらSSRI服用だけでは数ヶ月単位で障害が繰り返す。かなり長期間の治療を要する厄介な病気である。最後にセロトニン神経を鍛える十カ条を纏めておきます。
1)リズム運動(座禅など腹筋呼吸法、ジョギング、サイクリング、水泳、ウォーキングなど)を無理なく継続すること。
2)リズム運動の継続時間は15−30分が適切です。
3)リズム運動を意識的に一生懸命やること。
4)リズム運動で爽快感が得られたかどうか確認。体を動かせば気分が爽快になるのが普通です。
5)疲労物質が蓄積しない程度でやめること。30分以内がめど
6)セロトニン神経の自己受容体の数が減るまでに3ヶ月かかる。効果が出るのは3ヵ月後です。
7)朝の寝起きや意欲の向上、姿勢などに関心を持つこと 
8)良くなったと思っても3年は継続、つまり生涯の生活習慣化すること
9)太陽を浴びながらのジョギングは2倍の効果がある  
10)食事内容を炭水化物中心にして、バナナ、納豆など豆製品、チーズなど乳製品を摂ろう。

第一部 鬱は「治す」ものなのか

現在は「鬱」の大流行である。テレビでタレントの鬱体験談が語られ、「鬱は心の風邪」と受け止めるように言われる。「頑張れ」といってはいけない。とかさまざまな処方箋が語られているほどの国民病になった。一生のうち1回でも鬱病になる率は15%といわれている。ほんとうに鬱病が増えているというよりは、今まで鬱病とはされなかった人まで鬱病と診断しているようである。精神科の現場では80%が鬱病で、10%程度が脅迫神経症などの神経症やパーソナリティ障害、10%未満が統合失調症である。この原因は抗鬱剤として選択的セレトニン再結合拮抗剤(SSRI)が開発されて、1990年後半から治療への道が開けたこと、そしてもうひとつは1980年にアメリカ精神医学界が発表した「DSM-V」という診断基準がひろまり、鬱の背景を一切問わないで2週間以上鬱状態が続いたら「鬱」となったからです。「鬱的気分」やノスタルジーやメランコリーといったものまで、すべて病気になってしまった。

この辺から五木寛之氏のちゃちが入って本論から脱線ぎみであるが、ようするに医学的常識が大きく揺らいできたいうことをいいたいようである。五木寛之氏は鬱の起因を社会的なものに帰することには異論があるようだ。阪神淡路大震災の時以来自殺者やアルコール依存症が急増した。「全て地震のせいだ」というのは、戦後の「戦争のせい」とか「引き揚げの時」とか云うエクスキューズへ問題をすり返るからだ。問題と向いあう「認知療法」も自分の考えを捉えなおすことになる。鬱の文学の系譜として、夏目漱石、芥川龍之介、宮沢賢治など鬱と向かい合って生きてきた。そういう自分のものとして体得する生き方が必要だと五木寛之氏は主張するのだ。

第二部 日本社会は劣化したのか

2006年、日本では自殺者が3万2000人を超え、9年連続で三万人を超えている。政府は2006年に自殺対策基本法を立ち上げたが、何をして良いものかさっぱり分からずに手を打てないでいる。企業も鬱病で長期職場を離れられると困った事態になり、身体疾患で休職する人とメンタルヘルスで休職する人の比率が逆転している。そこで精神科医が引っ張りだこの流行の職業となった。精神科医は今日本では一万人台といわれているが、医学の中では医学扱いされていない肩身の狭い分野である。精神科という名前が嫌がられて、心療内科の看板を出す医者が多いが、何をやっているのか定義が難しい科である。精神科というのは人格破綻者と結びつけられて見られる風習がある。

2003年に「医療観察法」ができ、犯行時心神喪失または心神耗弱にあった人を、裁判所の判断で特別の治療施設に隔離して、再犯を防ごうとする法律である。池田小学校事件の宅間被告を予防拘禁するみたいな法律だと反発する人も多い。しかし9.11同時テロ以来監視カメラの普及は凄まじい。空港や英国以外でもあらゆる公共的場所で監視カメラは24時間通行人を監視している。なんか社会から逸脱した人を許さないという思想が世界を覆っている。多様である事が豊かな社会という感覚が麻痺した社会である。

自殺は単なる一人の死ではない。自殺は遺された家族や友人に大きな心的障害を残すのである。特に自殺した家族の子供の未来をめちゃくちゃにする。社会には自殺差別というものがあって、遺児は生涯差別されるのである。日本はこれから高齢化社会の時代に突入します。長生きすると「ガン」と「高齢者メランコリー」に襲われる。体力の衰えた高齢者を励ますのも問題である。

第三部 「鬱の思想」を生きる

第三部は完全に五木寛之ワールドの宗教論議に入る。日本人は雪や雨に美しさを感じるものだが、西欧人は「鬱」と見てどうも嫌がる傾向である。宗教の第一歩はだいたい治療から入るのである。聖書にキリストの奇蹟が多く書かれているが、頭痛、腰痛などは心理的な原因によるものである。宗教は心神症を治すことで布教していったようだ。戦前日本の社会は全員が躁状態(狐付き)にあった。軍部、メディア、国民の群集心理で大本営発表に狂喜した。それは狂騒の前の時代が世界恐慌、東北の飢饉から閉塞感の時代であった。鬱から躁へ暴走するととんでもないヒステリー社会になる。政治も経済も芸術も鬱の中でこそ豊に成熟するのである。江戸時代の文化の熟蘭は鬱だからこそできたことである。鬱を力にかえることで私達の行方に光が見えてくる。鬱というのは、これまで外に向いていた目が、自分の精神、魂、内面に向けられる時期である。経済のダウンサイジングも結構な事ではないか、人口減少社会も住みよい成熟した社会を作り直す絶好の機会ではないか、スローライフで行こうではないか。ということで、本書は基本的に話の筋道を追う書物ではない。話の面白さを追う本である。まとめてみるとなんと内容のない本である事か。一つ二つ納得できる言葉があったら良しとすべし。


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