080721

野村進著 「調べる技術・書く技術」

 講談社現代新書(2008年4月)

アジア・ノンフィクション作家がまとめたノンフィクションの手法

前書きに「あるテーマを設定して,それについて調べ、ひとに話を聞き、最後に文章にまとめる一連の作業を紹介する」と、この本の目的が書いてある。ハウツー物の本であろうか。しかしノンフィクション作家に誰もがなれるとは思えない。著者野村進氏がノンフィクション作家として成功した経験の法則が誰でもできるわけではないだろう。小説以外にノンフィクション作品は創作かといえば、架空のお話でないということではドキュメンタリーに属する。小説といっても自分のことを書いているものが多いので全くの架空の話でもない。ノンフィクション作品はテレビのドキュメンタリー番組の脚本とどう違うのかといえば、映像技術に頼らないで(写真技術に頼ってもいい)、文章で人に読ませるものだ。聞かせるものではない。聞かせる脚本と読ませる文章とどう違うのかといえば、耳と目の違いだけだが、耳から来る脳細胞の動きと目から来る脳細胞の動きはちがうのかどうかは脳科学者に聞いてみたいところだ。愚にもつかない自問自答はこれくらいにして、ノンフィクションという文学ジャンルは確かに存在する。事実その物ではないし、「盲象をなでる」式の認識論では解決しない。立場が違えば戦争一つとっても伝えたい内容は180度異なる。最近の米国の戦争報道は「捏造と欺瞞、宣伝」に満ちている。それを世界中のメディアを使って報道するものだから、白でも黒になる。かくもノンフィクションという分野は妖しげな文屋仕事であるが、一冊の本が人の目を開いて世界の窓を眺める事もある。だから大切なのであろう。われわれもノンフィクション・リテラシーを身につけなければいけない。

ノンフィクション作品は先ず第一に読みやすいものでなければいけない。私も小説、学術誌、ノンフィクションの中で結構ノンフィクション作品を読んできた。有名な作家を上げると、小田実、開高健、鎌田慧、本田勝一、高木徹、竹中労、辺見庸、大森実、猪瀬直樹、扇谷正造、大宅壮一、立花隆、柳田邦男、吉村昭、篠田一士などあげだしたらきりがない。ここで本書の著者野村進氏のノンフィクション作家の経歴を略記する。1956年生まれ、上智大学英語科中退。1970-1980フィリッピンマニラに交換留学をする。帰国後「フィリッピン新人民軍従軍記」を出してノンフィクション作家になる。1997年「コリアン世界の旅」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。「アジア 新しい物語」でアジア太平洋賞を受賞。そのほかの著書には「脳を知りたい」、「救急精神病棟」、「日本領サイパン島の一日」、「千日働いてきました」など、講談社+α文庫の作品が多い。現在拓殖大学国際学部教授である。

まさか本書を読んでノンフィクション作家になれると勘違いする人もいないと思うが、ではなぜこんなハウツーまがいの本を書いたのだろうか。ノンフィクション作家の心がけ、特に倫理面でのいい加減さや腐敗が横行するヤクザなノンフィクションの分野で、作家として先輩として伝えておかなければいけないという著者の危機感が書かしめたものであろう。系統的なノンフィクション学があるわけでもないがルールとフォームはある。きわめて簡単であるが、そのフォームを見て行こう。

第一部 ノンフィクションの手法
第1章:テーマを決める

全く独創的なテーマはそう転がっているものではない。ようするに手垢にまみれたテーマでも切り口が光っていたらよいのである。これを「チャップリンのステッキ」という。ただテーマが@時代の普遍性があるかA未来への方向性はあるかB人間の欲望を表現しているかC映像メデァでは表現がむずかしいD第3者が興味を持つかをチェックする必要がある。そして体当たりで動くのである。この時テーマを体験するという奥の手がある。現場に潜り込むのである。

第2章:資料を集める

取材の前に手に入れられる資料・本には目を通しておくのが第1歩である。これは何処の世界でも同じで、学問では文献調査という。グーグル、新聞切り抜き、資料ファイル、図書館・資料館・映像記録の利用、単行本の濫読などの常套手段を駆使する。

第3章:人に会う

公開された資料ではない自分だけの情報を第1次資料と呼ぶ、これは自分の足で集める。これが取材活動である。取材の申し込みから、取材ヒアリングの要点作り、取材メモ・録音の準備まで手を取り足を取るように、人との面会の約束を取る段階を誠実さをもって行うように著者は指導するのである。

第4章:話を聞く

いよいよヒアリングの段階である。相手は生身の人間である。警戒心を解く事が先決で、貝の口を閉ざされたらお終いだ。インタビューのメモ・録音は相手の了解を取り付けてからが常識である。「聞き上手・見尽くす」こと、人の表情、辺りの風景、言葉の語尾にいたるまで観察の対象である。インタビューの後にくつろいでからポロッとでる本音も聞き逃してはいけない。取材が終わったら礼状を書き、親しいお付き合いになれば満点である。重要な点は必ず別人から裏を取ること。

第5章:原稿を書く

一通り取材が済めば、自分の取材ノートの整理・索引作りである。整理して足らない視点から穴埋め取材も発生する。内容慷慨を作ってから原稿を書き出すのがセオリーであるが、著者は30歳台以降は梗概なしで、書き出しの文章をじっと練ることに集中するようになったという。いわば熟成期間を経て流れるように書き出すそうだ。そのほうが文章の流れが堅くならないでいいらしい。原稿を書く前に読むお気に入りの文章のことを「ペン・シャープナー」という。書き出しの一頁がすべてを決定するような本がある。取材から使う量は10分の1以下らしい、あまり材料が多いと焦点がぼやけるから材料は厳選して使う。「臭い文章」は止めたほうがいい。著者はノンフィクション作品の最も一般的なパターンは「書き出しで読者を作品世界に引き込み、自分の流れとリズムに乗せて引っ張り、幾つかの山場を作りながら構造の絵解きを見せて余韻を遺しながら終わる」であるという。

第二部 文章例
第6章:人物を書く

人物ノンフィクションはすべてのノンフィクションの基本中の基本である。読む人は人間に興味を持つからだ。ここで「AERA」現代の肖像(1989年1月3.10日)に掲載された著者の「大部屋育ちの玉三郎二世」という文章を引用する。著者の問題意識は世襲制への反逆と自己克服の経歴と歌舞伎舞台裏の紹介である。

第7章:事件を書く

月間「現代」の「ニッポンの現場」(1992年末ー1993年の1年間)に掲載された茨城県女子中学生集団自殺事件「5人の少女はなぜ飛び降りたのか」という著者の文章を引用する。ここに書かれたことがほんとうかどうかは知らないが、多くの人々へのインタビューを積み重ねて事件を再現してみようとする熱意には敬服する。

第8章:体験を書く

テーマノンフィクションの方法である。徳州会の雑誌「看護とケアマガジン」の「VIVO」に掲載された著者の「ナースにチャレンジ」という体験レポ文章を引用する。編集部から与えられたテーマであったが、ALS「筋萎縮性側索硬化症」病棟に下調べもせずぶっつけ本番でおこなった。汚物処理に吐き気を催しながら、患者の生きる姿に接する小田実の「何でも見てやろう」に近い、ジャーナリスト根性が大切であると説く。


随筆・雑感・書評に戻る  ホームに戻る
inserted by FC2 system