080621

梅棹忠夫著 「文明の生態史観」

 中公クラシックス(2002年10月)

京都学派文化人を代表する文化人類学者 野外フィールド研究のパイオニア 

梅棹忠夫著 「文明の生態史観」は今から約40年前に著された書物である。著者梅棹忠夫氏は「京都学派文化人」に属する「何でも屋」で、いわずと知れた「今西生態学・自然学」の系譜に属する弟子である。今時の「文化人」でこれほど間口の広い何でも屋さんは、前時代的であるといわれている。専門化した研究に従事する研究者はこのような広い玄関口はもてない。間口の広い人は中身が無いとかえって怪しまれる。大英帝国で博物学が風靡した時代はニューフロンティアの植民地主義の拡大期で、啓蒙主義の知の巨人といわれる人は数多くいた。今西氏や梅棹氏らが活躍した戦中や戦後の一時期にはそのような「知の巨人」の存在が許された幸せな時代があった。しかし世界は狭くなって啓蒙主義的な知識は普及したので、人文科学の分野でも実験が必要な実証科学が要求されるようになった。そうでないと誰も信用しないと云う時代である。実証に重きを置いた現代科学の時代では高度に専門化しているので、大まかな議論は詐欺師と間違えられる。高度経済成長をへて技術主導社会になると、学者もテクノクラート化して役に立つ研究のスタイルになった。なんの役に立つかわからないような研究には金が出なくなり、皆が同じ方向を向いて文部省の指導の下の科研費補助金研究に縛られる時代になった。大雑把ではあるが知的好奇心に支えられた今西氏や梅棹氏らの自然・文化人類学は古きよき時代の思い出となった。しかし今西・梅棹氏らの研究を振り返ってみることは、学問の基本に立ち返ることであるという意義があるのではないか。

梅棹忠夫氏の略歴を紹介する。1920年京都市生まれ。1943年京都大学理学部動物学科卒業。大阪市立大学、京都大学人文科学研究所教授となった。日本における文化人類学のパイオニアであり、梅棹文明学とも称されるユニークな文明論を展開し、多方面に多くの影響を与えている人物。京大今西錦司門下の一人。生態学が出発点であったが、動物社会学を経て民族学(文化人類学)、比較文明論に研究の中心を移す。博士論文は、梅棹の文化人類学的な研究を知るものにとっては意外かもしれないが、ヒキガエルのオタマジャクシが集団内でとる分布様式を、数理生態学的に解析したものであった。三高時代から山岳部で活躍し、京都大学在学中には今西錦司を団長、森下正明を副団長とする中国北部『大興安嶺探検隊』などの探検に参加活躍をした。モンゴルの遊牧民と家畜群の研究を基盤に、生物地理学的な歴史観を示した『文明の生態史観』は、日本文明の世界史的位置づけにユニークな視点を持ち込み、大きな反響を呼び論争を巻き起こした。この主著は後の一連の文明学におけるユニークな実績の嚆矢となった。フィールドワークや京大人文研での経験から著した『知的生産の技術』(岩波書店)は長くベストセラーとなり、同書で紹介された情報カードは、「京大式カード」という名で商品化された。また川喜田次郎氏の名をとった「KJ法」は知的議論の進め方の基礎となっている。1963年には『情報産業論』を発表。A.トフラーの「第三の波」よりもかなり先行した時期に情報化社会のグランドフレームを提示した。「情報産業」という言葉の名づけ親でもある。その後の一連の文明学的ビジョンは『情報の文明学』(1988年)にまとめられている。国立民族学博物館の設立に尽力し、1974年初代館長に就任した。1993年まで約20年間の長きにわたって館長を務めた。1986年に原因不明の失明をしたため、それ以降の著述は口述筆記で行われている。1994年文化勲章受賞。

梅棹忠夫氏の著作の特徴は大まかに4つにまとめられる。第1の特色は、フィールド調査(野外研究、探検)である。第2に比較文明論である。日本と西ヨーロッパの文明は互いに平行進化してきたという。日本の近代化は日本独自に成長したもので、西洋化によってもたらされたのではないと主張する。第3に日本の近代化の系譜は江戸時代にあるという見解である。北海道の近代化のみが異質であった。第4に文明の生態学的進化は「遷移」で説明されるという。自発的に遷移するか外因的に遷移するかで文明は分類される。大陸の両端にある日本・西欧州は自発遷移で進化しきた第1地域といい、中間の地域は他発遷移で変化する第2地域という。このあたりの発想は「文明の生態史観」で詳しくみるとして、梅棹氏の作品の特徴は以上の4つに集約される。「文明の生態史観」の特徴は東西文明と云う言い方は当を得ていないとして、第1地域と第2地域に分類したことである。第1地域とは封建体制のあとブルジョワの成長から高度資本主義体制の確立している地域である。第2地域とは資本主義的発展が未成熟で専制君主制か植民地であったか、植民地から開放された後も独裁体制にある地域である。第1地域は自発的発展で近代化し、第2地域では外因にかく乱されて変化しきた国である。巨大な乾燥地帯である。梅棹氏はこの第2地域(東欧州、北アフリカ、ロシア,中近東アラブ、ペルシャインド、中国、東南アジア)を「悪魔の巣、暴力的略奪の支配する国」という。おそらくモンゴル帝国とイスラム教国をイメージして言っているのだろうが、インド・東南アジアは非暴力だし、中国は文治主義(儒教)だし、東欧はいつも略奪されていただけであった。いまだと怒り出す国も居るような梅棹氏の表現は乱暴である。乱暴な切り口が新鮮に見えるだけであろうか。納得の行きかねる分類である。むしろ今で云う「発展途上国」といったほうが無難。地球温暖化防止条約の第2国群である。先進国と後進国と分けてもいい。

本書は「文明の生態史観」に関係した、1956年から1966年の10年間にわたる幾つかの論文をまとめたもので1966年10月に刊行された。本質は「比較文明論」を展開する事であると著者はいう。本書は11の論文からなり、長短あって、旅行記のようなメモもあれば、方法論のラフスケッチ的提案もある。色々なフェイズの小論文集である。

東と西のあいだ

1956年2月雑誌「知性」に掲載された。1955年5月京都大学カラコルム・ヒンズークシ学術探検隊(隊長木原均ら60名)に参加した著者はヒンズークシ班に属して人類学を担当した。私はこの「探検隊」とか「学術調査団」という言葉にすべからく植民地主義、帝国主義的なにおいを嗅ぐ。昔の「宣教師」とおなじ機能を果たしているような気がする。支配のための地ならし的調査で、そのあとから軍隊と企業がやってくるようなパターンを思い起こすのである。今西錦司氏の戦前の「学術調査」はまさに帝国陸軍の支援と保護がなければ実現できなかった。人の国を興味半分で「学術調査」すると云うセンスは今では許されないだろう。戦後の高度経済成長前の時代であったからできた事かもしれない。ということはさておいて、梅棹氏の論文はインドとパキスタンが中心で、紀行文というよりはかなり文明論的考察が主となっている。

アジアをその西側からではなく、東側から見たらどう見えるのかという視点が斬新であった。インド・カルカッタの貧しさ、人口密度のすごさには度肝を抜かれたと著者は語る。ヒンズー教のインドと、イスラム教のパキスタンが分離されたが、日本のような変わり身の早さが自慢されるのに対して、その社会のどうにも変わらない姿は「大盤石」のようである。英国植民地時代の価値体系はそのままに残っている。インドの言語はヒンズー語と云う共通言語はあるが、地方言語がそのまま存在する。インド文化の精神的優位性を信じきっているようで、新聞などは自己礼賛的である。インドの宗教は美とは縁の無いもので、逆に日本人の偶像崇拝とか宗教なのか美術なのか不分離な方がおかしいのかもしれない。イスラム教、ヒンズー教のいずれも宗教が主導の社会で、やはり西側との共通点があるようだ。日本や西欧のような政教分離ないしは世俗優位という体制にはない。キリスト教とおなじ「一神教原理主義」の国である。インドには既に仏教は存在しないといっていい。インドはむしろ西洋と文化的連帯感を深く持っているようだ。土着のドラヴィダ人と北から来たアーリア人との結合でインド・ヨーロッパ語族という親戚的分類にあるといわれる。インドは東洋ではない。むしろイスラム社会と歴史を共有している。東洋でもなく西洋でもないという意味で「中洋」という言葉も適当かも。インドは社会内部の革命を経験していない。外からの侵略と外国の力で動かされてきた。長子相続という封建制度も経験していない。インドには近代化に際して乗越えなければならない障壁が多い。カースト制、一夫多妻制、人口過剰、貧困、飢餓、資本の欠如、非識字、宗教の重圧などを筆者は指摘するが、執筆以後40年たった今、インド,中国は日本を乗越えるような経済発展を迎えている。著者が指摘した問題ははたして乗越えたのか、そのままなのか我々が今検証しなければならない。なにか基本的状況はそのままにして、経済的発展を迎えたような気がする。経済と社会の重圧は無関係なのか。これも外圧なのか。

東の文化・西の文化

1956年2月「毎日新聞科学欄」に掲載された。アフガニスタン・パキスタンの旅行記の短文である。ここで住民の面白いしぐさに文化的興味を覚えたということだ。子供を抱えるしぐさが子羊を抱えるしぐさに似ていることから、牧畜民族に思いを馳せ、挨拶の握手とキッスに自然さを覚えたらしい。日本人はぎこちないという。日本人のおじぎや合掌の習慣は何処から来たのだろうか。日本の仏教の祈りの合掌は東南アジアでは普通の挨拶になっている。というようなことに興味を持つことで文化の深淵に迫れたらいいなという小文である。

文明の生態史観

1957年2月中央公論にでた本論文には多くの反響があった。アーノルド・トインビー氏の来日公演に触発され、西洋人の日本に対する理解があまりにお粗末な事に反発したそうである。冒頭に南北アメリカ、オーストラリア、南アフリカなどの新世界は後で考えるとして、話をユーラシア大陸の旧世界に限定した。世界を東洋と西洋に二分することはナンセンスで、イスラム社会を忘れている。日本は中国漢文明の亜流なのではない。日本文化の座標はどこにあるのだろうか、文化は由来(素材)だけでなく、共同体の生活様式という機能を持っている。「文明の生態史観」の特徴は東西文明と云う言い方は当を得ていないとして、第1地域と第2地域に分類したことである。第1地域とは封建体制のあとブルジョワの成長から高度資本主義体制の確立している地域である。第2地域とは資本主義的発展が未成熟で専制君主制か植民地であったか、植民地から開放された後も独裁体制にある地域である。第1地域は自発的発展で近代化し、第2地域では外因にかく乱されて変化しきた国である。巨大な乾燥地帯である。第1地域の両端にある日本と西ヨーロッパは独自に平行的に進化してきた。これを「平行進化」という。決して日本文明は西欧の後追いではなく、江戸時代から明治維新後の近代化はなるべくしてなった独自の文明であるという。第1地域は高度資本主義国で帝国主義的侵略をした国である。第2地域とは東欧州、北アフリカ、ロシア,中近東アラブ、ペルシャ、インド、中国、東南アジアは植民地か第1次世界大戦後の独立国または共産圏国であり、所謂後進国であった。第1次世界大戦後ロシア、オーストリア・ハンガリー、トルコ帝国は崩壊した。中国では清帝国は崩壊して国共内乱となった。ロシアではプロレタリア革命が起きてソヴィエトが誕生した。第1地域での共同体生活様式の特徴は高度資本主義である。封建制度の過程でブルジョアジーが資本蓄積し産業革命をおこした。第2地域では資本主義は未成熟で、帝政もしくは独裁制もしくは植民地であった。日本の封建制の歴史と西ヨーロッパの封建制の歴史が実によく似た平行現象がある。宗教改革、庶民宗教の成立、ギルドの形成、自由都市の発展、海外貿易、農民戦争など日本の室町時代から戦国時代にすべて起った。ただ江戸時代に鎖国をやったため膨大な富の形成が遅れてブルジョワジーの成長が妨げられただけである。資本主義の要素はすべて江戸時代末期には熟成していたといえる。第2地域での専制帝国の社会もよく似た様相であったのでこれも平行進化といえる。

梅棹氏の「文明の生態史観」という発想は、生態学理論の比喩から来ている。「生態」は「共同体の生活様式」のことであり、その生活様式は「遷移」を起こすのである。一定の条件のもとでは、共同体の生活様式が一定の法則で進行し条件が満たされると変化するということである。これを「サクセッション(遷移)理論」という。そのナロジーで人間の文明の進化を説明しようと云うのである。サクセッションという現象がおきるのは、主体と環境との相互作用の結果が蓄積して、前の生活様式では収まりきれなくなって、次の生活様式に遷るという現象である。チグリス・ユーフラテス、インダス、ナイル、黄河の古代文明は第2地域周辺のサバンナ地帯で発生した。ギリシャ・ローマ文明も西ヨーロッパではなく、地中海の乾燥地帯で発生している。それは遊牧民族の文明であった。破壊と征服の歴史であった。近世になって遊牧文明は消滅して、四大帝国(中国、ロシア、インド、トルコ)が成立する。第1地域とは第2地域からの破壊をまぬかれた幸運な周辺であった。主として共同体の内部の力で変化できたのである。

新文明世界地図−比較文明論へのさぐり

1957年1月の「日本読書新聞」に出た。体系的な比較文明学の樹立に向けてのラフスケッチである。梅棹氏は文明の研究は総合と洞察を武器にせざるを得ないので、所詮文明論或いは文明批評であって「学」にはならないかもしれないといいながら、世界の歴史のばらつきと分布を問題にしている。「伝統と革命」では第1地域と第2地域の社会の変革の度合いを比較し、第1地域は綿々と社会は連続的変化をし、第2地域ではご破算に近い社会の破壊が起きるという。「開拓者と原始林」では南北アメリカの開発が、北米では自然が相手、南米では原始林と隣り合わせの文明であったという。これまでの文明はすべて原始林を破壊しつくした。その結果が砂漠であるとも言われる。「工業と技術」では産業革命に成功した第1地域ではブルジョワジーという技術者と資本家がいたが、第2地域では専制君主しかいなかった。「貧乏と飢え」では打2地域の巨大専制帝国が残したのは夥しい貧民であった。「鉄道と飛行機」では輸送網と通信網の整備は社会のネットワークとして行き渡る事であって、支配の道具として利用されることではない。「貴族と庶民」では第二次世界大戦後、貴族制度は廃止されたが、経済成長の結果、日本を始め中産階級の台頭が著しい。大衆消費社会の出現である。「家族と超家族」では、近代家族制度は「家督相続」の廃止であった。第2地域ではもともと均等相続であり、封建制の遺物はなかったが、部族・地縁社会という超家族集団に縛られている。「働く女性」では文明国では一夫一妻制が基本である。資本主義は女性の労働力が必要といううことで女性を家族のくびきから開放した。選挙制度、労働制度、男女同権など女性の活躍は著しい。「学校と新聞」では教育の普及とメディアの発達を論じ、第2地域ではメディアは国家権力によって制約を受け、世論は存在しないようだ。「個性的個人と残虐行為」では個人主義の発達を論じて、第2地域での集団主義を批判している。「一神教の神」では宗教支配力が第2地域で強く、第1地域では聖俗分離が進んでいる事を論じた。「官僚と官僚主義」では、現在では全世界的に官僚の時代であるとし、絶対主義での官僚群の成立と中央集権国家政府官僚による全国支配の体制から過度の集中によるア官僚の腐敗、非能率は目にあまるものがあり、第1地域ではあたらしい分散の時代が望まれるという。さてこのような観点、或いはキーワードで世界の文明の特徴が解析できるのだろうか。成果は出たのだろうか。

生態史観から見た日本

1957年7月「思想の科学研究会夏の討論会」に話題として講演した速記録である。「文明の生態史観」、「新文明世界地図」の発表後、各方面で反響があり「日本論」的な取られ方が多かったので、梅棹氏は意外と云う感じで日本の知識人層のあり方を論じた講演である。「文明の生態史観」は知的好奇心から世界の構造とその形成過程の認識であって、現状の価値評価や現状変革の指針を述べたものではないという。そして日本の論壇の議論は殆どが実践的立場の表明である事を発見したという。日本の知識人は政治家、為政者意識が強い。明治維新以前は武士は軍人であると同時に官僚でもあった。つまり知識人と政治的実践人としての立場が武士においては両立していた。しかし近代化の過程で大量の官僚や企業家・学者・技術者などの知識人が出るようになり、知識人において政治的意識と政治的実践は分裂が起きた。ところが後進国ではいまだに両者は統一的に一致している。現在では政治闘争の好きな韓国人みたいである。この流れで統治者でない知識人の意識の中で政治論議だけが残ってしまった。知識人の意識は統治者の意識だけを引きずっている「不適応グループ」、屈折した知識人といえる。

東南アジアの旅からー文明の生態史観つづき

1958年8月「中央公論」に発表。1957年11月大阪市立大学の東南アジア学術調査隊に出かけた著者のタイ、カンボジア、ベトナム、ラオスの旅行記である。5ヶ月間で4カ国をジープで回ったそうだが、兼高かおるの旅行記や世界中を回るビジネスマンに較べて、このような学術調査にどのような意味があるのだろうか。冒頭に述べられていることは「文明の生態史観」の繰り返しになるので省く。世界を第1地域と第2地域に分けて、東南アジアは第2地域に属して中国とインドの中間の周辺地域にある。高度資本主義国は一つも無い。中国は漢民族であるが、東南アジアは小国の集合で優勢な民族というものは存在しない。言語、文字、宗教もモザイク模様である。民族は激しい移動をして国家の交代も頻繁であった。気候は湿潤地帯、亜熱帯地帯である。原始森林に覆われている。東南アジアと東ヨーロッパは気候はまったく違うが、小国の集団で三つの世界に囲まれた中間地帯という点はにている。第1次世界大戦後に東ヨーロッパ諸国が出来たが、東南アジアは第二次世界大戦後にフランス、イギリス、オランダ、日本から独立した。著者は東南アジアに同質感をもつという。

アラブ民族の命運

1958年8月「週刊朝日」に中東動乱の危機に応じて書いた短文である。アラブ人は東洋とは言わない。それは地中海・詩スラム世界である。イランはアラブ人ではない。アラブ語を話すアラブ民族とはイランより西へ地中海の北アフリカまでのイスラム圏の民族である。著者はアラブ民族の共産化を心配しているところがユニークであるが、特筆するところはない。

東南アジアのインド

1958年9月関西日印文化協会「日印文化」に寄せた短文である。東南アジアとインドは文明史的にも地理的にも全く性格の異なる地域であって、決していっしょにしてはいけないというのが結論である。東南アジアの顔はモンゴリア、文字はさまざま、建築物に興味を持たないようでろくなものは無い、ナーガ、ガルーダという意匠やラーマキアンとい踊りはインド由来らしいこと、経済支配者は華僑であるという2,3の話題の紹介である。

「中洋」の国ぐに

1962年1月中央公論社「世界の旅」に掲載された紀行文である。西洋と東洋の間にある第2地域を筆者は「中洋」というらしいが、市民権を得た言葉ではない。旅行者が無視する地域らしい。旅行記だから勝手なことを言ってもいいが、カレーがまずいとか羊肉がまずいとか筆者の泣き言が聞こえる。東南アジアは華僑が経済を握っているが、インドも古来商業民族で東アフリカはインドの経済圏である。東南アジアの民族はモンゴロイド、インド以西はコーカソイド、言語は東南アジアはさまざまだが、インド以西はインドアーリア語族に属するという。アラビア語はセム語で、トルコ語はアルタイ語族であるという。言語系統学は不勉強でわからないのでそうですかと聴いておこう。日本人には理解しかねる地域であるという。インド世界の植物態は、東はモンスーン地帯の雨緑林で、南は亜熱帯雨林で、中部西部は乾燥地帯である。宗教はインドがヒンズー教、パキスタンはイスラム教である。インドの西には大乾燥地帯が広がるイスラム世界である。人が住めるのはナイル、チグリス・ユーフラティス川周辺のオアシス地帯である。古代文明が起ったのもこの地域である。なぜこの地域に古代文明が先駆けて発生したのかという理由については梅棹氏は一切答えていない。不毛で略奪の地という差別的印象をお持ちのようだ。アラブ諸国からトルコに続いて、第二次世界大戦後イスラエルと云う異質なユダヤ国家が移植され、紛争の種になっている。

タイからネパールまでー学問・芸術・宗教

1962年2月「朝日新聞」に寄せた紀行文でビルマからインドへの旅である。先ずこれらの地域が自分の国の研究をなしていないので何もわからないという不満を述べている。したがってこれらの国のナショナリズムの育成が弱いのだと云う結論である。話は逆でも通じるのだが、次の不満は美術が無いことである。クメール文化、インド彫刻以来の伝統が存在していないらしい。ただみられるのは舞踊だけだという。日本人の美的価値体系のレベルの高さに較べてあまりに劣るのはなぜか。それは自国文化を育むゆとりがなかったことかもしれない。

比較宗教論への方法論的おぼえがき

1965年12月京都大学人文科学研究所の「人文学報」に発表した学術論文である。筆者らは比較文明論を展開する上で各論の比較文明論の構築を目指していた。1963年京都大学アフリカ学術調査隊としてタンガニイカでサバンナに住む牧畜民の研究をしたようだ。そこで書いた比較宗教論のおぼえがきが本論文になった。
宗教の生態学的アプローチ
人類の文明史を考える時、その発生地の環境条件の生態学的手法がとられるのが普通である。それが「文明の生態史観」になった。しかしそれは一般論であって、時間的・空間的に多面化する作業が残っている。一つの例として宗教と云う現象を生態学的観点からどのように理解できるだろう。宗教の発生、成立、伝播、消滅などの現象に関する条件を、他の生活現象との関連において考えてみようという構想である。宗教の人類史的意味というか、何でこんなものが発生したのか。ある人は宗教は人類のみが発明できた脳活動の産物であるという。自然的意味よりは言語学的なシンボル作用であると考えるのが現在の学説である。梅棹氏が嘆くように生態史的にはその起源はわけがわからないのであろう。ただ発生後の各地の宗教の比較はできるので、宗教の人類学的研究・宗教社会学・宗教民族学・宗教心理学などの成果で論じられている。
疫学アナロジー
この節はいかにも梅棹氏らしい類推で、宗教と疫学の類似を議論しようとするものである。宗教の伝播が疫病の蔓延に似ているのだろうか私には分からない。宗教は病気かという議論については、昔の病気の半分以上は精神病・ヒステリーであって、宗教者の癒しで治った可能性はあるという話を読んだ事がある。確かに病気を契機とする入信は今でも絶えない。人の不幸が宗教の伝播に果たした役割は今も昔も変らない。
ベナーレスとエルサレム
仏教の発生の地ベナーレスとキリスト教・ユダヤ教・イスラム教の発生の地エルサレムをとりあげた聖地論である。仏教の聖地は滅んで東に移動したが、エルサレムは三つの根を同じくする一神教間で激しい闘争が繰り返されてきた。「同族相食む」とはこのことだ。
方法と仮説
宗教の入れ替わり、移動を説明するために梅棹氏は「段階対応の仮説」の言葉を提案した。地域への伝播の多様性を「地域対応の仮説」というらしい。言葉だけを定義して中身は後ましらしいが、はたして今日生きている言葉なのだろうか。


随筆・雑感・書評に戻る  ホームに戻る
inserted by FC2 system