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香西秀信著 「論より詭弁ー反論理的思考のすすめ」

 光文社新書(2007年2月)

強者の論理に騙されてはいけない 嘘・欺瞞の手口を知って反論しよう

私はレトリック(修辞学)とか論理学とか、詭弁論理とか云う類の議論に深入りする事は、不毛の労力と考えてあまり好まなかった。しかし最近の政府の言動や新聞メディアの記事を読んでいると、明らかな詭弁が横行しているのが目に余る。直ぐバレそうな理屈がシャーシャーと政治家の口から出てくる。権力側の論理とは強者の力ずくの論理で昔なら「云うことを聞かない奴は首を刎ねる」とか「治安維持法違反で逮捕する」とか、会社においても「反抗する奴は飛ばす」、「給料を下げる」という強引なやりたい放題のごり押しであった。そこには理屈も何もなかった。ところが最近の権力者の力が相対的に低下したのか、強引な手が通じなくなると騙しのテクニックを使うようになった。世論操作などはその典型である。アンケートなども結論が見え見えの設問が多い。そこまでせこくなった世の中というのは、権力者が隠れて云うことを聞かそうと云う手口に変わったのであろう。すると弱い側の人間は自衛せざるを得ないし、権力側の詭弁を見破って曝露するとか笑い飛ばすぐらいの智恵は必要不可欠である。つまり詭弁論理学の理論武装(手口の理解と対策)というのも必要である。そこにこの本が現れた。香西秀信著 「論より詭弁ー反論理的思考のすすめ」は結構受けているようだ。しかし詭弁論理などをまともに研究している学者がいるとは知らなかった。著者香西秀信氏は筑波大学人文学類を卒業して、いまは宇都宮大学教育学部の教授だそうだ。専攻は修辞学と国語教育学だそうだ。大学の弁論部という一昔前の政治家養成クラブというのがあったが、強弁と騙しのテクニックを勉強して政治家になるとは見下げた奴だ。数学には記号論理という分野がある。バートランド・ラッセル卿というイギリスの哲学者は同時に数学者でもあった。修辞学(レトリック)とか詭弁論理などという怪しげな学問を教えるところがあるのだろうか。とにかく面白そうなので、この怪しげな隠微な世界を覗いてみよう。

香西氏は冒頭から「人間関係には力関係があって平等な関係ではない。したがって論理では世の中は動いていない。力で押すのが強い人間で、論理を護身術に使うのは弱い人間である」という。議論の論理には世の中を変える力などありはしない。議論をしている暇があったなら多数派工作の根回しでもしていたほうがいい。強者は「力に訴える議論」をして相手を威嚇・脅迫して自説を通すのである。威嚇・脅迫・恫喝は力関係の行使であり、商取引の現場、政治の裏側、弱い者の説得にかならず用いられる手段(手口)である。力関係が対等でない者の間にそもそも対等な議論が成り立つわけがない。論理的議論は論者間の人間関係を埒外において成立している変な世界である。修辞学(レトリック)もそもそも真理の追究にあるのではなく、可能な説得手段の探求にあった。このためレトリックは古来より、非難、嫌悪、軽視、嘲笑の対象となってきた。レトリックも弱者の武器に過ぎない。しかし強者を愚弄する事はできる。論理とは言葉の使い方のルールであるが、それで何を得ようとするかはレトリックの仕事である。本書は論理学から蔑視されてきたレトリック・詭弁・虚偽の立場から論理学を批判する事が目的であるそうだ。なかなかひねくれた態度であるが、本書のいいたいところはそれほど高級なものではなく分りやすい。論理学の教科書は虚偽・詭弁をいろいろ分類している。しかも耳慣れない言葉で分類しているので、理解しにくいが実例を挙げられれば、我々が何時も使っている手口である。公式な席で詭弁は使わないと胸を張って答えられる人が多いが、例えば女房子供に対しては、実にさまざまな騙しのテクニックを駆使して思いを遂げている人も多いのではないでしょうか。胸に手を当ててて考えて御覧なさい。たとえば「発生論的虚偽」、「不純動機への転嫁の虚偽」などの実例は、「市長が道路建設推進を言っているが、自分の土建会社の利益のためだろうから、市長の建設計画は承認しない」ということである。論理学では不純な動機であっても、その人の提案(立言)は議論に値するというのである。健全な常識は不純な動機とその立言を葬ってしまって問題はない。

第1章 言葉で表現する事は既に詭弁(思想の表現)である

我々は学校において「事実」と「論述」を明確に区別して述べよ」と教育されてきた。しかし純粋無垢な事実など存在しない。言葉自体が多義性を特徴として成立しているので、どのようなニュウーアンスを持たせるのが話し手の技である。同一事象に対して言葉が多いことが文化の成熟の特徴と見なされてきた。さまざまな見方が言葉の中に既に入っている。言葉によって何かを表現することは、本来順序のついていないものに勝手に順序を付けて並べる事である。既に話しての価値観が投入されている。例えば「A君の論文は、独創的だが、論証に難点がある」と「A君の論文は、論証に難点があるが、独創的である」では言いたいことは明白である。否定の助詞「が」の前後に入れる言葉の順序が既に価値観の表現である。「事実」は並んではいないし、連結もされていないのである。語り手が自分の価値観にしたがって勝手に結びつけたのである。「言葉で表現する事は詭弁である」と著者は云うが、これは「言葉の魔術師」と呼んだほうがいい。詭弁には嘘のにおいが強いが、言葉は使い方で微妙な意味の違いを生むという。これを恣意的な名づけで良くも悪くも言い換えられる「言葉の魔術師」と呼んだほうがいい。言語表現一般において出来るだけ自分の思想、価値観、好みなどによる判断を排した中立的な名づけがあると考える事は、それは人間の言葉の使い方として誤った解釈である。人間は言葉を話す事で、聞き手に我々と同じ見方を共有しようとしているのである。いかなる客観的な論述も価値判断である事から逃れる事はできない。例えば「冷蔵庫の中にビールがあった」と「冷蔵庫にはビールがなかった」には、前者は無意識にビールを見たのにすぎず、後者はビールを飲みたくて冷蔵庫を開けたのだろう。アンケートなどで問いを出す側は、問いを構成する言葉を自分に都合よく選ぶ事ができる。よほど注意しないと最初から相手の土俵で物を考えさせられるのである。これは「問いの詭弁」である。このような場合「問いを自分で作り直す」か「相手の問いを自滅させる」事を考えなければならない。相手の姦計に乗せられてはいけない。

第2章 矛盾した論拠を並べて墓穴を掘る

レトリックや人文科学の分野では、数学的証明をするのではなく、ありそうな事を(蓋然性)を述べ立てるのであるから、どうしても論証の厚み(一つの例証より多くの事例)が求められる。本当は一つでも十分かもしれない根拠を複数併せて、その蓄積による印象でさもありなんと思わせるのである。ところがその根拠間で矛盾が生じてしまうのである。本質的な「定義からの議論」に「因果関係からの議論」を併せてしまう場合がある。たとえば総理大臣の靖国神社参拝に反対する根拠として「憲法で規定した政教分離の原則に違反する」に「アジア諸国の反発を招いて経済関係まで損なわれる」という論を重ねることである。違う議論を並べてその人の心情がどちらにあるのかわからなくなる。こういう論拠の羅列は一つの論拠に自信がないからおきる心の弱みである。一人の人間としての議論では不自然であってもかまわない。要するに論争に勝てばいいのだということになる。

第3章 反対意見を潰すのが詭弁である

「詭弁」という言葉は騙しの印象が強いので、論理学の分野では虚偽・誤謬という用語が用いられている。騙しの意図と誤謬を明確に区別する事は難しい。用意された陥穽(誤謬)にうまく落ちてくれればいい(騙し)と期待する関係である。従来虚偽と見なされてきた言語形式を、説得のための技術として敢えて用いるのだから,詭弁というやや偽悪的に使用するのである。たちの悪い議論で相手に「定義の要求」を持ち出すのは論争では有力な武器とみなされる。言葉の定義なんぞはあやふやなものだからそれに引っかかると、そのあやふやさを必ず追及される。そんな論理に乗せられてはいけない。「それはあなたが思っているようなものですよ」と言ってさらっと逃げて相手に答えさせる側に立場を逆転させる。自分達の意見の反対側にいる人たちを、無知、浅薄、愚問、狡猾、陰険、すり替え、無関係、揚げ足取りと罵倒して、世界から追放することが目的であらゆる手口を使う事が詭弁である。

第4章 「人に訴える議論」は詭弁ではない

著者はこの章でいきなり「論理的思考」の最大の弱点を追及する。論理的思考は「人を論じる虚偽(詭弁)とはしばしば発生論的虚偽とも呼ばれているもので、あいてその者に対して関係のない攻撃を仕掛けるのである」という点が著者の考える論理的思考の最大の弱点である。「関係ない」とか「論理のすり替え」と言って禁じ手にされている 「人に訴える議論」を最前線にもってきて、論理的思考の呪縛を破壊するのである。論理学では「人に訴える議論」を五つに分類する。@悪罵型、A事情型、B偏向型、Cお前も同じ型、D源泉汚染型である。論理的に考えると「人に訴える議論」はなぜ詭弁になるのだろうか。それは「発言した人間とは関係ない」ということで、本来検討すべき内容を、関係のない発言者の話題にすり替えているという虚偽を犯していると非難するのである。昔毎日新聞社の記者が外務省の女事務官と情交関係をむすんで外交秘密を漏洩したという裁判があった。世間では卑劣な手を使ったということで、外交秘密の問題は議論されなかった。確かにこれは議論のすり替えであるが、著者は論点をすり替えてどこが悪いと、「まともな人間の言動」側から批判するのである。社会では論理より常識が優先されるのだ。日本捕鯨に反対する欧米の議論は資源枯渇問題をさておいて、「鯨は利口な動物からダメ」という。それなら日本は「牛は利口な動物だから欧米人は牛を食ってはだめ」と反論すればよい。利口かどうかの立証責任を相手側にも負わせればいい。もうひとつ例を挙げるとアル中患者から禁酒すべきであるといわれてもそれは説得力はない。相手を考えないで酒の害のみを考えればいいという論理は成り立たないのは常識からして当然である。アリストテレスの「弁論術」で説得の手段として、@語り手の性格によって、A聞き手の心を動かすことによって、B証明らしく見せる議論によってという。日常議論では誰が語ったかということは、何が語られたかということ以上に説得力に大きく影響する。論理学では禁じ手とされる「人に訴える議論」は、ある事例においては道理に適った議論法になり、別な事例では詭弁的な攻撃術として悪用されることにより虚偽となりうる。

第5章 偏った問いには言い返せ

論理学で「先決問題要求の虚偽」という詭弁形式がある。議論の前提としている事は本当は証明が必要なのに、自明として組み立てられた議論のことである。ニーチェ「曙光」で言われたフレーズ「学問は真ではない。なぜなら学問は真なる神を否定するからだ」がある。ニーチェは神は真でなく人間の弱さの反映であるといおうとしているのであるが、このフレーズで「真なる神」が曲者である。ここを証明しなければこのフレーズは成り立たない。じつはいつもこっそりとこの虚偽(詭弁)が使われるのである。説明は省くが「循環論法」も同じ類の詭弁である。美辞麗句の名づけによる「先決問題要求の虚偽」もある。最近「県会議員が公費で欧州視察に出かけた」という新聞記事が多い。「視察」という言葉がそもそもあやしい。実態は物見遊山である場合もある。「県会議員が公費で欧州物見遊山に出かけた」と書けばまちがいなくスキャンダルになって攻撃される。これを「不当予断の問い」ともいう。アンケートに多い手口である。「君はあのくだらないA氏の本を読んだか」という問いに答えてはいけない。質問するほうは何でも好きな形容詞を付けて物を云う。それは発言する側の断定であり発言者の権利でもある。しかし「私はA氏の本がくだらないとは思いません」と答えてはいけない。くだらないと思わない理由を述べる責任がこちらに生じるからだ。この場合は「どこがくだらないのだ」と言い返すべきである。すると説明責任は断定した相手側にある。挑発に乗ってはいけないという典型的な例である。


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