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北岡伸一著 「国連の政治力学」

 中公新書(2007年5月)

国連活動は国際政治の場ー日本常任理事国入り失敗をふまえて

第2次世界大戦後国家を超える結束の場として、国連が誕生して早60年が経った。冷戦とその後の激動を経てその地位と役割は変わった。国際問題でアメリカ一国システムが機能する中、国連は世界の平和と安全の維持にはたして役立っているのかと云う重大な岐路に立たされている。いまや国連加盟国は192カ国となり肥大化した国連の経営と意思決定機構はどのようにして成り立っているのか。2年前の国連機構は流産に終わった。その狙いは日本が国連の安全保障理事会常任理事国になりたいだけの大義名分だったのか、まだ評価は定まっていない。本書は大学の研究室から国連と云う外交の場に出た著者の2年半の活動報告である。 著者北岡伸一氏は東大法学部卒業後、立教大学、プリンストン大学を経て現在東大教授で、専門は日本政治外交史である。2004年4月から2006年9月まで、東京大学から外務省へ出向し、特命全権大使、日本政府国連代表部次席代表としてニューヨークに滞在した。日本は2005年1月から2006年9月まで安全保障理事会の非常任理事国となった時、北岡氏は国連代表部次席代表(代表は大島大使)を勤めた。

日本には建前として「国連中心主義」と云う言葉があるが、実際はアメリカ中心主義であって、国連を第一に考えたことは一度もなかった。自国の利益より国連の理想を第一に考える国はいない。そう云う意味では、国連では外務省の国連代表部は短期・長期の国益を第一に行動する国家主義者の集団である。ある意味では旧ソ連や中国といった共産圏国家は国連の金と総会の場をうまく利用して国連中主義活動をしていた。アメリカは伝統的なモンロー主義から国際連盟にも参加せず、第二次世界大戦後は無傷のまま世界一の覇権国家となったので、アメリカシステムと国連活動のジレンマに悩んでいた。常任理事国ながら国連軽視主義的態度はここから出ている。国連負担金は22%と一番多いが(日本は二位の16.6%)が、世界の憲兵といわれながらPKO派遣人数は少ない。アメリカの意向を無視しては国連は何一つ出来ないが、総会の決議は一国一票で極めて平等である。はたして国連は理想主義的存在で無力なのか。確かに安全保障では無力かもしれないが、平和維持、貧困の撲滅、人権の向上などでは国連は重要な役割を果たしており、国連活動そのものが外交と云う一つの国際政治の場である。

本書は二年半の国連代表部での著者の活動記録である。大きくは四つの内容を記している。一つはアメリカと国連の関係、二つは日本政府国連代表部の活動、三つは任期中の代表部の最大の問題であった安保理改革(日本の常任理事国入り運動)、4つは北朝鮮核実験をめぐる日本の国連活動である。なを本文で出てくる数値は年度を言わなければ2007年度現在のものである。

T 国連システムとアメリカシステム

世界にはアメリカを頂点とするシステムが出来上がっている。これをアメリカシステムと云う。アメリカのGDPは世界の33%で、世界最強の軍隊を持っているからである。国際政治の場でも断然強力なアメリカを中心とするシステムが出来上がっているが、もうひとつのシステムがあるとすればそれは国連と云うシステムである。しかしアメリカは国連が嫌いである。国連の最大の目的とは世界の平和と安全の維持である。しかし国連は自前の軍隊を持っていない。加盟国の軍隊の派遣に頼っている。国連加盟国192カ国の意思決定は容易ではない。なぜなら国連には加盟国を束ねる政党がないからである。昔は共産圏国家と云う「政党」らしきものはあった。しかし一枚岩ではなかった。まして途上国の置かれた状況はバラバラで、昔は非同盟というくくりはあったが、政党と云うレベルではなかった。先進自由主義国家も欧州とアジアでは歴史も立場も違う。したがって重要な問題のイ二ィシャティヴは、事務局と事務総長および安全保障理事会に委ねられる。事務総長は2007年より韓国の潘基文氏が就任している。国連の主要機関は、総会、安全保障理事会、経済社会理事会、国際司法裁判所、事務局の五つである。加盟国は国連代表部を持っている。最大の代表部はアメリカの133人、ロシアは89人、中国は79人、日本、ドイツが56人、イギリスが35人、フランスは33人である。日本代表部の構成は、常駐代表、次席代表、総括大使と大使が三人、参事官七人、一等書記官十六人、二等書記官二人と云う構成で、その他44名の現地スタッフがいる。総計約100名である。国連活動の最大の課題は平和の維持で、国際社会の意思決定の中心が安保理事会であり、その決定は全加盟国を拘束する。現在平和維持のために15のPKOを派遣している。PKO費用は2006年度で約8000億円であり、日本は20%を負担している。国連の予算にはこのPKO予算と通常予算がある。通常予算は1800億円で日本の負担は360億円である。国連費用の分担はアメリカが22%、日本が16.6%、イギリスが6.6%、フランスは6.3%、中国は2.7%、ロシアが1.2%である。中国・ロシアはまさに国連ただ乗りといわれても仕方ない少ない負担である。これで常任理事国として大きな顔をするのだから不思議だ。

国連総会は最も権威ある機関である。毎年9月の新しい会期の始まりは多くの政府首脳が総会に出席する。2005年9月14日に170カ国の首脳が集まって世界サミットが開催された。この合意形成プロセスには数ヶ月が費やされた。事務総長ほどではないが総会議長も存在感がある。総会議長には10名ほどの議事進行役が付く。「ファスルテータ」といわれる根回し役である。非公式なセミナーでの勉強会も重要で、アメリカのスタンレー財団が毎年6月にセミナーを開いて意見の交換をする。

国連の歴史は国際連盟の失敗の歴史から英国がアメリカの参加を必須として、戦後処理のため米英を中心とした国連に、英国はフランスの参加を要請し、東西関係からソ連の参加を求め、アジアからアメリカの要請で蒋介石の中華民国をいれた。この五カ国が常任理事国になって51カ国の加盟国でスタートした。戦後直ぐ冷戦が始まり共産圏と自由主義圏の争いとなった。朝鮮戦争、ベトナム戦争、ハンガリー動乱、中東戦争を通じて国連は全く無力であった。東西関係では拒否権の連発で国連が機能することはなかった。1990年以降の冷戦終結と共産圏崩壊によって、アメリカ一極主義の下に地域紛争に国連平和維持活動(PKO)がしだいに根付いていった。戦後日本は国連主義であったことは一度もない。日本外交は日米安保条約を軸に展開し、沖縄返還交渉は日本外交の勝利の一つとされてきた。日本経済のグローバル化の証として、中曽根首相以来先進国首脳会議(サミット)への参加が日本外交の花となった。冷戦の終結によって国連の機能が生まれてから、日本に国際貢献が求められ、1990年湾岸戦争を期に1992年PKO法案が成立した。2001年の9.11同時多発テロいらい、テロ特別措置法が成立し、日本のインド洋での給油活動を始め、2003年自衛隊のイラク海外派遣が実現した。戦後60年も経ち、第二次世界大戦戦勝国及びその継承国だけが特権を持つ国連機構の改革が意識されるようになった。世界の実力ある国家がふさわしい役割を担うと云うことである。日本、ドイツ、インド、ブラジル(南アフリカ、ナイジェリア)などG4グループの旗揚げであった。

U 国連日本代表部の仕事

国連代表部は日頃から大学やシンクタンクやNGOと連携したセミナー、社交パーティー、食事会、演劇会などコミュニケーションの機会を逃さず意見交換に努めるのも仕事の内である。ODAなどの援助は外交にはなくてはならぬ武器で,重要な交換条件であるという。しかし日本に無尽蔵の金があるわけではないので、金のばら撒きが大国の証でもないはずだが外務省の機密費は馬鹿にならない。代表部の重要な仕事は各種委員会の選挙であるそうだ。選挙は取引というか票の交換である。日常的に談合そのものの調整が行われている。日本の本省との連絡、意見調整も大変な仕事らしい。著者は外交官を超エリートだと思っているところが、気になるところである。日の丸を背負っていると云う自負心が鼻持ちならぬと私は感じるのだが。

2005年1月10日の著者の多忙な一日を紹介している。6時半起床、ニューヨークタイムズなどの新聞を読む。イラクの石油食糧交換機構OFFの汚職問題を取り上げていた。コンゴ共和国におけるPKO軍人の強姦・買春問題、パレスチナ選挙、複雑な内紛状態のスーダンの和平協定などが報じられていた。数社の新聞を斜め読み。そして8時過ぎに出勤。8時45分から大使館会議では今日の安保理の準備である。安保理には公開ブリーフィング、公開協議、非公開協議がある。安保理では毎日決められたテーマ(月:アフガニスタン、火:スーダン、水:ハイチ、木:中東、金:イラク)の協議がある。午前10時、安保理で事務総長特別代表によるアフガニスタン公開ブリーフィングが行われた。選挙、治安、麻薬、武装解除DDRの報告があった。日本はアフガニスタン問題のリード国(決議案の準備、論点の促進など)である。12時から午後3時までお昼休みで、電話連絡などをすます。今日はサックス教授から電話があった。アフリカ途上国への援助問題である。午後3時から安保理下部委員会の対タリバン・アルカイダ制裁委員会である。テロリストは国内では反体制派なので、中国・ロシアのテロ定義は微妙である。午後5時代表部で幹部会議つまり今日の反省会と予定方針の確認である。夜は来客(今日は駐ノルウェイ大使の訪問)とのディナー、終わってから2時間ほど大量の電報に目を通す。北区は午前0時。

安保理改革(日本などの常任理事国入り運動)が5月に挫折したあとの2005年7月の安全保障理事会の動きを紹介する。当時の非常任理事国は日本など10国であった。安保理には非常任理事国は常駐代表または次席代表が出席し、常任理事国は下のクラスで公使、参事官あたりである。常駐代表が出席するのはその国にとって重要な問題の場合である。安保理では非公開協議が主になる。会合の各国代表は3名まで。会合で一番重要なのは決議、ついで議長声明、最後にプレスステートメントである。7月はテロ関係の会合が多かった。ロンドンの地下鉄爆破事件など3件を非難する決議、議長声明が出された。安保理は本来国際平和と安全を協議する場であるが、最近は人道・人権問題へ関与が多い。ジンバブエ政府の人権問題が取り上げられた。人権問題に関与せずと云う中国ロシアの反対が多くコンセンサスが取れない場合表決に持ち込まれる。今回非難決議に賛成9・反対5・棄権1で辛うじて成立した。

PKOの設立・終了を決めるのは安保理である。事務総長・現地の事務総長特別代表が報告書を出すが、安保理は視察団を派遣して実態把握に努める。著者が参加したPKO視察団、2005年にハイチへ、2006年にスーダンへ行った経験を紹介する。ハイチは独裁的大統領と反対派の闘争が続いているので国連は何度のPKOを出した。地続きで隣のドミニカ共和国は豊かな農業国で安定しているがハイチは98%が禿山である。国土が荒廃しているのは政治が悪いからである。政治への信頼がなく投票率も10%程度であった(日本も嗤っていられない、30%程度の投票率のことが多い)。スーダンの国内情勢は複雑である。北部はイスラム教徒で政府を構成する。南部はキリスト教徒で自治拡大を要求して独立を問う国民投票が行われる予定である。南部スーダンは世界の最貧国になる。西部はダルフールでは遊牧民が農耕民を襲って隣のチャドへの難民が発生している。五月ダルフール和平合意が成立しPKO派遣となった。一万人の巨大PKOとアフリカ連合の部隊8000人が常駐する。また遊牧民が隣のチャドを襲撃したのでチャドとは戦争状態にある。更に事態を複雑化しているのが、スーダンから大量の石油を輸入する中国が内政不干渉と称して政府を援助していることである。政府はPKOを新たな占領軍と呼んで敵視している。

V 安保理改革の軌跡(常任理事国入り運動)

日本国は国連中心主義と云う言葉で国連を神棚に上げてしまい、本当に大切とは思っていない。現実的に国連の機能と限界を知って積極的にコミットしてゆく国連重視主義が必要ではないかと云うが著者の論点である。国連への日本の貢献は不十分だとする意見が多いように見受けられるが、PKO要員派遣は国によって任意である。しかし財政負担はその国のGDPに比例して分担率が決められる。日本の負担率は16.6%である。常任理事国で中国・ロシアは国際的援助をもらいながら、常任理事国の働きは不十分である。戦後レジームの見直し(安倍前首相の好きな言葉)が必要ではないかと云うのが日本国連代表部の安保理改革の大義である。常任理事国になるにはその国を記述する憲章改正には、常任理事国の賛成と国連総会で全加盟国の三分の二以上必要である。総会で128票以上の賛成票となる。そこで日本はドイツ、ブラジル、インドとG4を結成して、安保理改革に乗り出した。新しい安保理の枠組みには各国の思惑が絡んで、種々の案が噴出したが、もう過去のことであるのでいちいち案をレビューするのも面倒なのでやめる。常任理事国の拒否権はいまや百害あって一利なしのシーラカンス的制度である。日本は拒否権は求めないと云う姿勢で臨んだという。結局難しいのはあらたな拒否権国を嫌がる中国とアメリカである。日本は核を持たないアジアの国で途上国から第二位の先進国の上り詰めたシビリアンコントロールの国である。国際社会への日本の貢献とはこのことをさす。こういう常任理事国があたらしく必要なのではないかと云う論理で説得を開始した。

最も激しく反対したのが中国である。アジアの覇権を目指しているのか中国は日本の立場を認めようとしない。中国は国内では反日デモを扇動して日本施設への襲撃を始めた。東京裁判、サンフランシスコ平和条約、日中国交回復、南京事件、教科書問題、靖国参拝問題、軍国主義復活などが再燃した。これには小泉首相の反アジア喧嘩外交も悪い影響をした。要するに中国は常任理事国と云う棚ボタの既得権を国際政治で後生大事に120%活用したい姿勢が良く分かる。

もっと深刻な問題は日本政府の煮え切らない態度である。「常任理事国入りは外務省の悲願」というような態度が見えるのである。当時の小泉首相はあえて中国を刺戟する言動を得意になって行って事態を悪化させ、アメリカのブッシュ大統領に電話をして妥協を打診することもせず、代表団の仕事を見殺しにした。そしてアメリカ政府が強く云うことには絶対服従と云う態度で終始したことである。「アメリカが日本の常任理事国入りに反対なら仕方ない」でお終いである。G4案は2005年5月に、常任理事国を六ヶ国増やして十一ヶ国に、非常任理事国を四ヶ国増やして十四ヶ国にするものだった。この案で6月には共同提案国三十三ヶ国を集めた。8月にはアフリカ連合は拒否権を持つ常任理事国を2つ要求する案が出て改革運動は2/3の賛同を得られず挫折した。反動から日本の分担金率を下げる運動をするべきだと云う意見も出る始末。

W これからの日本と国連(北朝鮮をめぐって)

2005年の安保理でさいだいの決定は3月のスーダンPKOの設立だった。とりわけ熱心だったのがアメリカである。スーダン南部でのキリスト教徒反政府運動への弾圧が、ブッシュUに殉教者のイメージを喚起したのであろう。しかしこれには二つの問題があった。一つは石油を大量に買っている中国が制裁に反対なこと、二つは国際刑事裁判所ICCにアメリカが参加していないことである。アメリカはPKOを派遣したいがICCに関与させたくないジレンマに悩んだが、PKO、制裁、ICCが切り離して成立した。兵員一万人、10億ドルの大型PKOである。現在PKOは15本動いている。PKO予算は約8000億円である。2006年のPKO派遣兵員は8万人で、一位はバングラデシで一万人、上位には途上国が多い。これは兵員の維持経費を国連が負担するので、国内にいるより国連で養ってもらおうと云う計算である。アメリカは365人で32位、日本は45人で68位である。イラクには5万人以上軍隊を出しているアメリカはPKOには余りだしていない。これまでの犠牲者は20人であった。

2006年10月14日北朝鮮の核実験(10月9日)に対する制裁決議が安保理で採択された。今回は中国・ロシアは反対できないであろうと見込まれたが、拒否権をちらつかせて日米を威嚇してくる。しかし制裁を謳った第七章を明示するかどうかで、安保非常任理事国の日本は妥協を行い第七章は特異の玉虫色表現で逃げ(制裁を実際実行するかどうかは結局各国の自由であったので)制裁決議案を通すことが出来た。あの時の大島代表の活躍が昨日の様に思えてくる。

アメリカは北朝鮮の核は死活問題ではない。北は大陸間弾道ミサイルを持っていないので直接アメリカ本土に核が落ちるわけではない。中国・ロシアの真の脅威は、日本が核を保有することである。したがってアメリカは石油資源などの魅力を持たない北朝鮮の核問題よりはイランの核問題をより重視するのである。中国は北朝鮮が暴発して朝鮮の難民が中国北東部に流入してくることを恐ろしいと思っている。北朝鮮の核問題には次の五つの選択肢が考えられる。
1)何もしないで事態を傍観する:核兵器は仕えない兵器であり、金正日の目的は体制の維持であるから日本を核攻撃する意図は持たない。アメリカの報復を期待して北朝鮮の核を封じ込めていればいいとする見解である。最悪は気違いがスイッチを押すことであるが、これにはこの策は無能である。
2)制裁の強化:この項は国連の制裁決議は日本の勝利であると云う著者の自画自賛となっている。しかし制裁は中国が援助を続ければ、深刻な影響を北朝鮮に与えない。また韓国が太陽政策と云う援助を停止しなければ殆ど制裁論は意味を成さない。
3)関与政策:韓国のように援助を与え続けて北の政策に関与することである。北朝鮮の外交カードに乗ることで際限なく無償援助を与えることである。対話と圧力と云う安倍前首相のスローガンはこの線から来ていた。しかし対話のチャンネルも持たない圧力ばかりの路線であったが。
4)北朝鮮への軍事攻撃:先ずアメリカは今はそんな危険なリスクは犯さない。第2次朝鮮戦争の勃発の最大の被害者は南北朝鮮国民である。避けたい選択肢である。
5)日本の核武装:中国はいずれ日本も核武装するのではないかと疑心暗鬼である。日本軍国主義復活反対というスローガンはそのことへの恐怖心から出ている。中国にとって日本の平和政策こそが一番の安心材料である。そして何よりも核武装競争は日本にとって不利なゲームである。避けたい選択肢である。


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