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中島義道著 「人生を半分降りるー哲学的生き方のすすめ」

 新潮OH!文庫(2000年10月)


自分を問い続けてもなお分らない世に、自分らしく生きるためにしてはいけないこと

終章より「哲学的に生きるとは、間もなくあなたを訪れる死に常に向き合って、繊細な精神、批判精神、懐疑精神をもち、自己中心的な態度を貫き、出来るだけ世間と妥協せずいきることです。それは世間的には不幸なことであり、此の不幸を噛みしめ自覚して生きることでもあります。そして、あなたは間もなく死んでしまうのです。」 これが本書の結論であり、全てである。此の書は隠遁のすすめですので、若い人は読むべきではない。50過ぎ以上の定年間近かな人が、自分の人生を振り返ってこれではまずいと感じたら読む本である。大体私は哲学書は読んだことはない。読んでも分らないからだ。この本は中島義道氏と言う全然知らない哲学研究者が書いた本で、トンチンカンプンの哲学用語を使っていないから頭に入ったまでで、哲学を理解したことにはならないだろう。中島氏も人生に、自分に迷いつくした人で、東大法学部に入学して進路に悩み、教養学科学哲学科に再入学し、それでも絶望して37歳になるまで学生生活を放浪した人生の落伍者である。ウイーン大学に留学後カント哲学者として東大助手の職を得て始めて世間並みに人生を歩みだしたようだ。人生を前向きに世の役に立つ仕事をしているバリバリの現役の人には、こんな隠遁の薦めを説く本は読んでも何の意味もない。しかし人生の黄昏を感じ始めた人や、挫折や屈折した人生に疑問を抱き始めた中高年以降の叔父さんには何となくスーッと入って行ける不思議な本である。元気なオバタリアンにも無用な本である。

ローマ皇帝の側近であったセネカの言葉「自分自身のために、自分を自由にし、自分のために使う時間を守ることです」があります。それは言い換えると半分隠遁することだ。隠遁生活を勧めた世界の文人で有名な人には、紫式部「紫式部日記」、陶淵明「帰去来の辞」、兼好法師「徒然草」、永井荷風「日記:断腸亭日乗」、ルソー「孤独な生活者の夢想」などがあり、すべて公職から離れ自分の時間を持てと薦めている。中でも中島氏は「普遍が実在するとはただ名だけ」というセネカの唯名論を理想としている。世界の破滅も人類の滅亡よりも自分が死ぬことが大問題なのだという人は唯名論者です。実は東洋には隠遁者は多い。老荘の教え、禅宗の教えなどは隠遁を理想とし、世間から身を隠して静寂な環境での思索を理想としている。世間でえらくなろうとする人は孔子の儒教へ行きなさい。

第一章:「繊細な精神」のすすめ

パスカルは「幾何学的精神」と「繊細な精神」とを峻別している。「よい眼をもってあらゆる原理を見、推論を誤まらないために正しい精神を持たなければならない」といっています。わが国においては繊細な精神とは、事実を完全に把握していながら、それを語る場をわきまえ、誰も傷つけない語り方の出来る人のことと理解されている。一人ひとりを見る眼を備えた精神で、無理に割り切らないことだ。澄んだ目で人を観察し、日常的卑近な現象から眼を離さないことでもある。
物を書き散らす人はそれだけで不正義である。社会活動家は自分のことから逃げている人である。モラリストは俗物だ。日本では明るい話(空しい話)雰囲気が尊重されるが、もともと悲惨に人生を生きる態度として暗いほうが自然である。などしてはいけないことが縷々述べられている。

第二章:「批判精神」のすすめ

カントも「純粋理性批判」とは理性がやってはいけない理性の越権行為を自己批判することである。したがって真の批判精神は自己批判精神を軸にしなければならない。小林秀雄のように隣人や同業者を批判して軽蔑したり切り捨ててはいけない。芥川龍之介のようにシニカルな不寛容な精神は批判精神ではない。三島由紀夫は全ての人を軽蔑するが自分も軽蔑しているだけ救われる。ユーモアリストは肯定的である点は評価できるが傲慢な不平等は隠せない。凡俗な人間が凡俗であることの権利を敢然と主張するのはいただけない。現代日本こそ「超デモクラシー」に毒されている。パスカルが言うように専門バカ(誰も読まない論文を書いている人)にならないことが肝要で、森羅万象に広く関心を持ちなさい。著者中島氏は50歳を機にカント学者を廃業し、広く哲学書を読むことにしたそうだ。といっても私には哲学者のことは分からない、まして論文なんて読んだこともない。哲学者がどんなバカな存在かといわれても関心はない。哲学者は多いが哲学する人は少ないとはよく言われることだ。「哲学するということは生活することである」というパスカルの言葉ががある。哲学者たるものは自分の日常生活に眼を向けよ、語るとしたら血の言葉を使え。

第三章:「懐疑精神」のすすめ

デカルトの示した「懐疑精神」とは存在する自分が思うという宣言(第一原理)のことだ。ニーチェも懐疑精神の権化です。哲学的な懐疑精神にとって必要なことは、あくまで自分固有の視点と実感にそって人生の基本的なことの本質を見抜くことです。カントの「実践理性批判」の道徳法則でみせる「定言命法」とは、「自分にだけ課している通俗的な規則・格律を普遍化して全ての人に妥当する場合は普遍的立法として採用する」と言うものです。たっとえば「嘘をつくな」とか「人を殺してはいけない」と言うことが普遍的になりうるかと言う懐疑があります。ただそれを言葉の遊びとしての「理論理性」でやるのか、自分は何をなすべきか確信したことを全責任を持って実行するという「実践理性」のレベルで行うべきだというのが著者の意見だ。しかし道徳的行為には自負心が付きまとう。人間は決してよいことは出来ないんだという醜さをわかることだ。

第四章:「自己中心主義」のすすめ

セネカは「過去は我々の時間のうちで神聖犯すべからざる、かつ特別に扱われるべき部分であり、人間のあらゆる出来事を超越し運命の支配外に運び去られた部分であろ」といっています。私を私たらしめているもの、それは倫理的主体、責任主体としての本来的な自己でもなく、私の過去の経験系列なのです。確かに日本では自己中心的と言うことはタブーであり、奇人変人扱いされること請け合いです。半隠遁とは徹底的に子供になることです。

第五章:「世間と妥協しないこと」のすすめ

表面的な・不誠実な・定式的な・空疎な言葉の飛び交う世間に耐えられなくなった時、隠遁して世間と妥協しないことです。世間の顕職にあるときは自分の時間は有りません。半隠遁の要は半分だけ人を避けることです半分は社会的に生きてごまかしを続け、残りの半分は決して妥協せずに自分の内部の声を聞き分ける、いかにして自分自身になるかを問い続けることだ。世間のしがらみから、世間の価値観から自由になるということは言い換えると世間から相手にされなくなることでもある。こうした不幸を覚悟して、不幸に徹して生き続ける事です。そういう意味ではひろ さちや著  「狂い」のすすめと同じような結論になります。「日本社会は狂っている。こんな狂った社会の言いなりになってはいけない。私達は狂うことによって自由に人間らしい生き方が出来る。」  哲学者ってなんて自己勝手なんでしょう。だけど近頃ふっとそんな生き方をしたくなっている中高年のおじさんたちに贈る「悪魔の薦め」です。


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