書評  051212

養老孟司著 「唯脳論」

   
 ちくま学芸文庫(1998年10月初版)
 
人間は脳の力で文明を作った。現在は脳化社会だ。
 

養老孟司氏の企画

解剖学者養老孟司氏を決定つけた原点の書である。本書は1989年9月に青土社から刊行され、1998年にちくま文庫に入った。茂木健一郎著 「脳と仮想」 The Brain snd Imaginationと併せ読むと茂木氏が仮想というのに対して養老氏はシンボル活動という違いはあるが、主張するところは「あらゆる人の人たる営みは脳に由来する。」と言うことになる。茂木氏はより文科的立場からに対して養老氏はより理科的な立場から述べているだけのことだ。

現状からいうと、人間の精神・心の説明は科学的にはとりあえず出来ない。いつできるかと言うこともいえない。1千億個のニューロンのシステムを構造論だけでは理解できないのは当然である。何万年も前から人間は生物学的に確立した種である。従って脳の構造機能は変化していないが、ひょっとして天才的頭脳が解明するかもしれない。従って本書は脳から人間活動を説明できているのではなく、説明する時の方法論について考察したものと理解される。この分野の難しさは動物実験できることではなく、構造と機能の対応関係からだけでは人間の意識という総合的な機能は掴めないからである。進化論のようなアプリオリな推論(実証実験の積み重ねではなく、神の声のような天才的ドグマ)の創造によるしかないからだ。従って医学界ではこの問題はタブー視されている。第三者的な養老孟司氏だからこそ、気楽に問題提起できたようである。

唯脳論は心身一元論

「神学では心つまり精神はヒトと神だけの持ち物であった」が、脳という構造(末梢神経と中枢神経)から心という機能が生まれるのである。「脳と心の関係の問題即ち心身論とはじつは構造と機能の問題に帰着する。これは因果関係ではなく対応関係にある。」と言う実に明快な導入口を用意された。脳の変化は末梢神経からの情報でもたらされる、これを学習、成長といってもよい。そこで「中枢は抹消の奴隷」とも言われるが脳と身体は一体化している。生き物が外界の条件に反応するだけでいいうちは、即ちヒト以外の生物の脳なら意識はなくてもいい。しかしヒトが直立歩行して以来背骨は大きな頭蓋を支えることが出来るようになり、脳が大きくなった。そして余裕のある脳に言語や意識という機能が発生した。つまりヒトの脳は外界だけでなく自分の脳にも気がついてしまった。これが脳の進化過程でもあり、いわば脳の剰余価値論である。
本書の1/3くらいは脳神経系統の科学的解説であるが、そのあたりは省略する。常識的に知っているからである。本書評ではむしろ文科的な事項との関連のみに注目したい。

デカルトの公理と脳

近代西欧文明の祖デカルトの二元論をなす公理「コギトエルゴスム」、すなわち私が考えるという状態は私が存在する状態である。脳が脳のことを知ることが意識だという公理から始めようではないか。神経細胞の発生段階では最終的に必要となる細胞数の倍以上が用意されている。これが脳の余剰による活動を可能とした。そして意識という活動に向けられたようだ。

言語の発生

本書の中心はこの「言語発生論」にあるといっても過言ではない。身体的活動と脳における構造的位置関係がよく研究されていて物が言いやすいためである。また失語症と脳の関係の研究結果が豊富だからである。「ヒトにおける言語の発生は脳の発達の問題でもある。言語機能は殆ど左側の大脳皮質に位置している。図がないと説明しずらいが、脳の中心溝の前頭部は運動と意識に関係し、中心溝の後頭部は知覚に関係する。聴覚領はウエルニッケル聴覚性言語中枢につながり、視覚領は角回視覚性言語中枢につながる。この二つの言語中枢から前頭部の運動性言語中枢であるブローカ中枢に指令がでて発語運動領を動かして喉、耳、口などと連動して言葉が発せられるのである。視覚言語(文字)と聴覚言語(音声語)のどちらが先かという問題は文字の発明という技術的遅れがあって聴覚言語から始まったという歴史的事実があるようだが、最初から能力は用意されていたとみるべきだというのが養老氏の持論である。「ヒトの脳は視覚と聴覚という本来つなぎにくいものを脳細胞の余裕で繋いでしまったようだ。」という推論が出される。
「情緒は同じ大脳皮質でも、大脳辺縁系即ち原始皮質、古皮質さらには下位の中枢にかかわり論理的分析が極めて困難で昔より文学が得意とする分野である。」

脳化社会

「我々はいまや人工物で埋め尽くされた脳の産物の中で生活している。これを脳化社会という。進化の過程で脊椎動物は脳化と呼ばれる大きな脳を持つ方向に進化した。」、
「脳は身体を統御し支配する器官である。さらに身体の延長として環境を統御し支配しようとする。」、
「脳は飢餓、性と暴力といった身体性を抑圧し自由になろうとするが、結局死という身体性に復讐される。個人としてのヒトは死すべきものだが文明という社会を作り脳化社会の不滅を図るのである。」


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