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猪瀬直樹著 「 道路の決着」

 小学館(2006年5月)


「道路の権力」後編、2004年6月道路公団民営化法案成立にいたる官僚・道路族との戦い

国鉄改革は24兆円もの税金を投入し、国民一人当たり20万円の負担を強いた。今も毎年一般会計から6000億円を向こう60年間支払う勘定である。だが道路公団民営化では本四公団に1兆3400億円の税金を投入するものの、基本的には新会社で自力返済を可能とする解決に至った。そして2005年10月1日五つの民営高速道路会社がスタートした。道路は日本の政治のタブーいや政冶そのものであった。まして道路公団が解体民営化されると考えた政治家がいただろうか。今現在で、社会保険庁の解体、防衛施設庁の解体、郵政3事業の民営化、道路公団の民営化が成功した。道路公団は特別会計なので国民の監視が届かず、そして公団、特殊法人は情報公開制の枠外にあるため国民の目が届かなかった。将にやりたい放題で借金のし放題(郵政の財政投融資)の関東軍であった。政治家、地方自治体もただ乗り公共事業費のばら撒きによって長く土建体質が染み付いている。土建屋と道路族ファミリーが儲かれば国は破綻しても意に介せずの観が有ったが、ようやくそれにブレーキがかかりそうである。しかしまだまだ目を離してはいけない。

この道路公団民営化委員会は徹底した情報公開で公開請求した資料に基づいて官政談合摘発し内田道路公団副総裁を逮捕させた。政治権力に対抗するにはメディアの影響力は強大であったが、反面新聞社は権力に振り回される傾向にあった。2002年末に国交省系の今井委員長と中村英夫委員が去ると、道路公団の利益を弁護したのが田中一昭委員長代理と川本裕子委員だった。8兆円以上の債務処理を主張したが、2003年末には政府与党の「民営化の基本的枠組み」が決定し、田中委員長代理と松田昌士委員が辞任した。高速道路料金の2割値下げを勝ち取ったことは競争相手のJR(松田委員)にとって脅威だったのか。川本委員も欠席してとうとう委員会は猪瀬と大宅の二人だけになり、それでも委員会は委員懇談会として続行した。官製談合問題、偽造ハイウェイカード300億円問題や豪華保養所32箇所と過剰社宅建設問題など公団の膿を出していった。2003年12月22日政府与党の「民営化の基本的枠組み」、2004年6月2日民営化法案国会通過、2005年10月1日民営化新会社スタートまで民営化委員懇談会作業は二人で続けられた。2005年9月24日第72回民営化委員会で活動は終結した。

委員会の分裂の背景と鉄骨橋梁談合問題(内田副総裁逮捕)

前編「道路の権力」からの続きで民営化委員会の活動と分裂について総括してある。前編「道路の権力」の最後では最終答申をめぐって委員会はまだ妥協の余地があって、委員の間の分裂の背景については書かないほうがよいという判断であったが、結果は分裂してしまって委員が次々辞任していった今日、その原因や背景を冷静に総括できるという状況になった。今井委員長人事は福田官房長官によるものであるが、委員会にはさまざまな勢力が代表を送り込んだ。田中角栄の流れを汲む旧竹下派の経世会は公共事業に強い。古賀を道路調査会長に据えたのは野中広務であった。藤井道路公団総裁は必ずしも経世会とはうまくいっていなかったので自分の権力基盤を道路公団に求め独立王国を目指したようだ。道路公団と国交省道路局とは利害が一致するが、面従腹背で道路公団の独立王国を築きたいのだった。道路公団事務系は片桐調査役を委員会事務局次長に押し込むことに成功した。片桐事務局次長とその先輩で公団ファミリー企業のHTS社長緒方弘道らは公団技術系とは対立関係にあった。前編「道路の権力」にも書いてあるが彼らは水野清元建設大臣を長とする「シャドーコミッティー」という会合を持ち、田中一昭、川本裕子委員はその影響下に公団債務に8兆円の税金投入を主張して道路公団のみの超優良独占企業体としての民営化を目指した。民営化委員会の正面の敵は確かに国会議員の道路族であるが、別の敵は国交省官僚と甘い汁をすって借金まみれの道路公団である。民営化委員会の色分けは、国交省の代弁者は今井委員長と中村英夫委員、道路公団事務系の代弁者は田中一昭委員長代理と川本裕子委員、道路と競合関係にあるJRの代弁者は松田昌士委員である。残るはジャーナリストの大宅女史と作家の猪瀬直樹氏の二人だけとなった。他の委員が自分の意のままにならぬと見るや次々辞任していったがこの二人が最後まで委員会を維持し、公団の膿を出し続けたのであった。ということで小泉首相は委員人選では主導権を発揮していない。飯島秘書官によると各委員の背景の情報収集力が甘かったということだ。2002年12月の最終答申をめぐって今井委員長辞任、それと連動して中村委員も出席拒否となった。後一年近くは5名で委員会を継続していたが、2003年12月政府与党の「民営化の基本的枠組み」が決定し、田中委員長代理と松田昌士委員が辞任した。川本委員も出席拒否。メディアは委員会は空中分解したとか改革は失敗したとか囃し立てていたが、2004年からは大宅と猪瀬委員の二人で、法律で決まった委員会の「強力な権限」を行使して民営化を最後まで見届けるため委員懇談会という形で続行した。今井委員長は当初公団事務系の片桐事務局次長に取り込まれていたが、途中から国交省側の柴田事務局次長に取り込まれた。従来の委員会や審議会では事務局の権限は絶対的で委員をいいように操り自分達の望ましい結論に導く役割を担っている。今井委員長は保有・債務返済機構から建設資金を出せるように国交省の利益を誘導し、全て借金の返済に充てるべきとする行革断行評議会の結論に反対した。田中一昭、川本裕子委員はその影響下に公団債務に8兆円の税金投入を主張して道路公団のみの超優良独占企業体としての民営化を目指し、10年後の資産の買取に固執した。松田委員は古賀道路調査委員長、二階幹事長の影響下に自分が道路公団総裁になれるよう猪瀬直樹氏から小泉首相に推薦してくれと言い出す始末であった。また2002年12月の最終答申をめぐって今井委員長解任動議を出すなどおかしな行動をとるようになった。

日本道路公団の技術系トップは内田道雄副総裁である。2005年5月24日民営化委員会は鉄骨橋梁談合問題の正念場であった。内田副総裁は談合調整会の「かずら会」の存在に白を切って、6月21日、7月5日の委員会には出席要請をしても絶対出てこなくなった。その間公正取引委員会は鉄鋼製橋梁メーカー大手8社の幹部10名ほどを刑事告発した。5月24日の民営化委員会は鉄骨橋梁工事の4年間の落札資料を公団から提出させた結果、落札率98%以上という明らかに談合の疑いが判明した。また橋梁メーカー33社への公団からの天下りは39名であることも判明した。日本がいかに土建王国であるかは以下の数値が示す。日本の就業人口6400万人のうち一割600万人が土建・建設業人口である。建設投資額が1992年がピークで84兆円(公共事業は32兆円)、2004年では52兆円(うち公共事業は20兆円)に減少した。小泉内閣が成立後毎年3.%づつ減少させてきた。6月29日には公団へ強制捜査が入った。7月7日の参議院国交委員会に猪瀬直樹氏は参考人として呼ばれ、7月25日内田副総裁、8月1日金子理事は逮捕された。この年は国会と自民党は郵政民営化の正念場を迎え、8月8日参議院は郵政民営化法案を否決し、小泉首相はただちに衆議院を解散した。8月23日の民営化委員会では民営化分割新三会社の会長予定者をヒアリングし、会長は談合しないと宣誓した。

民営化法案化に向けた国交省の骨抜き策謀と小泉首相の決断

2003年9月第二次小泉内閣は石原氏を国交省大臣に任命し、「幻の財務諸表問題」で藤井公団総裁の辞任を迫った。10月17日石原大臣は藤井総裁を9時間聴聞したが、藤井総裁は頑強に抵抗した。ここに公団総裁の権力がいかに強いか国民の前にさらけ出した。結局11月13日公団の新総裁が近藤剛元伊藤忠商事常務に決まった。そんな騒ぎをよそに見て2003年も年の瀬が迫ったにも関わらず、国交省の民営化法案化作業は遅れていた。10月28日の委員会で「勧告権」を行使して、政府与党連絡協議会の前に国交省へ法案化素案の提出を求めた。委員会が最終答申をしてから1年近くも経つのに国交省から何の返答もない。11月21日猪瀬直樹氏は小泉首相の決意を促した。11月25日の委員会は道路建設費の削減を2割から5割を迫った。12月2日国交省は政府与党協議会に示した民営化法案の原案では三つの案を並列に記したものだが、委員会案では全く建設が出来ないような非現実的な内容に書かれていた。そして12月12日には自民党案も出され結局12月15日石原国交相大臣は民営化委員会案、国交省案、自民党案の3案を示して小泉首相の裁定を仰ぐことになった。小泉首相は民営化委員会案を尊重するということを繰り返した。12月18日猪瀬直樹委員は首相官邸に次の法案骨子メモを提出した。1)公団は5分割する。2)料金は値下げする。3)新会社の経営自主権。4)40年間での債務返済。5)新規建設資金は自主調達。6)9342キロの道路建設は全部作らない。一部凍結あり。コスト削減3兆円をめざす。というものであった。そして小泉首相は猪瀬案の趣旨を法案化するように秘書官に命じた。遂に国交省は猪瀬案に従って法案化を行い12月20日政府与党協議会へ根回しを行うに至った。そして12月22日政府与党協議会は「民営化への基本的枠組み」を公表した。同日12月22日には国交省の意向を受けていた田中委員長代理、川本委員、JRの松田委員は辞任した。猪瀬ー小泉ラインの勝利である。

年が明けて2004年よりは猪瀬氏と大宅氏の二人で委員懇談会が続行された。1月13日の委員懇談会で大宅委員は「委員会が分解して喜ぶのは道路族だくらいは分かっているはずなのに、辞任した委員は無責任だ」と憮然たる表情であった。保有・債務返済機構には40兆円の債務が引き継がれる。分割民営化新会社は機構へリース料金を支払うことになる。「民営化への基本的枠組み」では機構は独立行政法人とし道路財産を保有し、会社に貸し付ける。リース料金を徴収して債務を返済する。機構は民営化後45年で解散するというもので、機構の職員は90名程度となった。また全国料金プール制はなくなり、東名の上がりは本四連絡橋には回さないことが基本である。1月20日には「民営化への基本的枠組み」に従った「民営化法案骨子」が政府より発表された。新会社の政府株の保有率は1/3以下とすることが小泉首相の腹つもりであった。そこで2月24日の委員懇談会は法案の一部修正を小泉首相に願い出た。要旨は新会社への国交省官僚の天下り禁止と国の株保有率は1/2以下として国が支配権を持たないことを明記するものである。また民営化会社の資金調達に政府保証を与えないことである。そしてついに法案は3月9日閣議決定されて国会へ上程された。4月の国会は社会保険庁問題に対する厚生労働官僚の逆襲による年金未納議員暴露というリーク騒動に揺れたが、6月2日対に道路公団民営化法は国会を通過した。小泉首相は同志の猪瀬氏に電話で「よくここまでこれたな。ありがとう」というねぎらいをかけた。

民営化会社スタートまでの監視作業

法案が成立したからといって、委員懇談会は消滅したわけではない。新会社スタートまで委員懇談会は活動を続け、道路公団のさまざまな膿を出しつつ監視作業を怠らなかった。国交省官僚による破壊工作を許してはならない。2004年7月14日の委員懇談会はハイウエイカード(ハイカ)偽造による損害が莫大になるという予測で損害額の査定に入った。公団の近藤総裁は04年度末には300億円に達するという。ハイカを発行する会社が例のHTSであった。そこでHTSの売上高140億円などの調査になった。管理業務が猪瀬氏に言わせると「ずぶずぶの管理費は民営化までに30%削減できる」そのためにはファミリー企業を整理淘汰しなければならず、日本道路公団の管理費用4000億円のうち人件費1000億円、3000億円は全てファミリー企業へ落ちる仕組みである。過去三年間のファミリー企業への公団職員の天下り数を調査したところ、03年度だけで57人もいた。公団の社宅について調査したところ、総戸数7359戸(全職員8300人)、全職員に1戸の割合である。また空き家総数は1000戸であった。取得金額は1018億円であった。家賃平均は2万円、駐車場6600台であった。何と言う豪華な住宅事情ではないだろうか。国民の常識からして許されるものではない。さらに分室という名の豪華保養所が全国に15施設で取得金額は83億円、保養所が17箇所あり取得金額は61億円であった。だぶだぶの管理費で公団は贅沢のきわみを行っていたのである。

2005年9月には小泉首相は郵政衆議院選挙で圧勝し、そして遂に10月1日には4道路公団は五つの分割新会社としてスタートした。9月24日は最後の民営化委員会となり通算72回めであった。料金値下げは民営化の大きな成果である。大都市での夜間100キロ以内は5割の値下げになった。首都高速は全てで2割値下げである。これらはETC設置が前提である。ところがETC セットアップ料金3000円に財団法人オルセが500円も取っていることが分かったので国交省にオルセの請求を止めさせた。この時点では抵抗勢力に包囲された小泉政権では道路特定財源の一般財源化は挫折せざるを得なかった。政府の一般会計は年間40兆円近い国際を発行し、うち17億円が新たな借金になる。ところが国家財政が破綻しつつあるのに道路整備特別会計など31の特別会計は潤沢で、塩爺をして「母屋でかゆを啜っているのに、離れですき焼きを食べている」と言わしめたものだ。10月の改造第3次小泉内閣では石原伸晃氏を自民党道路調査会長に任命し、2005年12月9日に「道路特定財源の一般財源化を基本方針とする」と政府与党協議会で決定された。明けて2006年1月31日「高速道路会社・機構・国交省連絡協議会」が開かれ、抜本的見直し区間の協議が行われた。第二名神凍結(京滋)は凍結された。


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