070408

中坊公平著  「中坊公平・私の事件簿」

 集英社新書(2000年11月)


市民の視線に立った事件の解決を 「平成の鬼平」、「戦う社会派弁護士」、「司法の金八先生」

先日(4月6日)ashi.comに次のような見出し「中坊氏、弁護士再登録を申請 自主廃業から1年4カ月」の記事が出た。
「日本弁護士連合会(日弁連)元会長で、05年11月に住宅金融債権管理機構(現・整理回収機構)社長当時の不適切な債権回収問題で弁護士を廃業した中坊公平氏(77)が先月、大阪弁護士会に入会申込書を提出したことがわかった。中坊氏は債権回収問題をめぐって刑事告発されたが、弁護士廃業を表明したことなどから不起訴(起訴猶予)となった。同会は弁護士再登録の妥当性を検討し、入会の可否を決める。 中坊氏は住管機構社長だった98年、堺市の土地の売却価格を伏せて債権者に抵当権を外させ、不正な利益を得たとして02年に東京地検に詐欺容疑で告発された。捜査した同地検特捜部は、弁護士廃業を表明したことや、個人的な利得がなかったことなどを重視し、起訴猶予処分とした」

中坊氏は57年、大阪弁護士会に入会。1973年森永ヒ素ミルク中毒事件の被害者弁護団長や、1993年香川・豊島の産業廃棄物不法投棄問題の住民側弁護団長に就くなど「社会派弁護士」として活躍。90〜92年に日弁連会長、その後は政府の司法制度改革審議会委員や、警察刷新会議メンバーを歴任した。中坊氏はバブル崩壊で倒産した住専企業債権処理という危ない橋で違法な債権取りたてをしたかどで起訴になりかけが、弁護士廃業と起訴取り消しの司法取引をおこなって世間の注目を浴びた。この中坊氏の弁護士廃業事件は、明らかに住管機構社長だった時期に時の小渕首相を説き伏せて民の論理で債権回収をはかり、国民の税を守るため2次損失を防いだことに対して、大蔵省の公的資金投入派が中坊氏を陥れるために仕組んだ起訴劇であった。氏は自分の懐のために債権取りたてをやったのではなく国民のためにやった手段に問題があっただけである。

本書は小渕首相、梶山静六氏、野中広務氏らの支持を得て権力の中枢へ進出し始めた、いわば中坊氏晩年の絶頂期に「70歳をこえ、人生の終着駅ももう間近だ。過去を振り返るしか楽しみもなくなった」という心境で自己の弁護士活動を振り返って感想を述べるために書かれたようだ。これを面白く思わなかった大蔵省官僚や政治家が中坊氏失脚を狙って詐欺事件をたくらんだというのが深層ではないだろうか。権力の中枢には近づかないほうが賢明だという教訓がでる。それはさておき、本書は1960年から1996年までに氏が扱われた500の事件簿より氏を育て教訓に満ちた14の事件を記録公開されたことになる。小さな揉め事から政治の根幹を揺るがす事件まで興味の尽きない内容になっている。私はそのなかから、氏の社会派弁護氏の面目約如たる事件を四件取り上げて考えたい。

森永砒素ミルク中毒事件(1973)

この乳児用粉末ミルク薬害事件は、森永乳業徳島工場が使用した乳化剤を日本軽金属の砒素化合物を含む第二燐酸ソーダに変更したことで発生した。1953年日本軽金属は製造工程から出る廃棄物である砒素化合物を含む第二燐酸ソーダの毒性について静岡県と厚生省に紹介したところ回答がなくそのまま使用したそうである。その結果西日本一体に乳児の奇病が広がり、乳児の被害者は12131名で、死亡者は130名におよんだ。厚生省は「五人委員会」を作って被害者同盟協議会と交渉に当たり、1955年12月補償金死亡者一人25万円、患者一万円と決め、被害者協議会を解散させ、全国一斉精密診断を行って全患者を「全快」と認定して患者がいなくなった。この「五人委員会」と医者の犯罪的な役割は、後日発生する水俣病と軌を一にする。当時の公害病認定の政治的な幕引きを計ったものである。ところが患者は一向に良くならずすでに高校生になってきた時、1969年「森永ミルク中毒の子供を守る会」が結成され、民事訴訟を提起し1973年1月被害者弁護団が結成され中坊氏が団長となった。患者は何も救済されず放置され実に14年たってからの訴訟である。公害病発生認定を1955年とすると損害賠償の長期時効は20年であるためあと2年しか残されていなかった。

中坊氏は患者の恒久救済対策を訴え森永製品不買運動も展開しながら、因果関係の立証という難問を抱えながらも、国と森永に責任を認めさせて1973年12月に確認書を交わすことになった。確認書は森永は加害企業としての責任を認め、財団法人「救済委員会」の判断や決定により救済する。その資金は森永が負担する。国は救済に行政的に協力するというものである。これは示談である。この裁判での中坊氏の冒頭陳述は次の四点を述べた意義深い内容である。
1:被害者はミルクを生命の糧にする乳幼児である。
2:消費者として、森永と国の責任を追及する。
3:被害者は一度目は薬物によって、二度目は国や社会といった第三者によって二度殺される。
4:砒素被害者の病状や疎外の惨状はひどいものである。

金のペーパー商法・豊田商事事件(1985)

1981年春ごろから永野一男の豊田商事は「純金ファミリー契約証券」取引を始めた。豊田商事は純金は購入せず、客に純金を買わせた形で純金を預かって運用し10%の賃借料をはらうというという詐欺商法であった。純金購入行為はないのだから、無限に客を増やしていかないといつかは破綻するものであった。既に1985年ごろから破綻の兆しはあったが、その後も強引に高齢者を相手に勧誘し1200億円近い金を集めた。このことは新聞テレビ国会でも取り上げられ強制捜査も入った矢先に永野一男は自宅に押し込んだ男に刺殺されるという不可思議な結末になった。誰かが自分に捜査が及ぶことを恐れて口封じをしたのであろうが、毎度警察は疑獄事件で誰か中心人物が自殺すれば捜査を終了しうやむやにするという伝統がある。1985年6月被害者らにより豊田商事の破産が申し立てられ、中坊氏らが破産管財人となった。6年後の1991年管財業務は終了し総配当額は被害総額の10%(121億円)であった。

破産の申し立て人は「債権者」であるが同時に被害者である。そして騙された高齢者のへ配慮が少ない老人問題の面もあった。高齢の被害者と同じ目線で対応することが必要だった。殆ど金が残っていなかった豊田商事の何処から金を回収するかということが最大の問題であった。そこで豊田商事のグループ中核であった銀河計画という会社の破産申し立てをおこない、詐欺行為で高給を食んだ豊田商事の従業員の所得税を税務署から回収するなど苦労が多かったようだ。ところがもっと悪い奴がいたようだ。大手建設会社を始め豊田商事を利用した連中である。長野を刺殺したのはこの連中が送った殺し屋であろうか。たとえば今日でもハゲタカヘッジファンド(村上ファンドなど)に資金を提供して暴利を戴く証券会社や銀行などがその黒幕であろうか。

産業廃棄物不法投棄・豊島事件(1993)

1975年豊島総合観光開発は香川県豊島に産業廃棄物処理業の許可申請をした。1978年初めは「みみずによる土壌改良剤処理」という名目で許可を得て、1983年からは「シュレッダーダスト」を野焼埋め立てをするようになった。1990年兵庫県警は豊島総合観光開発を摘発したが、香川県は公害の問題はないとして廃棄物撤去に応じなかった。1993年豊島住民は香川県と豊島総合観光開発と社長、廃棄物輩出業者21社を相手取り公害調停を申請した。中坊氏は申請代理人となって、つぶさに現状を視察し住民運動を展開した。公害調停は6年以上に及んだが2000年6月調停が成立した。第一に香川県が行政責任を認め住民に謝罪する、第二に産業廃棄物を直島に運搬して処理するという内容であった。

当初の香川県の対応は住民の訴えを聞かず、怪しげな業務内容で豊島総合観光開発の申請を許可し、その後も香川県には責任はないと責任を認めようとはしなかった。住民も香川県の言うことを素直に聞いていたことの問題も大きいが、所詮国民主権という権利は使わなければ形骸化することの典型であった。しかし住民運動はしだいに目覚め、住民は香川県内で市町村の座談会で主張を訴え草の根運動を展開し、県会議員に当選すると言う成果も得た。

不良債権・住専処理事件(1996)

住宅金融専門会社(住専)は1980年以降バブル期に融資を拡大、不動産向けに貸付審査もいい加減な担保以上の金を貸し続けた。ところがバブル崩壊により地価が下落すると膨大な不良債権を抱えるに至った。1995年村山内閣は公的資金で損失を穴埋めする処理案を出し、1996年6月には住専処理法と金融六法が成立した。住専7社の債権は10兆7000億円で、回収可能な債権は5兆5000億円、回収のほぼ不可能な6兆7000億円が住宅金融債権管理機構(住管機構)に移され十五年かけて回収することになった。住管機構は1999年整理回収機構となり、中坊氏はそれらの社長を務めた。

大蔵官僚や政治家が自分達に非難が廻ってくる前に処理案を決めたことだが、民間会社の債務返済や債権回収になぜ国民が負担しなければならないのか全く理解できないと中坊氏は考えた。法的には罪のない国民が罰せられるように税金が投入されるのは解せない。住専の債務を全部国が引き受ける住管機構は国の組織でありもし二次負担が発生したとしても国は責任を取る仕組みにはない。こうした債務問題は司法の場で処理すべきではないか。後始末は司法の場で裁かれるべきだ。司法は二割しか役目を果たしていない。後は「泣き寝入り」、「政治決着」、「暴力団支配」、「行政指導」という順で処理される。今回の公的資金投入は政治決着に相当する。整理回収機構は1998年10月与野党間の合意でまとまったのだが、大蔵省の巻き返しにより整理回収機構は難産していた。そこを小渕前首相、梶山静六、野中広務白の尽力で大蔵官僚を押さえ込んで機構は発足した。なお中坊氏はこれらの社長時代に月給も退職金も貰っていないそうだ。志が立派だ。その辺を妬んだ官僚が中坊氏の名誉と実績を傷つけ失脚を狙って、先の起訴問題を企んだ様だ。返す返すも卑怯な奴らだ。しかし権力の中枢に近づくときは十分な備えと覚悟を持たなければいけない。無防備では足元をすくわれる。平安時代の公家社会みたいなものだ。


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