070318

藤田正勝著 「西田幾多郎」

 岩波新書


いきなり白状するが、私は西田幾多郎哲学の書は何一つ読んでいない。西田幾多郎氏から田辺元氏につながる京都学派の哲学(ほかに日本の哲学を代表する哲学は発生しなかったようだが)は私の偏見では「ひ弱で東洋的無に逃げこむ」印象が強く、とてもデカルト以来の欧州の哲学の系譜には太刀打ちできないと納得していた。この辺が「日本人は思想したか」と問われる由縁である。それから戦前の哲学者の著作は難解で理解できない言葉が多く読む気力がなくなることも、私を西田幾多郎以来の日本哲学の書から遠ざける要因であった。かのひねった文章で有名な小林秀雄でさえ、1939年「学者と官僚」というエッセーのなかで西田幾多郎の哲学を「日本語では書かれておらず、勿論外国語でもないという奇妙なシステム」と揶揄したのもうなずける。「絶対的矛盾の自己同一」、「表現作用的身体」、「平常底」などいう言葉は翻訳なしには理解できない。ということで自分が日本哲学に疎遠であった言い訳にしているが、しかし私は同じ京都学派の中では三木清、戸坂潤、梯明秀、唐木順三らの著作はよく読んだものだ。何故かといえば、やはり彼らの考察対象が社会であり世界であったから興味がわいたのであろう。かって林達夫は「思想の文学的形態」という文章で「西田哲学は決して完結した思想体系ではなく、むしろエッセーである」と語った。つまり西洋哲学のような体系的思想と応用範囲の広い思想ではなく、西田哲学は断片的、個人的心象主義に近いという批判である。西田幾多郎は活動の後半ではこれらの批判を受けて、個人から世界に目を向けるようになるが、西田幾多郎自身も「体系的思想は自分の能力を超える。私はいつまでも一介の坑夫である」と述べた。そして幾多郎は「自ら思索する」ことを、そして「真に生きること」とは何かを追い求めた。そこに幾多郎のまじめな態度、真摯な態度を読み取れる。

あるときふっと店頭で本書を取り上げ購入したしたのは、私自身に何かそうさせる起因があったのかもしれない。人の翻訳ではあるが、西田幾多郎哲学に触れてみたいという気になった。本書は10章から構成されるが、序章、前期の哲学、後期の哲学の三部に分けて本書を理解したい。

序章

西田幾多郎哲学の出発点は1911年「善の研究」である。「個人あって経験あるにはあらず、経験あって個人あるのである。個人的区別よりも経験が根本的であるという考えから独我論を脱することが出来た」と西田哲学は始まる。明治維新以来、国力の進展に応じた近代的自我の形成がなされないまま、その反動としての独りよがりの独我論を融解することが目的になったようだが、これはまた個の埋没という日本的状況がなせることであった。「哲学は我々の自己が真に生きることより始まる。我々の自己の自覚の仕方であり、生き方である」という態度が西田哲学の出発点であった。西田幾多郎は1870年石川県に生まれた。石川県専門学校(金沢大学の祖)で哲学を学び、性向不良で退学させられた西田は帝大文科大学(東大の祖)に移った。帝大卒業後は中学校教諭、第四高等学校講師、山口高校、四校教授となった。西田が石川県にいたときには禅への傾倒がみられた。1909年学習院大学に移り、翌年1910年から1928年まで京都大学哲学講座教授として研究と教育に励んだ。京都大学時代には「善の研究」、「自覚における直感と反省」、「芸術と道徳」、「働くものから見るものへ」などを発表した。京大退職後一層哲学の研究に邁進し、「一般者の自覚的体系」、「無の自覚的限定」、「哲学の根本問題」、「哲学の根本問題続編」、「哲学論文集」を発表した。西田の後を継いで京大哲学講座教授になった田辺元より手厳しい批判を受け、これまでの自己意識中心の哲学から弁証法的な世界、歴史・社会への積極的参加(といっても非常に観念的世界であるが)へと後期の西田哲学へ変わっていった。さてその西田哲学の変遷の歴史と特徴をふりかえってゆこう。なお西田氏は1945年6月死去、75歳であった。

前期の哲学

西田幾多郎哲学の出発点は1911年「善の研究」である。この「善の研究」というタイトルはかならずしも内容と一致していない。「純粋経験と実在」という題名がぴったりする。「経験するとは事実そのままに知るの意である。純粋というのは普通に経験といっているのはその実何らかの思想を交えているいるので、少しも思慮分別を加えない、真に経験そのままの状態を言うのである。それで純粋経験とは直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験したとき、いまだ主もなく客もない、知識とその対象が全く合一している」と序に言っている。ここで主客の問題はデカルトの二元論(心身問題)を踏まえて、主と客が対置する関係で考えないで、一体としてとらえる「知情意」の世界である。この考えは今日の脳科学者茂木健一郎氏が唱える「クオリア」という認識世界でもある。ここでもやはり主語が消え、場のみが存在する。この考えはベルグソンの「直感」と深く通じ合っている。「事物は主という外から対象を見るのでなく、事物自体になって始めて把握される」という思想は西田幾多郎氏の思想全体を貫くものである。

この主客同一の場は宗教・芸術・道徳の極意と主張する。感情が意識成立の根本的条件とみなす態度は「知情意」となって「絶対意志ないし純粋視覚にたつとき、意識の深層にあった感情が物に移され、色が生きた色になり、或いは生命によって満たされる。このように生命に満たされた芸術的対象が直ちに我々の手を動かして芸術的創造作用となる」という。これはベルグソンの「先験的感情世界」やフィードラーの「芸術論」に通じている。

新カント派リッケルトの「純論理派」は「心理主義」を批判して真理は個人の意識内容を超えて一般性を持たなければならないとした。西田はこの批判を受けて個人の意識があくまで個人の特殊認識に終わるのではなく、「働くものから見るものへ」において「場所」の考えに到達したという。場所とは「純粋経験というのは、そこに与えられた現実があるのである。それは対象化することが出来ない自己であり、反省しつくすことが出来ない直接の所与であり、全ての知識の根源があるのである」という。心理主義という批判を乗越えるため、場所の思想で自分の考えを論理化できる端緒を得たという。この場所は「超越的述語面」すなわちつねに述語となって主語とならない場と言い表す。ここで純粋経験の場はやはり個という自己が存在しない、極めて日本的認識と行動の場となった。近代の哲学は人間を世界を基礎付ける主観として、そして行為・実践という場では存在する客体に対して自らの意志に基づいて自由に関わってゆく存在つまり主体として捉えてきた。西田は自己を「場」として捉える。自己を認識に場に溶かしこむのである。私には前者の近代哲学の流れのほうが身についている。西田の場の考えは自己の喪失以外の何物でもない。雰囲気の場、直感の場、主体なき場はやはり仏教的、東洋的無につながる曖昧な世界になってしまう。事実、西田は禅の体験を手がかりに場所を「絶対的無の場所」という宗教的認識と説明したのである。

後期の哲学

場所の論文が出された1926年、左右田喜一郎氏が「西田哲学」を新カント主義の立場より厳しい批判を行った。戸坂潤氏はマルクス主義の立場から、田辺元氏はヘーゲル弁証法哲学の立場より批判を強めた。なかでも田辺元氏は1930年に西田哲学を新プラトン主義の誤りに軌を一にするとし、更に事物のなかの矛盾や非合理性が西田哲学では無視されていると批判し、個物と環境が相互に限定しあう弁証法的過程を説いて西田の猛反を迫った。それに西田は1932年「私と汝」等言う論文を書いて、歴史的世界が西田の視野に入ってきた。この時期から後期西田哲学に入る。西田氏は教え子や友人の批判に答える柔軟性を持ち日々進歩する体質を持っていたようだ。つまり前期の自己意識世界から後期の現実の世界の論理構造研究が「哲学の根本問題」で開始された。そして西田氏は弁証法を取り込んで行くのだが、「行為的直観」とか「歴史的身体」とか「弁証法的一般者」とか「弁証法的自己同一」などという難解な造語を持ち出してくる。

自己を行為する存在として、認識すること(見ること)と行為すること(働くこと)が切り離しえない仕方で結びついていることを「行為的直観」という。「私がここに身体というのは単に生物的身体をいうのではなく、表現作用的身体、歴史的身体を言うのである」と述べている。又この「行為」は単なる身体的動作ではなく、物を作ること「ポイエシス」制作を指すのである。かくして認識とは実在を行為的連関のなかで、言い換えれば制作という場においてリアルに掴み取ることを意味する。

西田氏は一生、宗教の問題に深い関心を寄せ、絶筆「場所的論理と宗教的世界観」(1945年)を著した。ここでも「逆対応」とか「平常底」という難解な造語を作った。「具体的な制作的自己の立場すなわち全自己の立場から世界を考えてゆくのが哲学であれば、矛盾的自己同一の底に徹してじか雨滴にこれを把握するのが宗教である」と定義した。1940年の「実践哲学序論」では「宗教は神秘的直感であっては無用の長物である。宗教は我々の日常生活の根底たる事実でなければならない」とも言っている。「死の自覚」とは我々の自己の根底に深き自己矛盾を意識したときである。親鸞の「悪の自覚」は絶望につながり、自己を越えた絶対的存在と自己との矛盾的な関係こそが宗教が成り立つ場所なのである。

西田哲学のなかで生きていた東洋思想の伝統は無視できない。「東洋文化の根底には形なきものの形を見、声なきものの声を聴くといったようなものが潜んでいるのだろう。我々の心はこのようなものを求めてやまない」というが、東洋的無の思想には「インドの無の思想には知的な性格を強く持つに対し、中国の無の思想には行的な性格を強く持ち、日本の無の思想は情的な特質をもつ」という。日本的情の特質とは流れて生成的、発展的なものだということらしいが私には何のことやら根拠が分からない。時代背景には日本精神主義の排他主義、ナショナリズムの勃興そして帝国主義ファッシズムへの傾斜があって、西田はこの傾向に明確な批判を有していた。事物の論理まで発展しなかった仏教思想の限界を「意識的自己の問題に留まって制作的自己の問題に至らなかった」とした。これが東洋思想の限界というべきか。また日本語がかならずしも主語を必要としないのと、必ず主語を明確にする屈折語の違いが文化や思想を特徴付けたようだ。日本の伝統文化のなかで、無ということあるいは己を空しくすることが美徳とされた日本では、結局近代的個人が確立できなかった。この辺は丸山真男氏の日本思想史に詳しい。


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