070210

姜尚中著 「姜尚中の政治学入門」

 集英社新書(2006年2月)

「行動する政治学者」が解き明かす現代日本の政治課題

姜尚中氏は東京大学情報学環教授で専攻は政治学・政治思想史である。私は彼の明敏な論理とソフトな話し方から、在日の「丸山真男」と見て期待している。わき道に逸れるが、右翼青嵐会の政治家で東京都知事の石原慎太郎氏は、JOC主催のオリンピック候補地ヒアリング会で福岡県の応援演説をぶった姜尚中氏のことを、「生意気で変な外人」と在日韓国人への差別発言をした。姜尚中氏は日本で生まれ日本の最高の知性を有する日本人とみて間違いないと私は思う。石原都知事はなんという腹いせ的暴言を吐いたことか、右翼のお里が出たというべきであろう。さてもとに戻って本書は湾岸戦争以来、日本の55体制が揺らぎを見せるなか、「行動する政治学者」姜尚中氏が七つのキーワードから日本政治の課題を簡潔にそしてやさしく説き起こす本である。

本の名は「政治学入門」となっているが、「現代日本論」ともいえる。政治学といわれると規範的な理論で記述され難しいように聞こえるが、人と人を繋げる公的な世界へ導く豊かな構想力、つまり良いセンスを持つことである。バブル崩壊の1990年以降、グローバル化した市場の前では人々はバラバラの一個人にされ、雇用関係でも無力な市民と化し、政治の場においても砂粒のような有権者は寡頭的少数者支配に飲み込まれてゆく哀れな子羊になった。その出口を探すために現代日本政治を考えるセンスを持たなければならない。そこで筆者は七つのキーワードを選んで、現代を読む上でかなり根源的な点まで遡って解説を加える。

アメリカ

私達は、アメリカは良く悪くも自分のポジションを確認する時のレファレンス(参照系または座標軸)であることを逃れることは出来ない。「アメリカて何だ」と改めて聞かれると「資本主義社会における巨大な物量と生産力」であると定義できる。アメリカはローマ的な共和制民主主義として独立した。アメリカは宗教戦争を経験していないので、キリスト教原理主義に根ざす宗教的情熱が共和的愛国心が健在である。しかしアメリカ建国以来の原理的な問題は、先住民の虐殺と人種差別という二つの原罪を見逃すわけにはゆかない。そして1989年のスペイン戦争を契機にアメリカ理想主義(共和制)に帝国主義が加わった。第二次大戦中はアメリカにも一時ニューディール時代という福祉国家の時代もあったが、米ソ冷戦時代にはむきだしの原理主義の闘争になった。ベトナム戦争で自信を失ったアメリカに新保守主義ネオコンが台頭し経済面では規制緩和(小さい政府)、国際関係では冷戦時代のパワーポリテック(帝国主義手法)がはびこった。1990年に冷戦が終了すると湾岸戦争や対テロ戦争の時代では、アメリカ一国主義(覇権主義)が顕著になった。アメリカ国内では産業構造が空洞化し生産力のアメリカから金融資本の専横時代にシフトした。そしてそれに軍需産業が相乗りして経済的凋落を軍事力で糊塗すべく、皮肉にもアメリカの「ソビエト化」という寡頭制覇権国家へ変容しつつある。覇権国家であるアメリカの将来は確実に衰退して行くでしょうし、一極から三極(米、欧、アジア)世界への転換はアメリカのローカル化(普遍国家から普通国家へ)にいたるであろう。最後に共和党と民主党という2大政党も共和原理では殆ど差異のない政党ですが、原理主義の共和党と多元的価値の民主党という文化の価値観の違いです。

暴力

世界中に暴力は遍在する。この暴力に対する態度には三つの立場があります。一つは暴力を避けることが出来ないとして受け入れることです(フーコ、ホッブス、アナーキズム)。二つは理性でこの非正常な暴力を抑えることです(カント、ヒューマニズム)。第三に暴力を神聖なものと捉えることです(バクーニン、イスラム原理主義、テロ)。国家そのものが暴力機構であるという考えは、悪を封じるに悪を持ってするという「先制攻撃」擁護論につながります。果てしない暴力の連鎖が現実の世界です。

主権

国家或いは国民の問題は、主権という概念の発生の上に立っています。中世社会の宗教戦争を終結させるため、王権神授説は絶対世俗王権の存在を正当化します。近代の主権概念や国家の問題はホッブスに始まります。そしてこの絶対君主を廃して主権が国民という共同体に転化したときをもって、近代ナショナリズムという考えが成立しました。政治が人民の意思を反映させている限り国家のあり方はいつも正しいとするルソーの「一般意思」は全体主義に傾斜してゆきました。ルソーは直接民主主義を念頭においていましたが、間接民主主義において主権を委ねた権力が人民を抑圧し戦争に駆り立てることが日常化しました。国家の暴力を社会という自己調節機構でコントロールするというのが現代社会科学の中心テーマです。21世紀は地球というグローバルな主権が存在していない(米国覇権主義はそれを追求しているようですが)ため世界規模の内乱が多発しています。はたして国際連合がその代役になるのでしょうか、米国は否定しています。

憲法

そもそも憲法とは権力者による力の行使をコントロール下におくことを目的としています。そのルールが憲法なのです。そこを理解していない政治家・評論家などが多すぎます。憲法学の世界では主権者の政治的意思こそが窮極の根拠であるという立場と、憲法の内在的な独自性の論理を重んじる立場があります(丸山真男の中性国家論)。戦後の日本国憲法は「押し付け憲法」だとして改憲を目論む勢力は前者の対場です。しかし私が世界の憲法を比較した本(本の名は著者は忘れた)を読んで感じたことは、どの国の憲法の書いてあることは大同小異で、社会主義国の憲法でも国有化なんてことは何処にも書いてないことが分りました。すなわち憲法には根本的な規範と、二次的な法律に近い規範があります。日本国憲法の根本的な規範は「平和主義」、「国民主権」、「基本的人権」です。ところが自民党内部の懐古主義者と旧帝国主義勢力が改憲で狙っているのが、「平和主義」、「基本的人権」を変容させることです。憲法の根本的概念は実用的な価値観で嘴を挟むことは許されません。強い日本への懐古主義から、天皇制祭礼一致国家を復興させることが果たして成功するでしょうか。地に落ちた天皇家の能力を考えれば時代錯誤のきわみです。

戦後民主主義

民主主義は残念ながらいつも総力戦体制での戦争と表裏一体になって形成されてきました。日露戦争後の国家国民の形成、第一次世界大戦後の大正自由主義(文化的には大正ロマン)、第二次大戦後の戦後民主主義であります。プロト戦後の「アメリカがくれた民主主義革命」は、朝鮮戦争で経済復興と一体となった戦前的な権力機構が再生されたことで挫折しました。片翼的サンフランシスコ講和会議以降は55体制と高度経済成長が結びついた形で体制側へ変換しました。民衆のエネルギーも1960年安保闘争で終焉し、民衆を政治から遠避けるため70年全学連闘争を歪な醜い形にしたのも権力側の演出でした。そして「一億層中流化」という花見酒景気に埋没して国民は政治から排除されました。その社会もバブル崩壊後には弱者切り捨て、雇用不安定、規制緩和による伝統的産業構造破壊、金融支配を強めました。

歴史認識

プロレタリアート世界革命のような共産主義というユートピア構想が消滅して以来、各国の国家民族の過去が否応もなく政治化し、歴史が各々のナショナルアイデンティティにとって不可欠の要素になりました。ヘーゲルやマルクスのような歴史観は所謂普遍的な法則の存在は誰も信じなくなりました。つまり歴史相対主義が提唱されました。結局自民族中心的な歴史のみが重要になったのです。資料や事実関係のような客観的材料から歴史を捉えようにも、そもそも歴史は科学的検証が不可能です。それよりも誰にとっての歴史かという観点から歴史修正主義の時代になりました。中国や朝鮮の国民意識の統一は抗日闘争と分かちがたく結びついています。歴史を語ること自体が政治闘争化してきました。日本の「新しい教科書を作る会」の目的は日本国民の歴史です。侵略、南京虐殺事件、従軍慰安婦はなかったことにします。まことにご都合主義な歴史編纂です。例えば司馬遼太郎氏の「司馬史観」は日露戦争までの明治時代日本は明るく燃えていたが、日露戦争後第二次世界大戦までの日本は狂った逸脱した時代と捉えます。正か邪かということではないはずですが同じ根っこから来ているはずです。外国では人を殺して「悪魔が乗り移ったから」と自分は悪くないという論理と同じです。人格が破綻しているというか分裂しています。これもご都合主義でしょう。

東アジア共同体

第二次世界大戦以降、中国革命、朝鮮戦争、ベトナム戦争と想像を絶する規模の戦争が東アジアで起きました。冷戦以後には世界経済は三つのブロックで成り立っています。欧州ではEU、アンリカ大陸ではNAFTA、東南アジアではASEANがWTOのもとに経済圏を作っています。現在の日本、中国、韓国の3カ国だけで世界経済の20数%のGNPを産出しています。この東アジアブロックの経済的位置とは別に、歴史認識を廻って軋みが著しく、また北朝鮮を廻って冷戦が未だ終わっていません。東アジアの問題を話し合うとき(6カ国協議)、アメリカの存在なしでは議論が進みません。北朝鮮の態度は「2国間症候群」といいます。ASEANの日本、中国、韓国を加えた地域政治経済ブロックは「東アジア共同体」となります。今必要なのは、アメリカ、EU、東アジアの三極世界のバランスです。それが失敗すればアメリカによる単極的な世界秩序が強化されるでしょう。


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