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村上龍著 「日本経済に関する7年間の疑問」

 NHK生活人新書(2006年11月)

日本経済と社会・政治はどういう文脈で変わったのか

村上龍氏について紹介は不要であろう。1976年「限りなく透明に近いブルー」で芥川賞を受賞した小説家である。それから30年以上経つわけで今では50台半ばになる。正直言って私は村上氏の小説、それ以外の現代作家の小説も読んだことはない。だから小説として本書を見ているわけではない。経済関連の本としてみている。本書は1999年3月から2006年10月までの7年間の日本経済・社会の変化の文脈をたどる軌跡である。村上氏は金融・経済をテーマとするメルマガJJMを立ち上げた。この7年間はバル崩壊後の銀行不良債権処理が進まず銀行の倒産やゼロ金利政策から始まってようやく経済の回復期にさしかかっている時期であった。つまり不況から回復期にあたるのだが、米国の規制緩和とグローバル化要請によって日本経済社会は大きく変わってきた。メルマガJMMは、村上氏が毎週1回質問を発して経済専門家・大学教授や企業人などの回答者群から回答が寄せられるという形式で運営されている。運営スタッフは村上氏を含めて3名であり、恐らく回答者には金銭は払われていないだろう。本書の目的は問題の具体的解決策を提案する政策にあるのではなく、問題を設定する文脈を整理することにあると考えられる。村上氏は勿論経済専門家ではない。氏を取り巻く経済ブレーンに質問する姿勢に持ち味があるのである。ここで取り上げられた質問とエッセーを大きく7つのジャンルに分類して時系列に並べたものだ。氏の興味あるジャンルとは景気、雇用、構造改革、格差、米国の国益、北朝鮮、マスメディアである。ジャンルごとに変化の文脈をたどってみよう。

景気と経済

「環境・状況の変化に適応できない人、企業、国は滅ぶしかない」とか「日本の経済・金融のシステムの変化は日本人の意識の変化を促すだろう」というシステムと個人の意識の変化に氏は興味を持つ。「雇用なき景気回復」という言葉は正に金融によって景気を回復させる産業変化を言うのであるが、産業実態のない金融だけで景気が回復しないと私は思う。それは米国流ヘッジファンドが景気を回復させるという論理に流れるので非常に危険である。誰のための景気回復なのかとい観点が必要だ。「物つくり」産業が衰退したアメリカはそれを先取りして金融に邁進した。米国型金融産業の世界制覇の邪魔になる各国の制度や法規制を取り払えというのが規制緩和でありグローバル化要請である。氏はこれを変化の兆しというのか、必然的な変化として受容しろというのかはっきりして欲しい。小説家の成功者としての氏の主張も労働者側にあるのか資本側にあるのか揺れ動いている。変化に追随(対応)出来ないものはシーラカンスといって切り捨てるのか。圧倒的な力を持つ資本攻勢に立ち向かう個々の人は無力である。氏の立場を明確にしないと論点が揺れることになる。それがいまいち不明で歯がゆい感じがする。

雇用と職業

「倒産、解雇、転職を経験した人の方が明るい。要するにつぶれるべき人を救済してはいけない。延命策は社会を不透明にする」という氏の発言は戴けない。中高年のリストラや若年層の貧困化という雇用の危機的状況はいまや格差社会という社会の貧困化に直面している。ホームレスは会社や家庭・家族の喪失が大きいという。構造改革特区というさもしい「ちょっとした工夫」では変化に適応するための戦略にはならないという発言は面白い。構造改革特区は規制緩和のミニモデル実験であるが、たしかに経営としてなりたつかの実用化実験にはなっても、その社会的影響を調べることにはなっていない。

小泉政権と構造改革

構造改革の効果は国民一律ではない。誰が儲け誰が損をするシステム改革かを明確にしなければ議論にならないという氏の主張は正しい。「構造改革とは内外の変化に適応できなくなったさまざまなシステムを変えることである」という尤もな定義も正しい。「政府は痛みを伴う構造改革というが誰が痛みを受けるか、どの層が喜ぶのか特定しないのはアンフェアーだ」、「小泉首相はアメリカへの追随的外交しか選択肢を持っていないのではないかという懸念を抱く」という氏の主張も正しい。どうもこの辺から氏の立場は明確に固まってきたような気がする。郵政民有化といっても、郵便局を現状通りに維持し、信書(はがき・手紙など)分野は法律で守り、宅配分野へは民間を犯すような改革の実態は滑稽である。これを民営化というのか?

変化と格差

「変化を受け入れるということは、グローバルスタンダードを受け入れることとイコールではないし、日本的伝統を破棄することではない」という氏の発言を聞いて私は安心した。私も頑迷なシーラカンスといわれるのか心配していたからだ。「高度経済成長期のように全員のパイが増え全員が中流になれるという幻想を棄て、変化に対応して自分達の生活を変えてゆく」kとは確かに大切である。公共事業に頼り切った地方は疲弊している。地方の産業構造を変えることが先決で、もっと予算をよこせと国に陳情するようでは地方は変わらないし良くならないと私も思う。現実は地方間、産業間、人の間で大きな格差が存在することを認めなければならない。そしてどうするかを考えるのが変化対応の文脈であろう。この現実を曖昧にする政治家やメディアは変化の阻害要因として犯罪的である。勝ち組、負け組みというメディアの設定もあぶく銭儲け以外に人生の価値を明示できない滑稽さを象徴している。

アメリカと国策

9.11後のアメリカの過剰報復はブッシュU大統領を初めとする新保守派の恐怖支配という不安神経症候群に頼っている。「正に没落しようとする覇権国家の典型だ」という氏の発言は分りやすいものだ。国連は無力というより「まだ理性がある」と考えるべきだ。「覇権国家は国際法より国益を優先氏がちで、常に正当性を主張し力を背景にした恐怖で支配する」という断定も明快だ。9.11後日本の外交は日米同盟維持で動いている。それはエネルギー資源の安定と北朝鮮が絡む安全保障のためなのだろうか。

北朝鮮をめぐって

金正日の馬鹿息子金正男の不法入国の外交的送還処置や小泉首相の訪朝による拉致被害者の一部帰国が実現したことは日本外交の成功なのか失敗なのか。北朝鮮で1990年代後半の飢饉で200万人が餓死し100万人が中国吉林省への越境したとされる。この北朝鮮の核疑惑ミサイル問題をめぐって6カ国会議が行われたが、クリントン合意を破った北朝鮮に対する日本政府の優先順位が核優先なのか拉致優先なのか全く明らかにしていない。「包括的解決というたわごと、優先順位無しの外交とは無策と同意語だ」という氏の発言には同意する。要するに村上氏のJMMにおける発言は経済に関しては立場不明だが、政治問題では明確な立場を示されている。

マスネディアと質問

「マスメディアの文脈の特徴は「対象を一括りにすること」にある。国民的一体感を損ねてはならないという文脈であらゆるニュースが処理される」という氏の指摘には納得させられる。国民的一体感という幻想が損益関係が不明になり、お互いに甘えあう不健全な関係を続けるしかない。そのため「主語」が無い。誰が儲けるのか誰が血を流すのか曖昧な言葉で覆い隠そうとするのがマスメディアである。そこで結論「社会的状況は7年目と何も変わっていない」。みんなのパイが同じく拡大するわけではない。誰かの利益が多くなれば、だれかの懐が淋しくなるのである。「現在の政策が日本のどの層の利益を代表するものかメディアははっきり指摘する必要があるが、今のマスメディアはそういった能力が無い」


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