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鈴木主税訳 ノーム・チョムスキー著 「メディアコントロールー正義なき民主主義と国際社会ー」

 集英社新書(2003年4月)


本書はノーム・チョムスキー著 「覇権か生存かーアメリカの世界戦略と人類の未来ー」(2004年9月)の1年前に出版された。同じ著者のアメリカの世界戦略の罪と罰を告発するものであるが、本書の内容は 「覇権か生存かーアメリカの世界戦略と人類の未来ー」の中の一部である。主としてアメリカ国内におけるメディア管理の実態を明らかにするものである。支配者が自国民を蚊帳の外において、自分の企みの真の目的を悟られず邪魔されず遂行し利益を享受するために、いかにメディア支配が重要かということを示している。メディアは支配者(資本)の広報係りとして重視され管理されている。決して大衆側の見方ではない。大衆の痴呆化には役立っているが、大衆の智恵袋にはなっていない。ノーム・チョムスキー氏は資本の戦略目的を覆い隠すメディアと知識人を容赦なく(オブラートをかけないで)批判する。アメリカの同盟国としての日本の犯罪的役割についても情け容赦はしない。アメリカの世界覇権戦力についてはノーム・チョムスキー著 「覇権か生存かーアメリカの世界戦略と人類の未来ー」に詳述されているので繰り返さないでおこう。本書はそのアメリカの世界覇権戦略の中でのメディアの役割をあぶり出すのである。

現代政治におけるメディアの役割に目を向ければ、自分達の住む世界が見えてくる。支配者が大衆の目から真実を隠す手法は巧妙に発展してきた。その目潰しにもめげずに我々は、米国の高圧的な「一国至上主義」や外交政策、国家テロや戦争の実態に気がつかなければならない。本書は9.11を受けてジャーナリズムは何を論じたのかを検証するために、第一章:メディアコントロール、第二章:火星から来たジャーナリスト、第三章:辺見庸氏とのインタビューからなる小冊子である。ノーム・チョムスキー氏の紹介は前書の冒頭でしたので省き、辺見庸氏を紹介しておく。辺見庸氏は共同通信社記者(北京、ハノイ)、編集委員を経て、フリージャーナリストになる。数々の新聞賞や芥川賞、講談社賞を受賞した。

メディアコントロール

民主主義社会には二つの概念がある。普通の定義では大衆が情報にアクセスでき、意思決定に参加し影響を及ぼすことが出来る社会のことをいう。それに対して一般の人びとを意思決定に参加させず、情報のアクセスは巧妙に管理される社会のことである。ここで情報アクセスに関わるのがメディアのことである。後の社会民主主義は日本で言えば封建社会の「知らしめず、寄らしめず」という武士階級の政治倫理に類似する。情報公開と意思決定参加が基本的に異なる社会であるが特権階級はそれを大衆に悟られてはまずいのでメディアという広報機関をコントロールするのである。
民主主義の革命的技法を使って「合意のでっち上げ」(世論操作)ができる。それには大衆に「公益」を身につけさせることである。アメリカの公益の前には階級も利害関係さえもなくなる。総体的な問題処理に当たるのは「特別」な能力を持つ特権階級で、大衆は判断能力のない「とまどえる群れ」にすぎず、問題に参加させると混乱するので行動に参加させず、「観客」になってもらうのである。しかし時々は特権階級の誰かの支持を表明させる「選挙」でガス抜きをおこなう。一般市民は無能力な「無辜の民」として保護の対象に過ぎない、子供以下のレベルと捉える。しかし重要問題については「合意のでっち上げ」で納得していただく。日本でも官僚特権階級が作った政策に対して「審議会」や「タウンミーティング」などを通じて合意のでっち上げが行われている。審議会は官僚の作った政策は一文たりとも修正できない。
公益の最終決定者は特権階級にあり、大衆民主主義にあるのではない。全体主義国家や軍事政権なら逸脱した大衆の要求には暴力や棍棒で答えるが、民主主義社会では組織的宣伝で誘導するのである。広報産業を開拓したのはアメリカである。目的は一貫して「大衆の考えを操作する」ことであった。誰もが反対できないスローガン、誰もが賛成するスローガン即ち星条旗のもとに団結することであった。このスローガンでストライキ抑圧、赤狩りが行われ、テレビ新聞には特定のメッセージだけを流させるので大衆はそれ以外の選択肢を知らないのである。そして大衆には恐るべき敵を常にでっち上げておいて権力側に目が向かないように、恐怖で支配する。産業界には規範・法は無いも同然(規制緩和)で、貧富の差が著しい格差社会で、国家医療制度もない国家はアメリカだけだ。この様な現実に対して異議申し立てをするものには「自己責任」で脅迫し、「無能力で堕落した人間」と非難する。労働組合は存在しないのも同然で、二大政党といっても財界という政党の二つの派閥に過ぎない。日本もまさにこのアメリカ社会の道を歩もうとしている瀬戸際にある。欧州と違ってアメリカには組合がないので意義申し立て活動は教会から起っている。(黒人公民権運動など) 世論工作にはメディアと教育制度を完全に掌握していれば、過激な学者がおとなくしているかぎり、どんな政策も通せるらしい。
ケネディがベトナム戦争を起した時、反対運動は全く起きなかった。しかし1970年代になると事態は一変する。環境運動、反核運動、ベトナム反戦運動が育ち始めた。人々は確実に物事を見極める能力を獲得し自分で判断する意思を持ってきた。権力への懐疑が頭をもたげあらゆる問題に向き合う姿勢にかわった。
日本では湾岸戦争はまさに劇場戦争(テレビゲーム)としてお茶の間になだれ込んだ。小泉前首相の政争は「小泉劇場」といわれ面白がらせた。これらはまさに大衆に「観客」になってもらうための手法で、テレビを離れたらバラバラの人間になり行動の手がかりもない無気力な人間を量産した。これが報道の力である、おそるべし。

火星から来たジャーナリスト

もし9.11を第三者が公正な目で検証すれば、アメリカのウソ報道は簡単に見破られるはずだという著者は、第三者として火星人ジャーナリストに仮託した文章である。エルサルバドル、アフガニスタン、ハイチ、ニカラグア、パレスチナ、ヨルダンなどで行ったアメリカとその同盟の国家テロと残虐行為はひた隠しされた。

辺見庸氏のチョムスキー氏インタビュー「根源的な反戦・平和を語る」

チョムスキー氏は米国における言論弾圧など、他の独裁国家や軍事政権下の社会に比べればどうと言う事はない、知識人は泣きごとを言う前に出来ることをやっていないのではないかと厳しく知識人を糾弾する。日本のメディア自己規制などは戦う前の降伏である。戦う意志すら持たない者の安楽死、自己欺瞞である。という風にチョムスキー氏は知識人とメディアに対して仮借ない態度をとる。「アメリカは恐らく世界一自由な国で、言論弾圧なんて如何なる意味も持たない。政府は出来るものなら言論を抑制したいと思ってもそんな力は持っていない。異議申し立てや反対運動もどんな時代よりもずっと盛んになってきました。」とアメリカの現状に期待と希望を表明した。ベトナム戦争勃発時には知識人は全く無力で、ラッセル、サルトル、パルメ以外の人は声さえ発しなかった時代に比べれば。


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