書評 060903

藤原帰一編 「テロ後 世界はどう変わったか」
 岩波新書(2002年 初版)


2001年9.11同時多発テロ事件の本質・影響を識者はどう見るか



 2001年9月11日アメリカ同時多発テロから、アフガン戦争、そして戦後処理へ大きく世界は動いたかのように見えた。あの世界貿易ビルツインビルが凄まじい火炎と粉塵をあげて崩れ去った時、一体何が崩れたというのか。アメリカは国連の授権もなく、10月7日にアフガン空爆を始め、タリバン政権は崩壊した。それは悪の枢軸に対する戦争だったのか。イスラム文明と欧米資本主義文明の衝突であったのか、アフガン侵攻はアメリカの国家テロだったのか。本書はテロ後にはどんな世界が出現するのかを問う緊急シンポジウムの様相である。
 2006年(5年たった)から見れば、イスラム過激原理主義が台頭し烈しく西欧文明に牙をむいているし、イスラエルはアラブ諸国相手に烈しい攻撃を加えているし、イランのイスラム原理主義宗教国家はいよいよイスラム復活に向かっている。しかしアメリカの中東石油利権収奪の構図は損傷に瀕しているわけではない。英国では自爆テロによる攻撃が激化してきた。 アメリカの一国行動主義は国連を無視しますます露骨に世界を支配しようと目論んでいる。宗教戦争の形と南北問題とエネルギー利権争奪戦の世界の構図は一向に混迷から脱しきれていない。アメリカ・イギリス・フランス・ロシアの植民地主義がまいた火薬庫がアラブ諸国・カスピ海沿岸でくすぶり、火炎をあげている。アラブのイスラム化問題はイスラエルのパレスチナ人迫害にすべての根がある。

坂本義和(東大名誉教授 国際政治学) 「テロと文明の政治学」

9.11後、ブッシュ大統領は「テロに対する戦争」に勝つと言った。しかし反テロ戦争の主体はアメリカ一国主義から脱せず、国際協調といっても英国のみが全面的に強調したに過ぎない。反テロが反イスラムにならないような政策をアメリカが採ってきたかはなはだ疑問だ。イスラエル支持一辺倒ではアラブ社会は反発する。そして反テロという目的のために戦争が正当化されるのだろうか。またテロを「文明への挑戦」という構図には違和感がある。アラブ社会の貧困と屈辱の歴史は米国が「自由、人権、民主主義」を標榜する度に大きな軋みをあげる。米国と米国と組む抑圧腐敗政権が犯してきた殺略と略奪をどう覆い隠せるのか。1991年のソ連邦の崩壊は米国一国帝国主義となり世界中で紛争が激化した。力のバランスをなくして一方的な暴力の無法地帯になったのである。ユーゴ内戦とNATO爆撃がそれである。南北問題で言うところの南の後進国では大量の難民が発生し、各武装やミサイル開発が進み、先進国への無差別テロという形で火を噴き、インターネットを使った南からの発信というように、後進国の反撃が進みつつある。

西谷修(東京外国語大学教授 思想文化論) 「これは戦争ではない」

9.11事件はアメリカの全能・安全神話を打ち砕いたという意味で衝撃的であった。冷戦終結後、アメリカを盟主とする世界新秩序の枠組みで、悪と善を強制し、テロ(悪)に対する恐怖と憎悪が醸成された。しかし自爆テロは何処から来たのだろうか。誰しもイスラエルとパレスチナの抗争でイスラエルが加えた抑圧・虐殺・軍事的圧力に対する自爆テロを思いおこすであろう。今度の事件はアメリカのイスラエル化を告げる物であった。イスラエル建国は西欧がユダヤ人問題を中東へ輸出することが目的であった。イスラエルは始めて得た国という権力を守るために、欧米からの資金で軍事的にパレスチナ人を追いだし迫害し難民化させて入植地を増やしていった。シャロンはブッシュの双子かと言われるのはイスラエルとアメリカの立場が同じであるからだ。国連も国際法も全てが反故になった。

岡真理(京都大学総合人間学部助教授 現代アラブ文学)「ヤー・アフカニスタン、ヤー・カーブル、ヤー・カンダハール・・・」

9.11事件の前年2000年、イスラエルのシャロン首相に対するパレスチナ住民の民衆蜂起とイスラエルの過剰な報復・和平プロセスの崩壊がおこった。パレスチナ人の大地を奪いつくし砲弾で破壊しつくすイスラエルに対して、「ヤー・アフカニスタン、ヤー・カーブル、ヤー・カンダハール・・・」という自分達の大地に呼びかける人々がいた。また25年前にレバノンで4000人のパレスチナ人が殺されたタッル・ザタル事件があった。ユダヤ人はパレスチナ人に対して,自分達がナチスから受けた虐殺の仕返しをしているようだ。ナチスより残酷に。「私は人間であることが恥ずかしい。人間であることの恥辱。この世界を生きることに恥辱」 パレスチナ人の過酷な運命を見るとき、9.11事件で何も変わっていないことに気がつく。変ったことは世界から超越していると思っていた米国人も例外なく自爆テロの標的であることを証明したことだ。

三浦俊章(朝日新聞ワシントン総局長) 「揺れるアメリカ社会」

ブッシュ大統領が9.11事件の実行犯を「臆病者」と呼んだとき「命を投げ出しひるまずコンクリートの壁に激突した彼らは戦士だった」といったアメリカの喜劇人がいた。怒ったブッシュ大統領は90%の支持率で「愛国法」を制定し、アフガンへ侵攻した。超法規的に国内のアラブ系住民の調査を命じたFBIに対してオレゴン州警察署長は法を盾に協力を拒否した。全体主義へ傾斜する世論を前に声をあげる少数者の存在は重要である。法を守ることこそ愛国心だ。

田島晃(東京大学大学院学生 国際政治学) 「俯瞰する帝国」

「世界貿易センターの最上階にはこばれること、それは都市を支配する高みへ運ばれることだ・・・この高みに上る者は大衆からぬけだすのだ」(ド・セルトー) アメリカはベトナム戦争の呪縛から死活的国益の絡まない戦争は避けるべきという「ワインバーガードクトリン」や勝てる戦争だけ戦うという「パウエルドクトリン」の時代になったが、共和党政権のレーガン・ブッシュ(親)の12年間は民主主義の擁護を理念とする新保守主義全盛となった。アフガン戦争ではソ連に対抗するため「レーガンドクトリン」が活躍した。自身の兵は投入せず、民主主義とは程遠い部族武装集団を「自由の戦士」として資金援助をし武装闘争を指導した。ソ連が崩壊したら後の荒廃した社会はそのまま国連に委ねて手を引いた。オサマ・ビンラーディンとタリバンの組織を育てたのはアメリカである。アメリカに見捨てられたオサマ・ビンラーディンがアメリカ民主主義に牙をむいたのは1990年台後半である。そして9.11テロがアメリカの虚を突いて企てられた。イラン・イラク戦争でアメリカはフセインを支援したが湾岸戦争でフセインに噛み付かれた。9.11 後、形ばかりの「多国間主義」は影を潜め、露骨な単独主義的行動に走った。またアメリカは世界を指導する特別な使命を自負する「例外主義」があり、高所から他国を睥睨する癖が抜けない。そのアメリカも同時多発テロ事件で決して「例外」でないことが証明された。

黄 平(中国社会科学院 農村社会学) 「グローバル化の別の一面」

冷戦の終結はアメリカ主導のグローバル化の時代を迎えた。それは科学技術情報と知識経済化のじだいであり、貿易自由化、平和と発展の時代だと謳われた。9.11事件は全てを変えてしまった。あからさまに見れば現代の民族国家はそれ自体からして暴力機構であることを白日のもとに曝した。冷戦の弱小民族の悲劇の上に立った力のバランスから、一挙に一国のむき出しの欲望の前に曝された。反テロの動きが反イスラム、反アラブにならぬように願うのみである。グローバル化とは富める者にはチャンスを与え、貧しい者、絶望した者には新たな反抗の手段を用意したのだ。

ウンベルト・エーコ(作家) 「聖戦ー情念と理性」

西洋の価値観擁護は右翼の旗印になり、左翼陣営は相変わらず親イスラム派である。文化人類学の役割は人間はお互いにとても違っていると認めたうえで、何処がどう違うかを十分説明してから、そうした多様性こそが豊かさの源泉になることを示すことである。つまり複数主義的がいいのである。宗教上の原理主義は聖戦を生むだけである。

杉田敦(法政大学教授 政治理論・社会思想史) 「境界線の政治を越えて」

9.11事件で一瞬でも深淵を覗き込んだ者には、自明としてきた政治的枠組みが崩壊した。領土を持つ国はその領土の一切を管轄するものとされた。主権とはそういうものだ。地球をそういった国家で分割することが、国民・国益の源になった。境界の外は他の主権がある。国内政治と国外政治はこうして表裏一体として成立するのである。ところが今回の事態は境界線が消えてなくなる事件であった。リスクを境界で食い止めることは不可能となり、国内には異質な人間が存在すること事態が不安材料になった。そうすると軍隊は誰を殺し誰を守るのかが分からないと機能し得ない。世界全体が警察国家である。テロを根絶することがテロとなることを意識すべきである。国境を越えた政治的枠組みを模索する時代になった。ではグローバル化がいいかというと、多国籍企業が貧困の拡大に繋がる可能性もありまだ先は見えない。

大澤真幸(京都大学助教授 社会学) 「文明の外的かつ内的な衝突」

ヒトラーは中東欧に民族無き空間(緩衝地帯)を夢想したといわれるが、9.11後のアメリカのアフガン空爆はまさに民族無きアフガンを必要としたのかもしれない。またイスラエルはパレスチナの地にパレスチナ人無き空間を建設中である。アフガン空爆後にアメリカ国内が、そしてアフガン以外の地がオサマ・ビンラーディンの溢れた空間になる様相を呈している。イスラム原理主義者の聖戦に対抗するため、アメリカは「自由と民主主義」のための聖戦と解釈している。つまり国家テロになるわけである。アメリカはテロリストの勇敢さと崇高な使命感、死をいとわない高い倫理性に嫉妬している。コンピュータを前にして安全なところから操作する戦争からは、いまやテロリストが有しているような崇高な大義は見出し得ない。「文明の衝突」ということがよく言われるが、それよりはるかに大きい矛盾を矮小化する働きを持ち、アメリカ自身が内部の抱える対立構造が見えてこない構図である。かくして9.11がもたらした最も顕著な変化はアメリカ国内の安全保障に対する配慮の未曾有の高まりである。普通戦争とは主権国家間の戦争である。ところが9.11テロがもたらした戦争は、当面の敵としてタリバンが設定されるが。これは偽装であって真の敵はテロ集団である。主たる抗争が権力とそれに抵抗するテロ集団の間に生じているならば、それは内戦でなくてなんだろうか。

スタンリー・ホフマン(ハーバード大学教授 国際政治学) 「対テロ戦争について」

冷戦と脱植民地という歴史的な展開が終わって、地球社会(グローバル市民社会)が出現した。国家には地政学的国益のほかに雇用、福祉、民族的共感と憎悪、内戦または国家間戦争からの保護などの諸問題への対応が求められる。アメリカはベトナム戦争以降圧倒的な軍事力をもってしても、確固たる決意を固めた相国に対する勝利は約束されないことを学んだ。空爆では反抗する人民の戦う意思は破壊できないのである。9.11後アメリカは誰と戦うのか。テロリズム一般にたいする宣戦布告は、国家によって支援されていないテロを対象にしても不可能である。イラン・イラク・北朝鮮といった「悪の枢軸国」を具体的な敵として戦うのか。どうもアメリカの優先度は2006年現代ではそのような順になっているようだ。戦い方として非戦闘員の殺戮を避けようとすれば、軍事行動より有効なのは警察及び情報機関の活動である。政権転覆後の国家再建などは軍隊の及ぶ範囲ではない。アフガン、イラン、アンゴラ、グアテマラなどでアメリカが悉く失敗し泥沼化している問題がこの再建指導者の選考である。次にアメリカの単独行動主義が問題である。パウエル長官が巧妙に創り上げてきた国際協調体制を9.11は簡単に破壊した。しばしばNATOにおいて見られるようにアメリカは同盟諸国を部下に様に見なして、共通利益を守る代価の支払いを求めるという問題が生じるのである。日本はいつも金の負担のみを強いられてきた。9.11事件はソ連のアフガン撤退のために利用してきたパキスタンやアフガン武装勢力を、用済み後荒廃した国土をそのままにして、簡単に棄て去ったことへの報復である。

最上敏樹(国際キリスト教大学教授 国際法・国際機構論) 「衝撃の法的位相」

9.11事件でブッシュ大統領は直ちに「これは戦争だ」と叫んだ以上、戦争であるなら正に国際法の問題となる。国際法上テロリズムとは何をさすのか、誰がそれを規制したり処罰できるのか実はあまり明らかではない。国連憲章では戦争よりもさらに広く「武力行使」全般が違法化されている。対テロ戦争として採られる措置は国際的な正統性がなければならない。ところがアメリカがとった行動は非国家主体への攻撃、緊急性がある場合要件は満たさなくていい、国連安全保障会議の容認や授権は必要ない、他国の内戦への武力介入も違法ではないとするものであった。まさに国際法上の戦争を超えた「新しい戦争」つまり「私闘」に近い。アメリカは湾岸戦争以来武力行使にますますためらいが無くなった。いまや戦争犯罪人とはアメリカのことである。少なくともイスラエルによるパレスチナ違法占領とそこでの暴力をアメリカは容認してはいけない。ラテンアメリカ、アフリカ、トルコ、イスラエルでの暴虐政権を支援したり武力介入をしてきたアメリカこそテロリズムではないか。

藤原帰一(東京大学教授 国際政治学) 「アメリカの平和」

9.11後、われわれ「民主主義正義の味方」とやつら「イスラムテロリスト悪」との、二つの世界の戦いという勧善懲悪の漫画的構図でアメリカはアフガン空爆を行った。9.11の犠牲者の報復として、アフガン住民の無差別殺戮があってはならない。冷戦終結後地域紛争がより大きな世界大戦へエスカレートする可能性は遠のいた。それとともに地域紛争に投入できる兵力の規模に制約が無くなった。湾岸戦争にはベトナム戦争を超える60万人の「多国籍軍」兵力が動員された。アメリカ一国が世界の警察となった。この帝国支配には国民を単位とする政治権力ではないため、一般に正義や理念による統合がより多く必要とされる。しかし帝国支配に頼る秩序形成はどれほど正義を装っても帝国の利権を反映するものに過ぎない。日本は米軍の受益者である。自分では変える事ができない権力を受け入れる無力感を埋め合わせるため、悲しいまでの欺瞞とウソと自己暗示が必要だった。それでも欧州や日本は、自国のためにアメリカを利用し、その軍事力に頼る側に立っており、アメリカの露骨なたくらみを隠すような和らげるような役割を担わされている。超大国のが身勝手が数々の悲劇を生んで来た。ソ連のアフガンや中央アジアからの撤退が一方的に小民族の内戦や中央アジアのイスラム化や生活不安を生んだ。またソ連がが頭越しに韓国と国交を結んだことが北朝鮮の安全保障上の不安材料となり軍事的錯乱を生んだ。またアメリカは宗教革命後石油利権を失ってイランを牽制するあまりイラクのフセインを援助しイランイラク戦争を引き起こした。イラクの戦略的価値がなくなると手を返したようにフセインを棄てたため、フセインはアメリカに牙を向いた。湾岸戦争がそれである。湾岸戦争でもクルド人を利用してフセイン打倒を図ったが簡単にフセインの封じ込めが成功したので、クルド人を捨て去ったことが今回のイラク戦争後のイラクの再建に黒い影を落としている。同じようなことはパナマのノリエガ政権、アンゴラやソマリアの内戦など米ソの大国に棄てられた各国の政権の紛争や暴走が実に多い。帝国支配のもとでは市民生活の秩序は失われたままだ。目的を達したら荒廃した住民の生活を切り捨てて撤退し、無責任にも国連に下駄を押し付ける大国のやり方は独善的だ。さらに大国の仲間入りした中国は、ベトナムから撤退した米国のあとを受けて、毛沢東主義者のクメールルージュ(ポルポト派)のカンボジアに肩入れし、ベトナムに攻め込んだ。ここのも大国が撤退した後の混乱が見て取れる。ところが賢明なインドシナ紛争の解決が日本と ASEAN諸国によって図られた。カンボジア内戦に明石UNTAC代表が停戦にのりだし、ポルポト派の孤立化と無力化に成功した。このような軍事力に頼らない内紛の処理に智恵を働かせるすばらしい成功例がある。アメリカなどの大国は少し見習ったらどうか。ユーゴのコソボ紛争ではNATOが自ら空爆をするようでは調停にはならない。一方的なある勢力への肩入れではないか。そして大統領を逮捕して軍事裁判にかけるなどはアメリカのやり方そのものでまた荒廃した自治区が残されるだけだ。


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