書評 060828

酒井啓子著 「イラク 戦争と占領」
 岩波新書(2004年 初版)


アメリカ占領政策の破綻と新生イラクの行方:宗教勢力の台頭と内戦を超えて




米国ブッシュ政権のイラクフセイン政権打倒戦争

著者酒井啓子氏はアジア経済研究所勤務で「イラク政治」研究者である。2003年12月14日対に米軍がティクリートの近くでサダム・フセインを拘束した。25年以上にわたってイラクを支配してきた独裁者が逮捕されたのだ。しかし彼はイスラム社会と決別した近代的中央集権主義者で日本で言えば織田信長に相当する偉大な人物という見方もある。フセインは宗教間の調整や部族社会に基づいた指導者の存在を認めず、徹底した中央集権制をとった。イスラム化という中世暗黒時代に逆行するほうがいいのかという文脈において彼の存在意義がある。アメリカが石油欲しさに彼を悪者にしてきただけなのだ。
1979年大統領に就任したフセインに、翌年から始まったイラン・イラク戦争(イ・イ戦争)でイランを叩くために、アメリカがフセインに援助をし軍装備の近代化を後押ししたことはしっかり記憶に留めて置かなければならない。1988年にイ・イ戦争は終結した。オフガニスタンのオサマ・ビンラーディン氏を援助して武器資金を与えてソ連にはむかせたように。そしていつもアメリカは子飼の犬に手を噛まれる。戦争終結後すぐに1990年フセインはクエートに侵攻した。
だがしかし旧体制のシンボルであるフセインを拿捕しイメージを貶めたとしても、戦後イスラム社会にすっかり蔓延してしまった反米ゲリラ活動・テロ・暴動が治まる気配はない。過去14年間アメリカ・フセインの戦いは続いた。最初はフセインのクエート侵攻から始まった湾岸戦争と封鎖による締め上げにフセインは妥協を繰り消しながら良く米国の挑発を凌いできた。2001年9.11同時多発テロが勃発しすかさず米軍はアフガニスタンを空爆して軍事的には報復は成功した。その軍事的勢いを余勢にして悪の枢軸と名指したイラクの大量破壊兵器疑惑(存在しなかったか,処分済みか)を理由にした2003年3月20日の開戦、バクダットへの空爆と米英地上軍によるクエートからの北征が開始された。五月1日ブッシュ大統領は戦争終結を宣言して形式的には戦争は終わり占領統治へ移行した。これが長い長い暫定政府による憲法制定と選挙準備活動と並行するように反米ゲリラ、自爆テロ、内戦の開始に繋がっていった。日本の自衛隊も2003年12月に「人道支援特措法基本計画」を作って翌2004年より自衛隊をイランに派遣した。結論として大量破壊兵器なんぞ最初からあってもなくてもアメリカはイランフセインを潰したのだ。その本当の狙いが石油利権だということは識者から常に指摘されている。エネルギー支配はアメリカの安全保障そのものであった。エネルギー支配のための戦略において、イランを解体することが中期目標だとして、そのためにイラクフセインを利用し、はむけばこれを潰し当座の利益を確保する。まるで株屋のやり方に似ている。そして米軍の戦争のやり方は空爆で主要施設の爆破し戦闘能力と戦闘意思を奪った上で、爆撃機の援護のもとで地上軍が侵攻して征服するという戦術である。日本征服の時もそうだった。しかしベトナム北爆のときはベトナム人の戦意は奪えなかった。今回のイラン戦争の場合は占領統治に入ってからが問題だ。反米の意思が奪えるだろうか。

イランの歴史:建国と英国植民地政策の破綻

イランという国は知られているようで私はよく知らなかった。その建国史を振り返っておく事は、英国の失敗を米国が再度繰り返すかどうかを見極める上で重要な視点になる。東ローマ帝国(ビザンチン帝国)がオスマントルコの侵略を受け滅んで以来、東欧・地中海東沿岸地域はオスマン帝国が支配するところとなった。今日のコソボ紛争はイスラム教徒の独立を契機に発生した。そのオスマントルコ帝国も第1次世界大戦でケマールパシャの革命が起きて急速に衰退し、西欧列強の侵食の対象となった。イラクという国が第一次世界大戦中にイギリスがオスマントルコ帝国を解体してゆく中で帝国内のバクダート州、バスラ州、モースル州の三州を併合して作られた。大英帝国はイラクの直接支配であったが、1920年全国的な反英暴動が発生した。そこで英国は直接支配をあきらめ、委託統治のもとにハーシム家ファイサル国王を迎えた。英国がファイサルを後押ししてオスマントルコに対するアラブの反乱を利用したことは映画「アラビアのローレンス」によく知られる。イラン独立の立役者はオスマン帝国時代の軍人でよくも悪しくも現地人ではない外来人であった。イランの伝統的社会は外来人の支配者を信用しない。外国軍の支配に対して最も先鋭的な抵抗運動を展開していったのがイスラム宗教勢力と伝統的氏族社会であった。1923年英国はイラク制憲議会選挙を実施しようとした。これに烈しく反対したのがシーア派である。シーア派は英国の間接統治政府に関わることを拒否したため、それ以来イラクの政治舞台から退場をやむなくされた。イラン建国の歴史を考える時にいつも気になる人物が二人いる。「アラビアのローレンス」と外交官フィルビーである。ローレンスはハーシム家が起した反乱に身を投じてアラブ人独立に手を貸すのであるが、一向にまとまらない部族間調整に最後はあきらめてイランから去ることになる。ローレンスが掲げたのは「中東を支配する大英帝国」の理想だった。外交官フィルビーはハーシム家を推す英国の政策に見切りをつけ、英国外交官の地位を棄てて反対勢力サウード家(サウジアラビア建国の祖)の顧問となった。さてあなたは大英帝国の政策推進者でどうにもうまく行かなくなってイラクを棄てたローレンスが正しいか、政府の政策に反対して敵勢力にまわったフィルビーが賢明だったのかどう思いますか。日本でも満州国建設の際、馬賊に身を投じた大陸右翼もいたことを知っていますか。回答はどちらも間違っています。形は違うもののどちらも帝国主義者の手先には違いないからです。人の土地に勝手に土足で入り込んでどう治めたらいいかなんて、余計なお世話で出て行ってくれと現地人から言われるのが関の山です。ここでの問題は米国がどの程度英国の経験を理解しているかです。同じ轍を踏まないか、同じ誤りを繰り返すかです。当然基本的には米国はイランの征服者ですので、伝統的イラン社会と宗教界から追い出される運命にあります。理不尽な言いがかりをつけて戦争に持ち込み、軍事的には現地政府を倒しても、後はベトナム化するか、イスラム化するかは避けられないでしょう。イラン人がそれで言いといっているのだから。

アメリカの占領政策の失敗とイスラム勢力の台頭

アフガニスタンの軍事的勝利に酔いすぎたブッシュ政権は、さらにイラン戦争でもあまりにも短い僅か40日で戦闘終了宣言で戦後体制準備がないままバクダートに到着した。軍事的勝利とは空爆の勝利であって地上戦闘能力は決してか隠滅できていたわけではない。明治維新においても西郷など薩摩勢は勝海舟との政治的取引(徳川慶喜の謹慎)では勝利は不十分だとして、挑発を繰り返して戊辰戦争を引き起こした。そして東北地方まで攻め込んで反対勢力を徹底的に叩いた。そしてようやく全国的に戦争に勝利した。戦争は速く終わればいいのではない。終局目的は敵の殲滅であるから、敵の勢力が温存されていてはならない。米国も空爆というショーに酔いすぎている。そこで破壊したのは箱物だけで、人の意思は奪っていない。イラン戦争の前にポストフセインの受け皿作りとして2002年7月より親米亡命組としてKDP、PUK、フセイン体制で冷や飯を食っていたシーア派イスラム組織SCIRI、バース党員や軍人の組織INAにイラク国民会議INCと王政派までいれてグループ6を作った。しかしアメリカの直接支配かイラン人政府を介した間接支配か、国務省、CIA、軍部の間で揺れ動いて何も定まらなかった。戦闘終了後の戦後統治政策は混迷を極めた。戦争終了後直ぐ統治行政の主体がにORHA(復興人道支援室)からCPA(連合国暫定当局)に移った。プレマーが日本でのマッカーサーと同じ戦後統治責任者になった。しかし略奪暴行、自称知事が横行しての無法状態が全国的になった。三万人に及ぶバース党幹部党員の公職追放、国軍・国防省・情報省の解体で40万人が職を失い、かつ旧軍人はしばらくして反米衝突の核になってゆくのである。戦後大量に帰国した親米亡命イラク人勢力はしだいに嫌われて存在が薄くなり、イスラム勢力が台頭する。こうしてイスラム勢力が台頭してくると、民主的選挙を行ってもイスラム政権が誕生する可能性が出てきたので、米国内保守層から何のための戦争だったのかというクレームも出始めた。CPA(連合国暫定当局)は当分イラク人の間で選出された暫定政権を作らずアメリカのイラク直接支配のほうが効率的だという意見も出た。2003年7月にはCPAは権限を有する統治評議会を立ち上げ25名を任命した。しかしその3/5は亡命イラク人であり信望のある宗教指導者や部族長らは選ばれていない。外国の支配に批判的な宗教界は一斉に統治評議会を批判した。フセインが嫌ったイスラム的社会の結びつきが25年の世俗政権下での抑圧でも生き残っていた。統治評議会は7月末までに憲法制定準備委員会を設置し、9月には25人の閣僚を発表した。米国は既に自律的な行政・政治システムを担いつつあったイスラム勢力をあえて排除して親米知事や評議会を移植しようとした。戦争直後から宗教界での勢力争いは先鋭化し、指導者の惨殺・爆破事件が後を立たず、その中から若いムクタダ・サドルは軍隊の保有を宣言し内戦状態に突入した。私は日本人だからか、イスラム社会の勢力抗争は複雑で教義や人脈の違いで恐ろしいほどに憎みあうことが理解できない。もともと戦闘的なマホメットが書いたコーランでは少しの違いが重要なのかも知れない。親鸞が死んですぐに教団内で内紛がおこり、嘆異抄が書かれたくらい本願寺内部の対立は峻烈なことは有名である。宗教界では何処でも同じ争いはあるようだ。現在イラクで主流派であるシーア派は従来非政治的存在をモットーとしてきたが、戦後はイラクにおいて秩序形成に大きな影響を与える存在になってきた。今後イラクの宗教界がどの方向に進むかは予測不能であるが 、イスラム過激原理主義の台頭も見逃せない。2006年現在同盟国軍の撤退が進み。フランス、ドイツ、ロシアの復興事業からの締め出しによってアメリカがイラク利権の独り占めという欲望むき出しの状態では、所詮アメリカの直接支配に他ならず国際的な承認どころか、イラク人の理解を得ることは全く難しい。そういう意味でアフガニスタンを見ると、石油会社顧問の傀儡政権を立てたものの、実行支配の及ぶ地域は少なく、山岳地帯はいまだにアルカーイダの拠点が存在し、世界(特にイギリスに)でテロを指導しているようだ。空爆の劇場戦争で何も変わっていない。


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