書評  060729

友野典男著 「行動経済学ー経済は感情で動いている
 光文社新書(2006年5月 初版)


あなたの消費行動は読まれているかも、誘導されているかも


著者友野典男氏は明治大学情報コミュニケーション学部教授、専攻は行動経済学、ミクロ経済学。私は経済についてはトンと音痴で勉強したことはないから、或いはトンチンカンプンなことを言うかもしれないが御容赦ください。本書は確かにユニークである。標準経済学(古典経済学、ケインズ近代経済学など)が取り扱ってこなかった人の経済活動の非合理的部分にスポットをあてて、新しい経済学の構築を目指しておられるようだ。本書を一読して、行動経済学の言わんとするところはあまりにミクロでせいぜい消費者行動を説明するに過ぎないようにみえる。国または経済の大きな仕組みはこうあるべきというような次元の話ではない。しかし経済はまさに人が動かしているのだから、経済人の社会的、心理的、非合理的側面、条件的・制約的・仕組まれた判断もあるわけだ。行動経済学はいまや進化心理学や神経経済学などのフロンティアを取り込んで発展中の経済理論である。いまのところ、この経済学の成果はマーケット理論、消費者行動などには直接応用可能で既に我々の購買行動や政治的行動と判断に応用されて我々は動かされているかもしれない。特にアンケートによる世論調査と称する世論誘導には十分ご注意のほどを。

1) 行動経済学とは

2002年小柴さんと田中さんがノーベル物理学賞と化学賞を同時受賞して日本中が沸き立っていたとき、ダニエル・カーネマン教授がノーベル経済学賞を受賞していた。カーネマン教授が「プロスペクト理論」を提唱した1979年を行動経済学元年とみなすらしいから、まだ行動経済学は若くて市民権を得ているとは言い難い。標準的経済学が前提としている人間像である経済人とは、認知や判断に関して完全に合理的であって、しかも専ら自分の物質的利益のみを追求する利己的人間である。私的利益追求が人生の目的で、そのための合理性は方法手段である。いわば全知全能の神の様に行動し、いわゆる倫理や道徳という概念は持ち合わせていない。実際にはこのような神の様な完璧な経済人はありえないが、あたかもそれを理想として行動する人も経済人とみなされる。
それに対して行動経済学は、全ての人が物質的私益追求型人間であるという前提は否定する。人間は限定的に合理的であると考える。発展途上の行動経済学は人間を研究対象とする多くの学問とりわけ、認知心理学、社会心理学、進化心理学、倫理学、社会学、哲学、人類学、進化生物学、生理学、脳神経科学にいたる広い学問分野から多大の影響と示唆を受けている。そもそも経済学と心理学はアダムスミスのこ頃から一つであった。常に経済行動の心理的要素に注目を払ってきた。そのような流れのなかで、1956年認知心理学が誕生し、進化論と脳神経科学の進歩に影響されて、1979年行動経済学が生まれた。

2) 人は限定合理的に行動するが、直感的判断にはバイアスがかかる。

色々な心理ゲームによる実験では人の判断は必ずしも合理的でないし、合理的判断がその人に利益をもたらさないときがある。人が合理的に熟慮する前に判断を求められるときには、近道や直感にたよって不完全な判断を下す。結果としてうまい判断である場合もあるが、そうでない時もある。特に不得意な確率の判断ではバイアス(偏り)が伴う。色々なバイアス例が示されるが、連言錯誤、後智恵バイアス、少数の法則バイアス、平均への回帰、設定値に引きずられるアンカリング効果、確証バイアス、感情バイアス、フレーム問題についの詳細は省略する。人が持つ二つの情報処理システムとは、直感、迅速、自動的、感情的、並列処理のシステムTと分析的、統制的、直列処理、規則支配的というシステムUに分かれる。システムTによる処理は偏りを伴い易いが、多くの認知資源を要し難しい時間のかかる処理から得られる最適解に優るとも劣らない結果を得る場合がある。このシステムTの判断は消費者が商品を選ぶ際の手短な判断の役割を果たすのでよく研究されてきた。売価設定、消費者の好み予測などにきわめて有効なことが判明した。

3) プロスペクト理論ーリスクの判断、所有財へのこだわり

人は価値の絶対値ではなく相対的変化に敏感に反応する。標準的経済学の効用関数についてはしたがって参照点(初期値)を原点とする価値関数と確率の重みつけをする確立加重関数によって補正するものである。即ち価値関数は参照点に依存し、かつ利得も損失も小さいうちは敏感だが大きくなると鈍ると言う性質をもつ。損失は同額の利得より強く評価される。感度は2から2.5倍大きいとされる。確率加重関数も確率が小さい時は過剰に評価し、確率が大きいと感度は低下する。これをまとめると確率が低い場合の行動は利得に関してはリスク追求と損失回避に動き、確率が中から高い場合には利得にはリスク回避と損失にはリスク追求性が観察される
標準的ミクロ経済学では等価価値の無差別曲線ということが主張される。金銭に換算できる価値や取引に習熟している人については真である。ところが人は所有する財にこだわりを示し、参照点が何処なのかによって価値が違う場合がある。受け取り意思額WTAと支払い意思額WTPが乖離することである。これは公共政策決定のコストベネフィット分析や公正の判断にいつも付きまとう問題である。現状維持を公正と理解する傾向がある。政策論として説得技術として難しい問題である。

4) フレーミング効果と選好の形成ー好みは移ろいやすく誘導されやすい

人間の意思決定は質問や問題に取り上げ方によって大きく変わる。問題の提示される方法をフレームといい、フレームによって異なる判断や選択がなされることをフレーム効果という。フレームによって人の注意を誘導することである。同じ内容であれば「表現の不変性」が成り立つはずだが、統計データをどのようにフレーミングするかによって個人のみならず社会的にもきわめて重大な政治的経済的影響を及ぼす。最初から落としどころを計ったようなアンケート調査は設問の仕方に回答者が誘導される。選択肢が3つの時は真ん中が選ばれる。もっともらしい理由が付き易い選択肢が選ばれる。ストーリが付き易い選択が好まれる。選択肢が多いと人は迷うので、単純少数の選択肢が用意される。などなど人の選択とはいかに移ろいやすいものか。

5) 近視眼的な心ー時間選好(近未来の価値は大きい感じる)

決定の時点と利益や損失を受ける時点が時間的に離れているような意思決定を異時点間の選択という。インフレ率や利子や割引率などを考慮して現在の価値を判断するとき、人は将来の価値を割り引いて考える。消費や受け取りの時期をのばすことは損失とみるようだ。将来の利得の評価では利得の大きさが高次レベルの性質であり、時間遅れは低次レベルの問題である。したがって近い将来の利得を評価する時は利得の大きさより時間遅れを重視しするので、まだ先の利得は大きく割引される。目の前のことが大きく見え、たとえ小さい利得でも直ぐに得られるならそちらを評価する。

6) 他者を顧みる心ー社会的選好

公共財ゲーム、条件付協力、処罰の導入、互報性、評判形成と間接的互報性などをゲーム理論で実験する。経済人は基本的に利己的で利他行為はしないものだが、利益で誘導したり罰則で制約を加えると条件付協力になる。この章の論点は、京都議定書の履行のために環境省や経済産業省があの手この手で考えている行政政策に酷似している。又具体的で分かりやすい。排出量取引制度、グリーン開発、炭酸ガス税の導入などである。私企業にインセンティブを持たすために導入されるべき社会政策論である。

7) 理性と感情のダンスー行動経済学最前線ー神経経済学の誕生

「経済人は感情に左右されず、専ら感情で動く人種である。経済人は市場は重視するが、私情や詩情には無縁である。金銭に触れるのは好きだが、人の心の琴線にふれることはない。」と友野氏の面白い表現がある。近年心理学や神経科学者によって感情の積極的な役割、即ち感情がなければ適切な判断や決定ができなことが解明されつつある。すなわち「感情が主導してあとから合理的な判断がついてくる」と主張するのである。あらゆる知覚にも何らかの感情が伴い、茂木氏が提唱する「クオリア」の世界があるようだ。判断や決定はシステムTに属する感情や直感と、システムUに属する思考との共同で行われる。経験による快・不快の身体感覚が、推論や意思決定では重要な役割を演じる。これをソマティックマーカという。これら人間の意思決定行動についての理解を深めようとする神経経済学なるものが提唱されている。感情を支配する大脳辺縁系で感情や好悪などの判断に関わるのは海馬扁桃体帯状回側座核である。また快の感覚を生むシステムを報酬系といい、脳幹の腹側被蓋野が刺激されて側座核前頭前腹内側皮質眼窩前皮質前帯状回皮質に情報が伝えられドーパミンと神経伝達物質が放出される。これまでに得られている経済行為と脳神経活動部位の関係を紹介する。
・貨幣的利得を期待しているとき、側座核が活性化する。実際に利得を得た場合には前頭前腹内側皮質が活性化する。すなわち前頭葉は期待には感知せず、銭勘定に関係するようだ。側座核は損失の予測には関係しない。
・自分で稼いだときは報酬系の線条体が活性化する。
・曖昧な情況では、感情と認知を統合する前頭葉の眼窩前皮質、不安感に関する扁桃体、扁桃体の活動を調整する前頭前背内側皮質が活性化した。即ち曖昧な状況ではまず不安が働き、その感情と認知的な判断が葛藤しているようだ。
・リスク状態では腹側線条体の尾状核が活性化した。腹側線条体は期待が膨らむときに活性化した。
・近い将来の小さな利得を優先させるとき、報酬系の腹側線条体眼窩前皮質前頭前背内側皮質が活性化された。
・不公正、不平等な提案に対しては、前頭前野背側皮質前帯状回皮質島皮質が活性化した。島皮質は痛み、嫌悪などの不安な情動のときに働く部位である。前帯状回皮質は管理制御部位である。分配を要求する前頭前野背側皮質といやな感情を前頭部位を調整しているものと考えられる。島皮質は優先すれば提案は拒否され、前頭前野背側皮質がより活性化すれば提案は受け入れる。
・協力を自分が選んだとき相手も協力すれば、報酬系の線条体前帯状回皮質眼窩前皮質が活性化する。報酬系と調整と感情をつかさどる部位が機能しているようだ。
・処罰をするときは背側線条体の尾条核が活性化した。
・脳下垂体に存在する「オキシトシン」というホルモンは副交感神経を刺激してドーパミン放出を促進する働きがある。オキシトシンは他者を信頼するように働くようだ。

あなたの行動は読まれている。行動経済学の意味するところは個人の経済活動における判断も人の脳神経活動から説明できる。だからといって金儲けが出来るかどうかは別だ。個性が異なる限り色々な判断が出てくる。


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