書評  060728

茂木健一郎著 「クオリア入門(心が脳を感じるとき)」
 ちくま学芸文庫(2006年3月 初版  講談社「心が脳を感じるとき」1999年の文庫版)


心は脳のニューロンの発火現象に過ぎない。しかし現時点で科学的に説明することは難しい。


今売り出し中の脳科学者茂木健一郎氏の著作としては、本書評コーナーでたびたび取り上げてきた。「脳と創造性ーこの私というクオリアへ」、「脳の中の人生」、「脳整理法」、「意識とはなにか」、「脳と仮想」に続いて今回が6冊目である。発行時期的にはこの本が一番古い本だ。茂木氏の原点とも言える本である。私は時間的に逆に著作を読んできたようだ。2回読んでもさっぱり腑に落ちない(理解できたと言えない)難しい内容である。なぜかというと、実験的事実の集積というべき経験科学の徒であった私にとって、今回の科学というか哲学というか心理学というかさっぱり判別できない学問的手法に習熟していないので、善悪、真偽の判定が経験的に出来ないからだ。茂木氏は「私たちの心の全ては、私たちの脳のニューロンの発火によって起こる脳内現象に過ぎない」という命題を与えて下さる。科学の徒として私はこの「命題」は是とする。しかし問題はそれ以降の科学的説明のやり方にある。心という頭の中にいる小人(ホムンクルス)を仮設する二元論ではない点は評価するが、この本を読んで分かったように心を計測する科学的手法を持たない科学の現状では、脳内物理現象(PET,fNMR、近赤外法、電極法などなど)と心の関係が結局対応できない限り科学にはならない存在なのではなかろうか。偉大な科学者の仮説と仮説を矛盾なく縫い合わせるような芸当が本書の目的だとしたら、私のような無関係な読者はついてゆけない。差別的表現のつもりではなくあくまで比喩表現として「盲象をなぜる」式の非実体的模索(武谷三男の三段階弁証法的科学論における第一段階でしかも実体を扱っているわけでない)に過ぎない。悪いけどまだ茂木式脳科学は科学ではない。視覚心理学か哲学の段階である。実体(脳の物理)との対応が取れない現象(心象)は掴みようがないではないか。

茂木氏の理論的出発点としては、クリック・コッホ仮説「大脳皮質の前頭前野や運動前野など、脳の前側の領野のニューロンに直接シナップス結合しているニューロンの活動だけが、視覚的アウェアネスの中に明示的に現れる」からは両眼視野闘争が説明できないとして否定し、かわりにマッハの原理「認識において、あるニューロンの発火が果たす役割、そのニューロンと同じ心理的瞬間において発火している他の全てのニューロンの発火との関係においてのみ決定される。単独で存在するニューロンの発火は意味がないとする所謂相対論」を茂木氏は他の問題においても一貫して支持される。いわゆるマッハ主義者である。どちらがどうとは私には分からないが、相対論にしておいたほうが発展性があるということであろうか。かえって曖昧模糊として何が何やらすっきりしないが。

茂木氏はかってアメリカの哲学者チャーマーズが提唱したクオリア一元論「クオリアという心象の立ち上がる過程が心脳問題の本質」という見解であったが、種々の問題が提示されるにつれて一元論では処理できないことを自覚され、クオリアは環境が心の中で立ち上がる初期過程と位置づけ、さらにクオリアと前頭前野との関連性により意識や運動、志向性といった人間本来の属性の立ち上がりを追及される立場に移行された。すなわち「主観性としての私」を本書においては視覚心理学実験を大幅に取り入れて論じておられる。私にはこの論は理解できない。予断できないが「私という存在は脳機能から説明不可能であって社会的存在や哲学的存在においてのみ存在する」代物ではなかろうかと想像している。数段階の視覚神経野のネットワークと主観性にはアナロジーは成立しても違う分野を取り扱っているはずだ。また意識の座として前頭前野における志向性をポインター(抽象的認識)とクオリア(心象)で説明され、行動分野とポインターは共通しているようだとか説明されている。様々な問題をマッハ原理から説明されている。しかし結局私には、茂木氏の「私」の存在は証明されていないし、なにか捉えようのない「心」の周りをうろうろまわって眺めているようなだけに見える。要するに見取り図の提案が本書の目的で、あとは今後の脳科学の進展に乞うご期待ということのようだ。


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