書評  060411

養老孟司・玄侑宗久対談  「脳と魂」

 筑摩書房(2005年1月初版)
 
科学でいう「脳」は物質理解だが、人文系でいう「魂」は人間のシステム理解である

養老孟司氏はかって東大医学部解剖学教授、現北里大学教授である。この評論コーナーで何回も脳科学関係書評に登場している。私が脳科学に興味を抱いたのは実に氏の影響による。最初は「バカの壁」で意表をつかれ、次に「唯脳論」などに共鳴して次々と氏の書物を読みはじめて脳科学の他の著者による書物へ広がっていった。養老孟司氏のプロフィールは既に紹介済みなので省略したい。玄侑宗久氏は臨済宗妙心寺派福聚寺(福島県三春町)副住職で芥川賞受賞の小説家。著書に「禅的生活」(ちくま新書)、「水の舳先」(新潮文庫)などがある。前回は玄侑宗久・有田秀穂対談 「脳と禅」を紹介した。えらく博識の生臭坊主である。いつも禅の説に落ちるので分かりやすく勉強できるため尊敬している。

本書の企画は当然筑摩書房編集部によるところ大であろう。ところが企画が出来すぎていて、養老先生の御説を東洋的禅の思想で裏付けしようとする意図があまりに見え見えなのが玉に瑕。普通は対談はもっと自由闊達に酒でも飲みながら(小林秀雄の対談はいつもそうだった。酒がはいりすぎて支離滅裂のダウンとなるケースも多かったが)やらせるのがいいのだが、本対談は実に理路整然とある方向へ導く意思が明確に感じられた。そういう意味では玄侑宗久氏は養老先生の話の導き役、聞き役、落とし役、補完役という役柄を演じておられる。まるで編集部である。おそらく玄侑宗久氏も養老先生の著作を熟読されていて、聴く前から話の内容は分かっているのだからそういう役柄を演じられたのであろう。まあ科学者と禅僧侶の掛け合い漫才とみれば文句はない。

本書の内容は(第1章)観念と身体、(第2章)都市と自然、(第3章)世間と個人、(第4章)脳と魂からなる。本対談が養老氏の自説の確認にあるとするならば、第1章は「唯脳論」、第2章と第3章は「無思想の発見」のダイジェスト版と考えられる。どちらの著作も本コーナーですでに取り上げているので、そちらを見ていただければ繰り返す必要はない。そこで第4章脳と魂だけが本対談のメインディッシュと考えられるので紹介したい。

脳と魂

生物学では細胞一個がすでに全情報を持つ世界というべきシステム(ミクロコスモス)で成り立っている。ましてや組織、個体(身体)はより高度なシステム体ともいえることは常識である。物質から生物へという過程は全く不明(現在の科学では)であるが、生物が出来てくる最初のところに何か変なことが在ることは間違いない。重大なパラダイムシフトが起きたに違いない。科学は反証可能な仮説であるので、現パラダイムは一つの仮説に過ぎない。それでは実証的な説明が付かないだけのことである。

科学は本来分析的なので当然人間全体のシステムは問題としない。科学は物質という「色」世界を扱う(たとえば遺伝子という情報)、人間のシステムは抽象的な「空」世界になる。脳はこのシステムを生み出す原動力となったが、これが文明を生み自然と身体を追いやった。人間の脳システムはプレヂスポジションといってあらかじめある見解をとると当然見えるはずのものが見えなくなる。だから人間の魂とはまだまだ分からないことだらけだ。それゆえに宗教が存在しているともいえる。


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