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佐藤優著 「自壊する帝国」

 新潮社(2006年5月)

外務省情報分析官佐藤優が独自の人的ルートより、 ソ連邦崩壊の裏側を証言する

まず本書の著者佐藤優氏のことから始めよう。佐藤優氏を知らない人はいないだろう。2002年1月田中真紀子外務相は、鈴木宗男議員がアフガン復興東京会議にNGOの参加に圧力をかけたとして、外務省に大きなゆさぶりをかけた。メディア・世論は田中外相に味方をしたが、小泉首相は喧嘩両成敗として田中外相と野上外務相事務次官を更迭したが、怒りの収まらない外務省は田中外相と鈴木宗男議員の影響力を外務省から排除しようと、外務秘密文書を民主党と共産党にリークし、新聞記者にも配布した。それまで鈴木宗男議員と外務省の佐藤優氏は橋本首相以来の日露交渉で協力して作業していた関係で、佐藤氏はこの外務省騒動の巻き添えを食い、分析一課から外務資料館へ左遷され、2002年5月鈴木宗男氏と佐藤優氏は逮捕された。私はこのとき鈴木宗男氏はともかく佐藤優氏の逮捕理由は薄弱だと思っていた。一蓮托生で巻き添えを食っただけだろうと思っていた。そもそもこの事件は同じ著者による「国家の罠」に詳しく書いてあるように冤罪であった。「国家の罠」については後ほど本コーナーで取り上げたい。ということで著者佐藤優氏を知らない人はいないだろうと言ったまでで、事件の真相は今のところはペンディングにしておく。

本書「自壊する帝国」は、佐藤氏の1985年外務省入所から1991年8月のソ連邦崩壊と共産党クーデター未遂事件までを描いたものである。本書は第38回大宅賞を受賞した。1985年はソ連ではゴルバチョフがソ連共産党中央委員会書記長に選出され、ソ連の国内体制と東西関係が大きく変化してゆく記念すべき年であった。佐藤氏は1985年同志社大学大学院神学部で組織神学を学び、「チェコの社会主義政権とプロテスタント神学の関係について」を研究したそうだ。チェコに調査旅行がしたくて迷っていた時、外務省専門職員(ノンキャリア)の募集があり研修語学にチェコ語があったので応募して合格し外務省に入った。モスクワからチェコへ行けるのではないかと考え研修の後、氏はソ連課を選択した。外務省研修生としてロシア語を勉強するため2年間英国陸軍語学学校に入学した。そして1987年8月モスクワに赴任した。ここから佐藤氏の7年8ヶ月にわたるソ連・ロシア担当情報官としての人生が始めるのである。1987年9月から1988年5月までモスクワ国立大学言語学部に留学した。

モスクワ国立大学で佐藤優氏は同志社大学以来の神学に興味を示して、人文学部科学的無神論学科に出入りするようになって、氏の運命は外務省正統派外交官から少しずつずれてゆき、表舞台の時の人を追いかけるのではなくさまざまな怪しげな(重要な情報源)人物との交際が始まった。是が氏の持ち味であり、情報分析官としてのユニークな人材ネットワークを構成し、裏の真相に近づくやり方になるのである。ソ連の情報関係組織で有名なのは、秘密警察KGBであるがエリート中のエリートといわれるのが第一総局で外国で活躍する諜報部隊である。給与も第二総局より数倍良い。それに対して第二総局はソ連国内での外国人の動向を見張る防諜部隊カウンターインテルジェンスである。プーチン現大統領はKGB第一総局の出身で、エリツィン時代は連邦保安庁FSB長官も務め、このことがプーチン大統領の重要な権力基盤になっている。そして軍にも諜報機関がある。ソ連軍参謀本部諜報総局GRUである。GRUの日本担当は戦前からの警戒心と戦後の冷戦思想がまじって北方領土問題については「領土は血である。ロシア人が血を流して獲得した土地は絶対に手放すべきではない」という神話を信奉している。ゴルバチョフが北方領土問題で柔軟な姿勢を見せると、GRUは裏で日ロ関係を悪化させる破壊工作を行った。オデッサ事件がそれである。ところで佐藤優氏が築いたロシアでの交友関係者の名や人数が極めて多いので、ロシアの小説のような登場人物は覚えきれるものではない。そこでこの読書ノートでは一切取り上げない。重要な事件に関連した人だけの名前を挙げるが、それ以外の人の名前はださない。事実の流れと文脈を中心に記述する。なお本書は歴史的事実の解説書や政治的制度の解説書ではない。まるでロシア小説のような仕立てで人物中心に回転するのである。会話が中心の回顧録といってもいい。そういう意味では流れを解説しても長くなるだけである。本書を買って読んでいただくのが正しいのであるが、私が感心したエッセンスをノートに記述するのも悪くはない。適当につまみ食いをしてゆくのでそのつもりであしからず。

何故ソ連が崩壊(自壊)したのだろうか。その理由をソ連人自体に求めなければならない。西欧諸国が宣伝した「欲望」に目覚めたのだろうか。アメリカとの覇権競争で拡大した軍事費が国家を押しつぶしたのだろうか。人間の顔を持たない社会主義に絶望したのだろうか。官僚特権階級ノーメンクラツィーラへの富に集中が庶民の生活を破壊したのだろうか。アフガン戦争の泥沼化が国民の精神を腐敗させたのだろうか。国民全体が社会主義に嫌気がさしていたのか。良く分からないけれども私はソ連が自壊した理由を求めるために本書を読んだ。

佐藤優氏はモスクワ大学でバルト三国(北からエストニア、ラトビア、リトアニア)のソ連邦離脱運動派の学生達と付き合い始める。資本主義を悪、社会主義を善とする二分法で徹底的に教育されるが、是が嘘であることは子供でも知っている。大学社会もしかりで表と裏の二重構造からなりたっている。マルクス主義とキリスト教徒の対話がチェコでの1968年「プラハの春」の土壌を作ったようだ。ゴルバチョフの「ペレストロイカ」は人間の顔をした社会主義「プラハの春」にかなり近いようだ。ところが1987年リガチョフらの守旧派はエリツィンをモスクワ市共産党第一書記から解任した。状況はまた複雑になった。沿バルト海の離脱派の若者は「レーニンは革命は帝国主義の鎖の一番弱い輪から起きるといってロシア革命を起こした。ソ連の一番弱い輪を崩す。それは沿バルトだ。ソ連を内部からぶっ壊すのだ」という。ソ連体制内の抵抗分子は「反体制派」と「異論派」に分かれる。「反体制派」は存在が許されないが、「異論派」ならば存在だけは許される。ソルジェニーツィンは反体制派で、サハロフ博士はソ連体制の自由化と民主的改革を訴える異論派であった。ゴルバチョフもエリツィンも特権階級でありながら共産主義を信じてはいなかった。ソ連では共産党中央委員会にすべての権限がある帝国である。ペレストロイカは基本的に西欧化の動きである。1988年ソ連共産党とロシア正教会の歴史的和解が進められた。主とモスクワにロシア正教会の拠点を移すということは、ゴルバチョフが本気でロシア正教をソ連体制強化のために動員する意向をし示したことだ。1988年にはゴルバチョフは情報公開グラースノスチで言論の自由をある程度認め国民をソ連に繋ぎとめるための政策を取った。イスラム教のアゼルバイジャンでキリスト教のアルメニア人が襲撃されたのも1988年で民族問題の深刻さを物語った。是はレーニンのムスリム共産主義者を擁護する政策からゴルバチョフのキリスト教擁護に傾いた結果であった。

確かにソ連邦崩壊前夜、沿バルト三国のソ連離脱(独立民族)運動は大きくソ連を揺さぶった。連日新聞はソ連の戦車がいつバルト三国に入るのかと報道していた。1988年ラトビアでペレストロイカ推進翼賛会の形を取ってラトビア人民戦線が創設された。これには民族主義者や帝国主義者も混じったソ連離脱(独立民族)運動であった。リトアニアは人口400万でリトアニア人に比率は80%、ラトビアは人口300万人でラトビア人は50%、エストニアの人口は200万人でエストニア人は50%であった。1920年に三国は独立したが、1939年ナチスとスターリンは取引を行い、西ポーランドをドイツ領とするかわりに東ポーランドとバルト三国をソ連領とした。これをモロトフ・リッベントロップ秘密協定という。佐藤氏はこのラトビア民族運動に深入りをした。沿バルト三国の独立はソ連の一旦獲得した領土は手放さないという神話を崩すことになり、日本の北方領土交渉に有利な状況を作ることにあった。ソ連社会はすべて二重構造になっておりラトビア共産党内部にも民族独立派はいたのである。このときの佐藤氏の確信は「ロシア人は約束はあまりしないが、約束したら必ず守る。友人は裏切らない信念を持っている」というもので、彼はこういう信条でロシア内の友人を増やしていったようである。

1990年12月シュワルナゼ外相が「独裁が近づいている」という警告をゴルバチョフに発して辞任した。共産党守旧派に押されゴルバチョフが独裁に走る事を警戒したものだった。1991年1月ついにリトアニアのビリニュスで「血の日曜日」事件が発生した。ソ連当局が市民数名を射殺したのである。この事件はソ連邦崩壊のプロセスにおける重要な転換点になった。たしかにヤナーエフ副大統領、クリュチコフKGB議長、ヤゾフ国防相は非常事態宣言を出してゴルバチョフ独裁を実現し体制の引き締めを目論んだようだが、当のゴルバチョフは動揺して1991年8月のゴルバチョフ監禁とクーデター未遂事件のような不徹底な動乱になった。1989年東欧ではベルリンの壁が崩壊し東西ドイツが統一され、チェコスロバキアではビロード革命が起きて反体制派作家のハベルが大統領になった。1990年代に入るとソ連ではもはや一党独裁では社会の活力を引き出せないことが分り、ロシアキリスト教民主運動や自由民主党、民主党など非共産主義政党の工作にKGBが関与した。これらの政党もビリニュスの「血の日曜日」事件以来共産党が求心力をなくしてゆく過程ですべて反共野党になった。これらの反共キリスト教や自由主義、保守主義を標榜する政党はじつは欧米から援助資金を貰うだけのインチキ政党に堕落してゆくのである。そこにボローシンという僧がエリツインに接近し、強い影響力を持ってゆく。

佐藤氏は怪僧ボローシンが権力に上り詰めてゆく姿を克明に描き出そうとする。ボローシンはロシア正教、中央アジアのアニミズム,日本の神道の自然崇拝的要素に関心を持ち、国家は国教を持たないと内側から崩れると考えていた。1989年のロシア人民代議員選挙に出て政治家の道に入った。1991年8月のクーデター未遂事件で権力を掌握したエリツイン大統領にたいしてボローシンは最高会議幹部会員になっていた。ボローシンは1992年ごろが権力の絶頂期であったが、1993年10月エリツイン大統領府と最高会議(ホワイトハウス)の対立は深刻化し、エリツインは憲法停止、議会解散をさけんで西欧諸国の支持を得、内乱の危機が発生した。大統領はホワイトハウスに大砲を打ち込み、ルッコイ副大統領、ハズブラートフ最高会議議長は降伏して内乱は回避された。これが「モスクワ騒擾事件」である。ボローシンも失脚し国家院宗教社会団体委員会事務局長となったが、その後政界から引退し、中央アジアのチェチェン分離派がイスラム教徒とテロに走るとなんとキリスト教からイスラム教に改宗した。変な怪僧ボローシンの顛末であるが、佐藤氏はエリツイン政権時代の裏側をこの怪僧ボローシンから情報を得ていた。

ロシアにも大統領制が導入され1991年12月エリツインとルイシコフが立候補した選挙が行われた。この時期プロレスのアントニオ猪木議員がロシアに闖入して変な外交を展開したのは実は佐藤氏が根回ししたことによる。結局どんな外交が実ったのかは不明である。リトアニア共産党はソ連派と独立派に分裂していたがゴルバチョフの信任の厚かった独立派共産党のブラザウカス第一書記は分離独立に踏み切った。ソ連を倒すにはゴルバチョフのような馬鹿者と沿バルト海の民族主義者の役者が必要なのだといういう。1991年1月リトアニアのビリニュスで「血の日曜日」事件では佐藤氏は共産党独立派や民族主義者との間に作ったチャンネルを通じて多くの独立運動の情報を得、又独立を助けるような活動もしている。ビリニュスで独立派とソ連維持派との緊張が頂点に達したとき、はたしてソ連軍の戦車が強行突破するかどうかが最も恐れられていたとき、佐藤氏は共産党とのチャンネルから強行突破しないというメッセージを得て、独立派に伝言したことは事態の死活的に重要な情報であった。独立派は既に逃げ出す寸前であったからだ。この沿バルト国の独立はソ連邦の連鎖的崩壊へ導くものであったが、ゴルバチョフはソ連が社会民主主義的な主権共和国連邦に改編されて生き残る道に希望を託していた。西側諸国は沿バルト三国の独立支援を本気で画策していたためゴルバチョフは強攻策を取れなかったのである。1991年8月の非常事態国家委員会のクーデター未遂事件の中心はシェイニンとヤナーエフで計画の後ろにはソ連最高会議議長のルキャノフであった。ヤナーエフらはゴルバチョフはソ連維持派と見て当然自分達に同調すると考えていたが、ゴルバチョフは自己保身しか考えていなかったので監禁したもののクーデターは中途半端に挫折した。

国家非常事態委員会の戦車がエリツインのいるロシア最高会議ビル(ホワイトハウス)を攻撃するかどうか緊張の極達した時、エリツイン側のシラーエフ首相、ボローシンらは逃げ出した。イリインロシア共産党第二書記のルートから突入するつもりはないとの意志を佐藤氏は得たようだ。たしかに電話回線も切断されておらず、ラジオ放送も行われているこんなふやけたクーデターはなかった。このときエリツインのロシア政府と非常事態国家委員会のソ連政府が二重権力構造になっていた。イリインは「これはペレストロイカの継続でありクーデターではない。ゴルバチョフは健在だ」という情報を述べた。結局クーデターは3日間で幕を下ろした。当時のエリツインの知恵袋はブルブリス国務長官だった。ジェルジンスキー広場の元KGB長官ジェルジンスキー像を破壊したのはKGB本部へ向った群衆のガス抜きになったし、ゴルバチョフを避暑地フォロスから迎えて記者会見場でやつれた無力なゴルバチョフを演出したのもブルブリスであった。ゴルバチョフは沿バルト三国の独立を承認した。エリツインはこの時点でまだロシアの構成に迷っていたが、ソ連崩壊を決定づけたのがブルブリスであった。しばらくはエリツインとブルブリスの密室政治で官僚政治を無視した。ところがブルブリスの手の内で踊らされることが分かったエリツインは1992年11月ブルブリスを左遷して国家中枢から遠ざけた。その後はエリツインは国家戦略を描けず迷走を始め、アルコール中毒者ぶりを世界に曝した。1993年3月佐藤氏はブルブリスにソ連の崩壊の原因を質問した。するとブルブリスは「自壊だよ。ソ連は帝国は自壊したのだ。1991年8月の非常事態国家委員会のクーデター未遂事件はソ連共産党中央委員会が自爆したのだ。ゴルバチョフはソ連の維持しか考えていない屑だ。」と語ったという。

つまらない例え話であるが、私はなぜか最後のソ連邦大統領ゴルバチョフを徳川幕府最後の将軍慶喜と重ね合わせて見る。共通の性格がにじみ出てくる。まず最後の特権階級出身であること。ゴルバチョフは共産党官僚ノーメンクラツィーラであり、慶喜は水戸徳川家の出身であった。どちらも最高の貴族である。一応改革派のポーズで最高の位置に上りつめた。ゴルバチョフはペレストロイカを看板にしてソ連社会の再生を志した。慶喜は開明君主として幕藩体制の改革を謳った。しかし意志薄弱である。ゴルバチョフは共産党体制派に詰め寄られて独裁制に戻ろうとしたりぶれて政策に終始した。慶喜はいくらでも闘えたのに大阪から舟で逃げ帰ったり、天皇派公家に対する有効な手を打たなかったり優柔不断な性格である。そして自己保身だけが最後の希望であった。ゴルバチョフは何時までも大統領である自分にこだわって時勢がみえなかった。慶喜は大政奉還したのちも自分を長とする新体制を夢見たりしているうちに薩長に足元をすくわれた。そして最後に小心者であることだ。


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