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五木寛之著 私訳「歎異抄」

 東京書籍(2007年9月)

唯円が親鸞の言葉を集め流布する異説を正そうとする、分りやすい他力本願浄土真宗入門

五木寛之氏は言うまでもなく小説家であるが、最近仏教関係に傾斜されてきた。「蓮如」、「大河の一滴」、「他力」、「百寺巡礼」などの浄土真宗関連の著作がある。私は10巻からなる「百寺巡礼」を観光ガイド代わりに読んだ。京都の寺は私もよく知っているので、五木氏の著述には特別な印象は無かった。その五木寛之が「歎異抄」の訳本を出して人気が出ていることを新聞の読書コーナーで見た。「歎異抄」は岩波文庫の金子大栄校注で既に読んでいたが、今回五木寛之氏の訳本と合わせて岩波文庫「歎異抄」も再読した。五木寛之氏の私訳「歎異抄」は訳文篇と原文篇と五味文彦氏の解説の三篇からなっている。岩波文庫金子大栄校注「歎異抄」は解題篇と原文篇からなる小冊子である。親鸞の著した「教行心証」よりも有名でよく読まれている古典が「歎異抄」である。文章は名文で比較的理解しやすいが、仏教の論争であるので、争点をよく理解するにはやはり脚注や校注や現代語訳があったほうが、途中で論点がぼやけたり理解不能になることを防いでくれるのでありがたい。五木寛之氏の訳がすばらしいというほどでもないのに、この本に人気が出るのか不思議だ。彼の文章が優しさに満ちているのかな。同様な仏典「般若心経」については本読書コーナーで柳澤桂子著 「生きて死ぬ智慧」を紹介した。是は265文字という短いお経で深遠な無の宇宙空間を表現しており感激したことを覚えている。まず岩波文庫金子大栄校注「歎異抄」の「解題」をとりあげ、「歎異抄」の背景と思想をかいつまんで復習しておく。そして五木寛之氏の私訳「歎異抄」の現代訳と原文を18章にわけて親鸞の思想を辿ることにしよう。
追記:歎異抄については野間宏 「歎異抄」 ちくま文庫 という本を読んだ。野間氏は1章ごとに、原文、現代訳、解説を入れてあるので一貫して読みにくいが、著者それどれの思い入れがあって参考になる。ここにはコメントしないが、時代背景などがよく分りいい本である。


「歎異抄」 解題ー岩波文庫金子大栄校注「歎異抄」より

「歎異抄」の著者は常陸国茨城郡河和田(水戸の南に位置する)の人で、親鸞が今の茨城県笠間市稲田にいたときからの弟子である。稲田と河和田は比較的近い距離で一日内で徒歩で往復可能な距離である。唯円は親鸞より30歳ほど若いようだ。この書は親鸞が京へ帰還して唯円が上洛して親鸞の言葉を記録したことに基づく。親鸞の物語はこの書に限らず、覚如の「執持抄」、「口伝抄」があるが、直接に親鸞の教えを受けた者の記録は唯円「歎異抄」のみである。

本書の構成は、序、親鸞の語録 第1〜第9章、序 第10章、唯円の歎異 第11章〜第18章、結びからなる。前半は親鸞尾語録であり。後半は唯円の著述である。したがって語録と歎異の間には自ずからなる対応があり、語録の第1,2,3章と歎異の第11,12,13章は内容的に対応している。語録の第4、5章は歎異の第15章に対応し、語録の第7章は歎異の第16章に対応している。そして歎異の第11章はいわば唯円の歎異総論であり、以下の章は歎異各論であるという構造をとる。

浄土真宗の教義は、本願を信じ(信)、念仏を申さば(行)、仏になる(証)にあり、親鸞著の「教行信証」のとくところもこのことである。如来の本願とは生死の不安と愛憎の悩みとにある衆生を、その苦悩の無いところに在らしめたいという慈悲である。阿弥陀(アミターユス、アミターバ)とは永遠の命と光である。それに対して衆生は限りある生である。如来の本願を信じることが信心であり、そこには一切の衆生に対する慈悲の平等が約束されている。不安と苦悩の無いところを浄土という。本願をとく教えが浄土真宗という所以である。その教えを説けるのは釈迦のみである。我らを浄土に在らしめたいという本願は、我らに念仏せよという告命となった。念仏よりほかに本願の力を身に感じるすべを知らない。念仏とは「南無阿弥陀仏」の六文字である。我らは生きているうちに自力で悟ることは出来ない、仏になって始めて不安と苦悩のない涅槃に至るのである。

親鸞の書「教行信証」は普遍の真実を示し、本書「歎異抄」は個人体験の底深く感じられる告白、述懐の安心の書である。「歎異抄」には親鸞のすばらしい名言がちりばめられている。「地獄は一定すみか」、「悪人もともと往生の正因」、「親鸞は弟子一人ももたず」、「煩悩具足の凡夫の身をもって」、「悪をおそれざるは、また本願ぼこり」、「摂取不捨の誓願」、「親鸞一人がためなりき」などなど。

本書「歎異抄」で唯円は何を異としたのだろうか。一つは真宗の法の知識化つまり「学解」であり、もうひとつは教団主義とか制規派(あれをしてはいけないなどの規則ずけ)の固執である。唯円はそれらを強権で排除することではなく、ただ嘆くだけである。

「歎異抄」の異本は2つだけである。蓮如本(西本願寺所蔵)と端の坊永正本(大谷大学所蔵)である。永正本と蓮如本は別系統に属し、文章が整っているが村町時代の蓮如本で、永正本は乱れた用語を使うもっと原型的な(鎌倉時代の用語)ものであろうとされる。


「歎異抄」 親鸞の思想ー五木寛之著 私訳「歎異抄」より

親鸞の語録 序

「親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むる処、いささかこれを注す」 親鸞聖人は法然上人の「易行の念仏」をとかれた。今流布する間違った念仏の教えを取り払いたい一念で本書を記す。

第1章

「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をとぐるなりと信じて念仏もうさん」 阿弥陀の本願を信じることが教えである。この阿弥陀の誓いには差別はない。ただ念仏だけが救いの道である。

第2章

「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」 我々が救われて浄土へ導かれる道は、ただ念仏以外にはない。念仏は一筋の信心です。

第3章

「悪人なおもて往生す。いかにいわんや善人をや」 善人であっても自力に溺れる心をあらためれば救われる。悪人とは煩悩具足のすべての衆生で他力本願で救われる。この反語はいつも話題になるが、他力本願で悪人=衆生は救われる、善人=自力本願の修行を積んだ宗教者でも改心すれば救われるということである。

第4章

「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり」 自力(聖道)の慈悲で他人を救うことはできない。我々の信じる他力の慈悲というのは、全ての人は念仏によって浄土に生まれ、そこで仏になる。

第5章

「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」 人類はすべて兄妹で、浄土に往生して悟りを開けば、そのときお互いに助け合うことが出来る。

第6章

「親鸞は弟子一人も持たずそうろう」 師が念仏をさせるのではない。念仏は阿弥陀の力によっておこなわれるのである。阿弥陀の慈悲のまえに全ての人は平等である。

第7章

「念仏者は無礙の一道なり」 念仏とは妨げられるもののない、ただ一途の道を行くことだ。

第8章

「念仏は行者のために、非行・非善なり」 念仏は自分の力によって行う行や善ではない。念仏は阿弥陀の大きな働きかけによって自ずと発せられるのである。

第9章

「仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし」 親鸞も煩悩具足の凡夫で常に現世への執着に取り付かれた哀れな存在である。凡夫の往生間違いなし。


第10章 歎異の序

「念仏は無義をもって義とす。不可称不可説不可思議」 念仏はあれこれ理屈をつけて論じるものではない。大きな他力の働きかけである。ところが今祖師の念仏の教えとは異なる教えが広まりつつある。その誤りについて親鸞の言葉を基に唯円は述懐する。

第11章

「一文不通のともがらの念仏申す・・誓願・名号の不思議ひとつにしてさらに異ならず」 念仏する一文不通のともがらを屁理屈で脅かしてはいけない。

第12章

「仏説きおかせたまいたることなれば、われは信じてたてまつる」 学問しなければ往生できないというのは間違っている。他力本願は誰もが出来る易しい念仏であるから「易行」という。学問は「難行」である。学問は不要である。論争は百害あって一利なし。一文不通の煩悩具足の凡夫でも念仏で救われるのが親鸞上人の教えである。

第13章

「薬あればとて、毒を好むべからず」「さるべき業縁のもよほさば、如何なるふるまいもすべし」 この章の論理はかなり複雑である。自分の悪行を恐れないような人の立場を「本願ぼこり」という。人が犯す悪は仏の誓願の妨げにはならない。人の救いがたき業縁はどんな悪行でもする可能性を持っている。罪深い人間だから救われないということは間違っている。それでも念仏で仏の本願をお頼みすることが大切である。

第14章

「一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべし」 臨終のときにただ一度の念仏で自己の罪業が救われるとか念仏には罪をなくする利益があるというのは邪道である。念仏で罪を消滅できると考えるのは自力の行為である。阿弥陀の働きかけによる念仏によって、死ねば浄土に導かれるのである。

第15章

「煩悩具足の身をもって、悟りをひらくということ、もってのほかのことにそうろう」 自らの力で行を修めこの世で悟りを開くことは出来ない。「即身成仏」、「三密の行」、「六根清浄」は超能力者の難行である。凡夫他力本願の浄土宗の立場は、現世ではなく次の世で成仏し悟りを開くという考えである。

第16章

「誓願の力を疑い、他力をたのみまいらするこころかけて、辺地の生をうけんこと、もっともなげきおもいたまうべきことなり」 念仏を信じる人は自分の心をあらためる回心ということは生涯一度しかない。仏にすべてをまかせて他力の信心に帰すること、それが回心である。他力を信じられない人は浄土へいっても辺地におかれることになる。

第17章

「本願を疑うことにより、辺地に生じて、疑いの罪をつぐないてのち、報土のさとりをひらく」 辺地に置かれても地獄へ落ちるわけではない。悔い改めて本願を信じれば浄土へ導かれるのだ。

第18章

「仏法の方に、施入物の多少にて大小仏になるべしということ、不可説なり」 仏への寄進は布施業の一つではあるが、真実の信心がなければ無意味であり論外だ。

結び(述懐)

「弥陀の誓願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなり。それほどの業をもちける身にてありけるを、助けんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」 これは自分自身の罪の深さ、阿弥陀の慈悲の深さを知らず迷っている親鸞のお言葉である。そもそも善とか悪とか私は知らない。煩悩にまみれた凡夫にとってこの世は無常な世界で空しい世界である。真実は何処にもない。そのなかで念仏という行為だけがひとびとの心を支えることが出来るのだ。


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