書評  051225

養老孟司著 「無思想の発見」

 ちくま新書(2005年12月初版)
 
養老先生も「日本(人)論」の系譜に参加


読売新聞の世論調査によると7割以上の日本人が自分は無宗教だと答えたそうだ。さも有りなんと思う。本書はその回答になっている。宗教とか思想とか文明などはすべて脳の働きが生んだとするのが養老氏の「唯脳論」の主張であった。脳の過剰容量が言語や意識や概念世界を生み出しそれが人と動物を分ける重要なヒトの属性、特徴となっているとする論である。その論がいよいよ文学・社会論に出だしたようである。いつも科学者が名を遂げると、周りの人間特に出版社が先生をおだてて社会へ眼を向けさせるのが常であった。養老先生もそれに乗ったわけである。何せこの分野の活動は文明が出来て以来の伝統を持つため海千山千の兵がひしめく分野である。生半可では馬脚が出るのでよほどの勉強が必要だ。さて養老先生の文明論・日本文化論の出来はいかが。

蛇足であるが、超忙しい先生のことなので本は先生が著述するのではなく、先生がぶつぶつ話す口述録音からさる人物(起し屋)が原稿を起こして先生が筆を入れるというやり方でできている。養老先生は言っている。「いままでこのやり方で本を著してきたが、本の成功・不評判はつとに起し屋の腕にかかっている。これまで2割が成功、8割は不成功だった」と反省?している。しかし最後にOKを出すのは先生なのだから全責任は先生になる。いままでの先生の著書は先生の性格がよく滲んでいて、朴訥として妙につぼを得た意見を吐く味が出ていた様に感じる。親しみと暖かさに共感が持たれた。しかし今回の書物はだいぶ趣が違う。妙に飛躍的、高踏的知識人な面が強く出ており、半面投げやりでべらんめー調の断定が多く違和感を感じるのは私一人ではないだろう。さて本書は成功した部類に入るのだろうか。

日本人に「私」はない、「私」の単位は個とは限らない。(第一章)

日本人には一人称と二人称(おれとおまえ)が混同している社会にドップリつかっていたところに明治以降の西洋近代文明と自我の思想が侵入した。「個人は社会を構成する最小単位であるが、私とは公的権力が及ばない範囲をさす」と養老氏は定義され、日本社会においては私が個人ではなくずっと家族が公的な最小単位であったという。「日本国憲法で思想・信教に自由が保障されている。これは人権の一つである。世間はそんなものは実質的に認めていない」と卓見を先生は述べられている。たしかに会社や組織を見れば給料を貰う人には自由も民主主義も無いようにみえる。日本の過去の歴史はそうであったろうが、養老先生はそれをよしとして固定されるのだろうか。もう少し付き合ってみよう。

意識は同質(グローバル化)を志向する、個体性はどこにあるのか。(第二章)

脳の概念作用である意識はつねに同じであること(同質化、グローバル化を志向して、意識に個性を持ち込むことは無理であるという。本来個性が存在していたわけでなく、個性は点としての環境の産物(創られるもの)であると言う関係をまず認識すべきであると養老先生は強調される。というわけで意識という脳機能は(わがままな個性という表現で)個性を排除する特性を持つという脳科学的?論拠を示された。いわばこれが西洋近代的自我の否定根拠らしい。茂木健一郎著「脳の中の人生」中公新書ラクレ(2005年12月)において茂木氏は「養老さんは個の確立をしきりに訴えておられた。日本人には個の確立がなかった。私(養老氏)は個の確立した英語圏の方が暮らしやすかったのだが」と紹介されていた。すると本書のいう「意識は個を排除する」という主張に矛盾がある。いったいどちらなのか。それとも夏目漱石のように「知にたてば角が立つ、情に棹差せば流される。とかくこの世は住みにくい。」という則天去私的見解に宗旨替えされたのか。自分は個の確立した世間がいいと思いながら脳はそれを拒否するので、今後日本人の世間優先論に流されてゆきたいのかどうかどうもはっきりしない。もう少し付き合ってみよう。

概念世界(思想)と感覚社会(世間)は常に補完的、日本人には思想に重点を置かない。(第三章)

養老先生は「世間と思想はともに同じ脳機能であり相互補完的である。異なる社会では世間と思想の役割の大きさも異なり、世間が大きく思想が小さいのが日本である」と世間埋没的日本人を指摘された。私も「日本人はたいてい無宗教、無思想、無哲学だ。それが日本だ」と主張する系譜はいままでいやというほど聞かされてきた。しかしそれでいいのか、西欧近代化を無思想で取り込んできた日本には、世界的創造の能力があるのかということが次の世代への課題だと聞かされてきた。養老氏はどうもここで居直って無思想でいいじゃないか、そのほうが楽だという現状追認に向かったようだ。

無思想が一番効率的で住みやすい。(第四、五章)

「思想を持たないのも思想だ。」と先生は居直った。思想があったために失敗した例として中華思想、一神教、三島由紀夫、大塩平八郎、神風特攻隊などをあげられるが、はたして彼らが思想があった例になるのか大いに疑問に思う。特に違和感を覚えるのが、現実化機構としての自民党賛美論と南京大虐殺は存在しなかった論(石原慎太郎などが言い出している)を持ち出すところは頂けない。

日本人の無思想は仏教由来、無思想の系譜。(第六、七章)

日本人の無思想は仏教からきたものだろうとする根拠として般若心経の「無」を取り上げた。仏教が日本人に与えた影響は梅原猛氏の労作に詳しい。私が感心した本に、吉本隆明・梅原猛・中沢信一鼎談「日本人は思想したか」新潮文庫(1999年)がある。それによれば縄文時代から今日にいたる日本文化の諸様相が克明に吟味され日本文化の変遷が分かる。養老先生のような「日本人は無思想だ」とういう暴論にはならない。

思想に抗しないで感覚的に生きよう!(第八、九章)

「意識は常に同質化を求め多様性を減少させる方向へ向かう。いわばイスラム原理主義や英米原理主義のようである。それに対して感覚世界は現実世界をそれとして認め生物多様性エコシステムを維持する。これが日本人の無思想・感覚世界の生き方だ」と先生は生活指針らしいものを示された。それは正しいとしても、だからといって現状100%追認という態度はやはりおかしい。自民党賛美や天皇制、日本人の拝金思想と汚職腐敗構造を認めよということには肯首できない。何々すべきという堅い思想的なことを言わないで現状はそうと是認して、其処から自分の甘い汁を吸おうとする日本人があまりに多いから(政治家官僚に)私は日本社会の現状追認という価値判断はとりたくない。


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