書評  051212

養老孟司著 「カミとヒトの解剖学」

   
 ちくま学芸文庫(2002年1月初版)
 
神の存在はヒトの属性である。それは脳の機能による。
視覚中枢と聴覚・運動中枢から人間の活動を解釈すると!
 

養老孟司氏の企画

本書は先の「唯脳論」(1989)の3年後、1992年に刊行された。先の「唯脳論」が全般的な問題提出とすれば、本書はその中からヒトの宗教活動を初めとする人文的活動を扱う各論とも言える。しかし本書は宗教問題の専門書でもないし、内容は哲学・文学・音楽など前書と重複するところが大半である。特別新しい見解が出たわけでもない。言いたいことを重ねて繰り返し深めた書を見られる。そういう意味では、次の書もより論を深めた関連書である。

  1. 養老孟司・森岡正博  対論「脳と生命」 ちくま学芸文庫(2003年2月)
  2. 養老孟司・玄侑宗久  対論「脳と魂」   筑摩書房(2005年1月)

生命倫理・サイボーグ生命を論じた「脳と生命」、宗教と文明論を論じた「脳と魂」などいずれも興味深い見解を闘わせているので一読をお勧めする。ただ「脳と生命」では森岡正博氏の能弁に養老孟司氏の言語能力不足が対比されるところが惜しい。

宗教体験

五万年前に現代人が成立して以来、ヒトという種は神の概念を抱えてきた。幻想と呼ぼうと神の存在はいわばヒトの属性である。それは芸術、哲学、言語、科学、社会などと同等のヒトの属性である。ヒトは外界に対応物が存在しなくとも様々なことを脳が生み出す。
宗教的神秘体験なるものも脳の機能である。養老孟司は断言する。「国・社会などは約束事に過ぎない。根本的に存在するものは個人しかない。人生はそれぞれその人のものである。真に存在するものはその人の人生しかない。」けだしこれは名言であろう。
動物の行動は知覚系と結合して情況論理をつくり行動倫理を生む。宗教も知覚系としての世界認識と、行動倫理即ち運動系の規制を行う。ヒトの脳活動にすぎない。「ヒトの脳の剰余活動により外的因子だけでなく、脳内活動そのものが脳の活動に引き金になると言うアナロジーによって、シンボルが発生した。」という「唯脳論」の原則が宗教を生むのである。宗教の発生は生物の典型的身体性質である個体の死と、進化過程でヒトが獲得したシンボル能力との結合によった。だから信仰とは現実でないシンボルに現実感を賦与する能力の発現なのである。

人の死と霊魂

人は生きているという機能が消失しても身体が残るという情況から、魂なるものが発明された。ヒトの死については近年「脳死臨調」で議論されたように、心臓と呼吸の停止をもって死というかどうか議論が分かれる。極端な論議では「モガリ」期間をおいて身体が無くなるまで待つと言う論もある。身体はいっせいに全ての組織が機能を停止するわけではなく、酸素不足に弱い脳機能の停止の段階でも多くの器官は死んだわけではない。そこで臓器移植という行為が有効になる。養老孟司は徹底した個人主義者であるから、死の定義を統一することに反対つまり脳死論者ではない。脳でさえ移植可能である。そうなると誰が誰やらわからなくなる。
臨死体験が最近の流行らしい。大真面目であの世の体験を語る本がブームになっているが、それも脳の機能である。
墓もシンボルである。「墓は本人の代理であり、墓石という実体に生きている人間の情念を付着させて辻褄あわせをやらせている。」 実体化したシンボルとは彫刻などの芸術作品と同じく実用性のない代物である。これが脳機能なのである。

お経の言語論(視覚言語と聴覚言語)

宗教の経典は全て教祖様のお言葉の「言行録」であり、ソクラテスの哲学、孔子の言行録「論語」も、教祖本人の著述ではない。仏教の経典は特にその傾向が強く、なかったはずの釈迦説法が続出した。「言行録」は文字による記録である。音声と言う最初の言語よりも文字による言行録はより社会的認知を得やすい。視覚言語(文字)は言語をより明晰にするが、宗教では特に明晰性を求めないので音声言語に回帰した。それはまたお経の声明という音楽性を帯びるのは西欧中世のグレゴリオ聖歌にも見られる。

時間・空間と脳(視覚機能と聴覚機能)

カントは時間と空間認識をアプリオリな(先験的)認識の枠組みだといった。人間の活動は全てを予測可能性の管理下に置こうとする。「一寸先は闇」という言葉はもう昔の格言になった。未来もどんどん現在化され管理対象の範疇におかれるようになった。近未来学とか官僚の作文も全ては管理しうるもの(しなければならないもの)と考えられるに至った。
養老孟司氏は空間の旅と時間の旅の例として西行と鴨長明をあげて面白い話をする。「空間を移動する型の人間は、移動に関して恐らく視覚との結合が強い。時間を移動する型の人間は聴覚ー運動系との結合が強い」という。つまり視覚機能と聴覚機能のどちらがより強く現れるかは人によって変わる。その人の脳機能の働きの強弱だというのである。面白い人間性の分類だ。また三島由紀夫は眼の作家、宮沢賢治は耳の作家だという。視覚野は大脳皮質の高位の中枢において分化するが、聴覚野は松果体と関連してより下位の活動である。耳の作家は詩や童話を書いてその作品はより宗教的で深いという。こんな簡単な分類が功を奏するかどうかは別にしても、いずれにせよ人は視覚機能と聴覚機能が補完しあうものらしい。
私の経験で言えば、視覚機能と聴覚機能は独立している。絵を描いているとき(運動系)は全く音楽(聴覚系)が聞こえてこない。本を読んでいる時(視覚系)は音楽は聞こえてくるのだが。これをどう説明したらいいのか分からない。


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