文藝散歩 

吉本隆明著 「源実朝」
ちくま文庫(1990年1月)

鎌倉幕府三代将軍源実朝の惣領としての悲劇と歌人の魂


「鎌倉幕府三代将軍源実朝は中世期最大の詩人の一人であり、この学問と識見とで当代における数少ない人物に訪れているのはまるで支えのない奈落のうえに、一枚の布を置いて座っているような境涯への覚醒であったが、既に不安という様なものは追い越してしまっている。」という風に詩人思想家吉本隆明氏の書き出しで始まる。第二次世界大戦中に小説家太宰治は「右大臣実朝」を、文芸評論家小林秀雄は「無常ということー実朝論」を書いた。太宰治の実朝像は「心得て騙されながら悠然としていられる人物、裏切られても平気で滅亡できる人物が、太宰の自画像でもあった」といい、小林秀雄の描いた実朝像は「陰惨な暗殺集団のうえに乗っかった無垢な詩人の孤独」に重点が置かれていたようだ。この上にたって吉本隆明氏は詩人の目から見た実朝像を本書で明らかにする。本書は大きくは二部に分かれている。第一部は鎌倉幕府三代将軍源実朝の惣領としての悲劇を北条家の政権確立過程でお飾り化された将軍職の制度から解説する歴史政冶論である。第二部は実朝の歌論である。実朝の歌には賛否両論が多く、賀茂真淵や正岡子規のように万葉ぶりを絶賛するものがあれば、近年の評価は「へたくそな歌詠み」とけなす場合が多い。本書の刊行は1971年である。

本書の内容に立ち入る前に、本書巻末の「実朝年譜」よりかいつまんで、実朝をめぐる史実を眺めておこう。
・1192年 源頼朝 鎌倉幕府を開く。 頼朝・政子の次男として生まれ千幡と命名。
・1199年 源頼朝死亡 (8歳)
・1203年 関西38ヶ国の地頭職に任じられる。二代将軍頼家修善寺に幽閉される。実朝と改名し第三代征夷大将軍となる。元服 (12歳)
・1204年 兄頼家修善寺で殺害される。大納言信清の息女と結婚 (13歳)
・1205年 鶴ヶ岡八幡宮に参拝。 畠山重忠誅殺される。北条時政と平賀朝雅が実朝を除く企てに対し北条政子と義時はこれを防いで、北条時政を出家さす。藤兵実親が新古今集を持参。(14歳)
・1207年 鶴ヶ岡八幡宮、箱根伊豆二所権現参り (16歳)
・1208年 疱瘡にかかる。清綱古今和歌集を献上す。従四位下に叙せられる。 (17歳)
・1209年 従三位に叙せられる。右近衛中将に叙せられる。勝長寿院、永福寺、法華堂に詣でる。 (18歳)
・1210年 大江広元より三代集を贈られる。持佛堂で聖徳太子供養を行う。 (19歳)
・1211年 正三位に叙せられる。鎌倉諸寺院に詣でること多い。 (20歳)
・1212年 鶴ヶ岡八幡宮、箱根伊豆二所権現詣り。鎌倉諸寺院に詣でること多い。定家より和歌文書を贈られる。 (21歳)
・1213年 鎌倉諸寺院に詣でること多い。和田義盛挙兵し滅亡。定家より私本万葉集が到着。 (22歳)
・1214年 鶴ヶ岡八幡宮、箱根伊豆二所権現詣り。二代将軍頼家の子栄実殺される。鶴ヶ岡八幡宮詣り多い。 (23歳)
・1215年 北条時政死亡。鎌倉諸寺院に詣でること多い。 (24歳)
・1216年 鎌倉諸寺院に詣でること多い。左近衛中将に任ぜられる。大江広元、義時の使いとして実朝の官位昇進を諫言する。渡宋の舟を作ることを陳和卿に命じる。 (25歳)
・1217年 鶴ヶ岡八幡宮、箱根伊豆二所権現詣り。鎌倉諸寺院に詣でること多い。陳和卿の舟出来上がるも進水せず。 (26歳)
・1218年 権大納言に任じられる。左近衛大将を兼任する。内大臣に任じられる。右大臣に任じられる。 (27歳)
・1219年 右大臣拝賀のため鶴ヶ岡八幡宮参拝。二代将軍頼家の子公暁により殺害される。公暁も殺される。源氏将軍家廃絶 (28歳)

第一部 鎌倉幕府体制と将軍家

T 実朝的なもの

吉本隆明氏が本書で引用にされている文献は慈円作「愚管抄」、「吾妻鏡」、「北条九代記」、「増鏡」である。「愚管抄」は仏教徒の史観になるもの、「吾妻鏡」、「北条九代記」は鎌倉幕府北条執権家の手になるもの、「増鏡」は文学史としての著述である。それぞれが虚実織り交ぜて面白い文献である。慈円の「愚管抄」は実朝殺害の意図を理解していたとは言えず仏教的な滅亡因果で説明しようとしているが、「吾妻鏡」はたぶん実朝暗殺の舞台裏はわかっていたようだ。公暁をけしかけたのは北条義時だということも。
「実朝的」というものは外観から言えば第一級の詩心の持ち主であるということであり、また、貴種であり、暗殺によって夭折したしたものであるということかもしれない。「実朝的」ということは暗い詩心ともいうべきものに帰せられる。明るいイメージにはいつも嘘と陰謀が隠されている。修善寺に幽閉され殺害された二代将軍頼家の悲劇は、関東武士独特の惣領の論理を理解しないと分らない。関東武士団の頭領としての器量と支配力(ガバナビリティー)を持つと判断できる時には絶対の忠誠を捧げるが、それだけの器量もなく恩顧や庇護を与える力もないときには破れぞうりのように切り捨ててもいいというものである。1203年実朝が将軍職につくと、北条時政は執権職に就いた。時政は幼少の将軍実朝の後見人(摂政)である。「吾妻鏡」によると実朝には少なくとも武門勢力の総祭祀権の所有者としての威力は備わっていたようだ。京都の律令朝廷に対する重しの役割である。実朝はしのびよる暗殺の手に怯え、そこから逃げるために入宋を考えたり、律令朝廷の最高位右大臣摂政関白への階位を得ることに必死であった。さすがの北条氏も天皇律令制を敵として戦う名分が立たないので、実朝の右大臣就任を必死に妨害した。義時にしてみれば実朝に太政大臣に就任されたら万事休すである。なぜならそのとき武家勢力と律令王朝が完全に癒着したことになり、頼朝以来の武家政権樹立のもくろみは崩壊することになる。右大臣就任で実朝を阻止しなければならないと北条義時は策謀をめぐらせた。そこで利用されたのは頼家の子公暁で二代将軍頼家を葬った時の幕府の代表実朝を親の仇として吹き込んで、同時に将軍職への道を約束すると騙して実朝を暗殺させ、直後に公暁をも闇に葬り源氏将軍職の血統を断絶する一挙両得の策略であった。

U 制度としての実朝

平家に代表される西国の武家層が頭角を現してくるのは、宮廷や貴族の侍としてである。名門で武勇に優れ美丈夫で貴族的な教養も備えていなければならない。宮廷の内部の政治的抗争(保元平冶の乱)に武力を背景としてとして加担し、自らが貴族化して天皇権力を掌握した。中世の武家支配の時代を準備したといえる。それに対して東国の武家層は村落の自衛の武力組織として、他の部族との争いから勢力を広げ、地方の共同体のうえに君臨する領主となった。東国は朝廷や貴族とは距離があったので、頼朝が全国制覇をするまでは決して全国的な政権の考えを持っていなかった。自分達の支配が朝廷の律令制とどういう関係にあるかなどお構いなしに、いわば二重の制度を作ったのである。此の関東の源氏を惣領とする部門勢力には次に二つの掟があった。1つは惣領の家人の一人と敵対関係になれば、惣領とも敵対関係になるのである。二つは惣領に支配力がなかったり、利益を護ってくれない時には惣領を殺してもよいのである。惣領の息子に器量がなければ惣領になれるわけではない。ということで源氏三代の将軍のなかで北条氏を含めて御家人衆に対する惣領の器を持っていたのは頼朝のみであった。後の二代将軍にはその器がなかったので無残にも惨殺・謀殺されたのである。源頼朝の妻であり北条時政の娘であった北条政子は頼朝との間に出来た子供・孫をすべて北条家によって殺されたのであるが、彼女の頭の中には北条家の支配論理に従う以外の選択肢は考えられなかった。ある意味では頼朝さえも北条氏が担ぎ出した錦の旗であったのだが、北条家を初め多くの関東武士団を率いて見事に期待以上の働きにより天下を取るに到った。この朝廷とは無関係の鎌倉幕府の実質支配力の基礎がために成功した北条氏は次第に宿老たち梶山氏、畠山氏、和田氏らを実朝の名の下に粛清し、北条家のみの鎌倉幕府支配を確立した。そうすれば源氏将軍家はお飾り以外の機能は不要になる。三代で源氏の血脈を廃絶し、以降は京都よりお人形の将軍をお迎えし,北条執権体制をつくったのである。二代将軍源頼家、三代将軍源実朝には武門惣領の器はなかったが、御家人を鎌倉幕府に繋ぎとめておく祭祀主に役割はあった。また宿老を粛清するときに源将軍家に背いたという錦の御旗としての利用価値はあったのである。その機能以外の動きを二代将軍源頼家(気まぐれな采配、粗暴な振る舞いという摂政関白秀忠タイプ)、三代将軍源実朝(官位を欲しがるという源義経タイプ)がしたときには、北条執権は容赦なく殺害した。そして支配が完了した暁には源氏将軍家そのものを廃絶したのである。あわれな将軍家という一抹の涙を誘うが、中世武士団の血の掟には平家のような優雅さはなかった。

頼朝によって創始された鎌倉幕府の狙いを知らなければ「制度としての実朝」の矛盾を理解できない。頼朝は義経の平家追討のなかで朝廷、公家、寺社勢力にも根底から破壊する意志がないことを繰り返し朝廷に申し入れている。土地所有関係から見る律令制度は直轄領と荘園領地の二つを柱にしている。しかしその土地支配段階は「本所」、「領家」、「預所」、「下司」と複雑な支配になっていた。頼朝は「下司」から出発し在地の領主になっていた武士層や在地の族党を直接幕下に組織した。関東の武家層を直接の基盤にしてその頂点に惣領体制を整えた。頼朝の鎌倉幕府という国家は武家層以下に対しては直接の国家であったが、律令朝廷に対しては水平二重構造であった。したがって頼朝は律令国家の位階は征夷大将軍の他は求めなかった。義経と頼朝との軋轢は義経が勝手に検非違使と従五位昇殿を拝領することで決定的な不信となった。律令国家が幕府の家人に直接制度的関係を持つことを許しがたい武士団への干渉と見たのである。頼朝は西国や九州の在地武士団の統合にも心を砕いている。関東の武家層ことに北条氏が流人頼朝を保護してのちに部門勢力の頭領と仰いだのも、源氏の出自の「貴種性」が錦の御旗になると考えたからである。北条氏も単独では平家追討どころか天下統一はできなかっただろうし、頼朝も武力の基盤を関東武士団に置かなければとても平家追討の烽火を上げることができなかった。そういう意味で実朝の官位所望は関東武士団の惣領北条氏から見れば許しがたい裏切りと見えたのであろう。

V 頼家という鏡

頼朝は1999年正月13日に死んだ。鎌倉幕府という初めての武家政権国家を生んだ惣領が死んだ。頼朝の長男頼家が征夷大将軍をついで、外祖父北条時政が執権職に就いた。北条九代記によると、政治は北条親子、大江広元、三浦義澄、八田知家、和田義盛、比企能因らの合議制に任せ、身辺を比企三朗ら五名の近習に限って遊興を事としたと書いている。いわば頼家の振る舞いは秀吉の弟摂政関白に比すことが出来る。どちらも真実とはいえない作り話であろうが、後世そのようなばか者にされて殺害されて当然という風評が流されたのであろう。結城七朗朝光と梶原景時との抗争など幕府の御家人の間に抗争と殺し合いが続いた。執権家が政治の采配を行う体制では将軍家のなすべきことは祭祀の象徴しかない。これに頼家は自滅的なやり方で反抗したのであろう。1203年頼家は病気ということにされ修善寺に幽閉されて廃嫡された。頼家の長男一幡を担いだ比企能員、仁田忠常は北条氏に倒され、実朝が将軍職に就いた。1204年修善寺で頼家は惨殺された。暗殺の指示は北条時政、義時であることは間違いない。この頼家暗殺の名分は実朝という幕府の象徴に擦り付けられた。

W 祭祀の長者

文学的な「増鏡」という史書では実朝を「父にも優れた器量を持つ」と随分褒めちぎっているが、少なくとも将軍職としてのある面では実朝は威力があったのかもしれない。実朝の将軍職としての役割とは、実朝は自分を非政治的な象徴と自己限定した形跡がある。実朝は鎌倉幕府の祭祀権の所有者としてのみ、頭領の役割を果たし政治は北条家に全て任せるというところに自己限定したといってよい。鶴ヶ岡八幡宮、勝長寿院、永福寺、阿弥陀堂、薬師寺、法花堂(頼朝の霊廟)の寺社奉行をさだめ、箱根・伊豆権現二所詣でなど頻繁に寺社めぐりを繰り返している。坂東武士は土地と命をやり取りする非情の世界で其処には中世的な迷信や仏道にすがる契機があった。実朝には非情な世界を収攬する人格があったようだ。関東武士団は一族の軍事権と祭祀権を担う存在であった。これは古代の海人部の伝承である。関東の東海・房総に住み着いた民族は古くは東南アジア、中国南部からきた海洋民族であった。関東内陸部を開いたのは高句麗からの帰化民族である。そこから鎌倉幕府の宗教的中心は、「権現」、「明神」、「八幡」信仰で海人部や土着の国神系の祭神であった。

X 実朝の不可解さ

北条一族の執政に対して、実朝が我意を押しとおしたといわれる事件は三つある。1つは結婚相手のこと、二つは渡宋計画のこと、三つは晩年官位の昇進である。結婚のあいてはどちらにせよ北条一族からの嫁迎えに過ぎなかった。仏師陳和卿や栄西から南宋の知識を得たようである。なぜとんでもない渡宋計画をたて、陳和卿に造船を命じたのかは不可解としか言いようがない。暗殺の手から逃れようとする幻想なのか今は知るよしもない。史書の実朝を貶めるための作り話かもしれない。実朝は律令朝廷の最高位右大臣摂政関白への階位を得ることに必死であった。朝廷の位階が最高位になればさすがの北条一族も手が出せないと信じたのかもしれない。遅かれ早かれそれが実朝の命取りになった。

Y 実朝伝説

「伝説が成立するところには共通の観念が集まる。伝説にはある人物ある自然物に劇としての時代的象徴がなければならない。結果的には伝説はつまらない。うそ臭い。しかし共同の迷蒙さは時代の象徴としての不安や願望がいつも根底に横たわっているのである」と吉本隆明の思想が述べられている。我々は実朝のイメージや伝説に時代の象徴を見なければならない。実朝の伝説化を企てたのは専ら「吾妻鏡」であった。吾妻鏡には元久元年から建永、承元、建歴、建保5年まで頻繁に地震の記録が続くのであるが、これも歴史的事実とは合わない。いたずらに実朝の内的不安を象徴するための創作でなないか。人々が共同の不安をもっていれば、陰陽道や、密教はこの意味付けに加担するのである。全体的には実朝が神経性虚弱体質であったとする効果がある。中世には真言・天台密教と道教系の陰陽道は癒着しやすい体質を持っていた。そこへ何の体系理論も持たない神道はそこへ流れ込んだのであった。神道と密教の癒着で庶民層への浸透を図ったようだ。「吾妻鏡」がこれほど天地異変の不安を煽るのは実朝の独特の隠微な性格をとらえ、そこに関東武士団の内紛から来る怨嗟をすべて実朝に擦り付けるためにあり、本来北条氏に集まるべき敵意を実朝に転化することが狙いの記述である。また「吾妻鏡」が「聖徳太子転生伝説」を実朝にかぶせる狙いは、実朝を現神に祭り上げ、祭壇に供することである。生贄としての自分の運命を実朝が悟ったと読ませるためである。初期の鎌倉幕府とくに実朝のもとで、武門勢力の反乱はほとんどすべて北条氏への反乱であった。北条氏に歯向かうことは源氏将軍家に手向かうことであるという筋書きにした。北条氏が幕府創建いらいの宿将を次々と滅ぼし、北条家一家の支配が確立したとき、将軍家は名実ともに不要な存在となった。ただ操り人形のような将軍を置いて、北条家で律令朝廷に対応できるまで関東武士政権は成長したのである。

第二部 実朝の歌論

Z 実朝における古歌

古事記・万葉集の古歌は歌垣における掛け合いから成立した。前の句を誰かが歌うと、気の利いた奴が前の句とは直接関係のない答えの下の句を歌う。組み合わせに妙があれば周囲の人間がどっと笑ってはやすのである。したがって和歌形式はそもそもそれ自体で詩の表現部分ともなりえず、又完結した詩的表現ともなり得ない独特な、ある意味では多義的な形式からきている。意味の差し替えの可能性が生まれる。前の句は暗号であっても、如何にも解釈できる象徴であってもいいのである。言いたいことは下の句のみである。和歌形式の詩的表現が完全な叙景である場合もある暗号であり、下の句感情や思想を述べるときには極めて単純なことしか述べられないということに古歌の本質的な特徴があるといえる。上の句は下の句に対する心を誘導する暗喩として使われ、全く無意味ともいえない。上の句が下の句の含みとして不可欠のものとなって始めて和歌形式は詩的表現として完成された。実朝が万葉集を入手したのは1213年、定家の私本を贈られた。実朝の句「金掘るみちのく山にたつ民の 命もしらぬ恋もするかな」の上句は全て暗喩で、一首の意味はただ下句のみである。実朝の歌が力強いから「万葉風」なのではなく、万葉の古歌形式を保存したから「万葉」の影響があるとみるのである。「古今集」から「新古今集」にいたる八代集も万葉の時代の歌を拾い上げているので、実朝が「万葉集」から直接影響を受けたかどうかは分らない。古歌形式の迷路と深みは「ものに寄せて思いを述べる」ということではなく、ものに寄せることは意味を持たない句であり、下句で心を述べることはあまりに何もいえないことに尽きるのではないか。

[ 古今的なもの

古今集と万葉集の間には見事に性格の違いがあるが、なぜそうなったのかは辿ることは不可能である。万葉集の変容の結果、物を叙することは詩的な内面の象徴に転化し、この象徴によって、心は結果的に表現されるという性格が現れるようになった。しかし和歌そのものが瑣末なものにのめりこんでゆく方向という兆候もみえるのである。紀貫之の序にも、詩的な規範に則ったいわば「規範の象徴詩」というべき姿を類別している。詩の言葉が現実の体験とのつながりを失いかけたときには規範という便利なパターン化が必要になるのである。つまり和歌は初めの言葉から終わりの言葉まで「無意味」なものに転化することでかろうじて和歌形式を支えている。吉本隆明はかなり厳しい和歌第二芸術論を展開する。実朝を取り巻いていた同時代的詩的雰囲気は「千載集」または「新古今集」であった。定家は歌の初学者実朝に「本歌取り」によって、規範を飲み込むべきをおしえた。「本歌とり」と成句の必要を実朝に説くとき、規範から入って歌作者の主観を象徴する鏡としての「もの」の歴史を模倣することの重要性を説いたように思われる。私も漢詩の習作をこの2,3年やっているが、まさに「本歌取り」と成句のパズル遊びに過ぎないとつくづく実感する。体験に発する感情もなく、言葉の規則と成句をもてあそんで規範のような歌が作れたらよしとしているのである。私も実朝以下である。実朝も象徴詩の世界で、経験的現実とのつながりを言葉は断ち切っている。定家の本格的な歌論「毎月抄」では、和歌の創作がすでに一人の人間の全生涯をすりつぶして修練しなければどうしょうもないほどになっていることが苦しいほどである。実朝の本歌取りの一定の傾向は、古歌のうち心にかけた印象深い言葉があれば、固執した句を中心に歌を読むという態度である。「梅花さけるさかりをめのまえに すぐせる宿は春ぞすくなき」という実朝の歌は、藤原興風の歌の「春ぞすくなき」という句をとっている。

\ 古今集以降

最も注目すべきは歌集は「後拾遺集」である。俗語の大胆な導入は古今集の薄墨色に太陽光を入れるという効果をもたらした。「思いもかけぬ」、「うれしきは」、「おもいもしらず」、「色に似たれば」、「残り少なき」といった言葉は当時には大胆な言葉で和歌に入り込むとは思いもかけなかったのである。つまり規範が緩んで象徴性が崩壊し始めたことを示す。「後拾遺集」は俗語の自在な導入という意味で,和歌の世界を「景物」から一切の伝承性を奪うという最終のところまでいきつくのであった。実朝が「後拾遺集」から影響を受けたことは定かではない。

] 新古今的なもの

実朝を取り巻いていた同時代的なものとして影響を受けたものがあるとするなら「千載集」または「新古今集」の詩的雰囲気であった。藤原俊成・定家の親子が、和歌の創造の修練と苦心の果てに作り出される意識の「景物」を「心」とするというところまで追い詰められていった過程は、ただ意識として和歌形式の伝統を引き継ぐ流れにあった。歌の家系として行き着いた虚仮の世界、幽玄の世界であろう。身も細るほど歌の家系の昇進を望んでいた定家に本当に艶な有心体があったとは思えない。俗っぽい「後拾遺集」から詩的規範のみの「新古今集」の和歌形式の表現は、もちろんこの詩形の崩壊への兆候でもあった。定家の「幽玄」、「麗体」、「有心」とかいう「もののあわれ」は古代中国、古代朝鮮的なものの変種にすぎなかった。その点実朝には不可解な荒っぽさがあるが関東武士団の感性があった。「ながめつつ思うもかなしかえる雁 行くらむかたの夕暮れの空」

総括 事実の思想

実朝にとって歌は最初は「玩具」だったかもしれない。実朝は鎌倉幕府の象徴的な頭領としての将軍職を背負わされた。政冶向きは北条家の専断するところで、祭祀権の所有者として毎日神事と仏事に立ち会った。「景物」に接するときだけが実朝の時間であった。その意味では実朝は不可避的に「後拾遺集」以後の歌人たらざるを得ない。実朝の「景物」はいやおうもなく「事実」を叙するというよりほかなく、けっして「もの」に寄せる「心」でも、「心」を叙する「景物」でもない。実朝の秀歌「もののふの矢並つくろふ籠手の上に 霰たばしる那須の篠原」この歌の「景物」は事実である。実朝の心は象徴より奥のほうへ退き、この独特な距離感が実朝の詩の思想であった。実朝には父頼朝依頼の宿老を全て北条によって滅ぼされ、実朝の心にはもはや何の希望もなくなった。実朝の乾いた心はそのまま冷えたようだ。北条家は源氏将軍家の力なしでも御家人を統御する実力を獲得した。そこで緊張の糸は切れた。実朝の最高傑作のひとつ「大海の磯もとどろによする波 われてくだけて裂けて散るかも」などは万葉調という人もいるが、吉本隆明氏はニヒリズムの歌と位置づける。


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