文藝散歩 

日本文学にみる死生観、倫理観、思想史


日本文学において宗教を超えて、死生の問題は大きな比重を占めてきた


日本文学の死生感は、宗教書や哲学論文という形ではなく、歌や神話の時代から避けて通れないテーマであった。「無」や「輪廻」や「あの世」や「成仏」という宗教上の観念では癒されない心の問題であった。死は最も宗教が得意とする分野であるように思われがちだが、禅の高僧が死に臨んで醜態を演じたという話はよく聞く。宗教上の理論や割り切り方ではすまないのが死である。まして今の仏教は葬式仏教で他人の死を商売としているに過ぎない。坊主に聞いても埒の明かない問題である。哲学的に論じれば、知や認識の崩壊という答えしか返ってこない。医学的に論じても最近は脳死という臓器移植に有利な死の定義で誤魔化すくらいだから信用できない。とすれば結局は死は個人の問題に帰結するのだろうか。なかなか答えの出てこない問題のような気もするが、文学として死を扱った本があるので紹介がてら死について考えてゆきたい。意識的に関係する本を集めれば膨大になるので、手短に手元にある本だけで始めてみよう。試みの最初に取り上げた本は以下の三冊である。
1) 村松剛著 「死の日本文学史」 中公文庫(1994年 単行本は新潮社1975年)
2) 折口信夫著 「死者の書」 中公文庫(1974年 「日本評論」1939年)
3) 林望著 「往生の物語ー平家物語」 集英社新書(2000年)


1) 村松剛著 「死の日本文学史」 

本書は村松剛氏が、1975年三島由紀夫の防衛庁占拠と腹きり自殺事件をうけてトロント大学の招きで「日本人の死生観」について行った講義が基になっている。西欧人にとって「切腹」という行為は「特攻隊」の行為とともに理解できないもので異様な受け止め方をされた。はたして村松氏の講義が理解されたかどうかは知らないが、日本人の死生観は異常だと見られた。現在ではイスラム教徒の聖戦(ジハード)思想による自爆テロが華々しい英雄行為としてイスラム教徒には理解され称賛されている。日本人も同じことを第二次世界大戦でやってきた。人間魚雷、特攻隊もその部類に入るので理解は簡単であるはずなのだが、現代の日本人はそのことも忘れて西欧人と同じように「自爆テロ」といって恐怖している。おかしな話だ。天皇を頂点とする擬制宗教国家体制で「天皇万歳」といって「喜んで」爆弾を抱えて敵艦に飛び込んだ。圧倒的に兵力不足・火器不足の日本が出来ることといえば爆弾を抱えて飛び込むことしかなかった。竹やりで敵機を落とすなんてお笑いごとだった。天皇制宗教で武装した日本兵と、イスラム教で武装したアラブ人と何処が異なるところがあろうか。

本書は「死の日本文学史」となっているが、私は「歌で綴る日本の死生観」という題名と理解する。やはり日本人は一番自分の気持ちを表現しやすいのは歌である。漢詩では細やかななよなよとした気持ちは表現できない。漢詩はアジ演説である。あのリズムとスピード感では日本人の優美な気持ちは表現できない。といいながら私は漢詩にはまって今も毎日下手な漢詩を作り続けているのであるが。本書は奈良時代の「万葉集」に記された人麻呂の「玉の再生」から始まり、「古今集」の大伴家持の「花の概念」、平安時代の「源氏物語」における「夢と魂」、「怨霊信仰」、平安末期の後拾遺和歌集の藤原俊成女の「夢の架け橋」、平家物語における「運命観」、鎌倉時代の「とわずがたり」にみる浄土信仰と現世の享楽、室町時代の「太平記」に見る「義」の概念と切腹の流行、室町後期の混沌と「浮世」、近世戦国時代のキリシタンと浄土信仰、江戸時代の近松門左衛門の「心中」と「男色」の文学、浄土信仰の世俗化、幕末の「水戸学」における尊皇攘夷と武士道、明治時代の神聖国家の成立と死生観といった年代順に十二の話題から構成されている。なかなか複雑な問題を含んでいる総合的な日本文化論でもあるので、ざっくり纏めることも出来ない。そこでひとつひとつ著者の言い分を追尾してゆくことにする。

万葉集:人麻呂の死と玉の再生

死という想念が、一般に文化とりわけ文学には色濃く引き継がれている。アンドレマルローは「それは、死から何ものかを奪い取ろうとする人間の行為である」と言っている。日本人は死について独特の想念を培ってきた。その想念のあとを辿ってみるというのが著者村松剛氏の本書のテーマである。最初の死生観の大きな変化は7世紀の後半から8世紀の天皇集権律令制の確立期である。丁度柿本人麻呂の生きた時代である。数多くの鎮魂歌を人麻呂は作っている。なかでもシェークピアーのハムレットのオフェリア的水死のイメージの歌が多い。人麻呂の死は708年前後と言われるのだが、火葬が最初に行われたのは続日本紀によれば700年である。7世後半より葬儀の簡略化が始まった。646年には薄葬令で、殯(もがり)を営むことは禁止され、陵墓の大きさも厳しく規定された。これは天皇制中央集権の確立が諸豪族の葬儀の規模を制限したのであるが、もがりの復活信仰の衰微を前提とした。人麻呂が仕えた持統天皇は最初に火葬された天皇であり、人麻呂は火葬を目撃した最初の世代になる。つまり人麻呂は火葬が仏教とともに流行する前の死生観で育てられた最後の世代である。人麻呂にはオフェリア的水死のイメージの歌が多い。これらの歌が暗示するのは海辺に死ぬ詩人の姿だろう。梅原猛氏はその「柿本人麻呂論」で人麻呂が流罪にあい水死したと言う説を提起した。梅原氏の説は文学的想念では正しいかの知れないが、事実問題ではありえない妄想である。自分の死にかたを生前に予測できるわけはない。水と玉とに再生のシンボルを見るのは古代日本にも一つの流れとして存在した。古代人には「みまかる」「ゆく」に代表されていたが、万葉集にも「しぬ」という言葉はないのである。しかし「もがり」が廃止され火葬が一般化されるにつれ、「みまかる」「ゆく」に替わって「死」が現実化する。死という漢字は人の残骨の形である。大伴家持の死のイメージは火葬の煙となって戻らない花になるのである。そして長歌という歌のスタイルも柿本人麻呂とともに生命を終える。

古今和歌集:大伴家持の花の理念の成立と無常観

ここにいう花とは桜とかなでしこと言う具体的な花ではなく、いわば無限定の花である。「花」が自立して行くのはやはり漢詩の影響が(懐風藻)大きい。9世紀以降奈良時代にには詩人にとって「花」は「うつり」「ちる」花としての色合いを強めてゆく。散る花のイメージは、日本では死の理念と強く結びついた。古来無数の辞世が死を散る花にたとえてきた。その花を鮮明に浮かび上がらせた最初の詩人が大伴家持であった。奈良朝の「古今集和歌集」から鎌倉時代の「新古今和歌集」までの八代勅撰和歌集の歴史はそのまま花の理念の展開過程であった。又「花」には「もろく、あだな、いつわり」と言った貶下的な意味合いも含まれる。脆さと美しさとの、この花の観念の二元性が時代とともに比率を異に変遷するのである。「古今集和歌集」は花を最大の主題とした歌集である。また春夏秋冬と言う四季に沿って卷を定め、そのことが勅撰二十一代集の構成の基本となった。古代人は多くの神とともに四季の移り変わりと五穀豊穣を歌い、古今和歌集は汎神論的世界を四季を軸として定着した。季語のような定型化も進んで花のイメージについて約束事が成立した。古今和歌集が指摘するもうひとつの問題は、仏教を媒体とする無常観の浸透であろう。無常観の深化は地獄のイメージの鮮明化と共にしている。奈良仏教は唯識論、華厳教などを中心とする形而上学で、一般の人には無縁の学問であった。平安時代には仏教は空海以来人間化した。人に仏性がなければ、生き身のままの成仏は不可能であり、その解脱の道を説くには難解な哲学よりは地獄や餓鬼道のイメージの助けが有効であった。

源氏物語:夢と怨霊、浄土信仰

無常を前提としてなお現世への愛着が強調されるのが平安朝文学の特徴である。「源氏物語」や「浜松中納言物語」に説かれる夢の世と夢路とが11世紀以降の物語、歌、日記に錯綜して現れる。はかなさを夢にたとえる定式は9世紀嵯峨天皇の「文華秀麗集」に始めて見える。人生が夢という考えは仏教では当たり前の認識であるが、これが一般化したのは浄土信仰によってである。源信の「往生要集」では現世は「穢土」で浄土のみが実在である。「厭離穢土、欣求浄土」がスローガンになった。源氏物語は浄土信仰の初期に書かれ、平安宮廷の文学は浄土信仰が地を蔽うまで、中空に咲いた幻花である。浄土信仰が確立すれば死の問題は全て仏教に帰することになる。源氏物語では藤壺の死、夕顔の死などは夢によって説明される。「源氏物語」「浜松中納言物語」「更級日記」「狭衣物語」など一時代の文学がこれほどまでに夢に依存したことは古今東西を問わず例がない。夢魂の文学や陰陽道の魂の浮遊は、古代信仰に陰陽5行理論が補強して怨霊信仰を生み出した。正に平安時代は貴族は夢に遊び、怨霊に恐れおののいた時代であった。今も京都では「御霊会」が修せられる。怨霊信仰の定着が仏教の深化と平衡関係にある。平安時代の天皇家は壬申の乱の天智系と天武系の皇胤の争いであった。その争い毎に敗れた怨霊亡霊に現天皇家と貴族が振り回されるのである。10世紀の宮廷は邪霊鬼霊と物忌とによって支配されていた。こういった穢れをはらうのが主として仏法の役目で、この頃の仏教はお払い宗教といってもよい。

後拾遺、千載和歌集:藤原俊成女 夢の浮橋

平安中世時代では政治だけでなく宗教、文学までもが小さな家族集団(藤原家)によってなされてきた。藤原俊成卿女は1241年藤原定家の没後越部庄に隠棲した。夢に浮かぶ浮き橋をめぐってイメージは変わってゆく。イメージの変遷のなかに王朝末期の精神史の軌跡が見える。藤原通俊撰「後拾遺和歌集」は1086年の編纂になる。人生無常なる世は致し方のないこととして「しかし」と繋いでゆく逆説の論理の和歌集は古今和歌集には見られない。「後拾遺和歌集」は釈教歌を勅撰和歌集としては初めて巻末の雑に置いた。日本の中世とは鎌倉時代からということになっているが、それは貴族即ち宮廷の没落と京都の衰微を特徴とする。9世紀には京都の人口は50万人以上だったが、13世紀始めには10万人まで衰頽した。戦乱と大飢饉によって都は荒廃した。藤原俊成の「古来風体抄」1201年、「千載和歌集」1188年、藤原通俊撰「後拾遺和歌集」1086年の期の歌は「歌が人の心を作る、はじめに歌ありきと言う逆様の発想となった。」歌はこしらえるものでと言う明確な古典主義意識が確立された。現世を夢としてしかし夢は捨てがたい「後拾遺和歌集」では夢とうつつがしばしば分ちがたいまでに錯綜した。「後拾遺和歌集」が「しかし」であるならば「千載和歌集」はいわば夢の自立性というところまで強化された。夢だからこそ夢の花を咲かせたいというところまでいってしまうのである。定家の秋の夕暮れのイメージは「後拾遺和歌集」からはじまり「千載和歌集」で定着する。「新古今和歌集」の幽玄は、あわれ妖艶とともに藤原俊成・定家の歌論の中心的位置を占める。和歌の美学(歌論)が完成を見た。定家は歌う。王朝が育てた花と夢とを上句で述べ、しかしそれを否定することによってこの中世の入り口に立つ詩人は静寂のイメージを導き出すのである。しかし姪の俊成女はなお夢の浮き橋をたどってゆくのである。

平家物語:運命観

「人生勝ち負けは運命」という理念は武士階級の勃興とともに、「将門記」「純友追討記」「陸奥話記」「欧州三年記」「保元物語」「平治物語」「平家物語」で頂点を迎える。平安宮廷に咲いた無常観の中での束の間の花の美学、夢の世に夢を見る世界であった。それに対して武士が作り出したのは運命の認識である。運命という言葉は占星術・易の運勢観から来るのだが、平安宮廷では陰陽五行の思想と結びついて怨霊や物忌み、方向となったが、軍記では同じ根から運命の観念を引き出した。「平家物語」では運命そのものを物語の中心に置いている。物語の緒に「祇園精舎の鐘の音 諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす。奢れる者久しからず ただ春の世の夢の如し・・・・」まるで仏教のお経のようだが、物語は線香には関係なくダイナミックに人の浮き沈みを描き出す。奈良・平安時代の300年間は死刑は原則としてなかったが、保元・平治の乱から殺戮が日常化した。「愚管抄」の説く運命は仏法の因果の理とかたく絡みあっている。自殺の方法として切腹が登場するのは「保元物語」からである。鎌倉期に定着したが、室町時代「太平記」では切腹が一般化した。軍記では死に際の美学として称賛された。「平家物語」は全体として雅な平家一族への鎮魂歌としての性格を持っている。運命の劇として終わるのである。鎌倉三代将軍実朝の生きた鎌倉政権内部は北条家の覇権把握過程で凄まじい陰謀と殺略の府であった。源氏の頼朝系統は悉く抹殺され、御家人衆も次々討伐された。

とわずがたり:浄土信仰と現世享楽

14世紀初頭に書かれた「とわずがたり」の作者は久我大納言雅忠の娘である。日本最初いや世界最初の近代的なエロチシズム小説である。14歳で後深草上皇の側室になって以来の男性遍歴を赤裸々に記した小説である。この頃の男性にとっては「男女のことは全盛の宿縁だから罪にはならない」と割り切って、多重婚(性関係)を繰り返したようだ。小説の筋など聞いても仕方ないから紹介はしない。「とわずがたり」の面白さは現世否定の浄土信仰と男女の欲望肯定とが奇妙な形で同居しているところだ。

太平記:楠正成の「義」、切腹の流行

義の理念が大きな意味を持つようになったのは「太平記」の時代からである。南宋から流入した新しい儒学「朱子学」が、鎌倉後期以降の武家に道徳的支柱を与えることになった。鎌倉時代中国から招かれた蘭渓和尚が建長寺を開山し、仏光禅師が円覚寺を開山した。そのほかにも12名の禅師が来日し、元による圧迫から日本へ逃れてきた南宋の知識人も多く、当時の中国情勢は鎌倉幕府は精通していたことだろう。又日本からの留学僧には栄西、道元、覚心、中厳などかなりの数にのぼる。南朝後醍醐朝では儒学は隆盛を極めた。「道理」と言う概念は鎌倉幕府の「御成敗式条」で中心的な判断基準をなし、その道理にかかわってさらに行動的な理念としての「義」が「太平記」の時代から現れるのである。仏教においても儒教を取り入れている。法然、親鸞、とくに日蓮は現世を常寂光土として肯定し、仏教の文脈のなかに現世哲学として儒教を組み込んだ。日蓮においては主従関係が来世まで継続すると説く。鎌倉幕府討伐から南北朝時代の室町時代を描く「太平記」には切腹の記述がことさら多い。切腹が武士の作法として定着するのは明らかに「太平記」の時代からである。能、茶、華道、俳諧など日本的なものが発生するのは正に室町時代であり、切腹の作法も同時代かと思うと面白い。無常の幻に似た人生になお花を夢見ようとしたのが平安朝の文人歌人達だった。行動する武家の手に渡って実践哲学に転化した。空しい世の中だからこそ、いさぎよい死花を咲かせたいというのであろうか。義とは美しい振る舞いと読むことが出来る。「太平記」は南朝側の立場に立っているから、後醍醐帝に尽した楠木一族の勲功を義として称賛するのである。

中世の秋:混沌と浮世

応仁の乱以降の室町後期の時代は、日本の史上空前ともいえる混沌と文化の輝きが異様に交錯する稀有な時代であった。社会面から見ると下克上と飢饉の世情であった。浮世と言う世俗的な理念の登場はこの時期にあたる。浮世の言葉は漂泊の歌人の作に点滅するのである。東山文化が終焉した15世紀中頃より連歌の宋祇が編んだ「新選つくば集」、「千載集」「金葉集」が現れる。「憂き」と「浮き」の両義的使用である。このように定めなき世として概念化された浮世に生活上の実感を託しているのが東山時代の漂泊の歌人であった。和歌は新古今、新勅撰あたりからマニュアル化(定型化)して連歌の成立自体が語法の定式化を前提とした。宋祇の連歌は、乱世に宮廷文化の伝統を守ることが関心事である所謂有心連歌(滑稽味を重んじるのが俳諧)である。宗長の編集と言われる「閑吟集」(1518年)には「一期は夢よ ただ狂へ」という、一休の作かとまがう歌がある。人生は夢という言葉は9世紀に見られる。夢幻の世と言う人生認識は浄土信仰とともに深化する。「厭離穢土、欣求浄土」というように西方浄土へ離脱する願いと、夢幻の世への執着とが矛盾するけれど同居するのが平安王朝文学の神髄であった。憂き世が浮世に変わった変極点が「閑吟集」あたりであろうとされる。もう絶対的な常なる浄土も考えない、世俗的な浮世が十五世紀を通じて拡散する。価値観が世俗化したことが中世の秋または近代の始まりだったのである。近代化への転換は不安定な世相とあいまって仏教側の腐敗堕落という世俗化を見逃すわけには行かない。一休禅師の「狂雲集」という平仄も定かならぬ漢詩文に当時の禅寺の腐敗が描かれている。蓮如が山科に本願寺をどう衛下のは1479年であった。浄土真宗の現世否定からその究極において煩悩を全的に肯定するという世俗化の傾斜となった。世俗勢力として一向宗は武装集団化し、戦国時代には自治も獲得したが、織田信長の武力の前に壊滅した。十六世紀の戦国時代に世俗的武装集団としての諸社寺にたいする対抗勢力としてキリスト教が利用された。

心中の美学:近松 心中と男色の流行 姦通と幽霊

男女の心中の始まりは1683年の「生玉心中」だったという。近松門左衛門が心中を浄瑠璃に劇化したのは1704年「曽根崎心中」である。1723年幕府は「心中禁止令」を出して、死亡者の葬儀を禁じ、未遂者は非人に落とすいう苛酷な令だった。江戸仮名草紙で心中賛美の風が江戸と上方で爆発的に起こったが、その背景には平安時代以来の恋愛小説の伝統が存在していた。おまけに男色心中も流行した。来世は同じ蓮の台に座りたいという願いは世俗化した浄土信仰である。西方浄土への信仰だけを残しての世俗化、脱宗教化は室町時代からの流れにあった。心中はもはや宗教心から来てはいない。流行の俗なる願いである。心中が流行する前に武家の間では殉死(切腹)が盛んに行われていた。これは戦国時代の名残である。そこで幕府は殉死禁止令を出し武家諸法度の別書として追加された。武士道の書「葉隠れ」では「忠も孝もいらず死に狂いのみが武士道だ」という秩序への反抗も出る始末で何が何だかよく分らない論理である。宮廷以来かな草紙へ続いてきた恋愛の文学は遂に元禄時代でおわる。心中、姦通などうるさいことばかりが多く、恋の自由は遊里のみになって遊里の世界へ沈着していった。江戸後期にはグロテスク演劇{東海道四谷怪談」ものが流行した。これは寛政・天保の改革への反動として幽霊や怪談など刺激的なもの、上田秋成「雨月物語」、「里美八犬伝」など魑魅魍魎・ナンセンスものも流行した。幽霊ものは決して仏教に関係するのではなく世俗的恐怖娯楽にすぎない。そして江戸末期には頽廃文化・文学へ傾斜したのである。

武士道と幕末のナショナリズム

豊臣秀吉がキリシタン禁令を出したが、貿易実益を求めて実質無効な令であったが、徳川時代になるとキリシタン禁止令は国の存続にかかわる重要問題として徹底された。最後の宗教戦争である「島原の乱」以後、1639年鎖国令と宗門改役の設置が出された。追加的に1718年には「類族追放令」も出され外来文化への激しい拒否反応となった。外国に国を脅かされると言う幕府の恐怖感がそうさせたのである。これが正しいか間違っていたか今も分らない。しかし1970年以降外国の船舶が通商を求めて日本沿岸に現れるようになった。この外威に対して朱子学の水戸学派は尊王攘夷運動を展開した。藤田幽谷は国体という言葉を始めて主張した。会澤正斎は「新論」で国体ナショナリズム思想を展開した。大前提は国としてのアイデンティティの確立であり会澤は「国の体」と呼んだ。山崎闇斎、熊沢蕃山、藤田東湖などの尊王攘夷論は神儒混交である。そしてこの水戸学派は日米和親条約に調印した大老井伊直弼の殺害(桜田門外の変)につながるのである。武士道のイデオログーには山鹿素行、吉田松陰、真木和泉守、高山彦九郎などがいる。ストイックな道徳を唱えた吉田松陰は長州藩士の精神的指導者で多くの志士を育てた。彼らの憂国の心情は南朝の「新葉和歌集」にみるように天皇を君として恋歌のスタイルに模擬された。来世を信ぜず従容として死を受け入れ、そして留魂を願う。そういう死の形が幕末において完成を見たのである。これも古い魂信仰である。

死と現代

賽の河原は出雲のみならず全国にある。彼岸会と並んで日本の生死観を現す日本独自の伝統的考えである。ところで柳田国男は日本の地蔵と道祖神はよく似ており、賽の河原信仰と道祖神は血縁関係にあるという。賽の河原が日本文学に現れるのは室町後期の「おとぎ草紙」である。地蔵信仰は文字通り地の神で仏教以前のインドの地方神だったようだ。全国津々浦々まで地蔵が立つようになったのは元禄の頃からで、参勤交代制に伴う道路網の整備が道祖神としての地蔵になったようだ。賽の河原信仰は仏教信仰とは違い、死者の霊がさ迷う「みたま」観につながる。江戸時代はどうみても仏教の世俗化が著しく進行した時代で、寺院は檀家制度に支えられ行政の末端の位置を占め、浄土真宗などの教団組織は巨大化した。仏教の世俗化、教義の衰退は、古来の土俗の生死観を呼び起こしたといえる。幽霊や天狗、狐狸などが跋扈した。ここで明治の死生観を語るまえに、日本人の倫理・文化思想史を再度振り返ろう。
・七世紀の飛鳥時代は巨大な古墳群に託された古代人の死後への思いは法隆寺などの寺院仏教へ変貌する時代であった。薄葬令と700年より火葬が始まった。
・奈良時代は大仏と国分寺と、文学的には大伴家持の花の理念の成立と無常観に代表される。無限定の花の概念が成立し、美しく咲いた花は平安時代へと流れゆくのである。
・平安時代は空海と最澄に始まって密教が怪しく花咲いた時代である。地獄のイメージが普及し浄土信仰と無常観と夢が貴族階級を捉えた。仏教の壮大な形而上学は大仏に象徴され、浄土は宇治平等院の夢の輝きに彩られるのである。無常の流れになお一輪の花を藤原平安貴族は夢に見て、宮廷美学が文学に結実するのであるが、背後から武士階級が実践哲学の中に運命観を創って活躍する時代へ移行する。
・鎌倉時代には浄土信仰は定着するのであるが、夢よりも輪郭の明瞭な人間像を求めた。朱子学と禅宗が武士の心を捉え、行動的な時代の要求に応じるのである。運命観は更に変化して倫理的な「義」が行動の原理として、美しい身の処し方として切腹のしきたりが流行する。
・室町時代の足利幕府の後期より、打ち続く戦乱の世相はもう絶対的な常なる浄土も考えない、世俗的な浮世が十五世紀を通じて拡散する。価値観が世俗化したことが中世の秋または近代の始まりだったのである。
・江戸時代に流行した草紙は平安時代の恋物語の流れにあるが、心中と言うファッションが流行した。西方浄土への信仰だけを残しての世俗化、脱宗教化は室町時代からの流れにあった。心中はもはや宗教心から来てはいない。流行の俗なる願いである。幕末には国体ナショナリズム思想である尊王攘夷運動でストイックな道徳を唱えた吉田松陰は長州藩士の精神的指導者で多くの志士を育てた。来世を信ぜず従容として死を受け入れ、そして留魂を願う。そういう死の形が幕末において完成を見たのである。これも古い魂信仰である。
そして明治維新は廃仏毀釈とキリシタン弾圧から始まった。キリシタン政策は明治6年に撤廃され、神祇省は廃止されて尊皇攘夷運動は終結する。富国強兵政策に転換して以来、洪水のような西欧文明の輸入が開始される。学校制度と徴兵制が発足した。民権運動や思想的混乱のあとに、1989年欽定憲法発布によって日本は擬似宗教的国家体制(神聖国家)という国体が形成されるのである。富国強兵政策は日清・日露戦争に勝利し不平等条約の改正に成功して一応の成功を見る。しかしここから日本の国体は正念場を迎え、特攻隊と言う神聖国家の死花を咲かせるのである。戦争において日本の再生を信じて潔く死に赴いた人の意志は疑わないが、これは宗教的殉教者を生んだ。「天皇陛下万歳」はアラブ戦争における自爆テロに相似する。神聖国家は敗戦とともに米軍によって破壊された。戦後は「民主化」「平和」「人道」「近代化」が世のスローガンになった。マルクス主義が流行したのもこの時期の特徴である。しかし変らないものが有る。日本人の死生観は死と生の間に明確な区別を設けないことに特徴があり、死ねば魂は近くの山に帰るのである。


2) 折口信夫著 「死者の書」 

著者折口信夫氏はいうまでもなく古代の民俗学的探求の泰斗である。本書は1939年(昭和14年)に刊行された古典といっていい書物である。「死者の書」というと、いかにもエジプト的な霊魂の神秘書かと思われそうな題名である。しかし折口氏の研究手法は「過去には過去の法則がある」ということである。大化の改新でなくなった天智天皇系近江朝貴族の皇子(大津皇子)が古墳の闇から復活して、百年後の奈良時代の藤原家の藤原郎女と交感するという幻想的な書き出しで始まり、藤原郎女は藕(ハス)糸布に山越え来迎図(阿弥陀図)の作成で答えるという筋書きである。小説の背景というか起因は日を拝む信仰に始まる「日想観往生」と「山越え阿弥陀来迎図」にある。 逆にいえば、小説はこれを謂わんが為の筋立てと解釈できないことはない。

折口信夫が本書に「山越しの阿弥陀像の画因」と題した小論を掲載している。そこに日本古来の思想というべきものの通奏低音を「渡来文化が、渡来当時の姿をさながら持ち伝えていると思われながら、何時しか内容は、我が国生得のものといり替わっている。そうした例の一つとして日本人の考えた山越し阿弥陀像の由来がある」という。この考え方は日本政治思想史学者の丸山真男氏の論点と同じである。丸山は入れ替わるとまでいっていないが、輸入外国文化の基調にいつしか古い日本的な思想が通奏低音のように流れ込むと表現している。基本的には同じような表現である。この小説の舞台は律令制中央集権国家の奈良時代であるが、飛鳥以前の日本古来の信仰が底流に流れているさまを小説仕立てにしてある。昔から日本人は死者の霊魂はいつまでも近くの山に漂っていると信じているそうだ。村松剛氏の「死の日本文学史」では「最初の死生観の大きな変化は7世紀の後半から8世紀の天皇集権律令制の確立期である。丁度柿本人麻呂の生きた時代である。数多くの鎮魂歌を人麻呂は作っている。人麻呂の死は708年前後と言われるのだが、火葬が最初に行われたのは続日本紀によれば700年である。7世後半より葬儀の簡略化が始まった。646年には薄葬令で、殯(もがり)を営むことは禁止され、陵墓の大きさも厳しく規定された。これは天皇制中央集権の確立が諸豪族の葬儀の規模を制限したのであるが、もがりの復活信仰の衰微を前提とした。古代人には「みまかる」「ゆく」に代表されていたが、万葉集にも「死ぬ」という言葉はないのである。しかし「もがり」が廃止され火葬が一般化されるにつれ、「みまかる」「ゆく」に替わって「死」が現実化する。死という漢字は人の残骨の形である。大伴家持の死のイメージは火葬の煙となって戻らない花になるのである。そして長歌という歌のスタイルも柿本人麻呂とともに生命を終える。」という。つまり古代人は復活信仰をもっていた。仏教の伝来とともに律令制の儒教合理主義により死者は行き場を失い、焼かれてしまうのである。これでは復活は出来ない。大伴家持の奈良時代には仏教を媒体とする無常観が浸透した。無常観の深化は地獄のイメージの鮮明化と共にしている。奈良仏教は唯識論、華厳教などを中心とする形而上学が流行し天皇家や藤原貴族は深く仏教に帰依した。浄土への願いが浸透するのは平安時代である。源信の「往生要集」では現世は「穢土」で浄土のみが実在である。「厭離穢土、欣求浄土」がスローガンになった。源氏物語は浄土信仰の初期に書かれ、平安宮廷の文学は浄土信仰が地を蔽うまで、中空に咲いた幻花である。浄土信仰が確立すれば死の問題は全て仏教に帰することになる。この「死者の書」に書かれた奈良時代に藤原南家の郎女が大津皇子の面影を「山越し来迎図」に固定したというのは、多少時代考証的にはおかしな話となっている。阿弥陀来迎図は浄土信仰が定着する平安時代のことで、大伴家持の奈良時代のことではない。といったさかしらなことは言わないでおこう。著者は言う「歴史に若干関係あるようにみえようが、いわば近代小説である。しかし、舞台を歴史にとっただけの近代小説というのでもない。近代観に映じたある時期の古代生活といってもいいものだろう」。この小説で論じられている古代人の信仰テーマには、「死者のもがり復活信仰」と女の「やまごもり」「野遊び」「女の旅」とか「日祀り」「社日参り」「日の伴」といった太陽信仰が基調となり、それらが小説で綾なされて「日想観」「彼岸中日の日祀り」「四天王寺の極楽東門信仰」「西の海への入水死」が「山越え阿弥陀像」に結実していったのだろう。阿弥陀三尊図の下部を西方の山の図で覆っただけの話である。これは日本人でなければできない阿弥陀像の改変だそうだ。

以上が本小説の思想的(日本人の深層心理)背景である。最初から舞台裏をばらしたのでは小説を読む人の楽しみを奪う行為となる。多少は小説の筋を追ってみることで勘弁してください。第一節では壬申の乱で謀反の罪で殺害され二上山の墓に埋められた天智天皇の大津皇子が復活するという恐ろしく幻想的な出だしである。第二節ではめざめた死者が魂呼ばいの修験者の声に和する超現実的な力を我々は体験する。第三節では藤原郎女が万法蔵院(古山田寺)にはいり結界を侵す。第四・五節では大津皇子がいわれの池で殺害されるときにチラッと見た耳面刀自の数代あとの娘が藤原郎女にあたるという因縁がのべられる。復活した皇子が郎女に交感するのである。第六節には藤原南家の主仲麻呂(郎女の父)が政変で大宰府に追いやられ、今は難波に戻っていることのいきさつが述べられる。第七節では藤原郎女の失踪事件(万法蔵院へ)が発生し「春の野遊び」か神隠しかと都では大騒ぎ。第八・九節で大伴家持と藤原家の実権を掌握した恵美押勝がのどかな奈良の都の時代風景を語る。第十節では藤原郎女の貴族としての教育と妻どいの風習について語られる。第十一・十二・十三節では藤原郎女の称讃浄土佛摂受経千部写j経の願が成就し家を出る話である。第十四節では恵美押勝の栄華が語られる。第十五・十六節では藤原郎女の万法蔵院での忌期間の滞在は長引き、季節は春から初夏へそして彼岸へ移ってゆく。第十七・十八・十九・二十節では大津皇子が藤原郎女に現れ、その俤を慕って藤原郎女は藕(ハス)糸布を織って彩色して山越え阿弥陀像を描くという筋立てになっている。


3) 林望著 「往生の物語ー平家物語」

平家物語の序を読むと仏教書かと間違う。なんせ平家物語の作者としては仁和寺の僧が少なくとも四名関係しているのでそんな調子になったのであろうか。「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 生者必衰の理をあらわす 奢れる者久しからず 唯春の夜の夢の如し・・・・・・・・・」名文ではあるが線香くさい。しかし平家物語は皮肉な物語である。平家の頂点とその歴史的意義を語らず、天皇貴族階級の目から皮肉に平家滅亡の因果応報のみを説くのである。だから、いわれるようにこれは平家滅亡の物語なのであるが、平家の一門とその周囲の人々の「死に様」の物語である。ずべてが死に収束してゆく所こそ「平家物語」という作品の到達点であり、死の文学(タナトスの文学)と言われる所以である。 村松剛著 「死の日本文学史」においても次のように要約している。「人生勝ち負けは運命」という理念は武士階級の勃興とともに、「将門記」「純友追討記」「陸奥話記」「欧州三年記」「保元物語」「平治物語」「平家物語」で頂点を迎える。平安宮廷に咲いた無常観の中での束の間の花の美学、夢の世に夢を見る世界であった。それに対して武士が作り出したのは運命の認識である。運命という言葉は占星術・易の運勢観から来るのだが、平安宮廷では陰陽五行の思想と結びついて怨霊や物忌み、方向となったが、軍記では同じ根から運命の観念を引き出した。「平家物語」では運命そのものを物語の中心に置いている。自殺の方法として切腹が登場するのは「保元物語」からである。鎌倉期に定着したが、室町時代「太平記」では切腹が一般化した。軍記では死に際の美学として称賛された。「平家物語」は全体として雅な平家一族への鎮魂歌としての性格を持っている。

本書は一人ひとりの平家の主人公の死を眺めてみると、その死は驚くほど多様でそれぞれの個性とともに描き分けられている。つまり皆とりどりに個性的に死ぬのである。死を前にすると人間は弱いものだとこの物語の作者は教える。人は簡単には死ねない。死ぬ時の苦悩は煩悩の表現であり、しかしその煩悩あればこそその人間らしさではないか。底深い諦念や骨の太いヒューマニズムが横溢しているのである。

私も何度「平家物語」を読んだことだろう。独特の和漢混淆体文章のリズムに酔いしれながら、声を出して朗誦するのである。ああなんて美しい文章なのだろうか。森鴎外も足元にも及ばない。本書は十一人の往生を描いてみせる。簡単に振り返ってみよう。

1、平清盛の往生

平家物語は清盛の悪に対して、息子重盛の善がいさめて辛うじて一門を支えるという筋書きである。保元・平治の乱で一挙に実権を掌握した清盛は、娘徳子を高倉天皇の后に入れ安徳天皇が生まれて、高倉天皇を若くして退位させ、幼帝安徳を擁した清盛が朝廷を支配するに到るのが清盛の絶頂期である。鹿ケ谷の変で僧俊寛、康頼、成親、成経らを鬼が島へ流刑した。1180年福原に遷都し、頼朝が挙兵し義仲が京都に攻めあがる段になって、清盛は平家の罪を背負って熱病で「あっち死に」する。その死の壮絶さに切実感がない。むしろ滑稽感しか残さないのは作者の腕にあろうか。

2、平重盛の往生

物語の作者達は悪の報いとしての苦しい死を清盛に与え、善の応報として理想的な死を清盛の長安重盛に与えた。平家の罪業を一身にうけて死を願った重盛には、老苦もなく、病苦もなく、死苦もないという理想的な君子の死が与えられた。あまりに理想的な人間像のため、いまひとつ魅力に欠けた描写になっていて見るところがない。

3、平宗盛の往生

清盛の次男宗森は馬鹿殿として描かれている。政治家としても武人としても全く取るに足りない愚物とであったというのが人物像である。平家の運命は彼とともに西国を漂流するのである。平家最後の壇ノ浦の戦いにおいて入水せずにむざむざと生け捕りになった。源の義経に助命を願うが、義経自身が兄頼朝からにらまれている中でついに打ち首となる。宗盛は弱将であったが家族に対する恩愛の情にあふれ、優しい人柄の宗盛がみえてくる。そうやすやすと死の「覚悟などできないのが普通の人間の姿である。見苦しく、しかし最後には憑き物が落ちたかのように死を受け入れる、そういうのがなんたって人間らしい。

4、能登守教教の往生

平家物語後半の平家のスーパースターが教教である。水島の合戦では勝利を収め、源氏側では木曽義仲を義経が討伐するように内紛が起きた。そこに乗じて平家は再び福原に進出した。しかし之は逆に平家にとって災難を招いた。義経の鵯越えの奇襲により平家は大敗した。檀の浦の戦いでは教教は敵の将義経を求めて舟をとび乗るが義経に逃げられももはやこれまでと、敵の二人を脇に抱えて海に飛び込んだ。非力な平家の武将に中で教教だけが潔く、強く、立派でその活躍で胸のつかえを下ろす「救い」になっている。わくわくするようなテンポで活躍するのである。

5、平知盛の往生

知盛は平家の運命を達観して甘受し、最善を尽すべきだと、虚無と責任感のないまぜになった決意を示すのである。名前の通り哲人肌の武将として描かれている。壇ノ浦の戦いで二位尼が安徳天皇を抱いて入水すると知盛は「見るべきほどのことは見つ、いまは自害せん」と、阿弥陀仏の念仏も唱えず、すべては覚悟の上従容として海に飛び込んだ。この剛毅な精神が称賛されている。

6、薩摩守忠度の往生

風流貴公子忠度は戦場という殺伐とした場面の中で、勅撰和歌集に自分の歌一首でも入れてくれと、京に取って返して藤原俊成に一巻を託したということで、平家物語は類なき「ものあわれ」即ち文学としての余韻と奥行きを持ちえたのであった。忠度は一の谷の合戦で討たれた。

7、平維盛の往生

清盛直系の孫に当る維盛は美男並びなき貴公子であった。忠度が風流才子でありながら熊野育ちの大力の武者であったのと比べると、全くの公家さんでからっきしの戦知らずであった。美男の維盛は富士川の闘いでは鳥の声に驚いて逃げ出す始末。倶利伽羅落しの奇襲ではさんざんに蹴散らされ逃げ帰った。妻子を京都に残して西国へ落ちるが、病気なのか一の谷の戦闘には参加せず、熊野にはいって滝口入道にすがるのである。滝口入道は往生を諭して維盛は入水した。維盛の死はひたすら家族との別れの悲しさとの戦いであった。平家物語のなかの維盛は、これほどに正直で人情溢れる弱い人間として描かれる。哀れといってこれほど哀れな死に方はない。

8、平重衡の往生

清盛の五男平重衡は天性のユーモリスト、色好みであった。維盛が容姿の美しさで女房達の人気を独占してきたとすれば、重衡はその人柄の明るさとめでたさで人望があった。しかしながら将として三井寺炎上や奈良炎上では法敵の汚名を受け、義経の鵯越えの奇襲で盛俊、忠度、敦盛は討たれたが、重衡だけは生け捕りにされるという情ない目に会った。頼朝の前では毅然たる態度で論破し、結局奈良の宗徒によって打ち首となった。その途中、重衡はあちこちの女性の情けをうけたことを物語りは語るのである。この条は伊勢物語や源氏物語にも通じる色好み文学の系譜につながる。色好みといってもけっして不実の人ではない。愛情豊かな、深く広い愛情を物語は描くのである。平重盛を死への希求タナトスの権化とすれば、平重衡は生への希求すなわちエロスの使徒であった。

9、建礼門院の往生

平家物語は男の物語であるが、女では祇王、祇女、仏御前、静御前、巴御前といった芸能遊女、小宰相の局、などが目立つ。壇ノ浦合戦で安徳天皇は西海に沈んだが、その母建礼門院は生け捕られ京都吉田山の破れ屋から大原寂光院に隠棲した。灌頂の巻には後白河法皇の大原行幸がある。静かなありがたい往生を迎えた。

10、木曽義仲の往生

源頼朝の謀反に刺戟を受けた木曽義仲は兼遠の薦めにより平家打倒の烽火を上げ、すでに平家は福原へ退いて空白の京都に攻め入った。「朝陽将軍」と院宣を受けたが、既に鎌倉の頼朝は「征夷大将軍」の院宣を受けていた。頼朝の猜疑を受け、京都での振る舞いが粗暴で天下取りの野望があったため公家から嫌われた義仲に追討の院宣が下った。義経が追討の将となって攻め入り、滋賀の濱で落ちていた今井四郎と合流し二騎となって討たれた。義仲という人の平家物語のなかでの描かれ方は、決して悪人ではなく、純粋な男、気の毒な男として描かれている。最後に巴午前を逃がして、幼友達今井四郎を求めてさ迷うところは涙を誘う。この平家物語では一番の悪役は鎌倉征夷大将軍源頼朝であった。役目を終わっていびり殺された義仲、義経は可哀そうという感情が支配する。

11、六代御前の往生

最も気の毒な死は維盛の子息六代御前であろう。平家一門が滅んで後、都には北条時政が六万の兵を率いて義経追討のために侵攻して来た。そして義経に逃げられた時政は平家の残党狩りに精を出した。大覚寺あたりに隠れていた六代御前はあえなく?まり、鎌倉へ送られることになった。そこで高尾の文覚上人に頼朝に命乞いを頼み成功した。助かった六代御前は高野山にもうで、高尾にて三位禅師となって仏門に入った。ところが頼朝が死に、文覚上人が謀反したので北条は六代御前を捕まえて処刑したのである。「それよりしてこそ平家の子孫はながくたえにけれ」の一文を以って幕を閉じる。


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