文藝散歩 

漢詩文と日本の文藝


平家物語や森鴎外の和漢混淆文の美しい文とリズムは、日本語と漢字のおりなす歴史の産物である。


日本書紀に拠れば6世紀朝鮮の百済を経て日本に漢字が伝来するまでは、日本には言葉を表現する文字は存在しなかった。これは日本のみでなく朝鮮、ベトナムなど中国周辺民族に共通の状況であった。しかし日本人は最初は万葉集に見るように漢音のみで日本語を表現していたが、遂に返り点と送り仮名の発明によって、漢文や漢詩を日本語で読むことに成功した。これは天才的な文法能力ではないだろうか。これによって漢文を我言葉とした日本人は聖徳太子に至って漢文で国書を随帝国皇帝に送ることが出来るまでに成長した。(無論文章博士などという漢文を専門とする渡来人が代筆したであろうが)そして漢文によって仏教の導入や律令国家の制定などまさに中国文明を直輸入できるという実利を生んだのである。漢詩文は日本の支配階級に必須の教養であり武器となった。奈良平安時代の天皇公家時代から鎌倉室町の武士政権時代、江戸幕府の近世封建時代に各々の漢詩文文化の担い手は公家貴族、禅僧、儒家と移っていったが、いやおうなくに日本文化は漢詩文文化と綾織りなすごとく形成されていったのである。いまさら日本文化から漢詩文(中国文明)を切り離すことは不可能である。このように連綿として続いた漢詩文文化も、西洋文化第一主義を唱える新政府主導の下に、明治大正時代にようやく廃れ始め、平家物語や森鴎外の和漢混淆文のリズムで文章を書ける人はいなくなった。

私も高校時代から漢詩文のリズムと志の高さに魅せられて今日に至っており、今でも下手な七言絶句の漢詩習作を続けている。漢詩の語彙の豊富さは日本の季語の類ではなく、亦文法の確かさは3000年を経て変化はない。いつまでも親しめる文学である。
今回、外国語としての漢詩文ではなく日本文学として漢詩文を捉える二冊の本を読んだ。
1:高橋睦朗著 「漢詩百首ー日本語を豊かに」 中公新書(2007年3月)
2:加藤徹著 「漢文の素養ー誰が日本文化を作ったのか」 光文社新書(2006年2月)
漢詩文と日本文化を考える良い教材であるので紹介したい。


高橋睦朗著 「漢詩百首ー日本語を豊かに」

高橋睦朗氏は詩人だそうであるが、私は何一つ読んだことはない。そんな事はどうでもいい。とにかく漢語の来歴は古く、大和言葉と分かちがたく日本語の血肉となっているという。第二次世界大戦に破れ、国土が空襲で焼け野原になって茫然自失していた日本人に杜甫の漢詩「春望」が我々を励まし復興に駆り立てたそうだ。「国破れて山河在り 城春にして草木深し 時に感じては花にも涙を濺ぎ 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす・・・・・・・」という歌である。(芭蕉の句「行く春や 鳥啼き魚の 目に涙」はこの漢詩のパロディ、本歌取りである)これはまさに日本の歌になっていたのだ。日本語の情緒的なやわらかな曖昧な表現に、漢詩のリズムは緊張感と志の高さを与えた。こうしてみれば現在我々が使っている日本語は、固有の大和言葉に漢語が加わり、千数百年の歴史の中で渾然一体に融合して血となり肉となって出来上がった、世界でも珍しい美しく豊かな言語である。誇るべき言語である。安部首相が言う「美しい日本」という政治的スローガンが右傾化でなく、この美しい日本語に限定しての表現であることを祈る。

本題に入る前に漢詩の歴史を振り返っておこう。大きく漢詩を二つに分類すると
古体詩
唐以前に製作された詩や絶句・律詩の規則に従わない詩
近体詩
唐以降に作られた作詩法(押韻・平仄)に則って、絶句・律詩・排律の規則に従う。漢詩とは漢の時代の詩という意味ではなく、むしろ時代的には唐の時代に完成した詩の形式を意味するのである。漢とは中国という意味である。


漢詩の成り立ちを時代区分で4つに区別し、特徴と代表的な詩人を記す。
詩経・楚辞の時代
「詩経」は周の時代(紀元前10世紀から6〜7世紀まで)の歌を孔子が編纂したと言われる。「曰く思い邪なし」風(国風)、雅(宮廷雅楽詩)、頌(先祖を祭る歌)の3つに分類される。全て無名の作品(伝承)である。分かりやすい「詩経」の本として海音寺潮五郎氏(中公文庫 1989年)の訳文がある。紀元前4世紀の戦国時代南方の楚の国に一人の詩人が現れた。屈原である。「楚辞」は楚の国の詩である。三言プラス休止形の「兮」プラス三言を一句とする典型的な形を持つ。屈原の詩「離騒」から末尾に「兮」を持つ詩体を「騒体」と呼ぶ。
漢・魏・普・南北朝の時代
紀元前2世紀から紀元6世紀ごろの中国は漢で統一王朝が出来たがすぐに分裂した。後漢の時代から魏の時代には「建安の七子」が気骨ある詩風を謳った。西普から南北朝にかけて国は破れ動乱が絶えず、無為・自然を尊ぶ老荘思想の影響のもとに「竹林の七賢」が清涼な詩が主流となった。この時代の代表的な詩人には項羽、高祖、曹操、陶淵明、謝霊運、斛律金がいる。日本人に一番親しまれているのは田園の詩人と言われる陶淵明であろう。
初唐・盛唐の時代
謳われる内容に深みが増すと同時に詩形の主流は五言詩(絶句・律詩)の近体詩が成立した。中国古典詩は芸術性にあふれる名詩が輩出した。7世紀初唐の時代には陳子昂、宋子問、王渤などが自由闊達な「風骨」が流行した。8世紀盛唐期に入ると詩の形式はさらに整えられ対句の決まりも確立され、強烈な美意識で深い思想を謳うようになった。この時期の代表的詩人には李白、杜甫、王維、王昌齢、孟浩然、王翰、高適、などの優れた詩人が澎湃し、まさに百花繚乱の時期を迎えた。
中唐・晩唐の時代
盛唐時代の安史の乱の終結から9世紀中頃までが中唐期、9世紀末までが晩唐期である。代の乱れを反映し杜甫の詩風を継承しながら政治批判や世相風刺の詩などが多い。代表的詩人には白居易、韓愈、銭起などの「唐宋八大家」、「大暦の十才子」が有名である。晩唐では杜朴、李商隠等の詩人が挙げられる。

本書は著者が、60人の中国の詩人の漢詩代表作と40名の日本人の漢詩代表作を2年以上にわたって「静岡新聞」に連載されたものの再録と、巻末に対談「漢詩は日本語の財産」と北京大学での講演「漢詩への感謝」からなる。日中の漢詩百首の紹介は紙上の制約から白文を掲載せず、ルビ付き読み下し文とユニークな読み方をした翻訳文があって大変興味深いものになっている。漢詩作者の生涯と歴史背景が簡単に述べられ、余裕があればさらに一つ二つの漢詩を紹介している。一人の詩人に2頁の紙面を当て合計200ページの漢詩百首を紹介する企てである。時代的に平均化して詩人を紹介しているため唐以降では返ってなじみの薄い詩人の紹介になる嫌いがある。とくに日本人の漢詩作者の場合取り上げるほどの作者でもなかろうと思われる人もある。無理やり40首を日本人に振ったためだが、これは著者の考えだから如何ともいえない。私は漢詩の紹介ならむしろ次の書物を推薦したい。
1:山口直樹 「図説 漢詩の世界」 河出書房新社
2:松枝茂夫 「中国名詩選」上・中・下 岩波文庫
漢詩百首については上の参考書物を紹介することで、この本で取り上げた名詩以外にも多くの作品を味わっていただきたいと思い、特にその内容についてはコメントしない。むしろ付録のような巻末の二つの章から、なかなか味のある文章をとりあげたい。

中国の詩人には2種類のタイプがある。政冶官僚向けの「孔子型」と、世に背を向ける「老荘型」である。そもそも漢詩は科挙制度において重要視され政治家官僚は漢詩が必須の教養となった。力強さと志の高さはここから生まれた。いっぽう中国には伝統的に道教(仙人や不老長寿ご利益宗教)や無を尊ぶ老子・荘子の思想や仏教が根強い。ここに政治に破れて敗残の身になった人々が世に背を向ける「老荘型」の詩を読んだのであろう。一人の詩人においても置かれた局面によってはどちらかの詩のタイプをとるのである。そして政治的敗残者は殆どの場合、死刑や流刑は左遷に遭う為、悲惨な運命に終わる詩人は中国では格別に多い。詩人に選ばれるということは見方を変えれば不幸に選ばれるということでもある。日本の漢詩模倣習作時代に作られた「懐風藻」は総じてつまらない詩集であるが、悲惨な運命に襲われた大津皇子の詩には詩魂がある。中国で生まれた漢詩が日本で血肉化するには数百年の年月を必要とした。大伴旅人や山上憶良に見るように、情緒のみでなく老いや死や苦を語ろうとするには和歌よりも漢詩のほうがふさわしい。日本人の情緒性は和歌の恋愛詩に顕著に見られるが、漢詩には恋愛詩は存在しない。日本語はやさしい思いを述べるにはふさわしい言語だが、漢語によって強さを学び、抽象的思考を身につけた。平安時代には藤原公任が編んだ「和漢朗詠集」という詩集があるが、これは教科書的な詩集で後の謡曲や書道の手本として利用されたに過ぎない。また日本人には白楽天のような能天気な花鳥風月の詩は受け入れやすかったが、李賀の詩のような激しい異質な詩はあまり取り入れなれなかった。

日本に漢字文字が伝わって、日本の言葉が記録できるようになったし、文字で考え表現できるようになったことは当時の革命的進歩であった。やがて漢字を元に日本の文字、仮名を作りだし日本語独自の表現が可能になったことの重大性はいくら強調しても足りない。このような文字文明を生み出したのは世界でも日本だけである。他国の文字を使って自国の言葉の体系を作ったことは、万葉集では音だけ漢字を採用し日本語を表記したことや、カタカナ文字で名詞だけの外国語を表すことに比べて異質の言語構造である。日本固有の詩歌は「歌」でしたが、世阿弥、芭蕉、蕪村、明治維新後の新体詩運動、文語調の森鴎外の訳詩集「於母影」、萩原朔太郎らの近代口語詩にいたる流れには、日本語のもつ粘着質的な歯切れの悪さと抑揚リズムのないゆるやかに上下するメロディーでは制約が多く、多様な表現特に強さ、苦しさなど人生を歌うにはやはり漢詩の言葉の連結が必要であった。長歌をのぞいて短歌、連歌、俳句にある、五語、七語のリズム(これも細かく分ければ二語、三語の組み合わせ)そして、四行詩、八行詩(絶句、律詩)といった定型感覚もやはり漢詩からの影響ではないだろうか。


加藤徹著 「漢文の素養ー誰が日本文化を作ったのか」

著者は開口一番「かって漢字は東洋のエスペラントであった。」という。加藤徹氏は広島大学の総合科学部(?)の中国学者である。氏の説を敷衍すると、圧倒的な文明と文字を持たない周辺民族にとって、たしかに漢字は有無を言わさない文明の利器であった。文字が発音の変化を直接的に受ける西洋語にはない、漢字の構造は語彙や文法が安定しているため数千年を経ても漢文に変化はない。昔の文は古典となって残る。しかるに西洋語には文字の変化は即外国語となって派生する。イギリス語、フランス語、イタリア語、スペイン語などなど方言程度の違いが言語としては固定されるのである。しかるに数千年前の漢文も今の漢文も語彙に変化はあっても構造は変わらないから読めるのである。こんな言語は漢語のみである。日本語も文法は変化しないが柔軟な言語である。漢字、西洋語も自由に取り入れてしまう。東洋周辺国の言語はしばしば三重構造をとるという。支配層とそれを支える上流知識人層は純正中国語という高位言語を使用し、中流実務者階層は口語風に崩した変体文語を使用し、下層階級は文字の読み書きが出来ないので専ら現地語(話し言葉)を使用する。例えば江戸時代では上流知識人階級である公家や寺社、学者は純正漢文の読み書きができたが、中流実務者である武家や上流町民百姓は「候文」という変体漢文を使用し、下層町民や水のみ百姓は無筆といって読み書きは不自由であった。国書、学術書は純正漢文で、公文書は書簡は変体漢文「候文」で書かれた。純正漢文を使いこなす上流知識人層を「士大夫階級」という。近代国家は、国民、国語、国軍という統一された要素からなる国体である。西欧ではフランス革命から、日本では明治維新から、中国では辛亥革命から近代国家として統一された国民言語を形成した。日本では中流実務者階級(武士、商人など)が江戸時代から漢文の素養を身につけ、官僚機構(勘定奉行、寺社奉行、軍事奉行などなどの分化が進んでいた)と教育(藩校や寺子屋読み書きそろばん)が行き渡り、西洋の文物制度を容易に理解できる素地が形成されていたことが、明治維新の近代化にいち早く成功した要因であるとよく言われる由縁である。

日本の漢字文化はユニークな特徴を持っている。
・漢字を外国語とは見なさない。文法は日本語であるが、自由に語彙として日本語に取り入れる。
・漢字に音読み(呉音、漢音)と訓読み(和語との対応)がある。
・漢字をもとに、いち早く仮名文字(送りかな)を発明し、カタカナ、ひらかなという民族固有の文字を創造した。これで万葉集のような音のみの当て字から脱した。
・明治以来、意味の合成から新漢語(術語、二字熟語)を創造して法律用語、哲学用語、科学用語を作った。これが国家の形成の利器となって近代化に成功した。この成果が革命後の中国の近代化に逆輸入されるという貢献をなした。(現代中国の学術用語の6-7割は日本製漢字である)

日本漢文の誕生まで

以上で漢字と日本語の関係と日本語の特徴を総論として概観したが、いますこし日本語の形成に漢文が果たした役割と意義について歴史的に振り返ってみよう。確かに日本民族(その定義や由来もあやふやだが、北方アイヌや南方ポリネシア系熊襲を日本原住民とすれば文字は持たなかった、しかし政変や侵略の度に日本列島へ移住した漢民族や朝鮮民族がしだいに日本支配域・越の国・出雲の国・吉備の国・大和の国・倭の国などを征服拡大したのであれば彼らは文字を持っていた。すると日本語とはなんぞやとなる。そうではなく漢民族や朝鮮民族が侵入する前から、ある程度の総称日本民族・ヤマト民族は存在していて固有の言語を持っていたとするのが本書の見解である)は文字を持たなかった。弥生時代の開始も従来の紀元前500年より古く、北九州で稲作農業が始まったのは紀元前1000年であったとする考古学根拠があるらしい。遅くとも紀元前1世紀ごろから漢字に接していた(中国朝鮮との交流があった)ヤマト民族がようやく6世紀ごろになってようやく漢字漢文を使うようになった。実に文字文化が日本に定着するのに500年以上かかっている。当時のヤマト民族の語彙は極めて貧弱で、色彩感覚に乏しくモノクロの世界にいたようで、また時間や数字といった抽象概念も殆ど持ち合わせていなかった。アフリカ原住民のような「1,2,多い」というくらいの大雑把な感覚だったそうだ。しかるに中国では1万年前に集約農業が生まれ、紀元前3000年前に都市文明が始まったとされ、紀元前2000年前には金属器を使用する古代王朝の誕生(夏王朝や長江文明)、紀元前1500年前には殷王朝が成立し同時に亀甲文字が出来た。紀元前1000年前後には周王朝がはじまり中国は鉄器を武器とし文字による記録と官僚制度を持つ歴史時代へ移行した。

日本最古の漢字が見えるのは佐賀県の吉野ヶ里遺跡(紀元前1世紀後半、中国では前漢の時代)の甕棺にあった連弧文鏡に書かれた文字である。これは小国の有力者の墓なので恐らく輸入品の副葬品としての鏡であろう。日本人がこの漢文が読めたかどうかは分らない。西暦57年には倭の奴国が五感御光武帝から貰ったとされる金印「漢委奴国王」の金印文字がある。これも中国へ朝貢した九州の部族王が貰ったものではたして読めたかどうか不明だ。これが他の部族に対して権威付けにはなったようだ。「三国史」の「魏志倭人伝」によると238年に邪馬台国の女王卑弥呼が使いを魏に派遣した。そしてその返使が派遣されたが使いが描くところのヤマトの国々は小部族に過ぎず、魏書にはヤマトの地名・人名には卑字で表記されている。邪馬台国の女王卑弥呼は漢字を読めなかっただろうと想定される。しかし四世紀ごろ日本列島をある程度征服した大和政権は、なんと414年に立てられた碑「広開土王碑」に朝鮮に出兵したことが刻まれている。391年に上陸した倭の軍隊は百済や新羅を征服し高句麗の奥深くまで侵攻した。これは日本書紀に記された神功皇后の「三韓征伐」に符合する。石神神社の「七支刀」に刻まれた文字より百済から「七支刀」が贈られたことが見える。当時の百済は大和政権と親密な関係にあった。古事記によると応神天皇のとき百済の「王仁」(わに)が「論語」と「千字文」を贈ったと記されている。5世紀初めに日本に漢字が伝えられた記述である。当時の大和朝廷では漢字を理解したり文書を書く人は存在せず、帰化人(渡来人)が「文首」(ふみのおびと)という漢字専門集団を作った。史部(ふひとべ)となって政権に協力した。埼玉県行田市古墳から出土した「稲荷山古墳出土鉄剣銘」にはすでにかんじを訓読みした表記法が見られ「和化漢字」の萌芽が推測される。ところが中国の史書「宋書」の倭国伝に「倭王武の上奏文」がある。421年から478年まで10回も宋に朝貢した「倭の五王」の時代である。この上奏文は四六駢儷体という美文調の正調漢文である。これはおそらく渡来人史部が作成したものであろう。外国(中国や朝鮮国)との外交・政治や戦争には正調漢字が用いられた。日本漢字の夜明けは推古天皇の飛鳥時代を待たなければならない。推古天皇の摂政「聖徳太子」は冠位一二階や17条の憲法を制定して中央集権政治を志したが、旧勢力豪族を打ち破るために蘇我氏を後ろ盾に仏教を強硬導入た。600年聖徳太子は隋書によると国書を送った。そして607年、608年に小野妹子を大使として派遣し関係修復に努めたが文書が不遜だとして隋の皇帝を何度も怒らせた。聖徳太子の時代には漢字をどのようにして読んだのであろうか。漢字には音読と訓読(和読)があることは先に示した。訓点(返り点)は9世紀前後に成立するので飛鳥時代には訓読みは存在しないが、聖徳太子のいわゆる漢字には純正漢文にはない「和臭」がするのである。「ない」というとき純正漢字では「無」を使うが、聖徳太子は「非」を使ったりする和臭がする。音読み以外にも訓読みをしていたのではないかと想定される。史部の作る和化漢字には中国人が読めば理解不能(間違い)の漢字の使い方が見られる。「薬師像作」とか「誓願賜」などは日本語の語順・語法である。純正漢文では「作薬師像」、「誓願」なのである。いずれにせよ日本は聖徳太子の頃からようやく歴史時代に入ったのである。奈良時代末期の仏教書「華厳刊定記」(788年)に日本最古の訓点が現れた。これには送り点と句読点が書き込まれている。平安時代には送り仮名やカタカナが字の右下に記されるようになった。これによって日本人は本来外国語である漢文を自国語として読めるようになった。これは画期的なことである。

日本文明の形成

次に飛鳥時代から奈良時代にかけて日本文化が形成される過程を漢文との関係で見て行こう。聖徳太子と蘇我一族の政権は645年「大化の改新」で中大兄皇子と藤原鎌足によって打倒された。天皇親政の時代となり律令制による中央集権化が一層進められた。「大化」という元号制定は日本が中国から独立した国という意味である。当時の政治情勢は、唐が朝鮮半島に侵攻し660年新羅唐連合軍は百済を滅亡させた。663年百済を支援する日本水軍が白村江で唐新羅連合艦隊に敗れた。668年唐新羅連合軍は高句麗を滅ぼした。このとき日中関係は緊張し大量の朝鮮の皇族や難民が日本に流入した。こうして多くの知識人が渡来して日本文化は漢文を基礎に進展することになった。大友皇子(648−672年)が呼んだ漢詩が8世紀の「懐風藻」の冒頭を飾っているが、これが日本人最初の漢詩である。大津皇子の漢詩も「懐風藻」に収録されているが、二人はともに天皇後継者と目されながら敗れて非業の死を遂げた。天皇という称号が出来たのは天武天皇の時代だとされる。文武天皇の701年大宝律令を制定し唐に倣った官位制が整備され元号を大宝と改め、日中関係の緊張期が過去のものになった702年日本は約30年ぶりに遣唐使を唐に派遣した。710年より平城京に遷都して奈良時代が始まる。日本国の自覚が生まれて国史を編むということになった。すでに聖徳大使が「天皇記」、「国記」を編纂したといわれるが焼失して残っていない。712年国内向けに「古事記」が編纂され、720年正式の国史としての外国向けの「日本書紀」が編纂された。「古事記」は和化漢文で書かれ、「日本書紀」は純正漢文で書かれた。万葉仮名で書くのに比べて訓読みが混じった和化漢文で書くと字数が半分くらいになる。これは偉大な進歩である。長々とした和風の呼び名を漢字で意訳すれば実に簡単で短くなる。事務能率が画期的に上がった。太安万侶は「古事記」序文を純正漢文で書いた。名文だといわれている。「古事記」本文はその内容を国内の皇族、豪族、官僚に知らしめるものであるから和化漢文で書かれたのである。日本文学(文化)は8世紀に始まる。「古事記」、「日本書紀」、「万葉集」、「懐風藻」などの書物が誕生したことは、日本古代の言葉や文法、音韻を知る上で貴重な文化遺産である。

漢文の黄金時代 奈良平安時代

漢詩文文化の担い手は奈良平安時代の天皇公家時代、鎌倉室町の武士政権時代、江戸幕府の近世封建時代に各々公家貴族、禅僧、儒家であったことは本コーナーの初めに書いた。この三つの時代の漢詩文文化の様相と日本文化の成長を時代ごとに見て行こう。まずは漢文文化が花開いた奈良平安時代をみる。
長屋王(684-729)は720年新羅からの使者を自宅に迎えて漢詩の応酬を楽しんだとされる。そのときの漢詩は「懐風藻」に収録されている。そして遣唐使をして唐に千人分の袈裟を贈った。長屋王は藤原氏との戦いに敗れ729年「長屋王の変」で自殺したが、日中交流に尽くした功績は大きい。長屋王の友好に答えるように753年唐の高僧「鑑真」が日本に戒律を伝えるために渡来した。当時の遣唐使が果たした役割も大きい。717年第8次遣唐使には吉備真備、阿部仲麻呂、井真成という3人の留学生がいた。吉備真備は唐の兵法、儒学、暦などを学んで帰国し、僧玄坊とともに聖武天皇から厚く新任された。井真成は玄宗皇帝にその才を愛され終生中国の官僚としてかの地で没した。阿部仲麻呂は唐の詩人李白や王維らと親交を結んで詩の交換をしたようだ。ここまで日本人の漢詩文化は成長していた。井真成は唐で病没したが玄宗皇帝は彼に従五品上を贈った。阿部仲麻呂以上の才があって玄宗皇帝に用いられていたようで夭折が惜しまれる。日本だけが複数の漢字音(呉音、漢音)を有していることは、実は奈良時代の事情に遡るのである。735年帰国した吉備真備は中国人を伴って帰国し、彼の指導を得て当時の奈良の朝廷は旧来の呉音を止めて新しい漢音を普及させようとした。ところが僧侶は旧来の呉音に固執し続けた。また参考までに詳しく言えば、日本では呉音、漢音のほかに「宋音」、「慣用音」などの音読みも存在した。日本史上、漢学の才を持って大臣まで出世したのは奈良時代の吉備真備と、平安時代の菅原道真の二人である。その遣唐使も804年の第18回遣唐使で最澄、空海、橘逸勢を最後にして、菅原道真の進言で晩唐の政治的混乱を前にして遣唐使は廃止された。空海、橘逸勢、嵯峨天皇の三人を「日本三筆」といい、嵯峨天皇の時代は日本漢文史上の黄金期であった。中国の制度上で日本が採用しなかったのは「科挙」という文官採用試験制度である。これは日本の藤原家を頂点とする公家貴族社会の抵抗によって、競争より血筋を重んじる勢力が採用を阻んだのである。平安時代遣唐使は廃止されたが、平安後期から鎌倉時代にかけて私的に僧が入宋するルートが存在し、寂照、戒覚、重源、栄西などが中国へ渡って勉強した。平安時代中期から後期にかけて栄えた貴族文化を「国風文化」という。「古今和歌集」、「枕草子」、「源氏物語」などかな文学が隆盛を向かえた。和文に漢字を交えた新しい文体「和漢混淆文」も誕生し、日本が漢字を学んでからようやく日本らしい文学・文化が開花した時期である。清少納言や紫式部もともに豊かな漢文の素養を持っていた。

中世の漢詩文

鎌倉時代と室町時代をあわせて「中世」とよぶ。中世の日本では、漢詩文の正統は寺家(僧侶階級)が守った。中世では日本は統一国家とはいえず、公家、寺家、武家の三権門が土地支配をめぐって激しい戦いを行い、織田信長の天下布武まで実に500年も国家主権をめぐって熾烈な階級闘争が続いた。あとの200年は戦国時代で武力のみで決着をつけるいわゆる下克上の修羅場となった。公家は没落し、武家は戦闘のみに終始する無教養な集団で、結局漢詩文文化は寺家に移った。優れた僧侶は権力者のブレーンとして「幕僚」、「使僧」になり、国際情勢に詳しい知識人でもあった。特に室町時代には臨済宗五山制度では漢詩文に巧みな僧は朝廷や幕府の外交文書を代作したり、使者になったり、仏教以外の幅広い教養が重用された。中世では江戸時代と違って、教養のない武家に変わって儒学も僧侶階級が担っていた。江戸時代の儒学者林羅山や藤原惺窩ももとは禅僧であった。13世紀日蓮は「立正安国論」を書いたがこの文章は漢文で書かれていた。また元寇のおり北条時宗のブレーンだった南宋の禅僧無学祖元の知恵で危機を乗り切った。1368年中国では明王朝が成立し洪武帝が臣従を迫る国書を日本に送ったが、懐良親王は見事な漢文で日本の独立を主張した。しかし1404年明の永楽帝は足利三代将軍義満に国書を送り臣従を迫った。勘合貿易の利を重視した義満は「日本国王」として冊封され、日本史上初めて中国の属国となった。四代将軍義持は明への朝貢を廃止した。室町時代の漢詩として有名なのは一休宗純の「狂雲集」である。漢詩の約束事からすると「狂雲集」は平仄もいい加減で漢詩といえるかどうかあやしい。

江戸時代の漢文ブームと明治維新

徳川家康は幕府統治の制度を整備するため儒学を利用した。家康は儒学者林羅山や藤原惺窩を重用し、儒学とりわけ「朱子学」を幕府の漢学とする道を開いた。実力による下克上の風潮を断ち切り、身分の上下関係の重視(君臣関係)を確立するため儒学者をブレーンに置いたのである。武士の思想を改造して忠を貫く士大夫階級化した。豊臣家打倒のために曲学阿世の徒である金地院崇伝や林羅山の漢文による言いがかりを考案させた話は有名である。そして武士階級も四書五経の儒学を純正漢文で学ぶようになり、「武士道」という中流実務者階級が生まれた。武士階級は太平の世では官僚機構に吸収されたのである。
江戸時代は王朝時代に次ぐ日本漢文の2番目の黄金時代であった。江戸時代の漢文文化の特徴は、
1:漢文訓読の技術が一般に公開されたこと。返り点や送りかななどが秘伝ではなく公開された。
2:漢籍の出版ブームが起きたこと。
3:武士と町民農民上層部である中流実務者階級が漢文を学んだこと。
4:俳句や小説、落語、劇などの文藝にも漢文が大きな影響を与えた。
5:漢文が書類作成など実用的教養となったこと。
江戸時代の漢文ブームの火付け役は五代将軍綱吉である。綱吉自身漢籍の講義をし、文治政策を進めた結果、新井白石、室鳩巣、荻生徂徠のような漢学者が輩出した。江戸時代は鎖国政策を取ったが、朝鮮は12回の「朝鮮通信使」が来日し将軍に見えた。江戸幕府の官僚は朝鮮使節と漢詩で応酬するほどの文化的教養人となったのである。また清朝の漢籍があるルートで日本に流入し、それが出版され広く読むところとなった。水戸の徳川光圀は明の亡命儒学者朱舜水を招いて水戸学を起し藩士の教育を盛んにした。それは「大日本史」編纂となり、尊王思想の拠点ともなった。皮肉なことに家康が起した儒学が水戸では統幕の思想的背景を醸成したのである。こうした武士階級の貪欲な知識欲と理解力、抽象的思考力は優秀な幕府官僚をそだて、民間や洋学を学んだ下級武士階級に火をつけて尊皇攘から倒幕そして明治維新、文明開化と富国強兵に行く流れは、じつは江戸時代の漢文教養がもたらした成果でもあった。とくに明治維新後の西洋文明の理解と摂取時に、漢文の術語製造能力は学問科学技術の発展に多大な貢献をした。「金融」、「投資」などの経済用語、「憲法」、「民主」などの政治社会用語、「自我」、「弁証」などの哲学用語、「物理」、「細胞」などの科学用語や軍事用語など二字熟語を創作した。現在の中国語の社会科学用語の60-70%は日本語から来たものである。江戸時代から明治時代にかけて、漢文は「実学としての教養」であった。日本の中流実務者階級にとって漢詩文は風雅な趣味だけではなく、実社会で仕事をするための教養であった。明治時代に活躍した人物には漢詩文を巧みに操る者が多かった。伊藤博文、副島種臣、夏目漱石、森鴎外、山県有朋、乃木希典、広瀬武夫などである。江戸時代の変体漢文である「候文」にかわって明治以降は漢文読み下し文体が普及し「普通文」と呼ばれるようになった。福沢諭吉「学問のすすめ」の文体も漢文調である。法律、勅語などの公文書も全て漢文訓読調であった。しかし大正時代になると言文一致の口語体の文章が普及して漢文は衰退した。


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