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村井康彦 著 「出雲と大和」

  岩波新書 (2013年1月22日 ) 

記紀神話時代の古代国家の原像 出雲王朝は邪馬台国をなぜ大和王朝に譲ったのか

邪馬台国の所在地と歴史の位置づけを巡っては、素人でも想像を逞しくして参加できる楽しさがあり、長い間論争は続いている。なんせ第1級資料は「魏志倭人伝」しかないのだから。とくに邪馬台国への道のりを記した部分は、恐らく魏の作者さえ倭に行ったことはないのだから、朝鮮半島の帯方郡という魏の出先役所からの伝聞に継ぐ伝聞で、正確に伝わってはいないだろう。方向(東西南北)さえかってに読替えて、邪馬台国の位置を想定するのである。ある国から国への道のりの記述には方向さえなく時間だけの場合も多い。ということで邪馬台国論争は大きく分けると九州説と畿内説がある。卑弥呼は「親魏倭国王」という印爾まで貰ったが、倭という範囲も示されていない。日本全体を指すのか、小さな邑程度の集落なのかも分からない。私自身は昔から邪馬台国九州王朝説を信奉しており、日本は大陸に近い九州から開け多くの部族国家が生まれ、そこから神武天皇の東征があって大和王権が奈良橿原に樹立されたと見ていた。根拠は無いが、倭と大和王朝の繋がりもあるので信用していたまでの事である。その場合、倭を神武天皇が受け継いだかどうか、あるいは神武天皇は倭を征服してから奈良に向かったのかは定かではない。ということでそれ以来、邪馬台国論争に関する本は数十年読まなかった。今回岩波書店100周年(2013年1月)を記念して、岩波新書が10冊も刊行された中に、本書が「出雲と大和」という題で古代国家の原像を論じていることを発見した。本書を読み終えて、第1に内容は極めてエキサイティングで面白かった。歴史を広い視野から見ると、特に風土誌という伝承や信仰などに埋もれた歴史が見えてくるようだ。本書が取り扱う1級史料は、「魏志倭人伝」、「古事記」、「日本書紀」、「出雲風土記」、「先代旧事本紀」、「勘注系図」、「出雲国造神賀詞」、「令義解」ぐらいで、あとは神社の資料である。記紀神話の時代とはいえ、荒唐無稽のおとぎ話が記されているわけではない。国家事業であった「古事記」、「日本書紀」の編纂は、当時の中国をのぞいた周辺諸国中では唯一の歴史書である。決して荒唐無稽のことではなく、嘘偽りも自己弁護と事実隠蔽のための方便と考えると、まさしく歴史的事実(特に政治的権力の系譜)を描いた書に違いないのである。3.11東日本大震災に端を発する東京電力福島第1原発事故に関する調査報告書が、2012年夏に4種類刊行された。東電、政府、国会、民間と同じ事故を扱いながら、事実関係で主張すること、教訓・対策とすることがかなり異なっており、書かないことも重要な主張である事が明らかに読み取れる「現代史」であった。国家事業であった「古事記」、「日本書紀」、「出雲風土記」なども書かれた時点では大真面目の「現代史」であった。閑人の書いた絵空事ではなく、一つ一つ事実の表現(隠し偽ることも表現)と読まなければ歴史ではない。人間の知能はこの2万年ほどさほど進歩していないというから、科学技術の進歩は別にしても、17-15世紀前の当時の人間の考えることには程度の差はあるが現代人と同じであるとしておこう。

出雲には「荒神谷遺跡」、「加茂岩倉遺跡」から膨大な量の銅剣や銅鐸が出土し、出雲大社の境内からは巨大な柱が発掘され、王権が存在していた事をうかがわせる。記紀神話の大国主神話は決してお話ではなく実存した国があったと思わせるものである。そこで著者を次の3点に着目して出雲王朝論を樹立し、出雲は「国譲り神話」に見られる大和王朝に屈服した一地方王族という印象を覆そうと試みるのである。先ず第1は三輪山の存在である。三輪山は山そのものをご神体とし本殿は無い。自然信仰のかなり古い姿を伝えている。そして祭神は大物主神である。なぜ大和王朝の領域中に出雲の神がいるのか。第2は出雲国造が8世紀始め朝廷に出かけて奏上した「神賀詞かむよごと」のなかに、「皇孫の命の近き守り神」として、三輪山の大神神社、葛城の高鴨神社、伽夜奈流美の神、宇奈手の神の4神をあげ、いずれも出雲大社(杵築大社)に祭ったというのである。なぜ大和王朝の守り神に出雲系の4神があるのか。それは4神とは大和王朝の前に大和に存在していた豪族のことではないか。第3に「魏志倭人伝」には出てくる卑弥呼の名が記紀には全くでてこないことである。完全に無視されている。大和王朝は邪馬台国とは無縁の新王朝である事を言い張りたいからであろうか。この3点の疑問から筆者は「邪馬台国は出雲勢力の建てた国であった」と推測する。国史である「日本書紀」は、出雲勢力と大和王朝は戦いとなったが、出雲に大社を建てる事を交換条件として大国主命は国譲りしたという。邪馬台国論争は後ほど議論するとして、魏志倭人伝が伝える4官制度とは、邪馬台国が出雲の四大勢力により樹立された大和盆地の王朝であった事を思わせる。現時点で学界は卑弥呼の墓を「箸墓古墳」をあげ、邪馬台国の存在位置として「纒向遺跡」(桜井市)を最有力候補としている。三輪山の麓にある「纒向遺跡」と「箸墓古墳」にこそ古代史を解く鍵があると著者は狙いをつけたのである。三輪山の大神神社は大物主神(大己貴神、大国主神におなじ)を祭神とし、古い神奈備山信仰(磐座信仰)の中心であった。古事記は因幡の白兎にはじまる「大国主神物語」を語る。少名昆古那(すくなひこ)と葦原色男命(大物主命)の二人が協力して国作りを行なったが、すくなひこが早く亡くなったので、大物主命は海から来た神を三輪山に祭ったので葦原中原の王となったといおう。日本書紀では大己貴神が少名昆古那と協力して天下を平定してきた。そして海から来た神を三輪山の祭って宮殿を建てたという。古事記と同じような内容であるが、日本書紀の方が大和朝廷の国内統一の大前提として「国譲り」を説明する前に、大国主神による国作りをしっかり位置づけている。それは大和王朝よりはいち早く出雲勢力が大和に進出し葦原中原の支配を完了していたとみる。日本書紀の編集者らは歴史を現代史として認識し、自分達の王朝の唯一正統性を主張するため出雲勢力の事蹟をわかっていて隠したのである。結論として出雲王朝=邪馬台国はかなりの政治的力(そして部族の武力勢力)を温存しながら「無血江戸城引渡し」(国譲り)に成功し、更に大和王朝の建設に協力しつつ大和王朝の中核(守り神として物部氏、葛城氏など)となって、正式の歴史から姿を消したいったというべきである。名を捨て実をとったというべきか。こうして邪馬台国は大和王朝に吸収されたという姿が古代国家という筋書きである。

2013年2月20日のasahi.comに「卑弥呼の墓? 箸墓古墳、20日に立ち入り調査」という記事があった。邪馬台国畿内説にとって待望となる、魏志倭人伝にかかれた卑弥呼(245年に亡くなったとされる)の墓と考えられている箸墓古墳の調査が宮内庁の許可を得て開始されるそうである。著者村井康彦氏のプロフィールを見ておこう。松岡正剛氏のウエブ「千夜千冊」で、「村井さんは林屋辰三郎門下の学恩をうけた何人もの研究者群のなかでも、とびきり広い研究範囲を走破してきた人」と紹介されている。京都学派(総合的知識人)のひとりである。1930年山口県生まれ、1958年京都大学文学部博士課程終了、58年京都女子大学助教授、66年教授、87年設立された国際日本文化研究センター教授となり、95年定年退官、名誉教授、滋賀県立大学教授、京都市歴史資料館館長を兼ね、2000年滋賀県立大を退任し名誉教授、京都造形芸術大学大学院長。2006年源氏物語千年紀の呼びかけ人となる。日本古代史が専門だったが、その後茶の湯研究に進み93年茶の湯文化学会の設立に参加、日本の宮廷文化について多くの著作がある。専攻は日本古代・中世史である。著書は「古代国家解体過程の研究」(岩波書店 1965年)をはじめとして、「武家文化と同朋衆 生活文化史論」(三一書房 1991)と多数あるが、茶湯にも学殖が深い。本書は村井氏83歳のときの著書となる。

1) 出雲王国論

記紀神話のなかで大国主神は古事記では六つの名前を持ち、日本書紀では七つの名を持つ。大国主神、大物主神、大国玉神、顕国玉神、大穴牟遅神、葦原色許男(醜男)命、宇都志国玉命、国作大己貴命、八千戈神である。記紀神話で大国主命以上に多くの名前を持つ神はいない。言い換えにすぎない抽象的な命名である大国主神、大物主神、大国玉神、顕国玉神、八千戈神と、別人格かも知れない大穴牟遅神、葦原色許男(醜男)命、宇都志国玉命、国作大己貴命が考えられる。この異名の神は大国主神の国作りの仕事を分け合った分身かもしれない。大和の三輪山に祭られた「大物主神」は独自の存在である。大神神社の祭神とされた「大物主神」は「大己貴神」=大国主神の進化した象徴神であった。なかでも神話で最も重要な役割を担ったのは「大己貴神」であろう。しかも国作りは出雲だけではない葦原中原を形成した神をさす。大国主神の出発点が出雲であったが、この出雲勢力が日本海沿岸を東に進み、丹後、越(高志)の北陸地方まで勢力範囲を拡大し、南へ進んで大和に入ったと考えられる。出雲に始まって大和にいたって完了する大国主神の国作り神話が大和政権の古層になる。出雲系の祭祀=信仰の中心は「磐座信仰」という自然信仰であった。この章ではまず出雲王国の考古学上のシンボルともいえる「磐座祭祀」、および「四隅突出墓」(大和王朝のシンボルが前方後円墳とすれば)の分布を辿り出雲王国の領域と国作りの事績を見て行く。そして「出雲風土記」より出雲における大国主神の事蹟と地政を辿る。筆者が尋ねた磐座所在地としては奈良三輪山から出発し出雲に至るコースをとると、奈良三輪山、河内磐船神社、丹波(京都亀岡)出雲大神宮、丹後(京都宮津)の籠神社と神谷太刀宮、備前(岡山赤磐)の石上布都魂神社、備前(岡山新庄)の宮座山、そして当然の事かもしれないが島根県に磐座祭祀が集中しているが、永江山、熊野大社、須我神社、大船山、石宮神社、仏経山、矢櫃神社金鶏山、琴引山、岩屋神社の9箇所がある。磐座祭祀の背景には、出雲族に本質的な鉱山開発と鉄器の生産が国作りの中核を占めていたとされる。神社の祭神の言い伝えでは、京都上賀茂神社の神は出雲系であり、又伊勢の朝熊神社の六座は石を霊とする神である。(大和王朝系の神は鏡であるが、伊勢にも磐座の神が存在する。

次に出雲文化圏を特徴づける古墳形式は「四隅突出墓」である。「卑弥呼の墓? 箸墓古墳」と話題を呼んでいる箸墓古墳は濠をめぐらせた前方後円墳であり、大和王朝系の墓形式であるので、卑弥呼の墓とは違うのではという疑念が残る。「四隅突出墓」は基本的に方形台状の四隅がヒトデの手のように張り出してスロープを形成している極めて特異な墳墓形式で日本では日本海沿岸地方の11箇所に分布している。北から下って出雲へゆくコースで見ると、越中(富山)の杉谷4号墳・宮崎3号墳、越前(福井)の小羽山30号墳、丹後(京都宮津)の権現山古墳、丹後の赤坂今井墳、伯嘗(鳥取倉吉)の阿弥大寺墳墓、伯嘗(鳥取米子)の洞ノ原墳墓、出雲(安来)の宮山4号・仲山9号・塩津山、出雲(出雲市)の青木遺跡、出雲の西谷2号・3号、石見の順庵原1号、備後(広島三次)の矢谷1号である。こうした特異な形状の墓が弥生時代中・後期に出雲地方を中心に日本海沿岸(越中を北限として)に拡がった。古事記垂仁天皇記に出てくる本牟智和気御子物語で白鳥(死の国の使い)が飛んでゆく地名として、紀伊国ー播磨国ー印幡国ー丹波ー但馬ー近江国ー美濃国ー尾張国ー信濃国ー越の国であった。大和王朝が国譲りの約束であった出雲大社を建設しないために御子の祟りが出て起った不幸の物語であるので、これらの土地は出雲王国の支配下か同盟関係の国々であったと思われる。「出雲風土記」が記す大国主神の事蹟をたどろう。風土記は地方の人が記した自分達の国の由来であるから、あからさまに言えないことも地名に託して、出雲王国の歴史を語り継ごうとする気魄が見られる。神話ではなく紛れもなく出雲の現代史を語っていると思って読むべきであろうか。出雲風土記によると、「三沢郷」は出雲国造が神賀詞を奏上するために大和朝廷に出かける際の潔斎の場であった。大原郡来次郷は大国主の神が八十神を征伐して国造りを開始した場所(みやこ)である。出雲の西にある「神門郡」は弥生時代から稲作平野がひろがり「矢野遺跡」が残っている。多くの部族が住んでいたため、征服または同盟関係を作るため大国主神の結婚譚が残っている。大国主神の正妻は須佐之男の子である須世理姫(神門郡滑狭郷)であった。出雲郡に杵築(出雲)神社が存在する。出雲風土記(733年)が出来る前に出雲大社は存在していた。意宇郡拝志郷は大国主神が越の国に出陣した場所である。能義郡(伯太町)母理郷には越を征伐して帰った大国主神の国譲り宣言が帰されている。「ただ出雲の国は鎮座する国として永遠に守る」といった。大和朝廷に出雲王国は譲るが、出雲一国は守ると宣言したのである。

2) 邪馬台国の終焉

長崎県壱岐市の「原の辻遺跡」や佐賀県上崎市の「吉野ヶ里遺跡」が弥生時代の典型的な環濠集落遺跡として有名であるが、とくに1989年に発見された「吉野ヶ里遺跡」は「邪馬台国卑弥呼の宮殿」ではないかと90年代にもてはやされたが、近年では人気は後退している。先ず証拠が無いことと、あまりに「伊都国」に近くて「魏志倭人伝」に記述にあわないことである。では邪馬台国はどこにあったのだろうか。誰にも確たる証拠はない。邪馬台国畿内説では大和の「纒向遺跡」が有望視されている。纒向遺跡には環濠がなく、あまりに山に近いことから候補地にはならないし、道教の「桃の実」があることからすると5,6世紀の遺跡だと見られる。そこで著者は奈良県磯城郡田原本町にある「唐古・鍵遺跡」を候補地と考えているようだ。戦前に発見され遺跡で縄文時代から古墳時代におよぶ環濠集落であった。筆者は邪馬台国畿内説(奈良盆地中央部)を採ることが分かるが、その推論は唖然とする帆ほど単純である。魏志倭人伝でいう北九州の「不弥国」より南へ水行き20日で投馬国につき、さらに南へ水行き10日、陸行き1ヶ月で邪馬台国に達するという記述をあっさり南を東に読み替え、対馬海流に乗って船行き20日で投馬国に着くとした。投馬国を出雲と想定してそれから船行き10日で丹後に上陸し、南へ陸行き1ヶ月で奈良に達するという。北九州の「不弥国」から水路で逆コースの「北」はありえないし、「西」は中国へ向かうし、南では薩摩諸島を越えて沖縄に行く。宮崎県日向説もあるが陸行き1ヶ月の説明はつかない。魏志倭人伝の著者は倭の国へ行った経験はなく、帯方群に貢物や折衝に来る倭人からの伝聞を書き記したとすれば、かなりの間違いや誤記はあったろう。方角や距離について正確な記述ではないと考えれば、あとは当時の政治と地政情勢から推測することになるので、尤もらしさから判断するしかない。魏志倭人伝には邪馬台国には四官があるとして、伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳都と記されている。著者はこれを地名(行政府)とみた。イコマ(生駒)、ミマス(葛城)、ミマキ(三輪山)、ナカト(中央部)つまり邪馬台国を4つに分割したのである。すると中央部とは大和盆地の中央部、すなわち田原本町である。そしてこれらの地方は出雲系氏族である、生駒に物部氏、葛城に鴨氏、美輪山には大神(大国主神)、中央部に倭の国の王朝があったとみる。また出雲国造が大和朝廷に神賀詞を奏上した時に、皇室の「近き守神」として、三輪の大神神社、葛城の高鴨神社、飛鳥の伽夜奈流美神社、宇奈提の川俣神社を挙げたが、いずれも出雲系の神々であった。つまり大和王朝は出雲系の擁立された王朝である事の証左であった。出雲系豪族(氏族)の協力で出来上がった王朝が神武天皇の天孫系大和王朝である。大和王朝は出雲勢力を征服したというより、国譲りで出来た妥協の産物の王朝で、実質出雲勢力に取り囲まれていたというべきであろう。

邪馬台国を大和王朝の前段階と見る連続説、邪馬台国と大和王朝は王の系統が違うとみる非連続説の二つがあるが、著者は非連続説をとるが、大和王朝が完全に邪馬台国と無関係な王朝か(接点がない)、征服したかとなると微妙になってくる。記紀には邪馬台国や卑弥呼の名は一度も出てこない。「親魏倭王」の称号を得た卑弥呼は日本の神話歴史の中では完全に無視され、存在がタブー視されている。とはいえ日本書紀神功皇后紀には3度「魏志」を採録している。そこには「倭の女王」、「倭国」、「倭王」という言葉で卑弥呼を匂わせている。それが神功皇后紀=卑弥呼説を生んだ。日本書紀の編集者は邪馬台国や卑弥呼の事は十分に知っていたが、卑弥呼は大和朝廷の皇統譜に載せられる人物ではなかったので、これに触れる事を忌避したのである。魏志倭人伝には247年に倭国がライバルの狗奴国と戦争状態に入った事を伝えている。248年ごろ卑弥呼が死ぬと、中原は混乱状態になり、卑弥呼の娘「壱与」が立って混乱を収めたと記述する。魏志は結局邪馬台国が何時滅んだかは伝えていないし、魏国も265年に司馬炎によって簒奪され西晋が起った。魏が滅亡したので、邪馬台国の滅亡に関する記事はないのである。西晋のはじめ266年に倭国の女王が貢献しているので、恐らく邪馬台国は西晋時代(3世紀後半)に滅んだと見られる。卑弥呼が没した後、倭国の騒乱に応じて九州の勢力が東の中原に向けて移動し始め、やがて邪馬台国攻撃を開始したのであろう。そういう意味で「神武東征」説神話は歴史的事実(自分の都合のいいことだけ)を表現しているようである。ところが神武の東征が一方的征服ではなく、生駒で敗れ上陸作戦に失敗し、熊野で再上陸したものの熊野山中に迷いこみ、二重三重に要所を固めた出雲勢力の英雄長髄彦の活躍に行く手を阻まれ大和盆地中央には入れなかった。ここで情勢が動いた、主戦派の長髄彦を抑えて櫛玉饒速日命が和議に動いたのである。これが大国主神の「国譲り」神話の原形である。邪馬台国連合の饒速日命が余力を残したまま、侵略軍である天孫族神武勢力を政治的妥協を図り、大和中原の無血開城となった。神武が橿原宮に都を置いて大和王朝の治政が始まった後も、日本書紀には出雲勢力の根拠地の4箇所(長柄、和邇、葛城高尾張、郡山添県の邪馬台国4官の地)でゲリラ戦が続いたようだ。

3) 大和王権の確立

出雲連合の邪馬台国勢力が、戦わずして帰順した理由は何だったのだろうか。明治維新において徳川慶喜は最大勢力を維持したまま列藩同盟の盟主たらんと欲し、あっさり大政奉還を行い江戸無血開城をしたものの、薩長連合は態勢が決した状態でなお戊辰戦争を行なって血を流す事を選択したのは、支配権力の帰趨を決するためであった。このような近現代史を思うとき、出雲勢力が選んだ道は天孫族神武政権の取り込みが目的であったとみられる。記紀にいう「国譲り」とは、葦原中原の国造りをしていた出雲勢力の大国主神が天照大神の命に従って、その統治権を天孫族に譲るものであった。饒速日命の帰順は大国主神の国譲りの原像であった。この場合大国主神とは出雲に端を発する連合王国の歴代の長もしくは象徴的権力(天皇みたいなもの)を指すもので、一人の人格ではない。したがって記紀神話の「国譲り」は「天孫降臨」の前提であった。天孫という神武の勢力が恐らく南九州あたりに本拠をもつ(それ以前の来歴はわからない、中国の圧迫や王国の戦争から逃れてきた朝鮮系渡来亡命貴族だったかもしれない)豪族だったからで、日本の中枢である大和の葦原中原に進出することが長年の戦略であった。古事記には饒速日命の帰順の印として「天津瑞」を神武に献上したというが、物部氏の記録である「先代旧事本紀」にはこの「十種神宝」の詳細が記されており、これが天皇家の「三種の神器」(鏡・剣・勾玉」に進化したようである。神器とは呪術の小道具であった。魏志には卑弥呼が呪術をよくしたシャーマンであったといわれるが、出雲勢力の物部氏は大和王朝の神祇部門になって生きようとしたことが伺える。天皇家が仏教を採用する聖徳太子と蘇我氏(新進出雲勢力の一つであった)の時代になって、物部氏が激しく抵抗し結局滅亡したことは良く知られた歴史である。この饒速日命の出自も「先代旧事紀」によると、奈良県郡山市矢田坐久志玉彦神社を本拠地とした豪族で、本来出雲系の邪馬台国連合の王のような存在であったと考えられる。

天孫系の大和王朝の創始者である神武天皇と出雲勢力との関係と、国家の確立(伊勢神宮の成立をもってする)を見て行こう。古事記によると橿原宮で即位した神武天皇はまず、三輪山の大物主神の娘と結婚したという。これはまちがいなく政略結婚の典型で出雲勢力を取り込み、大和の国を支配してきた出雲族の服従を意図したものであったというべきだろう。その後も「御肇国天皇」といわれる崇神天皇が、尾張連や物部といった出雲一族の娘と結婚を繰り返し、垂仁天皇も丹波国の出雲一族から姉妹を迎えている。結婚と言うことは即ち血の融合(領土)であり、神武系と大国主系の融和(支配関係)の確立であった。「飴と鞭」政策の強面の策として、崇神天皇は「四道将軍」を派遣し、服従しない各地の出雲族の征伐を行った。北陸道(越国)、東海道(尾張以東)、西道(吉備国)、丹波道(丹波・丹後から出雲へ)の武力征討を行なったのである。この過程で景行天皇の息子である倭建命は近江で殺されるという悲劇物語が挿まれている。天孫系の神武勢力の守り神は天照大神=鏡であった。日本書紀天孫降臨で述べられているように、天照大神を社殿に祭紀するために、豊鋤入姫と倭姫のふたりが継続して各地を巡行する話がある。どこに天照大神を祭るかで近畿中はもちろん尾張までさ迷い歩いている。これは何を意味するのであろうか。男の神であれば間違いなく征伐戦争であろうが、女の神が各地を歩くと言うことは伊勢神宮建設のための勧進(寄付金集め)と、経済的基盤の整備と出雲系豪族の服従の証を求める旅であったとみてよい。行くところが大体かっての出雲勢力の範囲であったからだ。出雲系の神は「石坐」で、天孫系の神は「鏡坐」である。伊勢の出雲族が天孫系の伊勢神社の建設に係っていたことに服従の意味が認められ、五十鈴川に朝熊神社という出雲系の神が祭られているのである。伊勢の出雲系豪族の一部は更に信濃へ逃げ落ちた。諏訪神社に出雲系の神が祭られている。神殿の構造は出雲系は「心御柱」を持つのに対して、伊勢神宮系は「神明造」と呼ばれ心御柱を持たない特徴がある。伊勢神宮の建設は、大和中原の支配が完成された象徴的なエポックであった。

神武の勝利によって出雲系氏族はどうなったのかを見て行こう。まず饒速日命は「先代旧事本紀」によると「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命」という長い名を持つが、これは複合神(スペイン貴族も祖先の名を組み合わせた長い名をもつ)である。天照国照彦を尊称として無視すると二つに分解され、「饒速日」は物部氏の祖、大国主神の娘婿である「彦火明」は丹後籠神社の祝部である海部氏尾張氏の祖先である。このことは籠神社につたわる「海部氏系図」や「勘注系図」さらに「新撰姓氏録」、物部氏の祖の事を記した「先代旧事本紀」から参照すると(系図はややこしいので省略、著者の結論だけ述べよう)、「饒速日」と「彦火明」は同じ神で、葦原の八州を支配した神であるという。奈良盆地南西の葛城地方の豪族尾張氏はもとは「高尾張邑」に住んでいた出雲勢力であった。神武に最後まで抵抗した葛城高尾張邑の出雲勢力は、新天地を求めて移住した。尾張へいったのが尾張氏で山城へ行ったのが鴨氏であった。有力豪族であった和珥氏は奈良盆地北東にある(天理市)和珥神社の祭神「難波根子武振熊彦とおなじ出雲族であった。「播磨風土記」によると大国主神の伝承を多く採録している。「因播国伊福部臣古志」によると伊福部氏は尾張氏・海部氏と同様「彦火明」の末裔である。出雲と筑紫の関係は古来非常に親密であり、「新撰姓氏録」によると宗像氏は大国主神の末裔とされる。籠神社の祭神「火明命」は山城賀茂別雷神と異名同神とされる。製鉄の神=火の神で賀茂と籠(鴨)は通じているのである。地名をそのまま氏族名とする葛城氏は、その後仁徳天皇に皇后を出した。その葛城襲津彦の本拠は奈良県御所市の「極楽寺遺跡」だといわれる。葛城氏は鴨一族であり、邪馬台国以来葛城の地を離れず力をつけて、5世紀には大和政権の中枢となって頭角を現した豪族である。日本書紀百済記に書かれている襲津彦は新羅討伐で失敗し、末には政治的な失敗をして葛城円大臣のとき一族は滅亡した。葛城氏と同系の先祖「竹内宿禰」をもつ蘇我氏(馬子ー蝦夷ー入鹿)は飛鳥王朝の垂古天皇の時に頭角を現し、ほぼ天皇家を凌ぐ勢いを持ったが、645年の乙巳の変で滅亡した。中央の政治で頭角を現した葛城氏や蘇我氏は栄光の後無残にも滅亡した。それに対して出雲氏、海部氏、尾張氏ら祝部の道を選んだ一族は存続した。その物部氏も蘇我氏との崇仏論争で本宗は破れたが、壬申の乱では天武天皇に仕えて、石上朝臣として生き残った。大和王朝は4世紀後半には朝鮮半島三国の紛争に介入するが、倭の五王の時代から内政に力を入れ、雄略天皇の時代に九州から東国にまで国家体制が及ぶことになった。仁徳天皇の時代は河内王国といわれるように瀬戸内海の海運を重要視して、出雲族と同盟を結ぶ吉備の国の存在が問題となった。古事紀や日本書紀に書かれている吉備津彦の派遣や天皇の御幸は、大和政権が吉備国の制圧に本格的に乗り出した事を示す。これは応神天皇と仁徳天皇の時代である。桃太郎伝説もその一環であり、桃太郎は征討将軍のことである。

4) 出雲国造

古事記では出雲神話が1/3を占め、その大部分は大国主神を主人公としている。ところが日本書紀では出雲神話は取り上げないが一書に云うとして、大国主神の「国作り」と「国譲り」だけを記述している。今日まで出雲大社(杵築)の神官として続いている出雲国造は「天穂日命」を祖とする。大国主神を語り継ぐため存在する語り部である。平城京706年に、時の国造出雲臣が意宇郡の大領(郡司)に任じられた。当然国司の下にある組織の長であったが、出雲大社が経済的基盤を得たのである。中世において大社寺が寺領となる荘園を得たのとおなじで、社屋の改築修繕及び祭祀費用のためというが、土地支配権を得た意味は大きい。798年に意宇郡の大領を解かれるまで92年間領主であった。713年風土記編纂の詔が出て733年「出雲風土記」が完成した。その中心となったのは意宇郡郡司出雲国造の果安と広嶋の親子二代であった。本来統括者は国司であるのだが、出雲風土記だけは郡司出雲国造が統括した。当然風土記は大国主神を中心とする出雲世界の歴史を描くことが目的であった。風土記編纂の過程で、古事記(712年)、日本書紀(720年)が完成しているので、各地の豪族は天皇家との位置距離関係の記述に心血を注いだに違いない。記紀と連動して風土記は 編纂されていった。風土記編纂の過程で716年出雲国造果安は平城京の朝廷に「神賀詞奏上」(かむよごと)が行なわれた。これは服従の儀礼というよりは、出雲の国としての誇りをぎりぎりのところで主張する内容となっていた。「神賀詞奏上」は出雲国造家ー国守忌部氏ー中央の中臣氏の連携プレーによる一大イベントであった。最大の眼目は大国主神の口を通じて語られる4つの守り神(大神、葛城高鴨の神、伽夜流神、宇奈堤の神)を「皇孫の命の近き守神」としておいたことである。そして意宇郡の熊野大社を大国主神のミケ(食事)の神に置いた。伊勢神宮は天照大神を内宮とし、ミケの神として外宮に豊受大神を配するのと同じ構造である。「神賀詞奏上」は8世紀の国造出雲の意宇郡の大領時代の約100年に10回奏上された。これが出雲国造の全盛時代といえる。出雲風土記の記述と地名から大国主神の拠点は斐伊川流域の来次あたりと思われる。大国主神の事蹟と地名の関係が述べられる。詳細は省略するが地名はやたらおろそかに付けられた物ではない。日本書紀斉明天皇659年の記に出雲神の宮を修築したとあることから、磐座祭祀から社殿祭祀に変わるので出雲大社創建の日の確定は難しいが、659年以前としか言いようがない。大和朝廷の天皇家に不幸があるたびに、それは出雲の神を祭らないためであるとされ、斉明天皇の「物言わぬ皇子」が出来た時代こそ出雲大社の本格的な建築が行なわれたと見ていいだろうか。8世紀末には奈良の都は長岡京へ遷都され、平安京の時代となった。平安の都の守護神は出雲系の上賀茂神社となったが、出雲系の神の変遷も著しく新しい時代の幕開けであった。


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