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ラス・カサス著  「インディアスの破壊についての簡潔な報告」

 染田秀藤訳 岩波文庫 (1976年6月)

スペイン征服者によるインディアスの虐殺と破壊

1492年10月12日(米国ではこの日をコロンブスデイとして記念している)スペイン国王の援助を受けたイタリア人コロンブスがインドを目指して西へ航海し、カリブ海にうかぶ小島ワグハナ島に到着した。これが西欧人にとっての新世界の発見及び征服時代の幕開けとなった。先住民インデアン(モンゴル系)にとっては大虐殺と悲劇の始まりとなった。ある歴史書によると、西欧人がもたらした疫病のため先住民は激減したと書いてあるのはとんでもない嘘で、西欧人(スペイン、ドイツ、オランダなど)の軍隊による大虐殺と苛酷な奴隷制によって死滅したと書くべきである。本書はスペイン人牧師が告発した自国の征服者の虐殺野蛮行為である。人間性において野蛮人であったのはインデアンではなくスペイン人であったという。騎馬を使って殺人技術に長けた征服者としてのスペイン人が残した人類史上稀な残虐行為をここに記すことが本書の役割である。同じような残虐行為は13世紀モンゴル帝国の世界征服にも見られた。ジンギス・ハーンの行くところ、人影はなくぺんぺん草も枯れたといわれる。皆殺しの征服の歴史であった。コロンブスはその後3回にわたって、カリブ海諸島、中米、南米を探検し、その後スペイン征服者はスペイン国王の保護のもとインデァスに渡り征服を行なった。その動機は未知なる新世界への探究心、金銀財宝に対する欲望、宗教心などさまざまであったが、僅か半世紀(16世紀中ごろ)の間に北米・南米のアメリカ大陸を踏破した。彼らは金銀財宝のほかにトマト・玉蜀黍、煙草、カカオ、ジャガイモなどをヨーロッパにもたらした。新世界の発見と征服はヨーロッパ文明の視点から見ると輝かしいものであったかもしれないが、原住民インデアンにとっては悲惨な時代の始まりであった。

新世界に渡ったスペイン人は恐怖政策をとり、原住民に貢租を課し謀略を持って王国・領主・住民を虐殺し財宝を略奪した。さらにインディオを奴隷として使役し、生活品と物々交換した。つまり先住民を人として扱っていないのであり、甚だしきは犬のえさとして先住民を犬に与えた。1503年スペイン国王はスペイン人に先住民のキリスト教化の義務を負わせると同時に、労働力としてインディオを使役する許可を与えた。これが「エンコミエンダ制」である。金銀財宝の獲得に狂奔するスペイン征服者は原住民の教化なぞ眼中にはなく、もっぱら奴隷として鉱山や真珠とり、農業労働に従事させた。これは奴隷制に変わりなかった。スペイン人は1518年にアステカ王国を征服し、1531年にはインカ王国を征服し、キリスト教の布教という美名のもとに征服戦争を行なって、大勢のインディオを虐殺し、金銀を略奪した。殆ど武力を持たない原住民と従順を誓う先住国家と領主を相手にした一方的虐殺行為を戦争というのは当たらない。宗教と戦争という大義においては相手を皆殺しにしてもいいということにはならない。もちろん国際法が存在する時代ではなかったが、それにしても畜生・野獣も顔色をなくするスペイン人征服者の非道さは人類史に書き残さなければならない。このようなスペイン人征服者の非道な行為に対して、インディオの教化を任務とする聖職者は激しく抗議した。征服者のお先棒を担いで分け前を貰う聖職者集団も多かったが、中にはこのような非道な行為は神の名の下に許されることではないとして、国王に取締りを訴え出たのである。既に1511年ドミニコ会士モンテシーノスは「スペインのアメリカ征服における正義の戦い」を開始した。征服戦争と「エンコミエンダ制」の不当性を訴え、インディオの自由を擁護する運動を広げた。

ドミニコ修道士ラス・カサス(1474-1566年)は6回にわたってインディアスに行き、インディオの自由と生存権を守る運動の中心的な役割を果たした。平和的な方法による先住民の教化こそが国王の任務であると考え、1541年末カサスはスペイン国王カルロス5世に謁見して、インディオの蒙った不正とスペイン人の非道を記した報告書を提出し、即時征服戦争を中止するよう要請した。この時の報告書を母胎として1542年12月に「インディアスの破壊についての簡潔な報告」が書かれ1552年に印刷刊行された。この本はカルロス5世の執政であった皇太子フェリーぺに読んでもらうことであった。この書は政治的宗教的文脈の中でスペインを攻撃する西欧諸国に利用された。スペインからの独立、スペインのアメリカ支配の打破、自国の植民地活動の拡大にため、反スペイン感情の育成という意図でこの本が利用された。したがってスペインで反カサス勢力はこの本を禁書とした。スペイン人の残虐性は捏造された「黒い伝説」に過ぎないと主張した。何か日本でいえば、林房雄の「大東亜戦争肯定論」や石原慎太郎の「南京大虐殺はなかった」という論とおなじ風化をねらった「ほうかむり論」である。訳者染田秀藤氏によると、ラス・カサス論は1940年代からようやく客観的・実証的な研究が始まり、膨大な史料が明るみになり、「黒い伝説」のような偏狭なイデオロギー論は否定され、スペインの征服と植民地化の過程の史実を背景にはじめてカサスの思想と行動がより正確な評価を受けるようになったという。染田氏によると日本におけるラス・カサスの研究者は皆無であるが、田中耕太郎、増田義郎、堀田善衛そして訳者らがかろうじてカサスを紹介している。訳者の染田 秀藤氏のプロフィールを紹介する。染田 秀藤氏はラテンアメリカ史学者、大阪大学人間科学研究科教授である。1970年神戸市外国語大学イスパニア語専攻修士課程修了、英知大学助手から助教授をへて、1977年大阪外国語大学助教授、1988年教授となり、2007年大阪大学教授。ラス・カサス研究に始まり、西洋人によるラテンアメリカ侵略の歴史を追い続けている。2005年ペルー・カトリック大学名誉博士号を授与され、2008年『インカの反乱』などの翻訳で会田由賞を受賞した。

本書の構成はスペイン人の征服したアメリカ大陸の諸国・諸島の順々に、スペイン人征服者達が行なった残虐行為をこれでもかというばかりに告発している。それでも著者からすると報告できたのは実際の万分の一に過ぎないという。各章の文章は殆どコピーかと思われんばかりに同じパターンの繰り返しである。そういう意味では著者の文才のなさを示しており、もうすこし背景や物語があったら読むに価する文章になったろうと残念に思う。虐殺した先住民の数、略奪した財宝の金額、植民化した面積など年代順に征服者の名前をいれて統計的に表現するという手法もあったはずだ。したがって本書の内容を紹介することはあまり意味がないので省略する。略奪・虐殺風景を描いても気持ちが悪くなるだけである。興味があれば本書を買って読まれるがいい。ただ本書の章立てを紹介すると、エスパニョーラ島、サン・フワン島、キューバ島、ティエラ・フィルメ、ニカラグワ、ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)、グアテマラ、ユカタン、サンタ・マルタ、カルタへーニア、パリア・トリダード島、ユヤバリ川、ベネズエラ、フロリダ、ラ・プラタ川、ペルー、ヌエバ・グラナーダの地方や王国についてのスペイン人の虐殺・虐待行為の告発が同じパターンで記述されている。ここで述べられている個々の殺された何百万人の先住民の数の正確性については私は分からない。それよりもラス・カサスという人物の年譜を追うことにしよう。

1474年8月に南スペインのセビリアに父ペドロの子として生まれる。父ペドロは1493年コロンブス第2次航海(ジャマイカ、キューバ島)に参加している。カサスは1502年オバンドのエスパニョーラ島遠征に参加した。探検に参加する傍らインデイオの教化牧師に従事した。1513年ベラスケスのキューバ島制服に従軍司祭として参加し、「エンコミエンダ制」の撤廃こそがインディオの惨状を救う策であると認識となった。1516年新王カルロス5世にインディアスの実情報告をおこなうために帰国し、「改善策に関する覚書」をまとめ「エンコミエンダ制」にかわるインディオとスペイン人の共同体の建設を提案する。「インディオ保護官」なる肩書きを与えられ、実情調査と改革を任務としてエスパニューラ島に向かう。1518年国王はカサスの覚書の提案に基づく計画の実施を許可する勅令を発布した。1520年クマナーにおける平和的殖民計画を実施するため70人の農民と出発するが、途中インディオの反乱にたいする報復軍団にあい、農民は逃げ計画は挫折した。1527年エスパニューラ島の修道院長となって赴任し、史料「インディアス史」の執筆を開始した。1534年ごろグアテマラで布教活動に従事、1537年聖職者以外の入植を禁じるベラ・パスの平和的殖民計画を実施した。1542年国王にインディアスにおけるスペイン人の極悪非道な所業を訴える報告書を提出した。この報告を聞いたカルロス5世はインディオ問題を協議するバリャドリード会議を開催した。カサスは「現存する悪の矯正」という覚書と提出。インディオの自由と生命の保護を目的とした40条の「殖民法」(新法)が制定された。1544年南メキシコのチャパの司教に任じられ赴任した。チャパでは新法に反対する現地勢力の激しい圧力に会う。1546年国王は植民地勢力に押されて「新法」の「エンコミエンダ制」撤廃を撤回した。カサスは新法の完全実施を願い出るためスペインに帰国した。1549年インディアス枢機会議はインディオ問題を審議する懐疑の開催を上申し、翌1550年国王はバリャドリード会議を開催し、征服の正しいあり方が決定されるまで探検事業の中止を命令した。カサスは「新世界の住民を弁じる書」、インディオの文明人である事を「弁明的史論」で明らかにした。1552年セビリアに移り伝道師派遣の仕事に従事し、インディオ問題に関するいろいろな書物を発行した。1556年ペルーの奴隷を含む植民地をドイツに売り渡す計画が進行し、カサスは「いかなる君主も皇帝も人民の明白な同意無しには領土の譲渡、政治体制の変更はできない」(人民の自決権という政治思想)という主張を行い、1560年国王はつい売却を撤回した。国王は封建化した植民地勢力を恐れたことと、王室の収入増加を狙う政治的経済的思惑があったようだ。


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