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瀧井一博著 「伊藤博文」

 中公新書 (2010年4月)

初代総理大臣伊藤博文の業績を「文明主義」、「立憲国家」、「国民政治」から読み解く

伊藤博文(1841年9月−1909年10月)は余に有名であるが評判はいまいちよくない。経歴をざっと見ると長州の出で私塾である松下村塾に学び、幕末期の尊皇攘夷・討幕運動に参加、維新後は薩長の藩閥政権内で力を伸ばし、岩倉使節団の副使、参議兼工部卿、初代兵庫県知事(官選)を務め、大日本帝国憲法の起草の中心となる。初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣および初代枢密院議長、初代貴族院議長、韓国統監府初代統監を歴任した。元老。内政では、立憲政友会を結成し初代総裁となったこと、外交では日清戦争に対処した(下関会議で清の李鴻章と講和)ことが特記できる。アジア最初の立憲体制の生みの親であり、またその立憲体制の上で政治家として活躍した最初の議会政治家として、現代に至るまで大変高い評価をされている。ハルビンで朝鮮独立運動家の安重根によって暗殺される。かくも赫々たる経歴をもち、教科書に必ず出てくるので日本国民なら誰でも知っているはずで、1984年まで1000円札の表を飾ってきた。憲政の父として国会議事堂には2体の肖像が立っている。確かに、伊藤博文は日本の議会制度を論じるときに必ず通らなければならない存在である。木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通といった明治維新回天の三傑の世代の次に位置する、明治史上最も著名な人物である。だが歴史学者の間(アカデミズム)では伊藤の功績を高く見積もることに抵抗があるようだ。明治欽定憲法制定についても起草の中心は井上毅であるという。日本近現代史の碩学である板野潤治氏は「彼はいつも2つのはっきりした対立の間を動いてきているので、その姿が明確に浮かんでこない」とこぼすのである。西南戦争後は大久保利通の独裁路線に媚び従い、大久保なきあと立憲運動が高まるや井上毅のプロイセン型欽定憲法路線に同調して憲法制定者の名をほしいままにする。議会開設後は民権派の自由党と野合して,これを土台にして立憲政友会を創設し政党政治へ転身する。このような時流に乗るに俊敏な伊藤博文は思想なき政治家といわれる由縁であった。作家の司馬遼太郎氏は伊藤博文のことを「政治家としての哲学性が皆無であったので、魅力に乏しい政治家といわれるが、生き馬の目を抜く政界で柔軟性が高く、西郷や木戸よりも長く生き残れたのである」といっている。

伊藤博文はよくも悪しくも明治時代に日本国家の骨格を定めた特記すべき人物である。井上馨のように一貫してイギリスモデルの穏健な議院内閣制を採用し、上からの民主化をやろうとしたが(今日、民主党がそれを目指しているようだが、改革の実は未だでていない)、現実のものにすることはできず、大隈重信も転向した。結果責任という政治家の使命からすれば、伊藤博文の業績が今日も生きている。歴史に「たられば」は禁止である、結果だけが歴史である。伊藤博文の再評価を試みたのが、著者瀧井一博氏の先生であった京都大学の伊藤之雄氏である。氏の著作に「伊藤博文ー近代日本を創った男」(講談社 2009年)があり、決定的評伝である。著者瀧井一博氏(兵庫県立大学准教授)はドイツ法制史の研究から「思想家としての伊藤博文」をあぶりだそうとした。筆者は伊藤を政治家としてよりも、福沢諭吉に相当する近代日本の政治思想家として描きたいと考えられた。本書は融通無碍な伊藤像を「文明」、「立憲国家」、「国民政治」の3つのキーワードとして、明治時代の造型をなした伊藤博文を捉える試みである。

1) 西欧文明との出会い

伊藤博文は吉田松陰が安政の大獄で小塚原の刑場で刑に処せられたとき、木戸孝允の手附けとして長州江戸屋敷に在勤しており、木戸らとともに松蔭の遺骸を引き取った。松蔭没後の伊藤らはテロリストとして攘夷運動そして倒幕運動に携わっていた。松蔭は伊藤の事を「周旋家」と評していた。つまり国家を背負うほどの人物になるとは見なしていなかったようだ。伊藤は松蔭のことを「やはり過激だ。当時の攘夷論は精神から出たもので、政略ではなかった」という。伊藤は過激な精神主義者松蔭よりも、冷静に日本を変える政略を重んじた長井雅楽の方に共感を示した。伊藤が西欧文明に眼を拓くきっかけとなったのは、長州藩の重役周布政之助は西洋文明受容のためにイギリスに若者を派遣する事を説いた。伊藤博文、井上馨ら5名が1863年5月密かにロンドンに渡った。3年の予定でイギリスに着いた途端、長州藩の外国船砲撃(下関事変)た薩英戦争がおき、伊藤と井上は半年で留学を切り上げ、外国艦隊相手に講和の交渉に当たり、藩の中で一躍声望を高めた。残った三人は帰国後それぞれテクノクラートとして活躍したが、井上や伊藤が後に元老政治家となり群を抜いた存在となったのは、この外国艦隊との交渉役を果たした実績が認められたからである。たかが半年の留学で英国で何を勉強したか、語学はマスターできたのかといえばさみしい限りであるが、人生は意気である、時を逃してはならない事を地で示したといえる。行動する政治家、「周旋家」の面目約如というところである。これにより伊藤は知識を得るというよりは、身分や狭い秩序を超脱して、より広い世界的視野を身につけた。

明治元(1868)年、新政府において伊藤は外国事務掛を拝命し、兵庫県知事として開港地神戸に赴任した。1869年に制度改革の提言書「国是綱目」を提出し、酒井忠邦が提出した版籍奉還を支持し、すべての政令は朝廷から出るのでなければ国民の文明化は覚束ないとした。1870年11月から半年、大蔵少輔であった伊藤はアメリカを訪れ、政治経済の制度を観察する機会を得た。1971年5月わが国始めての貨幣法である「新貨条例」が制定され金本位国に参入した。理由はただアメリカという文明国がそうであったというだけである。なんと素朴な文明論ではないか。たまたま1ドル=1円=1両という関係が偶然成立し、スムーズに金への切り替えが進むという状況判断があった。1972年には国立銀行条例が公布されたが、発行された銀行券は正貨に兌換されただけで市場には流通しなかった。これは性急な改革の失敗である。アメリカから帰ると、伊藤は立法権と行政権の分離を唱え、木戸らはこれを「性急な」と一喝した。この時点では伊藤は急進的改革を唱える新進官僚であった。1871年官制改革が行なわれ、天皇が総覧する内閣として正院が設けられ、行政を行なう右院、立法を行なう左院が設置された。伊藤が主張した行政と立法の分離した統治体制が敷かれたようだ。伊藤はすでに国会開設を視野に入れて、国民の代表を集めて議院を開き、国の会計を審議するためにいまから大蔵の公金出納記録をつけなければならないと主張した。急進主義官僚から漸進主義者への転身のきっかけとなったのが、1871−1873年にかけての岩倉遣外使節団による欧米諸国巡歴であった。新政府の使節団は、岩倉具視、木戸孝允、山口尚芳、伊藤博文、大久保利通で構成された。1972年まずワシントン入りした一行は、伊藤・大久保はアメリカと一挙に条約改正を行なって文明国に肩をならべる事を期待したが、個別交渉は不可であることをしり愕然とした。これには木戸が怒り伊藤とは感情の行き違いが生じた。木戸孝允は諸国巡礼中一貫して各国の政体調査に打ち込んでいた。この姿に伊藤は急進論から漸進論に宗旨替えをしたようである。それから伊藤と木戸の関係は修復されたという。かくして伊藤は理念としての開化主義と方法としての漸進主義を身につけたようだ。

2) 明治欽定憲法制定

1873年5月岩倉遣外使節団の大久保利通は急いで帰国した。ついで7月には木戸孝允も帰国した。伊藤ら使節団全員が帰国したのは9月である。それほど国内事情が風雲急を告げていたのである。留守政府を預かっていた西郷隆盛らの征韓論が旧武士階級の不満を背景に力を占め、武士の暴発を恐れた公家の三条実美が賛成に傾き、天皇の裁可を受けたという。木戸らは政府内で猛烈な巻き返しを図り、三条はその剣幕に圧倒されて卒倒し人事不省となった。10月三条のかわりに岩倉が就いて宮中工作を行い派遣反対の命が下った。そこで西郷らは下野し、西南戦争へとつながるのである。西郷隆盛は所詮政治家ではなく、戊辰戦争においては参謀にもなれなかった野戦指揮官に過ぎなかった。この間伊藤は木戸と大久保の間の取り結びに腐心し、この功により政変後は木戸の推薦で参議兼工部卿に就任し、新政府の中心人物として名実ともに認められた。政変後11月に政体取り調べ担当として伊藤と寺島宗則が選ばれた。これは立憲制度導入のための調査に他ならない。欧米巡遊を経て岩倉使節団一行は文明国として自律するためには立憲体制の採用が不可欠との意識を抱いており、木戸および大久保の2つの憲法意見書があった。いずれも漸進主義の立憲政治論であった。ただ大久保は殖産興業の指導に専念し、木戸は心身の不調に悩まされ執務を継続することが難しくなっていた。そこで伊藤が立憲体制導入調査の第1人者となった。伊藤が出した回答は、地方官会議、皇族華族による元老院とする案であるが、翌1875年1月の大阪会議を経て、4月の漸次「立憲体制樹立の詔」に結実した。その後西南戦争、木戸の病没、大久保の暗殺と政権の危機が続いたため、政府内の立憲体制準備は遅れてしまった。1880年天皇は立憲制度導入についての意見書を求めた。

1881年大隈重信はイギリス流議院内閣制を主張する憲法意見書を提出した。これにたいして岩倉は井上毅に憲法意見書作成を命じた。井上はドイツのプロイセンをモデルとして、欽定憲法の採用を提唱する岩倉憲法意見書ができた。ところが黒田清隆の開拓使官有物払い下げ事件によって反政府運動がおき、明治14(1881)年10月の政変となって、大隈は閣僚を罷免され政府から追放された。そしてすぐさま「国会開設の詔」が出され、1890年を期して国会を開くことが公にされた。明治14年の政変は国会開設のタイムリミットを設定するという画期的な副産物を生んだ。1882年3月伊藤は憲法取調のため欧州に渡った。伊藤はまずベルリン大学のグナイスト教授に歴史法学を学び、モッセからプロイセン憲法の遂条解釈講義を受けたが、議会制度に対しては敵対的な考えに伊藤は納得できなかったようで、ウイーン大学のシュタイン教授より国家学を教わり、憲政=議会制に感服したという。シュタインの国家学から伊藤は「どんな立派な憲法を設立しても、どんな立派な議会を開設しても、行政がうまく運営されなければ生きた政治とは言えない」という事を学んだようである。こうして1889年2月11日に明治憲法が発布された。憲法を法典としてだけではなく、国家の構造という側面(国制、嫌な言葉であるが国体)や政治のあり方という側面(憲政=議会政治)からも見なければならない。欽定憲法は神権的な天皇絶対主義の憲法と位置づけられ、大隈らが提唱するイギリスモデル議院内閣制は排斥され、岩倉と井上毅が推し進めるドイツモデル立憲君主制が選択された。伊藤は憲法は紙切れに過ぎない、重要なのは国家行政であるとみなしていた。そして伊藤は国制確立のために諸改革を進めた。まず進めたの画宮中改革である。宮中と府中の別を確立し、天皇親政を封じ込めた。つぎに1885年内閣制度の導入を図り、自ら初代の内閣総理大臣に就任した。次に行政のエリート官僚の養成を目的とする大学制度確立であるが、1886年(東京)帝国大学が生まれた。1888年天皇の政治的行為の諮問機関として枢密院が設けられた。主権者としての天皇が政治的意思決定を行なう場合には、枢密院での審議をなすべきだとしたのである。

大隈重信の政治運動を伊藤は「政談的知識人」と呼んで排斥し、自らは「科学的知識人」いわゆるテクノクラートによる国制への貢献を理想とした。伊藤においては大学も「堅実なる政体の基礎」となるべき国家の機関であった。立憲国家という形式にどのような政治の内実を盛り込むかが「国民政治」である。強力な行政により国制を整備し、その器に国民政治という精神を注入すべきであるとした。1889年になした伊藤の演説は、時の首相黒田清隆と同じ君主大権論で、天皇に主権が帰一するという天皇主権専制国家論であるが、同時に「憲法を設け議会を開かんとするにあたり、党派の起るは人類群衆の免ればからざる」といって、既に政党政治不可避の見解を持っていた。しかし「すみやかに議会政府すなわち政党をもって内閣を組織することは危険である」と急進論を戒めている。世の中は営利によって動き、党派は民間においては止むを得ざる勢いであるが、国家には共同体全体の普遍的利益を体現する義務がある。今国家の力は態をなしていない、だから漸進論で行くしかないという見識であった。日本の国際競争力を決するのは国民の民度であるという。では開かれた知性(民度)を有し批判精神をも備えた国民を前にして、治者の支配は決して恣意的になされるのではなく、治者の権力の発動と運用には憲法の規定による規整が課される。つまり立憲政治が不可欠であると云う論理だ。しかしこの規制は治者のためにあるのか、国民のためにあるのか、どちらの力をそぐためにあるのかは紛糾の種である。これは支配の様式も時代によって変化することをいっているのではないか。

4) 立憲政友会の結成ー国制と政党の調和をめざして

第3次伊藤内閣が政権を放り出して、1898年大隈重信を主班とする第1次大隈内閣(隈板内閣)が組閣され、これは我国で始めての政党内閣となった。大隈が率いる進歩党と板垣が率いる自由党の野党連合により結成された憲政党を基盤とした。しかしこの政党内閣は内紛でわずか4ヶ月で崩壊し、山県有朋の超然内閣が出来た。1898年伊藤は新党を結成しようとしたが、山県の反対で潰えた。政権から下りた伊藤は1898年8月から清韓両国へ外遊し、1899年4月から10月まで憲法行脚にでて断続的に日本各地を遊説した。伊藤は日本国民を立憲国家の民として啓蒙しようとしたのである。1899年陸奥宗光外相のもとで不平等条約の改正が妥結し、治外法権の廃止と関税自主権の一部回復を成し遂げたが、外国人の国内自由往来が始まり、世界の動きから孤立していた日本が、世界のダイナミズムに自ら参入する歴史的な転換点であった。国土の開放によって日本の経済発展が促される文明国の時代に突入した。国粋を守る愛国心から国を豊にしようとする本当のアクティブな愛国心を伊藤は確信したという。文明の政治とは、あくまで国民を主体とした政治であり、それは議会制度を前提としたものでなくてはならなかった。伊藤が超然内閣主義者であったという従前の理解では、1900年伊藤が立憲政友会の初代総裁となったことは説明できない。政友会の中心となったのは旧憲政党系なかでも星亨で、伊藤と憲政党を結びつけたのが伊東巳代治であった。ここから政友会の設計者は星や伊東であるという。伊藤の政友会結成とは、建国以来の行政や官僚機構を20世紀の時代に適応したかたちに修正することであったという説がある。伊藤は財界を組織しようとしたが、三菱の岩崎は福沢諭吉との親交が長く、すなわち財界は大隈の進歩党のシンパで、財界や中小企業家は岩崎の影響下にあって、伊藤の新党結成に参加する人は少なかった。すると自前で商工業者を組織できなかった伊藤はやむなく憲政党(旧自由党)の星亨に依拠せざるを得なかった。伊藤は政友会に伊藤なりの組織論(党首への絶対服従、サロン的政党、シンクタンク的性格、内閣への人材提供機関)と責任内閣制(党員であっても党利より国益優先)をもっていた。

5) 明治国制の確立ー天皇制機関化と軍のシビリアンコントロールをめざして

伊藤は、立憲政治の精神である「妥協と調和」の担い手たることをめざして政友会初代総裁についた。国民の政治参加(納税と選挙)を促し、国家の政治的統合力を強めることが目的だった。伊藤の政党は闘争ではなく宥和にあった(現実的かどうかは別にして)。それが彼の政治信条だった。1900年8月山県有朋は伊藤の政友会に政権を移譲し、10月に第4次伊藤内閣が成立し、殆どの大臣を政友会で独占した。ところが北清事変派兵費用問題を辛うじて天皇の命で切り抜けたが、党内不一致で1901年5月僅か半年で伊藤内閣は崩壊した。続いた桂太郎内閣は1901年12月日英同盟締結方針を確定し、ロシアとの交渉にあたっていた伊藤の足元を掬った。伊藤は国際関係の緊張下において内閣支持の方針を政友会に示したが、根からの政党人である原敬や尾崎行雄らには愚作と映り、伊藤のリーダーシップに対する党内の不満が高まって、7月伊藤は政友会総裁を辞任し、枢密院議長に転身した。伊藤の政友会構想に批判的な山県や桂の策動により、政治の場より天皇の側近に帰る花道を用意したのである。政友会を作る前年に伊藤は帝室制度調査局初代総裁となっていた。ここを基盤として伊藤は明治憲法体制の点検と修正を目指した。憲法と皇室典範を戴く政務法と宮務法の2元的国法秩序として性格づけられる明治憲法の国家体制は、法的には皇室と政府は分離していたのであるがその判別は明瞭ではなかった。そこで伊藤は皇室及び皇族の法的な地位を確定する意欲をもった。伊藤が政友会総裁となってから帝室制度調査局総裁を辞任したが、1903年政友会総裁を辞任してから帝室制度調査局総裁に復任した。副総裁は伊東巳代治であり、皇室制度の調査立案を行い1907年にはその成果が順次公表された。

皇室を国家の機関として位置づけることが国制上の原則となる。1907年に皇室典範の増補改定がなされ、皇室事務を定めるものとして皇室令という法令形式が確立した。宮中を府中と並ぶ統治機構として法政上公定するという意味合いがあったのである。そして皇室の法令化は、山県有朋のいう帷幄上奏の慣例により、内閣の関与を拒否するという動きと激しい対立をなしていた。山県らがいう天皇が統帥権を持つ軍部は侵すべからざる存在(軍部の制度的独立)であるに対して、伊藤は皇室令で天皇の機能を法令化する中で、軍部に関することもシビリアンコントロール下におこうとする狙いがあった。帝室制度調査局副総裁伊東巳代治の強い推薦により有賀長雄が調査の中心となった。有賀も伊藤と同じくオーストリアのシュタイン教授に師事した。シュタインを介して伊藤と有賀は結ばれていたといえる。有賀は帝室制度調査局が扱うべき問題は、国家全体の編成に関する根本的問題であると見抜いた。そこで志向されたのは天皇主権の確立というよりも、皇室や皇位のより一層の制度化であり,国家機関化であった。天皇は国家に君臨するといえども国家を私有しているのではない。天皇の国家への貢献が期待されたのである。 有賀は1908年の中国使節への挨拶で「憲法の規定によらざる君主の命令は、君主の命にあらず」と言い切っている。明治憲法における天皇の性格については、穂積八束らの正統派君主主義者は第4条の「統治権を総攬する」を重視し、有賀らの立憲派は同じく第4条の「憲法の条規により之を行なう」に力点を置く。国家と皇室を区別する考えでは、責任問題の生じる事柄については、皇室ではなく国家の事務として政府が之を行うので、皇室には責任問題は起こらない。皇室の無責任化である。

伊藤と有賀の立憲制度論は、国家行動の制度論といえる。制度を動かすのは生きた人間の精神的活動であり、それを十全に働かせることが国家制度の最も重要な点であるとする。有賀は議会にはあまり期待せず、責任政治とは内閣政治とイコールであると考えた。公式令の本来の目的は内閣官制の改正で、大宰相主義への回帰が企画されていた。1889年の内閣官制第4条では、法律一般に係る勅命は内閣総理大臣の副署が必要であるが、各省の行政事務に関する勅命に関しては内閣総理大臣の副署を必要としない。こうして内閣総理大臣の権限と地位はおおきく減殺されていた。例えば陸軍・海軍省に関する行政には総理大臣は全く関与する権限はなかった。1907年の公式令第6条、第7条ではすべての法律と勅令について内閣総理大臣と国務大臣の副署が必要となった。公式令制定のとき、調査局が念頭においていた勢力は軍部である。本来明治憲法第11条の統帥大権に係る軍令事項が肥大化し、軍の編成や常備兵に関する編制大権までもが統帥権の一部になっていたので、調査局は皇室制度も整備と並んで軍部の統制を重要な任務としていたようである。その根拠は1898年の内閣官制第7条で「軍機軍令に係り奏上するものは、陸軍・海軍大臣より内閣へ報告する」ということで、奏上には内閣を通さなくてもよく、奏上したものを事後的に首相へ報告すればいいとされていた。何が軍機軍令であるかの解釈は軍当局の恣意的意向によってきめられ、予算にからむ通常の行政的事項まで帷幄上奏されていた。つまり軍隊は内閣から独立していたのである。1907年斉藤実海相は韓国の鎮海湾防備隊を配備する条例案を天皇に奏上した。当時初代韓国統監として赴任していた伊藤は伊東巳代治を叱咤し公式令を楯に軍の動きを行政命令の中で処理するように促した。これに対して山県有朋元帥は統帥権帷幕奏上を侵すものとして反対した。そこで山県と伊藤の間で交渉が行われ、公式令を山県に認めさせた代わりに、統帥事項と行政の区別を判然とさせるため、統帥と認める規定は法令としての軍令とする認めざるを得ないという妥協が成立した。要するに何を統帥事項とするかは勝手に軍が決めていいのである。これは軍の勝利であるが、これには韓国統治のために止むを得ざる伊藤の妥協とみなされる。

6) 東アジアの中の韓国統監

1906年日本は韓国の外交権を奪い保護国化して、3月伊藤が初代韓国統監として赴任した。ところが同年7月韓国皇帝高宗はハーグ平和会議に日本の韓国統治の不法性を訴えようとしたが、未然に阻止され高宗は退位させられ,第3次日韓協約によって、法令制定権や重要な行政処分権、官吏の任命権など幅広い内政監督権を日本に認めさせられた。そして韓国軍隊も解散させられ、実質的に日本は韓国を統合(植民地化)した。伊藤は植民地監督官として1910年の韓国併合への道ならしをしたが、1909年ハルビンで韓国独立運動の義士安重根によって暗殺され晩節を汚した。韓国統監として赴任する直前、帝室制度調査局総裁として憲法と皇室改革に挺身していたカレの国家構想と、この韓国統治はどうつながるのだろうか。それは彼の政治思想とどう整合化されるのだろう。1904年3月日露戦争の最中、伊藤は韓国皇帝高宗を訪問した。それは日本の方針を説明し対日協力を取り付ける目的であった。伊藤は韓国を文明化する10ヶ条の意見を陳述したというが、日本政府は着々と韓国の保護国化に向けて動き、同年5月対韓施設綱領は保護国化と拓殖の促進を明記した。1905年9月のポーツマス条約によってロシアも日本の韓国支配を容認したため、同年11月日韓条約(第2次日韓協約)で外交権を奪い日本人の統監をおくことが決定され、1906年には第3次日韓協約により全面的な保護国化となった。伊藤自らが起草した統監府官制第4条には「統監は韓国の安寧秩序を保持するため必要と認めるときは、韓国守備軍の司令官に対して兵力の使用を命じることができる」とあり、文官たる伊藤統監に軍の使用を命ずる権利があった。山県は当然軍官が統監になるものと見込んでいたが、伊藤自らが統監になったのである。韓国駐在軍の長谷川司令官は山県に「天皇の直隷である司令官が統監に隷属するのはいかが」と問い合わせた。明治憲法で唯一文官が軍隊の指揮権を持ちうる官職が統監であった。このような統監は文官と軍官の2つの顔を持つ「ヤヌス」といわれて、伊藤は複雑な立場に自らを追い込んだ。

伊藤はなぜ韓国総監を引き受けたのであろうか。ひとつは表向きの理由かもしれないが「東洋の率先者たる」日本が韓国を文明化する使命感かもしれない。もうひとつの理由は欽定憲法改正における公式令の延長線上で、文官による軍部のコントロールの実例を韓国で作りたかったということかもしれない。はじめの理由は悉くその後の日本の施策が韓国の植民地化に流れていったので伊藤1人の思いでどうなるわけでもなかったが、それでも伊藤は日本の文明化の第2のパターンを韓国で再現したかったという表向きの理由を信じよう。伊藤の文明化とは、民本主義、法治主義、漸進主義の要素から成り立っている。民度を高めて殖産興業をはかるという文明化のプロジェクトは日本でも韓国でも相違はなかった。中でも伊藤は本場中国よりもより教条主義的な韓国の儒教的知をひどく嫌った。韓国宮廷の儒者や行者(宗教者)が近づく事を嫌い、反日運動に韓国皇帝が巻き込まれないように「宮禁令」を制定した。伊藤は韓国に教育の効用を説いたが、1904年の対韓国施設綱領では教育の整備には一顧も与えていない。教育を充実すれば間違いなくナショナリズムの高揚から反日運動につながると、伊藤はさて置き日本の支配者は憂慮していたのである。伊藤の文明化への思い込みは韓国の愛国的知識人との間で最初から共有されることはなかった。伊藤は圧政的支配者の代理であることに違いはなかったのである。次に第2の理由である軍制改革としての韓国統治を考えてみよう。伊藤は公式令に基づいて軍事行政(軍政)を内閣が一元的に管理するという体制を、山県の軍部が支配する日本国内ではなく、韓国において実現を図ったと見るべきであろうか。原敬日記では、山県の専横による帷幄奏上権の恣意的解釈を相当な程度において制約を加えることが出来たと書いているが、山県自身は何を軍令とするかという解釈を軍部が握っているかぎり、どのような約束にも拘束された形跡は無い。名目で伊藤らが勝利したことにし、実質的に軍部の帷幄奏上権は一切の制限を受けないという確信を持っていた。統監府および理事庁官制は駐韓日本軍の指揮命令権を認めており、その総監に文官たる伊藤が就任したのだから、軍部の反発を招いた。伊藤は軍部の行動を法治化しようとした。これは児島源太郎参謀総長の韓国積極的経営論とぶつかり、1909年4月小村寿太郎外相は「対韓大方針」を奏上し、7月に韓国の併合が決定された。


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