101214

吉村武彦著 「ヤマト王権」  シリーズ日本古代史 A 

 岩波新書 (2010年11月)

日本初めての全国的統治政権「ヤマト王権」はいつ、どのようにできたのか

日本人なら誰しも、古代のロマン「邪馬台国」論争に興味を持たない人はいないだろう。関東系の学者は九州説、関西系の学者は畿内説を取るようである。現在の結論から言えば、女王「卑弥呼」の「邪馬台国」と古代政権「ヤマト王権」には連続性を確証できるものは無いということである。昔から歴史に興味を持つ文学者(松本清張氏ら)も参加して「邪馬台国」所在地論争は賑やかであった。いつも問題は魏志倭人伝の倭国の所在地表記法で悩まされてきた。かつて、畿内説は「魏志倭人伝」の方角表記が誤っていると考える研究者(「連続説」、主に京都大学系、内藤湖南)に多く見られ、九州説は距離表記が誇大であるか短里が用いられていると考える研究者(「誤記説」、主に東京大学系、白鳥庫吉)あるいは榎一雄に代表される「放射説」を取る研究者に多く見られた。また、最近の畿内説は、水掛け論に陥りやすい「魏志倭人伝」の解釈より考古学による知見のほうが確実と見なす傾向があり、考古学者の支持が強い。いずれにせよ物証の無い事件でいくら想像を掻き立てても水掛け論である。ここでは「邪馬台国」論争は無視しよう。同時代資料、考古学資料、東アジアの関係から古代「ヤマト王権」像を浮かび上がらせる方が利口ではないかと本書は提案している。

ヤマト王権は、4世紀前半に成立したと想定され(宋書倭国伝より)、律令国家が形成される7世紀後半まで(曽我氏滅亡、大化の改新後)まで存在した政治的権力である。つまり現代に通じる天皇制が出来るまでの王権と理解される。ところが4世紀については中国王朝の分裂により倭と中国との交渉が途絶え、中国側に記録が残っていないため文献的資料がない「謎の4世紀」あたりに成立したようである。中国側文献資料が「倭人」から「倭国」と表記が変わったからである。日本の歴史書には「古事記」、「日本書紀」があるが、7世紀後半の天武天皇の統治のころから国家の歴史編纂意思がたかまり、712年に「古事記」、720年に「日本書紀」が撰上された。8世紀の律令制国家(奈良時代)の基礎を担うものとして。国家事業として編纂されたのである。「古事記」は神武天皇から推古天皇まで、「日本書紀」は持統天皇までの事蹟を扱っている。「古事記」、「日本書紀」の「神代」には建国神話が描かれているが、これは国家意識が生んだ国作り神話である。国生み神話、国つくり神話(戦争による領土拡大)、国引き神話(殖民による領土開発)、国譲り神話(地方豪族の服従)で描かれた国土領域はあくまで律令制国家の支配した国土と重なっており、現実の政治状況から描かれた「国作り神話」なのである。

朝鮮との関係で言えば、新羅の話は5世紀の宋との交渉を反映しており、さらに663年の白村江の敗北と撤退が記憶に沈着したのかもしれない。「古事記」序文に神武・崇神・仁徳・成務・允恭天皇の治積が挙げられている。第1代神武天皇と第10代崇神天皇がどちらも「はつくにしらすスメラミコト」という国の創始者とされている矛盾、成務天皇が国・県の設置、允恭天皇が氏姓制度の創始者という重大な国家形成の役割を与えられている。これらの治積は推古天皇の時代のことであり、古代と今を別つ分岐点であった。「古事記」(天皇家の私的な歴史書として万葉仮名で書かれた)と「日本書紀」(正史として正調漢文で書かれた)は8世紀律令国家の編纂物であり、史実を示すものではなく批判的に見てゆかなければならない。本書は西暦1世紀前後の「倭人」と呼ばれた時代から、文献資料にあらわれた倭人の歴史からヤマト王権を取り扱う。ヤマト王権の時代は律令制国家を準備した時代でありながら、いつも古墳時代という漠然としたイメージで捉えられている。推古朝(592−628年)の飛鳥時代は確かに日本の原型を作ったが、新しい時代は舒明天皇(629−641年)、大化の改新(646年)、壬申の乱(672年)を経て確立されていった。飛鳥時代は律令制支配を直接準備し、694年藤原京に引き継がれた。

1) 東アジアの倭・倭人・倭国ー1世紀ー3世紀の日本列島

前にも書いたが、「日本書紀」や「古事記」は7世紀以前の日本を知る史書とはいえない。いずれも後代に編集された「歴史」であり、必ずしも同時代の文字史料や考古学資料に基づいて書かれていないからである。7世紀以前の史料といえば、中国の正史や出土する鏡や刀剣銘文などがあげられる。まとまった史料としては「漢書」、「三国史」の「東夷伝」、「夷蛮伝」がある。中国王朝の史書に始めて「倭・倭人・倭国」という言葉が見られたのは、AD82年頃に成立した「漢書」地理志からである。「それ楽浪海中倭人あり、分かれて百余国となす。歳時をもって来たり、献見するという」と記されている。前漢の武帝がBC108年に設置した楽浪郡(今の平壌付近)に、遠方より倭人が来て朝貢してきたというのである。これは中国から見た列島住民への集団認識であり、国として統一されていたかどうか疑問が残る。次の倭についての記述は「後漢書」であるが、これは南朝宋時代の5世紀に編纂されており、後漢滅亡後(220年)に編纂が始まった「三国史魏志倭人伝」の方が早い。「後漢書」は「三国史」を参照して作成されている。しかし「三国史魏志倭人伝」には見えない「後漢書」独自の記事が2件あり、重要である。
@AD57年、倭の奴国奉貢朝賀す。使人自ら「大夫」と称す。光武印綬を賜う。
AAD107年、倭国王師升等、生口160人を献じ、請見を願う。
最初の記事は志賀島から出土した「漢倭奴国王」印を示すと見られる。第2の記事にはっきりと「倭国」と書かれており、後漢書に「桓帝(146−167年)、霊帝(167−189)のとき倭国大いに乱れる」とあることからして、1世紀末から2世紀初めごろには倭国が成立していた可能性がある。倭の奴国は「倭の百余国」のひとつであるとしても、2世紀初めには「倭国」が対中国外交の窓口となっている。漢鏡が日本各地でひろく出土することから、倭国が権威高揚のために各地にばら撒いたようである。

「魏志倭人伝」とは正しくは「三国史 魏書」の「烏丸鮮卑東夷伝倭人条」のことである。3世紀の日本列島のことをつたえる第1級の史料である。「魏志倭人伝」は全文1900字程度で、大きくは3つの分野のことを伝えている。第1は倭人の各国の地理関係をのべ、第2に風俗・社会をのべ、第3に外交関係(239-247年)を記述している。邪馬台国論争には立ち入らない方針であるので、簡単な地理を述べる。起点は前漢の楽浪郡ではなく公孫氏の「帯方郡」から、狗邪韓国を経て「対馬」、「一大国」(壱岐)、「末盧国」(松浦)、「伊都国」、「奴国」、「不弥国」、「投馬国」、「邪馬台国」という国の距離が述べられている。読み方にも連続式と放射式とあって論争しているが、女王「卑弥呼」の「邪馬台国」がどこにあったか、文字史料か考古学資料が出ない限り決着はつかない。中国との外交史でみれば1世紀半ばまで「倭の奴国」が対象であった。この時期の倭の中心は北九州にあった。その100年後(2世紀中頃)「邪馬台国」が倭の盟主になった。漢鏡の九州と近畿地方の年代別出土数を見ると、紀元前(前漢)の漢鏡はすべて九州出土であったが、紀元後から2世紀半ば(後漢)には九州と近畿がほぼ同数であり、2世紀中頃から九州の出土はなくなり近畿の漢鏡が中心である。恐らく政治的中心が九州から近畿へ移ったのであろう。こうした中で卑弥呼が存在した3世紀初頭には「邪馬台国」が倭国の盟主となった。著書はどちらかといえば、「邪馬台国」と「ヤマト王権」の連続性をにおわすようで、「邪馬台国」の畿内説がいちばん素直なのではないかといっているようだ。

そのことは様々な地方的特徴を持つ「弥生式墳墓」は、各地に成立した地域的首長連合が形成された結果と見て、後の前方後円墳にいたる「纏向型前方後円墳」(奈良)が現れたことは奈良東南部に政治的連合が生まれた事を示すと考える。この時期倭国の王は必ずしも「邪馬台国」の王を擁立するわけではなく、倭国を構成する諸国の意志を見ながら国王が選ばれていたようだ。卑弥呼は倭の王に祭り上げられたのであって、邪馬台国の王であったとは書かれていない。あるいは、どんぐりの背比べ的な勢力均衡の王国乱立では、どこの王を倭国の王としても異論が出て収まらないなら、ここはシャーマン的卑弥呼を立てて倭国の象徴としたのではないか。卑弥呼が239年に「親魏倭王」として任命されて以来、倭は朝貢国として外交的ポジションにあった。邪馬台国の時代には「卑狗」、「卑奴母離」という古代の官制を持っていた。これは「彦」、「鄙守」に通じる尊称である。共同体の階層分化が生んだ普遍的な支配者の職名であろうか。後漢に使いした倭人が「大夫」という中国的官職名を名乗っている。また「一大率」も中国的官職と思われる。おそらくは中国に指導されて、新しい職務と中国的官職名が誕生していった。魏志倭人伝にみえる「大夫」、「都市」は使者の官職名であった。市の管理を司る官名は「大倭」であった。倭国住民の身分には治者を「大人」、被支配者を「下戸」といった。また奴隷制度もあったようだ。入墨によって人の尊卑に差をもたせた。衣冠制度が整うのは律令制が布かれてからの事である。

2) ヤマト王権の成立ー謎の4世紀

記紀(古事記と日本書紀)にはヤマト王権の由来と伝承が書かれているが、批判的に読み進めなればならない。第1代天皇は「神武天皇」であるが、「はつくにしらすスメラミコト」(はじめてこの国を統治する天皇)となずけらた天皇が二人存在する。第1代神武天皇と第10代崇神天皇である。日本書紀には39人の天皇が編年体で記されているが、第2代綏靖から第9代開化に至る天皇は事積という歴史的記述(旧辞)を欠く「闕史八代」と呼ばれ、実在した天皇とは考えられていない。天命が改まるという辛酉革命説に則り、601年の辛酉年から1260年遡った年に第1代天皇を即位したことにしたかったようだ。そのため天皇在位期間が人間の寿命からしてありえないほど長い(崇神が168歳、垂仁は153歳など)。またこの間の王位継承はすべて父子間の継承となっており単純極まる。天皇の実在性が高まる15代応神天皇以降の王位継承は兄弟継承が多くなるのである。事積という歴史的記述(旧辞)を欠くことが記紀の「帝紀」として不完全さを免れないという見解は、西暦417年の銘がある稲荷山古墳「金錯銘鉄剣(国宝)に記された銘文からもいえる。この銘文は「ワカタケル」(第21代雄略天皇)に仕えた四道将軍「オオヒコ」の族「オワケ」の9代の子孫の名前と官職名「杖刀人」(軍人)、仕えた天皇の名(ワカタケル)と地位(天下を治める補佐役)、都の所在地まで記されている。この時代に王の系譜が存在していたならば当然帝紀にもなくてはならない。それを欠く天皇は所詮実在しない架空の想像に過ぎないというわけである。すると初代のヤマト王権の王は崇神天皇となる。ところが崇神天皇が実在したという史料は無い。中国との外交は3世紀の魏志倭人伝から5世紀の倭の五王まで交流が途絶えていた。いまのところヤマト王権の成立時期をあらわす確実な証拠は無いのである。崇神天皇陵としては宮内庁は奈良盆地南の柳本古墳群の「行燈山古墳」が比定されている。「行燈山古墳」の築造年代は4世紀前半と見られ、ヤマト王権もそのころ成立していた事になる。

ヤマト王権が成立した4世紀の東アジア情勢は、中国の魏呉蜀の三国鼎立が破れて、魏の流れを汲む晋が建国した(265-316年)。その後五胡十国と呼ばれる分裂時代となった。朝鮮では北の高句麗が勢力を伸ばし中国の支配を脱する。南では馬韓・辰韓・弁辰の三韓に分かれた。中国の支配が緩むと周辺国家は多数の分裂国となるのが通例である。そのため分裂時代であった4世紀は倭の消息は中国製正史から消えるのである。後になって書いた記紀のイデオロギーにそう記述は厳密な史料批判は必要である。同じことは朝鮮の文献である「三国史記」、「三国遺事」は12世紀から13世紀の作品であるため、厳密な史料批判は必要である。考古学では前方後円墳の成立をもってヤマト王権の成立を説く人が多い。ところが王権とは所在地、権力のあり方などが分らないと、古墳の立地だけからヤマト王権を論じることは不可能であるという。同じ墳型の採用は、同一の儀礼・葬制の継承を意味する。この前方後円墳は近畿地方の弥生墓制を継承するものではない。倭国が統一されてゆく過程で、各地域(朝鮮半島を含めて)の墓制の影響を受けて前方後円墳になっていった。墓制は倭国の統一プロセスを反映するものではあるが、ヤマト王権の成立とは別問題である。3世紀後半には近畿地方を中心とする前方後円墳の成立と4世紀前半のヤマト王権の成立の流れが示されるに過ぎない。ただし3世紀半ばの邪馬台国と4世紀前半のヤマト王権が直接繋がることはいえないのである。

日本書紀の著者は魏志倭人伝を読んでおり、卑弥呼を神功皇后にあてている。しかし皇后は王ではないし、かつ神功皇后には子供が居る。無理やりのあてつけは皇后の朝鮮半島での事蹟と全く合致しない。ということはヤマト王権の伝承(帝紀)には卑弥呼という存在(邪馬台国も)は含まれて居なかった。邪馬台国は奈良桜井市の纏向遺跡が有力な候補のひとつである。初代天皇の崇神天皇の王宮は磯城瑞離宮(しきみずがき)となっており、邪馬台国とヤマト王権のつながりはない。ヤマト王権が前方後円墳世いう古墳祭祀を継承した王権であるなら、崇神紀に古墳起源譚(箸墓)を記載しているのは意味がある事かもしれない。日本書紀に四道将軍が全国的な征討活動をおこない、戸口調査と調役を行なったとされている。日本書紀の「任那朝貢」の記事は歴史的事実ではありえない捏造記事である。崇神天皇から始まる初期ヤマト王権の王宮所在地と王墓の関係をみてみる。第10代崇神天皇の宮は磯城水垣で、王墓は山野辺である。後の平城宮と違って、天皇が変わると別の場所に王宮を営む「歴代遷宮」が基本である。ヤマト王権の大王族と豪族の居住区は奈良東南部の春日山、三輪山、葛城山、生駒山の盆地に流れる佐保川、初瀬川、飛鳥川に沿っていた。大王家は三輪山麓から初瀬川に、物部氏は大王家に近接して北側に、和珥氏は春日山近く、大伴氏は三輪山の南に、蘇我氏は飛鳥川上流に、葛城氏は葛城山系の麓に、平群氏は生駒山の麓にあった。前天皇が没すると、群臣の推挙によって新帝を決めさらに新帝によって群臣を任命するという、共同体の政治的意思が首長に体現される首長制社会であった。天皇の姻戚関係から後ろ盾になる豪族にとって有利になるよう王宮所在地も定められたようだ。第13代成務天皇と第14代仲哀天皇は実在した天皇とはみなされていない。

3) 東アジアと倭の五王ー5世紀の日中外交

高句麗の広開土王(好太王)の碑文が414年に立てられた。場所は今で言えば中国領である鴨緑江の北岸である。風化が著しいが、永楽6年(396)と9年と10年と14年に倭の記述がある。ヤマト王権と朝鮮半島の交渉を示す最も象徴的な記述が396年の事蹟である。「倭が渡海して百済、新羅を破って臣民とした。そのため広開土王が百済を征討して昔の臣民関係に戻した」というものである。永楽9年には「百済は倭と密通し、人質を倭に提供した」という。ヤマト王権の朝鮮半島進出の目的は鉄の入手と、百済文明の輸入・百済知識人の受け入れである。日本書紀の神功皇后の朝鮮出兵物語が有名であるが、4世紀末に実在した人物とは思えない。むしろ記紀の作者の狙いは次の応神天皇以下の天皇が新羅を含む三韓を朝貢国として位置づけたことであった。中国では420年に宋が建国した。倭国王「讃」が宋に使者を派遣した。「宋書」倭国伝に宋と外交関係を結んだ五人の倭王、讃、珍、済、興、武、いわゆる「倭の五王」の記事がある。倭国王の自称称号と仮授称号とを宋の皇帝から承認してもらうことが目的であった。例えば「珍」の場合、「氏持節、都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王」を自称した。その結果珍は「安東大将軍、倭国王」の称号を与えられた。朝鮮半島諸国の軍事的支配権は認められなかった。これは中国皇帝が周辺国家の王を任命する「冊封」である。中国皇帝の代が替わるごとに冊封を求めたのである。「済」になると百済を除いた「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東将軍、倭国王」の称号を得た。朝鮮半島南部の東南海岸の諸国を属国化を認められた。倭国は王の冊封だけでなく、438年には王権メンバーの「倭隋」も「平西・征虜・冠軍・輔国将軍」という中国の官位を得た。倭の国王が姓を名乗るのは5世紀だけである。「倭」が姓であった。倭の五王の比定は、「武」が雄略天皇(第21代)、「珍」が反正天皇(第18代)は確からしいが、「興」が安康天皇『第20代)、「済」が允恭天皇(第19代)、「讃」が履中天皇(第17代)ということは難しい。倭王「武」が送った上表文は「春秋左氏伝」の文章を見たのか格調高い文章となっている。倭国は121国と謳っている。これは隋書倭国伝の「軍尼120人、中国の牧宰のごとし」に相当する。

5世紀の日本の実情を知らせる同時代史料が3つある。市原市の稲荷台古墳出土の「王賜銘鉄剣」、行田市の稲荷山古墳出土の「金錯銘鉄剣」、熊本県和泉町の江田船山古墳出土の「銀錯鉄剣」である。錯とは鉄の中に金銀などの他の材質を象嵌して研磨した製品をさす。そこに彫られた銘から同時代の実情が伺い知れるのである。稲荷台古墳出土の「王賜銘鉄剣」には、ヤマトの王から東国の首長に下された剣である。当時外交的には「倭国王」を名乗っていたが、国内でも「王」であった事を示している。熊本県和泉町の江田船山古墳出土の「銀錯鉄剣」には「ワカタケルの大王」の名が見え九州の首長に下した子孫繁栄を願う剣である。西暦417年の銘がある行田市の稲荷山古墳出土の「金錯銘鉄剣」には「ワカタケル」(第21代雄略天皇)に仕えた四道将軍「オオヒコ」の族「オワケ」の9代の子孫の名前と官職名「杖刀人」(軍人)、仕えた天皇の名(ワカタケル)と地位(天下を治める補佐役)、都の所在地まで記されている。稲荷山古墳出土の「金錯銘鉄剣」は第1級の史料といえる。これらの鉄剣の技術的製法や文字の字形そして鉄の材質からして朝鮮半島の影響を受けていることは事実として、中国の素材の提供を受けてヤマトの中央部で制作された可能性は高い。「金錯銘鉄剣」にみえる「杖刀人」、「銀錯鉄剣」には「典曹人」という官職名が見える。前者は武官、後者は文官である。この様に5世紀後半には漢字表記の職名を記す分業的支配システム(王廷組織)が存在していたようである。これを古代史では「人制」と呼ぶ。

478年の送った「武」の上表文に「開府儀同三司」を部が自称していた。これは役所(政府)を開くことが出来る権限である。「杖刀人」や「典曹人」の側からは倭国王を「大王」と呼んでいた。しかし5世紀半ばでは「王」の呼び方が通常であった。鎌倉時代に書かれた「釈日本紀」の「上宮記」には「王、大王、大公主」の称号が見える。制度としては「王」であり「大王」は尊称であろう。日本の国号は大宝令で制度化された。あめのしたしらしめすという意味で「御宇天皇」という名称が出来るまでは、「治天下の王」という呼び名が「銀錯鉄剣」にみえる。天皇号以前は「治天下○○王」が一般的呼称であった。君臣関係は「佐治天下」と記述される。王を佐けて天下を治めるのが臣である。本来中国の皇帝の前では、「治天下」とはいえないはずだが、国内向けにはダブルスタンダードを持っていたようだ。5世紀は倭の五王が宋に使いして、中国から積極的に文化と治政システムを学んだ時期で、古代史では「画期としての雄略天皇」という言い方をする。中国で445年から施行された元嘉暦が雄略朝から使用されている。

日本書紀と稲荷山古墳出土の「金錯銘鉄剣」で「ワカタケル」といわれた第21代雄略天皇の宮の所在地は「斯鬼宮」、「磐余宮」、「泊瀬朝倉宮」と三箇所記されており、複数存在したようである。古墳からは埋葬者を特定する史料は出てこないが、ほぼ実在したといわれる第15代応神天皇以降三代の王宮と墳墓は奈良盆地を離れて難波へ移動する。応神天皇の宮は大隈宮、墳墓は大阪の古市古墳群、百舌鳥古墳群に作られている。第16代仁徳天皇は難波宮、第18代反正天皇は河内に宮をおいた。そして第19代以降の王宮は奈良盆地へ戻った。大阪平野への王宮、王墓の移動は、「河内王権論」という王朝の交替を意味するという意見もあるが、ヤマト王権の海外展開を見据えた移動であった。宋書に倭の5王の血縁関係が記されていないことから、讃、珍王家と済、興、武王家の「2つの王家論」や、江上波夫氏の「騎馬民族説」、水野祐氏の「古代王朝交替論」など「万世一系否定論」を生み、決定的証拠は何もないが、少なくとも滑稽な「万世一系論」を相対化した意義は大きい。古代天皇家のルーツを@初期ヤマト王権、A河内へ移動した応神天皇家、B越から来てなかなかヤマトに入れなかった継体天皇の三時期をどう見るかにかかっている。著者は「河内王権論」を排し、ヤマト王権の海外展開のための遷都という見方をとる。

5世紀には宋との交渉が頻繁に行われた。「武」の宋への上表文に「渡りて海北95国を平ぐ」と記されているように、5世紀における朝鮮半島への関与は、新羅・任那への軍事的支配権を狙ったものである。文字を持たず、資源にも乏しい日本では大陸との交渉が、現代と同じように死活問題であったようだ。青銅器・鉄器は朝鮮半島を通じてやってきた。王権にとって漢字・統治制度など文字と文化の受容が一番重要な課題であった。文化と表裏一体をなして、大陸や百済の知識人の渡来・帰化も盛んに行われた。平安時代に編纂された「新撰姓氏録」では帰化系の氏族が3割を占めている。5世紀後半から6世紀初めに朝鮮南部の栄光江に集中的に現れた前方後円墳は、朝鮮起源ではなく日本から半島経営に渡った倭人起源であろうと見ることが出来る。5世紀には半島から日本列島へという流れと日本列島から半島への流れも存在したのであろう。「魏志倭人伝」に倭には「牛、馬、虎、豹、羊、鵲なし」と記されたように、5世紀には渡来人とともに馬文化が来日し、「河内馬飼」部民を構成した。渡来人の遺跡には奈良盆地御所市の「南部遺跡群」、河内湖周辺の遺跡群、大阪泉北丘陵にある陶邑遺跡群などが有名である。なお関東にも渡来人に由来する地域名も多く残っている。最後の倭の5王である雄略天皇が没してから、中国の南朝の宋も滅亡し、これ以降は全く史料はなくなった。ところが6世紀に入ると、日本書紀の記述が俄然現実味を増し、歴史的事実を確認できるようになる。

4) 継体天皇と朝鮮半島ー6世紀前半の任那経営

第25代「武烈天皇」には子供が居なかった。ここで応神・仁徳系統が途絶え、大連の大伴金村・物部麁鹿火がイニシャティブを握って、応神の五代孫「オホド」を越から招来して即位させた。これが第26代継体天皇である。即位してから大和地域には入れるまで20年も経緯したということは、ヤマト王権をささえる豪族の反対が強かったためであろう。継体天皇を初め五代の先祖の名前と事蹟が全く記されていないので系譜の信憑性を疑う学者も多い。五代孫といえば殆ど地方豪族(平安時代の平家、源氏の血統を天皇に迎えるようなもの)に過ぎなかった継体天皇は古代貴族にとって新しい王統とみえ抵抗が激しかったのであろう。継体は王権を正統ならしめるため、仁賢天皇の娘手白香皇女を正妻としていわば「豪族が天皇家に婿入り」した形を取った。継体天皇の墓は大阪府高槻市の「今城塚古墳」である。継体が死んでもなお王家の仲間入りは認められなかったようだ。継体天皇は507年に河内の枚方市の「樟葉宮」で即位した。宮を山背の「筒城」、向日市の「弟国」と移した後、京都南部・大阪北部の木津川、淀川流域で20年もうろうろしてようやく大和の「磐余」に遷都した。継体天皇を擁立したのは近江や越前地域を政治的基盤とする勢力であった。

日本書紀における継体天皇の主要記事は、朝鮮半島との外交関係である。この記事は書紀編纂時に百済亡命人によって提出された「百済本記」によっている。6世紀前半には任那の滅亡という一大事件が起こり情勢は緊迫した。5世紀には宋書に書かれているように、倭王は六国諸軍事安東将軍であったが、任那と加羅を含めて「伽耶」と呼んでいた。任那は金官伽耶、北伽耶は加羅のことである。倭は宋から「伽耶」の軍事的な支配権を認められていた。当時の「伽耶」は東から新羅が、西から百済から軍事的圧迫を受けていた。とりわけ百済は南下する高句麗の圧倒的軍事力の前に、南の「伽耶」へ撤退を続け、512年には「任那四国」の割譲を倭に願い出た。この割譲に同意したのは大伴金村で、これがヤマト王権内部に亀裂を生み、のちに540年の大伴金村失脚の遠因となった。百済は軍事的援助を倭に求め、それと引き換えにヤマト王権は五経・易・暦・医博士の上番(倭への交替勤務)を求めた。長らく日本書紀の「任那日本府」の役割について論争があったが、そもそも日本の国号は大宝律令(701年)で定まったので、6世紀前半の「任那日本府」という名称はありえないことである。直轄地という扱いは日本書紀の潤色である。今の人がこれを朝鮮総督府という感覚で捉えるのは時代錯誤である。この時期百済官僚に採用された倭人系の役人も少なくない。逆の帰化人といえそうだ。こういった百済・倭人混血官人たちが、使者や両国の意志伝達、文化交流に活躍していたといえよう。九州と朝鮮半島南部は百済人と倭人が活躍する舞台であったようだ。

律令制では日本国王は天皇、その正妻は皇后で、王位を継承する1人の後継者を皇太子(東宮)と称した。律令制以前の王位継承はどのようにして行われたか、古事記の第12代景行天皇の記事には、3人の「太子」を挙げている。継体以前の王位継承者は複数いたと見られる。古事記に兄弟殺しの伝承が多いのはその辺の事情をあらわしているのであろうか。ところが継体天皇時には新しい王位継承の動きがあった。「太兄」制度の誕生である。この@太兄、A兄弟による継承が大化の改新以前の王位継承の原理であった。この太兄制は中大兄が即位した7世紀後半まで存在した。大化以前の新帝即位は、天皇没後に群臣が新しい天皇を推挙する手続きによった。群臣の意見が分かれるときは、一番有力な臣の主導でことが決するようだ。推古女帝の没後、田村皇子と山背皇子が候補者であったが、蘇我蝦夷の主導で田村皇子が天皇の位についた。この陽に群臣は新天皇を推挙し、新天皇から群臣が任命されるという手続きであった。律令制の官人制度では天皇が替わっても群臣の地位は基本的には変化しない。日本書紀は、534年継体天皇が継承者を指定して(譲位)、即日継体天皇がなくなったという記事があるが、これは一寸頂けない無理なつじつま合わせをしている。中国王朝の譲位という制度を倣ったように見せかける記述であり、少なくとも日本の天皇制で天皇在位中の譲位(禅譲)は、大化の改新における皇極天皇から孝徳天皇への譲位が最初である。継体天皇没後になにやら政変が起きたようである(辛亥の変)。王朝が替わったとか、2王朝が並存したとかという噂がある。「百済本記」には天皇と皇子が同時になくなったいう。継体天皇没後を531年とし、欽明天皇即位を532年とする説では、安閑、宣化天皇は存在しないことになる。林屋辰三郎氏は列島で内乱が発生したという。

継体天皇紀には朝鮮伽耶問題とも関連して、筑紫磐井の反乱が起きた。継体天皇が伽耶救援のため近江毛野の六万の兵を送ったとき、筑紫熊本に勢力を持っていた豪族磐井が新羅から賄賂を貰って反乱を起こしたという。九州の豪族は独自に朝鮮半島南部に使節派遣や貿易をしており、ここからかなりの利権を上げていた様である。朝鮮との交流はヤマト王権より頻繁に行なっており、彼らの情報からヤマト王権の戦術が出てきた。九州の豪族が朝鮮のある国と組んで自分の利益を守るために、ヤマト王権に反旗を翻したのである。この乱は1年後物部麁鹿火が鎮圧した。534年武蔵国造の地位を争って乱となり、こうした乱の後、天皇家の直轄領「屯倉」が各地に設けられていった。日本書紀の屯倉記事は13箇所におよぶ。屯倉設置とそれを管理する犬飼部が設けられた。6世紀前半には各地の在地首長(国主)の中から、国造が誕生した。「隋書倭国伝」には「軍尼(国造)120人あり中国の牧宰のごとし、80戸に1稲置を置く今の里長の如き、10稲置は1軍尼に属す」という記事が見える。地方の行政組織が7世紀初頭までに整備されていった。国ー県という制度であった。国造は裁判権と徴税権を持っていた。

5) 仏教伝来と蘇我氏ー6世紀後半 律令制前夜

日本書紀の記述が混乱しているため、継体天皇没後はたして内乱や王朝異変があったかどうかは想像の域を出ないが、短期の安閑・宣化天皇2代のあと、539年に欽明天皇が即位した。欽明の在位は32年であるので安定した王権であったといえる。欽明は即位後大伴金村と物部尾輿を大連に、蘇我稲目を大臣に任命する。大臣・大連制は6世紀前半に整備された制度であろう。連系氏族には大伴、物部、中臣、忌部などの部を管轄する伴造の氏である。伴造とは天皇に直接仕える職掌を氏の名としている。臣系氏族は蘇我、巨勢、平群など地名を氏の名とする地域の豪族で建内宿禰を祖とする系譜に繋がる。次の時代の政権を担う曽我稲目は宣化天皇時に登場した。蘇我家の系譜を記すと、満知ー韓子ー高麗ー稲目ー馬子ー蝦夷ー入鹿となる。蘇我氏は朝鮮貴族の渡来人であると云う説もある。本拠地は橿原市曽我付近であったといわれる。蘇我氏は欽明天皇の外戚となって政治的影響力を高めてきた。稲目の娘堅塩媛(姉)と子姉君(妹)の二人を欽明の妻に入れて、多くの皇子をもうけた。このやり方は奈良時代の藤原氏が倣った後宮戦略である。用明天皇、推古天皇、崇峻天皇、聖徳太子の後見人として権力をほしいままにしたのである。

日本書紀には欽明朝において蘇我稲目を吉備に使わせて、白猪屯倉と児島屯倉を設置したという記事がある。白猪屯倉は農業経営の拠点として、耕作民を田部という部民に編成した。名簿に田部の名を記入し租税名簿とした。これがうまく機能しなくなると、性別年齢を加えて戸別に編成した「田戸」として編成した。蘇我氏は新たな屯倉管理を通じてヤマト王権の財政管理基盤の拡大強化に努めた有能な官僚であった。蘇我氏は渡来系移民の養蚕職の秦氏や文書に長けた文氏を用いて出納や帳簿管理専門職集団を構成していった。今でいう大蔵省の役割を演じた。もともと吉備地域には豪族の墳墓があり、吉備豪族の力は侮れなかった。記紀には吉備を舞台とする3つの反乱記事がある。蘇我氏主導で吉備の大豪族を抑制し、ヤマト王権の支配を強化していった。吉備は海上貿易の要所であり、宿舎、製鉄遺跡などがあった。6世紀初めの人には姓がなかった。中国の史書では、これが姓なのかどうかはっきり言えないが、「倭讃」というように大王の姓は「倭」といった。姓は大王や渡来系氏族だけしか有していなかった。氏名や部民制は6世紀半ばの欽明朝の頃のようである。5世紀には「人制」という職能集団を組織して王権に必要な社会的分業組織があった。その後、物部・忌部などの部民制度が出現したが、王に仕える「名代」、王の職務集団である「職業部」、豪族の私的所有である「部曲」があった。部民制は百済の影響が強い。中央の伴造が同じ職業の地方の伴造を介して、軍事などの職能集団「部」を統率する。物部氏は軍事警察の官僚組織を統括する部であった。中臣氏は祭礼を司る「神社庁」の部であった。氏の本質は、王権から与えられた職掌をもって氏を名乗る限り、王に奉仕する人格的依存関係で結ばれる。王権に直結する官僚組織の長である大連、在来豪族の長である大臣の二つの勢力の均衡を図ってヤマト王権は成立した。

仏教は百済からもたらされた。百済と倭国の交渉は「百済本記」に基づいて日本書紀の継体紀と欽明紀に記載されている。倭国は百済に軍事的支援を与える交換に、 多くの分野の博士を百済から招いた。このとき百済博士だけでなく、中国南朝の梁の文化人も多く渡来した。百済は梁との文化的交渉を持ち、仏教や儒教の移入に積極的に働いた。こうした中、552年百済の聖明王が仏教を正式に倭国に伝えた。欽明天皇は群臣に対応を諮問した。賛成したのは蘇我稲目で、物部・中臣は反対であったという。そこで仏像を蘇我稲目に与え、稲目は向原(飛鳥豊浦)の家を寺とした。その年疫病がはやったので仏像は堀に捨てられたという。次の敏達天皇のとき百済から経論や禅師・仏師・工人らが贈られ、蘇我馬子が仏像を引き取った。次の用明天皇は群臣に「朕、三宝に帰さんと思う。卿ら議れ」と諮問した。崇仏派の蘇我馬子と廃仏派の物部守屋・中臣勝海との対立が表面化した。蘇我氏が物部を滅ぼして、用明天皇は仏教を信奉した。推古天皇と聖徳太子は仏教の興隆に尽くし、舒明朝になると大宮と大寺が一体となって建設された。こうして王法と仏法を国是とする国となった。巨大な前方後円墳の築造は終焉を迎えた。古墳から寺院へと替わった。

562年伽耶諸国は新羅によって打ち滅ぼされ、「任那復興策」が崇峻・推古朝の課題となった。敏達朝のとき、新羅が「任那」に代わって「任那の調」を貢納してきた。これは戦争を避けるための形だけの欺瞞策で、実質倭国の支配が機能しているわけではなかった。646年には「任那の調」を廃止する代わりに、倭国は新羅に人質を要求した。人質として倭国に来たのは金春秋であった(金春秋は654年新羅の武烈王その人であった)。欽明が没すると非蘇我系の敏達天皇が即位した。敏達は大連に物部守屋、大臣に蘇我馬子を任命した。敏達天皇が没すると用明天皇が即位し、蘇我系の天皇となり蘇我氏の勢力は物部を上回った。そして仏教への帰依を巡って蘇我馬子は物部と中臣を急襲して滅ぼした。この闘いで活躍した聖徳太子が次の政権の中心となった。次の崇峻天皇では馬子を大連としたが、大臣は立てなかった。ここに大連・大臣制度は崩壊した。


随筆・雑感・書評に戻る  ホームに戻る
inserted by FC2 system