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海部俊樹著 「政治とカネー海部俊樹回顧録」

 新潮新書 (2010年11月)

クリーンな政治を目指し金権と闘った50年 自民党良識派の政治人生

海部俊樹氏が総理大臣であったのは1989年8月から1991年11月の2年余りの期間である。そして冷戦終結とバブル崩壊をもって、自民党政権はガタガタと崩れ始めるのである。丁度その中のあって、海部俊樹氏は政治改革関連3法案の審議未了廃案で内閣総辞職を行なった。そういう意味では自浄作用をなくした自民党の瀬戸際に立った人であり、やはり自民党を再生することは出来なかった人である。私が新聞広告で本書の「片手で運べる金は2億円」という見出しを見て、直ちに入手し半日で読んだ。読む前から予測はついていたのだが、総理大臣経験者自ら語ることには重みと深刻さがある。「だから自民党は・・・・・・」というありきたりの感想は誰でも抱くものだが、日本政治の暗黒部分は容易には理解できない。東洋的腐敗政治は中国の専売特許みたいに語られるが、日本の深淵も深い。政治理念や改革はきれいごとといって退けられ、寝業師と金配りと数の論理のみが横行する自民党派閥政治の病根は、いまも続いているらしい。民主党といえど同根である。どうしたらいいのか、本書を読んで見ても解法は示されていない。

「私は墓場までもってゆかない。かくしだてをせずにありのままを書く」といって海部氏は語り始める。冷戦終結、湾岸戦争、バブル崩壊という時代に大きな転換点にあって、政治家としていかに歩んだのか。自民党、新進党、自由党、保守党、そして自民党復党と政治の枠組みの激動期に小沢一郎氏と3度もタッグを組んで騙され続けたおばかさんの政治家だったのか。政治家としてのスタートは衆議院議員河野金昇(早稲田出身、三木派)の秘書から始まり、政治の師として三木武夫氏の遺志を受け継ぎ、弱少派閥に属してクリーンな政治を目指した。田中角栄のロッキード汚職の後を受けて総理大臣となった三木武夫氏と同じく、リクルート事件の中曽根・宇野内閣の後を受けて海部氏は総理大臣に推された。自民党のクリーン派として国民の目をそらすためである。その間海部氏も弱小派閥ながら必要悪として金の配布係をせざるを得なかった。1980年代当時の自民党政治は田中角栄的なものが支配しており、「政治は力、力は数、数は金」という掟は1990年代まで続いた。そのなかで海部氏はどうあがいたのか。本書はその一端を垣間見ることが出来ようか。しかし海部氏といえど自己弁護はしているはずで、どこまで本当のことなのか眉にツバをつけて本書を読んでゆこう。本書は大変読みやすいが、内容が稀薄で、恐らくは海部氏の口述からライターが原稿を起こしたのではないかと思われる。書かれていることは思想ではなく、政治的事柄である。本書を紹介する前に海部俊樹氏の年譜を正確を期して示す。

海部俊樹氏年譜
1931年1月2日 - 愛知県名古屋市に写真館を経営する家に生まれる
1951年 - 旧制中央大学専門部法科卒業
1954年 - 早稲田大学第二法学部法律学科卒業
1960年 - 11月 第29回衆議院議員総選挙に全国最年少で当選 以降連続当選16期を数えた
1966年 - 8月、労働政務次官(第1次佐藤内閣第3次改造内閣)
1974年 - 12月、内閣官房副長官(三木内閣)
1976年 - 12月、文部大臣(福田赳夫内閣)
1985年 - 12月、文部大臣(第2次中曽根内閣第2次改造内閣)
1989年 - 8月、第76代内閣総理大臣
1990年 - 2月、第77代内閣総理大臣
1990年 - 12月、第2次海部改造内閣発足
1991年 - 11月、内閣総辞職により内閣総理大臣を辞任
1994年 - 6月、自民党離党、12月、新進党初代党首
1998年 - 1月、新進党分党に伴い無所属
1999年 - 1月、自由党に入党し、党最高顧問に就任
2000年 - 4月、保守党最高顧問
2003年 - 11月、保守新党解党に伴い自民党復党
2009年 - 8月、第45回衆議院議員総選挙に落選。同日政界引退を表明

海部俊樹回顧録

1) 三木内閣の官房副長官、文部大臣の時代

海部氏の政治生活は1954年、早稲田大学政治学科に進学して以来、大学の先輩でもあった衆議院議員河野金昇氏の秘書を勤めたことから始まる。これが海部氏のその後の政治人生の方向をすべて決めたことになり、人の交際のきっかけとは実の恐ろしい影響を持つものである。「雀百までおどり忘れず」ともいう。その河野氏の急逝によって、1960年その地盤を引き継いで29歳の若さで衆議院議員となった。1960年自民党青年局学生部長を皮切りに、1966年労働省政務次官、1973年自民党人事局長、1974年自民党副幹事長と順調な政治活動に入った。その間海部氏は「青年会海外協力隊」の創設に尽力した事を誇りにしている。海部氏の終生の恩師は三木武夫氏である自民党の中で、三木派は30人ほどの小派閥であるが、正論を言い国民の人気もあるので主流派にとっては一目置かれる存在であった。1972年の「三角大福」総裁選で、海部氏は三木派の金配り役を担当し、金を貰った人の裏切りに泣いたという。派閥から二重、三重に金を受領する議員はざらにいたらしい。1974年田中首相の「ロッキード汚職」を受けて、イメージ一新を狙った「椎名裁定」によって、三木内閣が生まれた。椎名氏にとって三木内閣はほとぼりが冷めるまでの暫定内閣に過ぎなかったが、三木内閣は政治資金規正法改正、独占禁止法改正、公職選挙法改正に動いた。これが主流派の反発を招いて「三木おろし」が吹いて1976年12月に選挙敗北により退陣した。海部氏はここで派閥政治の「百害と一利」をいう。一利は政治家の人材教育で、百害は金権、談合、横暴、大臣の派閥振り分け、族議員と政財官の癒着など数知れない。

1976年7月ロッキード事件で田中角栄元首相が逮捕された。田中氏は金集めと金配りで抜群の才能を見せ、政治は完全に利益誘導型であった。選挙にはめっぽう強い。この田中角栄的なものは、竹下登、金丸信、青木幹夫、小沢一郎氏らに受け継がれた。金権政治は田中、竹下氏の専売特許ではなく、自民党全体の体質であった。94年の政党助成法以来、政治に必要な金は議員一人当たり年間4000万円というのが表向きの数字である。海部氏の政治資金報告書によると1987年収入は4億3600万円であった。派閥のナンバー2として海部氏が派閥後輩議員に配った金は、選挙時に500万円、盆暮れに200万円、パーティ祝儀に10−100万円というのが相場だったという。三木内閣官房副長官として野党の審議拒否の対策費「寝起こし賃」を配って歩いたという。この与野党の国会審議のやり取りを稲葉法相が「昭和元禄猿芝居」と揶揄したことは有名である。その稲葉法相のロッキード事件捜査において徹底してやる姿勢は、主流派特に田中派の猛反撃を食らい、三木を担ぎ出した椎名氏が「三木おろし」の先頭に立った。三木内閣総辞職後福田内閣が誕生し、海部氏は文部大臣に就任した。1978年「ダグラス・グラマン事件」が明るみに出て、日商岩井の起訴のみで政治家には及ばなかったのは主流派の根回しである。1978年大平内閣が誕生した。これには100名を超す田中派閥の力で決まったようなもので、当時「闇将軍」という隠然たる支配力を持っていた。1979年緒衆議院選挙で敗北した自民党は「40日抗争」という内部分裂に陥り、内閣総理大臣指名選挙に自民党から大平、福田両氏が立候補するという前代未聞の事態となり、辛くも大平氏が再選を果たした。1980年浜田幸一氏のラスベガス賭博事件で大平内閣不信任決議案が、自民党反主流派(当然海部氏も含まれる)が本会議を欠席して可決された。そして衆議院は解散し、衆参同日選挙戦中に大平氏が心臓発作で急逝し、党は一変して結束し弔い合戦で勝利した。大平氏の宏池会から首相が選ばれることになり鈴木善幸内閣が成立した。1982年ついで誕生した中曽根内閣もやはり田中派のコントロール下にあった。この中曽根内閣で海部氏は二度目の文部大臣に任命された。日教組にはアルバイト、リベート、プレゼントの「3ト追放」とストライキ禁止をお願いして話し合いに入ったという。海部氏はどちらかというと文部大臣という教育関係の仕事が好きだったようだ。1983年田中角栄氏に実刑判決が下り、師走の衆議院選挙で敗北する。中曽根首相は自民党から田中角栄的なものを排除すると宣言し、竹下登氏は田中派若手を引き連れ「創政会」(経世会)を作った。これで田中氏はショックを受け脳梗塞に倒れ、「闇将軍」田中氏の権力は急速に失われた。

2) 海部内閣

1987年長期にわたった中曽根内閣に代わって、竹下内閣が生まれた。竹下内閣はリクルート事件で多数の自民党関係者の関与が噂される中で1年余で総辞職した。なぜか無力な派閥の海部氏にはリクルートから未公開株は回ってこなかった。つぎに宇野宗佑内閣が出来たが、1989年リクルート、女性問題、消費税の大逆風の中で参議院選挙に大敗して退陣した。結党以来参議院で過半数を割り、社会党土井たか子氏をして「山が動いた」といわせた。「死に体」の宇野内閣に代わる総理候補に海部氏の名前が挙がった。有力な自民党議員は軒並みリクルート事件に関与していた。竹下氏退陣、中曽根氏は離党、阿部晋太郎、宮沢喜一、渡辺美智雄氏は1年間の謹慎中の中、奥の院は河本氏を嫌って海部氏を指名した。国民が納得するクリーン三木のイメージを持ち、「担ぎやすいお調子屋」(小沢一郎談といわれる)の海部氏しか候補者はいなかったようである。あの頃は自民党も玉切れで外に総理の人材はいなかったのだ。三木武夫氏天敵、田中角栄の金権政治を引き継いだ竹下氏を後見役として1989年8月第14代自民党総裁に選ばれた。なんという矛盾、滑稽さ。対立候補であった石原慎太郎氏は「能力はあるが人を傷つけるところがある」と海部氏は評している。組閣に当たっては、竹下、金丸、安倍という主流派顧問の註文どおりほぼ丸抱えで海部内閣が組閣された。国家理念は全く無いが天才的に落としどころがうまい竹下氏、表舞台がきらいで「闇の帝王」といわれ、田中角栄に話を通す唯一の人であり、建設族の長老である金丸氏にも政策は全く無かった。竹下派には7奉行といわれる小沢氏、橋本氏、羽田氏、小渕氏らがいた。内閣の自民党幹事長は小沢しである。ここから海部氏と小沢氏の葛藤がはじまり、小沢的政治手法に海部氏は悩まされ続けるのである。大蔵大臣には橋本龍三郎(竹下派)、外務大臣には中山太郎氏(安倍派)が送り込まれた。安倍氏はリクルート株をネコババしたらしい森喜郎氏を嫌ったので彼は入閣しなかった。その安倍氏は病に倒れた。

「海部首相は猿、小沢幹事長は猿回し」という風刺画が新聞紙上をにぎわす中、小沢幹事長は竹下、金丸の意思疎通に動いた。両者の意見が違うときは小沢幹事長はいつも金丸氏の方に立った。海部氏は国会答弁では官僚の回答書を棒読みせず、原稿を見ないで自分の言葉で話したという。そのためには毎日勉強を欠かさなかったという。昭和天皇の崩御、秋篠宮の結婚、平成天皇の即位の礼が続いた中で、海部氏は今上天皇とは心が通じた中であったそうだ。海部内閣のとき世界の政治史で画期的なことが矢継ぎ早に起きた。1989年8月「ヨーロッパピクニック計画」で崩れ始めた東ドイツは、11月には東西ベルリンの壁が取り壊された。89年末アメリカとソ連はマルタ会談を開いて冷戦が終了した。東欧の社会主義国が次々と崩壊し民主革命が起きた。1990年8月イランがクエートに侵攻した。欧米が養育した鬼子「フセイン」が叛いたのである。海部内閣は自衛隊は出さず、経済支援に徹する方針で、アメリカには11兆円を援助した。海部氏は「護憲派であるが非武装中立論者でがない」と明言する。91年1月多国籍軍がイラク攻撃を開始した。いわゆる湾岸戦争がおこった。長期戦にはならず4月には停戦になった。アメリカのブッシュ大統領(父)はある程度で停戦しバランスを保つという戦略で、10年後のブッシュジュニア大統領はアメリカ一国主義で行けるところまで行く、ほしいものはすべて手に入れる主義とえらい違いである。政治家に良識が無くなったら恐ろしい例である。

3) 政治改革と海部おろし

1990年2月衆議院選挙では、自由体制の勝利、政治改革、消費税見直しを掲げて大勝利し、第2次海部内閣が発足した。この選挙で自民党は表の金で80億円を投入した。派閥の枠をこえて自民党県連を動かすための必要悪であったという。海部氏の言葉にはこの「必要悪」が多い。91年4月の統一地方選挙でも自民党は圧勝した。東京都知事選挙では小沢氏がNHKキャスターの磯村尚徳氏を担いだが、自民党都連の推す現知事の鈴木俊一氏に敗れ、小沢氏は責任を取るとして幹事長を辞任した。選挙に連続して勝利すると自民党内では急速に改革熱が冷め守旧派が復活した。リクルート関係者には門を開かない方針だった海部氏の閣僚人事でも主流派から不満が噴出していた。「政治改革関連三法案」が総務会決定されると反動は著しくなった。政治改革三法案とは@小選挙区と比例代表並立制度を軸とする公職選挙法改正案、A政治献金を政党に限る「政治資金規正法改正案」、B「政党助成案」であった。とりわけ小選挙区制度が争点となった。守旧派やYKK(山崎、小泉、加藤)らが小選挙区制に激しい反対運動を行なった。「海部おろし」の嵐が吹き荒れ、宮沢、三塚、渡辺が総裁戦に意欲を燃やした。国会審議切れの迫るなかで「政治改革関連三法案」に「重大な決意」を示した海部首相の言葉が「成立しない時は解散」という風にメディアが伝えたため、竹下、金丸を始め党内の大半が反対に転じ、法案が廃案となった時点で自民党総裁任期満了をもって11月5日の閣議で解散を強行した。

4) 自民党離党と混乱の10年

海部内閣の後を継いだのだのは、宮沢喜一内閣であった。総理総裁の人事権は竹下派が握っていた。竹下派会長代理の小沢一郎氏が、総理候補者(宮沢、渡辺、三塚氏)を自分の事務所に招いて面談したことが、不透明な派閥政治として世間の不評を買った。宮沢内閣で政治改革は遅遅として進まない中、金丸副総裁の汚職「東京佐川急便事件」が明らかになった。「田舎芝居の煙草盆」よろしく政治の取引には必ず金がついて回ったのである。こうして長年自民党に君臨した「闇の帝王」は政界から姿を消した。東京佐川急便事件で、図らずも竹下氏の「ほめ殺し」事件解決に金丸氏、右翼暴力団と東京佐川急便の関係が明るみに出され、宮沢首相が竹下氏証人喚問の国会審議で「罪万死に値する」と発言したことが有名となった。金丸氏の失脚で自民党は扇の要を無くしたことにより、竹下派が小沢・羽田の金丸直系派と、梶山、小渕、橋本の竹下派直系のグループに分かれた。抗争に敗れた小沢・羽田グループは「改革フォーラム21」を結成し、野党の内閣不信任案に同調したため、不信任案が可決され衆銀を解散して総選挙となった。これに乗じて、武村正義氏と鳩山由紀夫氏らは「新党さきがけ」を結党した。羽田・小沢氏は「新生党」を立ち上げた。細川護煕氏らは「日本新党」を結党して選挙を闘った。自民党は過半数を割り、非自民党会派は七党一会派による連立政権を樹立し、1993年細川内閣が作られた。こうして「55体制」は終焉を迎えた。この内閣は蓋を開ければ、結局竹下派の小沢氏が動かしていた。この新党乱立時代において、小沢氏はいいポジションを得るため作っては毀すという作業を繰り返し、「壊し屋」の異名をとった。1994年3月政治改革関連法案はこの細川内閣において成立した。1993年12月田中角栄氏が死去して、ひとつの時代は終焉を迎え、また別の時代に入ったという。ところが細川首相自身の東京佐川急便1億円未返済事件が浮上して細川内閣が1年も満たないで潰れ、継いだ羽田内閣も64日で総辞職した。

1994年6月青天霹靂の政変が起きた。河野総裁・森幹事長の自民党が55体制では政敵であった社会党との連立与党を画作し、竹下氏が筋書きを書いて節操の片鱗も見られない「数合わせ」を断行した。この時点で海部氏は自民党を離党する意志を固めたという。村山富市氏を首相とする自社さきがけ連立政権が成立した。1994年12月海部氏を党首とし小沢氏を幹事長とする「新進党」を結党した。小沢氏にはついてゆけない人も海部氏ならということで参加した。1995年3月の参議院選挙で57議席を獲得し、政権を担える党に成長する事を期待した。ところが1995年12月小沢氏が新進党党首に選ばれると、多くの党員が脱落し始めた。小沢氏の密室政治、腕力政治に心が通わないのである。1996年10月初めての小選挙区制での衆議院選挙で新進党は敗退し、羽田氏までも離党した。自民党の引き抜き作戦と旧公明党員の離脱があり、1997年末小沢氏は唐突にも新進党の解党を宣言した。3年で新進党は自壊した。1998年11月自由党の小沢氏は自民党と連立する「自自連立」に合意した。そこでまた海部氏を自由党の最高顧問に招いたのである。「神輿は軽いほうがいい」といわんばかりの提案にホイと乗ってしまう自分が不甲斐ないと海部氏は悔悟するが、あとの祭りで何回騙されたら分るのか人間の甘さにほとほと呆れ顔。2000年には小沢氏は自自連立離脱を言い出し、今度は「保守党」(党首扇千景、最高顧問海部)を結成し、自民党、公明党、保守党の連立に参加することになった。不人気な森首相退陣後、2001年4月に誕生した小泉純一郎総裁は「自民党をぶっ壊す」といって国民的な人気をさらった。小泉首相の最大功績は誰もできなかった派閥解消を行なったことである。一方意見の違う人を「反対勢力」といって排除する政治手法はポピュリズム的手法とあいまって政治を破壊した。そしてアメリカかぶれの学者を登用した新自由主義的政策は格差社会を生み、福祉を重視する日本社会のよさは破壊された。「郵政解散」は全くわけのわからない民主主義的手法の否定であり、議会政治を破壊した。歓喜して面白がったのはメディアだけである。その結果もたらされた甚大な破壊の後始末もせずに投げ出したのは無責任極まると海部氏は憤慨する。その後の安倍内閣、福田内閣、麻生内閣の三代世襲制内閣は決して北朝鮮を馬鹿に出来ないほどの無能無作為の「梨園内閣」であった。中川金融大臣の「朦朧会見」は自民党政権の末路を象徴する「あるアル中者の行状記」に過ぎなかった。こうして2009年8月政権交代となった。国民は民主党内閣を選んだのだが、小沢一郎氏を抱え込んでいる点で、時限爆弾を腹に抱えたような内閣である。唐突にすべてを投げ出すかもしれない。彼が日本社会を傷つけている罪は海より深い。海部氏は衆議院選挙で落選して政界を引退した。


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