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天野郁夫著 「大学の誕生」 上下

 中公新書(2009年5月)

帝国時代の高等教育システムの歴史

わが国の近代的大学はどのような経過をたどって生まれたのだろうか。資源小国日本の立つ由縁は教育資源にあるという。比較的短い期間で初等教育の体制を整備できたのも、徳川幕府以来の寺子屋の普及と教育熱心な国民性にあったことはよく言われている。しかし「大学」という名の高等教育は武士階級が担っており、「藩校」や「幕府洋書取調べ所」、儒学林家の「湯島の聖堂」、市井(特に大阪)の蘭学などが合流して近代国家枢要の人材養成学校としての「近代的大学」の祖となったようだ。明治10年(1977年)わが国最初の大学となった東京大学が設立され、明治19年(1886年)に帝国大学となった。明治19年には日本の教育システムの基本的骨格を作ったとされる、小学校令、中学校令、師範学校令、帝国大学令という4つの勅令(議会の無い時代、天皇の勅令として公布)が公布された重大な年であった。帝国大学の設計図を描いたのは、初代内閣総理大臣伊藤博文と文部大臣森有礼であった。伊藤が目指したのはドイツ型君権主義国家のための大学であった。何もない時期にどうしても上からの改革であった高等教育システムは東京大学を中心にして語らざるを得ないのが、日本という国の歴史であり、文化後進国の宿命である。本書は「帝国大学令」が出された明治19年から、官公私立の大学の設置を認めた「大学令」の公布された大正7年(1917年)までの約40年の高等教育学制改革の歴史である。国家指導者養成学校だけでなく、まがりなりにも広く「大学」の門戸が開かれたというべきであろう。大学誕生の物語は東京大学・帝国大学を中心に置きながらも、大学を志向する官公私立の多様な高等教育機関が絡むダイナミックな展開を見る。明治19年に帝国大学という唯一の「国家の須要」に応じる特異な大学となり、つねに大学政策の中心であり続けようとした歴史があるからだ。明治30年(1897年)に京都帝国大学が、続いて東北、九州、北海道を加えて5校が帝国大学に加わった。大正7年の「大学令」で正規の大学になろうとする諸校は常に帝国大学を意識することには自己形成できなかった。昭和戦前期にできた大阪、名古屋帝国大学をくわえた「旧7帝大」が、戦後もわが国の大学界の頂点に立ち続けたのである。日本の大学の歴史は戦前の帝国時代の学制から戦後の「新制大学」の時代を含めて語らなければならないが、後半の物語は著者にもしエネルギーが残っているなら本にするかもしれないが、誰か他の人の手になるかもしれない。従って本書は前半の物語である。それでも分厚い新書上下二冊分のボリュームを興味を持って読みきるのはかなり力が必要であった。

著者天野郁夫氏のプロフィールを紹介する。天野 郁夫氏(1936年1月7日 生まれ )は教育学者。専門は教育社会学。東京大学名誉教授。元日本学術会議会員。元日本教育社会学会会長。元日本高等教育学会会長(初代)。 神奈川県足柄下郡真鶴町の魚屋の父、助産婦の母の下に、5人兄弟の次男として生まれる。1958年一橋大学卒業後富士通に約1年勤務。1959年同社を退職、高校教師を志し東京大学教育学部3年に編入した。東京大学教育学部の大学院に進み、1966年 国立教育研究所教育計画研究室研究員となり、1971年 名古屋大学教育学部助教授になり、1979年 東京大学教育学部教育社会学研究室助教授になった。その後は東京大学教育学部の教授 を続け、1996年 東京大学を定年退官する。2006年まで独立行政法人国立大学財務・経営センター教授であった。それから独立行政法人となった国立大学の業務財務評価を仕事とし、神戸大学、一橋大学、横浜国立大学、京都大学、九州大学の経営協議会外部委員や外部評価委員を歴任した。主な著書には本書のほかに、『日本の高等教育システム』(2003年、東京大学出版会) 、『大学改革のゆくえ』(2001年、玉川大学出版部) 、『試験の社会史』(1983年、東京大学出版会)などがある。一般読者向けの本であるよりは教育関係者向けの専門書が多いようだ。大学改革論議の毎日にやる気が失せたというか、最近になってわが国の大学組織や高等教育システムの基本的な構造に興味が移って本書が生まれたという。現代的な大学の問題の多くが実は歴史的問題であったという。この百年の教育議論の根源は昔からの問題を引きずっている。戦前のわが国の高等教育システムのもとで、学校数でも卒業者数でも量的に多数を占めるのは大学ではなく、旧制度の専門学校であった。戦後の急増した「新制大学」もその多くが専門学校を母体にしている。官の帝国大学と民の専門学校の構図で日本の大学システムは成り立っている。著者の興味は教育の内容ではなく、まして研究のレベルではなく、社会学的興味より学歴主義、選抜試験、就職と社会での活動であった。最終的には大学を社会構造の中で位置づけることである。従って本書では多くの統計表が採用されて、裏付資料となっている。著者は日本中の大学の「・・・年史」を読み漁ったようである。著者は明治から大正初期にいたる「大学誕生」の時代に形成されたわが国の大学組織と高等教育システムの基本構造が、いまもなお強く持続している気がするという。日本の政治構造そのものなのであろうか。官と民の問題、大学の格差序列構造は1世紀を経たいまもなお継承され拡大生産されている。

1) 帝国大学以前

社会制度として「大学」が出現したのは、ヨーロッパ中世においてである。大学「ユニヴァ−シティ」という言葉は「組合」という意味である。「ユニオン」は「労働組合」であった。教師と学生が自律的な共同体を作っていたからそう呼ばれたのである。当時「学問の自由」が意識されていたかどうかは定かではないが、特権集団と認められた共同体「大学」は自律性を持っていた。日本の幕末にはまだそういった「大学」は存在していなかった。藩校、私塾、幕府の機構として洋書調所、林家の昌平坂学問所があった。東京大学の源流は洋書調所にある。中世の「大学」は、法・医・神・哲学の4学部を基本とし、次第に変化していった。知識・学問の教育と創造への希求がルネッサンス期に高まった。やがて商業産業の興隆に伴って工学・農学・商学などに重要な教育・研究の領域へと成長を遂げていった。ドイツでは「ホッホシューレ」、フランスでは「グランド・ゼコール」といった専門学校の群を生み出した。重商主義から植民地時代になると国民国家の形成が進み、大学は国家との結びつきを強めた。人材の育成を初めとする近代化・産業化の要請に答えるかたちで、「大学」の重要性が高まった。特に新興国アメリカでは多様な私立教育機関が生まれた。19世紀後半に生まれた独立新興国日本の明治新政府の前には、多様な選択肢が待ち受けていたのである。文部卿大木喬任は明治5年(1872年)最初の本格的な近代学校教育制度の構想である「学制」を定めた。フランス学制を中心に各国の学制を折衷して策定されたようである。「大学校」構想は旧幕府の開成学校(洋書取調所)を改組した洋学を学ぶ「大学南校」とドイツ医学を教授する「大学東校」を中心に進められた。学制では「学校は大学・中学・小学に区別する」とされたが、明治6年に「学制に2編追加」するという形で、専門学校の構想が出され、外国教師を雇い法学・医学・理学・鉱山・農学・商業・獣医・外国語学校を設置する考えとなった。あえて大学と呼ばず変則的に専門学校と呼んだのは、いかに国家による諸産業振興の要求が急であったかを物語る。大学への準備段階として明治6年に「大学南校」は「開成学校」になり、法学・化学・工学の3学科で出発し、明治7年には「大学東校」は「東京医学校」として出発した。明治10年には両校を併合する形で、わが国最初の大学、東京大学が発足した。初代綜理に加藤弘之がなった。法学・理学・文学・医学の4学部でスタートした。発足当時東京大学の教員は全て外国人教師であったので、専門学校と変わるところは無かった。あわせて外国語を習得する5年生の「大学予科」が置かれた。日本領土内にある外国の大学に留学する前に外国語習熟に5年をかけたのである。

帝国大学が生まれる前の時代は、文部省の「東京大学」以外にも、学制とは関係なしに各省庁は官吏養成を目的として、外国人教師が外国語で教授する専門学校を独自に立ち上げた。フランスの「グランド・ゼコール」は長い伝統をもつ高等専門教育の系統であるが、官製日本型グランド・ゼコール群はやがて帝国大学に統合され、帝国大学自体が専門官僚養成学校になってゆく点で大きく異なっている。官製日本型グランド・ゼコール群には工部省の工部大学校(明治10年)、司法省の法学校、開拓使の札幌農学校、内務省の駒場農学校の四校があった。国が官吏を養成する学校であったので、卒業後は長期の奉職義務がある。今の自治医大のようなものである。外国人教師による官吏促成栽培だけでは植民地と変わらないので、独立国日本としては将来は自前の教師を持たなければならない。そこで欧米諸国への留学生選抜と派遣とそれによる教員養成が行なわれた。明治6年段階で文部省管轄派遣留学生は198名、各省派遣留学生は61名を数えた。選抜された官費留学生制度は明治8年に始まり、明治12年以降は全員が東京大学卒業生で10名程度が派遣された。明治12年に旧来の「学制」は廃止され、代わって「教育令」が公布された。この教育令は「自由教育令」と呼ばれ、第1条「公立私立の別なく文部卿が監督す」、第2条「いずれの学校を問わず、各人皆これを設置することが出来る」という。当時の文部卿田中不二麻呂は岩倉使節団に同行し欧米の学校を視察して、アメリカの自由主義的な教育制度の興味を持ち文部省にアメリカ人の教育顧問を招聘した。この教育令はアメリカの「リベラルアーツ(学芸)」教育(カレッジ)の思想を反映していたが、翌年には廃止され「改正教育令」に取って代られた。一方東京大学は依然として師範学校の域をでず、洋学校に過ぎなかったのであるが、明治14年ごろから組織面で大きな変化が生じた。それまで4学部の長は綜理と呼ばれ独立した組織であったが、加藤弘之綜理のもとに学部長制に変わった。明治14年から外国人教師と日本人教師の数が逆転し、助教授の数と教授の数がほぼ同数になった。これは留学生が帰国し、卒業生も多くなって日本人教師がようやく育ってきた事を意味する。省庁が設立した官立専門学校も次第に変化を見せ始めた。工部省では明治13年の「工場払い下げ」により直接経営から民への移管をすすめ、工部大学校の官費入学生も全員が私費生に替えた。明治15年より奉職義務を解き、就職を本人の自由に任せた。明治18年には工部省は廃止されたのを期に、工部大学校を文部省に移管した。司法省の法学校は毎年入学者をとるのではなく、卒業生が出てからとるという4年に1回の入学という変則的なやり方では到底司法官を養成できないため、明治17年の「判事登用規則」により公開試験制度により外部から人材を採用する方針に切り替えた。そして明治17年に文部省に移管され東京法学校となった。開拓使の札幌農学校は明治15年に開拓使が廃止されたため、農商務省に移管された。駒場農学校と東京山林学校は明治19年に統合され東京農林学校となる。官立高等教育機関の卒業生は、明治18年までに東京大学が473人、4つの官立専門学校が合計446人であった。東京大学の学部は法・医・理・文の4学部であり、産業化の中核的な技術者はもっぱら官立専門学校で育成された。

近代化の開始とともに絶え間なく増大する専門人材への需要からすると、育成・供給数は明らかに不足していた。日本語による教育課程の形で速成教育が開設され、明治13年より「別科医学」課程となって、明治16年より168名、明治18年には267名が卒業した。東京大学法学部の卒業生は明治18年ごろまでは毎年10名以下に過ぎず、官吏養成という目的だけで最初から社会の需要を満たすことは想定していなかったようだ。法律家に対する需要は司法官だけでなく、「代言人」といわれる在野弁護士にあっては、私立法律学校の設立に待つしか方策は無かった。専門学校という取り扱いは「学制」には存在していなかったが、新しい教育システムの法制には関係なく、社会と個人の必要や要請に答えてさまざまな学校・教育機関が自生的に設立されていった。学校設立基準も何も無かった時代には、専門学校は雑多な「専門1科」の学校としてくくられていた。日本の学校ではなによりも医学校の充実が早いことが特徴である。明治12年に「医師試験規則」が出来、国家試験に向けた予備校的な私立医学校が多く設立された。明治15年「医学校通則」ができ、無試験で開業免許を与える「甲種医学校」には明治16年で16校すべてが公立医学校であった。私立法律専門学校の第1陣として、明治13年に専修学校、翌年に明治法律学校、明治15年に東京専門学校(早稲田)が設立された。明治22年にフランス法学系の和仏法律学校(法政大学)、明治14年にドイツ法学系の独逸学協会学校(独協大学)、明治18年にはイギリス法学系の英吉利法律学校(中央大学)が設立された。これら私立法学校の教師連はすべて東京大学の教師で、私立学校は自前の教師団をも持たなかったなかで、早稲田と慶応義塾は最初から生徒から授業料を徴収し、専任教師団を持っていた。

2) 帝国大学の発足

明治19年(1886年)勅令「帝国大学令」に基づいて東京大学が名称変更され、帝国大学が創設された。東京大学と工部大学校を併せて帝国大学とするものであった。「帝国大学は国家の須要に応する学術技芸を教授し、及び其蘊奥を攻究するを持って目的とする」という第1条から全14条になる。文部卿森有礼が考えたものとされるが、明治10年半ばからドイツモデルの学習が始まっていた。当時ドイツ立憲政治体制を国家モデルとするべく、留学生の殆どはドイツに留学していた。帝国大学はすべての専門学校群を統合して唯一最高の大学を目指した。司法省の法学校、工部省の工部大学校、少し遅れて明治23年に東京農林大学を併合した。発足時の教師団は27学科に外国人13名、日本人教授と助教授は61名と、明治以来の留学生制度がようやく実を結び始めた。帝国大学令第2条に分科大学と大学院をもって構成するとあり、当初から研究と研究者・大学教員養成を目的とした点が先進的であった。しかしながら大学院制度はそれから120年以上たっても相変わらず、不完全で位置づけもあやふやな状況は変わらない。博士号授与の必須課程でもないし、定まったカリキュラムもない。大学院の不完全性はともかく、帝国大学が其の内部に大学教員・研究者集団の自前の再生装置を持った点で画期的であるといえる。教育体制と組織の整備により、大学の団体性は強化され、大学評議会、部局長会議、学部教授会という管理組織の萌芽的な形態が生まれた。学部より2名づつ10名の評議員が任命され、大学評議会に大学運営に関る大きな審議権限を認められた。帝国大学の特徴は全体の定員400名のうち官僚養成の為の法学部が150名と約4割を占める点である。そして卒業生は無試験で高級官僚に任用される特権である。法学部以外にも司法官任用試験、弁護士試験、医師試験、中等教員試験と帝国大学の卒業生にはすべての国家試験制度を免除する特権が与えられた。帝国大学発足から6年経った時点での学部入学者数は法学部、工学部がほぼ定員を満たしていたが、医学部、文学部、理学部は定員の半数にも満たなかった。これは不人気であったというだけでなく、入学志望者を送り出す下位の中等学校の整備の遅れから学力不足という点も否めない。明治14年の「中学校教則大綱」では中学校に初等・高等の2種を置くとなっていたが、現実には高等中学校を置く中学校は皆無に近かった。東京大学時代には大学予備門が担ってきた機能は、新制度では「旧制高等学校」として(第1高等学校など8校のナンバースクール)発足した。大学進学のための受験予備校化した高等学校への激しい「受験戦争」という社会現象がここから開始されたのである。高等中学校の整備育成も進まぬ中、明治20年各県立医学校(千葉、宮城、岡山、石川、長崎)を官立高等中学校に移管した。

官立専門学校は高等中学校の医学部以外にも、中等学校の教員養成のための高等師範学校(東京教育大学へ)、女子高等師範学校(お茶の水女子大学へ)、東京音楽大学および東京美術大学(東京芸術大学へ)、高等商業学校(一橋大学へ)。東京工業学校(東京工業大学へ)などを生み出した。専門教育機関としてこの時期にすでに多数を占めていたのは官立ではなく私立の専門学校群であった。明治32年の「専門学校令」までは、準拠法令を持たない私立専門学校群の創生期であった。公私立専門学校は明治23年には17校であったが、明治32年には42校まで増加していた。私立法律専門学校はすでに見た通りであるが、それ以外には医学校では東京慈恵医学校、東京歯科医学院、東京薬学校、東京物理学校、同志社ハリス理化学校、国学院、関西法律学校(関西大学へ)、日本法律学校(日大へ)などがこの時期に生まれた私立専門学校であった。中学教員養成の私学として明治20年哲学館(東洋大学へ)が設立され、明治32年に国学院が生まれ、理科系の「教員養成学校として明治14年に物理学校(東京理科大へ)がうまれた。中等官僚採用試験に文部卿が認可した公私立専門学校生が受験できるようになり、専修、明治、早稲田、法政、中央の5校が選定され、文部省の監督下に置かれた。特権と引き換えに干渉する意図が露骨にしめされ、監督制度は明治21年には「特別認可学校規則」になった。そこには学校基準設定が述べられている。入学資格として尋常中学卒業の17歳以上、修業年限は3年以上、教育課程は7科目以上の学修、卒業試験、試験結果の文部省への報告、文部大臣の監督などである。大学を志向するにしても、私立専門学校のレベルはまだ甚だしく低かったというべきであろう。宗教系の学校の設立が相継いだ。キリスト系ミッションとして同志社、立教、明治学院、青山学院などが私立大学の主要な源になってゆく。

3) 帝国大学の整備

「帝国大学令」の意義は、国家によって明確な高等教育のモデルが示されたことであり、それによって混沌としていた高等教育の世界を秩序化し、帝国大学をピラミッドの頂点とした構造を作る役割を歴史的に果たしたことではないだろうか。良し悪しは別にして、民の力があまりにも弱かった時代、上からの改革とならざるを得なかった日本のひとつの進み方であった。もちろん西部劇の時代から自由主義のカレッジを作ったアメリカ型の選択肢も一時期あったが、明治の元勲たちが君主制国家のドイツ型を選択した結果である。帝国大学を作ったといっても決して組織と制度が確立されたわけではなかった。むしろ頂上のみが存在する砂上の楼閣という危さは表裏の関係で内在していたのである。問題の中心は何よりも帝国大学と高等中学校専門学部、そして公立私立の「専門学校」という多様な学校群との関係にあった。森有札文部卿はこの政策課題について検討を加え、「大学令案」、「専門学校令案」、「中学校令案」、「師範学校令案」、「小学校令案」という五つの学校令案を起草している。案と計画が同時に進行していたようである。ここから明治時代の絶え間ない学制改革論議がスタートした。帝国大学令は学制の最終形態ではなく、スタートに過ぎなかったというべきである。近代化・産業化社会の開始とともに差し迫った人材需要に応えるための高等教育の場が、それに先立つ初等・中等教育の整備を待つことなく次々と開設された。小学校から尋常中学校へすすむ際の学力のギャップ、尋常中学から高等中学校への学力差、大学予備校である高等学校へ進む門の狭さから、高等学校入学年齢が18歳から20歳と高かった。最大の問題は英語の学力であったといわれる。高等中学校問題に決着をつけようとして、明治27年井上毅文部卿は「高等学校令」を公布した。高等中学校を専門学部を主として、大学予備教育を従とする考えであった。井上はイギリス型のカレッジからユニヴァーシティへというコースを目指したようだが、専門部を充実する予算不足からあえなく挫折した。世の中の動きは付属であるはずの大学予科のほうが高等学校の実質的な主体となっていった。明治30年第二の京都帝国大学が創設されると、第3高等学校には大学予科が設置された。

中世の大学では「学位授与権」を大学が独占し権威ある称号を与えた。明治10年東京大学の発足から「学士号」の授与が行なわれ、公立専門学校でも学士号の授与は独自で発行していた。明治20年の「学位令」では学位の称号は「博士」のみで、学士は消えた。博士号の殆どは「推薦博士」でいわば名誉号のようなものになっていた。業績に対して与えられるのは戦後になってからである。帝国大学においても博士号は教員としての基本的な採用要件とされることはなかった。業績よりもキャリアーを重視する大学教員組織は講座制とあいまって徒弟主義・閉鎖的な学者養成システムを作り上げ、その結果として横の連帯意識に乏しい学者世界「学界」を形成した。帝国大学の学術の独占は、学会、学術雑誌という面でも急速に進行した。明治26年「帝国大学令改正」で「各分科大学において講座をおき、教授をして担当せしむ」という講座制が導入された。教育・研究の組織を、学部、学科、講座という三層に秩序化することである。教授1、助教授1、助手1、2人がセットになって講座を構成した。フランスの大学がモデルといわれるが詳細は分らない。そして教授会を設け教育教程や学位授与審査の権限を認めることとセットになっている。明治26年帝国大学(東京帝国大学のみ)の口座数は123に対し、教授75名、助教授35名に過ぎなかった。開設されたものの半分は教授がいなかったというスタートであった。医学は教授の権威が最も早く確立した。彼らは高等中学医学部や官公立病院の人事権を握り、社会的信用も高く、俸給以外の収入も多かった。医学部には法学の2倍の教授がいた。工学部の教授は出入りが激しいのは社会の現場との交流があったからで、民間からの人材需要が高かった。明治26年66名の教授でスタートした講座制であるが、初代の講座担当教授の90%は海外留学経験があり、70%は東京大学・帝国大学の出身者であった。いってみればそれぞれの学問分野の事実上の創始者であり、次世代の学術エリートたちの「ゴットファーザー」で一国一城の主であった。彼ら「学術の貴族」たちによって、日本の学問の世界は独占的に支配された。

帝国大学の存在の巨大さは、1に教育・研究機能をもつ唯一の最高学府であること、2に総合専門教育機関であり、3に他の高等教育機関にたいする教育人材の独占的な供給源であること、4に国家試験や国家資格を必要とする各種職業に特権的位置をしめていた(高等文官試験への無試験任用など)、5に全国の5つの高等学校から学力エリートを吸収することができた(ナンバースクール卒業生には帝国大学への無試験入学が保障されていた)ことである。明治9年から24年までの卒業生は毎年100名くらいで、彼らの1600名の就職先は官庁へ700名弱、教員340名、民間企業へ300名であり、帝国大学卒業生の4割が官僚になった。帝国大学の教育方針がもともと応用的・実用的人材を育成することにあったからだ。明治19年から33年までの高等教育機関卒業生3万人のなかで、帝国大学卒業生に比率は10%、私立学校の比率は61%であった。まさに帝大卒は学歴貴族であったが、社会の需要を満たすはやはり私立専門学校とりわけ「法・政・経」系の卒業生であったといえる。

4) 専門学校群像

帝国大学は文部省予算の約4割を使い、きわめて高コストの人材育成機関であった。近代化・産業化の進展とともに急速に逼迫する民の人材需要にも十分に応えることは出来なかった。開業医、弁護士、企業経営者、銀行員、中等教員など専門人材の育成ははじめから帝国大学の教育目的外にあった。それらの役割を担ったのが、国家目的とは関りの無い私立の「専門学校」群であった。私立学校の興隆にふれる前に、明治34年までの官立専門高等教育についてまとめておこう。順調に成長したのは5つの医学校だけであった。三高に法学部、工学部が設けられたが相継いで廃校となり、熊本の五高工学部も明治39年に独立して熊本高等工業学校になった。特殊な東京音楽学校、東京美術学校は廃止論もあったが存続し、工業系の学校は日清戦争後の好景気がもたらした技術者需要を背景に急成長を遂げた。東京工業学校は職工学校から34年には東京高等工業学校となり、民セクターへの人材供給に大きく傾いた。大衆社会の形成とともに商業の発展は東京高等商業学校も大きくなった。「商業学士」の称号が認められた。国家試験と関係ない職業分野では学歴は社会的に求められていなかった。官立学校としては例外的にもとから民セクターへの人材供給を担った。札幌農学校と駒場農学校を母体とした農科大学は激しい浮沈を繰り返し安定しなかった。高等農林学校(東京農工大へ)となるのは昭和に入ってからである。師範学校は教育系の専門学校だといえるが明治30年の改正師範教育令で「高等師範学校は、師範学校、尋常中学校、高等女学校の教員を養成する」となり、尋常中学校、高等女学校が加えられた。ところが卒業生が年間30名足らずとあまりにも少なく、構造的な中等教員不足は避けられなかった(帝国大学卒業生の500名にもはるかに及ばなかった)。この時期には中等学校が抱えていた無資格教員の存在比率は大きく、師範学校で21%、尋常中学校で43%、高等女学校で60%に及んでいた。公立の医・歯・薬専門学校は医学系では、府県立医学校の京都・愛知・大阪の地元医学校の卒業生が官立5校医学校に対して引けをとらない数の卒業生を出していた。私立医学校としては国家試験予備校が開設されている。なかでも東京慈恵医学院と熊本医学校は専門学校へ移行した。歯学の専門教育は未整備で東京歯科医学校が専門学校となったのは明治40年である。医学と並んで資格制度の整備された薬学系では明治20年くらいまでに東京・京都・大阪・愛知の各府県に焼く学校が設置され、富山の市立薬学校が明治30年に建てられ、明治43年に専門学校へ移行した。医師、薬剤師のうち、大学卒は4%、専門学校卒は15%に過ぎず、「学校出」の比率は低く、国家試験合格組が殆どという状況であった。人材育成における専門教育の果たした役割は限定的であって、受験予備的専門学校と国家試験が主要な人材供給源であったことが分る。

中等教員の文部省検定試験は明治18年の「文検」にはじまる。中等教員の正統な供給源である男子と女子の高等師範学校2校では到底足りないことは明白な事実であるため、結局国家試験合格者と、文系・理系の受験予備校がその役割を担った。高等師範学校卒業生には「無試験検定」の特権があったので、h受験予備校として教育水準を高めた私立専門学校が「無試験検定」に与ろうと運動を始めた。官立学校に準じて、徴兵猶予、官吏任用、試験免除の処遇を要求して政府に誓願運動をした。その結果明治34年にかけて、東京専門学校(早稲田・文)、国学院(師範部)、慶應義塾(文・理財)、青山学院、日本法律学校がそれぞれ無試験検定の対象として認定を受けた。認定の条件は@学科は高等師範学校と同等以上、A教員・設備があること、B入学生の出身校の学校長による成績証明をつける、C卒業試験には文部省の立会いが必要、D卒業試験合格者の氏名・成績を文部大臣に報告する。これらの規制・統制は今でも行なわれている様式である。認可と統制はセットになっていた。

宗教系の私学群も専門学校に分類されている。浄土宗専門学院(のち大正大学)、真宗学院(のち大谷大学)、仏教専門大学(のち龍谷大学)、真言宗智山派大学林(のち大正大学)、真宗勧学院(のち高田専門学校)、浄土宗西山葉専門院などがそれである。江戸時代は自宗の僧侶の養成を図る意味で「学林」、「檀林」、「学寮」などの教育機関を持っていたが、普通学化をはかる方向で「僧俗共学」を目指した。ミッション系の私学には同志社神学校が専門学校に登録されていたが、仏教と同じように聖職者養成より世俗的なキリスト主義教育に重点が置かれるようになって、英語中心の高等教育を行なった。明治学院、立教学院、青山学院、東北学院、関西学院などが設立された。しかしミッション系高等教育機関は、世の中が専門実業教育へ傾斜するなかでアメリカ的な教養主義教育はなかなか振るわなかった。徴兵猶予制度が私立にも適用されるようになり、これまで「各種学校」扱いだったキリスト系私学が認可を得るために「普通学校教程」化に取り組んだ。明治31年には明治学院、立教学院、青山学院は尋常中学校として認可を得て、徴兵猶予特典にあづかった。宗教系各種学校でも昇格の認可と統制はセットになっていた。明治に入ってキリスト教宣教師が最も成功したものは女子教育であったという。長崎活水女学校、神戸英和女学校(にち神戸女学院)、同志社女学院(のち同志社女子大)のミッション系女学校が設立されたが男子校と同じく高等部、専門科は次第に衰退した。日本の現実に即した女学校が現れるのは明治30年代になってからである。日本女子大学校の設立者成瀬仁蔵は本科3年、研究科3年の課程をおき、家政・文学・教育・体育・音楽・美術・理化部の7学部の「女子総合大学」の構想を持ち、実現したのはその一部ではあるが、その後の本格的な女子教育が始まったいえる。明治33年女子英学塾(のち津田塾大学)は女子教師をめざしたが、経営的には苦しいスタートであったという。明治33年に女子美術学校(のち女子美術大学)、東京女医学校(のち東京女子医科大学)がうまれた。

私立法律専門学校の第1陣として、明治13年に専修学校、翌年に明治法律学校、明治15年に東京専門学校(早稲田)、明治22年にフランス法学系の和仏法律学校(法政大学)、明治18年にはイギリス法学系の英吉利法律学校(中央大学)が設立されたことは先に述べた通りであるが、明治19年「私立法律学校特別監督条規」が定められ、私立法学校の優等卒業生に対して司法官僚への無試験登用を認めることになった。上の5校の私立法律学校が対象として認可された。明治21年にはさらに独逸学協会学校(のち独協大学)と東京仏学校(にち法政大学)をくわえて7校となった。先の5校の明治25年における認可卒業生数は212名(全卒業生4000名)であった。法学系私学は本科・正科といわれる中学校卒業生を入れる学科以外にも、「別科・特科」などの大量の学生をいれて授業料収入を稼いだ。認可卒業生で学校の格と信用を上げ、「別科・特科」で財政的基盤を確保するというのが私学経営のやり方であった。不平等条約改正を推進する文部省は特にドイツ法学に力をいれ独逸学協会学校を特別に庇護したという。私学補助金はここから始まり、井上文部卿はドイツ法のみならず、フランス法学、英米法学にも補助金を与えた。明治25年の民法法典の施行を巡って、ドイツ系法学派は施行延期、フランス法学派は施行賛成と論争を行なったが、「民法出でて忠孝滅ぶ」と唱えるドイツ法学派の勝利におわった。政府による露骨な補助金格差政策を受けて、私学法律専門学校の時代は「庇護と統制」から「競争と統制」へと大きく転換した。明治33年の私立法律学校10校の卒業生数から見ると、東京法学院(のち中央大学)の1人勝ちとなった。明治26年「文官試験規則」が公布され、特別認可学校制度が廃止されて、私学法律学校は大きな打撃を受けた。それまでも帝国大学卒業者の官吏無試験任用の特権の壁は厚く、僅かに残された司法官への門は、私立認可学校卒業生の登用者は明治21年には9名、22年17名、23年は47名に過ぎなかった。官僚として地位も給与水準も高い行政官僚に採用されることはありえなかった。明治26年の「文官任用令」と「文官試験規則」は行政官僚と司法官僚の任用制度を分け、学力試験によって篩い分けるものであった。明治28年からは帝国大学出と私学出の実力競争試験となった。私学側には予備試験というハンディキャップがあり、7割が門前払いであった。結果合格者は6年間で帝国大学は42%、私学19%であった。条件劣悪な環境でも私学が実力をつけてきたとみるべきであろうか。

5) 私立大学の登場

認可学校制度廃止は、政府から見ると、東京専門学校(のち早稲田大学)や明治法律学校などが反政府的言辞を吐き、自由民権政治運動の拠点になる事を恐れた結果である。それは同時に民セクターからの人材養成に応えることが出来なかった官側からの反撃といえる。私学側から見ても僅かな行政・司法官僚の任用試験合格者(年平均で行政官5名、司法官30名)を出すだけでは、認可指定学校にこだわっていては学校経営が成り立つわけはなかった。私学の経営の基盤は授業料であり、中でも入学資格を問わない別科・特科にあった。早稲田・慶應という経営がしっかりした私学の雄の本科学生比率は明治38年でほぼ100%であったが、それ以外の私学では、明治が53%、中央18%、法政24%、日本36%、専修53%、関西30%、立命43%であって軸足は本科ではなかった。この時期の法学系私学の授業形態がの多くが、「講義録」という名の通信教育であった。今でいうとインターネット講義みたいなものであり、多くの学生を収容する講義に必要なマンモス教室もいらないし、帝国大学の教師のアルバイトに頼った(自前専任教師を維持の人件費は高い)ので安上がりで、知識に渇した若者の向学心を満たす経営であった。こうした私学が密集したのは本郷に近い神田であった。アルバイト講師が本郷から通える距離になければ成り立たない商売であった。そういう意味でも、東京専門学校が早稲田、慶応義塾が三田にあったのは、専任講師がいなければ出来ない本郷からの地理的距離であった。学生の出自をみると、旧士族は明治28年の帝国大学と予備門の学生の6割、官立専門学校では半数を占めた。公立の医学校では旧士族は少なく13%で、私学では6割から8割が旧平民であった。旧士族は官吏になれる帝国大学へ進み、医師に平民が多かったのは江戸時代から医師は平民の仕事であったからだ。士族は官立へ、平民は私学へという構図は単純すぎるが面白い話だ。福田諭吉によると学問には3つの道があるという。第1は学者、第2は身を起す事業に利用する、第3は物理人事の要略を知るためである。福沢の定義によると帝国大学は1と2のために学び、私学は2と3のために学ぶ。私学の中心であった私立法律学校卒業生5670名の明治30年における職業別分布を見ると、@判任文官、A弁護士、B判事・検事、C銀行・会社員、D政治家・記者・教育家の順である。法曹界とくに在野法曹界では私学が多数を占めていた。法学系私学が商学部や経済学科を新設して、事業・企業系職員に重心を移すのは明治40年以降の話である。なかでも東京専門学校(のち早稲田)の卒業生の特徴は地方の行政・教員・政治家の率が高いことである。地方へ、民間へが早稲田の伝統といえる。慶応義塾では官僚は4%にすぎず、民間企業45%、自営業31%と圧倒的に民の実業界へ向かっている。

私学の学制改革論議の始まる前に、官立セクターの拡張が進んだ。尋常中学校の卒業生が明治30年代に入って激増し、高等教育機関への入学希望者も大幅な伸びを示した。明治29年大阪工業学校、30年京都帝国大学、第3高等学校(京都)予科新設、第5高等学校、第6高等学校(岡山)、東京外国語学校の新設では到底受け皿の拡大にはならなかった。こうして文部省は高等学校制度の失敗を認め、拡大よりも高等学校改革が必要であると認識した。明治29年「高等教育会議」を設立した。これが教育関係審議会の始まりである。しかし政府系審議会では実のある審議がなされなかったので、在野教育関係者で「帝国教育会」が結成され「学制研究会」で活発な活動が開始された。貴族院の久保田譲は、帝国大学を高等教育システムの頂点に置いていては学制改革は進まないことから、これを外す「帝国大学棚上げ論」を主張した。帝国大学側から強く反発したのが菊池大麓であった。明治34年桂太郎内閣が発足し、菊池大麓が文部大臣になって学制改革論議は本格化し、帝国大学はそのままにして専門学校制度と高等学校の再編を軸に大きく動き出した。明治36年勅令「専門学校令」が公布された。専門学校令は、帝国大学、高等学校、高等師範学校以外のすべての高等教育機関を対象とした包括的な学制であった。急増する進学希望者の受け皿としての専門学校、とりわけ私立専門学校を学校体系のなかで正式に位置づけ、様々な特典を与えて発展を図ることが政策的に避けて通れなくなったということである。これまで一部の学校だけに適用されていた保護と監督をすべての私立専門学校に及ぼすものである。専門学校とは「高等の学術技芸を教授する学校」であり、中学校・高等女学校の卒業者を入学させ、修業年数は3年以上である。専門学校令と同時に公布された「公立私立学校専門学校規定」には認可を得るための条件が細かく決められていた。認可を得るには法令施行1年以内に申請する必要があり、申請できない場合や条件を満たさない学校は廃校または各種学校に移行する。専門学校に認可されれば国家試験や徴兵制の特典が得られる。専任教員の確保,入学者の質の確保策、本科以外は禁止ということになったので、私学は苦しい選択を迫られたが、法学系を中心にした私学が選んだのは専門学校への道であった。それを可能としたのは入学資格を問わない別科の存続を認められたからである。国家は財政的支援をせずに許認可条件を裁量することで、私学側の命がけの努力を引き出し、低コストで高等学校の拡大と人材養成を図った。この専門学校令で新たに生まれたのが一部の私立の「大学名称」の誕生である。慶応義塾が明治23年に開設した「大学部」は細々と続いていたが、これを期に「早稲田大学」が出現した。早稲田は教育課程を大学と専門学部に分け、大学部の下に1年半の専門予科を設け大学に進学させる、専門学部は中学卒業生を入れて日本語で授業する、大学飢饉を30万円上積みして教師・設備を拡充するというものであった。大学と証することが認められても、法制上は専門学校なのである。このジレンマを乗越え、久保田文部大臣は多くの「私立大学」を認可した。私立専門学校は明治35年に46校で大学を称したのは4校であったが、明治38年には私立専門学校は37に減り、大学校は16に増加した。

6) 東西両京の帝国大学

公立専門学校について法的位置づけが無いという点で私立専門学校と同じであった。5校の公立医学専門学校は明治34年高等学校から分離独立した。8校の高等学校は、純然たる大学予科となっていた。公立の高等教育システムは崩壊し、実用的な専門学校と予備校に変身した。実業専門学校の増設が進み、音楽・美術・外国語学校は3校、高等工業学校は5校(東京、大阪、京都、名古屋、熊本)、高等商業学校は4校(東京、神戸、山口、長崎)、高等農林学校は4校(札幌、東京農科学校、盛岡、鹿児島)、高等師範学校4校(東京、東京女子、奈良女子、広島)、医学専門学校は5校(仙台、千葉、金沢、岡山、長崎)となった。明治42年の公私立中学校卒業生は16000人、高等学校(予科)志願生は9000人で入学者は2100人,競争率は4.3倍となって激しい受験戦争時代の幕開けであった。主要な学校の受験状況を競争倍率で見ると、官立高等学校が2.6倍、官公立医学校が2.7倍、私立専門学校は1.1倍、官立高等工業学校が3.7倍、官立高等商業学校が3.8倍であった。私立は事実上全員入学可能であったが、官立高等学校・専門学校の入学競争は熾烈であったといえる。中学校の卒業生は何年かは浪人し、あきらめて私立へ入学という進学パターンであった。

関西に第2の帝国大学をという運動は明治18年ごろから始まり、最初大阪に考えられたが、明治19年に大阪高校が第3高等学校として京都に移転されて、明治27年西園寺公望文部大臣と次官の牧野伸顕によって第3高等学校を予科として京都の帝国大学を招致する構想がおき、明治30年京都帝国大学が創設された。法学・医学・理工学部でスタートし、明治40年より文学部が加わった。当然であるが教授団は東京帝国大学の卒業生と留学生から構成された。しかし京都帝国大学は東京帝国大学のライバルたることを宿命付けられた大学である。しだいに東京帝大「東大は法科をもってして鳴り、京大は文科を以って聞こえる」ことになる。東京帝大は「年級制」に対して京都帝大は「科目制」を特徴とした。東京帝大の「年級制」とは1年ごとに履修する科目を配分し、履修した科目全部に合格しなければ進級できないシステムである。それに対し「科目制」とは科目ごとに履修登録をして、試験を受け不合格科目だけを再修するシステムである。修業年限も3年から6年と緩やかな規則となっている。「真に大学らしい大学の創立」を謳って、ベルリン学派4名の新進教授によるドイツ型の大学への転換を目指した。試験で鍛えた東京帝大に較べるとゼミナール重視の自由な校風は、高等文官試験において京都大学卒業者が惨敗する結果となり一時法学系で沈滞と挫折が起きた。明治42年での入学者数は東京帝大が1000名、京都帝大は217名で1/5に過ぎなかった。学部別に見ると東京帝大は理学・文学は定員割れであるが外は100%である。京都帝大は明治42年に法学部は定員の50%と大きく割れたが、他の医学・文学・理工は100%であった。ということで京都帝大は官僚の人材養成のためではなく、学術研究を売りにすることになったといえる。明治42年の講座数では東京は182、京都は108、教授数は東京が139、京都は80、学部数は東京が6、京都は4であった。明治42年度までの卒業者数累計は、東京が8655名、京都は1377名で、卒業後の進路は東京では@官庁、A民間、B学校教員であるのに対して、京都では@官庁、A民間で、東京に較べて顕著に教員は少ない。

7) 帝国大学への挑戦

明治30年以降は東京帝国大学による「大学」の独占体制に対して、他の高等教育機関の挑戦の時代であったといえる。まず官立専門学校の「大学昇格運動」として現れ、学制改革論議に新たな火種を持ち込んだ。札幌農学校は明治初期に設立された専門学校の生き残りで、たびたび存続の危機に襲われ変遷を余儀なくされたが、留学生の帰国により教授集団が形成され、予科の存在と学士称号の授与権限は帝国大学と同格である証として大学昇格運動が始まった。樺山文相は明治32年頃から、九州帝国大学と東北帝国大学構想を打ち上げ、札幌農学校は東北帝国大学の1分科大学として位置づけた。明治34年から文部大臣となった菊池大麓は大学の新設には反対で、明治37年から始まった日露戦争で新設運動は頓挫した。しかし明治39年に就任した牧野伸顕文部大臣は帝国大学拡張論者であったので、足尾鉱毒問題で批難のまとになった古河財閥の寄付金で、明治40年に東北帝国大学が設立され札幌農学校は農科大学として組み込まれた。明治43年には福岡医科大学を母体として工科大学を新設して九州帝国大学が生まれた。古河財閥は九州帝大に60万円、東北帝大に40万円を寄付した。こうして明治の終わりには帝国大学は東京、京都、東北、九州の4校となり、東京帝大の位置は相対化した。東京高等商学校も最初から「高等」という名称を持つ特異な専門学校であったし、札幌農学校と同じく予科を持っていた。明治34年には「商業学士」の称号授与を持つに至った。また外部「商議委員」制度を持ち、もともと民セクターに近い存在であった。明治20−30年に多くの留学生を出して、明治34年「商議委員」の渋沢栄一が商科大学設立運動を始めた。官側はそれに刺戟され、明治41年東京帝国大学の法科に経済学部が新設され、明治42年商業学科も新設された。あまりに拙速に過ぎた官側の対応であったので、専任教授がそろわず学生がほとんどいない状態が続いた。東京高等商学校の大学昇格運動は効を奏さず大正7年の大学令を待たなければならなかった。明治36年に専門学校令に準拠する「大阪府立高等医学校」ができ、大正3年大隈内閣の高田早苗文部相の時に、日本で最初の公立単科大学である大阪府立医科大学が誕生した。大学とは総合制でなければならないという論拠は崩された。

私立で大学への道を模索した慶応義塾は明治23年専門学校令の中で「大学部」を設けたが。設立以来不振を続けた。慶應はもともと縦の教育すなわち幼稚舎から大学へと一貫したリベラルなカレッジ教育を施すことに特徴があった。ただ実学を強調するあまり早くから実業につく人が多く、大学に進学して専門教育を受ける人が一向に増えなかったのだ。明治32年以降アメリカの教育を倣って科目の選択履修の自由を取り入れたが、すぐに挫折し専門教育重視の壁は崩れなかった。大正6年東京帝大と対立する北里柴三郎の援助を受けて医学科を創設した。早稲田は慶應と違って横への拡張主義である。カレッジからユニヴアーシティへ発展してきた。明治33年大学部の設置構想が決定され、留学生派遣募金を始めた。專任教員養成にも努め、明治35年早稲田大学が発足した。政治経済学・法学・文学の3学科、明治37年に商学科を設置した。こうして大学部4科、専門部6科の体制が固まった。早稲田大学の総合大学志向は明治41年に理工科を生んだ。実用重視の理工科卒業生の世の中の取り扱いは専門学校出並みで、まだ中途半端な私立大学の制度上の位置づけに多くの学生は不満をもった。

公私立専門学校の「大学」化は、ピラミッドの頂点に立つ帝国大学の隔絶した地位を突き崩す運動であった。制度的に安定した初等・中等教育に較べ、大學・高等教育は依然として不安定な変則的な状態を続けていた。混乱の根源は明治初期の急速な欧米新知識の吸収に欠かせない外国語を習得する予科の設置にあった。時代が下るにつけ、外国人教師の退場と、留学生の帰国による自前教師団の育成、官立工場の民への払い下げに始まる民セクター独自の産業振興が大量の技術者や専門家を必要としたのに、官側の人材供給は財政困難を理由に全く不十分のままであったことである。この役割は私学専門学校が担ったのであるが、授業料収入に頼らざるを得ない経営基盤から粗製乱造の人材育成はやはり客観的に世に受け入れら得なかった。この高等教育の矛盾は、予科・高等学校をどうするか、私立専門学校を高等教育にどう取り込むかを巡って学制改革が争われた。明治34年から文部大臣となった菊池大麓は井上毅の「低度大学」論の賛同者であった。高等学校の予科を縮小し、専門学校化して高等学校を廃止する構想である。日本語による科目の教授が出来るようになったならば、外国語習得を目指す予科は不要であり、大学での授業を受ける学力の向上だけでいい。まして高等学校の専門学部は歪である。それは尋常中学校卒業で学べる大学の低度化と人材育成の専門学校の強化で出来ると考えるのである。文部大臣がその後、児玉源太郎(明治36年)、久保田譲(明治36年)、桂太郎(明治38年)、西園寺公望(明治39年)、牧野伸顕(明治39年)、小松原英太郎(明治41年)とめまぐるしく変わる中で高等学校の改革案は店晒しで、高等教育会議にかかったのは明治43年の事であった。小松原文相の構想は、高等学校を高等中学校に戻し、純然たる専門教育も予備門も廃するというもので森有礼の時代に戻るものであった。散々もめたあげく小松原文相は明治44年制定の「高等中学校令」を決定した。高等中学校を中学校と切り離して全国に20箇所に設けるというものであったが、次に文相となった長谷場純孝と大正2年に出来た山本権兵衛内閣の奥田義人文相も、この令の施行を財政を理由に無期延期すると決めた。だが次の大隈重信内閣の一木喜徳郎文相は新しい「大学令案」の検討を「教育調査会」に求めた。大正3年に示された案の概要は@高等の学・技芸を教授するところを大学という、A大学は官公私立に認める、B大学には学位の授与を認める、C私立大学は財団法人を設立者とする、D大学には予科をおく、D大学には付属専門部を置いて予科とすることが出来るというものであった。教育調査会で審議がおこなわれ、菊池大麓枢密顧問官はアメリカモ出るのカレッジ学芸大学校を建議したが大勢にはならなかった。

8) 興隆する専門学校

専門学校は大学の揺籃期であり、わが国の大学の殆どは専門学校から生まれたのである。明治36年に公布された「専門学校令」と同時に、設置認可を受ける条件を定めた「公私立専門学校規定」が公布されている。@入学者の資格は中学校卒業生または「專検」合格者、A教員の資格は帝国大学卒業生または官立学校卒業生で学士授与者、 B施設設備である。私立専門学校はこの高い障壁を乗越え自助努力で教育資源を蓄積していくのである。専門学校令が出された命じ36年から「大学令」の公布された大正7年までの15年間に官公私立専門学校は39校から72校に増え、実業専門学校は11校から27校に増えた。専門学校令以降の専門学校の発展は私立によるところが大きい。新たな専門学校では31校が私立であった。官立では発展の中心は実業専門学校であり、医薬系、農学系、工業系、商業系が12校増設された。政府はいつも財政難であり、多数の実業専門学校が増えたのは地元経済界と地方政府の資金負担があったからである。大阪商業学校、富山薬学専門学校、東京女子医学校、日本医学専門学校(のち日本医科大学)、日本歯科医学専門学校(のち日本歯科大学)、東京薬学校(のち東京薬科大学)などが創設された。女子専門学校としては、日本女子大学校、東京女子大学、帝国女子専門学校(のち相模女子大)、女子英語塾(のち津田塾大学)、青山女学院英文専門科、同志社女学校専門学部などが開かれた。

法学系私学で主導的な役割を果たしてきたのは、早稲田、慶應義塾、明治、法政、中央、日本、専修、関西、立命館、拓殖の10校であった。開設された学科の多様性では早稲田に並ぶ学校は無かった。実質的に単科と変わりない学校も多かった。私学がこぞって新設を進めたのは商科であった。法科の時代から商科の時代へ構造的な転換が進行した。大正4年の専門学校と実業専門学校の卒業生の増減を見ると、経済・商科は4−5倍に増え、法学は0.7に縮小し、医薬系は2倍、工学・農学系は3.5倍に増えた。商科の祖は東京高等商学校(のち一橋大学)であり、これに早稲田、明治の商科が追随した。私立専門学校の在学者数は大正元年に2万人に、大正6年には3万人であった。大正7年での官公立私立専門学校生数は約五万人であったが、その内訳は官立20%、公立5%、私立が70%と圧倒的に私立専門学校の時代へ移行していた。私学の経営基盤が授業料収入にある事は自明であるが、建物などの資本増設には募金や寄付金をあてる。授業料単価は私学の安いことは有名であった。明治41年の授業料は高いところで早稲田で40円、慶応義塾36円、中央30円、専修27円で、税金が投入される官立校の25円に較べて易かったというべきであろう。こうした条件下で収入増を図るには、官立学校進学者の半分予備校的な大学予科、入学資格を問わない別科や特科の学生を増やすことであった。私立法学系の在学生数の比率は大正4年に本科42%、予科34%、別科23%、研究科1%であった。本業40%、副業60%という按配であった。私学の講師は殆どが官立大学の非常勤講師から成り立っており、明治41年の明治大学の講師49名の全員が非常勤講師であった。非常勤講師が働きやすい午後遅くとか夜間中心の授業形態をとってきた。立命館大学の講師陣はすべて京都大学の教授であったことは有名である。明治44年の「私学学校令」改正により、私学は資金を蓄積し、財団法人を設立することになった。早稲田大学は大正2年の資産総額は174万円中、大隈重信の寄付金が34万円を占めたという。同志社大学では百万円、明治40年に創設された九州工業大学は安川財閥の寄付金410万円のうち、300万円が維持資金となった。専門学校令から大学令の公布にいたる15年間は私立学校における伝統と経営基盤とあわせ資金の潤沢さなどが格差、序列を生んだ。

9) 序列構造の形成

明治近代国家の誕生とともに始まった学制は絶えず時代の要請によって設計図を変えてきた。明治初年の「学制」、「教育令」は小学校、中学校、大学の基本3階層を定めたが、明治19年の森有礼文相は「学校令」を「小学校令」、「中学校令」、「帝国大学令」、「師範学校令」の4つに分割した。明治27年に「高等学校令」、明治32年「実業学校令」、明治32年「高等女学校令」、明治32年「私立学校令」、明治36年「専門学校令」、大正7年「大学令」と、新しい学校が生まれるたびに個別の勅令が制定された。結局学制改革問題とはこれらの学校の相互関係、接続問題であった。帝国大学令が「大学一般」の規則ではなく、帝国大学のみを対象とした孤立した教育システムであった。専門学校令以降の学制改革論議は何よりも帝国大学・高等学校の制度的な位置づけ、私立セクターを中心とした専門学校の大学化の是非を巡って展開された。帝国大学と専門学校、専門学校はさらに官公立と私立に分かれて、中学卒業生を受け入れる関係の整備である。中学校卒業生の進路は、高等学校6%、私立専門学校18%、公立実業専門学校10%、就職(実業・教師・官吏)27%、軍隊3%、家業など33%であった。進学競争率は2倍なので、半分は浪人していることになる。最終的な浪人の受け皿は私立専門学校であった。高等学校では東京の第1高等学校、京都の第3高等学校に集中し序列構造が生じている。高等学校総合試験制度(共通試験で強制的振り分け)は断念され、受験競争は熾烈となった。帝国大学は大正4年で4つになったが、開設学科数は東京が6つ、京都が5つ、東北が3つ、九州が2つであり、帝国大学は総合大学主義というのも怪しくなった。帝国大学間の序列を見ると、大学予科であるナンバースクール高等学校の卒業生を入学させ、足りないときは選抜試験を行なうというものであるが、他の高等学校や傍系からの志願者の受験を認めていた。しかし予科からの入学者比率(つまり純系)が一番多いのが九州帝大で98%、東京帝大が92%であった。中には定員に満たない学科もあり、東京帝大では文科、商業、農林、京都帝大では文科、理科、工科、東北帝大では理科などが不人気であった。帝国大学、官公立専門学校、私立専門学校の大正4年の卒業生数は、帝国大学1640名、官公立専門学校3580名、私立専門学校6400名であった。帝国大学卒業生と官公私立専門学校生卒業生の比率は20対80であるが、帝国大学が高いシェアーを占めたのは法学・政治学と理学のみであって、薬学・歯学・経済学・商学は専門学校卒業生が圧倒的なシェアーを占めた。職業の世界では、高等教育教員では帝国大学卒業生が圧倒的に比率が高く、行政官については帝国大学の独占場であったことはいうまでもない。在野法曹界は圧倒的に私学出身者が多かった。開業医の世界では従来開業者が半分で、私立の予備校的医学校の試験合格者が30%、学校卒の無試験資格は14%が官公立医学校卒業生、4%が帝国大学卒業生であった。工場技術者は明治35年に7万人いたが、そのなかで官公立専門学校卒業生が1000名程度にすぎず、技術者の需要に応じきれていない。銀行員・会社員の数は1万人で学校卒業生は1800人と、又その殆どは私立専門学校卒業生であった。

世間では学校の評判はどうであったのだろう。商業界を目指すなら慶応義塾の理財科であるといわれた。早稲田の商業科では実務的な人材を養成して、自分で商業を営む人も多かったという。官立高等商業科は売れ口一番といわれ、引っ張りだこであった。実業界にでるなら東京高商といわれた。法科の明治、入学しやすい中央、夜学のある日本大学、法政大学、堅実な商業の専修、関西の実業界につよい関西大学、京都帝大の教授でなる立命館、英語の同志社、文科文壇の早稲田などという世間の評判もあながち間違っていない。当時の受験案内書に書かれた評判から棲み分けの構図が見えてくる。、行政官僚は帝大でなければならない。高等文官試験の合格者の76%は東京帝大で、中級官僚は私立法律学校出で中央大学が一番多い。技術官僚もやはり東京帝大出がおおく、行政官僚100にたいして技術官僚は180の比である。司法官僚はむしろ私立法律学校出が多く、明治、中央が東京帝大に逼っている。弁護士では東京帝大、明治、中央という順である。地方行政では明治、早稲田という私立が占めている。新聞界では早稲田の占める率が高かった。中等学校教員は高等師範学校が多いのは当然であろう。

10) 大学令の成立

大正6年寺内正毅内閣の岡田良平大臣は学制改革の審議のため総理大臣直轄の「臨時教育会議」を設置した。この会議は大正8年まで1年10ヶ月をかけて審議し「大学令」と「高等学校令」の公布に成功した。岡田が選んだ委員は、総裁が平田東助、副総裁久保田譲、帝国議会か、枢密顧問官、政府関係省庁、学校関係者、私学関係者、実業界から40名弱を選任した。委員の過半数は現役官僚と官僚OBで占め、菊池大麓・高田早苗らリベラル派を排除してあった。有力委員に政府案を示して協力と進行をお願いし、あたかも委員から諮問案が出てきたかのように議論を導くという、いまでも各種審議会で官僚の行なうような常套手段を周到に用意して会議に臨んだ。議論があるとすぐに懇親会に切り替え、多数派工作でも反対者が消えない時には採決で事を決した。改革の方向は高等中学校を設け、7年の年限として大学に直結する、帝国大学は総合制による、官公立私立単科大学を認め特権は帝国大学と同じとするという趣旨であった。岡田、小松原、江木らの保守派の考えは現在の大学予科を高等普通教育に引き下げ大学と直結することであった。これにより日本独特の予備校としての大学予科をなくすることができる。帝国大学側からは高等学校の維持の反論だがあったが、取りまとめ委員15名が任命され改革案の起草に入り、総会で賛成多数で採決された。新設高等学校の骨子は以下であった。
@高等学校は高等普通教育を授ける
A高等学校の年限は3年
B高等学校は中学校4年修了者を受け入れる
C高等学校は官立、公立、私立に設立する
D高等学校単独の設置、または尋常科+高等科3年の合計7年の年限の制度による
E高等学校は文科、理科とする
F高等学校では第二外国語を選択できる
G高等学校修了者は大学に入学できる

次の議題は「大学教育および専門教育」であった。最初から「総合大学か単科大学か」は問題としない方針であった。ある意味では帝国大学派の総合制を放棄し、どちらでもいいということである。すなわち経営基盤の弱い私立大学には有利な条件である。「総合か単科か」という問題は、帝国大学対一般大学、官公立大学対私立大学、大学対専門学校の問題を反映しており、これらは現状追認ということになった。大学の形態からみるかぎり、ようやく帝国大学モデルの呪縛から逃れ、自由な編成が認められたことである。「大学」名称を認められているとはいえ、「私立大学」を正規の大学として設置認可する際の要件をどうするかという、いわば「技術的」な問題を審議した。「大学令」は21条からなる。その骨子は以下であった。
@大学は国家に須要な学術の理論及び応用を教授し、その蘊奥を攻究するをもって目的とする。人格の陶治及び国家思想の涵養に留意する
A大学には数個の学部をおくが、1個の学部を以って1大学とすることもできる
B学部には研究科を置くべし
C大学は帝国大学、官立大学のほかに、規定により公立私立を大学となすことが出来る
D公立大学は道府県に限り設立できる(市立、町立、村立はだめ)
E私立大学は財団法人でなければならない、財団法人は大学を維持するに足りる収入を生じる基本財産を有すること
F大学の設立廃止は文部大臣の認可による。学部の新廃設も同じ
G入学できるものは、大学予科を卒業した者、高等学校高等科を卒業したもの、文部大臣のさだめる学力を有すると認めるもの(学力試験合格者)
H学部に3年以上(医学は4年以上)在学し、一定の試験を受けて合格した者は学士と称する
I大学に特別に必要があれば予科を設けることが出来る。予科の修業年数は3年または2年とする。予科の学則は文部大臣の認可をうける
J公立私立の大学には相当員数の専任教員を置く 教員の採用は文部大臣の許可を受ける
K公立私立の大学は文部大臣の監督を受ける

大正7年12月大学それぞれの個性や特性を超えて、共通の困難に満ちた誕生の時期を迎えた。大学令の公布より昭和20年までにいくつの大学が誕生したのだろうか。帝国大学は既存の4帝国大学にくわえて、大正7年に北海道帝国大学、昭和6年に大阪大学、昭和14年名古屋帝国大学ができ7帝国大学がそろった。官立単科大学は11校(医5校、商2校、公2校、文理2校)増え、公立大学は5校(医4校、商1校)増え、私立は26校増え、合計45校の大学が誕生した。併合などで消滅した大学もあるので、結局戦前には帝国大学7校、官立大学11校、公立大学2校、私立大学26校の合計46校であった。昭和16年での大学卒業生が15000人で、専門学校卒業生は38000人である事を見ると、我が国の高等教育システムはまだ専門学校に頼っていたのである。明治20年ごろから大正7年の大学令までの30年余の学制改革論議は現実重視の現状追認的な解決を目指していた。なかでも大学は全て国家に奉仕することを第一義とし国家の厳しい監督下におかれた。帝国大学をモデルとすることがすべての大学に求められた。帝国大学の予科に対応して、公立私立にも予科がおかれ、高等学校の問題がすべての大学で再生産された。そして予科は各学校で囲い込まれていた。専門学校令による「私立大学」にとって「大学令」はたしかにたいへんな改革であったが、依然として経営基盤である専門部は存続した。私立にとって予備校まがいの予科、夜間授業のある専門部、入学資格を問わない別科等から上がる授業料なしには経営が成り立たなかったので、現状追認はぜひとも必要であった。


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