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前田耕作著 「玄奘三蔵、シルクロードを行く」

 岩波新書(2010年4月)

仏教の原義を求めて、長安からガンダーラへの旅

本書の著者前田耕作氏のプロフィールを見ておこう。1933年生まれ、1957年名古屋大学文学部卒、1964年名古屋大学アフガニスタン学術調査団一員として初めてバーミヤンを訪れ、以来アフガニスタンほか、西アジア、中央アジア、南アジアの古代遺跡の実地調査を行う。1975年より和光大学教授(アジア文化史・思想史)2003年3月和光大学名誉教授。 現在は主にアフガニスタンに関する文化研究を進めると共に、2003年7月から開始された日本信託基金に基づくユネスコによるバーミヤン遺跡の保存・修復の事業に参加する。専攻はアジア文化史・思想史だそうだ。平山郁夫シルクロード美術館理事や日本・アフガニスタン協会理事や日中文化交流協会理事などの公職を兼務している。アフガニスタン文化研究所のホームページに氏のプロフィールが詳しく載っている。著書には「宗祖ゾロアスター」(ちくま学芸文庫)、「ディアナの森」(せりか書房)、「アフガニスタンの仏教遺跡バーミヤン」(昌文堂)、「アジアの原像」(NHKブックス)などがある。氏は本書を書く動機となったのは、2001年のバーミヤン大仏爆破の後に見た大仏の巨大な瓦礫の山であったという。玄奘法師とともに旅をしてみたいと思い、「大唐西域記」、「大唐大慈恩寺三蔵法師伝」、「続高僧伝」を里程標として本書を企画したそうだ。

玄奘三蔵の歩いた道(往復路)
玄奘三蔵

往路:青ポイント 長安・西安 →秦州(しんしゅう)・天水(てんすい) →蘭州(らんしゅう) (別称:金城) →凉州(りょうしゅう)・武威(ぶい) → 甘州(かんしゅう)・張掖(ちょうえき) →粛州(しゅくしゅう)・酒泉(しゅせん) →嘉峪関(かよくかん) →玉門関 →瓜州(かしゅう) → (これより新疆ウイグル自治区)クルム・哈密(ハミ)(伊吾国) →トルファン(吐魯番)(高昌国) →クチャ(旧称:亀茲(きじ) →アクス(阿克蘇) →ウシュ(烏什) →(これよりキルギスタン)ペデル峠 →ビシュケク →(これよりウスベキスタン)タシケント → サマルカンド →プハラ →サマルカンド →テルメズ → カラテパ →(これよりアフガニスタン)バーミヤーン →カブール →(これよりパキスタン)カイバル峠 →ペシャワール → ガンダ−ラ仏跡 →タキシラ →イスラマバード →カシミール地方 →(これよりインド)マトゥラー → サヘート・マヘート(仏教八大聖地の一つ) →クシナガラ(インド 釈迦が亡くなったところ) →ワーラーナシー →パトナ → ブッダガヤ→ナーランダ
これより復路:緑ポイント カルカッタ→アジャンター→ (これよりパキスタン)カラチ→ モヘンジョダロ→ラホール→ カシュガル→(これより中国) ホータン→ ニヤ→ 楼蘭→ 敦煌→ 莫高窟→玉門関

本書の序(遥かな地平の叫び声)の出だしが名文で始まる。「世界がぐらりと動こうとする時、人のこころにも若草の萌えに似たうずきが生まれ、目に入る風景もまたうごきはじめ、地平のひろがりを変えてゆく。・・・・」 ローマ帝国の東西分裂で西ローマ帝国が亡び古代が終焉を迎えると、アラブにマホメットがイスラームを始め、中国は分裂国家から隋・唐の大帝国に統一され膨張を始める。そのような息吹きのなかにAD600年、玄奘が生まれた。そして17年に及ぶ仏典を求める旅により、7世紀の西域・中央アジアの世界を「大唐西域記」に記録した。玄奘が旅をしたルートは古代から文物を交流させ東西世界を結んできた公易路で、1877年ドイツの地理学者リフトホーヘンが「絹の道シルクロード」と名づけた。中国の長安から東ローマ帝国のイスタンブーまで1万キロメートルにおよぶ。上の図は玄奘の歩いた往復路のポイントを示した図である。西域とはだいたいトルキスタンを指し、時にはインド、西アジア、ヨーロッパまでを指すこともある。トルキスタンの国々はさらにパミール高原をはさんで東西に分けることができる。まず、東トルキスタン(現在の新疆ウイグル自治区)では、トルファン盆地(伊吾、高昌、車師前部、楼蘭など)・ジュンガル盆地(車師後部など)・タリム盆地(焉耆・亀茲・莎車・疏勒など)・イリ地域(烏孫)の国々があり、西トルキスタン(いわゆる中央アジア)では、ソグディアナ・トハリスタン(大宛・康居・大月氏・大夏・昭武九姓)の国々がある。下の図に3世紀ごろの西域の国々を示すが、玄奘が歩いた7世紀にはモンゴル系の突厥が中央アジアを広く支配していた。

西域の国(3世紀ごろ)
西域

さて本書は玄奘三蔵法師の仏典を求める旅の紀行記であるので、まずは玄奘三蔵法師について生い立ちを見て行こう。玄奘は陳洛陽河南の地方官僚陳恵の三男として生まれ、生年は隋の文帝楊堅の開皇20年600年、または602年ともいう。文帝は仏教振興に情熱を傾け国内30箇所に仏舎利塔を建立した。父は玄奘が10歳の時なくなったので、11歳で兄のいる洛陽の浄土寺に入った。隋の二代皇帝の煬帝は建塔度僧の詔勅を出し、13歳の玄奘は運よく土僧に選ばれ出家した。玄奘という名は法名である。617年大原に挙兵した李淵は長安を制し、隋は亡んだ。洛陽は戦渦に巻き込まれ、難を避けて長安の代荘厳寺に移った。これから玄奘の遊学の旅が始まった。長安では新興宗派の三階教が流行し、満足な勉強も出来ないので19歳の玄奘は長安の南西にある漢川の地に移り、そこで空法と景法師とともに「摂大乗論」を勉強した。僧らは蜀へ乱を避けて移動していたので、玄奘も兄とともに蜀の成都に移り空慧寺にはいった。ここで具足戒を受け21歳の玄奘は正規の僧となった。ここから兄と別れ洞庭湖の北東荊州にある天皇寺に移った。ここで「摂論」と「毘曇」の講義を行なった玄奘は、長江を更に下って楊州で「成実学」の小乗仏教を勉強した。そして遥か黄河の北にある相州で慧休法師と「摂論」、「三階教」を議論したらしい。更に北にある趙州では道深法師を訪ね「成実論」、「倶舎論」を議論したらしい。遊学を終えて玄奘は唐の都長安に戻り大覚寺に入った。当時長安は、ゾロアスター教、マニ教、景教など異民族の人と宗教がごったかえして活気に溢れていた。時に玄奘は26歳、大覚寺の道岳について「倶舎論」を学んだという。ここで玄奘は大乗仏教の最高学理、世親の「阿毘達磨倶舎論」を学んだ。ここで真諦の訳に出会い、世親・無著の斬新な教学理解に情熱を燃やした。27歳にして玄奘はようやく当時の教理の状況について知るべき事は知り、解すべきことは解した。しかしそれらはあくまで翻訳された経論の世界であり、原典から理解ではなかった。中国の仏典は西域から来た外国人が中国語に翻訳したものであり、中国人が原典に接して翻訳したものではない。玄奘は真文の奥義をもっと深く追求するのはインドに向かい原典に接する以外には無いと覚悟した。長安興善寺に投宿しているインド僧を訪問して、玄奘はインド仏教の現況を尋ねた。インド・ナーランダ寺の「瑜伽学」に精通したシーラバトラの評判を聞いて、めざすべきところを知った。それから玄奘は猛烈に言語を勉強した。梵語をはじめ西域の言葉を学ぶことは旅の安全と情報収集にはなくてはならないからだ。

「大唐西域記」とは

『大唐西域記』(だいとう さいいきき)とは、唐僧玄奘が記した当時の見聞録・地誌である。646年(貞観20年)の成立。全12巻。玄奘が詔を奉じて撰述し、一緒に経典翻訳事業に携わっていた長安・会昌寺の僧、弁機が編集している。求法の旅を終えて帰国した玄奘は持ち帰った経巻の訳業を皇帝の太宗に願い出た。許可に当たって西域の詳細な報告書を提出するよう命じられ、編纂された報告書が本書である。中央アジアからインドにわたる、玄奘が歴訪した110ヶ国および伝聞した28ヶ国(更に16ヶ国を付記する)について、具体的に城郭・地区・国の状況などについて記している。全巻は12巻よりなっているが、本書は第1巻と第2卷だけを対象としたという。一応全巻の構成を知りたいので、列記する。
巻第一
古代印度の世界像(須弥山説) 、贍部州の四主 、諸国の異俗 、胡人の習俗 、阿耆尼国(焉耆) 、屈支国(クチ、亀茲) 、跋禄迦国(バールカー、姑墨) 、赭時国(シャジ、石国) 、颯秣建国(サマルカンド、康国) 、弭秣賀国(マーイムルグ、米国) 、喝捍国(カリガーンカト、東安国) 、捕喝国(ブハラ、中安国) 、伐地国(戊地国、西安国) 、貨利習弥伽国(クワーリズム) 、羯霜那国(史国)、 覩貨邏(トカラ、トハリスタン) - 覩貨邏国総記 、蜜国(テルメズ) 、赤鄂衍那国(チヤガナーヤ) 、忽露摩国 、愉漫国(シュマン) 、鞠和衍那国(クワナーヤ) 、珂咄羅国(クツタル) 、拘謎国(クマード) 、縛伽浪国(バーグラーン) 、忽懍国(クルム) 、縛喝国(バルク) 、胡寔健国(グーズガーン) 、掲職国(ガチ) 、梵衍那国(バーミヤーン) 、迦畢試国(カーピシー)
巻第二
印度総説 、(北印度) 濫波国 、那掲羅曷国(ナガラハル) 、健駄邏国(ガンダーラ)
巻第三
烏仗那国(ウツディヤーナ) 、鉢露羅国 、叉始羅国(タクシャシラー) 、僧訶補羅国(シンハプラ) 、烏剌尸国(ウラシャー) 、迦湿弥羅国(個失蜜、カシミール) 、半蹉国(パルノーツア) 、遏羅闍補羅国(ラージャプラ)
巻第四
磔迦国(タツカ) 、至那僕底国(チーナブクテイ) 、闍爛達羅国(ジャーランダラ) 、屈露多国(クルータ) 、設多図盧国(シャタドル) 、中印度 、波理夜羅国(パーリヤートラ) 、秣菟羅国(マトゥラー) 、薩他泥湿伐羅国(スターネーシヴァラ) 、禄勤那国(スルグナ) 、秣底補羅国(マテプラ) 、婆羅吸摩補羅国(ブラフマプラ) - 蘇伐刺拏瞿羅国(スヴァルナゴートラ、東女国) 、瞿霜那国(ゴヴィシャーナ) 、堊醯掣羅国(アヒチャツトラ) 、羅刪拏国(ヴィラサーナ) 、劫比他国(カピタカ)
巻第五
羯若鞠闍国(カーニヤクブジャ) 、阿踰陀国(アユダー) 、阿耶穆?国(アヤムクァ) 、鉢邏耶伽国(ブラヤーガ) 、賞弥国(コーシャーンビー) 、索迦国
巻第六
室羅伐悉底国(シラーヴァスティー) 、劫比羅伐?堵国(カピラヴァストゥ) 、藍摩国(ラーマ) 、拘尸那掲羅国(クシナガラ)
巻第七
婆羅斯国(バーラナシー) 、戦主国(ガルジャパティプラ、ガルジャナパティ) 、吠舍釐国(ヴァイシャーリー) 、弗栗恃国(ヴリジ) 、尼波羅国(ネパーラ)
巻第八
摩掲陀国(マガダ)上
巻第九
摩掲陀国下
巻第十
伊爛拏鉢伐多国(イラーンヤパルヴァタ) 、瞻波国(チャンパー) 、羯朱祇羅国 、奔那伐弾那国(プンナヴァツダナ) 、(東印度 )迦摩縷波国(カーマルーパ) 、三摩国(サマタタ) 、摩栗底国(タームラリプティー) 、羯羅拏蘇伐剌那国(カルナスヴァルナ) 、烏荼国(ウドラ) 、恭御陀国(コーンゴーダ) (南印度)羯稜伽国(カリンガ) 、薩羅国(コーサラ) 、案達羅国(アーンドラ) 、駄那羯磔迦国(ダーニヤカタカ) 、珠利耶国(チヨーダ) 、達羅荼国(ドラヴィダ) 、秣羅矩国(マライコツタ)
巻第十一
僧伽羅国(シンガラ)…セイロン島 (羅刹国) (南印度) 恭建那補羅国(コーンカナプラ) 、摩訶剌侘国(マハラツタ) 、跋禄羯婆国(バルカツチャパ) 、摩臘婆国(マーラヴァ) 、阿釐国(アターリ) 、契国(カッタ) 伐臘国(ヴァラビ) (西印度) 阿難陀補羅国(アーナンダプラ) 、蘇剌他国(スラツタ) 、瞿折羅国(グツジャラ) 、闍衍那国(ウツジャヤニー) 、擲枳陀国 、摩醯湿伐羅補羅国(マヘーシヴァラプラ) 、信度国(シンドゥ) 、茂羅三部盧国 、鉢伐多国(パルヴァタ) 、阿点婆翅羅国 、狼掲羅国 、波剌斯国(ペルシア) (西印度 )臂多勢羅国(ピータシャイラ) 、阿輿荼国(アヴァンダ) 、伐剌拏国
巻第十二
漕矩国(ジャーグダ) 、弗栗恃薩儻那国(ヴリジスターナ) 、覩貨邏故地 、安羅縛国(アンダラーバ) 、闊悉多国(カスタ) 、活国(グワル、クンドゥズ) 、健国(ムンガーン) 、阿利尼国(アリーニ) 、曷邏胡国(ラーグ) 、訖栗瑟摩国(クルスマ) 、鉢利曷国(パリーガル) 、摩羅国(ヒーマタラ) 、鉢鐸創那国(バダクシャーナ、バダフシャン) 、淫薄健国(ヤンバガーン) 、屈浪拏国(クラーンナ) 、達摩悉鉄帝国(護蜜、ダルマスティティ) 、尸棄尼国(識匿、シキーニ) 、商弥国(シャミ) 、盤陀国(蒲犁、カルバンダ) 、烏国(ウサー) 、沙国(疏勒、カーシャ) 、斫句迦国(朱居、カクカ) 、瞿薩旦那国(ゴスターナ)

1) 西域の国々

いよいよここからは唐の支配の及ばない異国の地「西域」である。本書は玄奘法師の足跡を辿るという趣旨で、地理や文化を語る場面が多いのだが、私は玄奘法師が仏教経典の何を学んだのかを中心にまとめてゆきたい。山や砂漠の冒険や探検の話はオミットする。627年李世民が即位した年、貞観元年8月の朝笈を背に長安を出発した。西域へ出ることは唐朝は禁止していたので、玄奘は秘密裏に出発した。泰州から蘭州へ、そして涼州へ向かった。当時622年唐朝は河西地方に五州(涼、甘、粛、瓜、沙州)を置いた。涼州には都督府がおかれ唐の西域経営の拠点であり、涼州は東西貿易の拠点でもあり仏教文化も盛んな土地であった。玄奘は粛州から瓜州に至り、628年元旦玉門関を出た。玉門関を出てハミ(伊吾)にいたる。後漢の時匈奴を追い払って西域経営の拠点としたが、隋の時には影響力はなくなり西方ソグドの商人が殖民していたという。トルファン盆地は車師前国の故知であるが、高昌国では今やソグド人がもたらしたゾロアスター教と西域の僧がもたらした仏教とが崇拝されていた。時の王麹文泰は玄奘を迎え仏教の機運を高めようと「仏説仁王般若経」の講義を希望し、玄奘のこれからの旅の安全を保障する西突厥の葉護可汗(ヤブグカガン)への献上品や絹織物など金に換わるものを玄奘に与えた。玄奘らは西へ西へと旅を進め、阿嘗尼国(カラシャール)の王城に着いた。この国の言葉は「トカラ語(焉耆・亀茲語)」夜呼ばれインド・ヨーロッパ語族である。文字はインドのブラーフミ文字が使用されていた。玄奘は言語に対する鋭い感覚を有し、言語の少しの違いをも指摘できるほどであった。産物・衣服、伽藍の数、僧徒の数などを各国について記している。阿嘗尼国の伽藍は十数箇所、僧徒は三千人で小乗経の「説一切有部」を学習している。インドの原文について玩味している。更に西へ行くと屈支国(クチ、亀茲)に着く。原典から漢文に翻訳した鳩摩羅汁の故国がここ亀茲である。後漢の班超が亀茲を下した時代には「延城」と呼ばれていた。当時の王蘇伐畳(スヴェルテ)は屈支族で、高僧モークシャグブタを伴って玄奘を迎えた。玄奘は高昌王からの親書と綾絹を献上した。亀茲国に仏教が栄えたのは3世紀頃からであり、東西いずれの国にも仏典を伝えた。亀茲の言語は焉耆と同じトカラ語に属していた。鳩摩羅汁は東晋の4世紀中頃インドから亀茲国にやってきた一族の子で9歳でインドのガンダーラにゆき小乗経典を授けられた。西域諸国を旅して大乗仏教の経綸を極めたといわれる。鳩摩羅汁は406年東晋の都長安に迎えられ、「法華経」、「維摩経」を訳した。亀茲国では伽藍が百余箇所、僧徒は五千人と記している。クムトラ石窟には57の仏塔窟と「画家洞」の絵が残されており、またアーシチャリア伽藍を訪れすばらしい壁画と去勢伝説を玄奘は記録している。この伝説はインドの叙事詩「マハーバーラタ」のモチーフを伝えているようだ。クチャ文化が西に向かって開かれていたことを示す。親書を携えて大ききな国に着くたびに、出発時には馬とラクダにたくさんの物資を頂くことになる。その荷物の噂を聞きつけた盗賊が玄奘の一行に襲い掛かるのが、「西遊記」の話の原点になったのであろう。次の国までの人夫や警備をついたので玄奘は山賊には襲われなかったようである。次は跋禄迦国(バールカー、姑墨)をめざした。

2) 中央アジアの国々

跋禄迦国(バールカー、姑墨)はタクラマカン砂漠の北西にあり北道の国である。ここから天山山脈を越えることになる。西域で勢力のあった5国、阿耆尼国(焉耆) 、屈支国(クチ、亀茲)、疏勒(カシュガル)、ぜん善(ミーラン)、(ホータン)のひとつである。姑墨には伽藍が数十箇所、仏僧は千人いた。文字は屈支語とおなじブラーフミー文字であるが、言語はトカラ語とは少し違うと記している。ここは1泊だけで温宿に向かった。西突厥の葉護可汗の居城に向かう近道として天山越えを勧められていたからで、ペダル峠の基点である温宿に入った。天山(凌山)はいま中国とキルギスの国境をなしており、玄奘一行のうち凍死したものは10人中3、4名、牛馬はそれ以上に失われたという。ペダル峠を越すと西突厥の国で古くは烏孫の故地である。後漢の2世紀に玄奘とは逆の方向を歩いて中国に入り中国における訳経の祖といわれる安世高は隋代の安国(ブハラ)の出身で、康国(サマルカンド)と同族であった。その安世高に思いを致しながら玄奘は天山を越えて大清池(イシック・クル 塩湖)を廻って素葉城(いまのトクマクの南)に着いた。騒然と活気に満ちた国際的な公易と中継市場の町であった。玄奘は西突厥の葉護可汗(ヤブグカガン)に面会し、高昌国の王麹文泰からの親書と貢物を渡した。玄奘は統葉護可汗の容姿を記録しているがそれは絵に描かれた長髪の突厥人の姿そのものであった。玄奘は国賓級の管弦の宴に招かれ、曲、食物の記録を残した。食後短い説法を行なったという。玄奘は数日滞在して出発したが、王は玄奘に通訳をつけて各国への通達書を持参させ、絹50疋を持たせ迦畢試国(カーピシー)までの安全を保障した。西へゆくと千泉(メリケ)という突厥可汗の夏宮についた。千泉を過ぎてタラス城、白水城を経由して赭時国(石国)に至った。石国は胡六国(康、米、曹、安、石、史)のひとつである。このあたりは突厥、ソグド人の胡商や諸国の公易が盛んで宗教はゾロアスター教、マニ教、ネストリウス景教などが雑居している状況であった。漢の時代に張騫が訪れ「史記」に記された「大宛」の故地も近い。そして更に南進しストリシナ国についたがここも突厥の支配地であった。ここから西北に向かい颯秣建国(サマルカンド、康国)に着いた。紀元前5世紀にマケドニアのアレクサンドル大王が攻め入った所である。天山を越えてからは一番大きな国であった。ここが王立連合国家群である胡国六国の中心で壮麗な壁画がソグド文化の国際性を彩った。宗教はゾロアスター教である。玄奘は高昌国の王麹文泰と統葉護可汗の親書を康国の王に渡して謁見した。王に仏教振興を訴え、一人僧を出家させ一寺を設けたという。玄奘は見なかったが、康国の歴史や国際関係の豊かさを伝える「アフラシアブの壁画」があり、サマルカンドの王ワルフマーンが主宰する新年の祝祭に各国の使節が臨む様子が描かれている。サマルカンドからさらに西へゆくと弭秣賀国(マーイムルグ、米国)喝捍国(カリガーンカト、東安国)捕喝国(ブハラ、中安国)伐地国(戊地国、西安国)羯霜那国(ヶシュ 史国) へ玄奘は急ぎ足で駆け抜けた。従って記述は極めて簡潔であった。羯霜那国(ヶシュ 史国)から西南に行くと山に入る。1300メートルの峡谷に「鉄門」という絶壁が阻む峠があった。アレクサンドル大王も逆の方向でこの鉄門を通過したという。

3) 古代バクトリア(トハラ、大月氏)の国々

鉄門を出てからひたすらシェラバード川に沿って南下した玄奘の一行は覩貨邏(トカラ、トハリスタン)に出た。かってのバクトリアの故地である。紀元前2世紀ごろからトハラ人がkの地域に勢力を張ってからローマ共和国もその名を知り、前漢の張騫がたどり着いた大月氏の国であろうと見られる。玄奘が通過した時は突厥の支配下にあった。肥沃な風土が広がっていたと記されている。最初に蜜国(テルメズ)に着いた。玄奘は天山を越えてから初めて本格的な仏寺を目にした。伽藍は十余箇所、僧徒は千人余と記されている。多くの仏塔(ストゥ−パ)があったようだ。この地は2世紀クシャーナ朝(大夏)のカニシカ王の時仏教の最盛期を迎えた。3世紀にはササン朝ペルシャの侵入を受け、4世紀には諸部族の侵入により仏寺は破壊された。583年西突厥が支配して以来再び仏教が甦った。蜜国(テルメズ)からは東に向かい赤鄂衍那国(チヤガナーヤ) 、忽露摩国(ハルマ) 、愉漫国(シュマン) 、鞠和衍那国(クワナーヤ)、珂咄羅国(クツタル)、拘謎国(クマード)にいたる。玄奘は突厥の統葉護可汗の長男旦度への親書を携え、活国へ向かっているのである。クンヅゥズ川を渡り南東に向かいようやく到着した活国は突厥の支国であり、高昌王の娘婿である旦度設が王であった。玄奘が滞在中に王旦度設が殺され、その長男欲谷設が即位した。これが西突厥の分裂の始まりとなった。裏で唐の暗躍があったといわれる。活国からは西に向かい忽懍国(クルム) を経て縛喝国(バルク)にいたる。縛喝国は小王舎城(バクトラ)といわれ、伽藍は百余箇所、僧徒は3千人で、皆小乗の教義であった。縛喝国の歴史は古く、紀元前6世紀アケメネス朝ペルシャの王ダイオレスの時帝国内で重要な政治拠点であったという。ゾロアスター教の祖がこの地で生まれ、バクトリアと呼ばれた。紀元前4世紀アレクサンドル大王が東進する軍事拠点にもなった。ペルシャとヘレニズム文化の接合点に紀元前3世紀インド文化が移植された。インドのマウリア王朝はアショーカ王がバクトリアに仏教を伝えた。玄奘が訪れた時バクトリアの仏教はなお盛んであった。都城の西南に大きな塔堂伽藍があり、毘沙門天説話が残っている。都城から南へ向かうインド古道にあるルスタムの円塚はナヴァ伽藍の仏塔だといわれている。トプサラ城、パリか城の仏塔には、商人が釈迦から頂いた「頭髪と爪」を入れたという説話が残っている。尚玄奘にとって有意義であったことは、タッカ国の小乗の高僧慧性法師について「毘婆沙論」を学んだことであったという。バルフを立てバーミヤンに向かう旅に、慧性法師も同行してバルフ川を南下した。山に入ると掲職国(ガチ)になった。前に聳える巨大な山が大雪山系である。ペルシャ人もギリシャ人の「鳥さえ越えない」といって恐れた山である。カラ峠、ダンダンシカン峠、ガブチ峠、サブザク峠を越えて南に向かうと、そこはバーミヤンであった。

4) 仏教文化の聖地バーミアン

バーミヤンは玄奘が「雪山の中にある」と記したように、北は大雪山、南は雪山に挟まれた東西に細長く伸びる渓谷が梵衍那国(バーミヤーン)である。629年玄奘は王に迎えられて、少し長く滞在した。伽藍は数十箇所、僧徒は数千人で、「小乗説出世部」を学んでいた。小乗の「有部」の宗派に属する。小乗が上座部と大衆部の分裂した時の大衆部からでた宗派である。法相学の「摩訶僧祇部」に精通した二人の学僧と討論したことが玄奘の理解を深めた。玄奘は「上は三宝から下は百神に至るまで真心をいたさないものはない」と言っているように、信仰心の厚い土地柄であった。文字は覩貨邏国と同じだが(ブラーフーミー文字、クシャーナ文字、グプタ文字などが用いられていた)、話す言語は少し違うと記されている。インドヨーロッパ語族に属する「トハラ語」であろう。バーミヤンには西大仏と東大仏という50メートルくらいの巨大な摩崖石像がある。礫岩を荒げ削りして全身が彫り出され、その上に土の上塗りをしてひだの紋などをだし、石膏で表面を滑らかに、最後に彩色したものであり、玄奘は「金色晃耀」という金色をしていたと記録した。大仏の頭の上に「天神」の絵がかかれていたという。インドでは大仏の頭上には太陽神スーリアが描かれるが、バーミヤンではミスラ神が旅人の旅の安全と商売繁盛を守っていた。東大仏は2001年春アフガニスタンのタリバンによってダイナマイトで「異教の神」が爆破されたことは記憶に新しい。玄奘は城の東に千余尺(約300メートル)の「仏涅槃像」を入れた伽藍があったと記録している。観仏三昧に明け暮れた玄奘のバーミヤンの記録は「釈迦涅槃像」で終る。バーミヤンの近代における調査はアフガニスタンを緩衝地帯とするイギリスとロシアの野望によって19世紀に始まる。1824年ムーアクラフトが、1832年バーンズが、1835年マッソンが、1839年ドイツの地理学者リッターが、1885年イギリスのダルボットらが玄奘の書いた「大唐西域記」(ポール・ベリオが詳訳を作った)道しるべにしてやって来た。1922年独占的考古学調査権をえたフランス隊から仏教学者のフーシャらが本格的調査の魁となった。多くの仏典写本の断片が発見され、なかでも「スコイエン・コレクション」が仏教写本の解読整理を行なった。

5) ガンダーラに向かう道

玄奘法師は再び慧性法師に導かれ、東流するゴルハンド川を東進して、迦畢試国(カーピシー)を目指した。標高3000メートルのシバル峠を越え、水と緑に恵まれた地に僧伽藍があった。三賢聖の遺物を祀った伽藍は恐らく今日のフォンドゥキスタンの仏蹟に当てることが出来る。さらに東進すると迦畢試国(カーピシー)の肥沃な土地があった。かってアレクサンドロス大王の東方遠征の拠点であり、バクトリア王国の都のひとつが営まれて処であった。(今日ベグラムとよばれている) 王はインドのクシャナ階級(戦士階級)の貴種であった。穀物も豊富で、サフランの香料の産地であった。文字はほぼ覩貨邏国と同じ。話し言葉は全く違っていた。カーピシーにある伽藍は百余箇所、僧徒は六千人とバーミヤンの数倍の規模である。僧は大乗仏教を学んでいた。むかしガンダーラ王国のカニシカ王は領土を広げようと征服戦争を行い、近隣諸国は人質を差し出し、その人質が住まう場所として伽藍を建設したという。(今日の調査ではショクトラの遺跡こそその人質の住む伽藍であったといわれる) 玄奘は一月ほどの滞在で、「観自在菩薩像」、「ラークラ僧伽藍」、「シュヴェーターシュヴァタラ祀城」(バタヴァ遺跡)を訪れ、(バタヴァ遺跡)で「大神変像」などを見物した。「大神変像」はアフガニスタン仏教彫刻の傑作で、今はパリ東洋美術館とベルリンインド美術博物館に収蔵されている。竜を鎮めたカニシカ王の伽藍(トープ・ダラの塔)、アショーカ王の「象堅塔」には舎利が多く埋められ、唐太宗に「舎利と名馬」を献呈している。カーピシーを出る前に、当地の僧の前で玄奘は「法集」という問答を5日間開催した。ここで北に引き返す慧性法師と別れ、玄奘は再び東南して山と谷を越えて濫波国(ランバーカ)を目指した。濫波国(ランバーカ)はカーピシーと同じ規模の国でカーピシーの支配下にあった。イラン高原を降りたところにあり気候は温暖でオレンジ稲などが植わっている。伽藍は十余箇所、僧はみな大乗を学んでいた。異教の祀伽藍は仏教伽藍の数倍もあった。アショーカ王の法律「ランパーカー法勅」はかってここがアケメネス朝ペルシャ、マウリア朝インドの文化の混淆地であったことを示している。濫波国(ランバーカ)をさらに東南すると那掲羅曷国(ナガラハル)(現在のジェララバード)に入る。当時カーピシーの支配下にあった。5世紀初め法顕らは那掲羅曷国(ナガラハル)からハッダ城を訪れた。当時は仏塔も荒れ放題で僧の数は僅かであるという。アショーカ王が建てたといわれる塔があり、「燃灯仏」の説話で有名である。ここで修行中の釈迦は「燃灯仏」のお告げにより「釈迦牟尼仏」となられたという。玄奘はさらに南下してハッダ城仁向かった。ハッダには多くの塔スト−パが存在していたが、19世紀ヨーロッパから来た人間が片ぱしから塔を破壊し、埋蔵物を盗んだ。中でも大英博物館にある「ピーマランの黄金の舎利容器」は秘宝である。バーク・ガイ遺跡、ガル・ナオ、グンディ、タパ・イ・カリハー、プラテス遺跡などは発掘され、ヨーロッパに持ち去られた。現地の国の人はイスラム教であり、ヨーロッパ人はキリスト教であり、誰にも遠慮することなく破壊略奪の限りが尽くされた。最近1965年頃から再び盗掘が凄まじくなってのを契機に、国際的にハッダ城を保存する動きが出てきたのは遅すぎるとはいえ幸いなことかもしれない。中国の西域求法僧たちがインドを訪れる前にかならずカンダーラを目指した。カニシカ王の仏教興隆の居城があったところであり、無著・世親の大乗教学の中心地であり、それだけにサンスクリット語(梵語)の典籍も多く、それらを学習するメッカでもあった。しかし本書はハッダ城で終わりを迎える。著者はガンダーラは別途改めて書きたいというがいつのことやら。中途半端な、何か変な終わり方だ。


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