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四柳嘉章著 「漆の文化史」

  岩波新書(2009年12月)

自然科学的方法による漆器考古学 

輪島塗折敷
輪島塗折敷(観光土産品) 螺鈿漆絵

ロシアのペテルスブルグ夏宮殿の琥珀は家具に重用されたが、世界の塗料で「漆文化」というように「文化」をいう言葉をつけて呼ばれるものは珍しい。陶器は「チャイナ」、漆器は「ジャパン」といわれるように、日本独特の美意識で優れた装飾文化を代表するものであった。ただ「ジャパン」の言葉は17世紀イギリスで呼ばれたもので、概念的には中国やアジアの漆器とどうちがうのか曖昧で、模造品という意味で使用されていたので、筆者はこの言葉は使いたくないそうである。「うるし 漆」という言葉を用いて欲しいという。家具調度品、装飾品、建築、宗教用品・仏像などさまざまなものに用いられ、絢爛豪華な漆器の装飾である蒔絵、沈金、箔絵、螺鈿、漆絵などは日本の美術・精神文化の形成に深い影響を与えてきた。近代科学の発展と社会環境の変化が、漆製品の需要をなくし、うるしの植栽地を破壊し、後継者もいなくなり、日本美術の粋を集めた装飾技術は急速に失われかけている。戦国時代に日本に来た宣教師、商人をつうじてヨーロッパに日本の漆器が輸出され、最高級の漆器が欧州の王侯貴族に愛用された。これまでの漆器研究は貴族僧侶階級の用いた伝世品(名品)を対象としてきたが、遺跡出土漆器が急増してきたので、従来の形や表面観察や分類だけに頼る考古学では対応しきれない。そこで自然科学的(文化財的科学)を組み合わせた漆器考古学という新しい分野が必要となった。特に漆成分分析という化学的方法が主流になった。微量サンプルの成分物質を同定する「赤外分光分析」、顔料元素を同定する蛍光X線分析、縦断面を解析する偏向顕微鏡や金属顕微鏡などの「塗膜分析」などの分析法を用いる。これらの手法は軟X線分析などと合わせて絵画などの絵の具解析や下絵透視などで知られている。

福井県鳥浜貝塚で約1万1千年前のうるしが確認され、少なくとも9000年前の縄文時代早期には漆利用が始まったようである。縄文時代に始まった漆文化にスポットを当てるのが本書の目的のひとつである。遺跡出土漆器を取り上げて、その社会的・技術的・精神的な文化活動を見て行こうとするのが本書の企画である。近年日本の漆器産業は危機を迎え、国内における漆需要量の98%が中国産うるしである(年約100トン)で、日本産うるしは1%(1トン)でしかない。明治時代の日本での漆生産量は780トンあったのに較べると隔世の感がある。総需要そのものが激減し、かつ国産うるしが殆ど壊滅しているのである。身の回りにはプラスチック製品に溢れ、家庭からは食器、冠婚葬祭品の漆器が姿を消した。本物の漆器に触れる機会がなくなっている。実用品から高級な観賞用になってしまった。しかし漆は酸・アルカリにめっぽう強い堅牢な皮膜を持ち、質感は透明度をまし艶のある光沢があり、使い込むほどに時を経た美しさを生む感性の塗料、癒しの塗料である。「漆黒の空」という名文句も生んだ。この漆器を失うことは日本の損失であるので、ハイテク利用のナノ粒子技術、ハイブリッド漆開発など産業技術の育成、教育、イベントを通じて交流を深めて漆文化の継承が著者の夢である。ここで著者四柳嘉章のプロフィールを紹介する。1946年石川県生まれ、国学院大学史学科卒業で、現在石川県輪島漆芸美術館館長、漆器文化財化学研究所所長でかつ美麻奈比古神社宮司である。専攻は漆器考古学、文化財科学である。著者は日本を代表する漆器輪島塗の産業振興の旗振りである。

1) 縄文漆器の世界

福井県若狭町鳥浜貝塚で縄文時代草創期のものと思われる「うるし」の存在が確認され、校正年代で約1万年前であったという。これで漆塗りが証明されたことにはならないが、その可能性は否定できないという。2001年8月北海道函館市の垣の島遺跡から縄文時代早期の竪穴住居や土坑墓が発掘され、遺体から赤色うるし塗り糸で織った衣服の存在が確認された。約9000年前のものとされた。ただこの遺物は化学的証明に問題があり、文化財調査事務所の火災で焼失するという椿事のため、今ではお宮入りとなった。残っていた写真からは三層のベンガラ顔料が塗られているので、縄文時代の東北、北海道に分布する赤色漆塗りに共通する技法を見られる。日本のうるしはウルシの木、ブナ、ミズナラなど冷温帯広葉樹から採取し、成分は「ウルシオール」である。台湾・ベトナム産うるしはハゼノ木から取り、成分は「ラッコ−ル」、ミャンマー産の成分は「チチオール」というポリフェノール高分子である。縄文時代の漆器を出土する地は関西以西は少なく、殆どが北陸、新潟の日本海沿岸、関東、東北、北海道のいわゆる旧日本原人の分布に近い。縄文中期から晩期にかけて漆製品を出土する遺跡は急増するが、多くは日本海沿岸の偏在する。対馬海流を利用した日本海沿岸地域の通商が盛んであったことを物語るようである。縄文時代のウルシの木が出土した最初の遺跡は東村山市下宅部遺跡で、4500−3300年前のものであった。ウルシの木には線刻溝が彫られており、通常一回きりの使用で木を切り倒し(殺掻法)、木は50cmほどに切って溝の埋め立て杭などに使われた。その杭が遺跡から発見されたのだ。ウルシの木は樹齢10年以上のものから、6月ー11月にかけて採取する。掻き鎌で樹皮に傷をつけ、2回目に深く辺掻きする。うるしの標準的成分はウルシオールが60−65%、ゴム質が5−7%、水20−30%、酵素ラッカーゼ0.2%の油中水球型エマルジョンとなっている。

縄文時代の赤色顔料は石器時代から使っていたベンガラ(酸化第2鉄)である。ベンガラはそほ(赭)といわれる赤土や「パイプ状ベンガラ粒子」から採取する。縄文時代中期後半からは朱といわれる漢方薬(硫化水銀 不老不死の仙薬)が使われ、朱砂・丹砂から採取された。縄文時代には赤色漆を多用しているが、色調を鮮やかにするには漆を精製しなければならない。採集したばかりに「荒味漆」からゴミを取り「生漆」とするが、水分が多くてそのままでは使えない。そこで生漆を攪拌して、ウルシオールと糖タンパクが結合して全体がトロっとしてくる作業を「なやし」という。さらに「くろめ」という作業がある。摂氏40度以下で加熱しながら攪拌すると、酸化が進み水分が2−3%近くに減少すると、塗りに適した粘り気のあるペースト状になる。酸化が進むと全体が黒褐色に変化する。漆の溶剤にエゴマの油が使用される。赤色漆を施した土器で一番古い例は松江市夫手遺跡の容器である。他の遺跡でベンガラを調整した石皿や磨石や、漆刷毛なども発見されている。縄文時代には漆工の基本的な技術はすでに出来上がっていたと見られる。炭素粒子や鉱物粒子(地の粉)による下地塗り、竹製品や布地の凹凸の激しい素地に対しては漆に炭粉、木の粉、繊維屑を混ぜた「コクソ漆」が用いられた。高度な技であるが弥生時代には継承されていない。土器に漆を塗る時亀裂を防ぐために、「高温焼付け漆」(精製漆で120度)があった。青森県野辺地向田遺跡の「螺鈿装飾漆の漆器」には巻貝の殻が埋め込まれていた。

縄文時代後期には関東から北海道の遺跡に赤色塗りの糸玉が発見されている。「結びの呪術」信仰から体(腕、首)に巻きつける装身具であった。神社の注連縄にも通じる「結縛崇拝」観念である。一本の長い糸にベンガラ漆が3回も塗られており、漆にエノキ油が混ぜられ、漆皮膜が硬化しても柔軟性を持っており糸玉を結ぶことが出来る。石川県三引遺跡から約7000年前の赤色漆塗り「結歯式堅櫛」が発見された。これも強い呪術性をうかがわせる。鳥浜遺跡からは5300年前の「象嵌装飾付き結歯式堅櫛」の部分が出た。さらに金沢市米泉遺跡からは「赤色漆塗りの腕輪」が出た。炭粉下地塗りにコクソ漆を塗り、さらにその上にベンガラ漆を6層塗りした丁寧に作った腕輪である。新潟県胎内市分谷地A遺跡から「水差し形漆器」、「鉢形漆器」が出土した。これらは付着した種からニワトコ、サルナシ、ヤマグワなどの果実酒醸造器であった。色は黒漆と朱塗り漆である。古代黒は豊饒の大地の色、赤は太陽生命の色とされていたようだ。漆塗りの皮膜構成や文様から縄文時代には様々な塗装法があった。そして縄文時代特有の縄目模様の漆器が埼玉県東光寺裏遺跡から出土した。約5950年前の諸磯土器の文様を移した様である。北海道から関東・北陸にかけてあれほど出土した縄文漆器が、弥生時代には本州では激減し、北部九州でわずかに見られる程度となった。しかも縄文時代の赤色漆は弥生時代後期には黒色漆になってしまう。縄文時代の重ね塗り技術は退化し廃れた観がある。これは再生の色である赤色を何度も塗り重ねることに意義を持った縄文的思考と、階層社会で機能性を重視する弥生的思考の違いではないだろうか。そして中国漢代の影響が次第に出てくる。黒色漆の技法は櫛や弓に適用され、黒色漆が次第に定着し、古代・中世では上質漆器に不可欠な塗装となった。

2) 漆器が語る古代国家

時代は弥生時代から古墳時代になると、黒色漆が主流となり、黒色顔料に松煙や油煙が用いられ精製された漆とあいまって、麗しく深みのある黒色漆塗り土器が作られた。渡来人技術者集団による漆塗り技法「夾紵」は、漆を塗った麻布を何枚も肩に素って貼り付け、型を外して「即」といわれる貴人の棺に用いられた。聖徳太子や天武天皇の棺は表は黒、内部は赤で塗られていたといわれる。7世紀終わりごろの「乾漆仏」も同じ技法である。「夾紵」は中国では戦国時代から見られるが、六朝時代(5−6世紀)には仏像製作に用いられた。明日香の水落遺跡(水時計)の導水銅管の周囲を固めていたのが漆である。鉱物粒子や動物の骨粉を混ぜてある。これらの技法は中国からの移入であろう。正倉院宝物殿には多くの漆製品が見られる。それらには、螺鈿、平脱、金銀絵、密陀絵等の加飾技法が見られるが、漆胡瓶は木や竹の平板をコイル状に巻き上げ、全体に黒色漆が塗られ水瓶で「巻胎」と呼ばれ、ササン朝ペルシャに源を持つ。7世紀の飛鳥時代には税として各地から漆が集荷された。飛鳥池遺跡の大規模な官営工場群の跡から漆関係遺物が多く発見され、ここに漆工房が存在したことが確認された。同じような遺跡は平城京跡、国郡役所跡から出土している。高級品であった漆製品は官営工場で製作されていた。当時の漆の生産は越前、加賀、越中、越後に税として課せられた。国の漆器生産工房は「塗部司」で管理され、20−30人の職人と官の組織であった。奈良時代には「内匠寮」に統合された。奈良平安時代の中央や各地の国府の漆工房遺跡から「漆紙文書」が出土した。これは漆容器にかぶせた薄紙に反故紙が用いられ、漆が浸み込んでいるので保存されて、当時の行政や仏教関係が伺えて重要な史料となっている。常陸国付属工房群と見られる茨城県石岡市鹿の子C遺跡から、この地で蝦夷征伐の武器調達が行われ、漆の利用は武器製造(弓、矢など)が主であったことが伺える。

平安時代927年に完成した「延喜式」(法律の施行細則集)全50巻のなかに内匠寮、大炊寮などに漆の製作に関する材料の記事があり当時の技法が復元できる。たとえば黒色漆器大椀の製造に必要な漆、布、掃墨、綿の量が記され、工人の労働量を日数で記されている。綿とは漆の濾し綿のことで、布とは濾し用の麻布のことである。掃墨とはエゴマ油の油煙の煤からなる黒色顔料で、漆に30−40%に配合する。炭とは塗装面の研磨用で青砥ともいう。ただ延喜式には塗装工程の記述はないが、材料から凡その事は伺える。当時の木胎漆器の工程は、上質品で下地塗りには布着せに粉漆塗りを1−2回し、仕上げには黒色漆1層を施し精製漆3−8層重ねるというものであった。食器の材料面からは、磁器系、木挽(轆轤挽き木器)系、三彩陶器・須恵器系、金属系があったが、中世になると整理され木胎漆器としての定型(大・中・小)となった。平家物語で「伊勢の瓶子はすがめなり」というように1回で使い捨てる須恵器の器を用いたが、皇室ではいまでも徳利には「おすず」という錫製の壺が使われている。器の形による分類は煩雑なので省略する。東大寺正倉院には「金銀鈿荘唐太刀」には、鞘上末金鏤作りという技法で、鞘に文様を線刻して、削りだしの金粉をまき、その上に何層もの精製漆をぬり木炭で研磨したいわゆる「研ぎ出し蒔絵」である。正倉院文書の史料から奈良時代の漆の価格は、漆1升が米10石とかなり高価であった。次に色と高貴さの関係をみてみよう。推古朝で「冠位一二階の制」が定められ、冠の色も(紫・青・赤・黄・白・黒)と冠位によって決まっていた。古代漆器では奈良時代を「黒色漆の時代」というが、平安時代になると一転して、縄文時代の「朱漆の時代」が復活した。貴族の食器については「延喜式」によると、天皇・中宮は銀器、親王から三位は朱漆器、四位・五位は黒白漆器・土器、六位以下は土器という身分制が決められていた。黒より朱の方が上位に立っていた。平安時代後期の漆工芸の最高傑作は中尊寺金色堂の内装であろう。蒔絵、夜光虫の螺鈿には奥州藤原氏の栄華がしのばれる。平安時代後期から鎌倉時代には、日本の蒔絵と螺鈿作品の技術は世界最高峰にあった。

3) くらしの中の漆器

著者が調査主任を務めた能登西川島遺跡群は、中世の崇徳院御影堂大屋荘穴水保の荘園集落跡である。ここで発見された食器の形から、食器を編年別に並べるてみると、鎌倉時代の13世紀中頃を境に、土器の椀は消えてしまい、漆器が増大することが分ったという。しかも多くの食漆器は下地に漆(漆下地)を使わず、柿渋に炭粉粒子を混ぜた「炭粉渋下地」であることだった。柿渋の主成分は縮合型タンニンで防水・防腐効果にすぐれtもので、日本では伝統的に型紙、和傘、団扇、建築物に塗られている。下地には高価な漆に代わって柿渋を用いるというコストダウンである。これを大きな動きでいうと、律令的漆器生産(上質品・漆下地漆器の独占的生産)から、中世的漆器生産(普及品・渋下地漆器・地方生産)への転換であるといえる。さらに12世紀末ごろから赤色顔料で文様を描く椀皿(赤色漆絵漆器)が登場し、漆黒の上に絵画が描かれて一層華やかさが演出された。この漆絵の意匠には@蓬莱山、鶴亀笹松竹の神仙的世界、A扇と蝶、Bムカデ、C歌絵などが描かれ、縁起のいい朱模様の世界が出現した。また鎌倉時代特有の「型押漆絵」というスタンプ式朱漆絵が量産品として、将軍家の居られる鎌倉土産として一時期だけ流通して消えた。型には鹿皮が用いられたという。障子の唐紙からヒントを得たらしいが、江戸小紋のような小さな文様を繰り返して押している。

食漆器(椀皿)の主な用材には鎌倉時代には硬くて緻密なケヤキが主流であったが、室町時代にはケヤキの代用品として柔らかくて腐りやすいブナを中心にさまざまな用材が使用された。これには渋下地漆器の量産品が主流となって用材にもコストダウンが進んだ結果ではないだろうか。つまり鎌倉時代以降は庶民の暮らしの中に漆食器が普及したのである。次に絵巻物に描かれた食器から食膳の変遷を見て行こう。膳の形は台盤、折敷、高杯、懸盤、衝重などさまざまだが、最も簡単なのは周辺が少し立ち上がった折敷の図が12世紀の「病草子」に書かれている。同じく12世紀の「年中行事絵巻」には貴族の饗宴で台盤の上に小皿がずらりと並んでいる。12世紀の「餓鬼草子」の貴族の管弦の宴では漆高杯は内面が朱漆で外面は黒色漆であり、その上に土器の小皿が並んでいる。貴族の宴では1回きりの使い捨てにするので土器を用いた。今日の発泡スチロールの皿の感覚であろうか。14世紀の「春日権現験記絵」では内面朱塗の四脚懸盤と漆椀が見える。高盛飯と一汁三菜の食事である。中世の食事風景は室町時代の武家の宴を描いた「酒飯論」でも、椀を手に持ちお箸で飯を食う伝統的な日本的食事習慣が生まれていたようだ。14世紀には大中小の椀が入れ子になった3つ組椀が見られる。16世紀の婚礼の宴を描いた「鼠草子」には、三方の膳に内面朱漆の椀皿による飯椀と一汁三菜である。16世紀の「月次風俗図屏風」には農村の田植の食事を運ぶ風景が描かれ、ベンガラ漆の漆器が普及していることが分る。椀は平安時代の口径が大きく身の浅い鉢のようなものから、中世には口径が狭く身の深い形に変わっている事が見える。15世紀の記録によると仏事の宴に買われた椀の値段は、朱椀が1個10文、黒色椀1個8文であった。では漆の値段はどのくらいであったのかというと、金閣寺の造営には漆1升が米1石以上であった。現在の国産漆の価格は1Kgが10万円である。

今でも地方によっては、埋葬の時に故人が使用した椀・箸を棺にいれる風習があるらしい。中世では食漆器を家財として死者の埋葬に副葬された。新潟県大坪遺跡では12世紀の木棺墓から総黒色漆椀皿が見つかり、能登白山橋遺跡(15ー16世紀)には大半がカワラケを副葬していたが、食漆器が2点見つかった。地の粉漆下地塗りの上質な漆器で「根来手」といわれる塗りである。福井県武生市家久遺跡は中世の礫敷墓である。副葬されていたのは、烏帽子、朱漆器、中世土師器カワラケ、化粧箱、硯箱、太刀と短刀などであった。化粧箱は総黒色漆で鏡とはさみが収めてあった。地の粉漆下地に中塗り黒色漆、さらに2層漆を上塗りした上質の漆箱である。中世の湊福山市草戸千軒町遺跡から竹製の掛け花入れが出土した。竹篭の内外に漆を塗ったものである。14世紀の「春日権現験記絵」のも門の柱に掛け花入れが描かれている。これは生け花の歴史に関るもので、室町時代には書院作りの床の間の柱に「立て花」することが始まり、16世紀に「立花」が成立し、18世紀に「生け花」が池坊によって成立した。

4) 日本の漆器生産地

徳川幕府の成立で日本国内は安定し、各藩が産業育成に努めたことによって、各地に漆器産地が生まれた。1645年刊行の「毛吹草」には各地の産物が列記されている中で、漆器に関する産地は30国におよぶ。日本の漆器の伝統は、京塗、輪島塗、根来塗、春慶塗などなど、いまでいう和牛銘柄のように多種を数える。この章では日本漆器の代表でもある能登輪島塗の歴史を中心に紹介されている。1694年の「農隙所作村々寄帳」に能登町の物産として、素麺、鍛冶、塗りとともに、合鹿村の木地挽きがあげられている。能登半島で流通していたのが合鹿椀であった。内外面共に黒色漆器である。高台が高く、ゆったりとした大ぶりの椀で素朴な質感である。轆轤で挽いて口縁部に布着せがなされている。1775年の文書では合鹿椀1個は米1升と、価格も手ごろであった。合鹿椀は下地に柿渋を用いた廉価版の漆器である。合鹿椀は輪島塗の前身ではない。合鹿村の木挽き屋が漆を塗ったのである。輪島塗は鉱物粒子と漆・米糊を混ぜた物を下地とする本堅地漆器であり、地の粉には珪藻土を使用するという特徴を持つ。輪島塗が堅牢無比といわれるのは漆下地にある。輪島塗の特徴的な技法のひとつである「沈金」は、線刻の溝に漆を刷り込んで、金箔や金粉を埋めて繊細な文様を描くのである。中世では線刻は曲がり刀で引く「引き鑿」技法でそれは中国の技法であるが、今日の輪島沈金は線刻は押して彫る「突き鑿」技法による。輪島塗の起源は温井氏による保護のもと戦国時代に始まるとも言われるが、やはり近世に始まると見るのが正しいようだ。輪島塗が発展した要因として、漆、木、珪藻土などの素材に恵まれ、17世紀に珪藻土による下地塗り技法が確立し、生産の分業化が図られ、「六職」という塗師、椀木地師、曲げ物木地師、指物師、蒔絵師、沈金師の分業で量産体制が出来たこと、同業組合組織が品質を管理し信用を得たこと、華麗な沈金・蒔絵技法で他との差別化が出来たこと、家具頼母子講で分割払いの販売方式を広めたこと、輪島湾の良湊から各地に運搬できたこと、農漁村の経済力の向上は家財としての食漆器の需要が起り市場が広がったことなどがあげられる。塗師の数は1700年には25人ほどであったのが、1843年に77人に増えたが、蒔絵師と沈金師はまだ2軒に過ぎなかった。明治に入ると1869年に塗師屋はすでに200件を越え、1903年には218軒、1919年には蒔絵師は68人、沈金師は64人と増加した。明治期にすでに国産漆は不足し中国から輸入した。1977年輪島塗は国の重要無形文化財に指定された。

近世になって各地に漆器産業が起ったが、その中でもかなり流行した吉野塗りを取り上げる。1588年天正の茶会に「漆絵吉野折敷」が出ていた。吉野はもともとも木材、漆、和紙の産地で知られ、吉野絵という朱塗りの華やかな草花文の独特な意匠で有名になった。木芙蓉、桜、葛などが意匠化された。下地は柿渋に炭粉を混ぜ、漆層は鉄粉や水酸化鉄を漆に入れた黒色漆であり、精製漆は1,2層の簡素な塗りである。近世の漆美術は京都高台寺蒔絵に最高の出来を見る。桃山文化の美意識の粋である。北の政所ねねが秀吉の菩提を祭って建立した高台寺に、御霊屋の須弥壇にある厨子の扉には薄に桐文散らし、楓、菊、松、篠などの蒔絵が描かれ、楽器散らし、秋草散らしの意匠が見事である。これは平蒔絵(漆で文様を描き、金粉を蒔き付けたものである)で、中世の炭で研磨する研出蒔絵や、漆の陰陽を逆転させた「書割技法」などから見ると随分簡略化している。なお最後に漆器は北前船の交易によって北海道のアイヌの墓埋葬品にも見られることを付け加えて終わりとする。


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