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無着成恭編 「やまびこ学校」

  岩波文庫(1995年年7月)

戦後の農村で子供たちにいかに生きるべきかを考えさせた、本当の教育の軌跡

日本の終戦後、昭和20年代に二つのすばらしい本が生まれた。ひとつは「きけ わだつみのこえ」であり、もうひとつはこの「やまびこ学校」でした。前者「きけ わだつみのこえ」は戦争で散った若い命の叫びであり悲しみで、読む人の胸を裂く。後者の「やまびこ学校」はわが国の再建につながる希望のわいてくる本でしたと童話作家坪田譲治氏は「本のはじめ」に述べている。「やまびこ学校」は、山形県山元村(現在は、上山市)の中学校教師、無着成恭が、教え子の中学生たちの学級文集、内容的には生活記録をまとめて、1951年(昭和26年)に青銅社から刊行したもの。正式名称は、「山びこ学校―山形県山元村中学校生徒の生活記録」である。初版は青銅社より1951年に発行されたが、1956年百合出版社に引き継がれ、角川文庫を経て1995年岩波文庫に入った。同年1951年 寒川道夫が刊行したやはり教え子の詩集『山芋』と並んで、当時、戦後模索の中を歩んでいた戦後日本の民主主義教育にとってひとつの典型とされ、大きな反響を呼んだ教育実践記録である。「山びこ学校」は、天才的な生徒の作品ではなく、43人のクラスの生徒全員の作品で、生活の実体験の中から出てきた作品であったことが注目される。本は刊行直後の2年間で、18刷を重ね12万部を売った。映画や舞台でも取り上げられた。

著者の無着 成恭(1927年3月31日 生まれ )氏は、教育者でのちに禅宗曹洞宗の僧侶となった。1948年 山形師範学校(現山形大学教育学部)卒業し、山形県南村山郡山元村(現上山市山元)立山元小中学校(僻地1級校)に赴任。 6年間勤務し、国語教育として生活綴り方運動に取り組む。クラス文集『きかんしゃ』所収の「母の死とその後」(江口江一作)が文部大臣賞を受賞する。 1951年 生活綴り方の代表的なクラス文集を「山びこ学校・山形県山元村中学校生徒の生活記録」(青銅社)として刊行、ベストセラーとなる。 1952年 「山びこ学校」が今井正監督によって映画化。この山元中学校での、貧乏に向き合い、生き方をさぐった作文が読む者の心をうち、当時の文部大臣もやってきた。戦前の教育が否定され、新教育への模索が続くなかで、この生活綴方は山の学校を戦後教育の"メッカ"に押し上げた。しかし、地元の恥を世間にさらしたとして、村から追放される。 1953年 上京して駒澤大学仏教学部に編入し、卒業。 明星学園教諭に就任し、のち教頭に昇格。この頃教育科学研究会・国語部会のメンバーとして、科学的・体系的な言語教育に没頭。「続 山びこ学校」は、当時の指導の成果をまとめたものである。 1964年からスタートしたTBSラジオ「全国こども電話相談室」のレギュラー回答者を28年間務める。1987年 鍬山福泉寺(千葉県多古町)住職に就任。 2003年 泉福寺(大分県国東町横手)住職に転任。 永六輔と親しく、テレビ嫌いとして知られている。これは1965年に東京12チャンネルで放送され、無着が司会進行を務めていた「戦争と平和について考えるティーチ・イン」が放送途中で中止になったことが関係している。この本の舞台であった山元中学校閉校は2009年3月に閉校した。1970年 第1回斎藤茂吉文化賞受賞 。1979年 第3回正力松太郎賞受賞 。

本書のあとがきより無着氏の当時の思いをまとめておこう。無着成恭氏は野口肇氏、国分一太郎氏の指導を受けながら、戦後の教育を手探りで立て直すことを「生活綴り方運動」として実践した。「日本綴り方の会」の仲間と先生方と共に推進していた。どうしてこのような綴り方が出来てきたのかというと、それは無着氏の「ほんものの教育がしたい」という熱意だったそうである。今の教育界で本当に教育を考えると、大変複雑で高度化しているが、それは学力テストの成績を上げることではなく、やはり「人間いかに生きるべきか」を地に着いて考える人を育てることに尽きるのではないか。文部省の「期待される人間像」という立派な抽象的な在り得ない人間ではなく、もう一度戦後の教育の原点に戻って考えるのも必要ではないだろうか。山元中学2年生の43名の綴り方が出来た段階で、生徒にこの文集を本にするかどうかを問うた時、「村の赤恥を曝すだけだ」という反対論もあり、「私たちの本当の生活を知るためにも、そしてよりよい生活をすることが出来るようになるためにも、自分自身の生活をはだかのまま出しあって勉強するんだ」という意見もあって、決を取ると賛成29、反対11、欠席3であったという。国分一太郎氏の尻押しもあって1951年青銅社から出版の運びとなった。目的のない綴り方指導から,現実の生活について討議し、考え、行動して押し進める綴り方指導に移っていったという。

無着先生は社会科の先生であったが、社会科は教科書で勉強するものではなく、綴り方が生活を勉強し,本物の社会科をするためのものになった。43名の生徒の中から優秀な生徒だけを育てるのではなく、子供の発達状態もまた家庭の環境も違うなかで、全員の作品を並べて、農村の生活はこれでいいのだろうかを考えさせることである。働いても働いても楽にならない農家の経済状態を良くするにはどうしたいいかを考えさせるのがほんとうの社会科勉強の目標であった。耕作地が広ければ農民の生活は借金から逃れられるかを歴史的に見て行くと、社会の人と人の関係(社会のシステム、仕組み)でできて居る事が自覚されたという。凄い授業だ。左翼イデオロギーを生徒に吹き込んで終わりの授業でなく、ゼロレベルから自分の家の農業生産活動の原価計算までして、社会の仕組みまで理解できるということである。たとえ小規模農家でも農作業の機械化を共同機械購入で効率化する方法を納得するまで議論している。そして無着先生の社会科の成果は@農民をもっと豊かにする、A農民は自分だけ良ければという考えでなく、機械化を共同でやるんだという自覚が出来たことであった。二宮金次郎の銅像の前で勤勉と道徳を教え込まれ、貧乏を運命とあきらめる道徳に反抗し、貧乏を乗越える道徳へ移ることを教えたのだ。また無着氏は本書の文体である「山形弁」はたとえルビを振っても確かに読み難いが、しかし日本の教育のありかたを考えるだけでなく、日本という国家を考えるためにも、山形弁で読んでほしいという文章上の主張がある。また戦前の軍国主義教育で「天皇のため死ぬことが、悠久の大義だ」と言って死ぬことばかり叩き込まれた。これは明治維新で強国になるため軍事力のみを国家の指標としてきた(今の北朝鮮とおなじ)ためであり、戦後は天皇がお金に代わっただけの経済主義・技術教育を国是とした。学力とは自分を生かすための選択肢であり、判断力なのだ。その力を子供につけてやるのが教育なのであるというのが無着氏の考えであった。

1955年の百合出版新版に、無着氏の当時の「綴り方運動」の師であった国分一太朗氏の解説がある。当事者らの言葉は身びいきもあるだろうが、当時の運動の意義を知る上で貴重な証言である。本書が出た1951年当時は日本の戦後教育の方向の新しい確認と、アメリカ式進歩教育運動の移入をごちゃ混ぜに考えていたきらいがあったという。我国で行われていた間違った教育を正すためにも、我国社会の特質と生活文化(言葉文字)の伝統を踏まえて、子供の思考力や想像力、頭脳の創造性を養うための根気強い方法、自然や社会をつぶさに観察させ物の見方や感じ方を身に付けさせてゆく方法、数学の指導方法などを遺産として発展させ手行かなければならなかった。「もっと日本の事情にあったような、新しい日本人を作るのにぴったりした方法はないものだろうか」という戸惑いは教育関係者の間にあった。1948年無着氏は山元村中学校に就任してから、新教育のやり方にはたと当惑したという。そのことを戦前からの「生活綴り方運動」の実践者須藤克三氏に相談して暗示を与えられたという。山形県にも生活綴り方の伝統はあり、この頃から無着氏は「ほんものの教育がしたい」と考えて、社会科と関連付けて生活綴り方に進んでいった。無着氏の文集「きかんしゃ」が目に留まって出版されたが、さらに無着氏は世間の大人に子供が訴えるという立場で「やまびこ学校」が編まれた。

我国の戦後生活綴り方復興のきっかけともなり、今では生活綴り方の古典ともなった「やまびこ学校」の意義を見てゆこう。作品の特徴として、中学校2年生全員の作品がのっていること、子供の個性や発達の違いに応じてそれにふさわしい文章の形が現れていること、戦前からの伝統である児童生活詩であること、創作の芽生えもあること、生徒の全員に訴える主張や考えの発表もあること、修辞のない生活の現実に向かう姿勢がある事が挙げられる。「やまびこ学校」の教育的意義としては、現実の観察と分析から出発して結論に向かわせるほう方が子供達の生活体験に基づいていること、子供達に集団的な意識を育てるため「話し合い」を大切にしたこと、控えめな指導態度で子供達にズバッと割り切る態度を与えなかったことである。ただ問題は山形弁の方言の問題である。全文が方言で埋められていてはやはり分かり難い。当時の農民の貧しさばかりが描かれ「貧乏綴り方」と非難する人もいる。本来の生活綴り方とは「生活者としての子供が書いたイキイキとした綴り方」であって、綴り方=貧乏ではないのである。その後生活綴り方の亜流として貧乏物語に偏する先生が出たのは残念である。生活指導と文章指導は共に重要であり、人に感動をあたえる文は両方が備わっていなければならない。ともあれ「やまびこ学校」は戦後日本の教育が生んだ立派な古典であり財産である。


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