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小熊英二・姜尚中 編 「在日一世の記憶」 

  集英社新書(2008年10月)

日本の朝鮮植民地化がもたらした民族の悲劇の証言

本書はいうまでもなく在日一世の証言であり、1910年に始まる日韓併合という植民地化政策の結果である。今の朝鮮が南北に分かれている遠因は日本が作ったことは疑うべくもない。それはまた明治維新という日本近代化の必然的な道でもある。こういう歴史的な断罪は後回しにして、まずは第2次帯戦後も日本に取り残された朝鮮民族のマイノリティとしての人生をつぶさに見て行こう。私の育った京都という都市は大阪に並んで在日朝鮮人の多かった都市である。私の住んでいた近所にも屑鉄や廃品回収(今でいうリサイクル業)に従事する在日一世は多かった。差別の多い生活は決して楽ではなかったが、葬式などには豚を煮たりして集まってくる人に振舞う面倒見のよさはうらやましいと思った。とにかく人情の厚さは在日一世・二世の良い風習だった。在日の生活を横で見てきた私には、勿論在日の悲惨さ・苦しさ・恨みについては私には分からないにしても、この本に述べられた事はよく理解できた。

本書の冒頭に、東大教授で在日二世の姜尚中氏の格調高い序文が添えられている。姜尚中氏は企画段階で本書に参画したようであるが、実務はしておられない。しかし集英社文庫に「在日」という名著があり、自身の在日経験が語られている。本書の序は歴史家マルク・ブロックの言葉「現在の無知は運命的に過去の無知から生まれている。逆に過去を知るにも始めに精神がなければ何も見えてこない」で始まる。現在の在日の姿を知らなければ、日韓歴史問題や外交問題という高度に抽象的な問題は何も見えない。在日はマイノリティとして「歴史のあぶく」みたいな存在なのか。いやそうではない。歴史の真実は細部に宿るというように、朝鮮と日本をまたぐ在日一世の生涯には、20世紀極東アジアの「異常な時代」の陰影がしっかりと刻み込まれているのである。本書は聞き取りという「オーラル・ヒストリー」という形式を踏んでいる。散乱した痕跡による知識からはたして「歴史の証言や告発」がなされうるのだろうか。本書にはいいなれた観念の常套句の噴出ではなく、全身から搾り出されるような言葉の命が宿っている。

本書は新書版といえど、約800頁の大部の本である。私はこんなボリュームのある新書は読んだことがない。本書の中心人物は小熊英二氏である。氏は慶応大学総合政策部教授で専攻は社会学である。「単一民族神話の起源」や「民主と愛国」などの本を出しておられる。本書は2004年3月姜尚中と小熊英二氏との勉強会からスタートしたらしいが、途中プロジェクト方針が変わって、2006年2月からプロのインタービュアーとして高賛侑氏と高秀美氏の二人が中心になって50数名の聞き取り調査が軌道に乗ったという。原稿の減量作業を小熊英二氏が行った。小熊英二氏によれば、在日一世の証言という事業は本来日本人ではなく朝鮮人自らが行うべきであると云う自論であったが、いきさつからやむを得ず参画したという。インタビューという作業においてインタビューという行為が相手に影響を与えてしまう可能性、原稿化の過程での変形や重点の置き方等があり、出来上がったものは在日一世の言葉通りというわけにはゆかない。つまり共同作業であるという。そして在日一世の証言は時期的にもある程度の規模でおこなうのは今回が最期になるだろう。というのは在日一世の方々の年齢が80歳をこえてきているし他界している方も多くなってきたからである。そういう意味でも本書は貴重な歴史の証言となろう。

インタビューされた在日一世の方々の発言には、共通した事件と歴史的事実が必ず出てくる。そういった事件を契機として在日一世の運命が振舞わされた。それに対して本人の意識レベルによって政治的に発言する人、しない人など色々態度は変わってくるが、在日一世の共通した歴史的足跡を年譜風にまとめておこう。
1909年10月 朝鮮の民族主義者安重根が韓国統監府初代統監(暗殺当時枢密院議長)伊藤博文を暗殺した。
1910年8月  韓国併合  日本人による土地収用・徴発をのがれ、多数の朝鮮人は生活のため、あるいは炭鉱・軍需産業などへの強制連行・徴用などによって日本へ移住する 日本政府は朝鮮人のハングル語使用禁止 皇民化政策により朝鮮民族抹消を図る
1945年8月  日本は太平洋戦争で連合軍に降服  終戦時に在日朝鮮人は二百数十万人に達していた。
1945年10月 在日朝鮮人連盟(朝連)が結成され、速やかな帰国活動を行う。全国に国語講習所を設置して民族教育事業を開始した。
1945年11月 左翼的な朝連メンバーは朝鮮建国促進青年同盟を発足させた。
1946年10月 在日朝鮮居留民団結成 同年12月日本駐留連合軍は朝鮮人の帰国事業は終了とした。日本に残留していた50数万人の朝鮮人は在日として生きる運命となった。
1947年5月  外国人登録令が公布され、朝鮮人への管理政策に転換した。
1948年1月  GHQの指示で文部省は朝鮮人学校の閉鎖令をだした。 同年4月「4.24阪神教育闘争」で死亡者が出た。 国連が朝鮮南半分だけの単独選挙を実施すると発表。全国で反対闘争がおきたが、済州島では共産党による武装蜂起(4.3事件)がおき鎮圧で多くの島民が虐殺された。同年8月南に大韓民国樹立、9月北に朝鮮民主主義人民共和国が樹立され南北分断が固定された。在日大韓民国居留民団(民団)結成
1949年9月 日本政府は朝連を解散、10月には学校閉鎖令を出した。
1950年6月 朝鮮戦争勃発 在日朝鮮人統一民主戦線(民戦)が結成され、日本共産党の指導の下で過激な革命闘争を展開した。 
1951年9月 日本はサンフランシスコ講和条約により独立した。朝鮮人の法的地位は「日本国籍を離脱するもの」とし差別的なかんり体制を強化した。
1953年7月 朝鮮戦争休戦 38度線が固定された。
1955年5月 民戦が解散し、朝鮮総連が結成された。総連は北朝鮮支持、祖国統一、民族教育をスローガンとした。
1959年   日朝赤十字の調印に基づいて北朝鮮への帰国事業が開始された。(1984年までの帰国者は9万3340人)
1965年10月 日韓条約締結 韓国を朝鮮唯一の合法政府とし、韓国へ補償が実施された。
1970年   日立製作所就職差別問題で裁判闘争(74年勝訴する)
1980年   指紋押捺拒否運動起る(1999年 すべての外国人に対する指紋押捺義務の廃止になった)
1981年   「出入国管理および難民認定法」の改正により在日外国人に対する差別制度が大幅に改善された。しかし地方参政権運動、公務員採用問題、民族教育権の問題については未解決である。
1995年   従軍慰安婦賠償訴訟が起きたので、日本政府は「女性のためのアジア平和国民基金」を設立し実質上の賠償に応じた。、韓国併合・強制連行論争・従軍慰安婦論争などに見られるような南北朝鮮への日本による植民地統治についての歴史認識について、閣僚の靖国神社参拝問題と教科書問題に対する韓国政府(盧武鉉大統領)の抗議が続いた。


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