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佐伯啓思著 「自由と民主主義をもうやめる」 

  幻冬舎新書(2008年11月)

アメリカ的価値をいまこそ見直そう

本の題名を見て驚くのは、私一人ではあるまい。なんと時代錯誤の極右軍国主義者の到来かと一瞬思ってしまうほど、この本の命名はインパクトがある。人の目を覚まさせる効果を期待しての本の題名であるが、よく読んでゆくとなるほど一理はあると考えるようになる。本書の結論からいうと、「西欧近代文明の価値観を放棄する」という大言壮語に続く処方箋が全く見えない。大君の統べたもう万葉の時代を理想とせよというのだろうか。なんか答えのない問題提起で、なぜこんなことをいうのか理解に苦しむ。そこで佐伯啓思氏という人物のプロフィールを調べた。
まず、佐伯 啓思氏(1949年12月31日 - ) は、奈良県出身の経済学者、評論家。京都大学大学院人間・環境学研究科教授だそうだ。左翼の跋扈する京大において右翼の教授は珍しい。冗談は差し置いて、専攻は社会経済学、社会思想史、政治思想である。アンチ丸山真男派の政治思想家のようである。京大の猪木正道氏や高坂正堯氏らの保守系論客の系統を継ぐ人らしい。雑誌『表現者』の顧問、季刊誌『京の発言』の主幹を務める。その他、「諸君!」「正論」などの保守系論壇誌への寄稿することもある。保守主義(反米保守)、グローバリズム批判の主張で知られる。また、日本思想への言及も多い。米国の庇護の下に繁栄を遂げた戦後民主主義日本には欺瞞があるとして、アメリカニズムへの懐疑を示す。特にアメリカ同時多発テロ事件以降、米国は帝国主義化しているとして反米の論調を更に強めた。日本の自主防衛を目的とした日米の軍事同盟の再考を論じる。国防に関する憲法改正論議についても、日米同盟が現状以上に追従型の関係になるのではないかと警告している。

先ず保守の定義から入ろう。かっては左翼=現体制反対、社会主義の同調者として、保守(右翼といわれるは嫌うようだが)=自由主義・資本主義の擁護者というような簡単な構図が成り立っていた。ところが1991年の冷戦終了後、この図式が逆転したのである。左翼は憲法(特に九条、戦争放棄)の擁護をはじめとして、基本的には戦後体制の現状維持を訴える。それに対して保守は「憲法改正」、「構造改革」という戦後レジームの変革を訴えるのである。戦後レジームとは国民主権、基本的人権、平和主義を三本柱とする憲法と、自由と平等、個性尊重を機軸とする戦後教育のことである。保守が改革をいうとは矛盾ではないかという人もいるだろうが、これには日本独自の事情があるのだ。これは日本の保守本流が「親米保守」であるからだ。アメリカの要求する経済と市場の自由化には従わざるを得ない。小泉首相が要求されたのは労働市場の自由化、国富の自由化(郵政事業民営化)などで、毎年日米「構造調整委員会」でアメリカから改革工程表をフォローされるのである。どこに日本国の主権があるのか分らない。国体の変更を矢継ぎ早に要求されその対応に忙しいのがいわゆる「構造改革」である。いわば言葉は悪いが、強姦されて快感を感じている(自分も儲けている)勢力である。売国奴といってもいい。それに対して政治的勢力として存在するかどうかはわからないが「反米保守」がある。これは街宣車右翼ではない。右翼は「反ソ」は叫んでも、けっして「反米」は叫ばない飼いならされた野良犬である。著者はこの「反米保守」系知識人であるようだ。保守は憲法はアメリカから押し付けられたといいながら、いまも構造改革という国体変更を強制されていることを隠蔽しているのである。

そもそも左翼はフランス革命で生まれた言葉で、啓蒙主義・合理主義を理想とし、人間の理性の万能と進歩を疑わない。これが西欧文明の根幹をなしたことは歴史を学んだ人なら誰でも納得する。それを極端なまで理想化したのがアメリカ型文明である。英国やドイツやフランスなどはいつもアメリカの行動を牽制して、軌道修正を迫っているのは、実は100%フランス革命精神を信奉しているのではない事を示す。特にイギリスは過去の経験や非合理といわれる社会の慣例を重視し(いまも貴族社会)、いつも漸進的改良を国是としている。ラジカルな改革は本能的に避けているのである。アメリカの自由、平等、人権などという法律で「見える形の価値」に対し、アメリカの「見えない価値体系」には、アメリカの優位、ユダヤキリスト教、エリート主義、人種差別などは決して褒められた道徳ではない。個人主義、進歩主義でラジカルなアメリカ的価値を押し付けられている「親米保守」とは語義矛盾である。昨年秋からのアメリカ発金融崩壊の余波をもろに受けて呻吟する世界経済にとって、アメリカ的価値を見直す絶好のチャンスであり、また多極化によるむき出しの資源争奪戦争の危機でもある。アメリカ式グローバル経済活動にとって、社会的規範や地域的道徳や規則・価値観などは障害にすぎないので撤廃しろと逼るが、その行き着く先には確かな伝統的道徳や規範がなくなった無秩序な「ニヒリズム」な文明が待っているというのである。著者の主張する日本的なものへの愛で、牧歌的共同体が実現可能とはとても思えないが、とにかく著者の意見を拝聴しておこう。批判はあまりに簡単であるからだ。いつでも粉砕できるほど著者の論理が稀薄なのである。情緒的といっても言い。こんなものに騙されてはいけない。騙されると天皇制軍国主義の亡霊が出てくる。

フランス革命の啓蒙主義・合理主義は普遍的価値ではない

この章で著者は日本の左翼批判から初めて西欧の進歩主義批判に行き着きます。1960年安保闘争から始まる日本の政治運動は1970年の全共闘運動でひとつの極点にたどり着いて崩壊するのである。最期の政治闘争であった全共闘運動とは何であったのか。東大医学部紛争においては民主主義や合理主義的改革を実現する考えもあったが、浅間山荘事件・三菱重工爆破事件、道庁爆破事件などでは暴力革命的様相も帯びてくる。結局改革のエネルギーは正しく高揚せずに内ゲバや同志殺人事件に歪められてゆき国民的支持を失った。三島由紀夫はアメリカに自国の防衛を委ね独立国家のような顔をしている保守政権と自衛隊に絶望し、自衛隊の覚醒を促すと称して割腹自殺をした。戦後日本の社会科学は根本的に左翼偏重であったと著者は悔やむ。日本の戦後は日中戦争から太平洋戦争の反省の上に立ち、アメリカ式文化移入に圧倒された時代であった。アメリカの社会科学は徹底した進歩主義的思想であり、経済学では自由競争を、政治学では民主主義を、社会学では個人主義を日本に植えつけたのである。思想史から見るとそのアメリカ思想の生みの親はフランス革命の啓蒙主義である。本場欧州では自国文化の伝統への信頼が根深く、急進的改革には警戒的であるが、アメリカ大陸に渡った啓蒙思想は合理主義の徹底や自由平等民主人権をよしとする思想である。この思想を日本の社会科学が教え込まれたのである。アメリカと欧州の「保守」(権力支配者)の性向は著しく異なる。欧州では自由の概念も異なる。「一般的で抽象的な自由などというものはなく、自由の観念はつねにある社会の秩序・権威と結びついている」とイギリスのエドマン・バークはいう。「フランス革命の啓蒙主義・合理主義は普遍的価値ではない」という主張は注目に値する見解である。

そして1990年代後半から日本では「構造改革」一辺倒の時代になる。個人の自己責任を説き市場主義の競争を絶対視し、政府の規制や干渉を排除するため反官僚主義、民主化を要望するものである。そこで日本の産業の「護送船団」方式を解体し、企業の安定経営の基礎であった集団主義や終身雇用などの伝統を破壊した。バラバラになった企業をM&Aで市場で売りさばくのである。小泉改革は日本をアメリカに売り渡したことに本質があって、そもそも構造改革で断行して市場経済を徹底すればそれはどういう社会になるかという洞察もビジョンもなく押し進められたことの問題がある。劇場型政治といってメディアにも責任はおおきい。日本の繁栄を支えた日本的特質・規範・価値が破壊された。それはアメリカの価値で日本の価値ではなかったはずだ。このようなアメリカ的価値はどこから来たのかと言えば、やはりアメリカ独立宣言までさかのぼらなければいけない。アメリカの急進的独立主義者は自由・平等・人権などを訴えた。この自助努力による個人的自由という建国の思想に回帰したのが1980年代の新自由主義者レーガンであった。アメリカの自由主義にはいつもプロテスタント急進派の宗教的ラジカリズムが付随する。新自由主義は湾岸戦争、9.11事件によって急進化し、アメリカ一国主義やグローバリズムや「ネオコン」に繋がった。アメリカのいう進歩・人権・自由を世界中に普遍化するという迷惑極まる使命感に突っ走った。ブッシュUにいたっては気に食わないものに対しては先制攻撃も許されるという屁理屈を言ってイラク戦争(石油利権)に乗り出した。馬脚が出たというべきであろう。

アメリカ型自由主義の行き着く先

これからもフランス革命の啓蒙主義・合理主義・進歩主義が万能で普遍的であるかというとそうではなさそうだということを、著者はニーチェの「ニヒリズム」という哲学を引いて説く。ニーチェは「尤もらしい道徳や正義には、合理的に他人を支配したいという権力欲が潜んでいる。現代文明を支える正義や真理や道徳には根拠がない」という。「力への意志」を発揮できない弱者が生んだのが正義や道徳である、現代文明は「不健康」だというのだ。ニーチェは強い者の味方だったのだ。ここでニーチェはあらゆる最高の価値を否定する「ニヒリズム」という病に迷い込むのである。といってそれに代わるので価値を生み出すことも出来ないので、結局自分が神になるか「超人」願望になってしまうのだ。シュペングラー「西洋の没落」も、普遍的抽象的な「文化」よりも、我々は実用的な「文明」を志向し、「技術」という合理主義を生んだという。20世紀は西欧的価値が崩れ去った時期なのである。

第1次大戦以降は完全にアメリカ的価値が政治的に勝利したのである。アメリカは合理主義・進歩主義・自由民主主義への絶対的価値へ回帰したのだ。1990年代冷戦時代を勝ち抜いたアメリカは、アメリカ的価値に酔い、自信を深めて、グローバリズムでアメリカの価値を世界中に押しつけるに至った。理念的には、社会主義国にかわるイスラム諸国を仮想敵国とした勝手な正義の戦い(聖戦)に突っ走った。経済的には石油争奪戦であった。イスラム諸国といえど、石油に関してはアメリカと運命共同体である。石油価格が上がれば互いに潤うのである。ラムズフェルド・ブッシュUらは理由なき戦争イラク戦争を始めた。イスラム的価値はイスラム教に基づいている。中国にも中国の価値があり、ロシアやインドも独自の価値をもつ。アメリカ的価値だけを実現する事はもともと不可能である。人々がはっきり「ニヒリズム」を意識したかどうかは分らないが、西欧の思想的・政治的空洞化に応じて、ただ生きることがすべてであると云う「生命至上主義」が現代人の原理になったようである。これからはアメリカの地位の相対的低下によって世界は多極化(無極化)時代を迎えるといわれるが、価値の相対化も著しくなり、そこに東洋的「無」思想が忍び寄ってくる。「生命至上主義」も東洋的「無」思想の一種かもしれない。

漂流する日本的価値

1990年代後半からの日本の「構造改革」一辺倒時代を、日本的価値の崩壊として総括しておこう。その前に日本に市場開放を迫ったアメリカの経済事情を見ておく。2008年の世界金融危機はサブプライムローンから発し、証券化という技術を使った金融資本の過剰投資が不安定を生んだ。信用崩壊から世界同時不況に陥った。過剰資本を如何に引き揚げるかが問題なのに、さらに100兆円を越す資金を市場につぎ込もうとする米国政府の方針は、行き場を失った金融資本というモンスターはどこへ向かえというのだろうか。アメリカの経済を地域別に類別すると、北部の製造業型、東部の金融資本型、南部の石油・農民一次産業型、西部のIT産業型になる。北部の製造業型は政府の介入を求める民主党支持であり、南部の石油・農民一次産業型は当然共和党支持である。1980年代に日本に負けたアメリカ製造業経済は、1990年代に金融資本型に舵を切って、アメリカ経済の構造改革は強いドル政策を押し進めた。世界経済もアメリカの購買力に依存しアメリカの国債を買って発展した。こうしてみかけはアメリカ金融経済が世界を制覇したのである。この金融資本勢力が日本に金融市場開放を迫ったのである。所謂ビックバンである。ここから日本がおかしくなった。

アメリカ政府はクリントン大統領が中心になって、さまざまな名目で世界各国に市場開放を要求する。日本に対しては構造改革、IMFは後進国に対して「構造調整」という方法である。いわゆる「ワシントンコンセンサス」である。規制緩和、市場開放、金融自由化まど市場政策を目白押しに要求するのであった。1989年に始まった「日米構造協議」SIIは、アメリカのイニシャティヴで日本の経済構造を変えるというプログラムである。アメリカ政府の監督下で日本経済は強引に解体されたのである。占領軍はまだ生きていた。毎年「年次改革要望書」で改革工程をフォローされたのだ。経済活動はスミスがいうように資本、労働、資源という生産要素が揃って安定的に生産ができ、政府は長期的な政策が組めるのである。アメリカは生産要素に対する規制を全部取り払い、商品化する方向へ持っていった。政府機能の制御が規制緩和であり金融規制を排除し、労働規制を排除して派遣労働と低賃金化にむかった。所謂格差問題であり、社会安定の基礎である中流生活の破壊であった。そして土地・石油の値上げである。こうして日本の製造業はピンチに追い込まれた。投機経済のみが繁栄するというアメリカ型経済への変質が図られた。ドバイの土地バブルは日本の1980年代末の悪夢を見るようである。

日本には生産要素としての資本、労働、資源の点で必ずしも有利だったかわけではない。それが世界第2位の経済大国になったのは、どう考えても日本的総合力つまり組織力であった。企業と政府、経営者と労働者の渾然一体の努力の成果であると見るべきではないか。株主の投機をさけ、企業という組織を安定させるために、グループ間の株の持ち合いを特徴とする日本独特の「法人資本主義」の強みであった。そこには人の信頼関係があって、長期の設備投資、利益の内部留保、質の高い労働力と生産性向上への提案と寄与、終身雇用制などが安定的に作用した。これらの日本的特性がアメリカには気に食わなかったらしく、目の仇のようにズタズタに切り裂かれ、そしてバラバラの無力な労働者が残った。アメリカが推進したグローバリズムとは決してよい時代ではない。いわゆる帝国主義の略奪資本主義のことである。アメリカはロシア、中国との資源争奪戦を用意している。これに欧州を加えた4極で世界戦争になるだろうと予測する人もいる。アメリカに敗けた日本の戦後保守政権は一貫してアメリカの価値に精神的に従属していた。では何に根拠をおいてアメリカ従属から独立すればいいのだろうか。勿論軍事的、政治経済的、文化的、価値観において日本の特徴を出してゆけばいいのだが、軍事的には隠しようもなく日本はアメリカの支配下にある。経済的にもアメリカという顧客がなくては売れない(今日の世界経済不況はアメリカが購買力をなくしたからだ)。この基本構造を改めないかぎり、日本の独立はありえない。一日でどうなる問題ではない(戦後60年以上経過したが何も改まってはいない、むしろ強化されている)が、政治、文化、価値観で日本の独自性を求めてゆく姿勢もないようでは救いがない。

日本的価値を愛すること

この章は太平洋戦争と軍事裁判への言い訳に終始している。結局日本的価値とは何か不明である。著者は最期に、日本への愛つまり「愛国心」を説くのであるが、なんとも根拠がない。価値ある物を愛するのは論理が合うが、日本の価値を論証しないで愛国を論じるのは詭弁である。論理的つながりが稀薄なのである。これは情緒であって論理ではないので、批判のしようもない。とはいうものの少しは著者のいうところを紹介しておく。愛国心やナショナリズムの対象である「日本」とはどのような実体であるのか。愛国心のないことでは日本世界でもトップレベルである。まして日本のために戦争に参加する意志を持つ人は15%と世界最低である。それでも日本は戦前の反省に立って戦後はよりよい生活を目指して猛烈にがんばった。そして一億総中流といわれるような繁栄した安定した社会を生み出した。その上で保守政権も安定したのではなかったのか。このがんばった日本人に誇りを感じるが、著者のいうヘンな愛国心やまして天皇に根拠を求めるなんて時代錯誤である。今の社会は著者がどういおうと、戦前の反省の上に立っている。あのような暗い貧しい閉塞した軍国主義の戦前には戻りたくないからがんばったのである。どうも意図が見え見えの汚れた武士道や愛国心とは無縁の世界である。

著者は天敵である戦後左翼思想の代表として丸山真男氏批判を繰り返す。私は丸山真男氏は自由主義者と思うことはあっても左翼とは思わない。著者は「左翼」とラベルすれば片付けられると思っているらしいが、結局戦前の日本の天皇制をどう評価するかにかかっている。私が思うに、天皇は奈良時代から既に権力の圏外(局外)にあった。象徴性の天皇は奈良時代からで、権力は藤原氏がにぎって血縁的にも藤原氏と天皇家を分離する事は不可能である。明治時代は最初から天皇は政治から実質疎外されていた。天皇という名の下に権力は薩長の下級武士が取り仕切った。天皇という個人ではなく、天皇性というシステムが機能していた。天皇機関説が実質を表現していた。天皇は最終手続きであった。戦争で死んだ人は「無念」、残った人は「負い目」と「悔恨」で生きた共同体が戦後であった。著者はあの戦争は先進列国に対する、後進列国である日本とドイツの植民地主義への参入であったという。これは正しい見解だと思う。そこで著者がいう「道徳的」に間違っていたからではなく戦争に負けただけという、戦争ゲーム論は頂けない。先進列国のやり方も相当えげつない事はわかっているが、だから日本は正しかったという論にはならない。2008年秋の航空自衛隊幹部による「日本だけが侵略国家ではない」という弁解書と同じような論理である。ただトラウマのように「負けたから全て間違っていた」というような懺悔や考えはよくないと思う。だけど植民地主義の弁護なんて出来るわけはない。


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