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文藝散歩 

柳田国男著 「海上の道」
角川ソフィア文庫 (2013年1月)

日本民族と稲作文化を南西諸島との共通点から考察する

1952年の学会で公演された柳田国男の「海上の道」は、多くの人に感銘を与え日本人起源論に大きな刺激を与えたことは間違いない。柳田国男晩年の力作と伝えられている。この講演で柳田国男は、稲作民族としての日本人の南方起源説を提起した。稲作の技術を持った中国江南地方の人々が、宝貝という貴重品を求めて海上に乗り出し、島伝いに日本列島にたどり着いた。「名も知らぬ遠き島より 流れ来る椰子の実ひとつ ・・・」 この「椰子の実」の歌は島崎藤村の詩である。1901年8月に刊行された詩集「落梅集」に収録されている。この詩は1898年の夏、1ヶ月半ほど伊良湖岬に滞在した柳田國男が浜に流れ着いた椰子の実の話を藤村に語り、藤村がその話を元に創作したものである。その半世紀後自らが本書「海上の道」を著すとは、柳田国男氏も想像もしなかったに違いない。日本人の南方起源説は実は戦前より盛んに試みられた。特に神話を研究していた民族学者(文化人類学者)らは日本神話に示されている思考法が、環太平洋全域の先住民文化に共有されていると主張し、台湾や太平洋素民族のフィールドワークをおこなった。日本人が伝統的に行ってきた稲作儀礼そっくりなものを、インドネシアやインドシナや中国南部の少数民族も間に見いだされるという。「原郷としての南方」という幻想が生まれたのは何も太平洋戦争の目的だけではなかったようだ。しかし敗戦後東南アジアへの日本進出が、植民地主義、帝国主義、軍国主義という厳しい批判にさらされ、日本人の南方起源説は表立った舞台からは消え去った。代わって出てきたのは江上波夫の「騎馬民族説」である。一世を風靡した学説であったものの考古学的証拠に乏しかった。このような時期に柳田国男の講演がなされ、人々の目を再び南方へ向けようとした。彼らが稲作りの技術と同時に伝えた宗教や習俗はどのようなものであったかを、西南諸島(沖縄列島を含む)の今に残る痕跡から発見しようとする努力である。巧みな航海技術を持つ「海民」と、豊かな稲作技術をもつ「農民」という性格を持つ日本人の先祖の姿であろう。無論朝鮮半島を経由して入ってきた渡来人の灌漑技術や農業技術はあったはずであるが、そのずっと前に縄文時期から弥生時代の初めに日本列島の稲作は揚子江下流域の文明から直接もたらされたと考えたのである。揚子江文明(長江文明)は紀元前1万4000年前に始まったと言われる。中国浙江省河姆渡遺跡は紀元前6000年から紀元前5000年頃のもので、大量の稲モミなどの稲作の痕跡が発見された。住居は高床式であった。それを担った先住民は苗族であったという。つまり東アジアにおける稲作の始まりは揚子江下流域にあり、海岸伝いに北上して朝鮮半島に伝わったのである。今日の考古学資料によると、柳田国男の考えたいたよりもずっと複雑で重層的な過程が含まれていることが明らかになっている。ただ稲作の伝来と日本人の起源を一体にして考えることはできない。遺伝子ゲノム分析は、古いタイプの沖縄人とアイヌ人の形質が驚くほど合致していることを示している。そして沖縄諸島には旧石器時代から人は住んでいた。これを日本原住民というなら、アイヌ人=沖縄人という旧石器時代人に多方面から列島に移住してきた新石器人が混血し、いわゆる「縄文人」が形成された。ゆうに1万年以上前の話である。「日本人」とはこの縄文人と弥生人の混血によって生まれた。弥生人は主に南中国と朝鮮半島からの移住者であり、その移動は2500年前から継続的に行われ、彼らは稲作技術を持ってきた。日本列島における本格的な稲作作りはその頃から広がった。また「日本人すなわち稲作民族」と言い切ることはもっと難しい。稲作の伝来をもって日本人の起源を決める事はできない。柳田氏は民俗学のことを「内在の学」(内側から理解された歴史)と呼んだ。外から見る歴史ではなく、文字による客観的な学でもない、「それぞれの民族が歴史を体験し、実践し、思考しながら積み上げてきた知識の集積を、内在の視点から意味づけし、体系づけてゆく学問」それが柳田の「民俗学」である。もともと複数の諸歴史でできている。単一の視点(西欧の進化学説)で捉えた世界史などというものの方が、よっぽどフィクションである。柳田国男はこの書作で自分の思考を日本人の無意識と一体化しようとしたのであろう。

1) 海上の道

日本は島国であるのに、こと海上生活に対する無知はどうだろうか。日本人は最初どの方面から渡って来たのか、初めてどの島に上陸したのか、そして次々とどの方角へ移り広がったのか、それは全然分からない。昔、筆者は風の名前に興味をもって収録したという。[ヤマセ」は山の方から吹いてくる風のことで、その地方の置かれた地形的配置によって風向きはまちまちである。万葉集に「アユノカゼ」は東風をいっているが、それは東端越後境にいた大伴家持の袂を揺らした東風のことである。「アユ」とは後世の「アイノカゼ」も海岸に向かってまともに吹いてくる風、船を港に追い込む風のことをいう。饗宴もしくは食物の供与を「アヘ」と言っていたのと同じであろう。日本海岸では津軽から島根県まで同じ風の名が通用し、越前武生では遊女の歌に「心あひの風」という優しい掛け言葉がある。北陸では「ダン」というのがヤマセに近い風であった。「アイ」とは入船に都合のいい風のことであった。ところが日本海の船運が海峡から出て東の大洋に出てゆくと風の呼び名も変化した。宮古八戸あたりの「太平洋側の海岸線では陸から海に向かって吹く風を「アイ」と呼んでいる。海岸線に吹き寄せられる「寄物」も甚だ曖昧な言葉になって消え失せてしまいそうである。津とか問屋という海運流通業の制度が普及するまでは、入ってくる船も「寄物」であった。海から吹き寄せられた難破船の漂流物はその種類を問わず本来は浦人の所有物に帰した。次第に法令でもってこれを制限するようになった。寄鯨漁(追い込み漁)や魚の方から群れを成して押し寄せる時には誰でも取ってよかった。捕獲の技の進歩で独占するのが漁業の始まりである。寄木・流木の言い伝えは、昔は森林から流れ出た木材が豊かに存在したことを意味した。日本海側には海からの贈り物を運ぶ風を「アユ」と呼び、太平洋側にはその恩恵はなかった。地名などに埋もれている例として、尾張の「アユチガタ」、熱田神宮近くの年魚市(アユチ)も伊勢湾の口をまともに吹く風があったということであろう。「アユチ」の「チ」は東風を「コ」と呼んだのと同じようにめでたい物をもたらす風の事である。伊勢が常世の波の寄せる国であった。椰子の実が流れつくことも度々あったことを島崎藤村に話すと「椰子の実」の歌を作った。椰子の実の漂着の話は、西南諸島では普遍的であり平凡な事実である。この椰子という植物は東方列島の風土には適さなかった。檳榔という字を充てられたコバは古くから瀬戸内海の各地にあった。勝手海上を漂流してたまたま環境に適した僅かな個体だけが西南諸島に生息できた例は、カジマル、アコウ、トキハなどがあるのみである。椰子の実の日本語はヤシオ、ヤシゥであった。人と椰子の実を一つの話に見ることは不審がられるかもしれないが、島の人生を考えるとこれも漂着以外の何ものでもなかった。ネズミや渡り鳥や魚の群れも地図もないのにどうして移動したか。自分の意志による移動ではなく漂流という方が近かった。群れを導くモーゼがいたのかどうかは分らないが、海上の危険性は峻烈でごくわずかな確率に支配され生き延びて島に漂着した。仏教の西方浄土思想の前に、大陸では東方に憧れる「扶養伝説」という民間信仰がありました。秦の徐福が不老長寿の仙薬を求めて日本にたどり着いた場所が熊野の新宮だったとか、八丈島の人がその子孫だったとか言われています。東方の太陽が輝く列島が蓬莱または常世だという空想はいまなお台湾に至る西南諸島では分布している。徐福がモーゼのような数百人の男女を連れた貧民の移民集団(ポートピープル)だったのか、それとも桃源郷へのあこがれだったのだろうか。エジプト砂漠と黄海の海上という違いはあるが、移住なのか漂流なのか、それとも圧力による逃避行なのか、その区別は難しい。海上の移動は船の機能と密接に関係している。船にマギルという帆があったとしても、太古の昔では磯づたいの漕ぎ巡りであった。常に山が見える範囲でしか移動できなかった。長年の航行技術の経験の伝承によって、海上には潮の流れに乗る海上の道があったという。「八重の潮路」という文学的表現があるが、それにチャレンジできるのは海上のベテランだけである。我らの「海上の道」は、もし漂着をもって最初の交通とみるならば、日本人の故郷はそう遠くないことがわかる。いつまでも海洋に漂っていては生命が持たない、数日以内のことに違いない。この島が住むに足りるなら、引きかえって必要な道具・物資を整え妻子を伴って移住する。そして何回かのステップでさらに遠くの稔り多き島に移り行くこともあり得る。このような危険と不安を冒してまで苦労して移住する魅力は何だったのだろう。食糧としての米作可能性を求めるのか、筆者が象徴的に言う「宝貝(子安貝)の魅力」がなければならない。子安貝は極東の群島周辺のサンゴ礁で取れる。中国本土南部・台湾から見ると西南諸島(特に宮古島)がちょうど一つの中心であった。琉球36島の内で宮古島は異常に歴史の変化が激しく、しかも天災地変の圧迫が峻烈であっ。そして島の周辺は干瀬があって、貝類の絶好の生息地であった。この島は歴史的に唐人漂着の事実が多くあった。逆に明治時代初期、宮古島人が台湾に漂着して現地人に殺害されという事件があった。明治政府内で台湾征討論が出るきっかけになったくらい中国と交流の多い島であった。宮古島の岩礁地帯には海洋守護の女神を祀っている。危険を冒して宝貝を求める願望が、始祖日本人の小さな群れが日本列島に足跡を残した。宝貝は象徴だとしても、生活の資としての稲作問題は重要であろう。縄文期から弥生期の境でこの国に種籾が入った。これは種もみだけの問題ではなく、長い総合的な技術と経験が伝来しない限り、急に種もみを渡されても稲作には移れない。稲作が朝鮮半島を通って日本に来て、南下したという説は信じがたい。稲作社会は南から北へ伝播したというほうが分かり易い。南方の暖地方では降雨がほとんど唯一の灌漑法であった。北へゆくほど灌漑は困難になり、雨乞い行事や稲作灌漑事業は社会集団の総がかりでおこなわなければならない。灌漑事業(水利事業)には次の4段階が必要である。@雨水を蓄える天水場、A表層水を集める清水掛り、B池掛り、C堰掛りがある。一度降段の事業を知った人は、無人島で山地のゼロからスタートには戻れない。稲作文化伝播には好適な水資源の自然環境、地形などを考慮して移住先を選ぶのである。このように柳田国男氏のこの始祖日本人論は極めてあらっぽい論理と空想から成り立っている。ちょっと信じがたいが一理はあるように思われる。次の章からは、南西諸島と本土の間の習俗の関連を考えて、稲作伝来を暗示する民話との関係を裏付けてゆこうとするのである。第1章 「海上の道」が(雑駁ではあるが)「総論」だとすると、第2章以下は(直接的な証拠立て、立証、裏付けとは言えないが、関連性がありそうな事項の)「各論」である。

2) 海神宮考

第1章の末尾に書いたが、第2章以降は「海の道」と関係がありそうな事項の各論である。したがって本土に微かに残った事蹟の痕跡が、西南諸島の消えそうな習俗に関係するかもしれないという仮説である。心もとないが、理論の実証というような科学の話ではないので、「かも知れない」程度のあやふやな推測をつなげてゆこうとする涙ぐましい柳田氏の感性である。とても日本人起源論にはつながらないが、あるところでは納得ができるような話の構成である。あくまで文学というスタンスで聴けば別に角を立てることもない。民間説話には島嶼型といって、島と島には共通した特殊な型がある。沖縄を中心とした南西の群島と、日本列島の島々には民間説話の類似と差異に注意しなければならない。特に僅かばかりの差異が、社会相の理解に非常に重要なものになることがある。日本では浦島太郎伝説があり、昔話としては「竜宮入り」という倶通性がある。人が往来したという海底の仙境は「竜宮」と呼ばれる。竜宮というにしては竜はいない、乙姫様という美しい女がいる。ではどうして竜宮という名を与えたか、それは読経師の口を通じてもたらされた。ではそれ以前にはどう呼んでいたのだろうか。「トコヨノクニ」または「蓬莱山」、「海竜宮」という漢字が「丹波の国風土記」に見えるのが最古の文献である。鹿児島トカラ群島の宝島の南の島々では、いわゆる竜宮のことを一般に「ニルヤ」と呼び、喜界島では「ネインヤ」(根屋)、沖永良部島では「ニラ」の島、奄美大島では「ネリヤ」という。徳之島や沖縄本島ではこのような言葉は採録されていない。ただ袋中上人の「琉球神統記」(神の歌)には32年ぶりに竜宮から帰った女房の話や、7年後に帰ってきた棚橋船頭の妻福婆の話がある。人は儀来婆と呼ぶが、「おもろ草紙」のニライカナイが訛ったもので、そっれは日本人にとって竜宮であることは明らかであった。久米島では「ジルヤカナヤ」、伊平野島には「ナルクミテルクミ」があり同系統の言葉であろうか。「おもろ草紙」にはニライカナイとニルヤカナヤの二つの言葉が混在していて、北にはニルヤ、南ではニラヤが普及していた。不思議な国ニルヤの起源を海の向こうと考えたのだろうか。また猿を欺いて海底に誘い込んで生き胆をとる亀の使者、クラゲの使者と言った笑い話化も新作の受けを狙った証拠である。沖縄には本来猿はいなかった。動物を助けてそのお礼に好いところに案内され財宝を貰って帰るという「動物報恩型」に昔話は世界的に多い。極東の海の彼方の好いところの「ニルヤ」話が結び付いたのが「浦島太郎」伝説であった。日本書紀の海神宮の物語もある。よその島ではあまり例を見ないものに、日本の南方諸島において広く分布している「花売龍神」と呼ばれる型の話がある。この話とニルヤの起源が結び付いているのではないかと柳田氏は考えた。正月の門松や普通の薪の場合もあるが、木や枝を町に売りに行く(大原女の様な行商)貧乏な男があった。ところがある日はたくさん売れ残り、これを竜神様にさしあげますといって海に投げ込んだところ、海から使者が出て来てお礼がしたいので連れて行かれたところが海の底の竜宮(ニルヤ)であったという。大変な歓待を受け土産にもらった財宝でその男は長者になったという話しである。いろいろなヴァリエーションを持った話が分布している。柴を海に投げ込んで(持って帰るのが面倒で)法外な報酬を得るというのはちと話がうますぎる。九州の島にある「二人椋助」、「上の爺下の爺」は富兄貧弟のパターンで、弟が売れ残った薪を海に投げ捨てたら、たちまち竜宮に迎えられたいそうな宝物を得る。それを羨む兄が同じことをするが失敗するという話しである。古事記神代紀の「海彦・山彦」の話も同じ系統の話である。喜界島の昔話に二人の漁師の話で、失った釣り針を求めて海底の竜宮へ行き、ネイヤの神よりご馳走を賜るという話しがある。人が海底の異郷に入ってゆくいきさつはいろいろあるが、かならず非凡な幸福を得るというハッピーエンドに終わることがこの話の本質である。授かる宝物・動物・幸いをもたらすハナタレ小僧の話は九州一帯に多い。みんな福の神を授かるのである。それを妬んだいじわるな爺さん婆さん、金持ちはすべて失敗する。神様は人の性格までお見通しだったのだ。日本本土では生まれた子の運を決めに行く神たちの話が多い。一人の神が、もう一人の神を誘って運定めに行こうとするのだが、片方の神に障りがあってゆけないのでその結果だけを帰りしなに片方の神に報告するという筋書きであるが、この場合の神は大概道祖神か箒の神か地蔵か観音さんである。この話の原産地はどうも沖縄の島々にあったらしい。宮古島では「寄木親」と呼んだ。沖永良部島では「ニラの神」だと言い、喜界島の昔話では竜宮の神様と語られる。薩摩の甑島では山の神とホダの神(伐採された木)である。

沖縄の神歌に歌われるのは「ニルヤの大王」、奄美大島では「ナルコ神テルコ神」は島の女だけで歓待したという。しかし日本上代の海神(わたつみ、綿津美)の宮と沖縄ニルヤカナヤの宮が同一かどうかはいまだ不明である。島の記録から見ると、最初ニルヤからやってきた重要なものは第1に火である。テダ(太陽)は東の海から上がる、だからニルヤは東の海にある。沖永良部島の島建国建の物語(建国神話)は口碑であって文字の記録にはないが、島の元祖となる人が神に教えられてニラの国に行きそこで稲種を求めたという。ニラの大王は御発祭(新嘗祭)をしてから授けたとなっている。この話の一部は日本全土に分布している。また「イノチ」はかって「ニルヤ」からもたらされたと信じられている。ただし証拠はない。「ニルヤヒジ・カナヤヒジ」の「ヒジ」というのも、主として人間を幸せにする富貴長寿のカテゴリーであった。ニラの国から人々は幸せや良い物を戴いたのだが、迷惑なもの「鼠」もニラからやってくる。この詳細は第5章で述べよう。久米島にただ一つ残る「オトギョの神話」が、日本神代の「蛭子の物語」によく似ている。南の島々の父神は日輪でであるが、生まれそこないの奇形児を小船に載せて大会に流すというという話しが「蛭子物語」に似ている。蛭子は後代に恵比寿神になり、商売公益の守り神、漁民の祭祀の神であったが、今では田穀の神と崇められている。竜宮と「ニルヤ」の関係が、「オトギョ」と蛭子の関係の対比としておかしくはない。支配機構中央集権主義になるの連れて、宗教や民話にも統一主義があらわれてきて、両極端なものさえ統合される。日本本土で「天神地祇」と総称するものを沖縄では「天神海神」と呼ぶ。「ニライカナイ」(儀来河内)を海神とする説は、恵比寿神の中に生きていると言える。沖縄神道史では何よりも新懸り、新神、荒神の出現が多い。予期しなかった神の来臨がよくあったようだ。島々の村の御岳信仰にはさまざまな神たちがバラバラに祀られている。「大ジキュウ」、「ウフジキュウ」という神の名がいくつもあって、それは久米島の鼠を管理する「オトジギョ」、「ワカジギョ」という海の神と同じではなかったか。八重山石垣島に二イルビトゥの来訪という神事があるが、ニラ人とはマヤの神と同じで、ナルクミ・テルクミも奄美大島ではナルコ神・テルコ神と呼んでいる。人の優れて霊あるものも神となずけて崇める習わしがある。それが職分となり世襲となると神人となるが沖縄諸島では神と呼ぶ。巫女もオカミである。海の来訪者のニイル人、ニラ人は「ミルヤニヤ」ともいった。海をアマ、天をアメという二つの日本語は深い交流があったようだ。「アマミ」は一つの国の名前(アマンチュはアマミ人)であったが、九州では南の島、沖縄では隣の島という一般名であった。東洋の詩歌では対句を常用する。これは文藝表現の特徴であるが、何か重要だと思うことは必ず一度づつ言い方を変えて繰り返すのが常であった。ニルヤ・カナヤ(ニライ・ニルヤ)、アマミヤ・アマミヨ・アマミキュは対立する神ではなく、同一の言葉の言い換えに過ぎない。昔話が高貴な氏族の優越性を讃えるためではなく、一般の自然観に基礎を置くものであった、我国上代の書に記載されたものと、ほぼ同質の海上楽土の存在を信じる者が島々に分散して住んでいたのである。古事記・日本紀が書かれた8世紀よりも以前から、東方の島々には存在していたと見るべきである。ニライ・ニルヤという単語の起源は「二―ラ」という非常に遠い感覚にあった。単語の要部「ニー」は「根」にあるのではないだろうか。第4章でも述べるが、「根の国」、「根の島」という思想(古事記神代記)は、偏った見方では「黄泉の国」(死の国、あの世)と同じだとする解釈は明治時代まで続いた。蓬莱、竜宮、常世の国という漢字が充てられてきた。奄美大島にはコウソ祭、ホウス祭というのが先祖祭の事であった。7月盆の魂祭りの風習は根強い。つまり自分たちの祖先が渡ってきた遠い海の向こうがを尋ねるのが先祖祭である。死んだらそこへ帰るのである。ニライ・ニルヤとは憧れのルーツがある場所という明るいイメージの島で、冥途や地の底や死者の眠るくらい場所とは正反対の場所である。

3) みろくの船

弥勒菩薩は現在仏であるゴータマ・ブッダ(釈迦牟尼仏)の次にブッダとなることが約束された菩薩(未来仏)で、ゴータマの入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされる。それまでは兜率天で修行しているといわれ、中国・朝鮮半島・日本では、弥勒菩薩の兜率天に往生しようと願う信仰(上生信仰)が流行した。仏教の摂理はよくわからないが、あまりに遠い未来に関することなので、西方の弥陀の浄土に追いやられて最近はすっかり影を薄くしている。それでも現世の御利益に結び付いて墓ともお寺とも縁がない民間信仰が全国津々浦々に普及している。江戸時代安政のころの「利根川図志」に常陸鹿嶋あたりの土俗の風習に、老婆たちがあつまって弥勒歌を歌い太鼓を打って踊ったとされる。「鹿島志」によると、その歌詞は「世の中は万古末代 みろくの船が続いたァ 艫へには伊勢と春日 中には鹿島のお社 ・・・ 米の三合も撒こうよ 何事もかなえたまえ ひだちかしまの神々」とあり。印旛郡本野村荒野では10月15日雷公神社祭でも「ささげ歌」が歌われる。歌詞は鹿島歌と似ているが、稲作の豊熟を弥勒出世の第1の奇瑞とする。日本にどうして仏教に基礎を持たない弥勒思想が入ったかはよくわからないが、応仁の乱後弥勒2年という通称年号(1507年 天皇年号ではなく)が用いられ、室町時代末期弥勒信仰が急速に広がった。伊勢神宮や富士信仰の爆発的拡大の興味ある現象であるが、飢饉疾病のさなかの「世直し」(これは暴動であるが)に似た社会現象である。常陸鹿島の踊り歌の普及宣伝に功があったのは鹿島の事触れという下級神人の巡歴である。願人坊主の類の門付け物貰いの輩であった。神社の神人には札配りが許可されていたが、祈祷や路頭の宣託もこっそりやっていた。鹿嶋事触れの路頭宣託は歌と踊りが有効な客集め手法であった。同じような習性は空也上人の踊る念仏よりも古い。さらに越後頚城地方の弥勒歌があり、祝宴で歌われ神社の祭礼には関係なかった。各地の鹿嶋踊り歌のうち、武州小河内の者は全く系統の違うコキリコ踊りとつながって、もはや意味が取れなくなっている。熱海来宮の例祭の歌は詳細に残っており、安房郡の歌と似通っている。南の島々にも弥勒踊りが類似をもっているが、鹿島との因縁が分からなくなっている。このことについてはまたあとで考えよう。

4) 根の国の話

肥前の下五島(大値賀島)の海岸に「三井楽」という岬がある。「万葉集」に出てくる「松浦郡美禰良久之崎」、または「続日本後紀」に出てくる「旻楽の崎」と同じだろうと思われる。後代の源俊頼の「算木奇譚集」のなかの「ミミラクの島」と同じだろう、「ミミラク」とは死者の国という意味で歌われている。しかしあの世のことは日本の古典では「ネノクニ」、「ネノカタスクニ」と呼ばれるのが常である。それが西の突端にあり外国への境界という意味なら理解できる。「根の国」という言葉は日本で「常世の国」という言葉で表現されるようになって廃れた。死後の世界を意味する「ヨミノクニ」、「ヨミジ」はまだ使われているが、「黄泉」という漢字を用いる様に地底に入るような印象を与えている。「根」が地下のことだという証拠はあるのだろうか。戦前には沖縄の故事・風習を伝える人がまだ居られたので研究が大いに進んだが、戦争中の犠牲者として古老が次々と世を去り遺跡は名ばかりになっている。根の国が死者の国でなかったことは、それぞれの本国に向かって遙拝の式「ネグミ拝み」とか、この島で宗家を「モトドコロ」、「ネドコロ」知呼ぶのはルーツの出発点という意味である。神の故郷「ニライ」、「ニルヤ」と呼ぶ海上の霊地の名は日本の根の国と同じ言葉であろうか。根屋をあらわす「ネリア」、「ニーナ」が竜宮に置き換えられている。八重島では「二―ラ」、「二―ラスク」を土の底という意味で使っていた。地の底を根の国という風に理解するのは本居宣長の影響が大きい。平田篤胤は月の世界を根の国と言った。「ミミラク」、「ミーラク」がもしあの世とこの世の境の島だとすると、どういう過程を経て根の国に落ち着いたのか。もともと日本には不思議と意味の取りにくい古い地名が多い。北韓道のアイヌ居住区のほとんどの地名は命名の動機が明白であるのに対して、理解に苦しむのである。「ミミラク」はその典型である。「和名抄」に地方の郡郷の地名にも理解不可能な地名が多い。命名法と国語のお話がまだ少し続くがネノクニに関係ないので省略する。稲の根元に関する言い伝えは各地各時代に変化しているが、微かな南北の一致もある。日本北部には大昔大師と言う人が天竺に渡って稲を盗んで狐に頼んで葦原に隠したという。天竺とはインドのことではなく天上のことである。旧暦霜月11月23日に稲祭すなわち大師講の始まりである。西日本では弘法大師が遣唐使の帰りに持ち帰った大麦の話がある。この話には犬が絡むが、上総国誌では鶴が稲を咥えて飛んできて地上に落とした。沖縄本島の話は慶長年間の記録によるが、ほぼ1年かかって鷲が稲を運んだことになっている。沖縄のおもろ草紙には、この人世を支え養う力を「ニライ」、「セジ」と呼んでいた。稲という穀物の根源が「ニルヤ」にあり、これを繁殖させて人間の力と幸福をもたらすという意味である。「八重山歴史」に「二―ラスク」は遠い昔の世の海上浄土をいう。「セジ」とは呼ばないがそれは国という制度が行き渡ったからであろう。古見の聞き覚えに、頭に稲穂を戴き出現された時は豊作で、出現無きときは凶作だったので、「世持神」と名付けて拝んだという。沖縄の地は高温多湿を除いては稲作に決して向いた土地ではない。耕作地は狭く、台風と高波の災害も多く、日本本土よりはるかに稲作には困難であった。稲がニライカナイの本国からもたらされたのは事実らしい。古見・久米と言う地名は米をもたらした偉人の名であることが「旧記帳」に書かれている。豊年の願いは、供物を古見三村から出し合い、祭の儀式を執り行った。それは「世話神」の役であったという。村の長老ワザオギであることが分かった。西表という島の古見がかっては南島文化の中心であったが、近世になって激しい盛衰を経験した。西表島には炭鉱もあって大いに栄えた。5つの村があり田は1870石、畑は97石、いえは1267戸あったが、1753年伊は767人に減少し、戦後の最近は8戸となった。人口激減の主たる原因は「マラリア」と対戦の影響である。アッメリカ軍は爆撃機からDDTを森林に散布したという。以上をまとめると、三井楽という言葉は南島のニルヤ・カナヤが、神代記のいわゆる根の国と、根本同じ言葉であり信仰であったが、同時にそれが海上の故郷であるがゆえに、島のために健闘した人々の安らかな休息の地を約束し、いろいろな幸せをもたらす精霊の往来する拠点でもあるという信仰となった。長く稲作という人の命を繋ぐ作物の栽培を繰り返し、毎年その成果を祝う古来の祭式があった。

5) 鼠の浄土

人と鼠の関わり合いに、本書はなんと55頁を費やして蘊蓄を傾けている。農業にとって鼠の害については周知されていると思うので、くだくだしいことは言わないで、簡単にまとめておこう。よく知られた例は、肥後八代の沖にあった鼠島、鼠藏島、瀬戸内海では山口県東部の片山島、伊予の黒島、周防の大島、広島の羽山島などがある。鼠の種類は水鼠または川鼠といって泳ぎ回って魚を食べるものがあると「本草啓蒙」に出ている。野鼠・家鼠も海を渡って島々に移動したものがいるそうである。船を繋ぐ綱に伝わって船に入り積荷を食うものもいる。沖縄には麝香鼠がいるが、鹿児島や長崎にいるのは船に運ばれて移動したものだろうか。いわゆる絶海の孤島にも鼠が移動することがあるらしい。久米赤嶋にちかい胡馬、久場という孤島にもいた。鼠の移動は一匹では冒険はしないそうで、「古今著聞集」に記載されているように伊予の黒島の鼠が集団で海を渡る様は魚の大群のようであった。猟師の網に多量にかかり、漁師は殺したつもりでも大量に鼠が島に逃げ込み害をなしたという。この話は近世になって本州津軽藩領のある浦で網にかかり津軽の田畑を荒らしたということが太田蜀山人の「一話一言」に書いてある。北海道では奥尻の島に鼠の話がある。アワビや海鼠を食われて困ったという話しである。本居宣長の「玉勝間」に石見高島のネズミの話が出ている。鰤しか取れない寒村で文政の頃沖で大量の鼠が網にかかった。その後20年後に「石見の大鼠害」が発生した。藩は駆除のため鼠の買い上げに25万両も費やしたという。鼠の害は古くは奈良時代の史籍にも見える。また幕末に奄美大島で過ごした薩摩藩士が書いた「南島雑話」にはウンネジンという海からやってきた鼠のことを記している。イナゴも海からやってくるらしい。鼠の害は甚だしく、「鼠様 々 お願いですから 農作業の邪魔をしないでください」と祈願をするのである。それでもなお旧8月の甲子の日を鼠たちの物忌みの日としている。大島では鼠も一つの神様で、テルコ神の使者だと考えていた。すなわち神の世界だった。ニライカナイが海上の浄土、遠く水平線の外にある世界の名であった。太陽もまた海の浄土信仰に含まれた。例えば沖縄のオホツカクラは本土の高天原に相当するらしいが、ニライカナイの方がもっと抽象的な概念であった。テダというのは陽の神の後裔で何処にでもいる官吏もそう呼んだ。日本の各地には鼠送りの行事が多いが虫送りと似た風習であった。祭で鼠のことを公言しないでいることは忌み言葉であり、お福さんと言ったり、鼠が大黒天の家来だ思っていたいたらしい。鼠のことをヨモノと呼ぶ風習は福島県、信州、京都に見られるが、狸や猿、猫のこともヨモノと呼ぶ。東北では鼠のことをウエノアネサマ、奄美大島ではウエンチュと呼ぶ。鼠のことを畏敬し、忌みて実名を口にしないという風習が根強く沖縄には残り伝わっている。オトギョ神話はこのへんの筋を物語っている。鼠が日の神の初めの子オトギョの後裔として大いに繁殖し、この世に渡ってきて余りの害をなすため、小舟に載せてニルヤカナヤに送り返し、神の管理下に押し込めることを祈願したのである。久米島仲里間切りの祭文は暗示的であった。魂祭りは南方の島では一般に旧暦の8月であったらしい。8月踊りは祖霊供養であり、トンガの日は鼠の物忌みの日なのであった。トンガの日の行事の一つとして、名瀬間切に行われていたシチヤガマという遊びは甲子の前日に木を切って小屋を建て甘酒を造って田の神を祝った。南の島では稲の毎年の収穫をヨという。新嘗の神を送ってそれぞれの家に因縁の深い神を送るのである。鼠にどういう因縁があってこの8月先祖祭の一役関係するのか。それには田んぼの昆虫・蛙・狐・山ガラスの殺生を禁じ、ある動物の集合と去来をもって神の往来の先払いとする風習があった。山から迎える農神がそれぞれ家ごとに違っていた。鼠の日を大神の後裔として、ニルヤカナヤをもって彼らの故郷とする風俗は、移動する時期が同じで大神の同行者と見たからであろう。「鼠の浄土」という名をもってこの昔話は全国に行き渡っている。「鼠の浄土」嘘が余りに誇張されている。大話や笑い話化が著しい。もう何としても本当の話として聞くことはできなかった。舌切り雀は竹林、鼠の隠れ里は大概地の底である。そして団子ころころと鼠穴の転げ落ちる話と連動している。人がこの世の生を終わって往く静かに休息するところは、どこかあまり遠くないところにあるということを信じる人は多い。南方諸島の鼠はかの美しい海上浄土の出身と見られた。根の国を暗い冷たい地の底と考えるのは、死を忌み嫌う神道の哲学からきている。群島の住民はいつの世にどの方向からいかなる苦労をしてやってきたのか。本章では鼠と人間の群れを重ね合わせて考えた。

6) 人とズズダマ
宝貝   宝貝のペンダント  宝貝のお守り  宝貝の首飾り
宝貝の装飾品類

「ヨブの涙」という名を持つこの草の実は古くから知られた、首飾りや手首飾りといった主として女の子の弄び物であった。私も幼少の時からなじんできたので良く知っている。その辺の草原のどこにでも生えていた。「ズズタマ」という名は全国どこでも、どの島でも同じであったということは、もともと広く自生分布していたことを物語るのだが、これは食用になるものではなく、実用途はなくほとんど忘れ去られている。「ズズタマ」と呼んでいるのだが、数珠玉に似ているので「ジュズダマ」と理解している人が多い。東北のイタコの数珠やアイヌの首飾りに似ているが、昔は漢方の疣取りの薬であった。こんなことを知る人ももういないだろうが漢方薬名を「ヨクイニン」と呼んだ。近い種類に「ハト麦」、「とう麦」、「朝鮮麦」など言う食用種もあるが、主たる用途は薬もしくは呪法であった。非食用種として山伏修行の数珠オニジュズダマがあった。珠を緒に貫いて首にかける風習は遠い上代から公の服装から脱落していた。今から千年余り前までは、日本は首飾りの最も普及した国だった。沖縄に神に奉仕する女流の家に勾玉管玉が伝えられ、与那国島では黒島のアンビターという貝をいろいろな木の実や草の実と混ぜて緒に通し男に贈ったという。サンゴや真珠、或は硬玉でもなかった。四国ではススタマ・スズタマ、「和名抄」にはツンタマ(豆之太末)、「新撰字鏡」にはタマツンという名がある。数珠からきた言葉では決してない。単語の外形のみによって、ものの由来を説くことは万能ではない。沖縄に仏教が渡来したのは日が浅く、念珠というものを知らなかったが、この草の実は良く知られこれを緒に貫いて首にかける風習も相当に普及している。沖縄ではシンタマ、先島ではシダマ・スダマ・チダマといった。上代以来多数の人が珍重したのは、形いろどりさまざまなさざれ石と貝殻、中でも宝貝の類であった.。沖縄の「おもろ草紙」は歌うもので神歌であるが、ツンタマの古名の由来は決して今日言うズズタマではない。歌の前後より推測するにツンヤは首飾りのことである。宝貝は琉球から中原の王朝への貢ぎ物で、1434年明の朝廷に550万個贈ったという記録がある。 

7) 稲の産屋

新嘗の嘗の字は、中国では秋祭を嘗ということを借りたものであると伴信友に「神社私考」に書いてある。しかし今の日本でいう「いなめ」という厳かな儀式と同じであったかどうかを問題としたい。物があって名があるというのではなく、いわば書物上の社会システムの問題である。人が学問によってはじめて知る前代のことである。嘗をもって表す我国の儀式だけは少なくとも民族固有のもので、遠い神代から連綿として記紀律令の時代まで継承してきた。それが果たして大陸で行われた嘗と同じであるかどうか、彼我の伝統を比較しなければわからない。「にいなめ」という日本語は万葉集では「ニフナメに我せを遣りて」とあり、書紀神代巻でも「ニハナへきこしめす時」と読ませ、新宮を「ニハナエノミヤ」と読ませている。古事記全巻でも「爾波那比」を正字としている。本居宣長が「ニイナメ」に統一したのは根拠がないという。古事記でも常陸国風土記でもともに、嘗の一字でもってニイナメを表している。嘗はまた新たなる穀物を食べ試みる意味をはじめから持っていた。本居説ではニイナメ新舐では新は形容詞、舐めるは動詞である。稲村、稲積の方言に、ニホ・ニュウがあるが、新嘗のニヒではないかと折口氏が言い出した。ニホが本来は刈り稲を積んでおくところ、「穂を拾うてミョウにまいらする」からミョウは野外の祭場であった。北九州市は「トシャク」、「トウシャク」という稲積の音読み、それより西南はコズミ、宮崎県霧島麓の部落では刈稲を田に干し束に結わえてコズミに積んだ後トッワラという藁帽子を上にかぶせる。福島県会津では稲積をニュウ、上にかぶせる藁の覆いをボッチと呼んでいる。近畿地方では稲村をボウト、伊勢・尾張地方ではスズキ・スズミ・スズシと呼ぶ。北欧では穀霊信仰が流布しているようだが、アジア東南諸島にも穀母信仰がある。大体ニホ、ニフ・ニュウなどが産屋を表している。近畿では産屋に入ることをニブ入りという。お産で里方に還ることをいう。子供を親に見せに里帰りする広い意味で使われる。壬生部または乳部を御産屋に奉仕した人の部曲(かきべ)であった。古来多くの稲作民族の間に、間違いなく信仰行事の一致があって、いまなおそれを伝えている。柳田氏が言いたいことは「嘗」の漢字にあてられるアエ、ニエという日本語は、単純に食物の供進を意味し、それは我国のすべての祭祀に伴っていた条件である。ただ「嘗」の一字でもってニハナエ、ニハヒ、ニイナメと読むべきであったものを、念を入れて新という字を添えたばっかりに混乱させてしまった。西南諸島の間には稲の産屋ニホを意味する言葉が明らかに残っている。稲霊を寿ぐ言葉があった。ウガノミタマ、国頭地方にはイニマジン、沖永良部島にはマンジ、マジン、八重垣諸島にはシラという言葉があった。石垣にもシラに伴う季節儀礼が今なおある。宮古群島では穂積をシラと呼んでいた痕跡はありそうである。沖縄本島以北の稲作地帯では、稲のシラいう言葉はもはや残っていない。貯穀管理するマジンの方式が普及して消え去ったようである。人間の産屋をシラという言葉は今も生きている。妊婦をシラビトウと言い、産婦をワカジアラという言い方はもはやない。蚕のことを東北ではオシラサマと呼ぶ。養蚕はまだ普及していなかった時期、オシラ遊びという式目は年に三度ある農神の日であった。琉球列島の一部に稲の蔵置き場と人間の産屋とを共にシラと呼ぶ言葉が残っている。太陽をテダ(照)、生む育つものをシダ、シラといった。成長し大きくする意味のシトネル、種をスジ、種籾をスヂという。日本人の嘗の祭りがいわゆる稲の産屋の信仰を持っていたどうかは文献学的に定かではない。相嘗は相餐と同じ意味で神と人と同時に一つの食物を食べることである。嘗に該当する稲収穫後の祭典が、朝廷だけでなく普通の庶民でも行われていた。朝廷のことは「延喜式」に践祚大嘗祭の儀式が定められている。しかし翌年の種に関する儀式、すなわち稲の産屋の作法が定められていない。朝廷では稲作はしなかったためである。


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