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文藝散歩 

柳田国男著 「山の人生」
角川ソフィア文庫 (2013年版)

柳田国男が模索する、日本先住民の末裔の生活

本書の「自序」に柳田氏の意気込みが書かれている。「新しい知識を求めることが学問であり、そのためにこれまで人に顧みられなかった方面があり、それに我々は手を付ける。同胞国民の多数者(小数の支配者の歴史ではなく)の数千年間の行為と感想と経験とが、かって観察し記録しまたは考究されなかったのは不当だ」と主張している。「遠野物語」が刊行されたのは明治43年(1910年)で、本書「山の人生」は大正14年(1925年)に刊行され15年の歳月が経過していた。本質を問う姿勢には、両著の間には大きな違いが見て取れる。「遠野物語」は東北の僻地の遠野に残された口碑・伝承を、土地の盟友佐々木喜善氏と二人三脚で採話した記録である。古事記にも多くの不思議な伝承が散りばめられており、その言葉を分析し解読したのが本居宣長の「古事記伝」であった。柳田氏の本書「山の人生」は、「大野物語」に採録された不思議な話の言葉に魅せられて研究に入った一連の考察である。「山の人生」という発想を得て分析と解読の仕事を進める時、柳田氏はその神話伝承の話に触発され、何前年と続いた民衆社会の根源に論理的メスを入れ知的考究への道を踏み出した。ここに柳田氏の「民俗学」が誕生したのである。本書第一の話「山に埋もれたる人生ある事」において、書かれたように「「山人」という先住民族のどうしようもない「人間苦」の根源を明らかにしようとした。本書はしばしば登場する霊異、幽界出入りのテーマを取り上げ、鬼や神の出没に関する話、神隠しの現象の解析を重ねて、話の実例を紹介してゆく。その結果分かったことは、山人とは新しくその地にやって来た農耕民支配者・民族によって山地に追いやられた先住民の後裔達でり、その零落した生活様態を映し出す鏡であった。不思議な現象を多く採録して、合理的(自然的)還元を試みる研究方法である。神や鬼の世界の探求はやがて後年の「先祖の話」の源泉であった。また山中に隠れて生きる女の運命の検討が、「妹の力」や「巫女」に関する仕事になった。柳田氏の提出した仮説は本書の「山人考」(大正6年講演原稿)に書かれているように、先住民を絶滅に導いた6つの過程に要約されている。@帰順・朝貢に伴う同化、A土蜘蛛殺害による根絶やし、B飢餓・過疎から自然的な子孫断絶、C信仰の流れのなかで農耕社会に組み込まれた、D長い歳月の間に土着・混淆した、Eなお山の中を漂泊する生活を続け、交渉はあったがある時代から絶滅した。という論考である。(要因論としては@とCはほとんど同じであり、DとEも同じである。) 本書は30篇のテーマと「山人考」からなる。以下に要約して紹介する。

1) 山にうずもれたる人生ある事: それはそれは悲しいお話です。30年ほど前(明治30年頃か)に西美濃地方の山中であった話である。大変世の中が不景気だったころ、炭焼きをしていた50歳ばかりの男が自分の子供と貰い子二人を鉞で首を切り落としたという。女房はとおの昔に亡くなり、男手一つで育てていたが、炭を焼いて町に売りに出るという生活を続けたが、少しも売れず苦しい生活が続いた。秋も末の頃、子どもが表で仕切りに斧を研いでいた。理由を尋ねるとこれで私たちを殺してくれという。頭が錯乱して気が付いたら子供二人の首を切り落としていた。男は60歳を過ぎてから刑を終えて世の中に出てきたが、行方は分からない。この絶大な人間苦の記録も埋もれてしまった。我々が空想で描いてみる世界より、隠れた現実の方がはるかに物深い。本論に関係はないが、序文のつもりで書き記しておきたいと筆者は述べているが、これが本書の「通奏低音」(基調低音)となっていることは確かです。

2) 人間必ずしも住家を持たざる事: 今から12,3年前(大正の初めごろ)の話である。尾張瀬戸町の少年感化院に不思議な身元の二人の少年が保護されていた。ひとりはサンカ(漂泊民)の子で神奈川足柄山で親に捨てられ、甲州から木曾の山を歩いて名古屋の警察に保護された。もう一人は3年間父親と深山の中に住んでいたが、食べ物は自分で素手で捕まえた鳥や魚を生で食っていたそうだ。冬の寒い雨雪の夜、寝るときは岩や木の窪みやうつろの中で、川柳の繊維の多い枝を敷いて寝たそうである。サンカ漂泊民の生活が平地の農耕民と違うところは、穀物・果実・家畜に頼らないで、定まった家の無いことであった。自然の利用技術に長けており、いわば山に住む縄文式狩猟住民に近い生活であった。彼らは山伝いに移動する特別の交通路を持っており、人に会わない所(獣道)を縫って歩いた。磐城相馬地方では「テンパ」と呼び、いくつかの岩屋を持つ。平野の人と物々交換をして交際している。若狭、越前では竹細工、藤蘰などの工作をしたり頼まれ仕事をする。しかし常人と交わることを強度に警戒する。逆に常人からサンカの社会に投じる人もいる。京都の粟田口にちかい若王子の山にサンカがいたそうだ。

3) 凡人遁世の事: 10年ほど前羽前の尾花沢付近で、工夫が道に迷って山の奥に入り、谷底に3人の家族を発見した。小屋を作って住んでいたが衣服はなく裸同然であったという。工夫が聞くと亭主が世の中に大きな不満を抱いて遁世し山に入ったという。昔の戦国の武士なら藩主に不満があるなら、いくらでも反逆、切腹など報復手段はあったが、死なずに世の中に背くという方法は山寺に入って出離するという遁世の方法が一般的であった。何の後ろ盾のない弱い庶民が社会に居られない理由がある場合は、死ぬか山人になる事であった。いわば原始生活に戻ることはかなり難しいことであるが、この世の執着が強い若い人たちが、突如として山野に紛れ込むで消息不明になることは多かった。仙人、山法師ほどの余裕もない生活のぎりぎりの線で生きているのである。

4) まれに再び山より還る者ある事: 筆者が新渡戸氏から聞いた話である。陸中二戸郡の深山で狩人(マタギ)が昼弁当を食っていると、人が出てきた。かれは元小学校教員だったそうであるが、ふと山に入りたくて家を飛び出しほとんど仙人になりかけていた。マタギの弁当を盗み食いして以来里心が付きとうとう出てきたそうである。このような話は山では往々にして多いと聞く。主要な因は精神異常にあった。マタギとはアイヌ語で猟師の事である。奥羽の山村には小さな部落を作って狩猟本位の生活をしている。秋田の八郎男の話も、大蛇になる前はマタギであったという。マタギは冬に山に入る熊を追い、肉を食って毛皮と熊胆を里にもっていって、コメに換えまた山に入る生活であった。平野に生活する農民にとって、マタギを異種族視していた。北秋田ではマタギの単語にはアイヌ語が多く存在する。しかしマタギがアイヌ人の末裔であったというわけではない。言語習慣は平地人と変わらず、近世では平地にも住むようになってその区別はなくなっていた。熊野荒野を始め霊山開基の口碑には漁師が案内をしたり、地を献上したという話が伝わる。

5) 女人の山に入る者多い事: 尾州小木村に、百姓の妻が産後に発狂して山に入って行方不明となり、18年後に戻って来たという話がある。裸形で腰に草の葉を纏っているだけだったという。この女も猟師に会って、野生生活を語った。明治の末ごろ、作州那岐山の麓日本平の広野の滝のあたりに山姫が出るというので評判になった。裸形で木こりの小屋を覗いているところを人夫に打ち殺された。この女は村の人間で発狂して家出をしたことが分かった。山に走り込んだという里の女が、しばしば産後の発狂であったことは案外重要なことである。古来日本の神社に従属した女性は大神の御子を産んだという物語が多い。キリスト教の処女受胎に似ている。江戸時代の初めの「雪窓夜話」には備前因幡の武士が岩窟の中で夜叉を捕獲したところ、村の老婆が言うに昔産婦ががにわかに発狂して鷲峰山に駆け込んだ者かも知れない。しかし100歳にもなろうという。殺さずにその女を山に追い返した。もう一つの話は陸中南閉伊郡付馬牛村の山中で、30歳ぐらいの女が裸形でうろついているところを発見された。わっぱという入れ物に虫を入れて食べていたという。遠野の警察で取り調べをしているうち女は次第に記憶を取り戻し、和賀郡小山田村のもので7年前に産後に家出をして山に入ったそうである。親が引き取りに来て村ではたいそう評判となった。

6) 山の神に嫁入りすという事: 羽後の田代岳に駆けこんだ北秋田の娘は、以前から山の神のところにお嫁に行くのだ言っていたそうである。山の中の狂女の中には、こういった錯覚を起こして山に入る者が多かったそうである。案外竜婚蛇婚の類の話にはこうした原因が考えられないことはない。上州榛名山湖に入水した奥方の話、美濃の夜叉ヶ池の夜叉御前の話は、古い信仰の影響か神話というものの成り行きかか不思議な癖であった。我国の狐や狸に憑かれて奇異な行動をするのは精神病の兆候であろう。猿の婿入りという昔話がある。娘が猿に誘われて山の中に入るが、才知をもって相手を自滅させ、家に戻ってくる話で、魔界征服譚である。龍蛇退治の話も同系統の話である。大和の三輪の苧環の糸、豊後の大神氏の花の木の少女の話は全国に普及している。元は単純な命令によって服従して、恐ろしい紙の妻になることに甘んじたものの、これから遁れる智恵を持った娘の話である。それには父親の約束というという婚姻慣習の沿革もあるが、人と山との縁組を嫌う念が生じてきたのは日本近世の黎明である。

7) 町にも不思議なる迷子ありし事: 子供の迷子がただの迷子ならその日の内に消息は判明するが、どうしても見つからぬとなると神隠しとなる(いまでは変質者による誘拐か、殺人の疑いで警察が動く)。昔はカ神隠しと判断して、神に子供の返却をお願いする村をあげての騒動となる。神隠しをする神は、天狗が疑われ、狐の悪戯も疑われた。子供が神隠しに遭う季節は旧4月の麦刈りと決まっていた。「高麦の頃」大人が農作業に忙しい時分が一案危ない時期であった。福知山では夜かくれんぼをすると鬼につれて行かれるという。他の地方では狸狐といい、隠し婆さん、子取り尼ともいう。子供殺しは取り上げ婆のなす仕業で血取り、脂取りともいう。しかしこの風伝が伝統的不安で勘違いであることが分かって来た。秩父地方では子供が行方不明になることを、隠れ座頭が隠れ里につれて行かれたという。隠れ座頭は奥羽関東では妖怪と信じられていた。子取り(誘拐)の職業人を「ヤドウカイ」とか、「高野聖」と言った。村には「高野聖に宿貸すな、娘とられて恥かくな」という諺がある。これらへの恐怖が時代を経てなくなって、新しい妖怪になったと考えられる。

8) 今も少年の往々にして神に隠さるる事: 野山の村邑には神隠しが頻繁で、約半数は永久に帰ってこなかった。発見された例もあるが、十数年まえ伊豆の松崎で3日後山の中腹で発見されたが捜索隊が通過した後の事である。上総の東金の村の話では2,3日後山の中でしゃがんでいるところを発見されたが、それから長い間は抜け殻のように過していたという。明治40年(1905年)愛知県北設楽郡段嶺村の10歳の少年が神送りの日にいなくなった。そうして村中の大騒ぎになったが、母屋の天井にドスンという音がしたので見に行くと少年が倒れていたそうだ。放心状態の少年に話を聞くと、いつの間にかお宮の杉の樹の下に立っていた。誰かに連れられてあちこちの家に行くとお餅をご馳走になったということである。祭りの行事そのものの情景で、少年は神につれられて門口で供物を戴いたようである。少年の夢のような話である。神隠しから帰還する話は、明治10年ごろ石川県金沢市浅野町の話や明治初めごろの紀州西牟婁郡三栖の話、大正15年遠州相良の話が紹介されている。

9) 神隠しに遭いやすき気質あるかと思う事: 異常心理学者のいう神隠しに遭う子供には何か他の子どもとは違う気質がありそうだという説を取り上げている。余談のように柳田氏は自分もそのような子供だったと幼少時の経験談を書いている。神経過敏で想像力が人一倍高い性質は一時性の脳疾患か、体質か遺伝などはこれを誘引するのであろう。突然驚くべき発言をする特徴は古い宗教に利用され「因童よりわらわ」と言って神託とした。周りを囲んで異様心理状態に高めてゆく方法は、今の「かあごめかごめ」遊びがその名残である。

10) 小児の言によって幽界を知らんとせし事: 神隠しにあった子供のいうことは大概要領を得ないものだが、その言葉の切れ切れから意味ありげに解釈して、神秘世界の消息をえようとするのが 我が民の古い習慣であった。本人はというと成人してつまらぬ人間になっているのが常であったので、世間は「天狗のカゲマ」と馬鹿にした。この連中の見聞録は近世になって、「神童寅吉物語」は平田流の神道の怪しげな話であった。神道が幅を利かさぬ時代には、見てきた世界は仏法の浄土や地獄であった。「阿波国不朽物語」がそれである。「黒甜瑣語」に天狗のカゲマとなって各所につれて行かれる話である。神童寅吉こと高山嘉津間は7歳のとき、上野の薬売りの老人に連れられて、常陸の岩間山を本拠とする天狗社会に入ったという。修験道に近かったが神道学者はこれを神道世界に解釈した。紀州の幸安の神隠し、名古屋の秋葉大権現の神異は単に鬼術横行の原因をなしただけであった。

11) 仙人出現の理由を研究すべき事: 嘘と幻のさかいはいつも不分明で、本人もあやふやな記憶を何度も語っているうちに自分の骨肉となる。室町時代の中頃、若狭の国から自称800歳と称する八百比丘尼が京に出て、やたら義経最期のことを詳しく語ったということや、常陸房海尊という仙人のことは柳田氏の「東北文化の研究」論にくわしく書いている。八百比丘尼なる者がいたことは他の文献や日記に書かれているので疑うことはできないが、当時の平家物語や義経記が普及したことが背景にあった。常陸房海尊の長寿の話も陸前では信じる人が多かったという。この章は、柳田国男著「雪国の春」の「東北文学の研究」とほとんどかぶさっているので、省略する。

12) 大和尚に化けて廻国せし狸の事: 関東各地の名家にはに狸や狐の書いた書画というものが残っている。いわゆる狸和尚の話は、鈴木重光著「相州内郷村話」に詳しく報告されている。小仏峠を中心とした武州・相州の多くの村には、天明年間に貉が鎌倉建長寺の僧に化けて、書いて残したという書画が分布している。そしてこの僧(貉)が狗にかみ殺されたと伝える場所が、書の数よりも多い。静岡県安倍郡志には、大里村下島の名家に貉の遺したという書がある。信州下伊那郡泰阜村温田にも絵が残っている。狐狸の大多数は諸国旅行する際に、武士や商人には化けずにもっぱら使僧になっているのが特徴である。狐狸和尚は人には害を与えず、三河の長篠のおとら狐のような凶暴性は全くない。

13) 神隠しに奇異なる約束ありし事: 神隠しにあってから戻った人の話は、不可思議な運命と悲しむべき終末を考える材料である。社会心理学という勃興期の学問に照らして考えてみよう。奇異なる約束という言葉は、奇妙な約束事(共通点)という意味である。第一に信州では、天狗によって山に連れていかれた者は、跡に履物が正しくそろえてあることである。身投げをする人が履物を崖の上に並べてるという癖があるのと同じである。予め自分の運命を知っているかのような仕草であり、拉致される人間の取り乱した様は見当たらない。村人の捜索にも一定の決まりがあって、2,3日探して見つからぬ場合始めて神隠しと推断して方策を講じる。7日過ぎても見つからぬ場合もはや帰らぬものとして諦める。八王子の近くに「呼ばわり山」があった。探索の仕方も一定の順路というのがあって、各戸総出で行列し葬式祭礼に近かったという。鉦太鼓をたたいて「太郎かやせ子かやせ」と合唱しながら、お囃子風であった。鉦太鼓の他には枡の底を叩いたり、紀州田辺地方では櫛の歯で枡の底を掻くように鳴らした。播磨の印南郡では松明をともして金盥などを叩いて「オラバオオラバオ」と呼んだ。食器を叩くということは食べ物を与えるという合図であって、この神隠しにあった小さな神を招き降ろすと意味がある。神隠しに遭うのは子供ばかりではなく、成人の男女の場合もあった。戻ってくる者はわずかで、男の場合は駆け落ち・出奔として処理した。

14) ことに若き女のしばしば隠されし事: 岩手県盛岡で30年前に亭主が行商に出ていない夕方、女房が表に立っているのを町の人が見て心配したが、案の定その晩からいなくなった。岩手山の網盛温泉で見かけたが最後、それっきりであった。雫石という村でも農家の娘が嫁入りの日馬の背から忽然といなくなった。数か月後の夜酒を買いに来た娘があったが、捕まえることはできなかったという。上閉伊郡鱒澤村で村の娘がいなくなり、あきらめた頃、田に立っている娘を見たが荒らしく逃げ去ったという。三戸郡櫛引村では大嵐の吹く日には田三郎の娘が帰ってくるという伝説があった。釜石にも似たような話がある。今から200年余前、伊豆田方郡田中村の百姓の娘が17歳でいなくなった。母親の33回忌の日、還ってきて家の前に立ったが、声をかけると逃げ去った。その後も天城山でよく見かけたという。

15) 生きているかと思う場合多かりし事: 若い女が山に入って戻ってこない事象は、精神錯乱(狂女)なのか、奪略者の存在があったかどうか、畏怖に似た迷信ないしは誤解なのか、明確に線を引けない。中世以降天狗がさらうという風説が多いが、もっと昔は今昔物語の東大寺良弁僧正のように鷲にさらわれた話の方が多かった。時期的な境は鎌倉時代である。天狗や鬼の変遷や地方的な差異が決め手になる。鬼横行の時代は大江山の酒呑童子は都の美女をさらったが、天狗は僧であって女には手を出さなかったようだとなると、今度は山賊の首領が人さらいをするという具合に代わってゆく。天狗の評価は一定しない。これをグヒンと呼ぶ理由も不明で、大人山人といって山男と同一視する。山伏なのか護法といった仏寺に属する人なのか、山爺、仏法でいう鬼というのか、天狗というものに魔物の所業を一切押付けていた。とにかく人里離れた別世界にも娘は生きている可能性があるということは親の心を慰めた。不在者の生死はこの世の者にとって重大な問題となる。処理されない亡魂ほど危険なものはない。宗教はその鎮魂のためにあるのだから、死んでいるのか生きているのかでは残された者の対応がまるで異なる。

16) 深山の婚姻の事: 筆者が強く感心を持つ話に、陸中五葉山の娘の失踪事件がある。村の農家の娘が栗拾いに山に入ったまま帰らなかった。親は死んだものとあきらめて葬式もすましたが、2,3年後五葉山に入った猟師がこの娘に出会った。娘が言うには、恐ろし男にさらわれて今は一緒に住んでいる。逃げようにも隙がない。恐ろしく嫉妬が強く、子どもも何人か産んだが男は自分に似ていないとして殺すか棄てたようだ。猟師はこの娘を連れて帰ろうとしたが、人里近くなったところで大きな男が追いかけてきて娘を奪い返して山に逃げたそうである。これほど筋の通った話は幻覚ではないだろうと思うと筆者は述べている。三河の宝飯郡に狸が娘をさらって女房にしているという話がある。他にも猿の婿入り、龍蛇の婚姻、伊豆三宅島の馬の神など異種婚姻譚は多い。選ばれた人間の娘にはたいへんめいわくだろう。近年の例では、ほとんどが偶然の不幸になる掠奪婚で山につれて行かれた話である。

17) 鬼の子の里にも産まれし事: 親に似ぬ子は鬼子という俚諺がいまもってあり、忌まわしい事件がが発生する。江戸時代初めの書「徒然慰草」には「日本は愚かなる風俗ありて、歯の生えたる子を産みて、鬼の子と言いて殺しね」とある。英雄や偉人の生い立ちにはいかなる奇瑞を許しておきながら、ひとたび各自の家の生活には寸毫の異常も許さないらしい。胎内発生分化の神秘による異常児出産を危険視するのはいわば天下泰平の裏返しである。優れた能力を持つ子供を望みながら、農村部落の平和を乱すとしてこれを排斥したのである。(文部省の教育方針のようである) 鬼子の恐ろしい例としては、京都東山の鹿ケ谷村の話が「奇異雑談集」にある。三度流産し四度目の出産で生まれてすぐに3歳児のように歩きだし、目が三つあり、口は耳まで裂け、歯が上下二本づつ生えていた。父親はこれを槌でたたき殺し、真如堂の南の山際に埋めた。その翌日田舎者三人が崖の下で動くものを見て掘り返すと、鬼子が出てきた。三人は驚いてこれを鍬で撃ち殺したという。なんと二回も鬼子は打ち殺された。「越後名寄」によると、凶暴無頼の評ある酒呑童子や茨木童子も他人には狂暴であっても家族の中では善良な子で可愛がられていた申し子であった。「慶弔見聞録」に書かれた、元気な武勇に優れたはずれ者大鳥一兵衛も生まれた時がもう少し早ければ戦国の雄として活躍したであろうに思われる。人間の奇形にも不具と出来過ぎとがある。大男も片輪に数えるのは鎖国平和時代の習性である。いわゆる鬼子は神の子であることは、古事記にも八つか脛や長脛彦のような英雄であった。不寛容な時代のなせることであった。

18) 学問はいまだこの不思議を解釈し得ざる事: 明治30年ごろ愛媛県の山村のある家で、嫁が難産をした。その時腹の中から声がして「俺は鬼の子だ。殺さないなら出てやるが、殺すなら出ない」というので、 家の者は騙して藁の上でお産をさせ、出てきたところを殺したという。この近傍の村には鬼子の話は少なからずあり、とても信じられれない話であると筆者は述べている。山姥のオツクネというものを拾った家には裕福になったが、鬼子が生まれたという話が多い。屋久島では霊山の力が強力でしばしば鬼子を産むことがある。子供は隠して父方で養育したらしい。肥後の米良山では、働いている女が急に眠くなって、よく妊娠するそうである。これを蛇の所業だという人がいる。「作陽志」には美作苫田郡越畑の大平山に牛鬼という怪物がいるという。娘が睡眠中に男に会い妊娠して牛鬼のような子供を産んだ。父母はこれに憎んで殺した。昔は大切にいてきた地方神が、しだいに軽んじられ一とはなく妖怪の類になってしまったと言える。鉄が妖怪の力を滅することに使われた。山姥のオツクネというものを拾った家には裕福になったが鬼子も生まれたという話は、不可思議な童子に伴って財宝が授かる信仰である。道の怪物と称する「ウブメ産女」はお産で死んだ女性の怨恨が成ったと言われるが、児童に害を与えると誤解されている。産女は霊であって念仏で救ってやると霊は謝礼をするのである。産女に限らず道の神は女性で、喜怒怨念が気まぐれだが、幸運を得たということもある。恐ろしい危険を冒してまでなお金太郎のような子を欲しがる世の中が確かにあったことを忘れてしまったようだ。

19) 山の神を女性とする例多き事: 女房を山の神という理由としては、里神楽の山の神の舞で、杓子をもって舞うからだという説がある。越前湯尾峠の孫杓子を始め、いまでも小児安全の祈祷には杓子を持つことが多い。山の信仰と育児を結ぶ話が何かあるに違いない。山の神とは樹木岩にちなんでこれを祀り、近世神道では神の名を大山祇命、または木の花開耶姫命、または岩長姫命としている。樵・草刈・狩人の群れが信仰する話は粗野で秩序はない。猟師の社会は孤立しており互いに連絡はない。「東奥異聞」という書には陸中の上閉伊郡と、羽後の北秋田郡のマタギに、同じ内容の口伝が伝わっている。旅の妊婦が山中で産気づき、羽後のまたぎは穢れるとしてお産の介抱を断ったが、上閉伊郡のマタギはただの女性ではないと見抜き丁寧に小屋でお産をさせ世話をした。山神はこれを愛でて山の幸を約束したという。この話は日向の市房山椎葉の大河内の家に伝わる秘伝に書かれた内容と同じである。さらに「義経記」で弁慶が越前荒乳山の由来を語る段に、幸崎明神に助けられて、加賀の白山の神女宮がお産をなされた。その荒血が荒乳という命名話である。相州足柄山の山姥が阪田金時を産んで養育したという話も同じ系統である。山とお産を結ぶ話が多くある。神の使い狼の産見舞い、秩父の三峰山の御産立の神事、御犬岩の慣習が各地にある。日向の椎葉山の狩人の伝書に山神の御母の名を一神と記し、イチは神に仕える女性を意味し、イツキメ(齋女)としたのであろう。

20) 深山に小児を見るという事: 山神信仰は樵や猟人が拝んだほかに、農民も春は山の神が里に下りて来て田の神になる、秋が過ぎると再び山に換えると信じて、年に二度の祭りを営む、伊賀地方には鉤曳の神事があり、九州では「山わろ川わろ」の俗伝が伝わる。九州では「ミズシン、ガアラッパ」と呼び、山童となると考えられた。紀州の山では「カシャンボ」と呼んだ。河童の事で、阿蘇の山伏は河童予防の護符を発行した。河童の悪さは高が知れているので誰も脅威は感じなかった。豊後国では「せこ子」といい、一つ目小僧であった。大和吉野の山では「木の子」といった。秋田の早口沢には「鬼童」が住み、土佐の大池郷の山には「笑い男」がいたという。日本の狼は山の神であっても、子どもを取る話は聞くが、西欧のように子供を育てたという話は聞かない。

21) 山姥を妖怪なりとも考え難き事: 山姥山姫は里のものにはいくらかの美称をもって語られる。近世の記録と口承ははなはだ不正確で信用が置けない。女が失踪して山女の列に加わったのか、山で生まれた山女もいたという。熊野、土佐、遠野には猪を追って疾走する山女が目撃されたという話がある。中でも有名なのは橘南渓著「西遊記」に、日向飫肥郡の山で兎道弓で山女を射止めたという話である。この地は山人の出現が著しい地域である。他にも日向高岡郷小菅山で猟人が罠にかかった山女を発見し、身の上話をきいたところ、数百年ほどまえ戦乱の世を遁れて山に逃げて生活する家族の一人であったという。女は命乞いをするが猟人はこれを殺したが、猟人も病で死んだという。同じく肥後高山で猪罠にかかって死んだ山女の死骸を発見した。熊野でも身長が240cmもある山女を見たという。越後頚城郡姫川で6mもある山男の死骸が流れて来るを見たという。駿河田代川の奥仙俣で大男の後ろ姿を見た話や安倍郡大川村の藤代川で山男を鉄砲で撃ち殺したという話がある。これらはどうも大型の狒狒ではなかったか。大井川の深山に「山丈」という怪獣を見たという。

22) 山女多くは人を懐かしがる事: 深山の山女は、妙に人に近づこうとする気配がある。山に働く者の小屋は入口に莚を下げた程度で、山女が内を覗いたという話は多い。女が囲炉裏に座って暖を取ったという話もある。肥後の高山に近い湯前村の奥山の鉱山で働く工夫の小屋の屋根に小石がパラパラと打ち付ける音がするので、工夫が外に出ると背の高い女が三人裸形で現れ、何か言っているが分からないまま逃げ去ったという。東北では会津磐梯山にも山女ラシ話がある。洞窟の中に住み、沢蟹を火であぶって食う。これは「山わろ」と言って野猿の一種だという説もある。「山姥のかもじ」を磐梯山で発見したという。人間の炉の火を恋しがって出てくると思われる場合もある。因州知頭郡蘆沢山の小屋で、「山父」となずける大男(猿)が炉の火にあたっていたという。妙高山焼山黒姫山高嶺にも同じ山男の話がある。

23) 山男にも人に近づかんとする者ある事: 南九州の山男は無害で人懐こかったようだ。霧島連峰の山人は里の人の山小屋を訪問し、それほど恐れられたり嫌われたりしていなかった。日向南那珂郡で40年ほど前、山の中で不思議な老人に遭った。上半身裸で腰回りを覆う程度であった。笑いながらそばに寄ってくるので気味悪くなって里の者が逃げたという。越前丹生郡三方町杉谷で50年ほど前に、薪取りの者が2mを越える大男二人を見て逃げ帰ったという。「オオヒト」と思ったようだ。

24) 骨折り仕事に山男を雇いし事: 山中では人は必ずしも山人を畏れていなかった。時としてはその手助けを期待することもあったという。「周遊奇談」という書に、山男を頼んで木材を運ばせたという話がある。豊前中津の山奥では、背が高く力の強い太った山男に材木の運搬を頼むらしい。ほとんど裸でよく働くし、握り飯を材木1本に1個与える。里の者が握り飯をごまかすと恨みをいつまでも忘れない。薩摩地方の山わろも材木の運搬を手伝うそうである。山男は酒が好きで酒のために働くと「桃山人夜話」に出ている。遠州秋葉の白倉村の里人が山で負傷して歩けなくなった時、山男がで出てきてこれを家まで送った。謝礼のため里人が酒を出すと山男は嬉しそうに飲んで去ったという。

25) 米の飯をむやみに欲しがる事: 鈴木牧之の「北越雪譜」に、南魚沼郡池谷村の娘が一人で機織をしていると、猿の様な大男が来て内を覗いた。娘がまごまごしている間に大男は台所に入り飯櫃を欲しそうにした。娘は握り飯を3つほど作って与えるとうれしそうにして帰った。その後も折々やって来たそうである。南魚沼郡十日町でも峠で昼飯を食っていた人夫に大男が近づき、焼き飯をやると喜んで、荷物を背負って里まで送ってくれたそうである。飯を報酬として仕事を手伝うことを山人が憶えたようである。美濃信濃の「狗賓餅」、「御幣餅五兵衛餅」という串に刺した焼き飯を山の神に祀る祭礼もここから由来したのかもしれない。この焼き飯を供えて仕事をしないと山の神が悪いいたずらをする言い伝えがある。別名に「山小屋餅」、「黍餅」とも呼んだ。

26) 山男が町に出で来たりし事: 山男(山童)が非常に力が強かったこと、常人に手には負えなかったこと、足が達者で追跡できなかったこと、通例平野の人との交流を望まず避け隠れていたこと、野獣を捕まえて食べたことはよくいわれるが、むしろ平地の人に近づこうとしたことの方が不思議であると言える。「東部談叢」という書に、慶長10年駿府城下に山男らしいものが現れたことが記されている。寛永19年土佐豊水郷に「山みこと」が捕らえられ高知城内に連行された。その後山に返された。土地の人は彼らを山神の使者とか代表者と考ていたようだ。「視聴実記」に江戸初期に名古屋で異人を捕まえた記事がある。12,3歳の小坊主であったが力が強く、ようやく捕まえて尋問したが答えず、夜に縄を解いて逃亡したという。「あいつ小僧」といった。山男が町の市に通う話が「譚海」に記されている。相州箱根の山から小田原の城下に川魚を売って米に換えるのである。人はその跡を追ったがついて行けなかったという。人に害を与えるわけではない商いに降りて来るのだから、人の興味を引いたのであろう。岩手県大槌町でも市の立つ日、近在のものでないものが毎回米を買って帰った。町の人は山男だろうと噂をしていた。信州安曇野の新田の市、北済安曇では千国の市に暮れに限って山姥が出るという話があった。瓢をもって酒を買いに来るのであった。筑前甘木町の乙子市の12月晦日に山姥が買い物に来るという話が古くからあった。磐城亘理郡小鼓の旧家の家に物貰いの老人が来る。飯、酒を瓢箪にれてもらって帰る。別名「アサリ仙人」と呼んだが、跡を追ったが阿武隈川連峰で姿を見失ったという。こうした町の市にやってくる山人の生活は、ほとんど同化帰順の段階にあるとみられる。

27) 山人の通路の事: 木こりや猟師が野宿しなければならない時、深山の谷の行きどまりを選び、嶺が開けて背面に通じている場所は「魔所」として避ける。これは必ず夜中に怪事が起きるからという言い伝えがある。山男山女の通り道だからである。「中古著聞集」には、山男の集団が一晩で三州豊橋から浜名湖まで通過するのを見たという記述がある。それほど強健な足をもって夜道を駆ける習性を持つのである。菅江真澄著「遊覧記」には北秋田郡黒滝の山で「山鬼の道」を避ける話がある。「木曽駒ヶ岳後一覧記」には山尾根先は天狗の通路で夜は避けることという決まりがある。つまり通り抜けができる谷は天狗の通路だからである。逆に人が切り開いた新道は、山鬼らも利用しているようだ。山鬼は安芸の厳島では長く天狗護法の別名であった。秋田の山鬼は山中の異人の総称であった。その健脚を買って秋田の佐竹藩は飛脚として、秋田と江戸の連絡に使ったようである。

28) 三尺ばかりの大草鞋の事: 山男の草履を見たという話が伝わる。信州木曽路にはこの話が多い。出羽の荘内にも伝わる。「四隣譚叢」によると信州千曲川の川上村で山姥の沓の話を信じる者がある。長さ1mくらいの草鞋だそうだが、誇張妄誕というより幻覚であったというべきだろう。沓掛の習俗は各地にある。浅草仁王門の格子に草鞋の片足をぶら下げた行為や、登山のわらじを脱いでゆくことや、行路安全祈願に草鞋を献上することもある。大きな草鞋を置いてゆく動機の第1は明白に魔よけの意味がある。第2に世人を威嚇する目的と考えられないことはない。深山の中で特に不思議の多い部分を魔所とか霊地とよび、あえて犯さない決まりがあり、結果的に原住民の保護ということも考えられた。予知せざる危難はことごとく自らを慎むべき理由とした山民の信仰であった。各地の資料に、見たという程度の話が信じられている。「白川風土記」には福島県西白川郡西郷に「伐り木坊」、「小豆磨」という怪が伝えられている。木が切り倒される音や小豆を磨く音が聞こえたという。「笈埃随筆」に「天狗礫」という小石を屋根にばら撒く音が聞こえたという話がある。「北越奇談」には殺生を好む男が水鳥を捕まえに行って山男に投げ飛ばされたという話がある。妙高山の中頸城郡板倉村の百姓が山に硫黄を採集に行って、山小屋で山男に襲われ首をねじられて死んだという話がある。

29) 巨人の足跡を崇敬せし事: 山人の背丈が異常に高くて信用できないことは、おそらく見た人がいないからであろう。しかし日本には古くから足跡崇拝の国であった。偉人・高僧が各地に足跡を残している。いわば山人思想の宗教化の先蹤があった。我国の神話をみると、国土平定という大事業を太古の巨神の功績にしている。大人伝説が残る話は多い。陸奥吾妻山、上野黒竜不動寺、高田、飛騨の山など数えだすと切りがない。雪の上に大きな足跡を見たという話も多い。「常陸国風土記」には大櫛岡の「ダイダラボウ」伝説がとくに有名である。「播磨国風土記」にも巨人の足跡の沼が記されている。大人伝説は中国地方に最も多く、四国紀州がこれに次ぎ、各国数十から百を数える。ダイダラボウは「代田」になり、巨人伝説は悉く土木工事に関連し、新田開発、水利事業のおもかげを伝えるものである。今でいうと巨大ブルドーザーを意味している。

30) これは日本文化の未解決の問題なる事: 柳田氏はこの本の目論見を「最初自分が企てていたことは、山近くに住む人々の宗教生活には、意外と現実の影響が強かったことを実証することであったが、残念ながら資料が十分でない」という。ほぼ確実な考えは中世以降の天狗思想の進化には、著しく山人に関する経験が作用していることであるという。山人の形相や姿が天狗そっくりに描かれているからである。天狗恐れるに足らずという考えは、詐謀をもってすればこれを征服できるという話が各地に伝わっています。こうして各地の山鬼(天狗)や土地神は征服されていったことと関連しています。この山人となずける島国の先住民はほとんど永遠に奪い去られた。山の人生の不安、時折発現する彼らの憤激、粗暴な乱暴と誘拐の恐れなども、幾分解釈も可能となります。畢竟はこの民族の歴史がそうせしめたと言えます。数ある村里の住民が、特別に山人と懇意にし往来があったという事にも注目しなければならない。天狗が仏法の守護者となった以外にも、山人の訪問を受けた村人は礼を尽くして迎え、災害を予知し愁いや迷いを抱く里人に信仰心を抱かせたのも事実である。有名な話には加賀の松任の餅屋がある。特別の交際を餅をもって始まった。農作業の援助の報酬が餅であった。半面、鬼婆・天邪鬼はこの地方ではみな「山かか」の所業になっている。東北閉伊郡の六角牛村では、里人が山に入ってマダの木の皮を剥いでいるとお大男の山人がこの作業を手伝って餅を得たという話がある。津軽鬼沢村の木こりが山人と遊び友達になり、薪集めや畑の開墾を手伝ってもらったという話がある。この大男の弱点は5月の節句の菖蒲と節分の豆まきだそうだ。大男の遺していった蓑笠や鍬があるという。また近世に野州(栃木県)鹿沼の古峰原のように信仰の中心もできたのである。山人が相撲が好きで、河童と同じく里人に相撲を挑むのである。土佐ではシバテンと呼ぶ。どうしてこんな相撲を介する交際が始まったのかは不明であるが、朝廷の相撲召し合わせは7月の年中行事になっていることに関係し、何時の頃から民間の風習を採用して国技となったようだ。力の強い家系は連綿と続き村人の尊敬と信仰を生んだ。義経が修練した鞍馬の天狗もこのような神人の系統にあったようだ。山人はいまや新宗教の前に輝きをうしない、山麓の妖怪となりはてた。新国家の黎明期(神話時代)には、朝家の法制によって天神地祇を分かたれ、宗像・賀茂・八幡・熊野・春日・住吉・諏訪・白山・鹿島・香取のような全国組織ができ神人を各地に派遣してつぎつぎに若宮や今宮を増設した。荘園領主は中央から仏事・神社を勧請していった。それでも旧来の信仰を保持している者があった。信仰の基礎は自然の要求であって、残った信仰は山の神・荒野の神・海川の神に限られた。

31) 山人考: この論文は大正6年日本歴史地理学会大会での講演原稿である。現在の日本国民があまたの種族の混成であることは科学的に実証されたわけではないが、柳田氏は自身の論説の出発点とすると宣言します。神話時代、天つ神が日本列島に入った時、国内にはすでに幾多の先住民がいた。古代の史書はこれを国つ神と呼ぶ。日本書紀神代紀出雲の条に脚摩乳、大物主命、珍彦とあるのは国つ神である。古事記では猿田彦神も国つ神であった。神祇令には天神地祇に分かち、国つ神を区別した。延喜式では天神地祇ン区別さえなくなっていた。しかし延喜式の刑法には天津罪、国津罪と別け所有権問題は天津罪、人倫に関する問題は国津罪と呼んだ。日本紀には蝦夷には親子の区別さえないという。国津神の帰順しない部分を荒振神と呼んだ。ようやく完結となった東征西伐事業(国内統一事業)は要するに国津神同化のことであった。西国に比べ、東国は頑強に抵抗した。九州の先住民は土蜘蛛と呼ばれ、規模も小さく組織だった抵抗も少なかったようで容易に征服された。大和にも国樔(くず)という先住民がいた。彼ら先住民は帰順したのであって、皆殺しにあったわけではない。従来通りその地にとどまって異俗を保持していた。武力がないから反抗できないだけの事である。国の地方組織や国郡の境が決められたのは允恭天皇の時と言われる。山地と平野との境、すなわち国つ神の領土と天つ神の領土の先を決めた。天武天皇の吉野行幸の案内をしたのは、地元の国樔であった。また平野神社んの祭りに出仕したのも山人である。平安時代天皇家の葬儀を担当したのは八瀬の山人であった。朝廷の重要行事に山人が出仕するのは山から神霊を御降させるため欠くべからざる神事であったからだろう。上古の国つ神(山人)はさらに二つに別れ、大半は里に下りて常民(農耕民)となり、残りは山深く入り山人と呼ばれた。後世仙人をヤマビトと読ませた。山男・山女、山童・山姫、山丈・山姥を総括して山人と呼ぼう。まず中世の鬼に注目すると、オニに鬼の漢字をあてたので「今昔物語」の鬼は人の形をしていなかったり、妖怪変化の感があるが、別に山中の鬼は討伐の対象であった。酒呑童子や鈴鹿山の鬼や悪路王大竹丸赤頭、吉備津の塵輪も三穂太郎も凶暴な種族で、修験者の祈祷では釈服しなかったので討伐対象になった。九州日田の大蔵氏、山城八瀬の「ゲラ」などは山鬼の末だという説があります。安芸宮島の山鬼は護法天狗のジャンルであった。大和吉野大峰山の五鬼は山登りの先達を世襲する五家であった。すなわち五人の山伏、役行者の家であろう。相州箱根三州鳳来寺、近江伊吹山、上州榛名山、出羽羽黒、紀州の熊野、加賀の白山の開山の祖は山人ではなかったろうか。彼らは奈良仏教(大乗仏教)とは系統が異なり、南方仏教(小乗仏教)ではないかという説があります。山伏道も古くは教義も内容も不明で、役行者に至っては仏教であったかどうかも疑わしい。土佐では高知城市に異人が出現したのを、「山みこ」と呼んで山神扱いをして山へ返したという。山の神の信仰も維新以来神祇官系統の考えに基づいて大きな変化を受けた。村人が山神を祀るのは、採樵と開墾の障碍鳴き祈るためである。道に馬頭観音や庚申塚をたてるのと同じである。山人にどのような害があったかといえば、遭遇してびっくりして気絶したぐらいの事である。天狗を山人と称するのは、天狗の容貌服装のみならずその習性感情から行動まで、仏法の一派と認めている修験山伏と酷似するからである。近世以降山の神の信仰はすっかり変貌し、今や民間の迷信の断片から想像する以外に手はないのです。山人すなわち日本尾原住民はもはや絶滅したようである。本文の序に書いたように、先住民を絶滅に導いた6つの過程とは、@帰順・朝貢に伴う同化、A土蜘蛛殺害による根絶やし、B飢餓・過疎から自然的な子孫断絶、C信仰の流れのなかで農耕社会に組み込まれた、D長い歳月の間に土着・混淆した、Eなお山の中を漂泊する生活を続け、交渉はあったがある時代から絶滅した。という論考である。第6番目の旧状維持者(今なお山中を漂泊するもの)がある時代までは存在したということです。その痕跡を民話・伝承・口承・文献に求めることが柳田氏の学究態度となっている。食塩は、服装は、交通は、買い物は、配偶者は、言語などまだわからない事ばかりである。


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