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文藝散歩 

柳田国男著 「日本の伝説」 
角川ソフィア文庫 (1969年6月)

「日本の昔話」姉妹編、少年少女向けの伝説の宝庫

この「日本の伝説」は、昭和4年(1929年)著者55歳の作品で、最初は「日本神話伝説集」という題であったが、昭和7年(1932年)に「日本の伝説」と改められた。著者は伝説と昔話はどう違うのかということを本書の「はしがき」に書いています。「昔話は動物のごとく、伝説は植物のようなものであります。昔話は根無し草にように方々を飛び歩くが、どこへ行っても同じ姿を見かけることができます。伝説はある一つの土地に根を生やして、そうして常に成長してゆくものです」という。植物にはそれを養って大きくする力が、この国の土と水と日の光の中にあるのですともいう。「歴史は農業のようなものです」ということは、伝説は場所と時間を必須の要素として必要とする。しかし場所と時間を異にすると、各々の伝説は全く異なったものかと言えばそうではない。同じとはいえないまでも、同じような話は形を変え、対象を変え、語彙を変えて変化しながら各地に存在する。本書はテーマとして、咳のおば様(20話)、驚き清水(15話)、大師講(34話)、片目の魚(46話)、機織り御前(24話)、お箸成長(26話)、行逢阪(5話)、袂石(35話)、山の背比べ(24話)、神いくさ(23話)、お地蔵さま(37話)の12のテーマを選んで、その変形譚を10−50ほど全国から収集した構成になっている〈総計290話)。しかもその話には一応文献(資料名)が記されている。「遠野物語」のように必ずしも聞き語りに根拠を置くのではなく、資料に目を通して書いたようである。資料と言ってもいろいろのものがあり、古事記、風土記、地方の地理誌、民俗研究者の雑誌「郷土研究」、各地の国(郡)志、神社誌、名勝案内絵図、随筆などなど多岐にわたる。別に資料に重みづけはなく、こんな話もありますよという感覚で取り上げている。「日本の伝説」は翌昭和5年に刊行された「日本の昔話」とともに、少年少女に向けて書かれたものです。絵本のように読み聞かせる本というよりは、もっと高学年向けの読んで理解し比較分類する能力を持った児童向けの本で、我々にとっても伝説研究の入門書として好適である。当時の民俗学では、民間信仰研究とあわせて伝説研究を重んじてきたようだ。柳田氏の初期の研究として、「後狩詞記」(1909年)、「石神問答」(1910年)、「遠野物語」(1910年)などがあった。どちらかというと民間信仰研究を中心とした研究であるが、伝説研究にもつながるものであった。雑誌「郷土研究」(1913年―1919年)では民間信仰とともに、伝説の問題を取り上げてきた。雑誌「民族」(1925年―1929年)でも、民間信仰とともに、伝説の問題を取り上げた。雑誌「民族」の廃刊後に「日本の伝説」が刊行された。この「日本の伝説」以降の著作においても、「女性と民間伝承」(1932年)、「一つ目小僧」(1934年)、「信州随筆」(1936年)、「妹の力」(1940年)は民間信仰との関連から伝説の問題にも及んでいる。それに対して「伝説」(1940年)と「木思石語」(1942年)は伝統の本質について切り込んでいる。「民間伝承論」(1938年)、「郷土生活の研究法」(1939年)などにより日本民俗学は体制が整い、民俗学を形、言葉、心象の3つに分けて、伝説は言葉と心象の中間に置いた。戦後「日本伝説名彙」(1950年)、「十三塚講(194年)、「資料としての伝説」(1952年)を著わして、その考えを進めた。しかし研究者の関心は必ずしも伝説の分野にとどまらず、伝説に関する多くの資料の集積に比例せず新しい考え方は生まれなかったという。だから本書「日本の伝説」は、伝説とは何かについてそれほど明確に答えているわけではない。柳田氏は「昔話は動物のごとく、伝説は植物のようなもの」と巧みな対比をいうが、グリムは「昔話は詩的であり、伝説は歴史的である」という。ドイツでいうメルヘン(昔話)とザーゲ(伝説)に相当するようである。柳田氏は「木思石語」において、昔話と伝説の相違を次の3つにまとめている。
@ 昔話は誰からも信用されないが、伝説はある程度まで信じられる。
A 昔話は時間場所を「昔あるところに・・・」で始めるが、伝説は何処か決まった場所と結びついている。
B 昔話は定式化されているが、伝説は決まった型はない。

最も重要なことは、伝説は信じられていることである。特定の場所、人物と結びついて歴史上の事象として信じられてる。だから個別の伝説研究では信仰との関係の方が、言語との関係よりも重視される。伝説の一は歴史と文芸の中間に求められる。「平家物語」はその典型であろう。文芸の方へ流れるとかなりの自由度が許容され、いわゆる血沸き肉躍る式の歪曲的表現も、まるで見てきたかのような真実観を持って語られる。「日本伝説名彙」(1950年)では、事実との結びつきから6つの部門に分類されている。@木(笠松、銭かけ松、矢立て杉、箸杉,蕨、葦・・)、A石・磐(子持ち石、夜泣き石、姥石・・)、B水(弘法水、機織り淵、橋、堰、水神・・)、C塚(糠塚、千人塚、十三塚・・)、D坂・峠・山(行逢坂、山の背比べ、長者やしき・・)、E祠堂(子安地蔵、鼻取り地蔵、泥掛け地蔵、薬師、観音。、不動・・)である。実はこの分類は本書「日本の伝説」の章別けにそのまま適用できる分類法である。では次の本書の内容に少し立ち入りながら、伝説の分類を試みてみよう。
第1章「咳(関)のおば様」では、境を守る姥神が、地獄の仏教観念を受け入れて三途の川の奪衣婆というものが広く知られており、同じように境を守る道祖神というものも広く知られており、「石神問答」を始め「赤子塚」などで論じられている。とくに姥神に限るなら「女性と民間伝承」に説かれているほかに、「老女化石譚」とか「念仏水由来」が「妹の力」に収められている。第2章「驚き清水」では、水のほとりの姥神が、念仏の信仰を引きつけて、念仏池の伝説を生み出した。この問題の引用資料として「女性と民間伝承」と「妹の力」を挙げなければならない。第3章「大師講の由来」では、姥神とともに児の神が現れて様々な奇瑞を示したが、ダイシという言葉のために高僧の働きとなった。弘法大師、太子井戸などの奇特は、「女性と民間伝承」、「伝説」、「木思石語」、「神樹篇」などにも取り上げられた。また「大師講」という行事については「年中行事覚書」の「二十三夜塔」でも論じられた。第4章「片目の魚」では、神に供えるための魚が、わざと片目をつぶしておかれたという問題については、「郷土研究」第4巻の「片目の魚」に記されているが、片目の神、神主、「一つ目小僧」にも説かれている。第5章「機織り御前」では、神に供なえるための布が清らかな水のほとりで若い娘によって織られるたのが、山姥や竜宮の乙姫の仕業だとされる。山姥のことは「山の人生」、竜宮の乙姫につては「桃太郎の誕生」所収の「海神少童」に昔話の方面から述べられている。機織り淵た機織り池は「伝説」にも取り上げられた。第6章「お箸成長」から水の問題から離れることになる。神を迎え奉る為に、地面に木の枝をさすか、あるいは新しいお箸をさしたのが次第に成長すると信じられた。神の依代の木が様々な伝説を伴なうことは、「信州随筆」や「新樹篇」に示される。特に杖の成長した話は「神樹篇」にくわしい。第7章「行逢坂」では、国や村の境が、本は神が定めたと考えられていた。境のしるしに矢立ての木というものがあって、「矢立て杉の話」に取り上げられている。さらに詳しく論じたのが「矢立ての木」や「伝説と習俗」、「信州随筆:」、「木思石語」に収められている。第8章「袂石」については、神のこもる石がやはり成長すると信じられた。神の力がことさら石に現れるのは、「石神問答」と関係するのであるが、「生石伝説」に説かれてる。第9章「山の背比べ」では、山どうしが争ったという伝説が、その山をあがめる気持ちになったという。山の神秘につては「山の人生」で語られており、山の信仰については「山宮考」に説かれている。なお橋のねたみは「一つ目小僧」所収の「橋姫」に取り上げられている。第10章「神いくさ」では、神どうしが仲が悪いとうのは、他の神の信仰を退けるからである。特に日光と赤城の争いは「神を助けた話」に詳しく描かれている。第11章「伝説と児童」(「お地蔵さん」)では、地蔵に関する伝説を引きながら、興味深い伝説が子供によって引き継がれてきたとういう。地蔵信仰の研究は「郷土研究」誌上に「地蔵の苗字」、「水引き地蔵」、「子安地蔵」「黒地蔵と白地蔵」などが論じられてきた。地蔵遊びについては、「子ども風土記」に取り上げられた。さらに道祖神との関係について「石押問答」を始め「赤子塚の話」にも説かれている。やはり道祖神にふれながら姥神に戻っている。柳田氏は「日本の伝説」において、いわば民間伝承の比較を通じて、民族文化の特質を知ろうととするものである。伝説はむやみに他の地には広がらないと見ているが、細かに調べるとかなりの多くの土地に同じような伝説が伝えられている。伝説の展開(変化)をたどってゆくと、民族信仰の問題に至るのではないかという方法論が見られる。「日本の伝説」という本には、子安姥神などの問題が中心である。もっと広い立場で伝説と信仰を見てゆかなければならないことは今日的課題である。

1) 咳のおば様

20の話を所収しています。なぜか東京の伝説から始まります。本所原庭の証顕寺に2尺ばかりのお婆さんの石像があって、子どもに咳が出るとこの像を拝むと治るという言伝えがあります。鬼みたいな怖い顔をして子供たちは「咳のおば様」と呼んでいます。築地の稲葉対馬守の屋敷に有名な「咳のおば様」の像と爺様の像があって、願かけに行く人は咳のおば様に豆や霰餅の炒りものと煎じ茶を供えます。咳のおば様はどうも道祖神と同じようです。そして全国の「咳のおば様」の話を紹介します。川越の広済寺でな「しわぶきばば」と呼びました。咳のおば様は別名「姥神」さんとも言います。または「子安様」とも呼びます。下総臼井では「おたつ様」という道端の神さん(道祖神)でした。麦こがしとお茶をあげて、咳の治ることを祈りました。箱根から熱海に行く路には恐ろしい顔をした男女の像があって、閻魔様と三途川の婆様と呼んでいました。姥神はたいてい水の近くに祭ってあります。静岡市東海道筋に「姥ガ池」があります。池の傍で「姥かいない」というと池の水が騒ぐという話があります。子供の命を守る姥という意味があるそうです。伝説はもともとこうした風に聞くたびに話の内容が少しづつ変化します。地蔵様ー道祖神ー姥神らはみんな子供にやさしい神さんでありました。京都から近江へ越える逢坂の関には関寺小町(小野小町)が年を取ってから住んでいたと言われます。そこから関の姥神といわれ、発音から咳の姥神になったという説があります。仏教の教えから三途河の婆様がお寺に祭られるようになり、怖い顔をした「奪衣婆」と呼びました。酒が好きで甘酒婆ともいわれた。爺様を祀らなくなり、顔は益々怖くなったと言います。越後長岡の長福寺の十王堂の閻魔様はコメの炒り粉を供えて祈ると咳が止まるといいました。閻魔と地蔵は同じ神の二つの顔という人もいます。婆様に爺様が潜り込みましたが、拝む人は女性(母親)でしたので、自然と子安姥神の方に向かうのです。

2) 驚き清水

15の話を所収しています。乳母が主人の子を水の中に落として、自分も申し訳なくて身を投げた話は駿河の「姥ヶ池」の他にもたくさんあります。越後蓮華寺村の姥ヶ井戸は人が大きな声で「おば」というと水が泡立つといいます。死んだ人の霊が水の中に留まっていると考えたのでしょう。人の名前を冠した「おまんヶ井」もあります。上州伊勢崎には「阿満ヶ池」があります。有馬温泉には悪口をいうと湯が沸きだすという「後妻湯」や「妬みの湯」があります。熱海には、甲斐がないを意味する「かいない」と叫ぶと湯が騒ぐ「平左衛門湯」があります。また那須には「教伝かいない」というと湯が沸きだす「教伝地獄」があります。京都神足には念仏を唱えるとすぐに湧き出す「念仏池」があります。同じような念仏池は各地にあり、岐阜には「伊自良の念仏池」があります。陸前岩出山うとう坂には念仏を唱えると水が湧き出なくなる池があります。「驚きの清水」と呼んでいます。豊後風土記の玖倍利湯の井という温泉は、人が多きな声を出すと湯が6メートルも吹き上がる(間欠泉)という話があります。手を叩くと水が流れ始める「拍子水」が豊後姫島にあります。水の色が赤錆色なので「鉄漿水」とも呼んでいます。常陸の青柳に泉の杜という神社があってそこの清水は人馬の声を聴くと湧き上がるといいます。水は無くてはならぬものでしゃが、井戸掘り技術が進んでいなかった時代には水が湧くことは人々の願望でした。だからこのような伝説が生まれやすかったといえます。平安時代の行脚の僧(踊る宗教)空也上人は井戸堀職人のように多くの村に井戸を残してゆきました。「阿弥陀の井」というのも念仏と水の結合です。

3) 大師講の由来

34の話を所収しています。空也上人以上にたくさんの村に泉や池を見つけたり作った御大師様という人がいます。弘法大師のことです。高野山の太子堂では毎月21日の衣替えで太子様の衣の裾を見ると、布地が切れたり泥が着いていたという伝説があります。こういう同じパターンの話は全国津々浦々にありますので、代表例だけにします。そしてそこにはいつも関の姥様が付いて回ります。石川県能美郡には弘法清水がたくさんあって、なかでも粟津村井口の弘法池は有名です。この村には池がなく水不足でに困っていたのですが、弘法様が水を所望して村民が惜しげなく与えますと、お礼に弘法様は杖を大地に突き刺すと清水が流れ出したという。こういう話は数限りなくあるが、逆に太子様に水を与えなかったため酷い仕返しを受けた話が若狭の関屋川原にあります。高野山がある紀伊の国には大師の名のつく池は本当に無数にあります。四国は49か所巡礼で有名ですが、弘法大師にゆかりのある話は各地にあります。ここで太子様を離れても、聖徳太子、有馬温泉の豊臣秀吉、尾張の日本武尊、関東の源氏の頭領八幡太郎義家、越後の親鸞上人、京都の天武天皇なども水を掘り当てた人になっています。

4) 片目の魚

46の話を所収しています。一つ目の魚なんてお目にかかったことはありませんが、あり得ないことを起すのが神仏の力と言いたのでしょう。そういう魚の話があるのは大抵お寺や神社の近くの池と相場が決まっています。東京高井戸の医王寺薬師には、目の悪い人がいると前の放生池に魚を1匹放します。するとそのさkなはいつの間にか目を一つなくして、その人の目は治っているそうです。上州曾木の高垣明神は一つ目鰻であった。甲府武田城址の堀のどじょうは片目であったという。これは山本勘助が片目であったことからきているようです。越後長岡の神田町の三盃池では魚亀はすべて片目で、食べると毒があるという。これは殺生を禁じるための脅かしです。このような話は全国にあります。摂津の昆陽池の片目鮒は行基菩薩と関係ある話です。今にも死にそうな病人が道路の脇寝ていて、通りがかった行基に魚を食べさせてくれと願いました。行基は魚を料理して与えると仏の姿にかわって有馬の方へ飛んでいったという話です。残った魚の残片を池に投げ入れると本の魚に戻った。この池の魚は行波明神となって池之端に祭ったということです。鎌倉権五郎景政が線上で目を傷つけ、磐梯矢野目村の泉で目を洗うと、そのためこの池に住む魚はすべて片目になったという。「片目清水」と呼んだ。景政が傷ついた目を洗う話は数多くある。秋田金沢や、山形最上の麓に景政堂があり同様な話が伝わっている。信州上郷村の雲彩寺の片目のイモリがいたとう池は景政が目を洗ったという「恨みの池」と呼ばれている。越後青柳村の青柳池には、水の神である大蛇が女の姿の化けて市中に出るという話があった安塚の片目の殿さま杢太がこの池の傍を歩いていて、美人の後を追って池に落ちて亡くなった。それ以来この池の魚は一つ目になった。蛇が片目という話も方々に残っています。佐渡金北山の谷で、昔順徳天皇が蛇を見て「こんな田舎でも蛇の目は二つあるのか」というと、蛇は恐れ入ってそれ以来、目が一つになったという話が残っている。石川県能美郡赤瀬のやす子は生来すが目であったのを恨んで身投げをした。それから大水が出て川下の村を襲ったという伝説があります。すがめで醜い女が男に棄てられてた恨みの話は、昔話がもとになって方々の地に伝わっています。ここ言う話は「一つ話」と言って、原型の話は何処へでも飛んで、または持ち込まれて多くの類似の話を作ったようです。こういう話を伝説としてほのぼの聞くのか、身障者差別の根源として聞くのかで天地の違いが生じるのであるが、柳田氏を社会学的に弱いと評価する、女性社会の問題をめぐる柄谷行人氏の指摘がある(「図書」2016年9月 岩波書店)。遠州では「天狗夜とぼし」と言って天狗が魚を捕りに来て眼だけを食べるという。沖縄では「きじむん」という山の神が魚の目を食べるそうである。日向の都万神社では片目の鮒がいるという。それは昔、木花開耶姫の神が池の岸で遊んでおいでになる時、玉の紐が水に落ちて鮒の片目を突いたため片目が潰れたそうである。この社では鮒を神様の親類と考えるようになった。大蛇が目を抜いて人に与えたという話は広く全国の昔話になっている。肥前の温泉嶽の付近の住む狩人の家に若い娘が嫁に来ました。本当は蛇であったのですが、お産を覗いてはいけないと言われ、不審に思って覗いてみると大蛇が生まれた子供を抱えていました。女はみられたのでここにいるわけにはゆかないが、子どもが泣く時には目玉を置いてゆくのでしゃぶらせてと言って山に逃げ帰りました。その大事にしていた目を聞きつけた殿さまに取られ、途方に暮れた狩人はまた山の沼に行き泣いていると、大蛇が出てきてもうひとつの目をくりぬいて与えました。そうして子供を育てていますとまた殿さまに目玉を取り上げられました。同じ山の沼に来て狩人と子供は身を投げて死のうとしたら、両目を失った大蛇がでてきてたいそう怒り、狩人を安全な場所に避難させてから、山が噴火し街を火山灰で埋め尽くしました。これが大蛇の仕返しでした。奥州では「一つまなぐ」といい、関東では「一つ目小僧」というお化けが想像されました。また神様が目をついて、それからその植物を飢えなくなったという伝説も数多くあります。阿波の粟田村の葛城神社では、あるえらい方が社の池で鮒をを釣るため馬でやってきましたが、馬が藤のつるに足を取られ、落馬しされた方が男竹で目をついて傷を負いました。それ以降池には鮒が住まず、藪には竹が生えず、馬を入れると祟りがあったという事です。美濃の太田の加茂県主神社ではススキを嫌い、松本宮淵の勢伊多賀神社では栗の木を忌み、信州小谷四箇莊では胡麻を避け、東上総の小高では大根を栽培しないし、鳥取伯耆国印賀村では竹を植えず、近江の笠縫天神村では麻を栽培しない、下野小中で黍を栽培しないといろいろな類似の話が残っています。鎮守様が隣村と石合戦をして目を傷つけたという話を子どもたちが伝えたところがあります。神様が片目であったためにその村の人には片目が多かったという話が伝わっています。三河の横山むらでは産土神の白鳥六社の御神体が片目でした。磐城の大森の庭渡神社の御本尊は地蔵様で美しかったのですが片目が少し小さかった。丹波の独鈷投げ山の観音様は片目でした。

5) 機織り御前

24の話を所収しています。越後魚沼郡中の島大木六村に、村長をしていた細矢の主人は代々「すがめ」でした。その由来が伝説となっています。あるとき先祖の弥右衛門が山に入って道に迷い巻機山に登ってしまいました。普通はこの深い山には誰も足を踏み入れたことはありません。そしてあるところで美しいお姫様が機を巻いているのを見ました。お姫様はここは人間が入るところではないが、負ぶって山を下してやるので、村に鎮守社を建てて祀るがいい、しかし私の顔を見てはいけないという。約束を違えて一度お姫様の顔を見ようとしたとき片目が潰れた。そして代々「すがめ」の当主となったという話です。このお姫様は巻機権現となって、この村の鎮守様になりました。この話は山姥、山姫伝説となっていろいろな派生した話を生むのだが、恐ろしい山姥は里の人には親切であったり、手伝いをしてくれることになります。山姥が子を育てるという話は足柄山の金太郎だけではありません。子供の遊び相手として凧揚げの時「山んぼ風おくれ」という地方があります。「こだま」というのも山姥に呼びかけることが始まりです。「あまんじゃく」という言葉はにくたらしい子供のことです山姥の事です。あまん、おまんも山姥のことです。夕焼け小焼けのことを「おまんが紅」といました。がその山姥はもとは水底で機を織る神の事であ¥した。備後(広島)の岡三淵村に恐ろしい淵があった。「岡三(おかみ)」とは大蛇の事で、大きな岩が立っていて「山姥の布晒し岩」と呼ばれた。布晒し岩は伯耆国の栗谷にもあります。遠州の秋葉の奥山では、3人の子どもを産んで、その子供も山の主になっていましたが、山姥は里近くに降りて水のほとりで機を織っていました。この泉を「機織りの井」と呼びました。秋葉の山の神は俗に「三尺坊さま」と呼んで、火災を防ぐ神でした。この話は箱根風祭村や大登山秋葉寺にもあります。機ー水―防災は家内の女の領域のことです。信州戸隠山の麓の裾花川に機織り石があります。ここで雨ごいをしていたようです。水の底から機織りの音が聞こえてくる話は、全国の川や沼に形を変えながら散らばっています。羽御の湯の白糸沢や飛騨の門和佐川の竜宮の淵に水の神様が機を織る話があります。若狭国吉山の麓の池の近くに機織り姫神社があります。近江国大原村の比夜叉池にには、水乞いの人柱となった乳母夜叉御前の霊は、比夜叉女水神となって信仰されています。上総の雄蛇の池では、機織りが気に食わないと言って姑にいじめられた娘が身を投げた伝説があります。いまでも雨の日には池の中から機織りの音がするそうです。海彦・山彦伝説の竜宮城訪問の話が紛れ込んだ機織り姫の話が、羽後子安の不動滝、陸中原台の淵に、また磐城岩代二本松塩沢村の機織御前として残っています。機織御前を地元の機織り業の祖として祀る地方は多いようです。能登の能登比売神社、野州の那須の機織り神社など津々浦々に存在します。

6) お箸成長

26の話を所収しています。お箸を地面にさしておいたらだんだん大きくなって大木になった問う話がまことしやかに方々に残っています。江戸向島の吾妻神社の相生の楠は、日本武尊が刺したものとされます。その木でお箸を作り食事をするとお産が軽いとか、疫病を遁れるといっています。浅草観音堂のいちょうは源頼朝がさしたものだといいます。武蔵国土呂の明神さまの大杉は、源義経がさしたと言われます。武蔵国入間の山口の御国の椿の木は新田義貞がさしたものと言われています。その近くの北野には新田義興がさしたと言われます。子の聖という上人がさしたといわれる飯森杉2本が外秩父の吾野にあります。東山梨の古屋敷村には日本武尊がさしたといわれるお箸杉があります。その近くの等々力村の万福寺には親鸞上人のお箸杉が2本あります。越後北蒲原の都婆の松は親鸞聖人がさしたものと言われています。陸中の横川目の笠松は親鸞の弟子がさしたものです。東上総の布施には源頼朝がさしたといわれる杉の木があります。安房の洲崎の養老寺や市原の平蔵村にも頼朝のお箸杉があります。越後では上杉謙信が諏訪神社戦勝祈願の際にさした青萱の穂先を記念して、7月27日を「青箸の日」としています。加賀の白山の麓の大道寺谷の峠には、泰澄大師のさしたと言われる日本杉があります。越前越智山で泰澄大師のさしたと言われる檜が2本あります。近江国犬上郡杉坂に天照大神が刺したとされる杉の木があります。難波玉造栗岡の稲荷神社に聖徳太子が物部守屋との戦いの戦勝祈願に、栗の木のお箸をさしたとされます。四国阿波の芝浦不動の神杉は弘法大師が岩石の倒壊を防ぐためにさしたものだそうです。弘法大師は池を作るだけでなく砂防工事までやったのですね。切りがないのでこの辺で止めましょう。

7) 行逢阪

5の話を所収しています。昔、境は神様が決めたと考える人もいた。その約束に境にはしるしとして木や、岩やお堂があった。大和の春日大社と伊勢の大神は話し合いの末、高見山の周辺の境を決めたとされています。でも春日様は自分の領分が狭いと争いになったが、境を決め直そうという事になった。双方から進んできてであったところを境界とする裁面とした。春日様は鹿にのって、伊勢大神様は新馬に乗ってやってくるので、春日様は負けないように世の明ける前に出発した。擦ると春日様は随分伊勢領に入ったところで伊勢大神に出会った。曽の場所を「めずらし峠」と呼んだ。伊勢大神はこれに不満で笹の葉を浮かべて石を投げて、葉と水面のたどり着く場所を境にしようと提案された。葉は伊勢の船戸山、水面は大和の杉谷村が境となった。石を「男石」といい、そこに茂っている榊の木は伊勢大神の馬に当てる鞭であった。同じ境決めの話は大和の春日様と紀国の熊野大神の場合にも適用された。熊野は烏に乗ってくるから春日様は世の明けぬうちに出発し、紀国の領地深く到達したので、熊野大神からクレームが入り、烏の一飛び分だけ後退することで話し合いがついた。これと同じ話は信州の諏訪大明神と越後の弥彦権現の争いとして描かれている。豊後と日向の境争いでは結局安全地帯というべきベルトには入らないという決着を見た。境界の土地の神様を同じ日の同じ場所でお祭りする話は方々にあります。朝鮮半島の38度線の板文店のようなものです。緊張を孕んだお祭りです。信州の雨宮の山王様と屋代の山王様は3月の申の日の申の時刻に、村の境界の橋の上で出会う祭りがあります。行き逢い祭りとか、行きあい橋という名も残っています。

8) 袂石

35の話を所収しています。備後の下村守村の太郎兵衛が安芸の宮島をおまい利して、帰りの船で袂に石ころが入っていることに気が付き、誰かの悪戯だろうと思って海に捨てました。ところが翌朝袂に石がありました。不思議だと思って近所のひとに相談すると、それは神様から頂いたものだから大切い祀らなければならいといわれ、小さな祠を立て厳島大明神と唱えてあがめていました。その石はだんだん大きくなっていったということです。信州伊那郡の小野川には富士山に登って拾った石が大きく成長した話があります。富士石の話は各地にあります。信州龍江村には、天竜川の河原で拾った石が大きくなった話があります。熊野の大井谷村でも谷川の石が大きくなり、祠を建てて祀ったそうです。伊勢の山田の舟江まちでも「白太夫の袂石」という大きな石があります。菅原道真が九州に流された時に見送った渡会春彦が晩秋で拾った石だそうです。その石の傍には菅原社がある。土佐の津大村と伊予の目黒村の境の山に「おんじの袂石」という巨石があります。曽我の十郎五郎兄弟の母が持ってきた石だそうです。ここは曽我五郎にまつわる遺跡が多い地方です。肥後の滑石村には滑石という青黒い石が海岸にありました。この石は神功皇后が朝鮮征伐のおりに袂に入れた石だそうです。九州の海岸伊には神功皇后の「お産石」の伝説が各地に存在します。筑前深江の子負原もその一つです。下総の因幡沼の近く大田村に人が熊野参りの時わらじに挟まった小石の形が奇妙なので持ち帰って石神様の祠を建てました。伊勢神宮から持ち帰った石が大きくなったので、社を建て伊勢御前として崇めた話が筑後大石村にあります。村では安産の願掛けの石としていました。小さく生んで大きく育てる式の願い事だったのでしょうか。熊野から持ち帰っち石には種子島の熊野権現、羽前中島村の熊野神社にもあります。京都の吉田神社から持ち帰った石の話は土佐の香美郡の山北社にあります。宇佐八幡神社か持ち帰った石が肥後島崎の石神神社にあります。こは有名な神社の威光のおすそ分けになります。分社ともいえます。小さな石がだんだん大きくなる度に4回も社を建て替えた話が、豊前の元松村の丹波大明神に伝えられています。信州佐久の安養寺には鎌倉石の話が伝わってます。魚を捕る網の中にあった小石が大きく成長する話が阿波伊島にあり、蛭子大明神として祀られています。こういう話は南方の鹿児島や沖縄の海岸地方に多くあったようです。薩摩揖宿郡山川村の若宮八幡神社もその一例です。由緒や神の名が分からない場合でも石の神として祀られることがあります。備後塩原の石神社、常陸大和田村の主石大明神、羽後の仙北旭滝の不動尊の「おがり石」、備後の「赤子石」、飛騨瀬戸村の「ばい岩」、播州の「寸倍石」、加古郡の「投げ石」などは石の霊性信仰です。

9) 山の背比べ

24の話を所収しています。石、岩や山が大きくなろうとして神様のお怒りを招いて頭の部分を割られるお話があります。自然現象としては火山の爆発によって山の上の部分が吹っ飛ぶことです。日本の山で富士山を除いて完全な形で遺っている山はむしろ少ない。阿蘇山、那須岳、雲仙岳、浅間山などは上半分がありません。常陸の石名坂の峠の石は毎日大きくなろうとするので、静神社の明神がこれを憎んで鉄の靴を履いて蹴飛ばした。頭が二つに割れ、一つは河原子海岸に落ち、一つは石神村に落ちたとされます。残った岩は「雷神石」と呼んでいます。高さは15mほどです。陸中(岩手県)小山田村の「はたや」という社は、神様が蹴とばした石の残片です。南会津の「森戸村の立岩」は破壊された岩のかけらを逆さに置いたものだそうです。奥州津軽の岩木山は美しい形で「津軽富士」とよばれていますが、これはある夜大きくなろうとしているところを婆さんに見つかって成長を止めたせいだと言われています。欲望もほどほどにすると人生を全うできる教訓のような話です。同じ話は磐城の絹谷村の絹谷富士も成長を自主的に止めたそうです。駿河の足高山は富士山の前にある大きな山ですが、富士山と背比べをしたくてやって来たのですが、足柄山が目障りだと言って足で久飛ばしたので頭がありません。伯耆国の大山の後ろにある韓山は大山と背比べをするために韓国からやって来たのですが、大山は腹を立て韓山の頭を蹴飛ばしました。九州では阿蘇山の東南に猫岳という山があります。阿蘇山と背比べをしようとしたのですが、阿蘇山は怒って竹の杖で頭を叩いたので、頭が壊れて凸凹だらけになったということです。山が背比べをしたという伝説は随分広く行われています。近江国では伊吹山と浅井の岡が背比べをしました。浅井の岡は伊吹山多々美彦の姪にあたります。多々美彦は怒って剣を抜いて浅井姫の首を切り落としました。それが琵琶湖の竹生島となったという。大和では天香久山と耳成山の喧嘩は有名ですが、岩手山と早池峰山を手前の小さなj姫神山の取り合いをしました。青森の東嶽は八甲田山と喧嘩をして切られて上の部分が岩木山まで飛んだという話があります。岩木山のこぶがそれだという話です。山だけでなく神や人もいろいろ競い合って喧嘩をしてきました。阿波の海部川の轟の滝の前で那智の滝の話をすることは禁物です。滝の明神が怒って神の祟りがあると言います。薩摩の開聞岳のふもとに池田という美しい火山湖がありますこの池田湖のまえで海岸や海のお話をすることは禁止です。海と較べられるのを嫌っていましたので、風や波が立って神様はいらだつのでした。肥後の飯田山は金峰山と背比べから喧嘩になったそうです。埒があかないので、二つの山に樋を掛けどちらに水が流れるかということになり、水は飯田やまにながれ水たまりが出来ました。これが今ある池の事だそうです。全く同じ話が尾張小富士と本宮山の争いになっています。また加賀の白山と富士山の背比べになっています。水は加賀の方に流れ始めたのですが、加賀の人が樋の下にわらじ1枚を置いて水平を保って引き分けにしました。それ以降白山に登る人は、片方のわらじを頂上においてゆく習わしになったそうです。全く同じ話が越中の立山と加賀の白山の背比べにもあります。山にわらじを残してくる風習は方々で行われています。有名な山々では背比べのためだけではなかったでしょうが、山の石や土を大切にし持ちかえることを禁じました。

10) 神いくさ

23の話を所収しています。常陸国風土記には神様に愛された山として筑波山を挙げています。富士山は新嘗祭で取り込んでいるからと言って神様をお泊めしなかったが、筑波山は忙しくても神様をお泊めしごちそうで歓待しました。神様は筑波山が人々が集い楽しい山となるように栄えることを約束しました。富士山と浅間山が煙比べをした話はもう残っていませんが、富士山と浅間山の仲の悪さは有名です。どういうわけか富士山で祀る神を浅間大神と称し、筑波山にも浅間様が祀ってあり、伊豆の雲見の御嶽山にも浅間の社があります。富士山の神は木花開耶媛、御嶽山の神は御姉の磐長媛で両者は妬みが深く仲が悪かったとされています。どうも富士山の評判は良くないようです。越中舟倉山の神と能登の石動山の神はもとは夫婦関係にあったそうですが、離婚して別の女を妻にしたので争いになり、別の神も巻き込んで戦争になりました。石合戦となりましたが仲裁が入ったという事です。もっと有名な神戦は、野州日光山と上州赤城山の戦です。赤城山はムカデとなって攻め、日光山は大蛇となって攻めた。戦の場所が日光の戦場ヶ原で、日光山は劣勢であったが助っ人が日光山に加勢して赤城山を追い払った。血が流れた場所が戦場ヶ原の赤沼となったといわれます。日光では毎年正月4日に武者祭りがあって、矢を赤城の方向に射る習わしがあります。赤城山の氏子は決して日光にはまいらなかったそうです。信州松本の深志の天神様の氏子は島内村の氏子と縁組をすることはなかったと言います。天神様は菅原道真で、島内の武の宮は藤原時平を祀っていたからです。二人は政敵で時平の讒言で道真は九州に流されたからです。時平を祀る社は下野の古江町にあります。下総の酒々井大和田に時平を祀った社があり、天満宮は一つもありません。丹波の黒岡にも天満宮はありません。天神さんと仲が悪かったのは時平だけではなく、伏見稲荷は北野天満宮と仲が悪かったと言います。同じ日に伏見稲荷と北野天満宮をお参りしてはいけないと言います。そのわけは道真の霊が雷神となって御所を襲った時、御所のお守りの当番が稲荷大明神があたり、道真の威力を封じたからだと言われています。また天神様と大師様も仲が悪かったとされます。大師さんの縁日は21日、天神さんの縁日は25日ですが、年によってどちらかが天気が悪いとと言われます。東京では虎ノ門の金毘羅さまと、蛎殻町の水天宮とが競争者でどちらかの縁日の日は天気が悪いと言われます。どちらの話でも、市内の近距離の2つの地点の天気が違うわけはないのですが、なんとなくそういう言い伝えがあるのです。松尾大社と熊野神社も仲が悪いそうで、両方をお参りをすると祟りがあると言われています。神田明神のお祭りに佐野の姓のものが参加することを固く禁じています。それは平将門の首を討ちとったのが俵藤太秀郷であったからで、その後裔の佐野氏は忌み嫌われたからです。善光寺には守屋の姓のものはお参りしてはいけないといいます。善光寺の御本尊を捨てたのが物部守屋だったからです。

11) お地蔵さま

37の話を所収しています。子供の頃を考えると、一番懐かしいのは地蔵様であったと柳田氏は言う。村ごとに一つの話を持つ石地蔵は次第になくなりつつあるので、100年前の子どもに代わって書物に残っている地蔵様の話を記したいというのです。古くから有名であったのは、「矢負い地蔵」、「身代わり地蔵」、農民に優しかった「足洗わずの地蔵」、「水引き地蔵」などなどを紹介する。相州上作延の延命寺に「鼻取り地蔵」があります。荒れ馬の鼻をとっておとなしくさせた小僧が実は地蔵さんだったのです。八王子の極楽寺の阿弥陀様を鼻取り如来と呼んでいました。この如来様は歯が見えることから「歯ふき仏」ともいわれました。駿河の宇都宮峠の地蔵さんは聖徳太子の作だというのに鼻取り地蔵と言われ、牛の鼻を取って農耕のお手伝いをしてくれます。願掛けに農民が鎌を以て献納しました。また素麺が好きだったので「素麺」とも呼ばれました。鼻取りは農家の少年の仕事で辛い仕事だったのです。それを手伝ってくれる地蔵さんがいたら有り難かったのでしょう。磐城の長友の長隆寺の鼻取り地蔵は、何時も叱られていた子供の代わりの牛馬の鼻取りをしてくれました。福島の腰浜天満宮の近くの地蔵さんは「鼻取庵」と呼ばれ、田起し、田植えの際に牛の鼻を取って手伝ってくれました。陸前新井田の村では、七観音と地蔵を内神様として屋敷内に祀っていました農繁期には鼻取りの加勢をしてくれるので、「しろかき地蔵」と言われ重宝されました。足利時代の書物「地蔵菩薩霊験記」にこういう話が載っています。出雲国大社の農夫が病気の時、17,8の青年に化けて田で働いてくれたそうです。農夫は青年にお酒をふるまって感謝したところ、この青年はお猪口を頭の上にのっけて買えrました。翌日厨子の扉を開けると地蔵様の頭におちょこが乗っかっていました。近江の西山村の埼痴陶百姓が病気で草取りができずに困っていると、70歳ほどの老僧が草を刈り取ってくれました。それが木本の地蔵様だったのです。地蔵さんの御足が泥まみれななっていたことで分かったそうです。田植えの頃農村ではよく水喧嘩があったそうです。ある夜、農夫がけがをして寝ている間に小僧さんがその農夫の田に水を入れてくれました。それを見つけた村のものが矢を射ると小僧は逃げて帰ったそうです。その男の家の地蔵さんの背中に矢が刺さっていて、足は泥だらけだったそうです。こういう「水引地蔵」は各地にあります。「矢田寺」という地名もこの由来にちなんでいます。地蔵様以外にもこういう話はいくつでも残っています。上総庁南の草取り仁王、駿河無量寺の早乙女阿弥陀、秩父野上の泥足弥陀などですが、一番人間らしく子供にやさしかったのが地蔵さんです。武蔵国野島の浄土寺には地蔵の夜遊びという話があります。夜な夜な遊びに出かけられるので地蔵さんに鎖を掛け動けないようにしておくと住職が病気になって死んだということです。そこで自由に夜遊びをさせておくと、茶畑で地蔵さんが目を突き「片目の地蔵」となりました。また傷を負った目を洗った池の魚も悉く片目であったそうです。下谷金杉の「目洗い地蔵」、「鼻欠け地蔵」、「塩嘗め地蔵」、「夜更け地蔵」、「踊り地蔵」、「物言い地蔵」、相州大磯の「袈裟切地蔵」、伊豆の仁田の「手無し地蔵」などなど多彩な人間模様が見られます。京都壬生寺の「縄目地蔵」(あるいは「身代わり地蔵」)は追っ手を受けた罪人の代わりに縛られたという話です。品川の願行寺の「しばり地蔵」は、願い事をする人が次々と地蔵さんを縛るのです。1年に1回縄を解きます。亀戸天神の頓宮神には爺と婆の木像があって、青鬼と赤鬼が縄を持っています。願をかえる人は爺の方を縛ります。昔菅公が九州へ流されるとき、爺が菅公につらく当たったからだと言います。雨乞いの祈祷にもよく地蔵さんは縛られました。羽後(秋田)花館の滝宮明神は水の神で「雨地蔵」、「雨乞い地蔵」と呼びました。旱の時は長い縄をつけて石像を洪福寺淵に沈めると雨が降ると言います。熊野芳養村の「泥もと地蔵」、播州舟阪山の「水掛地蔵」、肥前田村村釜ヶ淵の「干し地蔵」、筑後山川村瀬の淵の七霊社の「姫木像」、大和丹生谷の大仁保神社の水の神「後丹生」さん、武蔵比企の飯田村「石舟権現」も雨乞いの神でした。そして地蔵さんにいろいろなものを塗り付けると御利益が出るという事が仏教と共にはやりました。羽後の牡鹿半島の鳩崎海岸に「寝地蔵」は梵字を彫っただけの石で普段は根転がしてあるのを、立てると雨乞いになるということです。大和二階堂の「泥掛け地蔵」、難波野中観音堂の「墨掛け地蔵」、「油掛け地蔵」、羽前狩川の冷岩寺の「醪地蔵」、伊予道後温泉の「粉掛け地蔵」は白粉を振りかけました。相模の弘西寺村の「化粧地蔵」、近江北の大音村の「粉掛け地蔵」は、米や麦の粉をかけると願がかなうといます。安芸の福成寺の虚空蔵には米や麦の粉を掛けます。京都の7月24日は六地蔵詣りで、その日は集めてきた石に白い顔を描きお供え物をします。夏の地蔵祭りには町辻にあるお地蔵さんのお化粧をして、町内の盆踊りになります。8月21日ごろが地蔵盆です。大阪天王寺の地蔵祭りは11月16日です。子供たちはコメの粉でお地蔵さんの顔にぬり、夕方には藁火を炊きます。正月15日には道碌神祭りといって、道祖神のお祭りがあります。トンド焼きの中に石の道祖神を入れて黒くいぶしました。子供の遊びには、木曽須原の射手の弥陀堂では彼岸の中日に男の子が集まって小弓で阿弥陀の木像を射る遊びがあります。その他不動尊、閻魔堂の姥様の信仰は子供の成長を祈り感謝する場所でした。昔から子供は神に愛される存在でした。仏教とともに道祖神、地蔵が子供たちの友達になりました。


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