160712

文藝散歩 

倉野憲司校注 「古 事 記」
岩波文庫 (1963年1月)

稗田阿禮が誦習した古代の神話・伝説・歌謡を太安万侶が書き留め、712年に成立したわが国最古の歴史書・文学書

古事記(ふることふみ、こじき)という言葉は選録の由来を記した序文には明記されていないので、撰録の時代に本当にどう呼ばれたいたかは知る由もない。古事記がどのようにして成立したかは、その序文(用明天皇への上表文)によってのみ知ることができる。この序は中国の六朝時代に流行した四六駢儷体という美文調の漢文で書かれている。序の原文には特に段別けはないが、校注者は3段に分けて、第1段「稽古照今」、第2段「天武天皇 古事記撰録の発端」、第3段「元明天皇 古事記の成立」に分けて古事記成立のいきさつを語る。第1段は「臣安萬呂言す」で始まり、三神(アメノミナカヌシ、タカミムスヒ、カミムスヒ)、ニ霊(イザナキ、イザナミ)による大八島国創成神話にはじまり、天照大神から、神武天皇による大和王国の征服事業、そして崇仁天皇・仁徳天皇・成務天皇ら第33代推古天皇までの帝紀の範囲を示している。序第2段において、天武天皇の覇業が成ってのち「朕聞きたまえらく、諸家のもたる帝紀および本辞、すでに正実に違い、多く虚偽を加ふという」と言われ、今その誤りを改めないと幾年も経ないうちにその趣旨は滅びてしまうと恐れた天武天皇は帝紀を撰録し、旧辞を検討することを決意したという。そこで舎人稗田阿禮28歳に勅語して帝紀・日継及び先代旧辞を誦み習わしめたという。しかし時移り世変わって、いまだ実行できなかった。序第3段において、元明天皇(女性)は和銅四年(711年)9月18日臣安萬侶(文部官僚)に詔して、稗田阿禮が誦む所の勅語を撰録して献上することを命じた。安萬呂は日本語を漢文で編集する困難さを訴え、@訓書きだけでは意が存分には伝わらない、A音書きでは文が長たらしくなるという理由で、音訓の混用と訓書きのみをもってしたという。内容は天地開闢より始めて推古天皇(小治田宮 女性)とし、巻を三巻にして、上巻をアメノミナカヌシ神以下、建鵜茅不合命までの書紀の神代に相当しそれだけでまとまった神話体系を構成する。イザナキ・イザナミ男女二神の結婚による大八島国の創生、次いで天照大神を主催者とする天上国家(高天の原)の成立、次いで天上国家の地上への移行すなわちニニギノ命の降臨による日本国家の樹立という3つの事柄が結び付けられて「建国の由来」が具体的に語られるのである。無論これらは史実ではないが、建国というイメージが反映している。そして中巻を神倭伊波禮毘古天皇(神武天皇)から品陀天皇まで、下巻を仁徳天皇から推古天皇とした。中・下巻天皇一代ごとごとに系譜や物語がまとめられ、皇位の順によって配列されている。中巻においては神と人間の交渉が頻繁に行われている。このことと天皇の享年が数百年ということから天皇の実在性が疑われる理由の一つになっている。しかし下巻では人としての天皇の話は神話から解放され、恋愛もあれば嫉妬もあり、闘争もあれば謀略もある人間臭いところが描かれている。この人間性を透明に描いたところに日本文学史上の最初を飾るにふさわしい文学作品という事が出来る。序の末尾に和銅五年正月28日 正五位上大朝安萬侶の署名がある。古事記は我国最古の典籍である。古事記偽作説もあるが、上代特殊仮名遣いからみて奈良時代初期に成立したことは間違いない。序で安萬侶が稗田阿禮の口誦を漢文にする苦労を述べているが、
1) 音訓交用表記の例で、「宮柱布斗斯理」(ミヤバシラ フトシリ)という様に訓+音の交用である。
2) 「山川 悉動 国土皆震」という全訓による表記である。
3) 従来の慣用による表記である。「近飛鳥」(キン アスカ)、「長谷朝倉宮」(ハツセ アサクラノミヤ)などである。 4) すべて音表記がかなり目立つのは歌謡の表記の例である。あえて古語を伝えるため音表記を採ったものであろう。
こうして安萬侶は従来の変則漢文をを一層国文表記に適するように苦心した。古事記に扱われている対象からすると、書かれていることは稗田阿禮が誦習したとされる帝紀日継、先代旧辞である。この二つの内容は、上巻は神話でほとんどが先代旧辞のみであり、中・下巻の各天皇記は帝皇日継と先代旧辞とのつなぎ合わせか、または帝皇日継のみからなっている。帝皇日継はほど次のような内容からなる。
@先帝との続き柄ー天皇の御名ー宮の名称ー治天下の事、年数である。
A后妃皇子女ー皇子数ー皇子女の重要事項
Bその時代における国家的重要事項
C天皇の御享年ー御陵の所在ー崩御の年月日である。
先代旧辞とは帝皇日継を除いた部分で、神話・伝説・歌物語を内容とする。国土の起源、皇室の由来、国家の運営、天皇皇族に関する物語、諸氏族の縁起譚などである。



上 巻

別天つ神五柱と神代七代

天地初めて発けし時、天上界(高天の原)に成れる五柱の神・・・天之御中主(アメノミナカヌシ)神、高御産巣日(タカミムスビ)神、神産巣日(カミムスビ)神、宇摩志阿斯訶備比古遅(ウマシアシカビヒコジ)神、天之常立(アメノトコタチ)神の五柱神は独神で別天つ神と呼ぶ。
国土に成れる神・・・国之常立(クニノトコタチ)神、豊雲野(トヨクモノ)神の二柱の神は独神、宇比地邇(ウヒジコ)神と妹須比地邇(イモスイジコ)神(女)、角杙(ツノグイ)神と妹活杙(イモイクグイ)神(女)、意富斗能地(オホトオジ)神と妹大斗乃辨(イモオホトノベン)神(女)、於母陀流(オモダル)神と妹阿夜訶志古泥(イモアヤカシコネ)神(女)、伊邪那岐(イザナキ)神と伊邪那美(イザナミ)神(女)の5組の男女神、合わせて七代の神代七代の地上神が生まれた。古事記では神は天上の宗教的、命は地上の人格的に用いられている。

伊邪那岐命と伊邪那美命

別天の神五柱は伊邪那岐命と伊邪那美命の二柱の神に「このドロドロの国に形を与えよ」という詔を降した。そこで天の浮橋から天の沼矛でコロコロとかき回すと、矛からしたたり落ちる海水から島が出来上がった。二神はその島に天下って、八尋殿という新居を建て子作りに励んだ。柱の周りを廻って性交を行うのであるが、最初の時に女が先に「いい男だ」と声をかけたためかできた子は水蛭子で流した。そこで天に上がって天つ神に問えば「女が先に声をかけるのは良くない。地上に帰ってやり直せ」という事だった。伊邪那岐命が先に「いい女だ」と声をかけて性交を行って、次々と子供を産んだ。こうして倭八島国が出来上がった。国を生み終えて、更に神を生んだ。大事忍男神、石土毘古神、石巣比買神、大戸日別神、天之吹男神、大屋毘古神、風木津別之忍男神、次に海の神として大綿津見神、水戸の神として速秋津日子神、妹秋津比買神を生んだ。速秋津日子神、妹秋津比買神の男女二神が生んだ水・海・風・木・山に関係する神を12柱産んだ。つぎに大山津見神と野椎神の男女二神が天土関連の神を八柱を生んだ。伊邪那美神はさらに鳥と火の神四柱を生んで病気になった。病んだ体の汚物から六柱の神が生まれた。こうして伊邪那美命は火の神火之迦具土神を生んだために亡くなった。妻の神をなくして伊邪那岐命は怒って火之迦具土神を刺殺した。剣の血と火之迦具土神の身体から生まれた神は十八柱であった。この伊邪那岐命と伊邪那美命による子供神の生産過程にはすさまじいものがあり、多産豊穣信仰および女性蔑視思想が露骨に見られる。このあたりを女性が読んだら「ムカッと」来るだろう。都議会や国会議員の少子化対策論議に出てくるオジサンの思想レベルである。黄泉の国の話では、イザナキは亡くなった妻に会いたくて黄泉の国に行った。死者の世界は穢れた世界である。腐敗した妻の死体を見たイザナギは恐れおののいて逃げだしたが、見られて恥をかかされたイザナミは怒って黄泉醜女にイザナキを追わした。「見るな禁止」を犯したイザナキほうほうの態で黄泉比良坂を「千引の石」で塞いで逃げるという逃亡譚である。その逃亡譚が実に面白く笑えるのである。「見るな禁止」を破って責任をとらずに逃げるのが日本人の原罪であると、古事記を精神病理学から読んだ、北山修・橋本雅之著「日本人の原罪」(講談社現代新書 2009)という本がある。殯(あらき)の期間とともに生物的死と社会的死が終了する。それが死者への恐怖と重なるからである。死体安置所であるアラキに固有の腐臭がある。霊的ではなく肉体的悪臭である。火葬の普及とともに死者の世界が理念化され、アラキの制も廃止された。人は死者の恐れから解放されたが死の恐怖が目覚める。仏教が普及するまでは死後の世界はこの世との連続性がみられる。黄泉の坂をふさいだ石のことを古事記では「道反大神」、「塞ぎ座す黄泉戸大神」と呼び、書紀では戸の塞の大神」と呼ぶ。この塞を民間の「さえの神」(道祖神)信仰につながる。そして穢れと禊ぎが日本神道の中心テーゼとなった。「いなしこめしこめき穢き国」とは黄泉の国を指す。イザナキが禊ミソギをしたのは筑紫の日向である。イザナキが禊をして天照大神、月読命、建スサノオ命の三神が生まれた。伊邪那岐命はこの三神に分治を命じた。天照大かみは高天の原を治め、月読命は夜の国を治め、スサノオは海を治めよと言った。これに対してスサノオはいう事を聞かず母の国根の堅州国に行きたいと泣き騒いだ。このことからスサノオが海と黄泉国に深い関係を持つことが分かる。海底と地底という、天上のイメージの対極を象徴している。スサノオはもともと黄泉国の住人で、黄泉と海の印象が切り離せないのである。怒った伊邪那岐命はスサノオを天上界から追放した。

天照大神と須佐之男命

そこで速須佐之男命は天照大神に直談判をしに天上に上った。天地は振動し天照大神は大いに驚いて武装して待った。速須佐之男命は自分に悪意は全くないことを訴えたが、天上を支配する天照大神はこれを追い払おうとして、天の安の河原で誓いをした。何尾意味かよくわからないが子供を産む競争である。天照大神がスサノオの刀を折って産んだ神は三柱の女神で、スサノオが天照大神の玉を咬んで産んだ神は五柱の男神であった。ここでスサノオ命は勝利宣言をして、天上で大暴れをした。かかる悪霊の化身がスサノオであることは明白であろう。スサノオが高天の原で働いた数々の悪行である、畔放、溝埋め、頻蒔、串刺、生天馬の逆剥、糞戸などを大祓の天つ罪と呼ぶ。農業神としての朝廷の「大嘗祭」の神聖を穢す罪である。聖なるものを穢した罪によって、天照大神は天の岩戸にこもった。スサノオの悪行に憤った天照大神は天の岩戸にさし籠った。これを「岩戸がくれ」と呼ぶ。宣長の古事記伝には「必ずしも実の岩戸ではない。尋常の殿をいったにすぎない」という。すると「かくれ」というより「こもる」という意味に近い。忌ごとを避けて外へ出ないとか、寺社に参篭するなどの、外界から隔絶して意味である。神話と祭式が連関し合っているのである。天の安の河原に八百萬の神が相談して、思金神、鍛人天津麻羅等の神に鏡や玉を作らせ、布刀玉命が御幣を持ち、天児屋命が太詔戸語を申し、天手力神が岩の陰に隠れて、天宇受買命が半裸の狂乱の踊りを踊ると八百萬の神はどっと笑った。そして余りの騒々しさどよめきに顔を出した天照大神を天手力神が引き出したという。このくだりが鎮魂祭である。鎮魂とは浮遊する魂を呼び戻して身体に鎮めるのであるが、「魂振り」と呼び魂を新たにする意味がある。一種の再生の祭礼である。魂が理念化され抽象化されるのは仏教定着後のことで、古代では魂は物的な存在で、魂は白鳥となって飛び去り浮遊するものとしての魂を揺さぶり目覚めさす行為が球振りである。スサノオは爪をはがされ出雲に追いやられた。また食物を大気津比買神の身体から次々と出してくる様子を見てスサノオは穢いと思ってその食物神を殺した。頭から蚕が生まれ、目から稲種が生まれ、耳から粟が成り、鼻から小豆が成り、ホトに麦が成り、尻から大豆が成った。これが五穀の起源である。スサノオが追いやられた地が出雲の肥の川上であった。ここは黄泉国の入り口であった。スサノオは稲作に害を及ぼす邪霊として年ごとに追い払われたが、神話的次元では秩序から追放される運命であるが如き荒ぶる巨人の役割を演じさせられた。古事記ではスサノオを悪魂として劇的なストーリーが展開されるが、書紀にはそんな物語の面白さはない。スサノオのオロチ退治の話は出雲地方の創造神話を取り込んだものである。稲作民族にとってオロチとは蛇のことであり、農業の死命を制する水の神であった。だから戸毎に桟敷を結い酒を置いてオロチの来るのを待った。そこへ天孫族がもたらした大陸の鉄器生産技術は農耕に革命をもたらした。それを象徴する英雄神がスサノオであった。スサノオがオロチ退治をして結婚したのがクシイナダヒメであった。スサノオは水の神オロチの巫女として仕えた娘を救い出し、稲の豊穣神となった。スサノオ命は出雲の国須賀に宮を作り、「八雲立つ、出雲八重垣、妻籠みに、八重垣作る、その八重垣を」と救い出したクシナダ姫と結婚した。葦原の中つ国の王として国譲りする大国主は、このスサノオの末裔であった。スサノオの子どもは、@クシナダ姫よりヤシマドヌミ神を生み、Aカムオオイチ姫よりオオトシノ神、ウカノミタマ神、Bコノハナノチルヒメからフハノモジクヌスヌノ神、Cヒカワヒメよりフカフチノミズヤレハナノ神、Dアメノツドヘチネノ神よりオミズヌノ神、Eフテミミ神よりアマノフユオリノ神、Fサシクニワカヒメより大国主神の八柱の神である。

大国主神

大国主命は実に多くの名前を持っている。大国主、大穴牟遅(オホナムジ)、葦原醜男、八千矛、顕国王、大国王、大物主の7つの名を持つ。この国の成長過程でいろいろな名で呼ばれていたようだ。その中で一番土地の匂いがする名前が大穴牟遅(オホナムジ オホナモチ)で、土地を持つ者という意味である。出雲風土記ではオホナモチで通し、古事記でも高天の原と関係のないところではオホナムジを用いる。最初に出でてくる神話が「因幡の白兎」である。あまりにも有名で誰でも知っている話なので省略する。風土記本文ではなく風土記逸文にも「因幡の白兎」がある。古事記をまねただけのことかもしれない。書紀の一書にこの神は獣や人民のために病を療むる力すなわち「巫医」の神の性格を持たせている。そしてオホナムジの苦難の物語が展開される。オオムナジ神には多くの兄弟八十神がいて、稲羽の八上比買を争って、八十神より数々の迫害を受ける。スサノオの末裔であるオホナムジ神は動物や昆虫の助けによって、成人に至る通過儀礼を克服するのである。八上比買はオオムナジ神の嫁になりたいというので兄弟八十神はオオムナジ神を殺そうとする。オオムナジ神は伯岐国の手間の山本で八十神の投げた大石に焼き殺されたが、蛤貝比買らの治療で生き返った。又木の国の大屋毘古神のもとに逃げたが、追いかけてきた八十神の手からスサノオ命がいる根の堅州国(黄泉国)に逃げることができた。スサノオの娘スゼリヒメトと結婚したオオムナジ神は此処でもスサノオの試練を受けて乗り越えた。そしてスサノオ大神より太刀と詔琴、スゼリヒメトを奪って黄泉国から逃げた。スサノオ大神はオホナムジ神を黄泉比良坂に追い詰めたが、オホナムジに向かって「お前が大国主神に成れ、ウツシ国魂神(現世の地上の国王)となりスセリヒメを妻としてウカノ山のもとに宮を作り高天の原に君臨せよ」と叫んだという。ここでオホナムジから大国主神へ変身したのだ。地方の政治的な君主の姿が現れる。迎えに出た八上比買は、正妻スゼリヒメを畏れて、その子を木の股に挟んで帰ったという。その子を木股神という。八千矛神(オオムナジ神)が高志国の沼河比買を娶ろうとして行った時の婚姻歌が二重唱として謳われている。歌が動作や所作に結び付いていた時代の形式である。歌が詩という文学になる前の形式である。歌謡的なものから叙情詩的なものへの変貌が伺われる。正妻スゼリヒメの嫉妬心は相当強かったようである。ここに大国主神の神裔を記す。タキリビメよりアジスキタカヒコネ神(賀茂大御神 雷神)、妹高比買が生まれ、カムヤタテヒメより事代主神、鳥耳神より鳥鳴海神が生まれ、ヒナテリヌカタビチオイコチニ神より国忍富神が生まれ、ヤガワエヒメよりタケサハヤジヌミ神、マエタマヒメより甕主日子神、ヒナラシビメよりタヒリキシマルミ神、イクタマサキタマヒメよりミロナミ神、アオヌマウマヌマオシヒメより布忍富鳥鳴海神、ワカツクシメの神より天日腹大科度美神、トオツマチネ神より遠津山岬多良斯神 十七世の神と称する。出雲の大国主を核とした葦原中国への統合収斂が説話として語られる。出雲地方の諸部族の王は大国主のもとへ参列した。俗に神無月というのは、6月に出雲国の全土から神が集合する様を描いた俗話である。大国主の国造りはいつもスクナビコナとの共同作業として語られる。スクナビコナはオホナムジの義兄弟、鏡像、連称(対称)であった。注意すべきはオホナムジと対になっていることで、大国主との対ではない。大国主との対は大物主である。国造りの創業作業の途中でスクナビコナは亡くなった。一人でどうしようかと嘆いているオホナムジの前に現れたのは大和の三輪の大物主であった。ここにスクナビコナとオホナムジの対(出雲において)と、大国主と大物主の対の二つの対(大和において)がある。出雲国風土記にみえるようにスクナビコナとオホナムジの対は農業神として直接的に関係する。オオとスクは対称であり、ナは土のことである。大小の土地を併せて国造りに励むという意味で語られた。大国主と大物主の対はそれとはまったく違った過程を表現している。三輪の大物主は大国主(オオナモチ)の和魂である。つまり大和朝廷との関連で語られている。この節の末尾に大歳神の子として十七柱の神、羽山戸神の子どもとして八柱神を列記しているが、今後神の子の名前は次に登場しない限りは煩雑なので省く。古事記に神の一族として加えてもらった在来豪族の名誉は大変なもので、今ならさぞ賄賂を使ったであろうと思われるが、当時は天皇家としては在来豪族の系列下と氏姓制度の先駆けとしての家の格式を定めるという非常に困難な仕事であったに違いない。徳川時代の御三家、旗本、松平家親藩、譜代、外様大名の格式別けに相当し、禄高は当然のことながら、幕府内の役職、最後にjは席順に及ぶ差別につながった。

葦原中国平定

天照大神は「豊葦原の千秋五百秋の水穂国は、わが子アメノオシホミミ(天菩比神)の知らす国ぞ」と詔した。下界の下見をして戻って来た天菩比神は「豊葦原はいたく騒ぎてありけり」と政情が安定せず戦争ばかりやっている葦原中国である出雲の国状を天照大神に報告した。出雲の葦原中国を征服するべく、天よりアメノホヒが遣わされるが、3年経っても復命しなかったので謀反と見なされ、次いで天若日子が派遣されたが、これも大国主命の娘下照比買を妻として8年間復命しなかった。鳥になって出雲の宮殿を偵察しに来た鳴女は天若日子が放った矢で射殺され、天の安の河原に落ちた。高御産巣日神である高木神はこの矢が天若日子のものであることを指摘して、天若日子の謀反であると断定した。そこで建御雷之男神に出雲国討伐を命じた。建御雷は降臨して天若日子を殺し、天迦久神に命じて障碍となっていた天尾羽張神を降伏させた。建御雷と天迦久神のニ神の猛攻によって大国主はついに国譲りを誓った。大国主命は出雲国の伊那佐の談判(講和会議)において、大国主命は子である事代主命と建御名方神に態度を問うたが、事代主命は講和派、建御名方神は主戦派(抗戦派)であった。建御名方神は建御雷の武力に抗せず、科野国洲羽の海(諏訪湖)に逃げ降伏した。こうして建御雷之男神は葦原中国を平定し、天上に輻輳した。

邇邇芸命

タケミカヅチ(建御雷)が葦原中国(出雲国)を征服したという報告があって、アマテラスはアメノオシホミミが降臨させる段になって、その代わりに子であるホノニニギが降臨することになった。ここに大嘗殿での即位式となる。延喜式によると、殿の中央には、新たな天皇が生まれるという意味で衾や枕のある神坐が設けられ、その傍らに天照大神の神坐があり、前の横には采女の代坐がある。この坐の範囲が神の室であり、臣の室は前室に設けられ、左右に関白坐、宮主代坐、中央に采女坐がある。再生の秘儀を天子が演じる。天子は稲の初穂を食べるとともに、殿内の中央で衾にくるまり、そこに臥す所作を演じる。こうして天子は天照大神の子として誕生する形をとる。回立殿で湯浴みる儀式がある。浴槽で天子は羽衣を着る。これが天孫ホノニニギの降臨がなされる場面である。葦原中国は,五穀が実る豊葦原水穂国に転化する。しかもこの天孫ホノニニギが降り立ったのは日向の高千穂であった。露払い役は、アメノオシヒ(大伴連の祖)とアマツクメ(久米直の祖)の二人であった。高千穂がたんなる固有名詞でないことは天子ホノニニギと同じである。どちらの豊穣というイメージに引かれている。これを著者は「創造的飛躍」と呼ぶ。筑紫のヒムカという問題も日向ではなく「ヒムカシ(東)」からきているのである。この降臨に従ったのは、中臣の祖アメノコヤネ、忌部の祖フトダマ、猿女の祖アメノウズメ、鏡造りの祖イシコリドメ、玉造の祖タマノオヤの五伴緒である。これは天の岩屋戸の前の祭りを同じ顔ぶれであることは、天孫降臨と天の岩屋戸の話が同根であることを示している。いわば大嘗祭が、冬至の太陽の復活の話と、王の誕生すなわち即位の話とに分かれて説話化されたものである。この二つの祭りにおいてアメノウズメの活躍が群を抜いて目覚ましい。アメノウズメと猿田彦の活躍はセットになっている。の二つの祭りにおいてアメノウズメの活躍が群を抜いて目覚ましい。アメノウズメと猿田彦の活躍はセットになっている。アメノウズメは「いむかう神」、「面勝つ神」となっているシャーマンの面目躍如たるものがある。ウズメは高千穂に向かわず伊勢に向かった。何故ならウズメは伊勢神宮の三神職家(伊勢の土豪であった度会、荒木田、宇治土公)のひとつ宇治土公の出身であった。宇治土公は猿田彦を祖とする伊勢の土豪であった。「御食つ国志摩」と言われるように、伊勢は宮廷に海産物を貢進する国であった。ウズメは猿女と呼ばれ大和添上郡の稗田後に住み着いた。古事記の口誦者稗田阿礼はウズメの末裔で宮廷の巫女であった。ウズメと猿田彦は卑弥呼と男弟の関係と同じ姉弟の関係としてえがかれている。巫女は女系相続である点も古代社会の特徴である。この部分のテーマは天子の婚姻である。即位と結婚は国王の系譜の継承としての性的能力と稲作の豊穣とに関係した。ホノニニギは笠沙の地に宮を作り、国の神オホヤマツミの娘コノハナサクヤヒメと結婚した。ヤマツミとワタツミは国つ神の代表で特定の名前ではない。大和では天は父性・男性原理、地は母性・女性原理であり、天つ神の父が国つ神の女と結婚して子を誕生するという神話の世界である。このような女性が玉依姫と呼ばれる。神の魂が寄り付く女という意味である。生命を保つ食(生産活動)は国つ神の受け持ちで、支配・戦争(政治活動)は天つ神の仕事である。持ちつ持たれつの依存関係にあった。地元の神である大山津見神はニニギノ命(天津日高日子番能邇邇藝能命)に二人の姉妹を献上した。妹は木花の佐久夜毘買で美人であったが、姉の石長比買は醜かったという。ニニギノ命は妹の方を取って姉を返そうとしたが、大山津見神は怒って「二人揃って差し上げたのは岩のように堅く国が栄えるためと、花のように栄えるためである。」という。二人を召してニニギノ命は末永く栄えたという。木花の佐久夜毘買が一晩で孕んだのをいぶかったニニギノ命は産屋に火をつけて占った。ここに生まれた子は火照命、次に生まれた子は火須勢理命、次に火遠理命の三柱である。

火遠理命

こうして日向の地に王権が開始されたが、日向は具体的に宮崎県である必要はない、日向と襲の国(隼人)は範疇表に見る様に対立する概念である。ここにおいても出雲国と同じ構造がある。次に語られるのは隼人の服属、いわゆる海幸彦・山幸彦の話である。コノハナサクヤヒメが産んだ御子の兄のホデリが海幸彦、弟のホヲリが山幸彦である。弟のホヲリが皇統を受け継ぎ、兄のホデリは隼人阿多君の祖となる。隼人は大嘗祭で宮門を守る役を演じ、国ぶりの踊り隼人舞を踊る。もともと隼人の服属は東国を除けば、全国統一過程の最期の段階になる。兄火照(ホデリノ)命は海幸彦として、弟火遠理(ホオリノ)命は山幸彦と呼ばれた。釣り針を取り換える話は寓話に過ぎないので省略する。釣り針を探しに弟火遠理(ホオリノ)命は海の国の綿津見宮に入り、海神族の豊玉姫と結婚する。皇統を受け継ぐ弟の豊玉姫は、海神の女豊玉姫と結婚する。ワタツミは水を支配する神であり、ワタツミの女との結婚はしたがって水の支配力を手にいれることであった。ワタツミを祀るのは筑紫宗像の安曇氏である。豊玉姫が妊娠し産屋が建てられたが、すぐに産気づき姫は決して見るなと言い残して産屋に入った。「見るな禁忌」の掟を破って豊玉姫が見たものは、ワニの姿であった。見られた姫は子を残し、海坂をふさいで海神国に帰った。その御子の名は天津日高日子波限建鵜茅不合(ナギサウガヤフキアエズ)命である。ナギサウガヤフキアエズ命は母の妹玉依姫(これは固有名詞ではなく、皇族に嫁ぐ女というぐらいの意味の一般名詞)を妻として4人の御子を生んだ。神武天皇がその一人である。神武天皇はワタツミの母を持ち、同時に神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の名はワカミケヌ、またはトヨミケヌと言ったので、食を意味するケは穀物の霊でもある。地上の乙女と天つ神の御子が聖婚を行い、水穂の国にふさわしい皇子を生むというのが、日向三代のテーマである。



中 巻

第1代 神武天皇

アマテラス大神から神武天皇に至る皇孫の系譜をまとめておこう。直系だけを記すと、天照大神→アメノオシホミ→ホノニニギ命→ホオリ命→ウガヤフキアエズ命→カムイワレビコ命(神武天皇 ワカミケヌ、トヨミケヌ)となる。女児の誕生は無視され、父・母・息子の系統だけが記される。しかし古事記の日向三代神話で重要なのは直系の実在性はなく、ほとんどが反復に過ぎない。そこに挿入される話の方に重点がある。話の数だけ皇孫を作ったようでもある。代々君主の位につくものは、高天の原なる大嘗宮の神坐での秘儀を通って、水穂の国の支配者に生まれ変わる。古事記も上巻の神話の時代を終り中巻の主題は地上での系譜と男子誕生の話に移る。こうして「帝紀」が始まり、その初代がワカミケヌ(神武天皇)である。高千穂宮で即位した。神倭伊波禮毘古命(神武天皇)と兄五瀬命の二柱の神は、高千穂宮で合議して次は東に向かうことになった。神武東征は歴史的事件ではなく、国覓(まぎ)の物語化として冷静に読むことで見えてくることがある。イワレビコ命(神武天皇)は「畝火の白樫原宮(樫原神宮)に坐しまして、天の下治やしめし」国覓を完成させた初代天皇として描かれている。平定すべき国を求める国覓は国褒め、国見と同じ一連の即位儀礼である。太陽の昇る国の東に行こうとするのは具体的な戦闘行為ではなく、あこがれに過ぎない(若者が東京へゆこうというのと同じレベル)。イワレビコ命(神武天皇)は日向を出発し、宇佐、筑紫岡田宮に一年、安芸のタケリの宮に7年、吉備の高嶋宮に8年いて、難波から河内に上陸した。書紀もほぼ同じことを述べている。しかし古事記では豊予海峡(速吸門)が吉備と難波の間にあるとか、河内から熊野への道順が混乱しているのは、民族移動という歴史的事件があったとは思えない。海路を先導した神が倭国造の祖であったりするのは、東征物語が歴史的事件と無縁であったことの証左である。熊野から迷走して大和に入った理由が分からない。熊野は隈、熊襲に通じるマイナスイメージの未開地であった。日向と襲の関係が、大和と熊野の関係に重なっている。つまり「うまし国大和に達するには恐るべき未開地を通ることが必要であった。これも国覓の通過儀礼として、熊野経由大和入り物語が発想されたのであろう。神武東征物語は天孫降臨の神話物語と類似の構造を持っていることは明白である。これも神話中の範疇である。八咫烏が神武軍を大和へ導いたとする話に出てくる八咫烏は賀茂氏の始祖であった。賀茂氏は宮廷の主殿部として仕えてきた家である。天皇の生活全般を預かる職掌である。大嘗祭に際して主殿部が燭をもって天皇を案内することが、八咫烏の先導の話に結び付いたようだ。イワレビコ命(神武天皇)の軍は大和で、出雲国系統の神である宇陀の兄ウカシ、弟ウカシ、ヤソタケル、トミビコ、兄シキ、弟シキなどと闘いそれらを降したとされるが、戦闘についてはほとんど描かれていない。大和平定物語の本体をなすのは、久米の歌であり、物語はそこから派生した。久米歌は大嘗祭に豊の明かり(饗宴)において謳われ、久米舞のための歌であった。@滑稽歌(風土記にもある鳥網に鯨がかかる話、前妻より後妻に多くを与える話、掛詞しやこしや)で始まり、A−D「みつみつし久米の子が・・・撃ちてし止まむ」の景気のいい戦闘歌の繰り返し、E腹が減っては戦が出来ぬの落ちで終わる。
神武天皇の御子をまとめる。アヒラヒメを娶って産んだ子はタギシミミ命、キスミミノ命の二柱、更に大后を求めると大久米命が、三島溝咋の女セヤダタラヒが神と交わって産んだ娘イスケヨリヒメを推薦した。イスケヨリヒメより生まれた御子は日子八井命、神八井耳命、神沼河耳命の三柱である。神武天皇が137歳で崩御されたのち、その庶兄多藝志美美命が、后イスケヨリヒメを娶って神武天皇の三御子を殺すことを企てた。妃は御子にそのことを告げ、神沼河耳命は兄弟と語らって兵をあげ多藝志美美命を殺した。こうして神沼河耳命は末子ながら建沼河耳命の名を得て天皇位に就くことになった。日子八井命、神八井耳命は多くの連、臣、君、国造、直の祖となった。神武天皇は橿原神宮に祀られている。

第2代 綏靖天皇

建沼河耳命、葛城の高岡宮で即位。綏靖天皇が河俣姫を娶って生まれた御子は、師木津日子玉手見命一柱。45歳で崩御。御陵は衝田岡にある。

第3代 安寧天皇

師木津日子玉手見命、堅塩の浮穴宮で即位。安寧天皇が縣主波延の娘アクトヒメを娶って生まれた御子は、常根津日子伊呂泥命、大倭日子鍬友命、師木津日子命の三柱。大倭日子鍬友命が皇位を継ぐ。49歳で崩御、御陵は畝傍山の傍にある。

第4代 恣徳天皇

大倭日子鍬友命、輕の境岡宮で即位。恣徳天皇が師木縣主の祖イイヒメノ命を娶って生まれた御子は、御真津日子詞恵志泥命、多藝志比古命の二柱。御真津日子詞恵志泥命が皇位を継ぐ。45歳で崩御、御陵は畝傍山真名子の谷にある。

第5代 孝昭天皇

御真津日子詞恵志泥命、葛城の掖上宮で即位。孝昭天皇が尾張連の祖ヨソタホヒメノ命を娶って生まれた御子は、天押帯日子命、大倭帯日子国押人命の二柱。弟大倭帯日子国押人命が皇位を継いだ。兄天押帯日子命は春日臣、小野臣、柿本臣、多紀9など多くの臣の祖となった。93歳で崩御、御陵は掖上の博多山の上にある。

第6代 孝安天皇

大倭帯日子国押人命、葛城の秋津島宮で即位。孝安天皇がヒメオシカヒメノ命を娶って生まれた御子は、大吉備諸進命、大倭根子日子賦斗邇命の二柱。大倭根子日子賦斗邇命が皇位を継いだ。123歳で崩御、御陵は玉手の岡。

第7代 孝霊天皇

大倭根子日子賦斗邇命、黒田の廬戸宮で即位。孝霊天皇が十市縣主の祖クワシヒメ命を娶って生まれた御子は、大倭根子日子国玖琉一柱。またチチハヤマワカヒメを娶って生まれた御子は、千千速比買命など他妾より八柱(男5、女3)。大倭根子日子国玖琉が皇位を継いだ。大吉備津日子らは吉備の国を平定して、吉備国臣の祖となった。106歳で崩御、御陵は片岡の馬坂の上にある。

第8代 孝元天皇

大倭根子日子国玖琉命、輕の境原宮で即位。孝元天皇が穂積臣の祖ウツシコメノ命を娶って生まれた御子は、大毘古命、少名日子建猪心命、若倭根日子大毘毘命。また后の妹イカガシコメノ命を娶って生まれた御子は比古布都押之信命、ハニヤスビメを娶って生まれた御子は建波邇夜須毘古命の五柱。若倭根日子大毘毘命が皇位を継いだ。皇統の兄弟が臣下に降って地方の臣や連となるのとは違い、臣が女を皇室に入れて皇統につながる逆流が顕著になる。この時期に後の権勢を恣にする健内宿祢や蘇我臣、河辺臣、桜井臣の祖となる石河宿祢、波多の八代の宿祢。小柄宿祢らが臣ながら帝紀に入り込んでくる。57歳で崩御、御陵は剣池の中の岡にある。

第9代 開化天皇

若倭根日子大毘毘命、春日の伊邪河宮で即位。開化天皇が旦波の大縣主由碁理の娘タカノヒメを娶って生まれた御子は、比古由井牟須美命一柱。また庶母イカガシコメ命を娶って生まれた御子は御真木入日子印恵命、他三柱。御真木入日子印恵命が皇位を継ぐ。天皇の兄弟の王が生んだ御子は約30柱であるが省略する。63歳で崩御、御陵は伊邪河の坂之上にある。

第10代 崇神天皇

御真木入日子印恵命、師木の水垣宮で即位。崇神天皇が木国造荒河刀辨の娘トホツアユメマクハシヒメを娶って生まれた御子は、豊木入日子命、豊鍬入日買命二柱。大毘古命の娘ミマツヒメノ命を娶って生まれた御子は伊玖米入日子伊沙知命、また尾張連の祖オホアマヒメを娶って生まれた御子は大入杵命、八坂入日子命、他の妾の御子を含めて10柱であった。伊玖米入理毘古伊沙知命が皇位を継いだ。豊木入日子命は上毛野・下毛野君の祖である。豊鍬入日買命は伊勢神宮を祀った。大入杵命は能登臣の祖である。この天皇の時代に疫病が流行し多くの民が死んだ。天皇の夢に大物主(大国主大神)が現れ、意富多多泥古をもって大物主を祀れば疫病は退散するといった。天皇は詔をして意富多多泥古を探したが、河内の美努村に、大物主がイクタマヨリヒメを娶って生まれた櫛御方命の子意富多多泥古なる人がいた。そこで三輪山に意富美和の大神を祀り、社を建てた。こうして国家安泰となったという。大国主神の祀り方が不十分だったために祟りが出たというお話。意富多多泥古が大国主の神の子であったことは次の伝説に由来する。イクタマヨリヒメは大変美しくあったが、毎夜男がやってきて姫と婚姻を重ねていくばくもせぬうちに妊娠した。親はどんな男か知りたいと思い、訪れた男の着物の裾の麻ひもを縫い付け、翌朝その糸をたどってゆくと美和山神の社に着いた。よって大国主大神がその男の父であると判明した。意富多多泥古命は神君鴨君の祖である。この天皇の時代、大毘古命を越(高志)国の征伐に派遣し、その子建沼河別命を東国12道(伊勢から東海道を通って常陸、陸奥国)の征伐に派遣した。また日子坐王を丹波国に派遣して玖賀耳之御笠を殺した。ここに山代国にいた庶兄建波邇安王が天皇暗殺を企てているといううわさが起きた。そこで和邇臣の祖日子国夫玖をして鎮圧に赴き和詞羅川(木津川)で対峙した。建波邇安王が射殺されて軍は総崩れになり、川を血に染めたという。その地を波布理曾能という。越国を征伐した大毘古命軍は東国12道の軍建沼河別と相津で合流した。そこで両軍が会ったので相津という。こうして日本全土は平定されたので、崇神天皇の功績をほめて「初国知らしめし天皇」と呼んだ。168歳で崩御、御陵は山野辺の道の勾の岡にある。

第11代 垂仁天皇

伊玖米入理毘古伊沙知命、師木の玉垣宮で即位。垂仁天皇がサラジヒメノ命を娶って生まれた御子は品牟都和気命の一柱。ヒハスヒメを娶って生まれた御子は印色入日命、大帯日子淤斯呂和気命ら五柱。他の妾より生まれた御子十柱、あわせて御子は十六柱であった。大帯日子淤斯和気命が皇位を継承した。印色入日命は灌漑用池を各地に造り、石上神社に横刀千ふりを奉納して河上部を作った。省略するが、多くの王は別、君の祖となった。天皇がサホヒメを娶った時、サホヒメの兄沙本毘古王と三角関係にあり、「兄と夫のどちらを愛しているか」と迫って、小刀を与えて天皇暗殺を企てた。しかしサホヒメは天皇を殺すことができなかった。逃げたサホヒメと兄沙本毘古王を包囲したが、天皇は后と御子を惜しんで捕獲作戦を取った。御子は救い出したが后には逃げられた。敵の城を焼いて反乱を平定したが、御子の名を本牟智和気となずけて乳母二人をつけて養育した。ところがこの本牟智和気王は大きくなっても言葉が話せなかった。鳥を見て何かを言おうとして口を動かしたので、その鳥を捕獲しようと追いかけてようやく高志国和那美の水門で捕まえた。王子はその鳥を見てもやはり思うようには喋れなかった。このような子になったのは出雲大神の祟りであると天皇の夢にあらわれた。そこで曙立王と菟上王に占いをさせ王子に随伴して、大阪から出雲へ大神をまつる旅に出た。斐川において出雲国造の祖である岐比佐都美をして仮宮(長穂宮)を建て大神を祀った。ここで王子は初めて話ができるようになった。菟上王は天皇への報告の早馬に乗った。王子はこの地でヒトヨヒナガヒメと婚姻したが、その実態は蛇であることを知った王子は逃げた。天皇は報を受けて喜び、兎上王を返して神の宮を作らせた。その王子のために鳥取部、鳥甘部、品遅部、大湯坐、若湯坐を定めた。天皇は后が薦めるによって、山代国乙訓4の名の姫命を召し上げた。ところが、ヒバスヒメ命と 弟姫の二柱を取って、ウタゴリヒメ命とマトノヒメ命二柱は醜かったので返した。ここでマトノヒメ命は恥じて故郷に帰って自殺した。三宅連の祖、多遅摩毛理は天皇の命を受けて非常に良い香りがする「非時の香の木」を蓬莱島に求めて帰った時、天皇は崩御した。香の木を皇后に奉って、泣き叫んだという。この木は今の橘である。153歳で崩御され、御陵は菅原の御立野にある。皇后ヒハスヒメは石祝部を定め、土師部を定めた。この后は狭木の寺間の陵に葬った。

第12代 景行天皇

大帯日子淤斯呂和気命、纏向の日代宮で即位。景行天皇、吉備臣らの祖若建吉備津日子の娘、針間のイナビノオオイラツメを娶って生まれた御子は櫛角別王、大碓命、小碓命(倭建命)、倭根子命、神櫛王の五柱。八坂のイリヒヒメを娶って生まれた御子は若帯日子命、五百木の入日子命、押別命、入日姫、また妾の子ら合計80柱あるなかで、太子の名を得たのは、若帯日子命、倭建命、五百木の入日子命の三柱であった。他の77余りの子らは国造、和気、稲置、県主に任じられた。若帯日子命が皇位を継承した。小碓命(倭建命)は東西の荒ぶる神を平らげ、櫛角別王は茨田の連の祖、大碓命は守君、太田君の祖となった、神櫛王は酒部の祖となった、また豊国別王は日向国造の祖となった。
この景行天皇の日継(天皇記)は実は倭武命の武勇伝と悲劇の章となっている。景行天皇は御子大碓命に命じて、三野国造の祖大根王の娘、兄ヒメ、弟ヒメを召し上げようとした。ところが大碓命は二人を召し上げずの自分の女にし、別の女二人を天皇に差し上げた。天皇はそれと知って交わらず苦しんだという。大碓命が兄弟ヒメと交わって産んだ御子は押黒の兄日子王、弟日子王である。天皇は小碓命に、「兄の大碓命が最近朝餉に出てこないので、諭しておくように」と仰せられた。その後五日経っても出てこないので、天皇は小碓命にどうしたのかと尋ねたら、小碓命は「朝早く厠に入った頃を見計らって手足を引きちぎって殺し、こもに包んで捨てた」と答えたという。
天皇は小碓命の気性が荒いところを心配して、西方の熊襲建二人の征伐にゆくように詔した。倭建命は三重に防御した軍の幕内で宴が催されている混雑に紛れ込んで女装して入り込み、熊襲兄弟がその少女を見初めて酒の酌をさせたところを胸に隠した剣で二人を刺殺した。この時から小碓命の名を改め倭建命となった。熊襲を討って次に出雲建を討つため、まず友となり肥川で沐した時、出雲建の剣を木刀にすり替え、これを切り殺した。こうして熊襲、出雲を討伐して輻輳した。ここで天皇はまた倭建命に「東方十二道の荒ぶる神を平らげよ」という詔を発した。副将軍に御鍬友耳建日子をつけた。倭建命はまず伊勢大神宮に立ち寄り、姨倭比買命に「天皇は我に死ねと思ほすのか」と泣いて訴えた。姨倭比買命は草薙の剣と御袋を与えて見送った。尾張の国で尾張国造の祖ミヤスヒメを見初めたが、東征が終わってから再会しようと別れた。相武国(相模)に至って国造が偽って沼に荒ぶる神がいるとして、倭建命を沼に導き後ろから火をつけた。姨倭比買命からもらった袋の口を開くと火打石があったので向い火を起して国造らを滅ぼした。そこを焼遺(焼津)と呼ぶ。つぎに走水の海(浦賀水道)を渡ろうとしたとき波が高く船は難破しそうになった。そこに后弟橘比買が「私が海の神を和らげよう」と入水して船が進むことを得た。東国の荒ぶる蝦夷どもを平らげ、還りに足柄の坂本において、坂の神が白鹿になって現れたので、これを打ち殺して」吾妻や」と三回嘆いたという。この地を阿豆麻(あずま)と呼んだ。それから科野国(信濃)を越えて尾張国に還り、約束したミヤスヒメと再会した。酒の宴が開かれ、姫のすそが月経の血で汚れていたが、契りを果たしたという。草薙剣をミヤスヒメに与えて、伊吹の山の神の征伐に赴いた。素手でも捕まえられると侮っていたが白猪山の猪は牛のように大きかったので後で征伐しようとして軍を進めた。氷雨が倭建命一行を打ちのめし、玉倉部の清泉で休息した。しかしさらに当藝野に至った時倭建命は一歩も歩けなくなっていた。さらに三重村について病床に就き、国を偲んで「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 やま籠れる 倭しうるわし」、「愛しけやし 吾家の方よ 雲居起ち来も」と歌って崩りました。御陵を作り葬り四つの歌を添えた。この時白鳥が飛び立ち河内の師木に止まった。ここを白鳥の御陵という。倭建命、垂仁天皇の娘フタジノイリビメ命を娶って生まれた御子は、帯中津日子命。弟橘比買を娶って生まれた御子は、若建王。さらに近江安国造の祖に娘フタジヒメを娶って産まれた御子は稲依別王、その他の妾を娶って生まれた御子は合わせて六柱である。帯中津日子命が皇位を継いだ。景行天皇は127歳で崩御、御陵は山邊の道の上にある。(この記述から倭建天皇説が生まれた。景行天皇記は複数の天皇の記述が入っているようでもある) 

第13代 成務天皇

若帯日子命、淡海(近江)の志賀(滋賀)の高穴穂宮(大津市)で即位。成務天皇が穂積臣の祖建忍山垂根の娘オトタカラヒメを娶って生まれた御子は和詞奴気王一柱。建内宿祢を臣の最高位大臣に任じ、大小の国造を定めた。又国の境に縣主を定めた。95歳で崩御され、御陵は沙紀の多他那美にある。

第14代 仲哀天皇

倭建命の御子帯中津日子命、穴門(下関市)の豊浦宮、筑紫(福岡市)の詞志宮(香椎宮)で即位。仲哀天皇が大江王の娘オオナカツヒメノ命を娶って生まれた御子は、香坂王、忍熊王の二柱。また大后息長帯日買命を娶って生まれた御子は品夜和気命、大柄和気命(品陀和気命)の二柱。品陀和気命が皇位を継いだ。その大后息長帯日買命(神功皇后)は筑紫の詞志宮で神の意をうけた。そこで熊襲国の討伐を占うため、天皇は琴を弾き、建内宿祢大臣が占ったところ、「西の方に金銀に輝く国がある。これを帰服させる」というお告げで会った。しかし天皇は「西にはただ大海があるばかりで国は見えない」と言って、神意は偽りだと断じた。神は怒って天皇を死に追いやった。天皇は52歳で崩御、御陵は河内の恵賀の長江にある。そこで国の大祓を行い、建内宿祢に再度占いをさせると「其処の国は皇后の腹の中に居られる御子が支配する国である。これは天照大神の御心である。神は住吉神社の底筒男、中筒男、上筒男の三神である」と、教えられたとおりに西へ航路を取ると、瞬く間に新羅の国に着いた。新羅国王は服従を誓い御馬甘と国名を変え、百済国は渡の屯家と定めた。まだ平定の仕事は終わってはいなかったが、大后は産気づいたので腰に石を纏って筑紫の国に還り着いて御子が生まれた。戦勝の占いに「鮎の釣り針」の話が語られるが、これは肥前国の風土記にも記されている。こうして神功皇后と建内宿祢の征韓軍が倭に上る時、生まれた御子は死んだという事にして上陸したが、仲哀天皇の前妻の子香坂王、忍熊王は軍を敷いていた。忍熊王軍の将軍は難波の吉師部の祖伊佐比宿祢であり、御子軍の将軍は丸邇臣の祖難波寝子建振熊命であった。御子はすでに身罷ったと噂を流して敵を油断させ、伊佐比宿祢と忍熊王軍をいっきに打ち破った。建内宿祢命は太子の禊ぎをするため、高志の前の角鹿(越前の敦賀)に仮宮を建てた。土地の神伊奢沙和気大神が夢の中でいうに御子の名前に変えてほしいという。翌日太子が浜に出ると鼻を打ち破られた入鹿魚が打ち上げられた。そこで御食津大神となずけ、いまに気比大神という。その地を血浦といい、今は都奴賀という。この章の最期に神功皇后が謳った酒楽の歌が挿入される。この仲哀天皇は実に哀れに描かれている。恐らくは建内の宿祢という最高位の人臣が恣に主戦論をごり押しし、消極的な仲哀天皇を暗殺して神功皇后をも共犯関係にした物語であろう。あるいは建内宿祢は百済や新羅にに大きな利権を持っていたのだろう。

第15代 応神天皇

品陀和気命、輕の明宮にて即位。応神天皇は品陀真若王の三姉妹を娶った。高木の入買命の御子は額田大中日子命、大山守命、伊奢之真若命ら五柱。中日買命の御子は大雀命(オオササギ)ほか三柱、弟日買命の御子は五柱。他の妾を娶って生まれた御子を併せると、この天皇には二十六柱の王がいた。大雀命が皇位を継いだ。天皇は宇遅能和紀郎子に跡を継がせたい気持ちがあって、大山命と大雀命に「兄か弟かどちらが良いか」と問うと、大山命は兄がいいと答え、大雀命は天皇の意を知って「弟の方が可愛い」と答えた。天皇は大雀命をほめて「大山守は山海の部民を統べ、大雀命は天下の政治を統べ、宇遅能和紀郎子は天皇位を継げ」と詔した。天皇が淡海(近江)に行く時、宇治の木幡村で美しいヒメに会った。名を尋ねると、丸邇の比布禮能意富美の娘ミヤヌシヤカハエジメと答えた。明日家に寄ると言ってその場は離れたが、父はたいそう喜び大御饗をはって歓迎した。この姫を娶って生まれた御子が宇遅能和紀郎子であった。応神天皇が日向国諸縣の娘カミナガヒメの容貌が美しいと聞いて召し呼んだ。難波津でこの姫を見初めた大雀命は、建内宿祢に頼んで自分が欲しいと天皇に請うた。天皇はこれを許して、御宴の席で披露したという。吉野の国主らが大贄を献上する時、大雀命が佩いた太刀を褒めて歌った。この習慣は今も続いている。この天皇の時代に海部、山部、山守部、伊勢部を定めた。池を建設し、新羅人が渡来した。百済から献上物が届いて、建内宿祢は百済池を作ったという。百済から知識人和邇吉師が論語十巻、千字文一巻を奉納した。その他いろいろな職業人が渡来した。秦造の祖、漢の直の祖、酒造の祖須須許理などが渡来した。天皇が崩りした時、大雀命は天皇の意志の通りに宇遅能和紀郎子に天皇位を譲ったが、大山の命は命に従わず兵をあげて攻めんとした。大雀命軍は宇治川で戦い、大山命は溺れ弓矢に打たれて戦死した。大雀命と宇遅能和紀郎子は天皇位を譲り合ったが、宇遅能和紀郎子は早く亡くなり、大雀命が天皇位を継いだ。新羅の国主の子、天之日矛という人が渡来した。天之日矛は新羅の国で得た妻を同伴したが、妻は難波津から国に逃げ帰った。そこで王子は但馬の国に移り地元の娘を娶って多くの御子を産み。、但馬の国に住みつたという。品陀天皇(応神天皇)は130歳で崩御、御陵は河内の恵賀の麓の岡にある。応神天皇の御子の子孫については省略する。



下 巻

第16代 仁徳天皇

大雀命、難波の高津宮で即位。仁徳天皇は葛城の曾都毘古の娘イワノヒメを娶って生まれた御子は、大江の伊邪本和気命、墨江の中津王、蝮の水歯別命、男淺津間若子宿祢命の四柱。また日向の諸縣君の娘カミナガヒメを娶って生まれた御子は波多毘能大娘子(大日下王)の二柱。八田若郎女を娶って生まれた御子は二柱の合計六柱であった。伊邪本和気命が天皇位を継いだ。また蝮の水歯別命も男淺津間若子宿祢命も天皇位を継いだ。この時代に大后イワノヒメの御名代として葛城部を定めた。伊邪本和気命の御名代に壬生部を、水歯別命の御名代に蝮部を、大日下王の御名代に大日下部を定めた。また秦人の土木工事により茨田堤、茨田の三宅、丸邇池、難波の堀江を築き、墨江の津を定めた。仁徳天皇は高台に立って国見をされ煙が立ってない事から国は貧しいと判断され今後三年は民の課、役を免除した。天皇自身も宮の改修を行わず、漏れるがままにした。後に国見をして民の家に煙が立つのを見て、民富めりとして課、役を復活された。この政治を讃えて「聖帝の世」という。その大后イワノヒメは大変嫉妬深い人で天皇の召し上げた妾は宮の中に入ることもできなかった。吉備の海部直の娘黒日買が美しいので天皇は召し上げたが、后の妬みが激しいので本の国に逃げ帰った。天皇が姫の還る船を見て歌を歌うので、大后は大いに怒り、使いをやって姫を船から追い出し徒歩で往かした。そこで天皇は淡道島に行幸され、島伝いに吉備の国に行かれた。そこで逢瀬を楽しんだという。大后イワノヒメが御酒宴のために綱柏の木を採りに木国(紀国)に出かけたのを幸いに天皇が八田若郎女と夜昼となく戯れていた。このことを大后の召使の倉人が聞きつけ、大后に注進した。怒った大后は採った木の葉を海に投げ捨て、船を北上させ高津宮に入らず、山代宮に向かった。そしてしばらく筒木の韓人奴理能美の家に逗留した。慌てた天皇は鳥山と丸邇臣口子を大后の使者に立てご機嫌を伺った。口子臣、口子ヒメ、奴理能美の3人が相談して、大后が筒木に行かれたのは、蚕の遷り変り(変態)に興味を持たれたのであって他意はないという事を天皇に奏上した。そして天皇と后の間に志都歌の相聞があって一件落着したという。天皇は八田若郎女とも歌の交換をしていた(。懲りないね)
天皇は弟速総別王を使者として、庶妹女鳥王を娶ろうとしたが、女鳥王は「后の強い嫉妬心で八田若郎女さえ宮に入れられないでいるので、天皇に仕える気はない。むしろあなた(速総別王)と結ばれたい」という。速総別王は天皇に返奏しなかった。そして速総別王と女鳥王が密会するのを見て、天皇は軍を起して兄弟の戦争となった。宇陀で二人は殺された。戦の将軍山部大楯連は女鳥王の手から玉釧を奪いとり、妻に与えた。酒宴を開催した時、臣の妻らも参加し妃が御酒の柏を与えたとき、山部大楯連の妻の手をみてこのことに気が付き山部大楯連を死刑に処した。酒宴で天皇が建内宿祢の長寿を祝う本岐歌を与えた。天皇は83歳で崩御、御陵は毛受(堺市)の耳原にある。

第17代 履中天皇

伊邪本和気命、伊波禮の若桜宮にて即位。履中天皇が葛城の曾都毘古の子、葦田宿祢の娘黒比買を娶って生まれた御子は、市邊の忍歯王、御馬王、妹青海郎女の三柱。墨江の中津王が、難波宮での大嘗祭の酒宴の時、天皇を殺そうとして大殿に火をつけた。これを倭直の祖阿知直が救い出し馬に載せて倭に逃げた。多遅比野から波邇賦坂(河内)に至って、難波の宮を燃えているのが見えた。当麻道から石上神社に着いた。そこへ弟水歯別命が謁した。天皇は水歯別命に墨江の中津王を殺すように命じた。墨江の中津王の臣曾婆加里を味方に引き入れ、中津王を殺害した。若桜部、伊波禮部を定めた。天皇64歳で崩御、御陵は毛受にある。

第18代 反正天皇

弟水歯別命、多治比の柴垣宮にて即位。この天皇は9尺2寸の長身であった。反正天皇が丸邇の許碁登臣の娘都恕郎女を娶って生まれた御子は、甲斐郎女、都夫良郎女の二柱。弟ヒメを娶って生まれた御子は、財王、多詞辨郎女、合わせて四柱である。天皇が60歳で崩御、御陵は毛受にある。

第19代 允恭天皇

男淺津間若子宿祢命、遠飛鳥宮で即位。允恭天皇が意富本杼(オホホド)王の妹、忍坂の大中津比買を娶って生まれた御子は、木梨の輕王、長田太郎女、境の黒日子王、穴穂命、輕太郎女(衣通郎女)、瓜の白日子香、大長谷命、橘太郎女、酒見郎女の九柱。穴穂命と大長谷命が皇位を継いだ。皇位継承(日継ぎ)を定め、臣の氏・姓を定めた。探湯瓮(くかべ)を置いて天の下八十友緒の氏姓を定めた。また輕太子の御名代として軽部を定め、大后の御名代に刑部を定めた。この天皇の時代に新羅の国主が使いとして金波鎮漢紀武がやってきて、調度八十一船を奉った。又薬を伝えた。天皇が崩御された時、輕太子は同母妹衣通郎女に戯れて志良宣歌を贈答したりした。このことで天下の人は輕太子から離れ、穴穂命に附いた。そこで輕太子は大前小前宿祢大臣と兵をあげた。穴穂命の軍が大臣の家を包囲したところ、大臣は逆に輕太子を捕縛して献上した。輕太子は伊予国に流された。輕太子と衣通郎女は、間にかわされた歌を残して、二人とも首をつって亡くなった。天皇は78歳で崩御、御陵は河内の恵賀の長枝のある。

第20代 安康天皇

穴穂命、石上の穴穂宮において即位。安康天皇は弟大長谷命のために、大日下王の娘若日下王を娶らせる使者根臣を派遣した。大日下王の返事は押木の玉鬘を献上して婚約をお受けするという事であったが、根臣はその玉鬘を奪って天皇には「大日下王は婚約を拒否し、同属の下にはならないと横刀を取って怒った」と偽りの輻輳を行った。天皇は怒って大日下王を殺し、その王の妻である長田太郎女を自身の大后とした。(根臣と大日下王との確執か、根臣が何のために偽ったか理由が分からない) 天皇は大日下王と長田太郎女の間の子である目弱王を気にしていたが、父親を殺した天皇を許すだろうかと心配であった。その恐れが的中し、ある夜目弱王は天皇の首を切って殺し、都夫良意富(つぶらおおみ)の家に逃げた。天皇の歳は56歳、御陵は菅原の伏見の岡にある。大長谷命は兄黒日子王と白日子香に相談したが、兄らは愚かで話し相手にならないと見て二人とも打ち殺した。大長谷命は兵を起して都夫良意富の家を包囲した。死闘の末都夫良意富は目弱王を刺殺し、自殺した。これより後淡海の佐佐紀の山君の祖、韓?が言うには泡海の久多綿の蚊屋野には鹿がたくさんいるという。そこで大長谷命は履中天皇の御子である市邊の忍歯王を誘って鹿狩りに出かけた。各々仮宮を建て、翌朝の未明市邊の忍歯王は大長谷命の陣営に出かけるぞと声をかけて馬を進めた。大長谷命の陣営の人々はこの命の行動に不信感を持ち、弓矢を取って武装し、馬を駆けて市邊の忍歯王に並ぶや、市邊の忍歯王を射殺した。そこで遺された市邊王の御子、意祁王、袁祁王は父の変を聞いて逃げ出し、途中で山代の猪甘という老人に食べ物を奪われたが、淀川から播磨国に至った。志自牟という国人の家に身を隠して馬甘、牛甘として使われて過ごしたという。大長谷若建命という命はかなり凶暴な性格を持った人であるように見られる。

第21代 雄略天皇

大長谷若建命、長谷の朝倉宮で即位。雄略天皇が大日下王の妹若日下部王を娶ったが子はいなかった。また都夫良意富美の娘韓ヒメを娶って生まれた御子は、白髪命、妹若帯ヒメの二柱。白髪太子の御名代として白壁部を定め、長谷部の舎人、河瀬の舎人を定めた。こんとき中国の呉の人が渡来し呉原に住み着いた。大后、日下(北河内)に居られたころ天皇は日下の直越え道からから河内に出向かれた。山の上から見ると樫の木を使った立派な家を作っている家があった。天皇はこれを見て誰の家かと問うと、志幾の大縣主の家だという。天皇の家と同じ家を作ると言って、その家を焼かせようとした。大縣主は大いに恥じて平身低頭謝罪した。謝罪の贈り物に白い布と鈴をつけた犬と腰佩という名の犬の綱を取る人を献上した。天皇はこれを若日下部王への婚約のお祝い物として進呈した。そして若日下部王は天皇が日を背にして来られるのは恐縮だから、こちらから(河内)倭の宮に出向くことになった。又ある時天皇が遊びに出かけられたとき、美和河で衣を洗う童女がいた。その子が大変可愛かったので名を問うと引田部の赤猪子という。天皇はあなたを娶りたいので、呼ぼうと言って宮に還った。しかし天皇はそのことはすっかり忘れ何十年もたって、その童女は80歳になったので、死ぬ前に天皇に言いたいことがあると言って参内した。天皇は忘れていたことを大いに恥じて、その老女に数々の禄を与えた。天皇が吉野の宮に幸行でましたとき、吉野川のほとりに美麗しい童女がいたので、婚をして宮に還った。又吉野に幸行でまして、呉床を組んで琴を引き、その嬢子に舞をさせた。それから阿岐豆野に出て狩りをしていると、腕に虻が食い付いたがすぐに蜻蛉(秋津)が来てこれを食らった。倭の国を蜻蛉島という。よってこの地を阿岐豆野(あきずの)と呼ぶ。葛城山に登った時、大猪が出てこれを鳴り鏑で射止めたが、猪は唸って迫って来た。天皇は恐れてはりの木に登って難を逃れた。また天皇が葛城山に登られた時に、山の上に天皇の行列と同じ規模の行列を見た。誰ぞと問うにその受け答えも天皇と同じ格式であった。天皇は怒って彼らに矢を射た。そこで名乗るには「我は葛城の一言主大神」であるという。天皇は矢を収めた。また天皇が丸邇の佐都紀臣の娘袁杼(オト)ヒメを婚するために春日に幸行でました時、姫は逃げ隠れた。また天皇が長谷の百枝槻の下で酒宴を開いたとき、伊勢の三重女が大御盞を捧げて献上した。その大御盞の槻の葉が浮いているのを見た天皇は、その女を打ち伏せ首を斬ろうとした。女は歌を歌って助命を願ったので、これを許した。天皇は124歳で崩御、御陵は河内の多治比の高鷲にある。

第22代 清寧天皇

白髪大倭根子命、伊波禮の甕栗宮で即位。この天皇に后も子もなかったので、御名代として白髪部を定めた。天皇が崩御されて、継ぐ人がいなかった。そこで市邊の忍歯別王の妹、飯豊王が葛城の忍海の高木の角刺宮で政を執った。ここで山部連小楯が針間国の宰に赴任した時、志遅牟の館で酒宴がもたれ、傍にいた火焼きの小子二人にも舞をやらせた。その時弟が[「我は伊邪本和気の天皇の御子、市辺の忍歯王の末である」といった。 これを聞いた小楯連は飯豊王に報告し、角刺宮に連れ戻った。弟袁祁王に后を娶るために、平群臣の祖、志毘臣が歌垣に兎田首の娘大魚を連れてきた。二人は歌を掛け合って過ごした。翌日意祁王、袁祁王の二人の御子は、朝廷の臣がほとんど志毘臣の方に向いているのを憤って、志毘臣の家を兵で取り囲みこれを殺した。弟は兄に天皇位を譲り、袁祁王が帝位を継いだ。

第23代 顕宗天皇

伊邪本和気の天皇の御子、市辺の忍歯王の御子袁祁の石巣別命、近飛鳥宮(南河内)で即位した。天皇は石木王の娘難波王を娶ったが、子はなかった。天皇は父市辺王の御骨を探したが、淡海国の老婆が王の御骨の場所を覚えていたので、そこに御陵を作り韓?を守り部とし、老婆に置目老媼という名を与え、宮の中に屋を与えた。毎日鈴を鳴らして置目老媼を呼んで語らったという。昔兄弟が針間国に逃げる途中で山代の猪甘という老人に食べ物を奪われたが、天皇はその老人を捕まえ飛鳥の河原で老人とその一族を皆殺しにした。その場所を志米須(しめす)という。天皇は父市辺王を殺した大長谷天皇を恨んで、その御陵をこわそうとしたが、兄意祁王は他人にやらせるのではなく自分が壊してくるといって、御陵の片隅を少し掘って壊してきたと天皇に報告した。そのあまりに簡単なことをいぶかった天皇に対して、意祁王は「父の恨みに違いないが、大長谷天皇は叔父にあたり、また天皇でもあた御陵を壊しては後世の人の誹りを招く。だから少しだけ壊して恥を見せるだけでいい」といった。天皇は理ありと考え、復讐を断念した。顕宗天皇は38歳で崩御され、御陵は片岡の石坏の岡にある。意祁王が帝位を継いだ。

第24代 仁賢天皇

復讐の鬼となった弟袁祁の石巣別命(顕宗天皇)の後を継いで、兄意祁命、石上の広高宮に即位。仁賢天皇は大長谷若建天皇の娘、春日太郎女を娶って生まれた御子は高木郎女、財郎女、久須毘郎女、手白髪郎女、小長谷若雀命、真若王の6柱。丸邇の日爪臣の娘、糠若小郎女を娶って生まれた御子は、春日の山田郎女。合計7柱であった。小長谷若雀命が皇位を継承した。

第25代 武烈天皇

小長谷若雀命、長谷の列木宮で即位。8年の在位であった。この天皇には子がなかった。御子城として小長谷部を定めた。御陵は片岡の石坏の岡にある。品太天皇の五世の孫、袁本杼命が淡海国より登らせて、手白髪命と結婚して皇位を継いだ。

第16代 継体天皇

品太天皇の五世の孫袁本杼命、伊波禮宮で即位。継体天皇が三尾君の娘若姫を娶って生まれた御子は、大郎女、出雲郎女二柱。尾張連の祖凡連の娘、目子郎女を娶って生まれた御子は、広国押建金日命、建小広国押楯命二柱。大后手白髪命を娶って生まれた御子は天国押波流岐広庭命一柱。その他の妾より生まれた御子を併せて19柱であった。広国押建金日命と建小広国押楯命と天国押波流岐広庭命が皇位を継いだ。この天皇時代に筑紫国君石井は天皇の命に逆らい乱を起して、物部荒甲連と大伴の金村連の二人が乱を平定した。天皇は43歳で崩御し、御陵は三島の藍にある。

第27代 安閑天皇

広国押建金日命、勾配の金箸宮で即位。この天皇には子はなかった。御陵は河内の古市の高屋村にある。

第28代 宣化天皇

建小広国押楯命、檜?の廬入野宮で即位。意祁命(仁賢天皇)のヒメ、橘の中ヒメを娶って生まれた御子は、石ヒメ、小石ヒメ、倉の若江王の三柱。他の妾より生まれた御子は二柱。

第29代 欽明天皇

天国押波流岐広庭命、師木島の大宮で即位。宣化天皇の石ヒメを娶って生まれた御子は、八田王、沼名倉太玉敷命、笠縫王の三柱。また小石ヒメを娶って生まれた御子は上王一柱。また春日の日爪臣の娘、糠子郎女を娶って生まれた御子は、春日山田郎女、麻呂古王、宗賀の倉王の三柱。また蘇我稲目宿祢大臣の娘、岐多斯ヒメを娶って生まれた御子は橘豊日命、妹石?王、足取王、豊御気炊屋ヒメ命、亦麻呂古王、大矢王、伊美が古王。併せてわせて25柱の御子が生まれた。沼名倉太玉敷命、橘豊日命、豊御気炊屋ヒメ命、長谷部の若雀の命が皇位を継いだ。

第30代 敏達天皇

沼名倉太玉敷命、他田宮で即位。在位14年であった。母違いの妹豊御気炊屋ヒメ命を娶って生まれた御子は、静貝王、竹田王、小治田王、葛城王ら八柱。伊勢の大鹿首の娘、小熊子郎女を娶って生まれた御子は布斗ヒメ命、寶王の二柱。他の妾より七柱であった。御陵は河内の科長にある。

第31代 用明天皇

橘豊日命、池邉宮にて即位。3年間の在位であった。天皇蘇我稲目宿祢の娘意富藝多志ヒメを娶って生まれた御子は、多米王一柱。また庶妹間人穴太部王を娶って生まれた御子は、上宮の輕戸豊聡耳命(聖徳太子)、久米王、植栗王、茨王の四柱。當麻の倉首比呂の娘、飯ヒメを娶って生まれた御子は、當麻王、須賀志呂吉郎女。御陵は石寸の掖上にある。後に科長の陵に移した。

第32代 崇峻天皇

長谷部の若雀の命、倉橋の柴垣宮で即位。在位4年であった。御陵は倉橋の岡の上にある。

第33代 推古天皇

豊御気炊屋ヒメ命、小治田宮で即位した。在位37年であった。御陵は大野の岡の上にあったが、後に科長の陵に移した。


読書ノート・文芸散歩・随筆に戻る   ホームに戻る
inserted by FC2 system