2010年8月5日

文藝散歩 

森鴎外著 「渋江抽斎」
中公文庫(1999年6月)

伝記文学の傑作 森鴎外晩年の淡々とした筆はこび

森鴎外の著作は私の高校生以来の愛読書であった。しかるにこの「渋江抽斎」だけは読む気がしなかった。第1回目は大学生の夏休みに読み始めてあまりの退屈さにギブアップし、第二回目は2001年のころ中公文庫の手ごろな本の値段(571円)に引かれて購入し、なんかのきっかけで中断したままであった。そして私の晩年2010年夏、意を決して第3回目の正直で3日で読了した。これもなにかの因縁かもしれない。「渋江抽斎」は決して歴史上の人物として特記されるべき人物ではない。江戸時代末期の漢方医であり考証学者である。維新の魁を担った人物でもない。だからというわけでもないのだが、森鴎外の「渋江抽斎」は淡々と進行する退屈な事実の羅列に過ぎないと、若い頃の自分は思ったために読む気がしなかったのだろうか。森鴎外の生涯は語りつくされている感がするので述べないが、東京にある森鴎外の遺跡は機会があるたびに訪問した。上野不忍池の北にある森鴎外新婚当時の家が、ホテルの中に囲い込まれて現存している。また陸軍省に馬で通ったという文京区立本郷図書館(千駄木)となりにある「観潮楼」の旧宅から海が見えたという。東京都三鷹市の禅林寺の「森林太郎の墓」に詣でたことが懐かしく思い出される。すべて昔の事になったのだが、今において再度森鴎外の「渋江抽斎」を読む気にさせたものは、尾形仂著 「鴎外の歴史小説ー史料と方法」(岩波現代文庫 2002年)であろうと思う。森鴎外を天皇制へのアンチテーゼとして読む文学観、そして職業倫理である。封建制批判は角度を変えれば乃木大将殉死の天皇制批判となる。ここに森鴎外の歴史上人物への思い入れが見られ、本書「渋江抽斎」にはそのような文藝史観はないが、森鴎外自身の軍医・文藝愛好家としての共感と職業倫理に徹した名著として残る作品である。

森鴎外著 「渋江抽斎」は「三十七年如一瞬 学医伝業薄才伸 栄枯窮達任天命 安楽換銭不患貧、これは渋江抽斎の述志の詩である。」ではじまる。森鴎外の晩年の作品として「渋江抽斎」、「井沢蘭軒」、「北条霞亭」の作品はいずれも江戸時代のあまり有名でもない学者の伝記である。内容も政治的事件は背景に隠れ、退屈といってもいいような日常的人生の事蹟である。本書「渋江抽斎」は大正5年(1916年)、日刊新聞に連載され年頭から始まって5月には完結したという。毎日1扁づつ連載されて119扁からなる。挿画は羽石光志氏による。聞き取りや資料調べは済んでいたとしても、気楽な読みきり物ではない新聞小説であるので、毎日の執筆はどうしたのであろうか。それにしても本書にはリズムがある。かなりの程度までは偶然の筆の勢いという物が支配しているし、気が乗ればバランスを欠いてでも広がってゆく楽しさが伺える。本書末尾の長唄師匠勝久(抽斎4女陸のこと)の話がそうである。最後になって急に盛り上がりを見せる、伝記というより小説の運びである。執筆当時は鴎外は50代半ばで、軍医としての長いお勤めもようやく終わりに近づき、いわば停年をまじかに控えた一種の開放感が働いていたのかもしれない。渋江抽斎の「述志の詩」はあるいは鴎外の気持ちに近いものがあるのではないか。抽斎を敬愛するあまり、鴎外はこの漢詩(七言絶句 韻:十一真)をわざわざ書道家・洋画家の中村不折氏(その書道美術館は鶯谷の正岡子規旧居前にある)に書いてもらって居間にかけていたという。鴎外が「渋江抽斎」を書くきっかけになったのは、鴎外の古書漁り趣味にあり、「武鑑」という江戸時代の武家人名録で「弘前医官渋江氏蔵書記」という朱印のある本に度々出逢ったことであった。鴎外とおなじ職業である医官である事に興味を持ち始めたのであろう。鴎外は「武鑑は徳川氏を窮むるに欠くべからざる史料である」といい、「渋江抽斎」を書く5年前から「武鑑」を蒐集し始めたようだ。簡単な事蹟の記述から物語を構成してゆく「知的アドヴェンチャー」は、探索のプロセスがそのまま伝記の展開となり、書き手の心と筆のハズミとなるのである。この対象探索プロセスを伝記制作のうちに取り込み、殆どその中枢にすえるという鴎外的手法は、その後、日本文学の伝統的手法となった趣がある。松本清張氏の小説はその典型であろうか。アマチュア的謎解きのぞくぞくする興奮が伝わってくるのである。渋江抽斎は安政5年(1858年)54歳でコレラであっけなくこの世を去るのであるが、その前に抽斎に心境を語らしめている。「おれは公儀に召されることになりそうだ。そうすると津軽家には隠居せざるを得ない。父は74歳まで生きたので、おれには20年ほどの月日がある。これからがおれの世の中だ。おれは著述をする。まず老子の註からはじめ、それから自分の為事にかかるのだ」といわしめている。これはおそらく鴎外の心境に近い。定年退職を控えて準備をしている自分の心弾む心境を吐露しているようだ。その科白にもかかわらず抽斎はあっけなく死んだ。本書が渋江抽斎自身について割いたページ数は本書の半分に満たない。さらに描かれた抽斎像はかならずしも彫りの深いものでない。英雄伝記でないのだから仕方ないといえるが、それにしてもあっさりしている。本書の後半は妻「五百」と跡継ぎ「保」さんのことが中心のファミリー伝記である。ひょっとすると、本書の主人公は抽斎ではなく武家の妻の五百の人き方と息子に対する愛情の深さがテーマではなかろうか。五百は戊辰戦争では一族を率いて津軽に逃れ、戦争後はまた子供の教育のために東京に出てくる賢母の役割である。江戸末期の婦人像を鴎外が共感をこめて書いたのは、五百の振る舞い、決断の武家婦人としての典型的な目覚しい役割を大いに評価していることにある。また本書の筆の動き方は、抽斎の交友関係の縦と横の線にひろがりに特徴がある。また本書は抽斎没後56年(大正5年)までの記事を、「抽斎没後の第○○年は明治○○年である」という常套句で区切りをつけ、リズムを作っている。本書執筆当時までの家族年代記である。ここが伝記文学としてのまじめな態度で傑作といわれる由縁である。

第1扁から第9扁には鴎外が「武鑑」の蒐集をしていたころ、何度も出てきた「経籍訪古志」というビブリオグラフィー(図書目録)の著者の1人渋沢道純と抽斎が同一人物であった事を知って俄然渋沢抽斎の事に興味がわき、その子、保、勝久さんが生存している事を知りまた抽斎の知人らの後裔と面会して次第に抽斎像を作り上げてゆく過程が謎解きのような面白さを書き綴っている。これについては上にも述べたので省略し、第10扁より、渋江抽斎氏の年譜を作って行きたい。
渋江氏の祖
渋江氏の祖先は下野(栃木県)大田原家の臣であったという。抽斎6世の祖子左衛門辰勝は大田原政継、政増2代に仕えた。辰勝の嫡子重光は大田原政増、清勝に仕えた。重光の弟辰盛は奥州津軽家信寿、信著に3百石で仕えた。辰盛が抽斎五世の祖である。辰盛は兄重光の子輔之を養子に迎えて玄瑳と称させこれに医学を授けた。玄瑳が抽斎4世の祖である(高祖父)。玄瑳は津軽信寿、信著につかえ、2世道陸と改名し元禄7年41歳で歿した。玄瑳の娘登勢に婿を迎えて為隣とし、為隣は2世玄瑳と称して寛保元年に没した。登勢は養子を迎え本皓とした。本皓が抽斎三世の祖である。本皓は養子を迎えて允成とし、のち4世道隆と改めた。これが抽斎の父である。允成は偉丈夫で出羽守信明、寧親に仕えた。允成は下総佐倉の家臣岩田忠次の妹縫を嫁に迎え、文化2年(1804年11月7日)に神田弁慶橋で抽斎が生まれた。姉須磨は嫁いでから25歳で歿した。允成は寧親の侍医で経学と医学とを藩の子弟に教えていた。3百石25人扶持を受け、「一粒金丹」の調製を許された。この薬は毎月100両の所得になったという。津軽家寧親は蝦夷地の防備に任じられ、4万5000石から7万石、そして文化5年には10万国に加増された。允成は59歳で隠居した。抽斎18歳のときである。津軽家寧親および渋江氏の住居は無論本府(江戸詰め屋敷)でのことである。
抽斎の幼年時代の師
抽斎の幼児名は恒吉といい、越中の守信寧の夫人真寿院はこの恒吉を召し寄せて可愛がったらしい。允成はこの恒吉を養育するについては、多くの師に学ばせた。儒学(経学)の師は市野迷庵、狩谷液斎、医学の師には井沢蘭軒、痘瘡科を学んだ池田京水であり、抽斎が交わった儒者、国学者には安積艮斎、小嶋成斎、岡本況斎、海保漁村、医家には多木苣庭、井沢榛軒、画家の谷文晁、劇評論家には長嶋五郎作、石塚重兵衛がいる。市野迷庵は考証学者で儒学文献の古版本を考証するもので、狩谷液斎らとの研究がのちの抽斎の訪古志に結実したのである。抽斎は文化6年、5歳で市野迷庵の門に入った。そして文化11年10歳で医学を修めるため井沢蘭軒に師事した。そして文化11年12月抽斎は10歳で本所上屋敷で藩主津軽寧親に拝謁した。この時父允成は51歳であった。文化14年抽斎13歳で迷庵門で森枳園と交わりが始まった。抽斎13歳は森枳園11歳を弟子にとったことになる。森枳園はのちに「経籍訪古志」の共同執筆者となる。
津軽藩近習医師抽斎
文政5年(1822年)5月抽斎は18歳で家督を相続し、表医者を仰せ付けられた。文政6年抽斎は19歳で下野佐野の浪人尾嶋忠助の娘定と結婚した。定17歳であった。抽斎の母縫は文政7年剃髪して寿松と称した。文政8年津軽家では寧親が隠居し、信順が封を襲いだ。文政9年抽斎22歳の時、姉須磨が25歳で亡くなった。そして師市野迷庵が62歳で没した。この年に抽斎に長男恒善が生まれた。文政12年抽斎25歳は多事であった。3月に師井沢蘭軒(53歳)が没し、近習医者補を命じられた。6月に母寿松が55歳でなくなった。11月には妻定を離別した。12月には二人目の妻比良野文蔵の娘威能を迎えた。貧家の出の嫁を追い払って要職者の娘を迎えたという筋書きとなる。天保2年抽斎27歳のとき、長女純がうまれ妻威能が没した。12月蘭軒の門下で机を一緒にしていた岡西玄亭の妹、備後国福山の医官岡西栄玄の娘徳を3人目の妻に迎えた。天保4年4月抽斎(29歳)は藩主信順に従って初めて弘前に下り、翌5年に江戸に戻った。天保6年抽斎31歳のとき、師狩谷液斎(61歳)が亡くなった。11月には次男優善が生まれた。天保7年抽斎32歳で近習詰めに進んだ。師池田京水(51歳)が没した。天保8年7月抽斎33歳のとき、藩主信順に従って弘前に行った。12月父允成が74歳で没した。翌9年劇通で奇行で有名であった森枳園(31歳)が芝居の俳優として舞台に立ったことがばれて阿部家から永久追放処分を受け、借金のため夜逃げをし、大磯に逃れたという。天保10年派手好きで浪費家のため藩の財政困難を招いた藩主信順は40歳で隠居し柳嶋に移り、順承が封を継いだ。抽斎は信順附きとなって柳嶋の館に勤務した。天保11年抽斎36歳のとき、画家谷文晁(77歳)が没した。天保12年妻徳が2女好を生んだが夭折し、翌13年には三男八十三郎を生んだがこれも夭折した。抽斎37-38歳のときである。天保14年抽斎39歳は藩主順承の近習に進められた。同年「躋寿館」で書を講じた。翌弘化元年抽斎40歳のとき、幕府の直参となり「躋寿館」の講師に任じられた。2月に妻徳が没し、11月に神田鉄物問屋山内忠兵衛の二女五百が4人目の嫁に迎えられた。長女純(16歳)が幕臣馬場玄玖に嫁いだ。
終世の妻五百のこと
山内忠兵衛の祖先は山内盛豊の子、対馬守一豊の弟から出たそうだ。江戸の商人になっても三葉柏の紋をつけ、名乗りに豊の一字を用いる。五百は12歳のとき本丸に奉公にでた。徳川家斉の御台所近衛経熙の養女茂姫の上臈姉小路という奥女中の部屋子であった。長廊下の鬼退治の武勇伝が残っている。美作津山の松平家の養子(家斉の34人目の子)銀之助のいたずらだったそうだ。15歳の頃には藤堂家に奉公した。五百は中臈となり、藤堂和泉守高猷附きで、奥方の祐筆を兼ねたという才女であった。中臈とは将軍家では妾と同様であり、大名家ではそうではないが破格の取り扱いである。五百は藤堂家では信任され、天保2年には16歳で中臈頭に進んだ。10年間藤堂家に奉公し、24歳で退いた。山内忠兵衛には28歳の長男栄次郎がおり、25歳の姉安は塗り物問屋長尾宗右衛門に嫁していた。栄次郎は昌平校に通っていたが吉原がよいの放蕩児で、安の夫宗右衛門も遊び人で毎日酒を飲んで商いは番頭まかせであった。したがって家に戻った五百には鉄物問屋日野屋の舵取りが任せられた。五百は経学を佐藤一斎、書道を生方鼎斎、絵画を谷文晁、和歌を前田夏陰に習ったという。藤堂家では文武両道の「男之助」、「新少納言」というあだ名を貰った。五百は抽斎に嫁ぐ前に比良の文蔵の養女となった。目附役貞固の妹になったのである。貞固は抽斎没後には五百を助けて渋江家の相談役となり深く渋江家と関係を保った。5百が嫁いでから、弘化2年から嘉永元年の3年間(抽斎41-44歳のころ)、3女棠、4男幻香、4女陸(杵屋勝久となる)を産んだが、4男は生まれてすぐになくなったので幻香はその法諡である。
幕臣渋江抽斎
阿部家から追放され大磯の地で医師を開業していた森枳園は、医業も繁盛し生活のゆとりも出来たので、復帰を狙って度々江戸の渋江家に宿して運動を続けた。森枳園の復帰を画作したのは井沢井沢榛軒、柏軒の兄弟、抽斎も小嶋成斎を通じて工作した。嘉永元年(抽斎44歳)になって森枳園は「躋寿館」の事業「千金方」の校刻を手伝うことになった。そして阿部正弘が枳園の帰藩を許した。嘉永2年3月抽斎は45歳で将軍家慶の謁見が許され、はじめて武鑑に載せらるる身分となった。当時世間では「目見以上」ということはすこぶる重きをなしていた。登城の際門番らの土下座を受ける身分であった。祝宴を開くため抽斎邸は金に糸目をつけない増改築を行なった。五百は着物などを質に入れ300両を費用に回した。当時の渋江氏の家族は、抽斎45歳、妻五百34歳、長男恒善24歳、次男優善15歳、4女陸3歳、5女1歳の6名であった。長女純は馬場氏に嫁し、3女棠は山内その養女となっていた。嘉永3年(抽斎46歳)に幕府から15人扶持を受けることになった。馬場氏に嫁していた長女純が20歳で亡くなった。妻5百の父比良野文蔵が没した。嗣子である比良野貞固は目付けから津軽藩留守居に進んだ。留守居役とは藩を代表する江戸の外交官の役目である。留守居役には集会日というものがあって、八百善、平清などの料理屋で会合を開くのである。津軽藩では留守居の年俸を300石とし、交際費18両を支給した。実際は貞固は交際費を100両を要した。吉原の火事があると見舞金100両を附け届けなければならい。台所は火の車であったそうだ。津軽藩の留守居には平井東堂がいた。彼らが津軽藩留守居役の2枚看板(双璧)であったそうだ。嘉永4年抽斎47歳のとき、山内家に入っていた3女棠(7歳)がなくなった。そして5女(3歳)が亡くなった。長男恒善が26歳で隠居信順の近習となり、次男優善(17歳)を矢嶋玄碵の養子とした。優善は派手な性格で遊蕩の地に足を入れる憂慮すべき存在であった。この年渋江家は本所台所町に移って、神田の家は別宅となった。嘉永5年抽斎48歳のとき長男恒善が27歳で結婚し、俵田儀三郎の娘糸を娶った。井沢榛軒(49歳)が没した。特に親しく抽斎家族と接した友をなくしたのだ。榛軒をついで弟柏軒が躋寿館の講師に任せられた。嘉永6年には黒船が浦賀に来航し日本は騒然となった。将軍家定のもと難局に当たったのは老中阿部正弘である。
考証家渋江抽斎
安政元年抽斎50歳は事多き年となった。五男専六(のち脩)が生まれ、長男恒善が没した。抽斎は躋寿館の講師たるを持って五人扶持を給せられた。「医心方」の校刻を仰せ付けられた。日本の古医書には、和気広世の「薬経太素」、丹波康頼の「康頼本草」、釈蓮基の「長生療法方」、深根輔仁の「本草和名」、丹波雅忠の「医略抄」、具平親王の「弘決外典抄」の数種を数えるくらいである。900年前の正親町天皇が典薬頭半井通仙院瑞策に賜った「医心方」を、幕命で半井家より30巻31冊を阿部正弘が受け取り提出した。写本プロジェクトが組まれ、総裁2名、校正13人、監理4人、写生16人が任命された。校正13人中に抽斎、井沢柏軒、森枳園、堀川舟庵らが加わった。安政元年(抽斎50歳)10月2日に大地震がおき、抽斎は負傷したが、本所住民救済米2万5000俵を出す事を比良野貞固らと議した。安政3年抽斎52歳は再び藩政に嘴を入れた。抽斎の議の要旨は「弘前藩は当主順承と要路数名を江戸に残して、隠居以下家臣の大半と家族を挙げて帰国せしめるべきである」というもので、江戸詰め費用の削減、参勤交代制度の無力化を狙ったものである。しかるに弘前藩では在府党と在国党の反目は事ある毎に顕著であったので藩論は決まりようがなかった。また隠居信順が反発し、国猿の顔を見たくない者の筆頭であった。そこに津軽藩後継問題がおこって、順承が肥後藩細川家から養子を得ようとしたが、血統を重んじる派は之に反対しお家騒動となり、側用人らは蟄居を命じられた。抽斎の国勝手論に賛成した連中が罪を得たため、抽斎の立場も悪くなった。安政5年抽斎53歳のとき、7男道隆が誕生した。この年多紀苣庭が63歳で没した。多紀苣庭は抽斎の最も親しい友人の医家であった。翌安政5年に将軍家定は没した。コレラであろうといわれている。抽斎はこの年54歳で、そろそろ隠居をして著述に専念したいと五百に洩らした。ところが運命は抽斎の願いを汲んではくれなかった。安政5年はコレラの大流行の年であった。抽斎もコレラによって8月29日に絶命し、遺骸は谷中感応寺に葬られた。時に抽斎54歳であった。小康を得た28日に遺した遺言は成善を養育する方法として、経書を海保漁村に、書を小嶋成斎に、医(素問)を多紀安琢に受けせしめ、機会を見て蘭語を学ばしめるようにというものであった。
医家・考証家渋江抽斎の業績
我国における考証学の系統は、海保漁村に従えば、吉田篁敦が首導し、狩谷液斎が継ぎ、抽斎と森枳園に及んだとされる。吉田篁敦の傍系には多紀桂山、狩谷液斎の傍系には市野迷庵、多紀苣庭、井沢蘭軒、小嶋宝素があり、抽斎の傍系には多紀暁湖、井沢柏軒、小嶋舟庵、海保漁村とがある。抽斎の医学上の著述には、素問識小、素問校異、霊柩講義がある。抽斎は蘭学を嫌っていたという。抽斎の詩は余技に過ぎない吟稿一卷が残っている。護痘要法は池田京水の説をまとめたものだが、江戸時代に刊行された唯一の書である。雑著には劇神仙話、晏子春秋筆録がある。中でも日記は42年間分が存在していたが、保氏が蔵し、親戚に預けたときに失われた。弘前医官の宿直日記である「直舎伝記抄」8冊、長唄「4つの海」の小冊子が残っている。抽斎が作った小説「呂后千夫」も人に貸し出され失われた。これらの著述のうち刊行されたものは「経籍訪古志」、「留真譜」、「護痘要法」、「4つの海」の4冊にすぎない。そのほかは皆写本で保氏が保管している。抽斎の修養は孔子の道を究めるためには六経を学ばざるべからず、これを学ぶにはかならず考証に須つということであった。この考えは師市野迷庵の教えに基づいている。堯舜の道は宋代の朱子学以来各々自説を固持している。伊藤仁斎、荻生徂徠など自説以外を邪道とする論説を張って、儒学を学ぶ人は大いに混乱している。結局古書を読む考証学に至らざるべからずということである。抽斎は「六経を読破したる上は論語、老子の2書にて事足りる」という。論語と老子を同列視のも師市野迷庵の説である。抽斎はついに儒(孔子)、道(老子)、釈(仏教)の三教の帰一に到着した。いかにも日本人的ないい加減さである。差異を弁じないでうやむやでしか理解できないのはまさに日本人の思考である。嘉永安政の時代は天下の士をして岐路に立たしめた。勤皇にゆかんか、佐幕にゆかんか、抽斎は勤皇に附いたというが、その由来は明確ではない。抽斎の父允成は師柴野栗山に啓発されたという。抽斎の師市野迷庵が勤皇家であったことは明白である。抽斎は勤皇家だったかもしれないが、攘夷家ではなかった。洋学の必要なことは理解しており、息子の成善には蘭学を学ばせるよう遺言を残している。安政3年(1856年)に蕃書調所が開設され、安政5年(1858年)には蘭法医を公認し、将軍家の奥医師に蘭法医が採用されている。抽斎の趣味は読書といわざるをえない。医書では素問を愛し、毎月説文会を催しては、小嶋成斎、森枳園、平井東堂、海保竹徑、栗本鋤雲らと集った。抽斎が読んだ小説は赤本、黄表紙、蒟蒻本であった。劇(芝居)をこよなく愛したことは劇神仙の号を持つことから伺える。照葉狂言、能楽、謡曲をたしなみ、古画を蒐集した。古武鑑、古江戸地図、古銭の蒐集家であった。
抽斎没後、五百を中心とした渋江氏の物語
森鴎外は「大抵伝記はその人の死を持って終るを例とする。しかし古人を傾仰する者は、その苗裔がどうなったかという事を問わずにはいられない」といって、抽斎の妻五百を中心とした渋江氏のファミリー史を執筆時点まで継続する。抽斎の誕生が1804年で54歳で没する1858年までに抽斎の伝記プラス大正5年(1916年)までの58年間のファミリー伝記が加わる。本書の分量からすると抽斎伝記と没後のファミリー伝記は半々の取り扱いである。抽斎の没したあとには、43歳の未亡人五百、次男矢嶋優善24歳、4女陸12歳、6女水木6歳、5男専六5歳、6男翠暫4歳、7男成善2歳が残った。抽斎の生前にすでに8人の子は亡くなっていた。矢嶋優善はこの年津軽家の表医者に任じられた。5百の義兄比良野貞固はしきりに五百に説いて、遺族を比良野家に迎えようとしたが、五百は人の廡下に寄ることを甘んじる女ではなかった。2月に2歳の成善が家督相続をした。身を持ち崩して他家に出した次男矢嶋優善24歳は別にしても、なぜ5男、6男が幼いといえども存命するのに、才能があるかどうか医師になりうるかどうかは判断がつかない7男の成善が跡目を継いだ理由が私には分からない。この時点での渋江氏の興亡は危かった。自分の子供の武士としての養育だけでも大変なのに、五百の姉安の夫長尾宗右衛門一家も渋江家に居候しており、宗右衛門は毎日酒を飲んでは商いもおろそかにして、五百はこの一家のもめ事の仲裁まで取り仕切っていたのである。
抽斎没後2年は万延元年(1859年)である。
成善はまだ4歳であったが、津軽信順に近習として仕えることになった。もちろんご機嫌伺い程度のことであろう。このとき小姓となって中屋敷に勤めていた中川文一郎がよく成善の世話を焼いてくれた。そしてこの年10月に海保漁村と小嶋成斎の門に入った。漁村の伝経盧は下谷にあり、実質的には息子の竹逕が代講をしていた。抽斎の墓碑が立てられたのもこの年であった。海保漁村が長文の墓誌を書いた。渋江氏は本所台所町から亀沢町に移転した。矢嶋優善26歳を何とかして自立させようと中丸昌庵が図って矢嶋氏の娘鉄(6歳)と婚約させ緑町に一家を持たせた。養父矢嶋玄碵が没すると、幼い鉄を五百が見ることになった。1人になった優善の放恣なる生活が開始され、悪友塩田良三と妓楼通いとなった。
抽斎没後3年は文久元年(1860年)である。
矢嶋優善27歳は渋江の屋敷に来ては、抽斎の蔵書を売り払った。3月には藩より優善は「身持ち不行跡不埒」の廉で隠居を命じられ、養子を立てることになった。中丸昌庵が町医者伊達周禎(46歳)を養子に迎えた。優善の将来を最も憂えたのは5百の兄比良野貞固で、貞固は優善を面責して山田昌栄の塾に入って勉学させることになった。この年石塚重兵衛の豊芥氏が没した。63歳であった。抽斎の蔵書や書画の散逸の責任のひとりにこの豊芥氏がいる。丸山応挙のが百枚を借りては売り払ったようだ。そこで小嶋成斎は散逸を逸れて、猶存している蔵書を井沢柏軒の家に預けることになった。
抽斎没後4年は文久2年(1861年)である。
抽斎は藩主に毎年「医方類従」を献じていた。書は喜田村栲窓の校刻による。この年にいたって成善が全部を献じ終えた。これに対して藩主より成善に賞賜の品が下った。6歳にして藩主順承より奨学金2百匹を受けた。五百は成善の学問好きを信じて疑わなかったし、一切干渉しなかった。筆札の師小嶋成斎が没した。67歳であった。矢嶋優善が山田昌栄の塾で塾長をしておとなしくしていたのも束の間で、茶屋に潜伏した。五百は優善を連れ戻して、比良野貞固、小野富穀に処分を任せた。貞固は優善に切腹を命じたが、五百は金比羅さんの天罰に任せようとして優善を放った。この年井沢柏軒が奥医師に命じられ、2百俵30人扶持となった。
抽斎没後5年は文久3年(1862年)である。
成善は7歳で多紀安琢の素問の講義に通った。井沢柏軒が将軍家茂に従って京都に入り病を得て没した。54歳であった。山崎美成が没した。67歳であった。抽斎の蔵書仲間で、書の借り貸しの親しい間柄だった。
抽斎没後6年は元治元年(1863年)である。
森枳園が「躋寿館」講師をもって幕府直参となった。
抽斎没後7年は慶応元年(1864年)である。
6男翠暫が11歳で夭折した。留守居役比良野貞固の妻かなが没した。49歳であった。周囲で再婚を勧めたが貞固は固く辞した。
抽斎没後8年は慶応2年(1865年)である。
海保漁村が没した。69歳であった。成善10歳は海保竹逕の弟子になった。竹逕は養父の伝経盧だけでなく躋寿館、間部家、南部家で講義をするなど大変繁盛していた。抽斎の姉須磨の娘延は亡くなっていたが、次女の路が飯田孫三郎の嫁となって湯島天神前に住んだ。
抽斎没後9年は慶応3年(1866年)である。
川口で医師をしていた矢嶋優善33歳が江戸に戻って五百の家に同居した。
抽斎没後10年は慶応4年、明治元年(1867年)である。
慶喜が上野寛永寺に謹慎したとき、弘前藩定府の幾組かが江戸を引き払って弘前に移住した。その中に渋江氏もあった。亀沢町の屋敷を売り払い、奉公人に暇を出し、居候や寄生人の行き先を差配して、官軍が江戸に入った4月20日渋江氏は江戸を出た。このときの同行者には、戸主成善12歳、母五百53歳、陸22歳、水木16歳、専六15歳、矢嶋優善34歳の6人と若党二人であった。渋江氏に同行したのは矢川文一郎28歳と180石表医師浅越一家である。船で小山に着き、そこからは徒歩で奥羽を目指した。その道行きは大変面白く記されているが割愛して、弘前に入って古着屋に下宿し藩から1人1日金一分を受けた。成善は毎日登城した。五百は専六が師となすべき医師として小野元秀を決めた。ところが専六は医師になるより、兵術を学ぶ事を望み、柏原礫蔵らと山澄吉蔵のもとで洋算と簿記を習った。小野富穀、矢嶋周禎らも弘前に着いた。森枳園は主家の阿部氏に従い東京から福山に移った。
抽斎没後11年は明治2年(1868年)である。
4女陸23歳が矢川文一郎に嫁した。陸には母の愛は少なかったが、よく出来た娘で少しも婚を急がず家事をよく見た。文一郎29歳が婿入りをしたようなものであった。矢嶋優善のかっての妻だった鉄を引き受けた五百は鉄と優善の再婚を希望したが、壊れた夫婦仲はもとに戻らず優善が失踪した。比良野貞固は無一文で弘前に戻った。五百は刀35振りを質に入れ25両を借りて貞固の世話をした。
抽斎没後12年は明治3年(1869年)である。
弘前藩士の録に大削減が加えられ、さらに医者の降格が命じられた。成善は儒者として奉じていたのだが、渋江家は代々医師であったため降格され30俵の録となった。一方失踪していた優善は東京に舞い戻り、芸者街で居候していたが、悪友塩田良三が浦和県に出仕していた伝で、浦和県に職を得た。典獄となった。専六は戸沢惟清の世話で山口源吾の養子になり東京へ移住した。抽斎の6女水木が18歳で馬役村田広太郎に嫁した。
抽斎没後13年は明治4年(1870年)である。
医師を降された渋江成善15歳は、東京へ私費留学に向かうことにした。藩は士族の脱籍者を嫌っていたので、藩の大参事西舘孤清の了解を経て東京に行った。当時東京にいたファミリーとしては、山田家に養子に入っていた兄専六が本所割下水にいた。姉安が両国にいた。兄矢嶋優善は浦和にいた。成善は英語を学ぶため、尺振八の経営する本所の共立学舎に通った。さらに成善は海保竹逕の伝経塾、大学南校にも通い、フルベックの個人授業も受けた。学費は五人扶持のうち3人扶持で賄った。8月には弘前県が成善を神社係りという名目で金3両の手当を支給した。浦和の典獄になって勤めていた兄の矢嶋優善が結婚して、埼玉県に職を得た。県の役人はなかなか派振りがよかったそうだ。この年斬髪令が出て、改名をおこなった。成善は保に、優善は優に、専六は脩となった。
抽斎没後14年は明治5年(1871年)である。
弘前にいた平井東堂が没した。59歳であった。保(16歳)は山田脩の家から本所横綱町の下宿に移った。5月には弘前より母五百(57歳)、陸、矢川文一郎と妹陸夫婦も東京へ移住してきた。保は給費10円が支給される師範学校への入学がかない9月より通学した。この年には弘前から再び東京に移る人々が多かった。五百の兄比良野貞固もその1人であった。妹陸が本所緑町に砂糖店をひらき、繁盛したという。
抽斎没後15年は明治6年(1872年)である。
五百は裁縫の賃をえて、何とか相生町に一家の借家を借りることが出来た。五百、保、水木、山田脩が同居した。この年矢嶋優は工部省に転じ鉱山事務係りとなった。姉陸は矢川と離婚し、砂糖屋もたたんで本所亀沢町で杵屋勝久の看板を掲げて長唄の師匠となった。矢嶋周禎の一族も東京に移り、息子周策は師範学校に入学した。
抽斎没後16年は明治7年(1873年)である。
水木(22歳)は深川洋品店兵庫屋藤次郎に嫁した。感応寺で抽斎の法要がおこなわれた。
抽斎没後17年は明治8年(1874年)である。
師範学校を卒業した保は浜松の師範学校の教頭に赴任し母五百も同行した。矢嶋優は三池炭鉱にいたが、工部省を辞め新聞記者に変身した。山田脩も新聞記者になった。森枳園は文部省の官吏として医学校に勤める傍ら、新聞に寄稿した。
抽斎没後18年は明治9年(1875年)である。
保は母五百の還暦の祝を行なった。五百の姉長尾安は62歳で没した。比良野貞固も65歳で没した。小野富穀も70歳で没した。多紀安琢も53歳で没した。喜田村栲窓も73歳で没した。
抽斎没後19年は明治10年(1876年)である。
保の勤めていた浜松師範学校は変則中学校となった。兼松石居は68歳で没した。
抽斎没後20年は明治11年(1877年)である。
山田脩は母に招かれて浜松に来て同居した。新聞記者という職業を五百が嫌ったためである。
抽斎没後21年は明治12年(1878年)である。
守は英語学習の夢忘れがたく、浜松中学校を辞して山田要蔵、中西常吉を擁して帰京し、3人とも慶応義塾に入学した。そして母、脩、保は東京に戻った。すれ違いにして矢嶋優は開拓使御用となって北海道へ移住した。森枳園は大蔵省印刷局御用となり古書復刻版に仕事に携わった。
抽斎没後22年は明治13年(1879年)である。
保は慶應の全科を終了した。山田脩は電信学校に入学、陸の勝久は音楽取調べ所に入学した。
抽斎没後23年は明治14年(1880年)である。
保は小幡篤次郎の紹介で、愛知県中学校校長に就任した。母五百、水木と保の3人で長泉寺の隠居所に住んだが、次第に寄寓する学生が増えた。この年東京では政変がおき、改進党、自由党、帝政党が出来、保は愛知の田舎でも小政社を結成したが、同志の武田順平が刺殺されたためたいした活動もせず解党した。
抽斎没後24年は明治15年(1881年)である。
保は京浜毎日新聞に寄稿した。山田脩は電信学校を卒業して工部省技手となり電信局に勤務した。矢嶋優は札幌にあって渋江氏に復籍した。優の妻蝶が没した。34歳であった。
抽斎没後25年は明治16年(1882年)である。
保(27歳)は愛知県中学校を辞め、東京田町に移って慶応義塾攻玉舎の教師となった。烏森に家を借り、母(68歳)と水木の3人で住んだ。この年の暮に東京に帰っていた優(49歳)が心臓病で没した。
抽斎没後26年は明治17年(1883年)である。
2月に母5百が烏森の家で没した。2月9日に脳梗塞で倒れ14日に69歳で死亡した。五百は60歳を超えて英文を勉強し始めたという。五百は若いときに学問のある夫を持ちたいと願って、数多くあった縁談より渋江抽斎を選んだのだ。保は京浜毎日新聞社編集員となった。この辺で本書は終ってもいいはずであったのだが、森鴎外はさらに保と勝久について記述を続けるのである。
抽斎没後27年は明治18年(1884年)である。
抽斎の親友森枳園が79歳で没した。
抽斎没後28年は明治19年(1885年)である。
保は病気で新聞社を辞め、静岡県犬居村に移住し、静岡英語学校の教頭となった。保(30歳)は静岡士族佐野常三郎の娘松(18歳)と結婚した。
抽斎没後29年は明治20年(1886年)である。
保は東海新報の主筆となった。静岡高等英華学校、静岡文武館の英語教師を兼任した。尺振八が48歳で没した。
抽斎没後30年は明治21年(1887年)である。
保は私立渋江塾を設立した。弟脩が静岡に移住し、警察学校及び渋江塾の英語教師となった。
抽斎没後32年は明治23年(1889年)である。
保は静岡を去り東京に戻った。弟脩は駿河国佐野駅の駅長になって赴任した。この年以降は「抽斎没後○○年は明治○○年(18○○年)である。」という記述形式が無くなる。年度だけを記してエピソードを語るのである。森鴎外氏も疲れたのだろう。残すところ20ページくらいで長唄の師匠勝久(姉陸)を中心とした記述となるが、私もこの辺でやめる。


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