文藝散歩 

旧約聖書の世界

イスラエル民族のカナン移住からローマ時代までの民族史

旧約聖書はかって世界最古の文書といわれてきたが、近世の考古学の発見が相次いでシュメルの楔形文字が最古の文書となった。しかし旧約聖書の創世記にある「ノアの箱舟」などの話はシュメル神話にも存在し、共通の記憶が古代メソポタミアに存在する事が分ってきた。旧約聖書の記憶はせいぜい紀元前1500年までであるが、シュメル神話の記憶は紀元前3500年にまで及ぶ。「旧約聖書」という呼び方はキリスト教の「古い契約」から来ているが、一般には「ユダヤ教聖書」と呼ばれ、ユダヤ教からは「トーラ モーゼ五書」、「ネビイーム 預言書」、「TNK タナハ」と呼ばれている。旧約聖書はヘブライ語で書かれた39の書の集成からなるので、なかなか全部を読んでいる人は少ない。内容に入る前に、旧約聖書の配列を下の表に示す。ユダヤ教の書とキリスト教の書を並列して示す。キリスト教でもプロテスタント、カトリック、正教会の別に書の多い少ないはあるので、代表してカトリックの書を示す。

ユダヤ教、キリスト教(カトリック)の旧約聖書配列
分類 ユダヤ教 キリスト教(カトリック) 概要
モーゼ五書創世記創世記楽園の追放と人間の堕落、カインとアベルの殺人、ノアの箱舟、バベルの塔、アブラハム・イサク・ヤコブの三代の族長の話しとイスラエル十二氏族、ヨセフのエジプトでの苦労が語られる。悪徳の町ソドムとゴモラの滅亡など
出エジプト記出エジプト記エジプトでの奴隷生活から指導者モーゼによる出エジプト、シナイ山でのモーゼの十戒と戒律、ヤハウエ神との契約が語られる。
レビ記レビ記倫理規定、禁忌規定
民数記民数記律法の記載
申命記申命記倫理規定、禁忌規定、モーゼはヨシュアを後継者に指名
前の預言者(歴史書)ヨシュア記ヨシュア記指導者(預言者)に率いられてカナンの地に進出
士師記士師記部族連合の指導者(士師)デボラ、ギデオン、サムスンの活躍
ルツ記
サムエル記サムエル記(上・下)サウルによるイスラエル部族連合体が王政に移行、サウル、ダビデ、ソロモン王が南北を統一しイスラエル王国を拡大
列王記列王記(上・下)北のイスラエルと南のユダ王国に分裂後、南北の王朝史を語る。最期に北イスラエルはアッシリアに亡ぼされ、南ユダはバビロニアに亡ぼされた。バビロン捕囚
歴代誌(上・下)サムエル記と重複するが、南ユダ王国の立場から記載
エズラ記バビロニアがペルシャに亡ぼされ、ユダヤへ帰還して、神殿復活・律法の復興運動 
ネヘミヤ記ペルシャの寛容政策によって律法の復興運動
トビト記
ユディト記
マカバイ記(1・2)ヘレニズムのシリアセレウコス朝による弾圧とエルサレム神殿略奪 ユダヤ人の反乱からはスモン王朝が成立
後の預言者(三大預言者)イザヤ書バビロン捕囚の嘆きの書 黙示文学
エレミヤ書エレミア哀歌バビロン捕囚の嘆きの書
バルク書
エゼキエル書エゼキエル書バビロン捕囚の嘆きの書
ダニエル書
12の小預言者ホセア書ホセア書
ヨエル書ヨエル書黙示文学
アモス書アモス書
オバデヤ書オバデヤ書
ヨナ書ヨナ書
ミカ書ミカ書
ナホム書ナホム書
ハバクク書ハバクク書
ゼフェニア書ゼフェニア書
ハガイ書ハガイ書
ゼカリア書ゼカリア書黙示文学
マラキ書マラキ書
諸書ヨブ記ヨブ記教訓・格言集 神と義について議論する形而上学 外典
詩篇詩篇多くはダビデの作といわれる ヨーロッパ近代文学へ影響大
箴言箴言教訓・格言集
コレントへの言葉コレントへの言葉格言集 厭世的な内容でヘレニズム文化の影響
雅歌雅歌多くはソロモンの作といわれる 恋愛の歌 ヨーロッパ近代文学へ影響大
シラ書外典
ルツ記
エステル記
ダニエル記黙示文学 世界の終末とメシア待望論
エズラ記、ネヘミヤ記

いうまでも無く「新約聖書」はキリスト教団固有の聖典であるが、「旧約聖書」は古代イスラエル・ユダヤ民族が生み出した宗教文学の集大成である。ユダヤ教の聖典をなしているが、キリスト教はユダヤ教を母体にして成立した宗教で、メシアの再来をキリスト誕生と見る予言を採用している。イスラム教も「モーゼ五書」を「コーラン」と並ぶ聖典としていることから、旧約聖書は今日のユダヤ教、キリスト教、イスラム教の一神教の共通の母体である。旧約という言葉はモーゼを通じて神ヤハウエと結ばれた「古い契約」を意味し、その後ユダヤ人の受難期にこの契約が破綻した時、預言者エレミアが「新しい契約」によって救済がもたらされると預言したが、その預言がイエスキリストにおいて成就するというのが「新約聖書」の原点となった。旧約聖書には一体何が書かれているのか一言で言えば、イスラエル・ユダヤ民族の歴史が書かれているのである。旧約聖書の書群を分類すると、上表に見るように、「モーゼ五書」、「前の預言者と歴史書」、「後の預言者」、「小預言者」、「知恵文学」からなる。「モーゼ五書」はカナンの土地におけるイスラエル民族の祖先の話しに始まり、エジプトでの奴隷生活、シナイ山での神との契約(律法)を守ってカナンの土地にたどりつくまでの最初の歴史が話題となる。「前の預言者と歴史書」、「後の預言者」、「小預言者」にはイスラエル民族の歴史が具体的に語られている。歴史は神の意思として民族の盛衰を表すのであり、抽象的観念的な歴史ではない。当時の歴史背景を理解しない事にはこの部分は読めない。「知恵文学」は「詩篇」、「箴言」、「雅歌」、「コレントの言葉」は西欧文学に深い影響を与えたのであるが、歴史との関わりが薄いように思われるが、その背景にはイスラエルの歴史を主題にしたものが多い。ここに旧約聖書の殆どの文書はイスラエル・ユダヤの歴史に密接に関連した内容を持つ。しかし旧約聖書に述べられた事は全て史実かというと、それはユダヤ人の見た信じた民族の運命であって、必ずしも史実ではない。運命と神の審判つまり「救済と災いの歴史」という風に解釈してきたのである。東洋的な「諸行無常」ではなく、あくまで「自分達の行為とその結果」という現実直視型である。当時のカナンの地(パレスチナ)はメソポタミアとエジプトの2大文明の狭間にある辺境の地に過ぎなかったが、軍隊や商隊の通過する要衝の地でもあり、常に侵略の対象であった。つまり自立することの難しい地である。ロシアとフランス(ドイツ)に挟まれた東欧の地に似た政治状況である。旧約聖書に書かれた内容を裏付ける聖書外文書(特にエジプト側やシリア・ペルシャ側)が不足しており、「死海文書」や「ダビデ碑文」などの考古学的発見が断片的に出てくるが、旧約聖書の解釈はいまでも「仮説的性格」にとどまらざるを得ない。

古代オリエントの歴史は紀元前4000年に始まるといわれる。世界最古の文明であるメソポタミア文明については、小林登志子著 「シュメルー人類最古の文明」(中公新書)と岡田明子・木林登志子著 「シュメル神話の世界」(中公新書)に学んだ。シュメル時代は紀元前3500年から2000年までの頃である。旧約聖書の時代はそれよりは随分後の時代で、神話時代を除けば出エジプト記は紀元前13世紀ごろの記述のようだ。気の遠くなるような古い話しではあるが、文書として残っているのが歴史である。旧約聖書の時代からイスラエル・ユダヤ民族は紛争の渦に巻き込まれ、第2次世界大戦後英米の支援を受けて、2000年間の民族放浪を経てイスラエルを建国したが、今なお中東の火種としてアラブ社会を敵に回している。小国の哀れさはロシアと中国に翻弄され泳いでいる北朝鮮のようだ。そういった現代の問題はさておき、しばらく遠い昔のカナンの地に遊んでみよう。「カナンの末裔」を理解するために。本小文は次の5冊の文より構成する。
1)山我哲雄著 「聖書時代史 旧約篇」 岩波現代文庫(2003年2月)
2)「旧約聖書 創世記」 関根正雄訳 岩波文庫(1965年5月)
3)「旧約聖書 出エジプト記」 関根正雄訳 岩波文庫(1969年1月)
4)「旧約聖書 エレミヤ書」 関根正雄訳 岩波文庫(1959年11月)
5)「旧約聖書 ヨブ記」 関根正雄訳 岩波文庫(1971年6月)



1)山我哲雄著 「聖書時代史 旧約篇」 岩波現代文庫(2003年2月)


旧約聖書の舞台となるパレスチナ地方は、乳と蜜の流れる「カナンの地」とよばれ、地中海東部沿岸の南端に位置する。この地はメソポタミアから延びる「肥沃な三日月地帯」の南西端にある。規模は「ダンからベエル・シェバ」までの南北約240km、東はヨルダン渓谷から西は地中海までのおよそ四国ほどの大きさである。気候は全体として地中海気候で冬の雨季と夏の乾期からなり、農産物が取れるのは冬期である。主要な産物は大麦、小麦、豆、オリーブ、葡萄などが栽培されている。山岳ぶでは羊や山羊の放牧に利用されていた。天然資源に恵まれないこの狭い地方が歴史時代を通じて「オリエントの火薬庫」というべき理由は、エジプト、メソポタミア、シリア、アナトリア(トルコ高原)、さらにアラビアの文化圏を結ぶ陸橋地帯を形成していたからだ。南北に「海の道」と「王の道」の2本の軍隊と商隊が通る戦略上の拠点となる幹線道路があり、時によってはこの地に富と繁栄をもたらし、時には隣接する大帝国の軍靴に踏みにじられたのである。これが民族の繁栄と悲劇(殆どが悲劇であるが)の歴史の契機となった。カナンの地は初期青銅器時代(紀元前3300−2200年)から多数の国家が形成された。中期青銅器時代をすぎて紀元前1800−1600年ごろから都市国家が再建されて経済的・文化的に活況を呈するようになった。カナンに居住した人は人種的には北西セム語を話すシリアのアモリ人で主であったらしいことが旧約聖書にも出てくる。北のフェニキア人とも交流があった。紀元前1500年ごろから、カナンのほぼ全土がエジプトの影響下に入る。そして紀元前1200年ごろ牧羊系分化を持つ集団が定住しアンモン、モアブなどの領土国家を形成し、相前後してカナンの地に進出してくるのが、旧約聖書時代のイスラエル人であった。

1、伝承と神話の時代(創世記・出エジプト記)

イスラエル人とは文学的にいえば「旧約聖書でカナンの地に住んだ12の部族からなる民族である」ということだが、民族学的には多数の民族混合で、歴史的にいえば多くの離合集散を繰り返した集合体であろう。決して単一民族(民族の定義さえ怪しいのだから)ではありえない。旧約聖書では神ヤハウエに祝福され「大いなる国民」となる約束を与えられた族長アブラハムから三代目の族長ヤコブの息子の子孫がイスラエル十二部族である。イスラエルの祖先となるヤコブの一族は、遊牧民であったがエジプトに下ったが、エジプト王によって奴隷にされ苦しんだ。神ヤハウエはモーゼを遣わしてエジプトから脱出させシナイ山で神と契約を結ばせる。その後イスラエルの民はカナンの地に至り、後継者ヨシュアに率いられてカナンの地を征服し、12の部族に分配したという。この話は「モーゼ五書」と「ヨシュア書」の説くところである。これらはあくまで伝承であって史実ではない。イスラエル人が文字を持つようになったは前1000年頃で、伝承が文字化されたのは統一王国以降のことである。日本の「古事記」と同じく多くの部族の伝承が反映しているようだ。「モーゼ五書」と「ヨシュア書」が最終的に出来上がるのが「バビロン捕囚」(前6世紀)以降のことである。とはいえ伝承のなかには歴史的「核」があったと思われる。勿論現在では、イスラエル民族が共通の祖先から出たとか出エジプトという共通の記憶を持つという観念は、歴史性を否定されている。アブラハムーイサクーヤコブーイスラエル十二部族という系譜は日本の古事記の神の系譜と同じように創作に過ぎない。イスラエルの祖先が牧羊的背景を持つ事は確からしい。アブラハム・イサクはユダ南地方を、ヤコブは北のサマリア地方を背景としている。申命記ではアラム人を祖先とすると述べられている。

「出エジプト記」は「ダビデ」、「バビロン捕囚」とならんで旧約聖書のイスラエル民族の自己理解と神の理解を根本的に特徴づける三大事件である。出エジプト記に書かれている「ピトムとラメセス」の町の建設に従事したことには歴史的核がある。紀元前13世紀のエジプト第19王朝のラメセス二世の頃の話である。しかし膨大な書を持つエジプト側には「出エジプト記」に相当する事は何も書かれてはいない。恐らくは少数の奴隷の逃亡に過ぎなかったのだろう。イスラエル民族としてはこれを共通の歴史とするため規模を60万人に拡大したのであろう。「過越祭り(すぎこし)」として出エジプトの経験を永遠に残した。シナイ山での契約は神出現伝承と契約ー律法授与物語として結び付けられた。前7世紀の申命記運動の頃に成立した「十戒」の編集も混入している。「ヨシュア書」にいわれるヨシュアの指導のもとでカナンの地を一気に征服したということも嘘であろう。多部族が少しづつ支配地拡大に励んでいたのだろう。

2、カナンの地へイスラエル民族の定住(前12世紀ー前11世紀前半)(「ヨシュア書」、「士師記」)

前15世紀中頃、強大なエジプト第18王朝のトトメス三世がシリア・パレスチナ遠征を行い、カナンの地全体を支配下に置いた。前13世紀にエジプトで18王朝が成立しラメセス二世がシリアに侵略したヒッタイト帝国と闘い和議となった話は有名である。前12世紀にかけて海洋民族ペリシテ人などがエーゲ海から大挙して南下してきた。エジプト第20王朝のラメセス三世が彼らのエジプト侵入を食止めた。この時期に山岳地帯から平野部のカナンに進出してきた集団がイスラエル人の祖先である。時は鉄器時代でカナンの都市国家群との戦いは熾烈であった。この中で部族戦闘集団が形成された。「旧約聖書」の「ヨシュア書」、「士師記」に書かれたその部族指導者を「士師」という。「士師記」はハツォルを中心とした北部の都市国家連合軍を「デボラの戦い」で打ち破ったことを記す。この頃にイスラエルという部族連合の統一体が出来上がったのであろう。これを隣保同盟(アンフィクチオニー)という諸部族連合体と捉える歴史家もいる。

3、統一王国の確立(前11世紀後半ー前10世紀) (サムエル記)

ユダヤ人はこれまで大国の圧政下において被害者の役割ばかり演じてきた。そのことを反映してヤハウエ神は人間が人間を支配することを認めない,本質的に反王制的性格を持つ宗教であった。その弱小民族にも、山岳地帯の牧羊生活から平野部に進出して豊かな農産物を得る都市生活に移ると、部族社会や村落共同体の構造が根本的に変わり、強い軍事力や強制力を持つ集権国家へ、そして王権の出現への要請が高まってきた。当時海洋民族のぺリシテ人は鉄兵器で重装備した軍隊を持ちカナンの平野部へ進出してきたので、イスラエル民族は存亡の危機に瀕した。結局イスラエル初代の王となったのはサウルであった。王権派サウルと反王権派サムエルの対立の争点は永遠の宗派の争いとなった。サウルの王権は領土国家というよりは連帯感と帰属意識を基礎とする民族国家であったといわれる。サウルの死後、ユダ部族の王となったダビデは部族間の権力闘争を経て、前1004年ついにユダ王国とイスラエル王国の二つの国家の王となった。ダビデの支配は二つの国に一人の王という体制で、二つの国は並存する形である。ダビデはぺリシテ人を討伐してヨルダン川西のカナンの都市を支配し、北王国と南王国の中間にあったエルサレムを征服して都を置いた。ダビデはエルサレムに神殿を建設しようとしたがこれは彼の息子ソロモンの時に完成した。これによって、「奴隷を解放する神」、「人間による人間の支配を認めない神」から、エルサレムにおいてはダビデ王朝を正当化する王朝の守護神に変身した。ダビデはエジプトにならって官僚組織を整備し中央集権制を確立して、4辺の諸民族を支配下に置いた。エドム人、モアブ人、アンモン人、アラム人を討って小規模ながら帝国を樹立した。2本の交易路、海の道と王の道を支配下においてイスラエルの経済繁栄の基礎を築いた。イスラエル民族初めての王であるダビデはこうして民族永遠の英雄となったのである。再び苦境におちいるたびに人々はダビデの再来を熱望した。

ダビデの死後王権を兄弟で争い勝利したのは弟のソロモン王であった。ソロモン王は前965年に即位後は戦いを殆ど行わず、父ダビデの築いた王国の経済的・文化的繁栄をもたらした。活発な平和外交を展開し、イスラエルに多くの外国使節を招いた(南アラビアのシバの女王ら)。商業船団を編成して紅海交易をおこなって富をなした。その富でイオンの丘に神殿を築いてエルサレムを聖地とした。前926年ソロモン王が死ぬと、北王国の反乱(ヤロブアムの乱)が起き、北部12部族は離反して北イスラエル王国をつくり、南にはソロモンの息子レハブアム(在位926−910年)がユダ王国を作った。

4、王国分裂と南北王制、北イスラエル王国(前10世紀ー前8世紀前半)、南ユダ王国(前10世紀ー前6世紀前半) (「列王記」、「歴代誌」)

北イスラエル王国のヤロブアム1世(在位926ー907年)はシケムを都としたが、北王国の王朝は比較的短命で、政変で王が殺害され激しく王朝が替わった。ヤロブアム1世は2代20年で、パシャ(前906−883年)も2代24年で、ジムリは7日で、前878年に出来たオムリ王朝は4代33年で、前845年に出来たイエフ王朝は五代98年で、シャルム(前747年)は1年内で、前747年のメナヘム王朝は2代11年で、ぺカ、ホシュアは一代で亡んだ。前926年から前721年に亡ぶまでの約200年間に19人の王が交代した。それに対して南ユダ王国ではダビデ王朝そのものは不動で、あくまで王朝内部から次の王がでた。ダビデ王朝は前1004年から前587年までの約400年間22代の王が交代した。王朝の変遷事蹟については煩雑になるので一切省く。それでも前926年から約350年間はイスラエル民族は王国としてまがりながらも存在した。

5、アッシリアの進出と北イスラエル王国の滅亡(前8世紀後半ー前7世紀) (「列王記」)

前8世紀前半まではイスラエル、ユダ王国がともに王国として安定した時代をおくることができたが、メソポタミア北方の大国アッシリアの西方進出によって太平の夢は破られた。北のアッシリアの進出に対して南のエジプトがシリア・パレスチナにさまざまな干渉を加え、イスラエル民族はこの2大超大国に挟まれて翻弄される運命を辿る。アッシリアのティグラトピレセル三世がシリア・パレスチナに遠征した。前737年に北イスラエル王国を倒し、北イスラエル民族の集団移住政策と、別の民族のイスラエルの地に移入政策を行った。北王国を構成していた10の部族は散逸して移住先の民族に吸収された。これを「失われた10部族」とよぶ。前721年の北王国の滅亡によって多くの難民が南のユダ王国に逃げ込み、さまざまな伝承が旧約聖書に伝えられた。南のユダ王国王ヒゼキアは表面上はアッシリアへの忠誠を誓った。前705年にアッシリアのサルゴン王の死去に伴う混乱に乗じてユダ王ヒゼキアは反乱を企てたが、エジプトの援軍も破れて降伏した。再びアッシリアに忠誠を誓ってユダ王国は存続した。この時期のアッシリアはサルゴン王朝の王の下で強大になり、前671年にはついエジプトまでを支配する真の世界帝国となった。ユダの王ヨシュア(前639―609年)はヤハウエ主義に基づく宗教改革は、アッシリアからの離脱と民族国家の再生を念願したものである。前7世紀後半にはさしものアッシリアも衰退を迎え、ヨシュアの改革も各地の民族が反乱を起こした時代を背景とするものだ。アッシリアの滅亡後、前600年ごろには帝国は4大国が分立した。イランから中央アジアを支配する「メディア」、メソポタミア・シリア・イスラエルを支配する「新バビロニア」、「エジプト」、トルコを支配する「リュディア」である。こうして南のユダ王国は「新バビロニア」によって前587年に亡ぼされた。

6、バビロニアの進出と南ユダ王国の滅亡、バビロン捕囚(前6世紀前半) (「列王記」、「イザヤ書」、「エレミヤ書」、「エゼキエル書」)

イスラエル・ユダ民族にとって前6世紀の百年間は他のオリエント諸民族以上に激しい受難期を迎えた。この時期に王国の滅亡。バビロニア捕囚、そしてパレスチナ帰還を体験する。支配者はアッシリアから、エジプト第26王朝、新バビロニア帝国、アケメネス朝ペルシャとめまぐるしく変わった。アッシリア帝国滅亡後、シリア・パレスチナの覇権を争ったのはネブガドネツァルの新バビロニアとネコ二世のエジプト第26王朝であった。前598年エルサレムを征服した新バビロニアのネブガドネツァルはユダヤ王ヤヨキンを捕らえてバビロンに移した(第1次バビロン捕囚)。この時点ではユダ王国は解体されなかった。ユダ最後の王ゼデキヤはエジプトの援助を頼んで反乱し、前587年にエルサレムはネブガドネツァルによって征服された(第2次バビロン捕囚)。ネブガドネツァルはエルサレムを徹底的に破壊し、神殿に火を放った。そしてユダをバビロニアの属州に編入し、ゲダルヤを総督に任命したが、反バビロニア勢力はこの総督を暗殺してエジプトに逃げた。前582年第3次バビロン捕囚があったとされる。アッシリアの占領政策と違って、新バビロニアはイスラエル民族を比較的まとまった形でバビロンに移住させ、エルサレムには他民族を入れなかった。こうして生き残ったイスラエル十二部族は旧ユダ王国のユダ部族だけとなり、彼らはユダヤ人と呼ばれた。王国の滅亡と捕囚という事態は、深刻な信仰の危機をもたらした。こうして民族の国家はなくなったが、ユダヤ人の信仰はユダヤ的生活習慣(安息日、割礼、食物規定)を中心とした律法の体系の中に離散した民族の同一性を保った。捕囚後の律法を中心とした宗教を「ユダヤ教」と呼び、捕囚以前の宗教「ヤハウエ宗教」と区別する。強力な新バビロニア帝国も100年を待たず、前539年にペルシャのキュロスによって亡ぼされた。

7、アケメネス朝ペルシャの支配(前6世紀後半ー前4世紀中) (「エズラ記」、「ネヘミヤ記」)

アケメス朝ペルシャ帝国の建設者キュロス二世(前559―530年)によってユダヤ人は解放(?)された。キュロス二世は徴税を除いて寛大な征服者であった。最終的に東はインダス川のインドから西はマケドニア、北はカスピ海、南はエジプトまでの大帝国となった。そして前538年にバビロン捕囚のユダヤ人を解放し、パレスチナ帰還と神殿再建を許した。シェシュバツアル総督を指導者としてユダヤ人は帰還して神殿再建に取り掛かった。実行したのは総督ゼルバベルとツァドク家の祭司ヨシュアであった。前515年に神殿は再建された。ペルシャの州制度のなかで、ユダヤは独立性は持たずに地方総督の支配下におかれた。ユダヤ帰還人の総督ネヘミヤはエルサレムの城壁の再建をおこない、総督エズラは神殿祭儀と律法を復活させ、律法教育にも尽くして「ユダヤ教の父」とも呼ばれた。ネヘミヤとエズラの活動で再編された帰還後のユダヤ人共同体はペルシャの支配下で、ユダヤ人の自己同一性を維持する宗教共同体として存続した。エルサレム周辺のイエフド地方に居住したユダヤ人は、北のシケムを中心とするサマリア人とは同じヤハウエ神を崇拝したが、「モーゼ五書」のみを聖典とするサマリア教団とは対立関係にあった。

8、ヘレニズム時代(セレウコス朝・プトレマイオス朝)の支配(前4世紀中ー前2世紀中) (「ダニエル書」、「マカバイ記」、「コレントへの言葉」、「ヨナ書」)

マケドニアはコリント同盟を統合してギリシャ的世界の統一を果たした。アレクサンドロス三世(在位前336−323年)は前333年シリアのイッソスの戦いでペルシャのダレイオス三世を退けシリアからエジプトを征服し、前331年ガウガメラの戦いでアケメネス朝ペルシャを亡ぼした。アレクサンドロス大王はさらに軍を東進させ前326年にはインドのガンダーラも征服し一代帝国の版図を広げたが、前323年熱病で死亡した。アレクサンドロス大王の広大な領土内の融合政策は文化面でギリシャ文明とオリエント文明との結合を成し遂げ、世界市民主義コスモポリタンの基になった。この文化をヘレニズム文化という。アレクサンドロス大帝国は前4世紀末にはリュシマコス朝トラキア、カッサンドロス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトのヘレニズム四大王国が成立した。かってのイスラエルは南北に分断され、北はセレウコス朝シリアに、南はプトレマイオス朝エジプトが支配した。パレスチナの地はこの両王朝の覇権に翻弄され、6度も「シリア戦争」が戦われた。第1次シリア戦争は前274−271年、第2次シリア戦争は前260―253年、第3次シリア戦争は前246―241年、第4次シリア戦争は前219ー217年、第5次シリア戦争は前202−198年に戦われついにパレスチナの地はセレウコス朝シリアの領土になった。そうするうちにポエニ戦争に勝った共和国ローマが西から進出してくるのである。ユダヤ人はペルシャ時代以降異民族の支配には慣れきっており、自分達の神殿礼拝と律法遵守を中心とした宗教生活が保障される限り反抗はしなかった。エルサレムの神殿の大祭司はツァドク家であり、納税と部族内の治安の責任を負った。前175年にアンティオコス4世が即位すると、セレウコス王国内のヘレニズム化を徹底して進め、ユダヤ教にヘレニズム化を受け入れるように逼った。前169-168年に第6次シリア戦争がおこり、アンティオコス4世はエジプトに侵入したが、ローマが介入して撤退を余儀なくされた。彼はその帰りにエルサレムを破壊し、多くのユダヤ人は殺されたり奴隷に売られた。アンティオコス4世はユダヤ教に対する寛容策を捨て、宗教弾圧を開始した。弾圧に対する反乱は前167年ユダのマカベアが起こして、シリア軍を破った。アンティオコス4世の死後東方政策からパレスチナが手薄になると、ユダはローマを後ろ盾にして反抗運動を続け、殆ど事実上の支配を回復した。前141年シモン大祭司はセレウコス朝の支配を終了させた。前587年のユダ王国滅亡後実に450年ぶりに独立国家として再生した。前30年にローマによる征服までを「ハスモン王朝時代」と呼ぶ。

9、ハンモン王朝時代・ローマの支配(前141−前30年)

ユダヤ人はハスモン王朝のもとで一時的ではあるが事実上の再独立を果たした。ハスモン家の支配は大祭司という宗教的地位と王という政治的地位を兼ねる聖俗一体の政権である。抵抗運動の指導者がシリアの属王としてユダヤ人を支配する構図は宗教者の反発と正統性に疑義を生じるものであった。シモン(在位前141−134年)からヒルカノス(在位134―104年)において諸宗派内に対立が顕在化する。サドカイ派、ファリサイ派、エッセネ派、クムラン派と分かれていった。ハンモン王朝はヨタナン(在位前103ー76年)の戦闘力に指導され、戦いに明け暮れた時代であった。その版図は前100年ごろにはダビデ統一王国に匹敵するものになった。国内の宗派に対しては恐怖政治の独裁者として振舞ったので、ハンモン王朝内には内紛が広がり、ローマの介入を招いた。ヒルカノス二世とアリストブロス二世の兄弟戦争の間、セレウコス朝を亡ぼしたローマのポンペイウスが前63年にエルサレムに侵攻した。王制を廃止しローマのシリア総督スカウルスの支配下に置いた。ローマのポンぺイウスとシーザの権力争いにハンモン王朝の末裔が巻き込まれ、ユダヤの王ヘロデがローマの後ろ盾のもとにユダヤを支配するというイエスの時代となった。



2)「旧約聖書 創世記」 関根正雄訳 岩波文庫(1965年5月)


「モーゼ五書」はイスラエル人の信仰告白といわれ、先祖以来の歴史を回顧し、族長、エジプト下り、エジプト脱出、カナン進出の4つの物語において捉えるものである。口碑(伝承の話された内容)を記述する形式であり、合理的な歴史著述ではないにしろ、一つの民族が深い洞察力で翻弄される民族の歴史を神との契約と理解して受け入れ、自分の内面体験を通じて人間の運命を掘り下げて理解するのである。イスラエル人は「賤民民族」として、己の姿をはっきりと自覚するのである。そこから救いの道を神に望むのである。「創世記」は先祖たち(アブラハムーイサクーヤコブーヨセフ)のパレスチナ(カナン)を中心とする生活、さらにエジプト下りを述べる。神を一般名称として用いる「祭司資料」(前5世紀ごろ)とヤハウエ神を特定して用いる「ヤハウエ資料」(前10世紀ごろ 南ユダ地方)と「エロサム資料」(北イスラエルの伝承)の3つの流れが合流していると専門家は指摘する。関根正雄訳の「創世記」は「創造」から「ヤコブの終り」までの全文を50章に分かつ。本書は興味深い物語に満ちた面白いお話集と理解してよい。個々の話の史実は先ずないといっていいが、民族を取り巻く背景は語られていると思える。前15世紀から前13世紀ごろの伝承であろうと思われる。

(創造神話)
1:創造
祭司資料とヤハウエ資料の二つの天地創造神話が併記されている。祭司資料は天地創造の7日間をのべ、人は第六日に神に似せて創造されたと説く。すべての生命をその食糧として利用できることになった。ヤハウエ資料では、土から人を作り、「エデンの園」に置いたとなっている。そして伴侶として男の肋骨から女を作った。女は子を生み男の支配を受けると定めた。
2:堕落
蛇に唆されて禁断の智慧の身を食べたアダムと妻は、エデンの園から追放され、土地を耕して一生働き食を得て、ついには土に帰る運命を背負う事になった。これを人間の原罪という。
3:カインとアベル
アダムとエバはカインとアベルという子を生んだ。カインは農夫、アベルは牧者で、神はカインの供物を喜びアベルの供物を喜ばなかったので、怒ったカインはアベルを殺した。神ヤハウエはカインの殺人の罪でノドに追放し、カインは地上の放浪者(遊牧の民の祖)となした。
4:カインとセツの系図
系図は煩雑なるので省くが、カインの子も罪の子として、遊牧生活者である。
5:アダムの系図
アダムの系譜が次々と述べられるが、神代の人は皆寿命は数百年と長い。子供とは恐らく部族か民族の名に関連付けられる。最期に述べられる子供がノアである。ノアはセム、ハム、ヤペテを生んだ。
6:天使の結婚
神の子が人と交わって出来た人の寿命は120年と決めた。
7:ノアの洪水
神は人が腐敗したので人を亡ぼしてしまおうと考えた。ノアは義の人であるので、ノアだけは助けようとして船を作り必要な動物の雌雄をのせて生き延びるように命じた。そして40日間雨を降らせ大洪水を150日間起こさせた。悪い人間は死に絶え、正しい人間のノア一族が神との契約を行った。(ノアは本当に正しい人だったのか。そうなら今も人間は正しいはずなのに。ああ矛盾!)
8:葡萄つくりのノア
ノアは農夫であった。裸で寝ていたノアに子セムとヤペテは着物をかけた。ノアはハムの子カナンを呪った。(なぜハムを呪わずにその子カナンを呪うのか、おかしい) 9:民族の分布
セム、ハム、ヤペテの一族の系図が語られるが、省略する。ハムーカナンームロドという系譜は特別である。ムロドはこの世界で最初の権力者となった。オリエント世界の民族の系譜を語っているようだ。
10:バベルの塔
シナルの地に住み着いた人たちは、同一の言葉を話して次第に強力になり、レンガを焼いて天まで届くバベルの塔を建てようとした。これを怒った神は部族を弱体化させるため、言語を混乱させお互いの言葉を通じないようにした。全地の言葉を乱し全地に人をばら撒いた。
(第1代 アブラハムの時代)
11:セムおよびテラの系図
セムの系図からテラが出て、テラの系図からアブラムが出た。テラ一族はカナンの地に向かった。途中テラは死んだ。
12:アブラムの放浪
ヤハウエ神はアブラムを祝福してカナンの地に向かわしめた。ロトが同行した。神はアブラムにカナンの地を与えると約束された。
13:サライの冒険
この地に飢饉があったので、アブラムはエジプトへ移った。妻のサライを妹と称して王パロに面会した。美人の妻のおかげでエジプトでよい待遇を与えられたが、サライに興味を示したパロに妻であることがばれて、アブラムらはエジプトを追い出された。
14:ロトの分離
カナンのネゲブ地方に戻ったアブラムらはベテルで天幕を張ったが、狭い土地であったので、終始行動をともにしていたロトの一族との間にトラブルが起きた。そこでロトは東のヨルダン川渓谷へ、アブラムはカナンの地に住むという協定が結ばれた。遊牧民族の放牧地・農地のテリトリー分けを物語る。
15:アブラムとメルキ・ツェデク
部族連合軍がソドムのロトを襲い財産を持ち去った。アブラムは318人の部隊を編成して北の連合軍を追い撃破して財宝を取り戻した。そしてソドムの王メルキ・ツェデクと同盟を結んだ。
16:契約の締結と約束
ヤハウエ神はアブラムと契約を結び、エジプトの川からユーフラテスの川までを与えると約束した。(神はえらく大盤振る舞いの空約束をしたものだ。いまだに実現したことはない)
17:ハガル
アブラムは妻サライの召使ハガルとの間にイシマエルを生んだ。
18:アブラハムとの契約
神ヤハウエはアブラハム(ここからアブラムがアブラハムと呼び名が変わる)と契約し、アブラハムが多くの国民の父となる事、カナンの土地を永遠に所有として与えると約束し、そして「割礼」を受けることを契約させた。またアブラハムの後継者はイシマエルではなく、妻サライとの子イサクである事を告げた。
19:へブロンにおけるアブラハム
神ヤハウエは妻サライに子供を授ける事を告げ、ソドムとゴモラに反乱が起きる事を告げた。
20:ソドムの滅亡
神の使いはソドムにいたロトの一族に後ろを見ずに逃亡する事を命じ、町を焼き払った。ロトは助かったが、後ろを見たロトの妻は塩の柱に変えられた。
21:サラの冒険
アブラハムの妻サラ(サライのことか)を妹と偽ってゲラル王アビメレクに会わせる話しであるが、これはエジプト王パロの話し(13:サライの冒険)と重複している。話のヴァリエーションであろうか。アブラハムは美人局なのか。
(第2代 イサクの時代)
22:イサクの誕生とイシマエル
サラがイサクを生み、神はイサクをアブラハムの後継者と定めたので、召使ハガルとイシマエルはバランに去り、イシマエルはエジプトから妻迎えた。そこでイシマエル一族は栄えたという。
23:ベエルシェバ
アブラハムが堀った井戸をめぐってアビメレクと紛争になったが、二人は誓いを立ててベエルシェバで契約を結んだ、アビメレクはペリシテ人の地に戻った。
24:イサクの献供
アブラハムは神ヤハウエより信仰心を試された。モリアの地で燔祭を行い子イサクを生贄にささげよというものであった。まさに刀でイサクを葬ろうとした時、神はアブラハムの神を畏る気持ちに満足し、子孫末裔の繁栄を約束した。神も疑い深いですね。
25:サラの埋葬
アブラハムの妻サラが死んだ。そこで、マムレの前のエフロンの洞穴と畑をアブラハムはヘテから買い取って墓所とした。
26:イサクの嫁選び
アブラハムはイサクの嫁を親戚部族がすむアラム・ナハライムに求めた。同じような話が長々と続くが、つまりイサクはリベカを嫁にした。
27:ケトラの子ら
アブラハムはケトラを後妻にとったが、全財産はイサクに与え、ケトラが生んだ多くの子は東へ移した。
28:アブラハムの死と埋葬
アブラハムは死んでエフロンの墓所に葬られた。
29:イシマエルの系図
アブラハムが側女ハガルに産ませたイシマエルの子は12の君侯になった。イシマエルは死んでアブラハムの同族に加えられた。
30:イサクの子ら、イサクの話し
イサクの妻リベカは双子を産み、エサウ、ヤコブとなずけた。エサウは猟師に、ヤコブは牧者となった。イサクはエサウを愛したので、ヤコブはエサウから長男の権利を買った。妻リベカはヤコブを愛し、それがエサウとヤコブの後継者争いになり、他の部族ゲラル王アビメレクが介入してきた。イサクはアビメレクと相互不可侵の誓約を結んだ。
31:イサクその子を祝す
エサウとヤコブの後継者争いはイサクの死の床までもつれ込んだ。父イサクはエサウを後継者にするつもりが、ヤコブが上手く父を騙して後継者権を得た。そこでエサウとヤコブの戦争となった。イサクという人物は影が薄く、部族戦争となるなど問題が多い。
32:ヤコブとエサウ
ヤコブはイサクの後継者となって、母リベカの実家アラム家に嫁を探しに出かけた。一方エサウはイシマエルを頼って妻を娶った。部族内の閨閥抗争が顕著になってきて結局エサウが部族の正統権を獲得し、ヤコブはベエルシェバを捨てて母の実家のハランに逃げたというのが真相であろうか。
(第3代 ヤコブの時代)
33:ベテルの啓示
ヤコブがベエルシェバをでてハランに向かった時、神ヤハウエがヤコブの繁栄を祝福したので「神の家」を建てた。
34:ヤコブの妻
ナホルの母の兄ラバンを尋ね、ラケルを見初めたが七年間ラバンの僕となって働くことが条件であった。そしてヤコブはラケルを嫁に出来ると思ったが、ラバンは姉レアを与えた。そして妹ラケルを嫁にほしければさらに七年間働くことが条件になった。随分非道な話しである。合計14年間ラバンはヤコブを拘束したが、その間おそらくヤコブは部族対立のため放浪しラバンを頼っていたのであろう。姉妹二人を嫁に取るという習慣があったことが伺える。
35:ヤコブの子ら
ヤコブとレアの間に生まれた子は、ルベン、シメオン、レビ、ユダである。ラケルに子はなかったので婢との間の子は多かった。しかし神はラケルに子を与えた。ヨセフである。
36:ヤコブの富
ヤコブがラバンのところで厄介になっている時、牧畜の数が大変繁殖しヤコブは富者となった。
37:ヤコブとラバンの分かれ
アラム人ラバンのところで20年間働かされたヤコブは、報酬のことでラバンと争い決別して、妻と財宝と羊を持ってカナンの地へ出発した。追いかけてきたラバンと和解の契約をして(部族間の誓約)マハナイムに向かった。
38:マハナイム
ヤコブはエドムの地にいた兄のエサウに贈り物をしてご機嫌を伺った。エサウは400人の兵をもってヤコブを襲った。
39:ペヌエル
妻子供家畜などをペヌエル川を渡して、とどまったヤコブは神の祝意を得て背水の陣でエサウ軍を破った。これよりヤコブの名を変えイスラエルと呼ぶことになった。
40:エサウとの会見
エサウと会見を行い和議がなって、エサウはセイルの地へ、ヤコブはカナンのシケムの町に入り祭壇を設けた。
41:ディナの物語
ヤコブとレアの娘ディナがハモル人の若者シケムに辱められた。シケムはディアナを嫁に貰いたいと申し込んできたが、割礼をしていないイスラエル人以外の男に嫁にやるわけには行かないと、兄のシメオンとレビはハモルのまちを襲って悉く男を殺した。これを聞いたヤコブはイスラエルは小さな民族で、他の民族を敵にしては我々は滅ぼされるだろうと嘆いた。
42:ベテル
ヤコブは放浪の旅に出た。神はヤコブがベテルに祭壇を築けば、ヤコブ(イスラエル)にこの地を与え、子孫繁栄を約束した。
43:ベニヤミンの誕生、ラケルの死
ベテルを出てエラフタ(ベツレヘム)の手前で、ヤコブの妻ラケルは難産の末にベニヤミンを生んでなくなった。
44:ルベンの醜行
ヤコブがエデルから少しはなれたところに天幕を張って住んでいたころ、子ルベンがヤコブの妾ビルハと寝た。
45:ヤコブの子らとイサクの死
ヤコブの子は十二人(イスラエルの12部支族)いた。ヤコブはヘブロンのマレムの父イサクの元へ帰った。そしてイサクは死んだ。ヤコブと兄のエサウが父を葬った。
46:エサウの系図
エサウの系譜が述べられる。省略する。エサウ一族(エドム人)はヤコブと離れセイルの地へ移った。
(第4代 ヨセフの時代)
47:ヨセフ、エジプトへ来る
ヤコブは父イサクの地カナンに住んでいた。ヤコブの子の中で下のヨセフは兄弟と仲が悪るかったが、夢占いの才があり、自分が11人の兄弟のトップに立つことを宣告したので、兄弟はヨセフを憎み落とし穴に落として殺そうとした。兄弟の仲でルベンとユダの立場は微妙で、ヨセフと助けようとユダは通りかかったイシマエル人の商隊にヨセフを売った。イシマエル人はヨセフをエジプトに連れて行った。
48:ユダとタマル
ユダの因果な話が語られる。ユダはカナンの娘を嫁に貰って長男エルを得た。ユダは長男エルのためにタマルという嫁を迎えた。エルが早死にすると、タマルを弟オナンに嫁がせたが、恐れをなしたオナンは交わらず、彼も早死にした。タマルはティムナの父の家に戻されが、ユダがティムナに牧畜のために来るというので、遊女に変装してユダを誘った。そして印と杖をユダから貰ってユダと交わり双子の子をなした。タマルが淫行をなしたという噂が広まってユダが問い詰めると、タマルは印と杖を見せユダの子であることを明かしたという。
49:ヨセフとその主人の妻
イシマエル人はヨセフをパロの侍従長のエジプト人に売った。ヨセフは神の恩恵を受けているのでやる事が悉く上手くゆき、主人のエジプト人の寵愛を得て、主人の家の全財産の管理を任されるまで信頼を得た。ところが主人の妻が寄席オフに関係を迫ったが、これをヨセフが断ると妻は逆に訴えた。主人はヨセフを獄に入れたが、獄においてもヨセフは絶大な信頼を得た。この辺は「人間万事塞翁馬」のような按配に逆風が幸運に転がってゆく話に似ている。
50:ヨセフ夢を解く
エジプト王の酒人と膳人が罪を犯して獄につながれた。彼らが見た夢から二人の運命(一人は釈放、ひとりは絞首刑)を占ってその通りなった。
51:パロの夢とその実現
エジプトの王パロが、7頭の肥えた牡牛を7頭の痩せて醜い牡牛が食い尽くす夢を見た。この夢の謎を解くものがいなかったので、ヨセフが呼ばれた。ヨセフがいうには、これは7年の豊作と7年の飢饉を預言しているので、豊作の年にエジプト全土で収穫の1/5を買い上げて備蓄すれば飢饉に備える事ができると王に助言した。そしてヨセフが長官となって備蓄を遂行したのである。これで7年の飢饉の時もエジプトは助かった。
52:兄弟らエジプトへ
ヤコブが住むカナンの地の飢饉もひどかった。ヤコブはエジプトに穀物がある事を知り息子達に穀物を買いに出かけるよう指示した。当時ヨセフはエジプトの国の支配者となって、すべての民に穀物を売る責任者になっていた。ヤコブの息子たち(ヨセフの兄弟)がエジプトにやってきてヨセフに面会した。ヨセフは兄弟が自分に気が付いていない事をとってある仕掛け(意地悪)をした。「あなた方はスパイかもしれない。人質にシメオンをおいて、一番下の弟を連れてくるように」といって、代金の銀を足らずに穀物を与えカナンに返した。父ヤコブはひどく落胆した。
53:第2回のエジプト旅行
カナンの飢饉はさらに翌年も続いた。そこでまたエジプトに穀物を買いに出かけることになったが、今度はユダが一番下の弟ベニヤミンを連れてエジプトに向かった。ヨセフに面会し、2倍の銀を払って穀物の買取を願った。まずは歓迎の宴が開かれた。
54:銀のコップ
そこでヨセフは又ある仕掛けをした。穀物の袋の一つにヨセフの銀のコップを忍び込ませて、ユダを泥棒に仕立てる事である。これに引っかかったユダは平伏しヨセフに許しを乞うた。ユダが一人エジプトに残って兄弟は帰らせて父の落胆を除きたいと申し出た。
55:ヨセフと兄弟たち
これを聞いてヨセフは一人号泣し、自分がヨセフである事を兄弟に明かした。ヨセフは兄弟をエジプトに送ったのも神の思し召しだろうから、一族がエジプトに来て暮らしたらどうかと提案した。カナンのベエルシェバに帰った兄弟は、父ヤコブに報告した。
56:ヨセフと父
ヤコブ家はあげてエジプトに移住する事になった。エジプトに来たイスラエルの一族は70人であった。ゴシェンでヨセフとヤコブ(イスラエル)は面会した。ここで羊飼いを始めたのである。
57:謁見、飢饉
ヨセフはヤコブと兄弟をエジプト王パロに謁見させた。パロはエジプト移住を認め、ラムセスの地を与えた。エジプトの飢饉は長くひどかったので、エジプトの民は穀物を買うために全財産の銀を使い果たし、全部の土地を国に売り、そして奴隷になった。
58:ヤコブの終わり(1)
ヤコブは衰え死の床にいた。ヨセフは二人の息子長男マセムと次男エフライムをヤコブの枕元に立たせたが、ヤコブは手を次男エフライムの頭に載せ繁栄の祝福を贈った。こうしてヤコブは死の床で後継者選びをした。
59:ヤコブの祝福
ヤコブはさらに子らイスラエル十二支族の祝福を祝った。
60:ヤコブの終わり(2)
ヤコブは死んだ。エジプト流にミイラにして葬儀を執り行い、カナンのエフロンの墓所に葬った。



3)「旧約聖書 出エジプト記」 関根正雄訳 岩波文庫(1969年1月)


「創世記」はイスラエルの族長の伝記物語であるとすれば、「出エジプト記」はイスラエル民族と神の契約が中心である。より宗教色が強まったといえる。「出エジプト記」の内容は、前半がエジプトからの脱出とシナイ半島での放浪劇であり、後半はシナイ山での神とイスラエルとの契約の締結が主題である。しかもその大部分が祭儀的規定で内容的には「レビ記」と重複する。「出エジプト記」の前半は民族の救済の歴史を述べたもので、後半は契約と律法を中心にしている。研究者によっては「出エジプト記」の主題を「契約と律法」だとして、エジプト脱出劇は前置きに過ぎないという。「出エジプト記」の歴史的背景としては次のような核があったという。エジプトのイスラエル人は「ヨゼフ族」を形成し、遊牧的民族ゆえに農耕国家のエジプトから迫害を受けていた。イスラエル人がピトスとラムセスの町の建設に狩り出されたという記述から、この時代はラムセス2世のころの話であろう。イスラエル人がエジプトを脱出するという出来事はメレンプタ王の時の出来事である。モーセも実在の人物ではないかといわれる。エジプト脱出とヤハウエ信仰の成立は密接に結びついている。創世記にもヤハウエ神は登場するが、族長を祝福するという媒介的役割しかはたしていない。「出エジプト記」ではヤハウエ神は全面的に出てきて、民衆を率いる指導者モーゼと祭司アロンを叱咤激励して、民衆にヤハウエ信仰を確立するのである。エジプト脱出を契機として、シナイ山での契約によってユダヤ教が成立したと考えあれるほど重要な出来事である。旧約聖書の中でも最重要事項が述べられている。族長の個人神から、民衆宗教という普遍性を獲得した。「十戒」の中心は神が神たることの宣言、他の神の排他的否定(唯一神教の成立)、人が作った偶像崇拝への反撃という「倫理的」側面の確立はいまもなお西欧・中東社会を貫く原則となっている。余談であるが、本書の1/3が祭儀的規定の叙述となっているのが隠された特徴である。祭壇や小道具や聖所の設営や着物まで事細かに述べるという、この文化はどこから来ているのだろうか。聖典をもたない日本の神道には何の拘束もない。真ん中が空っぽというのが日本の特徴であるとすれば、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は、道徳・倫理規定から刑法、民法、司法にいたる律法と美術工芸など細部に満ちている。この文化の差異に驚嘆せざるを得ない。近世では知の西欧と無の東洋という対比にも通じる。

(イスラエル人 エジプト脱出)
1:エジプト人の圧制
エジプトにいたヤコブ一族のヨセフと70人のイスラエル人はヨセフの死後も増え続けた。エジプト王も代が代わってイスラエル人を恐れるようになり、強力にならないように監視と強制労働を強いて圧迫した。パロのためにイスラエル人はピトムとラムセスの町の建設に狩り出された。レンガ作りなどの重労働や苦役がイスラエル人の生活を苦しめた。
2:パロと産婆たち
エジプト王はヘブライ人の産婆に、生まれてくるイスラエル人(ヘブライ人)が男だったら殺せという命令を出した。
3:モーセの誕生
レビの家では生まれた男の子をパピルスの箱舟に乗せてナイルに流した。これをパロの娘が救ってモーセという名をつけた。
4:モーセ、ミデヤンに逃れる
モーセが成人して、同胞が強制労働でエジプト人に打たれているのを見てこのエジプト人を殺して埋めた。追われたモーセはミデヤンの地に逃れ、その祭司の娘チッポラと結婚をした。
5:モーセの召命
それから長い月日がたち、イスラエル人の生活の呻き声を神が聞いて、モーセが牛を追って神の山ホレブに来た時に、使いを送ってモーセを召した。ヤハウエ神はモーセに言われるには、「乳と蜜が流れるカナンの地から、カナン人、ヘテ人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払って、イスラエル人にカナンの地を与えよう。エジプトの苦しみから導き出してカナンに行けるように計らおう。エジプトの王には、ヤハウエの神に犠牲をささげるためにエジプトを出るよう許可するように言いなさい。エジプト王は許さないだろうが、神の不思議な手でエジプトを打つ」と。
6:モーセの使命
モーセに杖を与えて、これを蛇に変える術、自分の手をライ病のように白くする術、ナイル川の水を取って血に変える術を授けて王に神の力を見せ付ける命を与えた。モーセが自分は口下手で自信が無いと尻込みをすると、神は能弁の徒アロンを連れてゆき、王の前で神の証を行うように命じた。
7:モーセ。エジプトに帰る
モーセは妻の父エテロの許しを得て、神の杖を持ってエジプトに帰った。アロンに神の言葉を伝え、イスラエルの長老を集めて神の技を見せて信じさせた。
8:パロとの交渉
モーセとアロンはエジプト王パロにヤハウエの神の祭りを行わせるように願い出た。しかしパロはイスラエルの民が重い労働から逃れる怠け者だといって許さないだけでなく、さらに労働を強化した。
9:再びモーセの召命
モーセは再びエハウエ神と戦術会議をおこなった。神がモーセに言われるには「パロに対してはモーセを神とし、アロンを預言者として交渉せよ。神はパロの心をかたくなにし、王の前で奇跡(神の技)を重ねておこない、大いにエジプトに力を加える。そしてイスラエルの民を導き出す」と。
10:アロンの杖
ヤハウエ神に言われた通りにモーセとアロンはパロの前に出て、不思議な神の技を披露した。杖を投げ出してワニに変えた。パロはあざ笑ってエジプトの魔術者を呼び同じ事を行わせた。モーセの杖(ワニ)は魔術者のワニを飲み込んだ。パロは心をかたくなにして彼らのいうことを聴かなかった。
11:水の災禍
モーセは今度はナイルの水を血に変えた。エジプトの魔術者も同じ事を行った。しかしエジプト人はナイルの水を飲むことが出来なくなった。パロの心はかたくなになった。次にモーセは蛙をエジプト中に発生させた。魔術者も同じことを行った。パロは蛙を除いてくれれば神のいうことを聞くといったので、モーセはナイル川に蛙を帰しててやったが、パロは再び心をかたくなにして聴かなかった。
12:ぶよとあぶの災禍
この段より魔術者はもう出来なくなり退場する。文の構成は前2話と全くおなじなので 省略
13:人畜への加害(同じ構造、省略)
14:植物への加害(同じ構造、省略)
15:闇黒と夜の災禍(同じ構造、省略)
16:過越と種なしパンの祭り
ヤハウエの祭りである過越祭の祭儀規則が語られるのだが、この祭りの目的は次の「首子の殺害」に続くのである。つまりヤハウエの神がエジプトに最期の審判を下すため、神がエジプトを襲いエジプトの地のすべての首子(意味不明)を殺す。神の殺戮を避けるためイスラエル人の家の門には印しとして、二つの柱と鴨居に雄羊の血を塗って、その肉を食べよというものである。これを「過越」という。羊の料理の仕方まで指示している。7日間のこの祭りは永遠におこなう。7日間は聖会を持って仕事をしてはいけないし、種入れ(発酵させた)パンを食べてはいけない。
17:首子の殺害
ヤハウエ神は真夜中にエジプトの王からはじめてすべての人の首子と家畜の首子も殺された。パロは悲鳴を上げて「どうぞエジプトから出て行ってくれ」と叫んだという。そこでエジプトのイスラエル人らは金銀の財産を奪って、女子供を除いて60万人のイスラエル人(脱出したイスラエル人は300万人以上?)は430年間居たエジプトのラムセスからスコテへ逃げた。この日は「寝ずの番の夜」で、神はモーセに「割礼」をしたものは「過越祭」の定めを守らなければならないといった。
18:首子の犠牲
神は言った。「すべての人、家畜は私のものである。カナンの地に入ったらこの脱出の日から7日間は神にこの祭事を行うべきである。雄の子羊を犠牲に献げるのだ」
19:海の奇蹟
神はイスラエル人の帰る道を、ぺリシテ人との戦いを避けて海の道をとらずに、荒野の道から葦の海へ向かわせた。(エジプトのラムセスから海伝いにエルサレムに帰るのが最短距離であるが、恐らくペリシテ人がイスラエル人の通過を拒否したので、やむなく南下して見知らぬシナイ半島の荒野に入るような回り道を取らざるを得なかった。それは水と飢餓との困難な戦いになった)モーセに率いられたイスラエル人はスコラを経て荒野のエタムに営を張った。次に神の指示でパール・ツァフォンに営を張った。彼らは砂漠で迷っていると見たエジプト王パロは心変わりをして戦車600台と兵士を持ってイスラエル人を追わしめた。神の指示でモーセは杖を高く上げ海を割った。乾いた海をイスラエル人は逃げたが、追いかけてきたエジプト兵も海に入った。モーセが手を海に向けるとエジプト人の頭に海がかぶさった。こうしてエジプト人は全軍の戦車と騎兵を失った。ヤハウエはイスラエル人をエジプト人から救ったので、民はモーセと神を信じた。この場面は映画「モーセの十戒」で有名なスペクタクルシーンとして、私の目に焼きついている。
20:勝利の歌
モーセとイスラエルの民はヤハウエに向かって勝利の歌をささげた。約50行の詩が歌われた。
(放浪の旅とシナイの契約)
21:最初の宿営
葦の海からモーセはシュルの荒野に入った。マラに着たが辛い水で飲むことが出来なかったが、モーセが神に御願いをして1本の木を投げ入れると水は軟水になって飲めるようになった。エリムに営を張った。
22:うずらとマナ
イスラエルの民はモーセに引率されてシンの荒野にはいった。荒野にさ迷ううちにイスラエルの民は飢餓におちいり、こんな荒野で餓死するよりエジプトで殺されたほうがましだと弱音を吐いた。神はこのイスラエルの民の呻き声を聞かれて奇蹟を行われ民にうずらを飛ばして、パンと甘いマナを与えられた。食べられる分だけとるようにして、蓄えてはいけない。直ぐ腐るからということであった。イスラエルの民は40年間の荒野での放浪生活の間このマナを食べて飢えをしのいだという。
23:岩からの水
神の指示でモーセらはシンの荒野を出てレピディムに営を張った。飲料水がなかった。家畜ともども民は水に飢えたので、モーセに神が杖を与えこれで岩を討つと水が出たのだ。
24:アマレク人との戦い
レピディムの地でイスラエル人の営はアマレク人の攻撃を受けた。モーセはヨシュアに命じて神の杖でアマレク人と戦って撃退した。
25:ミデヤンの祭司の訪問
モーセの岳父でミデヤンの祭司エテロは、困難な旅を続けるモーセの噂を聞いて、モーセの妻チッポラと二人の息子ゲルショムとエリエゼルを連れてレピディムのモーセの営にやってきた。エテロはモーセの労をねぎらって、民の導き方についてモーセに意見をした。一人で民の苦情と神との対応に明け暮れていては事ははかどらない、彼らに法と律法を示して歩むべき道を告げなければならない(個人神から大衆宗教へ)、そして何段階もの頭を設けて(教団組織と社会組織)重荷を分かち合う事を教えた。
26:シナイ到着と神の顕現
レピディムの営を出てシナイの荒野に入った。モーセはホレブの山に上がってヤハウエの神の言葉を聞いた。「イスラエルの民は神に選ばれた民で神の所有になった。3日後に神はシナイ山に降臨するので、モーセとアロンだけが山を上り、祭司と民は越境してはならない」と。神はじかに民衆に語ることはない。
27:十戒とその枠
ここに神がモーセの十戒を語られる。
@他の神を持ってはいけない
A偶像を作ってはいけない
B安息日には神を祝福し、働いてはならない
C父と母を敬え
D殺してはいけない
E姦淫してはいけない
F盗んではいけない
G隣人を偽ってはいけない
H隣人の家を欲しがってはいけない
I隣人のすべての物(羊・奴隷など)を欲しがってはいけない
28:契約の書
神はモーセが民に示すべき法を語った。刑法から民法にいたる細かい倫理規定である。
@自国民の奴隷を自由にする事の規定(7年目には自由にする。妻がいれば妻も自由人になる。奴隷に妻を与えたとき、妻と子は主人のもとなる。など)
A女奴隷の規定(主人が気に入らなければ自由にすべき。外国人に売ってはならない。肉食と衣類と性に自由を取り上げてはならない。など)
B人を打ってその人が死んだら、打ったものは必ず死ななければならない(姦計を持って殺したら死刑。父母を打つもの、呪う者は死刑。など)
C人を盗んで売ったりすれば死刑
D他人を石或いは拳固で打って傷害を負わせたら、打たれた人が歩けるようになれば無罪だが、仕事が出来なかった分を弁償し治療費を払う。
E奴隷を殺したら、復讐は免れない。
F妊娠をしている女にぶつかって流産させた場合は罰金を払う。
G損害が生じた時、目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、火傷には火傷、打ち傷には打ち傷をもって償うべきだ。
H奴隷の目・歯をつぶした時、奴隷を自由にしなければならない。
I牛が人を突いて殺した場合、その牛は殺さなければならない。肉は食べてはいけない。持ち主は罪を免れる。持ち主が注意を怠ってひとを死に至らしめたら牛も持ち主も殺さなければなっらない。賠償金も払わなければならない。牛が奴隷を突いた場合牛を石打ちにし銀を賠償金として支払う。
J牛やロバが穴に落ちて死んだら、穴の持ち主は弁償しなければならない。牛が他人の牛を突いて殺したら、両方の牛を売って折半しなければならない。
K人が牛を盗んで売ったり殺したりした場合、5匹の牛を賠償しなければならない。
L泥棒を殺した場合暗ければ責任はないが、明るければ弁償責任が出来る。
Mひとが家畜を放牧して他人の畑のものを食い尽くしたら、弁償しなければならない。他人の畑・作物を焼いた場合も弁償しなければならない。
N隣人に物の保管をさせ、隣人がその物を盗まれた場合、泥棒が見つかれば2倍の賠償をさせるべきである。(保管責任)
O遺失物で争いが生じた時、神の審判を受ける。盗まれた事がはっきりした場合弁償しなければならない。
P魔女は生かしてはいけない。獣を犯すものは死刑。
Q寄留者、寡婦、孤児をいじめてはいけない。貧しい者から暴利を取ってはいけない。利息を取ってはいけない。
R呪詛してはいけない。根のない噂をしてはいけない。訴訟で強い者の肩を持ってはいけない。訴訟で貧しい者の権利を曲げてはならない。賄賂を受けてはならない。
S年の3度は神に祭りをしなければいけない。安息日は休まなければいけない。過越祭をしなければならない。
29:契約の締結
イスラエルの12の支族の70名の長老を集めてホレブ山の下に祭壇を設けて、モーセだけがヤハウエ神に近づきモーセはヤハウエの言葉を書き記した。12の石柱を立てて祭壇に子牛を犠牲とした。
30:石の板・栄光
ヤハウエ神が書いた石の板(律法と誓い、内容は上の28章に書いた契約の書である。)をモーセに与えるため、モーセは山に登り40日間山にこもった。そして次の31−45章に記す石の板を神より授かった。この石の板を箱に入れ、祭壇に置いて祭りをするためのさまざまな規定が次に語られるのであるが、ユダヤ教徒でない私には興味はないので省略したい。
(祭儀的規定:真実は細部に有りというものの、文学的意味はないので省略)
31:祭儀の設定・序 32:箱を作るための指示 33:机を作るための指示 34:燭台を作るための指示 35:幕屋を作るための指示 36:祭壇と前庭を作るための指示 37:祭司の着衣についての指示 38:祭司の任職についての指示 39:香をたく壇のための指示 40:奉納金についての指示 41:洗盤についての指示 42: 聖なる香油のための指示 43:薫香のための指示 44:工人のための指示 45:安息日遵守についての指示
(金の子牛像を作ったために神との契約のやり直し)
46:金の子牛
モーセがヤハウエ神より契約の書を書いた石の板2枚を授かっている間、ホレブ山の下で待っていたイスラエルの長老達は、なにか神々を作ってくれとアロンに要求したので、アロンは女が身につけてい装飾具を集めて子牛の像を鋳込んで作ってやった。それを知ったヤハウエの神はとんでもない偶像を作ったと怒り狂って罰を下そうとした。モーセが必死に神をなだめて、契約の書の2枚の石板を携帯して急いで山を降りた。モーセは神の怒りを静めるため、三千人ほどのイスラエル人を殺して犠牲にした。
47:神の現在
ヤハウエ神がモーセに遭うのは「会見の天幕」においてである。天幕の護衛にはモーセの従者、ヌンの子、ヨシュアがあたった。イスラエルの民は天幕の外で待つのである。
48:再度の契約
再度神は石の板2枚に書いた契約の書を取りに山に来るようにモーセにいわれた。モーセはシナイ山に上がり契約の儀式が行われた。モーセは十戒の言葉を石に書き記した。
(レフレイン:祭儀的規定の繰り返し、省略)
49:幕屋の制作準備 50:幕屋の制作 51:幕屋の諸道具 52:前庭とその諸道具 53:用いられた金・銀・銅 54:祭司の着衣 55:幕屋の設営



4)「旧約聖書 エレミヤ書」 関根正雄訳 岩波文庫(1959年11月)


「創世記」、「出エジプト記」から時代は一気に下り、「エレミヤ書」は前7世紀末から前6世紀初めのユダヤ王国滅亡とバビロン幽囚の時代を描いている。前712年来たイスラエル王国はアッシリア帝国によって滅ぼされ、南ユダ王国(ダビデ王家)はアッシリアに従属を誓って辛うじて存続した。しかしそのアッシリアも前626年アッシュルバニバル王が死亡してから急速に衰え、各地で反乱が発生した。前625年カルデアでナボポラッサルは「新バビロニア帝国」を建国し、前612年アッシリアの首都ニネヴェは陥落した。その隙にエジプトはシリア・パレスチナを取り、ユダ王国はエジプトネコ王の支配下に入った。力をつけたカルデアの新バビロニア帝国は前605年カルケミンの戦いでエジプトを破り、ユダ王国を初めシリアパレスチナの小国は新バビロニアの支配下に入った。ユダ王国は新アッシリア帝国から新バビロニア帝国、エジプトの支配に翻弄され、その政治的立場を誤れば即滅亡の危機にさらされた。ユダ王国のヨシア王は前612年にアッシリアからの独立を目指した宗教運動「ヨシアの宗教改革」を行った。ところが勃興するバビロニアに対してエジプトはアッシリアの残党と組んで反バビロニアの立場を取ったため、反アッシリアのユダ王国・ヨシア王はエジプト・ネコ王に攻撃され殺された。続いて立ったユダ王国のエホアハズ王は3ヶ月でエジプトによって王権を奪われ、エジプトはダビデ王家のエホヤキムをユダ王につけた。エホヤキム王は専制君主でであった。前605年新バビロニア帝国はカルケミンの戦いでエジプトを破った。そしてエジプトの指導で反バビロニアの立場を取ったユダ王国はバビロニア帝国に攻められ、前597年エルサレムは陥落した。陥落のまえにエホヤキムは死亡したので、王子エホヤキンと貴族階級はバビロンに移された(第1回バビロン捕囚)。ついでユダ王に立ったのが叔父のゼデキヤ(ユダ最期の王)である。この王も新バビロニアに対して好戦的な臣下によって反乱を起こしたので前586年エルサレムは新バビロニア帝国の手に落ちた。ゼデキアは目を潰されてバビロンに移送された(第2回バビロン捕囚)。新バビロニア帝国はユダヤを属州とし、総督にゲタリアを立てたが、ダビデ王家のイシマエルによって暗殺され、ここにユダはサマリア州に併合された。名実ともにユダ王国(ダビデ家)は歴史から消え去り、前141年ハスモン王朝時代までユダは国家を持たなかった。

エレミヤは前650年ごろエルサレムの北アナトテの祭司ヒルキアの息子として生まれた。エレミアが預言者として召命を受けたのは前627年の事であった。つまりエレミアの預言活動の第1期はヨシア王の宗教改革の時代である。アッシリアからの独立という点ではエレミヤとヨシア王の宗教改革の路線には対立はなかった。エレミアの前の預言者には前9世紀にエリアが、前8世紀にはホセアがいた。イスラエル人が山岳地帯の放牧生活から、カナンの地で農耕生活を初めてからイスラエル人の生活と宗教は大変革(大きな変質)を受けた。砂漠の宗教であったエハウエ神の「シナイの契約」から、農作物や家畜の多産に関係する土地の神々が拝まれた。「バール(主)」信仰は多産の礼拝として、現世利益の追求は礼拝者の性的放縦や堕落をもたらし、そもそも排他的一神教、偶像崇拝禁止などを特徴とするヤハウエ信仰からの逸脱は自然な流れであった。前の預言者はこの問題と苦闘したのだが、エレミヤはホセアの戦いを受け継いでいる。一人の神への絶対の真実と貞潔こそがエレミアの求めた信仰であった。ヨシア王の死後エホヤキム王の治世にいたってエレミヤとの対立が表面化した。エホヤキム王はダビデの契約の基づいているが、エレミヤは「シナイ契約」の理念に基づいている。

エホヤキム王の治世にいたって、ユダは大国バビロニアとエジプトの圧迫で不安定なった政情は、エルサレムの神殿そのものに対する礼拝を生み、神殿が呪術的礼拝の対象になった。神への信仰をおろそかにして神殿を拝むのは神の審判を招くという主張が第2期の預言者活動であった。神の言葉を伝えるのが預言者だとすればそもそも形を持たない神の意志とは預言者の創造的象徴行為である。エジプトがバビロニアに破れてから、バビロニアのオリエントの覇権が明確になり、エジプトの援助を受けてバビロニアに反旗をあげるか、バビロニアに従って民族の滅亡を回避する政治的活動をおこなうかどうかは、極めて政治的立場の問題である。したがってエレミアの預言は王と対立せざるを得ない。そして祭司者や王家からは社会煽動家と見られて迫害を受けるのは当然の流れであった。神の義と民の罪のために、神は祖国の敵になり、民のために神にとりなしを願っても神の怒りを買い、民の滅亡という確心にも囚われ、神と民の間で両者に押し潰されて苦闘し、エレミアは民と一つになって魂の底から泣くのである。エレミアは泣く預言者がぴったり似合う。全存在を賭けて人間の罪と民衆の阿鼻叫喚に泣く、民衆から孤立する存在であった。悲哀の調べが本書を蔽い尽くしている。

ユダの最後の王ゼデキアの時代がエレミアの預言者活動の第3期である。エジプトに通じたユダヤ王国がバビロニアによって息の根を止められる前6世紀はじめの時代である。エレミアの態度は王家や祭司階級・貴族階級にとって敗北主義者と映ったに違いない。もはらエレミアはダビデ王家には何の期待も持っていなかった。祖国の滅亡と民衆の塗炭の受難を預言するエレミヤの預言は空を裂くような笛の叫びであった。エレミヤは王家によって囚われの身となり獄につながれ、逃亡貴族によってエジプトに連行された。半世紀にわたるエレミアの活動は何の成果ももたらさず、ユダの人々はエレミアの言葉に耳を貸さなかった。ここにいたってエレミアは現実の歴史と同朋の運命に深く絶望し、唯一の弟子バルクにエレミアの言葉を記録することを託して死んだ。本書の詩形の部分がエレミアの言葉といわれ、散文の部分はバルクの筆になる「エレミアの生涯」である。本文は詩形の部分が多いので、律法や歴史的事実を読み取る事に主眼はない。呪詛の言葉と受難の惨状を察せられればよい。同じような詩の延々とした繰り返し(愚痴みたい)を聴く。詩は省略する。



5)「旧約聖書 ヨブ記」 関根正雄訳 岩波文庫(1971年6月)


「ヨブ記」は旧約聖書の「諸書」の一つに属するらしい。旧約聖書は「律法」、「預言者」、「諸書」に別れる。「ヨブ記」は「諸書」の中では「詩篇」、「箴言」と並ぶ知恵文学の重要な位置を占める。「ヨブ記」は旧約聖書の中では得意な文学作品として古今の最高峰に位置するという。旧約聖書がユダヤ民族の救済史とすれば、「ヨブ記」は個人の苦難が主題であることから、成立はユダヤ王国の滅亡以降と考えられ、前5世紀から3世紀ごろといわれている。書かれた場所はパレスチナであろうとされる。著者は古代オリエントからエジプトの神話などをよく知っていた当時の最高の知識人であっただけでなく、人生の苦難に打ちひしがれた経験を持ち、正しく智慧の伝統を継承してゆく深い思索に裏打ちされた人であったことは確かである。本書の構成は、最初の「序曲」と最期の「終曲」(訳者がつけた命名)が散文で、中の問答文は詩文で記されている。散文は解説文みたいなもので、問題提起と幕引きの役目を果たす。本論の主題は「現世利益を願うのは宗教か」という「宗教における幸福主義」を論じるのである。「序曲」と「終曲」に挟まれた本論の詩文の内容は、@三人の友とヨブの討論 Aエリフとヨブの討論 B神とヨブの討論 の三つからなっている。全体の流から外れた第28章は後の追加である事は疑いない。また「序曲」の登場人物の設定のなかにエリフなる人はいないので、Aエリフとヨブの討論は後の人の2次的な加筆であろうといわれている。またB神とヨブの討論のなかで、ワニとカバの記述はあまりに風変わり叙述なので、これも2次的な加筆ではないか見られている。「ヨブ記」の文章は旧約聖書の中では一段と洗練されたもので、文学的な高いレベルを持っている。

「ヨブ記」はいわゆる智慧文学に属する。智慧文学は新バビロニア時代にエジプトからイスラエルに入ってきたもので、箴言のような短い古い形式に較べて、後期の形式である。ヨブ記の思想の前提となっている「応報思想」(義だしい行いは幸いをもたらし、悪い行いは罰を招く。仏教でいう因果応報)は智慧文学の人生知の根底であり、旧約聖書では律法と堅く結びついている。律法の厳格な遵守において義しかったヨブに甚だしい苦難が降りかかり、ヨブはその理由を理解できないで神の世界支配の義しさを疑うようになる。三人の友は伝統的な「応報思想」にたって、ヨブの悲惨な状況からしてヨブに何か隠れた罪を犯したのではないかと疑いの目を向ける。ヨブは特別な苦難に相当するような罪を犯したということは絶対に考える事が出来ず、応報思想を盾に彼を攻める三人の友に激しく抗議し、最後には自分の潔白を誓いつつ神に挑戦するのである。ヨブ記の主題である義人の苦難という問題は、既に前2000年頃のシュメール神話で見られた議題である。「序曲」における「敵対者」は、「ヨブといえど理由なしには神を畏れたりするものではない」という現世利益主義を勘ぐっている。そして神はヨブを敵対者の手に渡して信仰を試してみるという意地の悪さによって、ヨブの状況は急転を告げるのである。これが「序曲」における悲劇の導入部である。応報思想では現世利益主義を乗越える事はできない。ヨブは「苦難の中での神義論」で、自分の内面が二つに分断される。神に反抗し自分の潔白を主張する自分と、自分と神の仲裁者たる「証人」を求める自分に分断されるのである。主体的真実を主張するヨブはプロメテウス的である。自分を創造世界の中心において,すべてを自分中心に見、神をも批判の彼方に置いていたのである。神はヨブを創造世界に置いて呼びかける。「おまえは天地創造の時、どこにいたのか」と。そこでヨブは全能の神を讃えて悔い改めて劇は大段落を迎えて暗転する。仏教における「自力本願」から「他力本願」に相当するようだ。「南無阿弥陀仏」の6文字を唱えて救われるような境地か。しかしヨハウエ神は確かに「行いを義しくすれば、カナンの地でユダヤ民族の繁栄を約束された。」これは宗教上の誘導策ではないか。義しき道から外れる者には厳罰を持って臨むというのも現世利益主義ではないだろうか。義しき人にも偶然のように災いが振るかかるようでは、そんな気まぐれな神の節理を信じる人はいない。神の不条理を乗越えてなお神を絶対的に信じるということはどういうことなのか問いたい。どこかに罪があるのではないかと考えざるを得ない三人の友の猜疑心も際限がない不安に苛まれる信仰心である。唯一絶対神宗教とはかくも難しいことであることよ。

序曲(第1章−第2章)

散文で書き表されている。本書の導入部をなす。ヨブはウツの地に住む神に敬虔で直く、部族の信頼も厚い悪を知らない人であった。子供にも恵まれ、牧畜の財産も豊富に有し、家族と幸せな毎日をおくっていた。ある日天上に敵対者が現れ、「ヨブと言えども理由なしに神を畏れたりするものか」というので、ヤハウエ神は信頼する僕ヨブの信仰を試すため、敵対者にヨブの財産と子を奪ってもいいといった。敵対者はヨブの住む地にゆ行き、ヨブの所有する牧畜のすべてを殺し、家族の命を奪った。それでもヨブは地に平伏して神に信仰を誓った。また天上では敵対者は「人は自分の生命が守られるならすべてを投げ出すものです。しかし自分の肉と骨にふれれば彼は神に向かって呪うでしょう」というので、ヤハウエ神はヨブを試すため、敵対者にヨブの命は助けて、その身体を自由にしていいといった。そこで敵対者はヨブの体に腫れ物を作って打撃を与えた。ヨブは病気のため死ぬほどもがき苦しんだが、神を呪う事はしなかった。そこに三人の友達(エリパズ、ビルダデ、ゾパル)がヨブの家に来て、ヨブの零落振りと苦痛を見て、恐らく何らかの罪を犯したためこういうことになったのだから、ヨブに悔い改めるよう説得にかかった。

三人の友とヨブの討論(第3章ー第31章)

文章の分量では本書の中心をなす部分である。詩文の形で議論が進行される。最初にヨブの惨状が告白される。そして三人の友が入れ替わりにヨブに議論をする。それにヨブが答えるというサイクルを3回行う。3×3=9回もヨブは答弁をする。回毎の三人の論点は必ずしも異なるようではもなく、同じような繰り返しで言葉が異なるだけである。そして「ヨブの最期の弁論」という答弁のマトメがなされる。ヨブの最後の弁論を簡単に紹介しておこう。ヨブは幸せな昔を振り返り神に感謝をするが、今の不幸は全く理解できないと嘆き、最後に自身の潔白と神への挑戦を叫ぶ。「全能者よ私に答えよ」 

エリフとヨブの討論(第32章ー第37章)

三人の友人はヨブに答えることを止めてしまった。ここに異質な展開が、エリフによってもたらされる。質問する事をやめてしまった友に代わって、義憤にかられたエリフが言説鋭くヨブに討論を挑むのである。エリフは4回発言するが、それに対するヨブの答弁が本書には書かれていない。ヨブの答弁が抜けてしまったのか、ここでは一方的にエリフの詰問が4回なされる。エリフはヨブの言葉を捉えて神に反抗するヨブを「自分だけが正しいとは何ごとぞ、黙れヨブよ」と神の側に立つ。「神が悪を行うとはとんでもない」、「義なる全能なる神を君は咎めるのか」、「我らの間に疑いを作り出し、神に対してその言葉を重ねる」、「君は苦しみによって試された」、「智慧の全き者の不思議をみよ」

神とヨブの討論(第38章ー第42章)

ついに神がヨブの前に現れてヨブを諭す。「君は天地創造のときどこにいたのか」、「苦労が無駄になる事を恐れない」と圧倒的に全能なる神の前の人間の小ささを自覚させるのである。そして「天が下のすべてのものは私のものである」と宣言する。ヨブは答えていう。「それゆえ私は自分を否定し、塵灰のなかで悔い改めます」

終曲

神は僕ヨブを許し、三人の友人とのとりなしを行い、ヨブの財産を3倍にして帰し、家族も帰した。めでたし、めでたし。


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